ルルシィ・エイプリル
森の魔女
この街から程近い所にある、小さな森。
そこには怖い魔女が住んでいて、森に入ってきた人間に、なにか恐ろしいことをするんだとか――。
もうずいぶん長い間、街の人々の間では、そんな言い伝えがまことしやかに囁かれています。
「もう、失礼しちゃう。私、そんなに怖い顔してないわ!」
その森の、一番深いところ。街の人間は誰も立ち入らない奥の方に、ひっそりと小さな家が建っていました。
ルルシィ・エイプリルは、そんな家にたった1人で住んでいる、魔女の子です。
「全部お師匠様のせいなんだから! あの人の人間嫌いは本当に酷かったわ」
マシュマロのように頬を膨らませ、ルルシィは懐かしい記憶に思いを馳せました。彼女のお師匠様は何年か前に亡くなっていましたが、その魔女らしい性格のせいか、息を引き取る直前まで意地の悪い顔で笑っていたせいか、ルルシィはあまり寂しいとは感じていません。寂しさよりも先に、お小言が出てきてしまいますから。
お師匠様は人間を毛嫌いしていましたが、ルルシィはむしろ人間を好ましく思っていました。価値観も、なにもかもが違う彼らの行動には、いつも興味津々なのです。
ルルシィは鏡の前に立つと、スカートのシワをはたいて伸ばしました。淡いピンク色の髪の毛はいつも通りクリンとカールして決まっていますし、目はぱちりと大きく、快活なルルシィの性格をよく表しています。宇宙のような幻想的な青い瞳は、ルルシィの自慢の1つです。
紺一色の服は少し地味ですが、ふわりとしたスカートのラインは、とっても気に入っていました。同じ色のとんがり帽子をかぶれば、どこからどう見ても可愛らしい魔女の子です。
「よし、完璧」
鏡の中の自分に1つウインクをして、ルルシィは扉を開けました。一面の木々と、きらきらと美しい星空が目に飛び込んできます。街からはこんなに美しい夜空は見られませんから、ルルシィは人間と同じくらい、この森も大好きでした。
「さて、今日は何をしようかな」
空をスキップしながら、ルルシィは上機嫌に鼻唄を歌いました。今から向かうのは人間が住む街です。
ルルシィは、人間が大好きです。価値観も、なにもかもが違う彼らの行動には、いつも興味津々なのです。そしてなにより、彼らが驚いたときの反応は、ルルシィをうんと楽しくさせてくれます。
だからつまり。
魔女の子ルルシィ・エイプリルは――人間にいたずらを仕掛けるのがとびきり大好きな、女の子なのでした。
最初のうちは、人間と関わりを持ちたくて始めたことでした。ですから時々いたずらをして、時々は人助けをして、毎日を過ごしていました。けれどルルシィは、人から感謝されることよりも楽しくて面白いことの方が好きでしたので、今となってはすっかりいたずらばかりするようになっています。もちろん、本当に困っている人がいれば助けるつもりはありますが。
嘘をついてみたり、他人に化けて騙してみたり、あるいは単に背後から忍び寄ってビックリさせてみたり。ルルシィのいたずらは多岐にわたります。特にルルシィは嘘をつくのが上手で、この街に何人かいる人間の知り合いには、時々「嘘つきルルシィ」と揶揄されるほどです。嘘をつくのが上手なのは認めますが、その呼び方がルルシィはあまり好きではありません。
「どのへんがいいかなあ」
ルルシィは上空から、眼下の街を見回しました。いつもこうして人間を探しながら、一体どんないたずらを仕掛けてやろうかと考えを巡らせるのです。
普段ならば道を歩いている人や適当な民家に目星をつけるのですが、この日ルルシィの目に留まったのは、少しだけ違う建物でした。白くて、他の家よりもずっと大きな建物です。実のところルルシィはこの建物が苦手で、今まで避けていました。時々とっても悲しい気配が、この建物からするのです。
