Mujer en la ladera 邦題 坂の上の女性
坂の上で出会った女性。
美とは・・見た目だけでなく・・心根の美・・今最も世に欠けているものと言えそうだ・・。
梅雨も明けないのに暑い日が続くのは年にもよる。陽が斜めに傾いた頃、夕涼みと思い散歩に出かけた。
その辺りは、昔から立派なお屋敷が多いが、時々こんな路地裏を見掛ける。
玉砂利を敷き詰めたような路地を歩くとサクサクと音がし、両側の塀に反響している。
路地裏を抜けると、坂道に出る。其の坂道を上がるようにして頂上付近まで。
散歩をする様になってから、或る日こんな事があった。
坂道を上がっていた時、前を歩いていた女性がバランスを崩す様に立ち止まった。
鼻緒が切れたようだ。幸田郁夫は、女性に声を掛け、腰から下げていた手ぬぐいを手に取ると、口で縦に裂き細紐を作る。
女性を道端の切り株に腰掛けさせると、切れた鼻緒の代わりに紐を下駄に通し鼻緒を作った。
女性は、「申し訳ありません・・」と、早速、下駄に足を・・。
郁夫が「困ったときはお互い様・・」と、笑顔で女性の着物の裾から其の面に視線を流すと、幾らか首を傾げたような面(おもて)が微笑んでいる。
其の笑顔に目を遣った郁夫は・・改めて暫し女性の眼(まなこ)を見つめる。
一陣の涼風が駆け抜けたような、すっとした端正な顔立ちの女性だ。
其れから坂道を二人並んで歩き登り始める。着物の柄が、女性の美しさを一層引き立たせているようだ。
坂の頂上で別れる。
其処が女性の家のようなのだろうと思う。
郁夫は借家住まいで、時々物書きをしたりしている。
以前は勤めがあったのだが、身体を壊しそんな事になった。
知人はいないから、買い物の帰りに近所の人達と言葉を交わすくらいが他人との交流の場だ。
或る日、其の中で初老の女性と話をしている内に、隣り町の話が出た。
何でもその女性は若かりしころ、隣町に店を出していたという。
店とは、茶屋のようで駄菓子なども店内に並べていた様で、男女や子供まで様々な客が訪れていたという。
隣町までは歩いてもニ十分足らずで、瓢箪池が隣町の始まりにあり、女性は其の池の畔で店を営んでいた。
其処から先は旦那衆が住むお屋敷町と少し離れたところに花街があり、置屋や料亭が軒を連ねている。
茶屋の客の内訳はといえば、お屋敷の住民や花街に出入りする人達も其のうちで、一時は随分賑わっていた。
其れが、花街が、法律改正により或る規制がされる様になってからは縮小され、客足が遠のくと共にやむなく人手に渡したと。
郁夫も、其の茶屋の事は見知っている。散歩の途中で何度か寄った事があったから。
池を目の前にした茶屋は、お屋敷の住民とまだ存在する料亭などに出入りする人達で、客層は変わっても、独特の風情を残している。
要は、売春禁止法の施行に寄り、遊女の類の商売が禁止されたので、客は単にお座敷遊びを楽しみにする者や料理を味わう者達だけに代わっても未だ営業を続けているという事。
茶屋の経営はお金持ちのお屋敷の住民が片手間にやっており、半分は道楽のようなものだと聞いている。
郁夫は今日も散歩がてら立ち寄った茶屋で休憩をしていた。
店主から店を任されているのは、雇われ者の若い女性。
やはりこんな店でも、女性の方が愛想が良いからと客の受けが良いせいなのかも知れない。
其の女性と何回か話しを交わすうちに、池の前の道を真っ直ぐ歩いたところにある坂道の話が出た。
女性は、其の坂道を通り抜け茶屋まで通って来ているという。
郁夫は其れを聞いた時に、何時かの女性の話を口にしてみた。
というのも、あれから郁夫は週に何回か散歩がてら同じ道を歩いているのだが、同じ女性の姿を見掛けた事は無い。
郁夫は、あの女性との出会いは、あの時だけの偶然では無かったのかと思うようになった。
茶屋を切り盛りしている女性の住まいは、其の坂道から十分ほどの距離のところにあるそうで、同じ町内ではないだろうかという。
其処で、それとなくあの時の女性の風体を説明してみた。
「・・抜けるほど白いうなじが・・」
更に付け加えて説明しようとした顔を表現する事は、同じ女性同士でもあり、何か言いにくいような気がした。
其の程度話しただけではおそらく何も分からないだろうと思ったのだが、意外にも彼女は感を働かせてくれた様で、少ない情報であるのにその女性の宛がつくと。
彼女が言うには、其の女性に間違い無ければ、年輩の男性と一緒にしているところを見掛けたそうだ。
