カップル限定!!
街中がカップルだらけ!? ちょっと不思議な世界設定のちょいラブ+コメディ小説。
二十一世紀を迎えて二十年目。記念すべきその年に『カップル限定法』が制定された。
『超高齢化、及び少子化社会により起こる諸問題を一気に解決させる近年稀に見る対策』として日本に迎えられたこの法律。その予想外の副作用として活性化する日本経済。そこに目を向けた欧米諸国も法案に若干の仕様変更を加えつつ、取り入れていった。現在その動きは世界中に広まりつつある。
スローガンは『愛は世界を救う』。
「あー、ないな…」
久しぶりに街に出てきて、思わず口から漏れた言葉はそんなものだった。
しかし、呟いた言葉は誰にも届く事はなかったらしく、それがさらに悲しくて小さなため息をつく。こうなると、休日にこうして出掛けようと思ったのが間違いだったと認めざるを得ない。街に視線を向けると、再び俺の気力は奪われていった。
「ほんと…うん…これは、ないな…」
この光景を見れば、俺が意気消沈するのも無理はないと理解できるだろう。
まず、目に入るのはカップル。
そして、カップル、またカップル、おまけにカップル。追加でカップル。街に溢れる言葉もカップルカップルカップル…。飲食店もカラオケもゲーセンもスーパーもコンビニも喫茶店も魚屋までカップルづくし。
もうそんなにみんなカップル好きならアップルでも食べとけよって、果物屋に目を向けると店先のリンゴと目があった。なんでリンゴに目があるんだ、と驚いてよく見ると、一つだけではないらしい。その横に同じようなリンゴがあり、それにも同じように目が彫ってある。無駄にクリクリした可愛い瞳。
そしてその下に『カップリンゴ』と彫ってある。
…なるほど、そっちがあったか。
街が謳うカップルという言葉。
以前は街中で見かけることはほとんどなかった。それが、あの法案が施行されてから、急速に現在の状態へと街は姿を変えていった。
『カップル限定法』──これを一言で表すなら、カップルならばとにかく優遇する、というあやふやなものだった。
まぁ、これだけなら笑い話にでもなっただろうが、そうならなかったのが現実だ。
曖昧な法案なら適当な世論。何の気まぐれなのか、驚くべきことにそうした政府の流れに世論も動き出して、様々な店が取り入れたのが『カップルなら○割引!』というような制度。
各地レジャー施設から田舎の旅館、地元のコンビニから果ては隣家の田渕パチンコまで、気が付けばまるでそれが当り前だったかのように『カップル割引』を声高に叫んでいた。
こんな世の中だから、次に来たのが告白ブーム。
その成功率は定かではないのだが、そんな一般人の勇気ある行動のおかげで、現在では 十五歳以上のカップル率は驚異の 92.4%を記録(2019 年渋谷・梅田街頭調査より )。こうして日本は世界でも有数の愛を育む国となった。
無論、俺みたいにフリーの人間もいる。
えっと…本当に珍しいんだけどね。
街を歩いていると笑顔のカップルがそこかしこにいる。みんな目前の幸せ以外に興味がないようで、そんな中にどんよりオーラを纏って一人で歩く俺は明らかに浮いていた。
ため息をつくと幸せが逃げる、と言ったのはいつの時代だったか。
俺がついた溜め息は周りが発する幸せオーラに一瞬で掻き消され、むしろこちらが息を吸う度にその幸せオーラが体の中に侵入してくる。
どうやら俺には落ち込む自由すら無いらしい。
確かに法律ができてから、世界から戦争が一気に無くなった。さらには不況も吹き飛ばされて、貧困と犯罪がなくなって、おまけに科学が飛躍的に発展して病気もエネルギー問題もなくなった。スローガン通り確かに世界を愛が救った、のかもしれない。
それでも、こんなちっぽけな俺が異議を唱える事が出来るのならば、言わせてもらいたい。
こんな世界はまともじゃない!
それとも、そんなことを叫ぶ権利すら無いのだろうか。
用事を済ませた帰り道。
今日は受付の人間に『あの…もしかして、カップルじゃないんですか…?』と驚きと憐れみを含んだ視線で見られた事以外は順調だった。
夕暮れに染まる街中、建物の合間から差し込む夕日が目にしみて、周囲のカップルが見にくくなる。
あくまで理由は伏せておくが、この時間は個人的に一番のお気に入りだった。
足取りも軽く来た道を戻っている時、不意に何かの視線を感じた。
何だろうと辺りを見回すと、建物と建物の間、窮屈で決して衛生的とは言えない暗がりに一匹の猫が鎮座している。
一人で歩く俺、一匹で座る猫。
これはまさしく運命の出会いなのだろうか、暫しの間見つめ合う。
なんとなく気持が通じ合ったような気がした!
