嘔吐

 私、昔から食事が苦手でした。別に人と食卓を囲むことが苦手ってわけではなくって、単に食事をあまり美味しいと思ったことがありませんでしたから。
「嫌だわ、だって不味いんだもの」
 なんて、以前は出てきた食事をお母様に突っ返してしまってよく叱られました。
 けれど本当に不味くって不味くって、食べれたもんじゃありませんもの。シチューひとつとっても、ミルクは濾した泥みたいな味がしましたし、野菜は青臭くって舌の上に置いておけるものじゃありませんでした。お肉だって変に筋張ってばっかりで、大して味もしませんから、木の幹をひたすら私の小さな歯で解している気持ちでした。
 それでもお母様は、私に食べてもらおうと一生懸命沢山の料理を御作りになってくださりました。けれどやっぱり、パスタもパエリアもポトフもピザもラタトゥイユも、みんな不味くって食べられたものじゃありませんでした。

 ひとつ誤解がないよう弁明させていただくと、お母様は料理が大変お上手でした。私には味なんてものわかりませんから、あくまでおそらくですけれど。
 客観的にみてということになりますが、お父様や兄妹はみんなお母様の料理を美味しいなんてパクパク食べてニコニコしてましたし、パーティーなんかでお母様が振る舞った料理は、よくレシピを質問されていたようでした。
 私、味は全くわかりませんけれど、人が嘘をつくときの顔はよくわかります。嘘をつくときはみんなキョロっと瞳が他所を向きますもの。それでお母様の料理を食べた皆様は、みんなお母様の目を真っ直ぐ見て、揃って美味しい美味しいなんて笑顔を向けていました。
 だからきっと私が悪いんでしょうね。この私の忌々しいちっぽけな赤い舌がパウロを罰したユダヤ人みたいに無知で愚かなんだわ。そう思って生きていました。

 そうした私の言うならば偏食は、歳を重ねる毎に酷くなっていきました。嫌々ながらも食べることのできていた数少ない料理も、次第にえぐ味が増していくようで堪らなくなりました。
 お母様は必死でした。私の同年代の方々が次第にふっくらと女性らしさを獲得していくなかで、私満足に食べられませんから、身長も碌に伸びず、こぢんまりとした未だに幼子みたいな身体を気遣われたのでしょうね。
 私もその気持ちに答えたかった。私が怒られるだけなら良いけれど、お母様の悲しむ顔なんてみたくないですから。だからもう不味いだなんて言ってお母様に食事を返すなんてしなくなりました。私も良い大人ですもの。
 私お母様が作ってくれたもの全部食べました。オムレツもアヒージョもリゾットもグラタンも、本当に全部食べましたの。
 それでも本当に、本当に残念ですけれど、やっぱり身体が受け付けません。
 私は食べたもの全部、すっかりそのまま戻してしまいました。ゲーゲーと毎晩吐きました。
 辛かった……。吐く苦しみは勿論、お母様が私のために作ってくださった料理を戻してしまうことが本当に辛かった。
 
 私、それでもうぐったり寝込んでしまって……、けれどお母様はそんな私の目を真っ直ぐみて言いました。
「もう無理に私の料理を食べなくてもいいわ。あなたが無事に生きていければそれで良いのよ。なにも食べれないってあなたが不安がることもない。今は足りない栄養は点滴でもなんでも、どうにかなるものよ。そうして時間をかけて一緒に少しずつでもあなたが食べられるものをみんなで探していきましょうね」
 そうしたお母様の優しさが本当に嬉しくて、私泣きながらお母様の手を取って、ただうんうんとしか言えませんでした。

 それからというもの、点滴のカテーテルを腕に提げて、殆どお湯のまっさらなお粥をそっと啜る生活が続きました。
 お母様は言った通り、もう私にそれ程無理に食べさせようとはしませんでした。たまにクッキーやチョコレートを一欠片、どうかしら? と私の口に含ませて様子をみるようにしていました。
 けれどやっぱり、私そういうものを食べるとまたへんにえずいてしまって、お母様に背を擦られました。
 もう私の吐瀉物は、なんの色もしていませんでした。透明なお湯みたいでしたけれど、すえた匂いからハッキリ吐かれたものとわかります。
 私、それを見るたびに、ああもうこのまま干からびて死んでしまうんだわなんて、センチになってしまって、夜な夜な泣いて泣いて……。
 ヘンリーの小説じゃないですけれど、いつも窓の外を眺めては溜め息をついて、あの葉が散ったら私もう死ぬのねなんて、ずっと考えて季節をやり過ごしました。


