紺青

 待っている。やって来ない完成を待っている。
 わたしが画布に縫い止められるのを、じっと待っている。
 待つのは得意だ。傍からは不得手に見えるとしても、好きだ。同じものを一点から見つめて分かることは多い。それはきっとあの人が一番よく知っている。動きを止めぬものを紙の上に留めようと試みる、どんなレンズよりも精巧な目を持つあの人が。
 プルシアンブルー、と教えてもらった。あの人が好んで使う色だ。他の色を使うことは殆どない。濃淡だけで、驚くほど静かで鮮やかな世界を創り上げるのだ。その青色だけでわたしの全てを描きたいのだと望みを口にする。なんて傲慢だと言うと、仕方がないと返された。
 夢の中でさえも青色に浸っているんだ。おまえと一緒に水中に沈んでいく夢だ。望むことの、どこが傲慢か。
 もしかすると浮き上がろうとしているのかもしれない。おまえが引き上げようとしてくれているのかもしれない。いずれにしても、美しい世界だからずっと居たいと思っても、おまえが腕をぐいと引っ張るんだ。早く地上に出たがっているように。
 おまえからすれば、夢の中ではそれが普通なのかもしれないね。我々は同じものを見ているようで見ていない。誰ひとりとして。表情や共通する態度や言葉を手掛かりにして、同じものだと了解し合って、共有できている振りをする。だからおまえが見ているこの青色も、唯一おまえだけが知っている青色なのさ。わたしはおまえの青色を知りたくとも知ることはできないし、反対に、わたしだけの色を教えたくとも教えられない。このもどかしさをおまえは悲しさと捉えるかい。
 わたしは、あぁ、悲しいよ。美しいものならば何であれおまえと共有したいと思っているからね。叶わないのは悲しいさ。
 あの人は描きながらずっと喋っていた。息をするよりも喋った方が楽なのだと冗談にしていたけれど、同意をせざるを得なかった。
 喋る理由が楽な呼吸のためであるならば、絵を描く理由は好奇心だったように映った。
 自分の世界のさまをうつしだし、自分以外の人間がそれらをどのように受け取るのかを知るのが楽しいのだと。自分の意図は自分が思ったように伝わるのか、それとも全く別のものとして伝わるのか、考えるのが楽しいのだと嘯いていた。
 おまえはどうだいと尋ねられたので、そんな楽しみを持っているのはあなただけだと答えた。人間はもっと身勝手で利己的な生き物だろう、自分の意図が伝わらずに歯噛みする生き物だろうと。
 しかしあの人は心の底から齟齬を楽しんでいるようだった。理不尽な非難もいわれのない中傷も、あの人にとっては愉快な玩具だった。全く困ったものだねと笑いながら、常に凪いだ態度で筆を走らせていた。
 おまえは一瞬として同じ姿でいることはないから、今まで出会った中で最も興味深い。好奇心を掻き立てられる。朝も夜もけれど違った気高さを持っているから、どのおまえが良いか、とは非常にナンセンスな問いだ。掴まえどころがないものこそ描きたくなる。一瞬を永遠にしてみたくなる、自分の意に沿わないものを屈服させたい欲とも似ている。おまえはわたしのことを神聖視するところがあるようだけれど、こんなものは俗な欲望でしかないのだよ。全てのものを意のままにできると錯覚した愚かな魔術師の物語を、おまえは聞いたことがあるかい。
 あの人の視線が恐ろしく思えたのは一度や二度ではなかった。
 人間ではない私のすべてを暴こうとするように。一生その姿を目に焼きつけてやろうとでも言うように。太陽にじかに触れているかのような熱が、痛かった。あのひとの目を独占する価値などないのに、まるで絶対に離すものかとでもいうような熱は。褪せれば喪失感に呑まれ、痛みを恋しがるほど。
 わたしは変わらない。変化の周期を繰り返すだけだ。ひとつの方向に着実に進んでいく、本質的な不可逆性を抱えたあの人とは反対だ。寄せては返す一定の循環の中で、わたしはあの人が望むわたしの姿を探し、変わるような、変われるような気になっている。
 あの人の言葉を枷にしたわたしは沖へと流されていかぬよう、戻るべき浜を見失わぬよう、巡り巡られ、今日も馴染んでいく。
 わたしは、プルシアンブルーの波だった。

