青い瞳

十九の時に書いたものが二十九のいまと内容がそっくりでした。折角なので載せます。

 少女は初詣をし、おみくじを引いた。『待ち人来たらず』。ほんのすこし遺憾の思いがしたものの、二百円のおみくじの結果なぞ、とるにたらないものだ。
 冬休みが終え、学校は早めに引けた。部活生にみむきもせず、少女はいつものように海岸へむかった。
 海岸に徒歩で辿りつくと、少女はハンカチを砂のうえに敷き、そこに座りこんだ。折り曲げた膝をくっつけて、腕で膝を抱く。その学生らしい座り方には、なにか子供らしい、みじめな健気さといったものがただよっている。きょうの真冬の海はしんとして、蒼々とした水面はもの憂げに波打っている。空は触れればきんと氷のような音をたてそうなほどに張りつめている。それはあたかも硝子加工がされているような空である。少女はひたむきにそれを見つめている。つめたい風は少女の身体を冷やす。少女はオーバーサイズのコートをぎゅっと身に寄せた。
「よお」と声がかけられ、ふりむくとクラスメイトの少年だった。彼はずうずうしくも少女の横にすわり、学生ずぼんの尻を砂まみれにした。
「今日も待っているのかい? 一途だなあ。約束でもしてるのか?」
「してないわ。だって会ったことがないもの」
「会ったことがない? じゃあ、なぜここに来ることがわかっているのさ」
「そんなの、空と海が溶け合うのを見られるのがここだからに決まってるわ」
「空と海が溶け合う? 悪い、国語は苦手なんだ」
 少女は沈黙する。空と海との境界線から、ひとときも眼をそらさずに。
「なあ、会ったこともない男を待つよりさ、」
 少年は赤面しながら、少女の横顔を見つめた。
「俺と、いまから町へ行かないか?」
 驚きに打たれたように、少女は少年の顔に一瞥をなげたが、すぐに海へ向き直って言った。
「あなたには別の女の子が似合ってるわ」
 少年は立ち上がり、傷ついたような顔をしてそそくさと去った。

 春、少女は日曜日なので海岸で詩をかくことにした。その詩はうつくしかったが、なにかが欠けていた。ところが、その欠けているということが、彼女の詩のうつくしさを与えているのかもしれなかった。
 一編書き終えると、少女はまた空と海との境界線をみつめた。空の青と海の青は相克していて、互いが互いを拒絶しあっていた。かなしいことには、少女は空の青をそのままにみることができない。なにを打ち上げようとも、堅い硝子はそれを、金属音を立ててかるがると撥ね返す。それはさながらに神聖な避妊具のようである。少女はおそらく、空に硝子加工をした犯人を知っている。しかしもはや彼を法廷に呼ぶことなどできやしない。それに、それもなんだか億劫だ。だから彼女は、いつまでも“彼”を待っている。
 暫くすれば、黄昏である。夕日は彼方に没し、水平線にその半ばを重たげに沈み込ませ、古い血潮にも似た幻影を海へ曳いている。しかし少女にはそれが、赤と青のモザイク絵のように、茫然と霞んで視える。少女にはそれが余りにもかなしかった。
 憧れよ、憧れよ。茫洋たる海をまえにする少女の、かの憧れよ。どうか、少女をいつまでも海岸に座らせたまえ。少女に、とわに待ち人を待たせたまえ。

 新学期、少女はさっそく海へ出かけた。そしてそのひたむきなまなざしで境界線を見つめた。そのまなざしの奥を検視してみれば、なにか混濁した現世を砕いて透明に化学変化させ、眼窩へとまっすぐに海の青を突き刺させる、透きとおった視力ともいうべくものが見いだされた。というのも、“彼”を待つときの少女の瞳には、風に舞う砂も、海水浴をたのしむひとびとも、打ち上げられた海洋生物の死骸も、なにもかもが映っていず、ただ境界線のかなしい青、神秘の青を反映させているに過ぎないのだった。
 つまるところ、少女は信仰しているのだった。女の信頼には、男の信頼にはない透明さがあることがある。それは哀れで、愚かで、それでいて無垢なうつくしさともいうべき輝かしいものである。そうして、その信頼に混入する、地上の化学物質を喪失させることがもしできたならば、それはもはや信仰ともいえよう。それが女を、いつまでもいつまでも待たせてしまう。たとい、永遠ということはできずとも。しばしば、エゴイストの男たちは、前述した信頼につけこんで、甘い汁をすすり、酒宴をひらき、そして去っていく。彼らは往々にして、女とおなじような信頼を有しているようにみせている。
 少女は待っている。いつまでも待っている。ただ“彼”を待っている。いったい、いつになったら“彼”は少女の前に姿を現すのだろう? “彼”ほどの女泣かせが、いったいどこにいようか?

 またふたたび少年が、少女の横に座った。こんどは少年のほうを見もしなかった。
「なあ、いつまで待っているんだ? 永遠にか? 永遠の愛なんてないさ。永遠に男を待ち続けられる女なんていない」
「そのとおりよ」
「じゃあ、そろそろ諦めろよ。来ないよ、絶対。だって会ったこともないんだし、どこでそいつと知り合ったんだ? 手紙か? それとも、まさかインターネット?」
「まさか」
「じゃあどこだよ」
「私の胸の内よ」
「…頭が狂ってるのか?」
「そのとおり。私は頭が狂ってる」
「もうやめようぜ。それより、いまできる範囲で、恋愛を楽しんだほうが好い。恋愛感情なんていつか消える。だから、いまを楽しんで、できる限り相手を大事にするのが一番だ。結婚したって、必ず恋愛感情は消えるんだから」
「わかってるわ」
「なあ、俺は君が好きだ。君のきれいな横顔が好きだ。その涙を湛えているような、もの悲しい視線が好きだ。いつもなにかを見つめている横顔が愛しいんだ」
「ありがとう」
「でも、好かったら、俺に君の正面の顔を、たびたびでいいから見せてくれないか? 俺に、その翳った眼を向けてくれないか? そうしたら、俺がその瞳の陰を明るい太陽に変えてやるよ。そっちのほうが、君は素敵さ」
「ごめんなさい」
「…ああ、そうかい。一年間も片想いして、損したなあ。まあ、君がそんな人だってわかっていたけど」
「…」
「なあ、その待っている男はどこにいるんだ? 違う町? 県外か? 東京? 海外?」
「そのどこにもいないわ」
「わかったよ。君は妄想で理想の男をつくりあげて、ずっとここで待っているんだ。なあ、君。君のために言うんだよ。君は精神病院で診てもらったほうが好い」
「あら、失礼ね。違うわ。妄想なんかじゃないわよ」
「なら、いったいどこにいるんだよ? 海に沈んだ故人を待っているのかい?」
「違うわ。なにがなんでも、私はここで待っていなきゃいけないのよ。海と空の境界線を見つめながら、夕日と海のぼやけた融解を凝視しながら、ここで“彼”を待っていなきゃいけないのよ。私には、それしかできないの。そうする以外の生なんてないのよ。だって…」
「だって?」
 そして真っ青な瞳でうえをみた。少年はそのうつくしさに、思わず息を呑んだ。
「…だって、“彼”は空にいるんだもの」

青い瞳

青い瞳

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-06

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