「俺のことをわかってくれるのはお前だけだな…」
そっと猫に近づいて手を伸ばし、警戒させないように指を動かしてみる。
猫はしばらくその動きを見つめていたが、やっと心を許したのか、同士のもとへ駆け寄る──って…あ、あれ?
駆け寄らなかった。それどころか小バカにしたように欠伸をすると、俺を置いて路地の奥へどんどん進む。
よく見ると奥に似たような猫がもう一匹いた。
というか、何も言わなくてもわかるよ、あいつの恋人だろ! くそう。
あ、いや、猫なんだから、恋…猫?
二匹の猫は体をすり付けあい、一度こちらを見てから連れ立って走り去ってしまった。
何も居なくなったビルとビルの隙間は思った以上に居心地がいい。
すべてに裏切られた気分になりながら空を見上げると、四角く切り取られた夕空が見えた。
──そういえば、猫と視線が合った時っていうのは喧嘩の合図だっけ。
次に会った時は猫じゃらしでも持ってたらいいなぁ。なんて、そんなことを思いながら、ゆっくりと家へ向かって歩き出した。
今夜の夕食を猫しゃぶにできるかどうか、些か本気で考えながら。
二日連続の外出ともなると、もう涙も出ない。
もうじき正午を迎えるといった時間なのに、すでに太陽は十二分に働いていた。身を焦がすような熱線も、元から熱々なカップルには無意味なのだろうか。今日も今日とて二人寄り添い歩く姿が嫌でも目に入る。
いっそのこと、政治家にでもなってこの法律を潰せばよいのだろうか。いやいや、よく考えなくても無理なのは明白だろうな。当たり前だ、味方が全体の 8%も居ないんじゃ、通るものも通らない。
まぁ、そんなマニフェストじゃそもそも政治家にすらなれないだろうな。
どうやらまともなのは俺の方ではなく世間らしい。非常に、いたく、この上なく、納得がいかない事なのだが、そうなのだから仕方が無い。
そんな他愛もない事を考えるうちに用事を済ませてしまう。これでしばらくは家から出なくていい。
このカップル地獄の光景ともお別れなんだと思うと、不思議な事に惜別の想いみたいなのが湧いてきた。
これが信じられないことに本当だから困る。
一杯くらいお茶でも飲んで、この光景を見納めにするか、そう思って近くの喫茶店に向かう。
ふうん、こんなのができたのか、と喫茶店を眺める。喫茶店には看板が掛けられており、ポップな文字で「 NEW OPEN」と踊るように書かれていた。
外出自体めったにしない俺だから、新装開店の店の方が入りやすいだろうとそんな甘い考えでこの店を選んだのだが、思った以上に入りにくい。
こじゃれた雰囲気を醸し出すこの店は本当に開店して間もないのだろう、いたる所がまだ新しく見えた。入り口に近づくと微かに BGMが聞こえてくる。よく見ると店全体の雰囲気は近代的なイメージなのに、ドアノブはアンティークという不思議。
かといって店先で引き返すわけにもいかない。覚悟を決め、乾燥ワカメみたいな勇気を捻り出してドアを開ける。
ドアを開くと、店内の涼しい空気とあの定番の「カランカラン」という鈴の音が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませー」
明るい声と共に営業スマイルを張り付けた一人の女性店員がこっちへ駆け寄って来る。店内へ視線を向けると、外見とは一変してドアノブと同じアンティークで統一しているらしい。ついでに言うと、当たり前のようにカップルの巣窟になっている。
うん…分かっていたけどね。
「えっと――」
案内しようとした女性店員は俺の方を見てそのスマイルを強ばらせた。そうして少し戸惑い、俺から視線を外した。
うわ…分かりやすい反応。
何で一人なのに喫茶店なんか来てるんだよ! と、確実に女性店員さんの目が語っている。何も言っていないのに女性と意思疎通ができるなんて、本当なら嬉しいはずなのだが、店内の様子と重ねてさらなるダメージを受けてしまう。
というか、もう帰りたい…。
そんな事を思っていたから、次の女性店員の言葉に固まってしまった。
「――お二人様でよろしいですか…?」
女性店員はあくまでも確認ですが、という風に訊ねる。
「へ?」
「え?」
予想していなかった女性店員の対応に驚く。
さらに驚きなのが、思わず出た声が誰かの声と重複していた。
なるほど、落ち着こう。こういうときは落ち着いて、冷静に相手を観察すれば何かが分かる、と元気だった頃の祖母も言っていた。
ちなみに祖母はその頃からさらに元気になって、現在も精力的に活動している。いまはパリかエジプト当たりでフラメンコでも踊っているのだろう。
一瞬、混乱してどうでもいい情報が脳内を錯綜したが、気にせず女性店員をよく観察した。
なるほど、どうやら先ほど俺から外したかのように見えた視線は俺の後ろへ向かっていたらしい。
うん、意志疎通、出来てなかったよ、畜生!