*****

 絵に限らず、技術であればいずれにも当てはまるだろう。努力を惜しまず鍛錬を続けていれば腕は上達する。小さな子供が日常生活の動作ができるようになるのと同じだ。
 だが技術の熟練度合いと同時に、それらを作り出す道具も発達する。老舗の割烹で用いられる包丁と、大量生産される食品を加工するカッターと、いずれが優れているかを語るのは馬鹿らしいにせよ。より簡易的に、安価に。技術を特権的なものにしようとする方向ではなく、万人に扱えるものにしようという方向へ力は動く。
 しかしあの人は同じ画材を使い続けた。遠くの土地から取り寄せる手間も惜しまなかった。非効率的だと非難されても尚、同じ道具を用いた。
「その方が、自分の腕の良し悪しがはっきりするだろう」
 要するに。上達したのが自分の腕なのか道具なのかを明確にしておきたいということなのだろう。意固地さに辟易しかけたが、それで良いと本人は笑うばかりだ。
「どんな風に見えているのかを知りたいのなら、手前が一番、手前を濁らせちゃならないさ」
「理想論だ。自己満足の権化だ。あなたがつくりだす美しい濃淡を素人は見分けられない。それどころか、あなたにしか分からないかもしれない。廉価で販売されている印刷物との違いだなんてそれこそ」
「それならそれで構わない。名声や称賛は要らないよ」
 多くの複製品が作られること。それらを生む技術の発展ばかりが注目されること。そういったことすらも原典の価値を高める要因にしかならないというのが、あの人の言い分だった。
「あなたのその態度はあまり好きではない。あなたは絵を生活のたつきにしている訳ではないから、悠長なことを言っていられるんだ。単なる娯楽だから」
「非道いな。なぜおまえが怒るんだい。分かっているよ、金にならないと割り切っているからできることだとね。しかし、わたしにとっても生きるための手段ではある。単なる……とは言えないな。なくなったら、死んでしまう」
「そ―んなこと、言わ」
「事実だもの、言うよ。……はは、おまえ、出会った頃と比べてよほど人間らしくなったねえ」
 口にしてはいけなかった。あの人は絵を描いて息をしていたのだから。もし絵を奪われることがあれば、途端に呼吸の仕方を忘れてしまうだろう。
「自己嫌悪なんて、波のすることかい。おまえが、何を見聞きしたかはこちらの知る由もないが。誰に何を吹き込まれたのか、想像するだけで吐き気もするが」
 あの人はまた、画布に色を塗り重ねる。繊細に、かつ大胆に。
「金を稼ぐためであってもなくても、絵に変わりはないよ。誰かが―何か、かもしれない―絵筆をとって描いた。絵は、それだけのものさ」
「……では、あなたにとって、絵は呼吸?」
 どうだろうね、とあの人は笑い、画布に再び向かい合う。
 あの人は他の場所で絵を描くことはない。どころか、交流のある友人も片手で足りるほどらしかった。世捨て人を名乗るにはまだ早い勿体ないと説く家人の声にも耳を貸さないようだった。こちらからそれとなく話題に出しても答えは一辺倒だ。
「おまえをきちんと描くまでは、他のものは最低限で良いんだ」
 その最低限を下回っている生活だと詰ると、今度はじいと見つめてくるばかり。視線に負けず、言葉を重ねた。
「あなたが欲しいものは他人の好奇心や反応だ。であれば、もっと他人との時間を作れば良い、交流をすれば良いだろう。他人の幅を広げるんだ。あなたの才能を才能だと認める者も、このままではいつまで経っても現れない」
「へえ。その口振り、おまえはわたしに才能があると思ってくれているんだね」
「……半分当たっていて、半分外れている」
「半分でも十分さ。人間、中庸が肝心だ」
 腹が立った。このときだけは明確に、あの人を否定したいと思った。
 他者よりも優れた何かを持つものを天才だとほめそやすのは容易だ。その名称をそのまま理由にできる。裏にある「かもしれない」努力や葛藤を見ることなく納得できる、そう呼ばれることのない己を顧みて嫉妬することもない。安心を手に入れられる。
 才能、も天才と近しい響きを持つ言葉だ。しかしおのずと他者との比較を要する評価でもある。見出すのも称賛するのも見下すのも、全て他者だ。己ばかりが主張したところで虚栄心の発露としかみなされない。評価、判定、値踏み。それらを受けて初めて、才能はそれとして実在することとなる。
 あの人にとって、他者からの視線は自身を定義付けるものに成り得なかった。良い評価も悪い評価も、あの人を楽しませる現象でしかない。だからいっそ突き抜けた思考の一貫性に閉口したのち、交流をしろと口出しするのを止めた。
 あの人の才能が正当に評価されて欲しいと、正当さがどこに転がっているのかも知らぬままに、わたしがどこかで願っていた。
 とんだ願いだ。絵の題材として選ばれた自分を棚に上げ、いつまでもあの人が絵筆を走らせるさまを見ていたいと望み、それでいて救済を待っていた。
 あの人をこの海から連れ去ってくれる、あの人の筆を折る何かを求めている。
 波のわたしはなおも、満ち引きを止められない。