 春のことです。
 点滴の刺さる腕はもう骨と皮だけで、膨らむ乳房がある筈の肋には骨が浮いていました。
 私もう意識も虚ろで、お腹がすいたなんて随分感じていません。ただひたすら眠くって、けれど眠ったらもう起きれないんじゃないかなんて毎日考えてます。
 だから涙の滲む瞳をかっと開いて、日々変わる窓の景色をみながら、私まだ生きてるわなんて、自分に言い聞かせていました。
 そして今日もまた、少し開いた窓をじっと眺めて、春の訪れに感謝しながら、もう来年の春はみれないかしらなんて考えていました。
 そうした暗い気持ちで鬱々と過ごしていますと、ふと開けた窓の隙間から、ぬるい春風に乗って1羽の小さな蝶々がパタパタ部屋に入ってきました。
 あんなに自由に飛べていいわなんて、蝶々なんかに少し嫉妬して、私部屋を飛ぶ蝶々を暫く目で追っていました。そうしたら私の考えが通じたのかしら? 蝶々はすっと私の骨張った指にとまって、その羽を綺麗にぱたんと閉じました。
 綺麗でした。黒いぽっちがひとつだけついたちっぽけな紋白蝶でしたけれど、呼吸しているみたいに羽をピクピクさせてしっかり生命を感じます。そうしたちっぽけな命は春の光にあたって、鱗粉か知りませんけれど、そのからだ全体がキラキラ輝いてみえました。
 そうした輝きが本当に綺麗で綺麗で……、そして可笑しいことですけれど……、本当に可笑しなことですけれど、なんだかちょっぴり美味しそうに感じました。
 私、口に唾液が溜まる感覚を初めて知りました。
 おぞましいことだと私自身でも思います。けれど、しょうがないとも思います。だってこの世で誰ひとり食欲を完全に封じて生きている人間なんていませんもの。
 神様は食を貪る者はナイフをノドに当てなさいなんて言うけれど、私本当に辛いんですもの。この貧相な身体をみたらきっと許してくださるわ。ね?
 指は震えていました。けれど蝶々はちっとも私の指から離れないで、まだ呼吸するみたいにピクピク動いてます。
 そっと蝶々のとまる指を口へ持っていきました。さらっとした鱗粉が乾いた唇に触れた気がします。
 そうして煌めく羽をすっと口腔へ入れてみます。
 衝撃的でした。私こんなに美味しいもの初めて食べましたから。美味しい……、美味しいってこんな気持ちなのね。
 酸味も甘味も、私よくわかりませんから、味を表現なんてできませんけれど、食を幸福と思える気持ちが初めてわかりました。食に狂う人がいることも今ならわかります。
 萎びた身体にあの輝く鱗粉が巡っていく気がしました。今まで感じていた気だるい微睡みは吹き飛んで、私自身が輝いて空を飛べる気さえします。
 軋む身体を無理に起こして、ふらっと庭へ出ました。すると不思議で堪らないのですけれど、蝶々は私の髪や肩にパタパタと訪れては羽を閉じます。
 肩にとまった黄色の小さな蝶々を、一羽そっと摘まんでまた口へいれてみます。
 やっぱり美味しいわ。なんて、あれもこれもと、捕れる蝶々をひたすら摘まんで、全部口へ含みました。


