酒、酒、酒が栄え
“酒”は体に害を成す悪いモノだろうか?悪いモノだろうな。本来、なくたって生活できるものだし、生きていく上の生活必需品でもない。でも、それでも、美味しいと思う人には美味しくて、人生を彩ってくれる優れもので、毛嫌いする人には嫌われるけど、大事にしてくれる人には大切にされる…人間だってそうでありたいと願わずにはいられない。そんな素敵なお酒との出会いを綴る短編集です。
QA あらばしり
「本来、一つの酒樽からは、1種類のお酒しか取れないんですが、コレは昔ながらの製法で作ったお酒なので、一つの酒樽から3種類の日本酒が取れるんです。」
百貨店の酒コーナーで、小柄な女性が一生懸命説明しているのが目に留まる。
「うーん、でもなぁ…コイツぁ辛さが足りんよ。日本酒言うたら、もっと、パキッとピリッとしとらんと。」
そんなおじさんのクレームに対しても、彼女は懇切丁寧に笑顔で対応している。
そんなに無理しなくても良いのに。
そう思って通り過ぎようかと思ったが、不意に懐かしい声が、脳内に反響した。
『そんなに嫌がらんくたって、無理に飲ませたりせんから。』
苦く、冷え切った声だ。
付き合って2年…浅い関係だと思う人も居るかもしれないが、彼女からの別れ話で仕事を休んでしまうほど、僕にとっては重大事項だった。
大きな喧嘩はなかった。
嫌われた素振りもなかった。
好きな男が出来た訳でもなさそうだった。
でも、僕たちは別れた。
『うち、お酒を楽しく飲みたい。』
彼女は、僕と共通の友人に、そう愚痴を零していたらしい。
別に、飲めばいいじゃないか。
僕のそばで、飲めばいいじゃないか。
そう何度、叫んだことか。
けれど、彼女は離れていってしまった。
―――百貨店は、沢山のお客さんで賑わっている。
だが、流行り病の影響か、皆、自分の目当ての商品を購入すると、そそくさと逃げるように帰っていく。
あるいは、購入する気がなく、試飲だけ楽しんで帰っていく。
なんだか、人間全員が、冷たくなってしまった気がする。
そう思ったら、無意識に彼女の方へ足を運んでいた。
「あの・・・」
「はい、試飲でしょうか?」
「はい。」
正直、日本酒なんて、美味しいと思ったことなんてない。
父親が酒飲みで、酒を飲むと母親に暴力を奮っていたからだ。
だから、僕の中では、“酒”=“悪”だった。
父親と同じ人間になりたくなかったからこそ、彼女の前ではアルコールは飲まなくなったし、彼女に勧められても断ってばかりだった。
でも、自分が良いと思ったものを、断られ続けるのは、あるいは、ないがしろにされ続けるのは、やっぱり心地良いモノではない。
僕は、そんな罪悪感を、彼女で払拭したかったのかもしれない。
「日本酒は、お好きですか?」
「いえ、あまり、得意ではないんですけど・・・」
嘘を吐くのは気が引けた。
目の前の彼女の誠実さに泥を塗るような気がして。
「でしたら、こちらの・・・」
彼女が差し出したのは、白く濁った優しいお米の香りがするものだった。
正直、透明なお酒の方が、料理に使うときに抵抗がない様に思えたが、出された手前、飲むしかあるまい。
スッと口に含むと、優しい甘みが口全体に広がった。
喉の奥を燃やすような辛さも眉間に皺を寄せるような苦さもない。
「美味しい・・・」
僕のその一言に、マスク越しでも分かる、彼女の綻んだ表情が目に入った。
「良かった。日本酒が苦手な人に、美味しいって言ってもらえるのが、凄く嬉しいんです。」
その表情を見た瞬間、出会ったばかりの、まだ、何も気にせずにお酒を飲んでいた頃の僕と幸せそうにお酒を飲んでいた彼女の顔が目に浮かんだ。
『うち、付き合うなら、お酒が飲める人が良いねん。うちばっかり飲んでたら、相手に申し訳ないやん?』
その一言を思い出した瞬間、自然とその緑の瓶に手を伸ばしていた。
「僕も、僕が勧めたものを美味しいって言ってもらうと、嬉しくなります。」
「そうですよね。」
かごに入れてすぐ、電話をかける。
着信拒否されているかもしれない、なんて考えなかった。
幸い呼び出し音が鳴る。
「もしもし?」
「何?」
「美味しい日本酒が手に入りそうなんだけど、来ない?」
「・・・」
返事はない。
レジカウンターの店員さんが、申し訳なさそうに日本酒をレジに通す。
僕は静かに彼女の返事を待った。
「お支払いは、どうなさいますか?」
「カードで。」
僕と店員さんのそのやり取りが聞こえたのか、彼女は深くため息を吐いた。
「頭、悪ぅ。」
彼女が呆れた様子で、僕に言う。
でも、その声音に、苦く冷え切った印象は、もう無かった。
酒、酒、酒が栄え