ここら辺で、如何にしてこのような状況になったのか俺にはすでに理由が分かりかけてはいた。しかしながら、推測だけでは心許ない。ということで、俺も確認のために恐る恐る後ろを見ることにした。
人間はいつまでたっても好奇心と言うものにはいつも勝てないものだな。
振り向くとそこには見たことのないショートカットの女性がぽつねんと立っていた。今、画家の誰かが彼女の姿を見れば、『呆然』という二文字のタイトルを付けて部屋に飾るだろう。それほどまでに唖然としていた。
まぁ、俺も人のことが言えたものではないほど呆然としていたが。
彼女がどうやら、先ほどの「え?」と言う方の声の主らしい。
どうしたもんかと彼女を眺めていると目が合った。
「…」
「…」
お互い無言で、何と言うべきなのか、如何するべきなのか互いにを探っているようでもある。
そんな二人の様子を見て女性店員も業を煮やしたのか、それとも現状の問題を把握していないのか、気がついたときには出迎えた時と同じ声で「お二人様ー、カップルごあんなーい」と店内に知らせていた。
いや、きっとこれ後者だな。
というか、雰囲気感じ取ってくれよ! 明らかにカップルじゃないだろう! 付き合いたてほやほやって言い訳しても苦しいよ!
と心で叫ぶものの、残念。俺の心の声は全く届かず、有無を言わせずスタスタと店内を先導していく女性店員。
その後ろをおどおどしながらついていく俺。
俺の背後にいた女性もまた、俺と同じような気分なのだろう、困惑した表情で付いてきていた。
「おタバコはお吸いになりませんね、禁煙席でよろしいでしょうかー」
そんな店員のありきたりの確認事項になんとか「ああ、はい…」などと俺は返事を返すが、頭の中はもう何が何やら、混乱の極致である。
人は一定の混乱を超えると、どうやら逆に落ち着くらしい。
疑うなら、俺と背後の女性が証拠だ。
半ば連行されているような気分でついていくと、案内されたのは店の一番奥にあるテーブルだった。衝立で仕切られたそこには半畳ほどのテーブルに椅子が二脚、申し訳程度に光を取り入れるための窓がある他は壁に囲まれていて一種の小部屋のようになっていた。そういえば、店内には同じように大きな窓のない独立したスペースばかりあったような気がする。
一人で街を眺めるにはこれほど向かない店もなかった。
先導していた女性店員が振り返り「こちらへどうぞ」と空きテーブルの前で俺たちに着席を促す。
「あ、はい…」
「あ…はい…」
またも二人の声が重なり、気まずそうに視線を合わせる俺と女性、そして相も変わらず、雰囲気を微塵も感じ取ろうとせず、ニコニコしている店員。
「それでは、こちら、カップル専用メニューとなります、ごゆっくりどうぞー」
女性店員は二人が着席したのを見届けるとメニューを渡し、月並みなセリフを残して去っていく。
へぇ…カップル専用メニューか…って、そんなことに感心してる場合じゃねぇ!
店員もいなくなったところで目の前の女性──不運にもこの一連の出来事に巻き込まれた彼女に声をかけた。
「あ、あの──」
…はずだったのだが。
俺のかけた言葉が全く聞こえなかったのか、彼女はつい先ほど店員からもらったメニューに目を輝かせ魅入っていた。
「あ、あの!」
先ほどより大きな声を出したのだが、やはり反応する素振りは見せない。むしろ先ほどより魅入っており、新たに目に星マークが現れていた。
いやまさか、と思ってよく見ると、メニューに書いてある星のイラストが彼女の目に反射しているだけだった。
…マンガじゃないんだし、そりゃそうか…。
そんな俺の動揺と安心を完全に放置して、彼女はメニューを熱心に読んでいた。
そんなに熱心になるほど、面白い事書いてあるのか…?
俺も店員から渡されていたメニューに目を通す。
最初に目に入ったのは『比翼連理セット』と大きく書かれた文字。その下にはショートケーキとコーヒーカップの絵。さらにその下に小さな文字でこう書かれていた。
(ヒヨクレンリ、とショートケーキって、発音が少し似てるよね?)
似てねえええええぇぇぇぇ!!