同じ町内の住民の見立てでは、旦那ではないかという事の様で、家から出る事は殆ど無さそうだから、日焼けをしないのだという噂があるという。
其れが、旦那はお屋敷町の住民の様で、住まいからその家までそれ程遠くも無いのだが、隣近所の手前を憚ってか、或いは年甲斐もなくと言われるのを気遣うからなのか、家に呼ばずにわざわざ通って来ているとの事。
郁夫は彼女の話に少し立ち入ることにし、其れでは旦那に妻御はいるのだろうかと尋ねると、かなり前に亡くなった様だという。
彼女からすれば、其の女性が若い身空で何か可哀想な気もするが、金銭等で何か訳がありそうなったのではという。
郁夫は、其れを聞きどういう訳なのかと考える一方、やや自分の考えていた女性像と異なるような気もした。
しかし、片や、あの女性の訳やらがどうであろうと関係ないとも思う。
郁夫は物書きを始める以前、役所に勤めており福祉課という部署に所属していた。
その当時の記憶では、金銭が絡んでいるという様な訳がある世帯も無い事は無かったが今では少ないのではと。
其れに物書きをやるようになってからは、一層その類の物語など書きたくはないと思うようになる。
思わず、森鴎外の「雁」という作品を脳裏に浮かべていた。
高利貸の男の妾になっている女性と学生との短い出来事を思い出した。
あの話のようなら、囲われの身のままで本妻ではない事になり憐れを感ぜざるを得ない。
其の日もあの家の前の坂道を上がった。家の中までは見えないが、想像をしてみれば息を凝らす程じっとしている様に思えたりもする。
一体、どういう訳なのか、やはり本妻ではなく囲われの身・・など考える。
郁夫の散歩コースは、お屋敷町を抜けてから路地裏を抜け坂道に至る。
そしてあの家の前を過ぎてから坂道を下った辺りで、瓢箪池の前の茶屋に着く。
其の日も茶屋で休憩をした。先日の彼女は、郁夫の事を前回よりは親しく感じたようで、近付いて来ると話し掛けた。
「あの・・以前お客さんが話していた女性ですけれど、旦那さんがお亡くなりになったようです。夏の暑い日に、あの急な坂道で倒れたそうで、其のまま・・という事です。其れで、町内で少しは訳を知っている人達の間で、女性は住人がいなくなったお屋敷に移るのでは?という噂も出ている様で、そうするとやはり奥さんだった事にしてあったのかしら?」
其の話を聞く限り、郁夫には二通りに考えられた。
「本妻にするとの約束でもあれば、お屋敷の奥さんである事は間違いは無いのだが、家などの資産を継ぐとなると?しかし、役所勤め当時の経験からすれば、資産を相続する者としては親族や子供達がいたりし、財産争いがある事も少なく無かったのだが?」
其れから暫くし、郁夫は偶然散歩の途中、あの女性に会う事があった。
男性の死の後、気分が変わり表に出てみようと考えたのかも知れない。
其れは兎も角、女性はあの時の事を覚えているようだった。
以前の状況での印象から、別段郁夫に此れといった警戒心など持ち合わせていよう筈も無い。
二人並び坂道を下り、茶屋に着いたところで話をした。
茶屋の彼女も聞き耳を立てる様子は無かったが、単なるお客さんだからと思っているに過ぎないのかも知れない。
其れから、偶然ではなく気兼ねなく顔を合わせる事が増えていった。
「何か、ご不幸が?で、お屋敷に住まわれるのですか?」
既に二人の間には、そういう事を聞けるような極自然な会話が生まれていて、北川茜の表情からも。
「あの方も、無理をしたらいけないとお医者から言われていた様で、其れでもどうしてなんでしょうか?時折通って来られたのは?」
郁夫は、其れは其の男性は老齢にも拘わらず、茜の顔を見たかったのかも知れない。
そんなに好意を持たれていたのであれば、やはりお屋敷の住民となるのか?と思う。
更に或る時の事。
茜が郁夫と茶屋で会うのではなく、坂道の上の家に誘ってくれたことがあった。
郁夫は、此の家で何かが?と思うが、茜は郁夫の疑問などとんと考えていないようで、お茶を入れてくれながら微笑む。
「貴方、何かお考え?私の貴方から受けた印象は、鼻緒の時の様に親切で清潔なままなのですが?」
其れを聞き郁夫は何か恥ずかしくなった。茶を頂き美味しいと思った時、あやふやな考えは消えていた。
「つまり、此の美味しいお茶を旦那さんも喜んで飲んだという事でしょう。きっと寂しかったのかも知れない?」
更に茜は郁夫の眼に視線を移すと続けて話しをした。
「あのお屋敷は私には似合わないと思うのです。其れに・・ご親族の方などおられるし、何か相続とか何とかの順番のようなものがあるというのですが、私には無縁の事でと・・」