*****

 あの人をこの港町で初めて見たのは、醜い鉄の塊で夏の海が荒れていた時期より少し後だ。まだ年若い人間のように見えるのに、老人が使う杖を使っているのが印象深かった。そこで、遠くの沖に旅立つのは後回しにして、ここの浅瀬に留まろうと思い立ったのだ。
 夏には白い砂、冬には満天の星が広がる町だった。お伽噺のように美しい町だと世間からも知られている土地だった。というのに、片足を引きずりながら浜辺を歩く人間の背には、地獄のように真っ黒な何かがのしかかっていた。
 人間は浜の中央まで来ると、糸が切れた操り人形のようにその場へどさりと崩れ落ちた。耳をそばだてるとすすり泣きのような音がした。何か、もしくは誰かに謝っているようにも聞こえた。あまりにも悲痛な音だったので、もし冬であればわたしは海ごと凍っていたことだろう。しかし凍ることはなく、夏の生暖かい風に押され、わたしはより近くまで寄ることができた。
「何をそんなに泣いているのか。その、引きずっている足は。具合が悪いのか」
 返事はない。啜り泣きは止まったが、身体はぴくりとも動かない。
「今でこそ砂は温かいが、じき夜になれば途端に冷え込む。早く巣……家に帰ると良い」
 それでも人間は動かなかった。もしやこちらの声は聞こえないのではと思案しかけたとき、初めて言葉が返ってきた。
「おまえは、私を連れて行ってはくれないのか」
 どこへ? 尋ね返すまでもなかった。
 沖へ。海の底へ。永久に。
 人間以外にも、そう願う生き物は数多くいた。かつては先祖が棲んでいたと言い伝えを信じて。誰からも見つからない場所に行きたくて。海へ先に帰って行った仲間を追って。
 しかし、この人間を連れて行くのは惜しいと思った。
「あなたを連れて行ったところで、わたしのためになることは何もない」
「……」
「謝っていただろう。誰に対しての謝罪なのかは知らないが、海へ行ってはその文句さえ口に出せない。氷の声で謝罪を告げるほどの相手が居るのならば、罪悪感や後悔をここで終わりにするのは違うだろう。それは逃げだ。楽になりたいだけだろう、それでは謝罪も嘘になる」
 それでも海を願うのならば、他の奴に頼めば良い。そう思い、そのときは浜を後にした。
 二度目の訪れは、人間の時間で言えば、数十年はゆうに経っている頃だった。
 浜は相変わらず美しかった。元々、周囲の地形や資源の乏しさから人間があまり住み着かない場所であったらしい。各地の海は、人間が排出する不要物で一杯になっているというのに、お伽噺の美しさは損なわれていなかった。
 浜の真ん中で。かつて慟哭を零していた場所で小さな椅子に座っているのは、あの人間だった。
 私が波打ち際に留まっているのを見つけ、ゆったりと近づいてくる。杖はなかったが、あの頃引きずっていた足には名残があった。
 やや皺が寄った手で、私を掬った。
「また会えたね。良かった、あのときの礼が言いたかったんだ」
「礼? わたしは何もしていない」
「海に行かずに済んだ。これで良かったんだ。私は―絵を、描かなければと思って。文字は苦手だから」
 椅子の前には確かに、大きなイーゼルが立てかけられていた。ちらりと見えた画布の上には、黒や青の色彩を塗り込めた塊があった。
「私だけのうのうと生き延びてしまったから。描き残さないといけないんだ。泣く暇があったら、残さないと」
 それから人間はわたしを海へ戻し、ぽつりぽつりと、言葉少なに己のことを語り始めた。自己紹介というには独り善がりだったが、身の上話と嘆くには、恐らく陳腐な内容だった。
 海が荒れていたのは、人間同士の争いのせいだったこと。一市民だった自分も、遠い島国へ通信兵として派遣されたこと。戦況は悪化の一途を辿り、多くの仲間がたおれたこと。自身も片足に鉄の塊が刺さり、今も尚皮膚の下に埋まっていること。兵隊として使いものにならなくなり、故郷からも離れたこの地へ追いやられたこと。争いは終わったが、これまでの経歴も、家族も友人たちも、何もかも失ったこと。
 それらの経験を描き残したいと思うに至った心情とを、わたしは甚だ理解できなかった。素直にそう告げると「それで良いさ」と笑う。
「自己満足だ。自分で分かってる。それでも描かなければと思うんだ。何か、正体の分からないものが駆り立ててくるような気がするんだ。錯覚だろうが思い込みだろうが、今の私には必要なものだよ」
 黒、白、青、切り裂かれたような赤。
 来る日も来る日も同じような色を乗せ続けていたが、色の塊は次第に何らかの形を持ち始めた。人間の形をしていたときもあれば、細長い円筒状のもの、四角い箱のときもある。鳥に似た形や、祈る大きな人型だったこともあった。そのうちのいくつかを町へ持って行けばたまに売れるのだ、と話す本人が一番驚いていた。
 どんな商売をしていたのか、争いが起きる前に溺れるほどの資産を得ていたようだから、金に不自由してはいなかった。稼げたことを喜ぶでもなく、ただ驚いていた。心底不思議そうに事実を話していた。
「歴史を後世に残す手伝いが出来るのは、これ以上ない素晴らしいことだとは思う」
 だから、と絵を描き続ける。しかし徐々に、緑や黄や薄紫など、華やかで淡い色を用いて描く頻度が増えていった。以前の絵と新しい絵が、同じ手で描かれたとは思えなかった。
 色が増えたことに理由はあるのかと尋ねるとあの人は小さく笑った。出会ってから初めて見る笑いだった。
「犬を飼っていたんだ。だいぶ長生きのね」
 珍しい種類や血統書付きではないが、たいへん愛嬌のある中型犬だったという。つやのある黒い毛並みがまるで夜のようだったと。
「その子がつい先日いなくなった。旅立ってしまったんだ。……あの子が好きだった風景や、見せたかったものを考えると、どうしてもこうなる」
 理屈ではないのだろう。争いの記憶を残そうと描く絵も、愛犬への祈りを込めた絵も。情動的に、溢れ出る感情の波をもって筆を握る姿は、あの氷の声からはとても想像できなかった。
 人間は変わるのだと思った。外見だけでなく内面も。驚くほど多彩に、柔軟に。
「……でも、遅いね。あの子のことを愛していたのだと、いなくなってから実感するのだから」
「愛は、遅れるものなの」
「どうだろう」
 いつも、向けるべき相手に追いつけないものだよ。
 青い画材を筆先にとり、あの人はまた画布へ向かう。