 それから、ひっそりと庭へ訪れることが私の日課の秘め事になりました。本当はお母様に言おうかとも思ったのですけれど、虫を食べてるなんてどう思われるかしらなんて、少し不安になりましたから。
 自分でもそれなりにおぞましさを感じないことはありませんでした。このことを秘め事にしてしまっていることが私の後ろめたさの証明でもあります。
 きっとお母様ならわかってくださるわなんて、いくら思ってもなかなか口にできません。
 そうしたことをぐるぐる考えていますと、次第にピリピリとお腹がすいてきます。
 ひとつ蝶々を摘まんで口へ入れます。なんだかもう躊躇いがなくなっていく自分に後から気づいて恥ずかしく思います。
 けれどいくら私自身の行いを恥じたところで、もう後戻りはできませんでした。いちど満たされることを知った私の罪深い痩せたお腹は、にどと空腹を経験したくないと音を鳴らし、叫んで私に教えてきましたから。
 それとまた困ったことですけれど、人の胃袋って不思議ですのね。前は少しで良かったはずのものが、もうひとつまたひとつと欲深く拡がっていきます。
 蝶々を摘まんで口へ入れては、自然と口角があがりますが、お腹は次第に物寂しさを訴えてきます。
 ちょっぴり足りない。もっと食べたい、満たされて、満足して、幸福でありたい。
 私変なこと言ってるかしら?
 またお腹がピリピリと叫んでいます。私は困ってしまって、お腹を抱えるように頭を下げました。そうして自然に視線が下がると、花壇の土くれになにか蠢く黒い塊がみえます。
 それもまた、おぞましいモノでした。けれどやっぱり唾液が溜まって、うまくものを考えられなくなります。
 すっと手をのばして、それを摘まんで、私霞む頭で考えました。口に入るものは私を汚しはしないわなんて、イエス様の言葉を信じてみます。
 そうして私の秘め事は、日々さらに深く仄暗いものになっていきました。
 
 私の体重は少しずつ増えていきました。背も少し伸びて、黒い髪に艶が戻りました。そして次第にふっくらと乳房がついて、現れていた骨は筋肉で覆われていきます。
 お医者様は首を傾げていましたが、お母様は泣いて私を抱き締めました。
「きっと神様があなたに特別な身体をくださったのよ。本当に良かったわ……本当に良かった」
 お母様は私の肉の戻った頬にキスをして、まじまじと顔を伺いました。
 私、お母様の目をみることができませんでした。
 いったいなんと言えば良いんでしょう。いつも庭であのおぞましいモノを食べているお陰だわ。お母様の作る食事よりとっても美味しいのよなんて、どの口が言えるでしょうか? 私堪らなくなって、視線を逸らして口だけ笑って、そうね、感謝しなくっちゃなんて言ってみます。そうしてそんな言葉を吐く自分の汚い口が恥ずかしくって、さっと手で覆いました。
 お母様はそんな私の仕草に全く気づかないで、ただニコニコ私の頭をそっと撫でました。

 そうした汚れきった心とは裏腹に、私の見てくれはもう完全に皆様と大差なく、寧ろ健康的にみえます。
 以前は痩せ細った幼子を映していた鏡も、今ではふっくらと女性らしさを獲得した私がそこにあります。
 後ろめたさや心の汚れを自嘲しながらも、恥ずかしながら、食事によって手に入れた私の健康的な肉体は活動を求めていました。
 だってベッドから動けなかった以前とは違いますから。沢山学んで、沢山話して、笑って泣いて喧嘩なんかしてみたりして、そうして……恋でもなんて夢をみます。
 可笑しいでしょう? もう碌に人が食べることのできるモノなんてなにも食べられないのに、未だに常人の送る人生を夢想してみたりします。
 誰かの小説で人が毒虫に変わってしまうものがありました。物語の主人公は虫に変わってから腐ったものしか食べられなくなりますが、じゃあ私は? あの物語のなかで肉親にまで蔑まれるあの方と私の違いはなんでしょう? 見てくれでしょうか? 中身はあの方ときっとなにも変わらないのに。
 人として生まれなければよかった。たまにそういった暗い感情が過ります。私も物語のあの方も、はじめから人でなかったのならこんなに辛い思いはしなかったでしょうね。
 けれどやっぱり、どれだけ不条理を感じても、人として生まれた以上夢はみるものです。
 そうした取っ掛かりのようなものを目の前に提示されてしまえば尚更……。