けれども今日は、その建物の中に人影を見つけました。いつもはこの時間になるとしいんと静まっているその建物で、眠りもせずに佇んでいるその人間が、ルルシィはとっても気にかかりました。
いたずらを仕掛けに来たのだということも忘れ、ルルシィはその人影にふわふわと近づきました。ルルシィと同じ年ほどの、華奢な男の子が窓辺に立っています。その男の子はルルシィの存在に気が付くと、それはもう驚いたような顔をしました。
コンコン、と窓ガラスをノックすると、男の子は慌てたように窓を開きます。
「こんばんは。ねえ、あなた、ここで何をしているの?」
「なにって、なにも。眠れなくて、ボーッとしていたんだ。君こそ、何をしているの?そ、その……空に浮いて」
「ちょっと遊びに来たのよ。それに魔女だもの、空くらい浮くわ」
男の子は、へえ、と感心したような声をあげます。ルルシィはそれで、すっかり得意気になってしまいました。
「僕、魔女って初めて見たなあ」
「そりゃそうよ。森には私とお師匠様しか、魔女はいなかったもの」
「君、森から来たの!」
男の子はうんとビックリした様子でしたので、ルルシィは戸惑いました。何にそんなに驚いているのか、分からなかったのです。しかし次の男の子の言葉で、ルルシィはすっかり、分かってしまいました。
「森には怖い魔女がいるって、みんな言うよ。パパもママも、看護師さんも」
この誤解を解かなくてはいけないと、ルルシィは思います。窓の縁に手をつくと、ずい、と身を乗り出しました。ビックリした男の子は、少しだけ後ずさります。
「それね、全部嘘よ。確かにお師匠様は人間が好きじゃなかったから、少し怖いこともしたかもしれないけど。私は怖い魔女なんかじゃないわ!」
ルルシィのすることと言えば、せいぜい後腐れのない嘘を言うことと、可愛らしいいたずらくらいです。それだけで怖い魔女と称されるのは、納得がいきませんでした。
それになにより、大好きな人間に恐れられることが、ルルシィはたまらなく嫌だったのです。
「ご、ごめんね。みんなが言うようなのと違って、ちょっとビックリしただけなんだ。君を見て怖い魔女だと思った訳じゃないよ。だって、こんなに可愛いもの」
男の子は困ったように笑うと、数歩下がってベッドに腰掛けました。それから、ルルシィに向かって手を差し出します。
「僕はアビー。アビー・ウィルビー。もしよかったら、中で僕とお話ししない?そこに浮いてたら寒いでしょ、もう葉っぱが落ちる季節だもの」
「ううん、確かに……」
ルルシィはぶるりと震えました。そろそろコートを着てくるべきだったかしら、と少し反省します。けれどあのコートを着ると、ふんわりとしたスカートが見えなくなってしまうので、なるべく着たくなかったのです。
「そうねえ、じゃあ、お邪魔しようかしら」
「うん、是非そうして。僕、ちょうど話し相手が欲しかったんだ」
「それは確かにちょうどいいわね……ああそうだわ、言い忘れてた!」
窓の枠を乗り越える途中、ルルシィが突然声をあげるものですから、アビーはぴくりと肩を震わせました。一体なにを言い忘れていたのでしょう。
「私の名前、ルルシィよ。ルルシィ・エイプリル。よろしくね」
それから二人はいろいろな話をしました。ルルシィが今までしてきたいたずらの数々や、お師匠様の話、アビーのパパとママの話、隣の部屋にいるお兄さんの話――。
森以外の暮らしを知らないルルシィにとって、アビーの話はどれも新しく、面白いものでした。それはアビーにとっても同じだったようで、ルルシィの話を、目を輝かせながら聞いてくれます。ルルシィは、とっても嬉しくなりました。
「ねえ、アビー。あなたどうしてこんな所にいるの? パパもママもいるのに、一緒に暮らしていないの?」