 緊張しなくて良い。いつも通りに。
 初めのころ、何度となく言われた。その度に言葉は逆効果を生み、結局あの人は絵筆を置いて話をすることから始めるのだった。何度も飽きずに、潮の流れや水流を思わせる流暢さと平坦さで。
「おまえはこれまで、わたしのような奴に会ったことはあるのかい。描かれたことは」
 姿かたちを描かせて欲しいと言われたことは一度もなかった。
「そう。……どこへ行くのが好き? 温かい海、冷たい海? 沖合? 浅瀬?」
 好みはなかった。どこへ行くのも当たり前だった。人間の呼吸と同じだ。
「では、ほんの少しだけ、わたしのところへとどまってくれるかい。姿かたちを変えていくのは構わない、是非そうしてくれ。但し、ここを離れないで欲しい」
 形を変えても良いというのはおかしい。描くのならば同じ姿でなければならないだろう。そう言うと、まるでとても奇妙なことを聞いたかのように、あの人は大きな口を開けて笑った。豪快な笑い方をするものだととても驚いた。
「面白味のないことをするつもりはないのでね。一つとして同じ姿のないおまえを、同じ姿のまま描くから良いんだ。私は、くるくる変わるおまえを描きたい」
 訳が分からなかった。しかしあの人が載せる色がひどく好ましいものだったのは事実だ。真昼の太陽光を反射する水面よりも寒い朝の浅い海よりも、日が暮れて星々が顔を出し始めた時分の水平線よりも。見ていて飽きることがなかった。できることなら浸かってみたいと思った。
 それを使ってわたしを描くというのだから慌てた。わたしはこんなに美しいもので出来ていない。間違っている。
 わたしの幾多の卑下の言葉を、あの人は笑みだけで握り潰した。
「それこそ間違っているよ。少なくともわたしにとってはね。自分が見ているものを唯一とするのは浅はかだ。わたしの色をどうか否定しないでいただきたいね。おまえは、これよりずっと美しい」
 何が間違いだ、嘘だと否定してもそれすらおかしそうに聞き流されて、私は画布の上に露わにされた。自分が対象物になっていることよりも、あの人が見ている自分が明らかにされることに対する羞恥心があった。あなたの視線を副次的に体験することになるのだ。見られてはいけないところまで隅々と見られているようで居たたまれなかった。
 描かれることに慣れていなかった頃を、そのように思い出しながら。
 今や、あなたが腕を休めるひとときを温い日差しと共に味わうのが当たり前になっている。
 長時間筆を握っていると腕を痛める。他にも目や腰や肩、とにかく全身が辛いのだと、あの人は言う。
「もっと都合が良いものを描きたいと思えば良かったろうに。室内でも描ける植物など。わたしはここにしか居られないから、特に暑い時期や寒い時期は、あなたの身体に負担をかける」
「何を描きたいかは理屈でないよ。あのとき、描きたいと思ってしまったのがおまえだったのだから」
「では、わたしがあなたに応えなければ違っていた?」
「ああ、そうかもしれないね」
 ふと思うことがあった。変化し続けるものを絵の中に留めたいとする欲望に、他の感情は一切ないのだろうかと。
「今でも、描きたいというのは、描きたいだけ?」
 何となくを装って尋ねる。深い意味のない気安い質問でも、投げた途端に重さを得てしまうことがあると分かっていた。
「わたしたち、随分長いことこうしているから。人間の人生に換えたら途方もない時間だ。あなたの見た目も変わった。髪は白くなってきたし、脚は細くなった」
「……描くことが日常生活に溶け込んでいると言うと聞こえは良いが。……欲望ではあるのだろうけれど。心を傾ける、とでも言うのかな。熱い、というよりは穏やかな、心持ちだ」
「こころ?」
 比喩だ。心には重さも温度もましてや形もないと、私にも分かる。
