聞く
家から近い小さな公園の片隅に、土管を組み合わせて作った様な遊具がある。私が出勤前に必ず寄る場所だ。今日も、いつもの様に花束を手にして、遊具の方へ向かった。この花束は、五年前に亡くなった兄への花束だ。
兄はこの遊具の中で死んでいた。特に争った痕跡も無い事から、事件性は低いと判断された。それに、元から兄は心臓が悪かった。稀に発作も起こしていたが、常に薬を持ち歩いていたから、今まで大事に至ることはなかった。しかし、その日だけは、肌身離さず持ち歩いていたはずの薬の入ったケースが、兄の机の上に置いてあった。故意に置いて行ったのか、ただ単に、その日に限って忘れてしまっただけなのかは、今となってはもう分からない。しかし、兄がそんなヘマをする人ではない。となると、故意的に置いて行った、つまり、自ら危険を冒したことになる。しかし、何故兄がそんな事をしたのかは分からない。理由なんて、私には見当も付かない。悩みを抱えているようには見えなかった。兄は、私の前ではいつも笑顔でいたのだ。
分からない事ばかりだ。しかし、それでも私は真相を追い求めようとはしなかった。兄の事が嫌いだったわけでも、どうでも良かったわけでもない。そうだったのなら、こうして毎日此処には来ない。ただ、答えを見つけたとしても、兄は帰っては来ないのだから、意味はない気がしたのだ。
遊具の前で立ち止まる。遊具の中に見慣れない男が一人、目を閉じて、座っていた。不審に思い、眉を寄せる。兄の死体が見つかった事を境に、滅多にこの遊具には人が寄り付かなくなった。しかし、男は気にする様子も無い。モノ好きな人だ。事情を知らない余所者かもしれない。そんな事を考えながら、男を眺めていた。その男は、兄が発見された、まったく同じ位置で、同じように、まるで『あの時』を再現したかの様に座っていたのだ。それがまた、妙に気になった。
ふと我に返り、人がいては花束が置きにくいではないかと気づく。この後には仕事があるのだから、さっさと花束を置き、立ち去りたい。思い切って、その男に声を掛けることにした。
「あの…」
目を開けた男は私を一度見たが、直ぐにまた、視線を前に戻してしまった。
気だるさを全身から醸し出している大きな男だ。年齢は二十代後半から三十代前半に見える。彫りが深く、さぞ女性が好むような顔をしている。しかし、私から見れば、少し怖い部類に入る顔だ。子供に好かれるような顔ではない気がする。
「ここで、何をしているのですか。」
男は答えない。黙ってこのまま男の前に花束を置いて行くのは、なんだか気が引ける。参ったなと途方に暮れかけた時、男が何かぼそっと呟いた。私に向かっての言葉かと思い「え?」と聞き返してみた。しかし、私に視線を向けた男はキョトンとした顔を見せた後に、怪訝な顔で「誰だ」と私に聞いてきたのだ。いや、「誰だ」じゃないだろう。さっき、一度私を見たではないか。ずっとここに居たというのに、その存在にも気付いていなかったとは、なんて失礼な奴だ。
もう一度、今度は少し口調を強めて、此処で何をしているのかを訊いた。聞いている最中、男の視線は私の手にある花束に向いていた。人の話を聞く時は、きちんと人の目を見てほしいものだと、内心思いながら男の返事を待った。
「その花束は?」
どうやら話を聞いていなかったようだ。流石にムッときた私は、不機嫌だという気持ちを隠そうともせずに言った。
「今、貴方が座っている場所で亡くなった、私の兄への花束です。」
「あぁ、あんたが晴央か。」
自分の名前を言い当てられて訝しげに男を見る。
「私を、知っているのですか?」
「あんたの兄さんから、話は聞いただけだ。」
なんだ、兄の知り合いだったのか。あの兄に、こんな強面の友人がいたなんて知らなかった。少し安心して、男に言った。
「兄のお友達だったのですね。」
「いや。あんたの兄さんとは、今初めて話しただけで、前からの知り合いでも、友人でも、何でもない。」
男の言葉に首を傾げる。男の言っている意味が分からない「今初めて話した」とはどういう事だろうか。兄は、もう此処には居ない。居る筈がないのだ。
「あの、『今初めて話した』とは、私の聞き間違いですよね。兄は、もう死んでいるのですから。」
「別に、聞き間違いじゃない。ただ俺には、聞こえるって事だ。」
「聞こえる…とは、何が?」
「死んだ奴の声」
男の言葉を聴いた瞬間に、一時停止。いきなりそんな事を言われれば、誰だって動きを止めるはずだ。そんな私の様子を気にすることはしないで、男は、別に信じなくてもいいが、寧ろ信じないほうが正常だろう。と続けて言った。非科学的な事に興味の無い普段の私なら馬鹿馬鹿しく思えてきて、相手にはしないが、今は馬鹿馬鹿しく思えなかった。兄が関わっているからかもしれない。それか、この男の独特な雰囲気の所為かも知れない。