さらに他の文字も見ると、そこには『偕老同穴(かいろうドーナツ)』。『オシドリ夫婦(豆腐)』とやらの意味不明な商品名と写真、果ては『愛すコーヒー』なんていうのもあった。
…なんなんだ、この店。
先ほどからの出来事に、こんなメニューのことまで加わってきて、俺の頭は煙を吹いていた。
メニューから目を離し、目の前の女性に視線を向ける。いまだにメニューから目を離さない彼女はなんだかとても楽しそうだった。
もう一度声を掛けようとしたが、その顔があまりにも嬉しそうだったので、声を掛けるに掛けられない。
…どうせ暇だしな。
彼女が気がつくまで黙って見てよう。
うん、そういう事にしよう、と彼女を眺めながら、勝手に俺の頭の中で決定するのだった。
何分経ったのか、彼女がメニューから顔を上げる。
そこから俺がいることに気が付くまでに一秒。そこから硬直が六秒。顔を赤くして慌て出だすまで合計約七秒の事だった。
「…え、あ! あ、あの!」
慌てだした女性をとりあえず落ち着かせようと声を掛ける。
「お、おちつけ! と、とりあえず落ちつこう、なうっ!」
落ち着かせようとするはずが、こちらも慌てて最後に噛んで『呟いて』しまった。
ああ、舌が痛い。
「ああ、あの、ご、ごめ、なうっ!」
俺が失敗を悔やんでいる暇もなく、相手も謝ろうとして『呟いて』いた。
なんだ、この「なうなう」呟き合う二人は…。
「…ぷっ」
一度客観的に考えてしまうと、なんだか面白くなってしまい、俺は耐えられずに吹いてしまう。
「…くすっ」
そんな俺の様子を見て、女性の方も少しの間茫然としていたが、改めて自分の置かれた状況や今までの事を思い出したのか、同じように笑い出した。
こうなると、混乱も置いてけ堀である。二人して笑い合い、それがまた面白可笑しくて笑い合う。笑いをこらえたいのだが、もうそれもできないほど沢山おかしい事が起こりすぎていた。
「あはははっ」
「うふふふっ」
笑うとさっき噛んでしまった舌が痛い。でもそれがまた面白い。あと、やっぱり『比翼連理』と『ショートケーキ』は結構似ている。あとからじわじわ来る面白さだった。
しばらくの間、奥の個室で二人の笑い声が響き合うのだった。
笑いすぎて腹筋が痛くなってきた頃、ようやく二人の笑いの波も収まってきて、なんとか話せる状況まで戻ってきた。
「はぁ…はぁ…あの…」
多少息を切らしながらも、ようやく俺は彼女に声を掛ける事が出来た。
「えと…はぁ…はぁ…はい…。はぁ…はぁ…な、なんでしょう」
彼女は俺よりも笑いのレベルが深く、いまだに肩で息をしていたが、それでも何とか返事くらいは出来たようだ。
「あーっと、その、大丈夫なのか?」
ここにいて、と暗に訊ねる。
「明らかに勘違いだろ、あれ…」
この喫茶店に入ってからの一連の出来事、改めて説明しなくてもどういうことなのか、彼女も十分に理解できているだろう。
「迷惑なら、今からでも席を分けてもらえるだろ、空席もあるみたいだし──」
「あ、あの!」
俺が一気に捲し上げていると、彼女は慌てて話を遮ろうとして、大きな声を出してしまったらしい。
「は、はい!」
そして、その勢いに負けて思わず敬語で返事してしまう俺、カッコ悪い。
「その、さっき…」
思ったよりも大きな声が出て恥ずかしかったのか、多少もじもじしながらも話を続ける。
「さっきメニュー見てて、すごく美味しそうで…」
彼女は俺にも見えるようにメニューを傾けて「こ、コレです」と写真を指した。
「これ…カップル専用メニューでしか頼めないらしくて…そ、それでもし迷惑でなければ、その…このままで、ダメ…でしょうか…?」
彼女は申し訳なさそうに言うと、恐る恐るこちらを伺うように上目使いでこちらを覗き込む。
無駄に破壊力があるのは天然だと信じたい。
「い…いや、君がいいなら、俺は別にいいんだけど」
「ホントですか!」
むしろこう答える以外の選択肢が今の俺にはなかったぞ。
俺が答えると、彼女は先ほどまでとは表情を一転させ、嬉しそうな表情で再びメニューを眺めだした。「やっぱコレも美味しそう…」とかなんとか、呟きも聞こえる。
ま、まぁ、彼女が嬉しいならいいか…。今さら別の席へいったところで、まともにお茶できる気分じゃないしな…うん。
いささか無理矢理に自分を納得させつつ、俺みたいなタイプが女に金巻き上げられたりするんだろうなー、なんて彼女を見ながら思った。
「ご注文お伺いいたしますー」
変な名前の商品だらけだが、ずっと席に座ってボーッとしているわけにもいかない。ということで、今さらやって来た気まずさも手伝って、何を注文するか早々に決めてしまい、近くを歩いていた店員を呼んだ。
「えっと、このラブリーセットっていうの、これ一つお願いします」
彼女はメニューを指差し、店員に注文を告げる。
「俺はその…か、回廊洞穴セット? を…一つ…。」
なんだろう、やたら恥ずかしい名前を言わされた気がする。おいこら、そこ、目の前の人。笑うなよ…。
「え? ああ、はい。ドーナツセットをお一つですね」
…え? ド、ドーナツセット…。
「以上でよろしいでしょうか?」
ちょ、ちょっと?