「ああ、寄せるよりも傾ける、だね。些細な違いだろうが、私はおまえに心を傾けているよ。自覚がある」
「それは、依存ではなく」
 傾ける、と寄りかかる、は似ていると思った。人生の目的がわたしを描くことにのみあるのだとしたら、わたしは寄りかかられていると思うことだろう。万が一、わたしが居なくなればあの人が萎れてしまうのだとしたら、寄りかかる、は依存に変化する。
「依存なものか。望むのであれば明日からでもおまえと離れられるよ」
 本当に? と問う。
 厳しいだろうね、と口を大きく開けて笑う。
「こんなにもうつくしいものが傍にいてくれるのに、みすみす手放す奴がいるかい。おまえをうつくしいと思うのは今も昔も変わらないけれどね。おまえからでさえ、依存と言われるのは心外だな。ましてや慰みものにするなんて、ぞっとする」
「ぞっとしてもしなくても、成れるけれど。あなたが可愛がっていた犬の代わりにも」
「嘘を吐くんじゃないよ」
「さあ……」
 自分が感情を向けられる相手がいることで気分が晴れたり、非常に満足感を得られたりすることを知っていた。また、感情の正負に関わらず、相手を傷つけることがあるとも。
 あの人がいとおしく思うものを―連れ添ってくれた人も、愛犬も―全て失い、彼らに向けられていた感情の行方はどこなのだろうと、訊けもしないことを。その終着点がわたしであることこそなかれ、と考える。
 わたしはあなたの波だ。それ以外の存在には、成り得ない。
「成らなくて良いんだ。おまえが望んでいないのも分かっているし、成ってしまったおまえを、私だってあまり見たいとは思わない。……変化の一つというのであれば別だが、おまえの変化はおまえですら制御できないものだろう。だからきっと、成ったおまえはおまえではないよ」
「わたし以外の何かに成るわたしを、あなたは嫌う?」
「いいや、いいや―それは不正確だね。私の意に沿おうとするおまえは、好ましくないという話さ」
 その姿勢は若い頃を思い出させるから、と、あの人は珍しく筆を止めた。
「……同じ隊の連中は、他人の意に沿うことを第一として、皆散っていったから。それが、あのときあの場での正解だったと信じていた」
 無意識なのか、手の平で片足のふくらはぎに触れていた。鉄の塊は未だその下に埋まっている。
「期待に応えたいと奮起するのは素晴らしいことだが、何事も行き過ぎは毒だよ」
「あなたは違ったの。不誠実だと思われていた?」
「皆とは、この国の愛し方が違っていたのかもしれない。今だから言えることだがね。自分の身を投げ打って……なんてやり方は、この年になっても受け入れられない」
「愛し方とは。―愛とは、何」
「感情の一種だよ」
「一般論ではなくて、あなた個人の思想は」
「……畢竟、独り善がりの支配欲だろうね。相手の中にある自分の存在を大きくさせたいと思うこと」
「つまり、愛は所有?」
「少しずれる気がするな。囲いたい……訳では、ないし」
「自由気ままにしていろと。何にも囚われていない姿が好ましいと」
「ううん、どんな姿も好ましくはあるが、しかし私だけのものにはなって欲しくないだけで」
「あぁ、もう、どちらなのかはっきりさせて」
「どちらも正しいからこそ答えあぐねているんだ」
 少し暴れて、足下をばしゃりと濡らしてやった。困っているのはこちらだ。
「持つことでなければ何。触れること? かかわりあうこと? 共有すること? 見つめること?」
 重ねるうちに、そのどれもが正解だと言い出すのは明らかだと気づいたので、再度水をかけて口を塞ぐ。
「こら、止めなさい。どうして不機嫌になるんだ。ほら、ズボンがびしゃびしゃになってしまった。これは乾きづらいのに。……心を傾けることも愛だろう。私はおまえも愛しているよ」 