其れを聞いた時、郁夫には役所に勤務していた当時の事が思い出された。
相続で最優先順位とは、子供がいなければ妻に帰属するという事を。
其れなのに茜はすべてを放棄すると言っている。
郁夫は、此処のところ何度も茜に会っている内に、改めて茜の魅力というものはその美しさだけにあらずと。
そんな茜に以前よりも一層惹かれていく自分を感じた。
彼女は此の家も出ると言う。
想い出とは時に哀しいものだと言う。
其れを聞いた時、郁夫は茜は一体何を考え、詰まるところ何も望んでいないのでは?そう思ったりし始めていた。
茜は、家を出る際に、郁夫に一つだけ想い出を持って行きますと言う。
「・・此れ、覚えてます?貴方が結んでくれた鼻緒ですが、左右の色が違うから履く事は無かったんです。
でも、捨てたくはないんです。人の気持ちってそんな細やかなものでは無いでしょうか?」
其の言葉から、郁夫は茜の優しさを改めて感じると共に、きっとあの老人も同じ様に茜のそういう心根を味わいたく、同時に高齢の身だからこそ余計に嬉しかったのであろう事に間違いが無いのだと気が付いた。
茜と郁夫は共に住む事になった。
借家でも、当座は仕方がないかなと思う。
只、前の借家からは引っ越す事にした。
茜の希望する、茜の想い出はあるにせよ・・其れは大事にしたまま別の街に引っ越す事にした。
引越しも終わった頃、郁夫は思う。
此の細やかな心根が感じられる茜といられるなど素晴らしい事だと。
そして、此れから書き始めている物語は茜の記憶の心理描写を書く事により、あの男性にも手向け(たむけ)が出来るというもの。
茜は、永遠(とわ)に美しいheroineだ。
物語の骨子(こっし)は既にできているも同じ。
只、筆を持つ栄誉を与えられた自分が物語を工夫し展開させていく。
その事は聊(いささ)か難しいとも言えるのだが、そんな事に怖気(おじけ)ずに素晴らしい物語にしたいと思う。
茜と一緒に買い物に出た時、郁夫は茜に問うた。
「あの鼻緒だけれど、僕が同じ色に付け替えてもいいかな?僕が君にしてあげられる事、気持ちはそれくらい。後は君の物語を順調に書いて行くと言う事。裸一貫で飛び出した君を大事にするには・・頑張らなくては。物書きだけで足りない分は働くよ」
茜は、美しい顔に微笑みを付け加えると。
「其れは嬉しいけれど、自分の身体の事も考えてね?今度は貴方にもしもの事があったりすれば、私、どうする?私も久し振りに働くわ。着物の関係のお仕事なら何とかなるでしょう?」
「其れは・・君なら、着物姿も素晴らしいmodelに十分過ぎると言ってもいいだろう」
案の定、茜の器量と心根が運を呼び寄せたようで、彼方此方から声が掛かる。
modelとし美しい星になっていく。
丁度始まったTV放送にも彼女の姿が見られるようになった。
其れは・・写真のmodel・・そして絵画のmodelと・・。
そんな中、茜に記者がinterviewを。
「貴女の美しさは本物ですが?姿形だけでは無い様な・・?」
茜は郁夫に目を遣ると。
「美しさとは見た目では無いと。見えない心の中にもあるのでは無いでしょうか?此の人とこうなるきっかけも、たった、一つの親切心だったんですよ?其れと・・もう一つの大事な心が喜んでくれた事も励みになりました」
記者は二人の顔を交互に見ながら。
「そうですね。素晴らしい。近頃、世の中に欠けてきたもの・・其れですよ。此れもスクープです・・正(まさ)しく・・」
或る意味、美しさが尋常でない茜。
二人を照らし出している月も星も呟く。
「美しさでは敵わないかな?たかが人類というだけに過ぎない彼女・・って?」
月は柔らかな光を惜しげもなく放ち、星は様々な色に煌めき出している。
それぞれが、精一杯の美しさを醸し出していた・・。
「人間の目的は、生まれた本人が本人自身に作ったものでなければならない。夏目漱石」
「運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑に生まれたものではない。芥川龍之介」
「幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない。求めて得られるものは幸福にあらずして快楽なり。志賀直哉」
「by europe123 Atmosphere」
https://youtu.be/ItfFsmBmeOE
Mujer en la ladera 邦題 坂の上の女性
何か気を引く美しい彼女。