「兄とは、どんなお話を?」
「なんだ、あんた信じるのか。変な奴だな。」
一瞬驚いた顔を向けた男に、貴方に変な奴だとは言われたくはないと強く思ったが、ココは我慢して、黙ったまま男の言葉を待った。
「プライバシーの侵害になるから言えんな。」
暫くしてから聞いた男の台詞を聞いて呆気にとられた。何がプライバシーだ。この人、本当は死んだ人の声なんて聞こえなくて、嘘をついているのかもしれない。という考えが頭に浮かんだが、先ほど名前を当てられたのを思い出し、その考えを頭の中から追い出した。
「そんなことを言わずに、お願いします。兄は、何て言っていたのですか。」
「だから、それは言えない。俺の役目は、留まっている奴の話を『聞く』ことで、残った奴に何か『伝える』ことじゃない。そんなの専門外だし、性に合わない。だから、あんたに言うことは、何もない。」
なぜこの男は頑なに、伝えることは拒むのだろう。伝えることが何かいけないことなのだろうか。それとも、伝えられない理由があるのだろうか。そもそも、役目だとか専門外だとか、それが仕事か何かの様に言うのは何故なのか。ここでも、分からない事ばかりだ。
「『聞く』ことができるのなら、それを『伝える』こともできるでしょう。」
「『聞いたこと』が『伝えたいこと』だとは限らない。」
「でも、そうかもしれない。」
すぐさま返した私の小さな反抗に、苛立ちを隠そうともせず、男は睨んできた。此方も目を逸らそうとはしないで男の目を見つめ返す。暫く睨み合いが続いた。
「何で、そんなに知りたい。」
「それは、やっぱり兄弟のことですから。」
私の言葉を聞いた男は難しい顔をしながら前を向いた。何かを睨んでいるようにも見える。そのまま男は低い声で「あんたに伝える事は何も無い。」と言った。やはり、どうしても、兄が何を言っていたのかを教えたくないらしい。仕方がない。だから、私は違う質問をしてみることにした。
「それじゃあ、兄は、どんな表情をしていましたか。」
もし、兄が悲しそうな顔をしていたのなら、自分の死に納得していないからだ。もし、兄が笑っていたのなら、自分の死に納得しているからだ。少なくとも、私はそう考えている。自分で納得した死なのか、納得していない死なのか。それだけでも知っておきたい。
「何度も言うが、俺が出来るのは『聞く』ことだけだ。だから、あんたの兄さんがどんな表情をしていたのかは分からない。見えないからな。」
「そうですか。でも、それなら声の感じでどうだったかは想像できるでしょう。どんな、声でしたか。」
私の質問に、男は直ぐには答えないでいた。男はその時を思い出す様な顔をしながら、少し上を向いている。
「どんな声だったか…」
暫く考えてから、男は真っ直ぐな瞳を私に向けて、静かに言った。
「優しい声をしていた。」
少しずれた答えが返ってきた。私は、予想外の答えに少し戸惑いを感じたが、その言葉自体はとても理解できた。確かに、兄の声は優しかった。私は、そんな兄の声が大好きだったのだ。
「穏やかで、温かい。そんな言葉がぴったりの優しい声だった。人を安心させる力がある。あんな優しい声の持ち主は、滅多にいない。」
そう言いながら、私は自然に微笑んでいた。自分でも単純だと思うが、男の言葉を聞いて素直に嬉しくなったのだ。
「自慢の、兄です。」
「だろうな。」
ここで私は始めて男の笑った顔を見た。思っていたより、優しい笑顔だった。しかし、それは一瞬の事で、直ぐに今まで通りの気だるさを感じる表情に戻っていた。
「もう、いいだろう。そろそろ時間だ。」
男の言葉を聞いて慌てて腕時計に目を向ける。確かに、今から走っていかなければ間に合わない時間だ。まだ訊きたい事はたくさんある。分からない事ばかりのままだ。ここで男と別れてしまうと、もう二度と会えない気がした。しかし、時間が無い。そんな私の焦りを気にする様子もない男は、暢気に欠伸をしている。その様子を見ていたら、なんだか、もういいかもしれないと思うようになってきた。分からないままで、いいのかもしれない。第一、この男と出会わなければ、ここまで考える事も無かったのだ。男との出会いを無かった事にすればいい。でもそれはそれで、何だか勿体無い。
「結局、貴方は何も話してくれませんでしたね。」
「言っただろ。俺の役目は『聞く』ことなんだ。」
最後に男はそう言って、立ち上がった。ズボンを叩いてから、何も言わず、私に背を向けて歩き出した。私は、暫く男の背中を見送っていたが、仕事に遅刻しそうだという事を思い出して、慌ててさっきまで男が座っていた場所に花束を添えてから、男が歩いていく道と逆方向になる道を駆けていった。
終
聞く
所属サークルに出した過去の作品を引っ張ってきましたその①です。