*****

 あの人の絵をずっと眺めていたかった。そこにあるのが己の姿であろうとなかろうと構わなかった。次々と現れる紺青に浸るだけで満たされた。満たされて―我に返る。
「あなたはわたしを美化しすぎている。それが時折、ひどく滑稽だ」
 同じ言葉を返される予感はあった。
 あなたの絵は、青色は、綺麗だ。しかしあなた自身はそうではないだろう。
 寄せては返す流動体のわたしにとどまるよう言ったのは、征服だ。やはり支配だ。形を変えることは出来ても動けないのなら同じこと。残酷という自覚すらないのならばそれこそ残酷だ。おぞましくて汚い、人間だ。俗物だ。
「そうだろうか。絵を、心象が表出された結果の一つだとするならば、狙いは成功していると言わざるを得ない。好ましいと思うものを美化するのは必然だろうから」
 やり取りはいつもこうだった。分かり切ったことを確かめる。かたちのない問いにそれらしく答えてまた問い直す。不均等な感覚のやりとりが新鮮だった。
 わたしを描いている間、遠くを見ることが多くなった。過去の影を探すように。絵筆を握るきっかけとなった惨禍を思い出しているのかもしれなかった。髪の白い部分が多くなって、それだけの年月も経った。
 波を見て。とわたしはさざめく。
 見ること。見られること。ひとりきりのわたしと、ひとりきりのあなたが、たがいをおもうこと。真剣にまなざそうとつとめること、真っ直ぐなまなざしを、真っ直ぐに受け取ること。
 それがきっと、わたしがあの人から受け取った、愛だった。
「感情である以上、何かに向けた気持ちは、すくなからず自己愛を内包するだろう。自分が見たいと思ったものを多かれ少なかれ相手へ投影させて幻影を作り出す。また、おまえをわたしの色に染め上げたいと思うのも、自己愛の形をした他己愛なのだろうね。自分の満足がいくように他人を変化させたいと思うのは紛れもない利己心だ。しかしそうすれば相手がよりよい状態になるだろうと願う度合いを突き詰めたものだとすれば、暴走しているにせよ他者を思う心の発露だと言うほかはない」
「有難迷惑でしょう、そんなもの」
「あぁ、その通りだね」