「それでは、ご注文を繰り返します──」
おいおいおいおい! それでいいのかよ! いや、合ってるけどさ! なんだよ、俺、無駄に恥ずかしいこと言っちゃったよ! しかも店員、最初に「え?」って言ったぞ。浸透してないのかよ! ネーミングの意味ねえええ!
しかも、目の前の人はまた吹き出してるし! もう笑うなあああ!
店員が去るとついに我慢しきれなくなったのか、彼女はお腹を抱えて笑いだしてしまった。彼女が軽い呼吸困難に陥るほど笑うので、俺はもう恥ずかしさを超えて、ただ呆れる他無い。
それにしてもよく笑う。
もしかしなくても、彼女の笑いの沸点はかなり低そうだ。いわゆる、箸が転んでも面白い年頃というやつか。
彼女はまだ笑いの渦潮から抜けられないらしく、今は笑いをこらえるために机に突っ伏している。顔は見えず、こちらに旋毛だけを見せている状態だ。
席の構造上、笑い声があまり他の客の迷惑にならないのがせめてもの救いだろう。
まぁ、気まずくなるよりはいいな、と冷水をチビチビ啜りながら、彼女の笑いが収まるのを待った。
「…ごめんなさい!」
あの後、彼女の笑いが収まったのは二、三分後だった、顔を真っ赤にして謝る彼女は、それ以言葉を続けられないのか、俯いてしまっていた。
「い、いやまぁ…気にしてないから…な?」
本当は気にしている。無論、この店のシステムと店員の教育に、だが。
ただ、そこまでのブラックなジョークを全力投球できるほど、打ち解けた間柄でもない。今さらだけど、彼女と俺は初対面なんだ。
ここに関しては何度でも、声を大にして言っておきたい。
俺と彼女は初対面だ、何度だって言ってやる。
数分後、見事に沈黙している二人がいた。
二人の間には初対面特有の、なんとも嫌な空気が胡座をかいている。
「そ、その…この店は…よ、よく来るんですか?」
兎にも角にも、会話をしなくては居たたまれないと、とっさに出た俺のひと言。
「え、えっと…」
彼女が困った表情を見せる。
嗚呼! 失敗した。思わず感嘆が漢字になるくらいの失敗だ。そうだよ、ここ新装開店の店じゃん。よく来るも何もないよ!
「私、このお店は初めてで…」
「そ、そうなんですか! 俺もなんですよ!」
当たり前だよね、新装開店だもんね。
「へ、へぇ、そうなんですか…」
「はい…」
気まずい、気まずいよ!
何とかして話をしないと…。気持ちだけが先走るが、口から出る言葉は、喉を過ぎる頃には霧散する。
「あー…」
「うー…」
あちらも同じ気分なのか、言葉にならない言葉が、二人の口から洩れている。
「あ、あの――」
最初に気まずい沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「な、なんだ?」
これ幸いにと、話題に乗っかろうとする俺。少々食い気味なのはご愛敬だ。
「あ、えっと…その、今日は何の用事で出て来られたんですか…? い、いえ…あの、急にあんな事になって、二人とも全然お互いの事知らないじゃないですか、だから、その、まずは軽めの質問と言うか、あの、ええ…はい…」
尻すぼみになっていく彼女の言葉。だんだん早口になってしまうのは羞恥のせいだろうか、話しながらモジモジとしている。
ただ、このチャンスを逃すほど愚かな俺でもない。今までの雰囲気を壊すなら、このタイミング以外にないだろう。チャンスを作ってくれた彼女の為にも、きちんと答えてあげたい。
ただ…。
「なんというか、携帯端末のクレーム処理…なんだが、分かるか?」
「携帯端末…?」
予想通り、ポカンとした表情を浮かべる彼女。
「うん、クレーム処理と言うか、実際に見て意見を言ってくれー、って言われて店舗に見に行った感じなんだけど…」
「はぁ…」
わかって、ないよね。
「あ~と、なんて説明すればいいのか…」
そもそも説明して面白い話でもないのだが、そうなると話が進まない。「気にしないでくれ」なんて言えば、さっきの沈黙地獄に逆戻りなのは確定だろう。それも二度と抜け出せない、蟻地獄だ。
「その、携帯端末って、ケータイのことですか…?」
どうにか話についてこようと、彼女は何とか分かりそうな単語を拾ったらしい。それにしても『ケータイ』とは。
「懐かしいな…」
「え?」
「いや、ケータイって流行ったの、もう二〇年くらい前だからな」
「そう…なんですか?」
これまた、ポカンとした表情。これは少し説明してあげた方がよさそうだな。