 お母様は言いました。
「ねえ、こんど姉さんの家でパーティーをやるそうなの。あなた良かったら来てみない? 別に食事をしなくっていいわ。みんな事情もわかってるし、ただこうして元気になった姿を見せてあげたいだけなのよ。ね? 全部終わった後にちらっと覗きに来てくれるだけでいいから」
 私は答えに詰まりました。
 伯母が嫌いだからというわけではありません。寧ろ伯母は私の良き師であって、それでいて友達のようで、ときには私のもう一人の母のような存在でした。
 私が偏食によって体調を崩してからは、なかなかお会いできませんでしたけれど、私もいまこの健康な姿でまた伯母と語らいたい気持ちは確かにあります。
 ただパーティーという単語が私を躊躇わせました。
 思い出します。お母様の手料理を食べてニコニコと笑う皆様を。私が勝手に後ろめたさを感じて泣きじゃくった日々を。
 けれど……、けれどやっぱり伯母に会いたい気持ちや社会の輪にいる私自身を想像すれば、自然と気持ちが靡きます。
 夢ですから。そう、私が求める人の生活がそこにあります。
 ひとまず考えておくわなんて、私お母様に微笑んで、ひとり夜の庭に出ました。
 
 夜の庭は静かでした。リーンと虫の声が聴こえましたが、いちど鳴いたっきりで、あとは風の音だけです。
 暗闇に身を置いてみると、自身の身体が闇に紛れて輪郭を失います。
 人ってなんでしょう? 口をモゴモゴ動かして、少し考えてみます。
 神様は人を塵で作りました。そう考えてみれば、それって見てくれはなんでもいいってことじゃない? なんて思います。
 私の身体がなにで構成されていようと、みんな塵ですもの。きっとそんなの重要じゃないんだわなんて。
 人の食べ物で私のこの身体は構成されていないけれど、こうして考えて、人の社会に交わる私は立派に人間なんじゃないかと思ってみます。
 お母様の料理を思い出すとちょっぴり悲しいですけれど、それでも私お母様に愛されて、そして私を待ってくれている人がいるなら、私も堂々と振る舞うべきじゃないかしら? そう自分に言い聞かせてみます。
 するとなんだかすっと心が軽くなりました。
 そうです。考えてみれば結局いくら迷ったところで、私が私をどう思うかでしか違いなんてありませんもの。
 秘め事は秘め事で良いのだと思います。誰にだって人に言えないことのひとつやふたつあるでしょう?
 それが明るみにならなければ、私も皆様も、何ら変わらない同じ人です。人のはずです。
 私、パーティーのことを考えてみます。満たされたお腹を擦って、ドレスを選ばなきゃなんて考えてみると、自然と口角が上がりました。

 それから何日か経って、漸くパーティーへ赴く決心がつきました。あれからまた幾らかうじうじ悩みはしましたけれど、どれだけ考えてみても、最終的には行きたいと思いますから、きっとそれが私の本心なんでしょうね。
 そうした決断をお母様にぎこちなくしてみれば、お母様はただにこっと笑ってまた私を抱き締めました。 
 お母様の腕のなかで切に思います。ああ、このまま全部うまくいけばいいのになんて。私の負い目を全て包み隠してしまって、水にお薬を溶かすみたいにそのまま縮小して消えてしまえばいいのに。
 都合がいいかしら? けど、誰にも迷惑かけてないですもの。
 お母様の腕をそっと外して、目をみてしっかり言います。
「楽しみだわ」なんて。


 少し月が翳って、肌寒くなりはじめた秋の夜です。お母様はとっくに伯母のパーティーへ行ってしまって、私は遅れて道を揺れてます。
 不安と期待のどちらもありますけれど、今は期待のほうが大きくなりつつある気がします。
 辺りは風の音が靡いていますが、私の動悸が人様に聴こえるんじゃないかなんて考えます。
 そうして胸を抑えていざ伯母の家へ着いてみれば、なんだか自然と落ち着いて、ひとつ息を吐いてからドアベルを鳴らしてみました。
 中からパタパタと足音が聞こえた気がします。きっと伯母の足音だろうと思いますが、転んだりしないかしらなんてふと思って、それから遅れて人を気遣う余裕がある自分に気づいて、フフッと笑ってしまいました。