 わたしたちは不出来で、自分が差し出したまなざし以外のものを扱うのが、ひどく不得手だった。
 大きさ、色合い、温度、かたち。それかのどれか一つでも自分にはそぐわないと判断するとすぐに不快感を示す。それを悪とは言い切れない。左右が反対になった靴を履くことにさえ、人間は不快感を覚えるから。
「しかし私はまなざすことを止めないよ。見て、描きしるすことを止めはしない。独りよがりの行為の中に、ほんの一かけでも分かち合えるものがあれば良いと思うからね」
 聞こえの良い言葉で糊塗した本音はすぐに晒される。そのことをよく知るあの人だったから、言葉少なに真実を語った。
 端的な真実も確固たるものではあるが、目には見えない。ならばどくどくと力強く脈打っている、あなたの心臓が欲しい。
 巫山戯た風に強請ったことがあった。その気になれば出来ることだった。わたしは波として、あなたを引き摺り込んで抱くこともできたのだ。
 しかしあの人は、優しくもきっぱりと拒絶を見せた。
「心臓なんて貰われてたまるか。わたしはきれいに忘れられないと困るんだ、おまえが固執するものになどされないさ。変化するおまえを愛しているのだから、おまえが留まる理由などに成ってはやらないよ」
 まったく、愛されることはいつもままならなくて、愛することは常に身勝手だ。



 いつしかわたしは描かれることを何とも思わなくなり、最中に軽口を交えることもできるようになった。変わりながら、変わらないままで、あの人の相手になった。
 それだから忘れていたのだろう。不変も普遍も、紙一重の事象だと。
「明日でおまえを描くのは終いだよ」
 とうに決めていたことだと。昨日と同じように青色を載せながらあの人は言う。
「この町を離れることにしたんだ。知っているか、よそとの争いがまた始まるそうだ。もっと田舎に引っ越すよ。ここは美しい土地で、以前に比べて人間も増えたから。今度こそ狙われ、奪われてしまうかもしれない。……こんなに生きても命は惜しいのだから、おかしいね」
 いつかの戦いのさなかにいた経験があるとは言え、老いた身では呼び戻されることはないだろう。しかし、心は呼び戻される。何度でも。わたしは、あの人が過去を追う目が苦手だった。
「だからおまえも、どこへでも行くと良いさ」
「どこへも行けない。今更」
 あなたがいる海のほかはどこも。そう告げてあなたを困惑させると分かっていても。
 変わり続けるわたしはもう、あなたに全てを変えられてしまったのだ。同じところへ留まり続けたいと、あなたの目で留めて欲しいと、烏滸がましくもそう思ってしまった。
 あなたの紺青に、わたしは既に染まってしまったのだ。
「あなたが居なくなるのなら待つのもお終いだ。もう待たないから、わたしを完成させて」
 プルシアンブルーの魔法が溶ける前に。最後まで、わたしを描いて欲しかった。
「最後まで愛して。そうすればきっと、あなたは幸せだ」
「……おまえを描き始めたときからずっと、わたしは幸せだったよ」
 さぁ、続きを描こう。
 と、あなたの声が遠くに聞こえた。
 砂を三回なぞる頃には、わたしはもう、ここにはいない。

紺青

紺青

あなたのあいのいろ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-03-05

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