「携帯電話っていうのが――つまり君の言う『ケータイ』の事だと思うんだが――それが流行ったのは二〇〇〇年ごろの話だ。そこから約一〇年後にスマートフォンという、画面の大きいケータイが流行った。これが俗に言う『スマホ』だな」
今でもちらほら使っている人がいるから、彼女も想像しやすいだろう。
「それで、今みんなが持っているのが『タンマツ』。携帯端末の略称で、さっき話した『スマホ』の上位互換だと思えばいい、便利な機能が増えた使いやすい機会ってことなんだが――」
説明しながら彼女を見ると、ポカンとした表情のまま固まってしまっていた。ともすれば可愛い表情なのだが、それも冷凍保存されたようにピクリとも動かないのは逆に怖い。
「すまない、少し話しすぎたか…どうも、説明を始めると周りが見えなくなるクセがあってな…」
素直に反省。周りからもよく指摘される事だ。初めての人間にこんなに急にしゃべられたら、誰だって固まるにきまっている。
素直に謝って許してくれるといいんだが、と彼女の方を見る。
「……い」
ポカンとした表情のままだが、少しだけ唇を振るわせるのがわかった。
やっぱり、怒ったのだろうか。
「…ごい」
「え?」
彼女が何を言ったのかBGMにまぎれて聴こえなかったので、口元に耳を近づける。
「すごい!」
「うおっ!」
耳元でいきなり大きな声を出されたかと思ったら、今度は机の上に置いていた手を両手で握られ、今までとは全く別のテンションで捲し立てられる。
「すごい! すごいですよ! ものすごく分かり易かったです! 私機会って苦手で、全然話とか分からなくて、よくいろいろな人が説明してくれるんですけど、それでもわからなくて…でも、今の説明はすっごい分かり易かったです! 馬鹿な私にもスルッと理解できました!」
「お、おお…そうか…ありがとう」
怒涛のような言葉の波に、おそれ戦きつつ、一応お礼は言う。
『どんな時も礼儀を忘れない』とは現在エジプト豪遊中のおばあちゃんの言葉である。
俺が驚いている間にも、彼女は、今までどれだけ機械製品に苦しめられたかの歴史を次から次へと語る。
「――レンジにゆで卵を入れたらダメ、って説明書に書いてないんですよ! こんなの職務怠慢ですよね、ある時は『ぱそこん』を『いんたーねっと』に繋ごうとしたら、床いっぱいに紐が広がって…それが体に絡まって、とっても大変なことになったんです。世界とつながる前に、あの世とつながるところでしたよ! それに――」
これがほんとのマシンガントークなのだろうか。次から次へ浴びせられる話に、ついて行くのもやっとで、俺は相槌くらいしか打つ事が出来ていない。
「そりゃ…大変だったな…」
「でしょう! それに――」
おいおい…いつまで続くんだよ、この話…。
少々げんなりした気持ちを抱きつつ、話を続ける彼女を見て、さっきの沈黙よりはよっぽど気持ちいいか、と思っている自分が確かにいた。
彼女は相変わらず、自分の機械音痴歴史を語っている。というか、よくもそれだけ失敗できることがあるものだ。
自分に起こった出来事を、豊かな表情で語り続ける彼女。その迫力に最初は引いていたが、慣れてしまえばこれはこれで微笑ましいものだと思えた。
「おまたせしました、こちらご注文の品になります」
彼女がエアコンに関する失敗談について語り出した頃、先ほど注文を受けてくれた店員が、品物を持ってきてくれた。
「こちらが、ラブリーセットです。そして、こちらがドーナツセットです」
自然な動作で、彼女の前にラブリーセット――ハート型のフルーツやクッキー等、その他多くのハート型のものがトッピングされたパフェとコーヒーが、俺の前にはドーナツとコーヒーのドーナツセットが置かれた。
「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか」
品物を配り終えた店員が、確認のためにこちらに顔を向ける。すると「あっ…」と短く小さな声を上げた。
何かに気が付いたようだったが、それも一瞬の事で、すぐに営業スマイルに戻ってしまう。
「それでは失礼しました、ごゆっくりどうぞ」
店員は最後に俺達を見て、意味ありげな笑みを残して去っていった。
なんだろう、と疑問に思っていると、彼女も同じような顔をしていて、目が合うとお互いに首をかしげた。そうして、店員が見ていた先。つまり、テーブルの上に視線をやる。
テーブルに置かれたのは先ほどの品々、他にメニューや紙ナプキン、調味料などいたって普通の物しか置かれていない。後あるとすれば、彼女と俺が手を握っているくらいで――手を?