 ドアを開けた笑顔の伯母は、私の知っている伯母より少し老けてしまったように思えますが、私を抱き締めたときに香る緩い本の匂いと、いらっしゃいと囁く温かな声が、思い出の不変を私に知らせてくれます。
 軋む廊下を歩きながら、伯母は私の肉のついた腕や頬に手を当てて、本当に良かったとしきりに眼をあわせて微笑みました。
 私も、またお会いできて本当に良かったと手を握り返して、伯母のように微笑んでみます。うまく笑えているかわかりませんが、私の微笑みを見るたびに、伯母がまたニコニコと上機嫌になっていくのを嬉しく思います。

 手を引かれながら部屋に入ると、見知った顔がいくつかありました。一番手前にはお母様が微笑んで座っています。
 料理はもう片付いていて、少しホッとしました。きっとお母様が気を利かせてくれたのだと思います。それでも部屋にはちょっぴり料理の匂いが漂っていて、なんだか自然と喉が熱くなります。
 少し匂いに呆けた私の名前を伯母が呼びました。ハッとして伯母を見ると「皆様にご挨拶しましょう」なんて伯母が言います。
 私、そうねなんて言って胸を押えてみます。緊張か料理の匂いのせいかわからない胸のムカつきは少しずつ高まるようでした。

「皆様」なんて言ったは良いものの言葉に詰まります。優しい顔で私を見守る方々になんて説明したら良いのでしょう。「今日はお招き頂いて本当にありがとうございます。私、料理なんて食べれませんのに、こんな立派なパーティーに呼んで頂けて本当に嬉しい」
 結局そんな当たり障りのないことしか言えません。ただ次の言葉を考えてまた言葉に詰まると、伯母はいいのよなんて言って、あなたがこうして健康でここに来てくれたことが本当に嬉しいわなんて言ってくれます。
 私本当にホッとして、胸を撫で下ろしました。
 けれど、続けて伯母は言いました。
「けどあなた、本当になにも食べてないの?」
 

 視界が暗転した気がしました。何も見えなくなって、今自分が立っているかも倒れてしまったのかもよくわからなくなったような気がします。
「ええ、なにも食べてないわ。食べれないのよ」
 私は暗闇に向かって呟きました。
 暗闇はなにも言葉を返してくれません。
「本当よ、ねえ、嘘じゃないわ」
 暗闇からはやっぱりなにも答えはありませんでした。それどころか辺りを包むあの料理の匂いがしだいにキツくなっていく気がします。
 次第に胸が熱くなります。胃のひくつきが感情の昂りとともに激しくなっていく気がします。
「ねえ、その匂いどうにかなりません? 私本当に食べられないのよ。誓って本当よ」
「嘘はいけないわ」答えがありました。ただ伯母の声ではないように思います。「ねえ、確かに口から入るものは決してあなたを汚しはしないわ。ただね、口から出ていくものがあなたを汚すのよ」
 頭から血が引けていくみたいに顔が冷たく、寒くなりました。すると立ち眩みから目が覚めるみたいに、視界に色がつきはじめます。

 皆様は変わらず私を微笑んで見つめていました。伯母も、お母様も。ただ、その瞳はあのお母様の料理を食べる父や兄妹や皆様と同じでした。
 私、そういった顔が本当に怖くって、悲しくて、イヤに気持ち悪くなってしまって……。
 胃が激しく震えました。
 そうして、私のおぞましさを抱えるお腹は静かに決壊しました。

 私は滔々と嘔吐しました。私の足元に。それはドス黒い水溜まりみたいに静かに広がっていきました。
 消化しきれない内容物がジワジワと広がっていきます。なんだかそれは地の底から這い出てくるようにも見えました。
 えずいて、えずいて、ひたすらえずいて。
 
 漸く私の口から全ての罪が吐き出されたとき、辺りはしんと静まり返って、なんだか皆逃げ出して、一人取り残されたような気がします。
 恐る恐る顔をあげると、一番手前にいたお母様がひっそりと私の前に立っていて、目が合いました。
「……気持ち悪い」
 お母様は言いました。

嘔吐

嘔吐

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-04

Copyrighted
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