ふと気になったので、ルルシィはそう尋ねます。するとアビーは悲しそうな顔をしました。どうしてそんな顔をするのか、ルルシィには分かりません。
「……僕、酷い病気なんだ。心臓が悪いんだって。だから入院してるんだ」
「入院?」
「この建物――病院で暮らすことだよ。なにかあっても、すぐに治療ができるようにって」
「そうなの……」
「僕、外にもあんまり出られないから、友達もいなくて。だからルルシィが来てくれて、本当に嬉しいんだ」
「その病気、治るの?」
「……分からない。でも今までに治った人はいないって」
アビーはやっぱり、悲しそうな顔で笑っています。ルルシィはようやく、この建物から時々とても悲しい気配がする理由が分かりました。ルルシィ自身も今、とっても悲しい気持ちでしたから。
「決めたわ!」
「え?」
「アビーの病気、私が治してあげる!」
ルルシィは勢いよくベッドから立ち上がると、アビーを見下ろして宣言しました。アビーはぽかんとした顔をしています。
「魔法にできないことなんて、ないんだから!」
これはお師匠様の受け売りです。けれどルルシィもそう思っていました。それに今日アビーに出会ったのは偶然などではないと、ルルシィは思うのです。
だからルルシィがそう言ったのは、魔女としての意地のようなものでした。
「……うん。楽しみにしてるね」
けれどもアビーは、やっぱり悲しそうに笑うだけだったのです。
はじめての友達
それからルルシィは急いで森の家に帰り、お師匠様が使っていた書斎に引きこもりました。両側の壁一面が本棚になっていて、扉と反対側の窓際に机が置いてあるだけの、簡単な書斎です。けれども本の量は数え切れないほどで、本棚に収まりきらない本が、いくつも床にうず高く積まれていました。
簡単な風邪や傷を治す呪文は、ルルシィも知っています。けれども心臓の病気を治す魔法となると、ルルシィは見たことも聞いたこともありませんでした。どうかこの本の中にありますように、とルルシィは願いました。この書斎の本の中になければ、ルルシィにはもうどうすることもできません。
ルルシィは本棚の端の本を手に取ると、一心不乱に読み始めました。なるべく早く、しかし見落とさないように丁寧に。そうやって本を読み進めるのは、思いの外大変な作業でした。これは時間がかかりそうだわ、とルルシィは難しい顔をします。
それからルルシィは一日中本を読みふけり、夜になると時々アビーの元へ遊びに行く生活を続けました。以前よりずっと忙しくなり、他の人間にいたずらを仕掛ける時間なんて取れませんでしたが、ルルシィは気にしませんでした。アビーの病気を治すことが、今のルルシィにとって一番大事なことですから。
それに何より、アビーと話す時間の方が、ルルシィにとってはいたずらよりもずっと楽しいのです。
「あら、その本は?」
アビーの病室を訪れたある日のことです。アビーが見慣れない、大きな本を持っていました。月明りだけが頼りの夜の病室でしたから、文字はあまり見えませんでしたが、濃紺の表紙には一面に星が描かれています。
「今日、ママが持ってきてくれたんだ」
そう囁くと、アビーは大事そうにそうっとその表紙を撫でました。
「僕ね、星が好きなんだけど、外には出られないから。この窓からじゃよく見えないなって残念に思ってたら、ママがね、気付いてくれたの」
「へえ!」
ルルシィも星を見るのが大好きです。 ほら、とアビーが見せてくれたページには、一面の大きな星空が描かれていました。
「わあ、綺麗な本ね」
「うん。……でも、やっぱり本物の星空が見たいなあ」
弱々しく呟かれた言葉に、ルルシィは首を傾げます。森で見る星空ほどではありませんが、この病院の屋上からでも、星を見ることはできますから。
「じゃあ、一緒に見に行きましょうよ。屋上に」