数秒時が止まったように感じた。
同じようにして視線をさまよわせ、理由に気付いたのだろう。彼女も視線だけは自分の手元――しっかりと俺の手を握る自分の手――と、俺の顔を行ったり来たりする。どれくらい時間が止まっていたんだろう、沈黙を破ったのはボンッという音だった。
彼女の方視線を向けると顔を赤くして固まっている。
そこから、さらに数秒立つと、脳がやっと処理に追いついたのか「ご、ごめんなさい!」とあわてて、握っていた手を離した。俯く彼女の顔は前髪でもう見えないけれど、ひょこん、と出ている耳が赤くなっているのが分かった。
こっちも顔がかつてなく赤くなっているのが分かったが、小刻みにプルプル震えて言葉も発せない彼女を前にどうすることもできない。困って視線をさ迷わせると、偶然通りかかったらしい、先程の店員と目があった。
店員は口をパクパクさせて──『よ、色男!』ってうるせええええぇぇぇぇ!
あの店員は俺になんか恨みがあるのか! ないよね? ないよね! ここ初めての店だし! 彼女とも初対面だし! 何? 何なの? 何があったらこんな状況になるんだよ!──店員は俺達の様子をニヤニヤしながら見ていたが、誰かに呼ばれたのか振り返り、二、三応えると、こっちを向いて最後に人差し指と中指の間に親指を──シャッという軽い音がしてカーテンが閉まった。随分、個室に近いと思っていたが、入口に備え付けられたカーテンを閉めると、完全に個室みたいになるんだな、うん。俺は何も見えなかった。見なかった。見ようとしなかった。あれは幻に違いない。それともお化けかな、随分とはっきりしていたけど、それにタチも悪かったけど、もう、それでもいいわ。うん。
「あ、あの…大丈夫ですか…?」
俺と店員やり取りの間に、回復した彼女が、今度は、はぁはぁと変質者並みに肩で息をする俺を、心配して声を掛けてくれる。
「ああ、いや…なに…ちょっとこの店の将来を心配してただけだ…」
「は、はぁ…あ、あのっ…どうしてカーテンを…?」
これはまた痛い質問を。
「う…こ、こうしておけば、は、恥ずかしくないだろ?」
うん、自分で言っていて、説得力の欠片もないわ…。
「あ…」
自分の不甲斐なさに項垂れていると、彼女が小さく声をあげた。
「うん?」
「い、いえ…なんでも。あ、ありがとう…ございます」
先程の恥ずかしさが抜けないのか、頬を染めて礼を言う彼女。
「ああ…どう…いたしまして…」
その破壊力を知らずに、この表情を使っているのだとしたら、天然ってホントに怖い…。あと、ばあちゃん、勝手に人の脳内で、天然どじっ子アピールはやめてくれ。貴女がやるのは決定的に、そして絶望的に、何かが間違っている。
なんとか返事した俺は、苦し紛れに目の前のドーナツを口に放り込んだ。
「あ、うまい…」
思わず口から漏れるほどの美味しさ。喫茶店だからって甘く見ていたかもしれない。それに変な店だったし尚更だ。
彼女も俺の呟きを聞いてか、目の前にあるハート尽くしのスイーツに手を伸ばしていた。
「わっ…ホントだ…おいしい!」
思わずこぼれる自然な笑み。
意図せずお互いの視線が合う。けど、さっきみたいな気まずい沈黙はやってこなかった。少しこそばゆい気持ちになるが、カーテンを閉めたお陰なのか、先ほどよりは余裕もあった。
これも、あの店員に乗せられた事になるのだろうか、なんて思うけれど、美味しそうにハートまみれのパフェを頬張る彼女を見れば、そんな事どうだっていいと思えた自分がいた。
そんな風に少しだけ、気恥ずかしさを残しながら、ときどき食事を挟みつつ、ポツリポツリと会話も再開したのだった。
「ご来店ありがとうございましたー、またのお越しをお待ちしております」
店員の明るい声と、来た時と同じ「カランカラン」というドアベルの音が見送ってくれる。俺達は店員に会釈してから、駅までの道を歩き出した。
いつの間にか空は青と赤が混ざり合う夕焼け空になっている。入る時はあんなに暑かった気温も、もうすぐ訪れる夜を迎えるために、ぐっと落ち着いたみたいで、ずいぶん長い間、あの店に居たんだな、とそんな事を思った。いつの間にかあの店が嫌いじゃなくなっている自分がいて、少し驚いた気分にもなる。
まぁ、もう一人では絶対に行かないけれど。
少しあとをついてくる彼女に歩幅を合わせながら、彼女の方を見ると、視線が合う。こうすると、自然と微笑んでくれる程度には仲良くなれたかな。
今は会話もないけれど、なんとなく心地いい空気だった。
遅く歩くカップルの間をすり抜けて、すり抜けて、駅の前まで。彼女に聞くと、どうやら逆方向の電車に乗るようで、それならここでお別れかな、とお互いに券を買うと、改札の前にある少し開けた場所で最後に向き合った。
「今日は、変な事に巻き込まれたけど、なんだかんだ、面白かったな」
俺も彼女も、思わず苦笑いがこぼれる。
「ええ、それにとっても美味しかったです」
あのハート尽くしのパフェを結局一人で食べてしまった彼女。これは彼女には秘密だが、あれはどうやら二人で食べるものだったらしく、スプーン等も二組あったし、量もそれなりだった。最終的には手伝う覚悟だったが、結局一人で食べてしまったんだから、おやつは別腹、というのは案外本当なのかもしれない。
思わずこぼれる笑みに、あの味を思い出してか、うっとりしている彼女は気が付かない。
「あ、あと!」
急に表情を戻して、彼女は言葉を続けた。
「タンマツのお話、もっと教えてくださいね」
そう言って、彼女はポケットから自分のタンマツを取り出す。
実は先ほどの話の後、落ち着いて聞いてみると、彼女がタンマツを持っていることが判明した。使い方を知らないとただの鉄の板になるタンマツ。これ幸いにと実物を交えながらのタンマツ講習会となってしまった。
自分でも上手く説明した自身はないけれど、それでも彼女は一生懸命に聞いてくれて、最終的には自分の手で電話、メール、各種情報交換を俺とする事が出来た。
本当はここでもひと悶着あったのだが、これを話すのはまた別の機会になるだろう。
「うん、続きもちゃんと教えるよ。まだまだ教えてないことがたくさんあるからね」
「やった!」
別れの時が近づき、改札の方へ数歩先を進む彼女。
「…迷惑じゃなかったですか?」
不意に一転して、不安そうな表情。
「いや、俺も…その、楽しみ、だから」
照れながらも言った、本心からの言葉に、思わず優しい笑みがこぼれる。
「ホントですか!」
「うん、メール、くれたらちゃんと返事する」
「絶対、絶対! 連絡しますから、待っててくださいね!」
彼女は手を振って、改札へと歩き出した。初めて見た彼女の子供っぽい所。
「ああ、待ってる!」
そう応えて、少し恥ずかしかったが、手を振り返す。そうすると、彼女は笑顔を浮かべて、もっと強く手を振り返えしてくる。そうして、後ろ向きで歩いているとカップルにぶつかった。
恥ずかしそうに顔を赤く染め、謝っているのが遠目から見える。
そうして、もう一度だけ小さく手を振り、カップルの波の中に消えていった。
雑踏の中に消えていく、その背中を見送り終えると、なんだか振っていた手が急に恥ずかしくなって、照れ隠しにポケットに突っ込む。
自分も帰ろうと、逆方向の改札へと向かって歩き出す。
彼女の残した笑顔と、消えていく背中。
そこに一抹の寂しさを感じたけれど。
けれど、不思議と自然に信じられる。
きっと今日より明日。
俺はこの世界を受け入れられる。
その証拠に、ほら──。
ポケットの中。
手の中に収まっていた四角が世界との繋がりを示すように震えていた。
タンマツの画面に浮かぶのは教えてもらった彼女の名前。
「はい、もしもし──って、あ…メールだった…」
カップル限定!!
今回は今までと比べると、かなり長い小説になりました。
街中でカップルを見ていて、こんな世界があれば面白いなーと考え付いた作品。
構想自体は数日ですが、制作は2~3カ月かかってます。
特に前半はかなり推敲してあるので、読みやすい文章になっているといいなぁ。
特に詰まったのは後半、女の子と出会ってからの展開ですね
照れる二人を動かすのは本当に疲れた…。
だから最後は少し強引な動かし方をしていて、後半になるにつれて、
ちょっとつまんなくなってる、かも?
まぁ、ネタを提供してくれた、店員とおばあちゃんに感謝です。
ちなみにこの二人が大好きです。
この後実は、さらにネタがあるんですが、今回はここまで。
楽しい作品これからもどんどん書けるといいな。