「ええっ、駄目だよ。夜に部屋を出ると看護師さんに怒られちゃうよ。ママにも迷惑がかかるし」
「大丈夫よ、見つかりっこないわ。明日、誰かに何か言われても、『ずっと部屋で寝てました』って言えばいいのよ」
「でも、嘘なんてつけないよ……それに階段上ったりすると発作が起こるかもしれないし……」
ふむ、とルルシィは考えます。どうにかしてアビーに星空を見せてあげたいと、もうそれしか考えていませんでした。窓から見る四角い星空ではなく、大きな大きな、見上げても視界に収まりきらないものを。
「分かったわ。アビー、あなたに魔法をかけてあげる。目を閉じて、私に掴まってるだけでいいわ。それならあなた、自分の足では病室を一歩も出てないでしょ?」
「でも……」
「おっきな星空、見たくないの?」
極めつけにルルシィがそう言えば、アビーは言葉につまってしまったようでした。必死に言い訳を考えているようで、あー、とか、うー、とかいう唸り声が、時々聞こえてきます。
けれども最終的には、自分の欲望に負けたようでした。
「……お願いします……」
不本意そうな顔で手を伸ばしてくるのが面白くて、ルルシィは声を立てて笑ってしまいました。アビーが「静かにしてよ! ばれちゃう!」と慌てるのが余計に面白かったのですが、ルルシィの存在が他の人間に知られるのは確かに良くないので、素直に謝ります。ルルシィはばれても構わないのですが、きっとアビーがいろんな大人に怒られてしまいますから。
「じゃあ、目を閉じて。捕まっててね。離しちゃ駄目よ」
アビーは必要以上にギュッと目を閉じ、ルルシィの手をきつく握りました。アビーにとっては初めての魔法ですから、緊張しているのかもしれないな、とルルシィは思います。
ルルシィも目を閉じ、頭の中で術式と移動先を思い浮かべます。そして目を開くと、もうそこは屋上でした。
「アビー、終わったわ。もう目を開けていいわよ」
「えっ!? でもルルシィ、何にもしてないじゃない!」
驚いたように言いながら、アビーも目を開けます。しばらく半信半疑といった様子で辺りを見回していましたが、すぐに感心した様子で呟きました。
「魔法って、凄いんだね……」
「あら、ありがとう」
そんなアビーの様子がおかしくて、ルルシィはクスクスと笑います。それを少しムッとした様子でアビーが見ていたので、ルルシィは上を指差しました。
「そんなことより、ほら」
指差した先には、本や窓から見るよりも、ずっと壮大で幻想的な夜空が広がっています。うわあ、と声をあげたアビーは、端の柵まで駆け寄りました。かと思えば、反対側の端まで行ってみたり、柵にそって歩きながら、空を見上げたりしています。
最後にアビーは、屋上の真ん中に寝そべりました。ルルシィも近寄り、上から覗き込みます。
「……すごいや。星ってこんなに綺麗なんだ」
アビーは、泣いていました。
「アビー、どうしたの?どこか痛いの?」
「違う、違うよ」
「あ! さっき走ったりしたから……」
「違うんだ、嬉しいんだよ」
そう言ってアビーは、下手くそな顔で笑いました。そこでようやくルルシィは、普段アビーがどれほど本音を隠して生きているのか気付いたのです。
やりたいことも、誰にも何も言わなかったのでしょう。言えば迷惑がかかってしまうと思ったのかも知れません。
けれどもルルシィは、それを自分にだけ言ってくれたのが、とっても嬉しいと思いました。
ルルシィも、アビーの隣で寝そべります。ふと、前にアビーが、友達がいないと言っていたのを思い出しました。
「ありがとう、ルルシィ。僕の願いを叶えてくれて」
「……そんなの、友達だもん。当然でしょ」
うんと照れくさい気持ちになりながら、ルルシィはそう伝えます。けれどもアビーからなんの返事も返ってきません。不安になって、隣に顔を向けました。
すると、やっぱりアビーは、泣きそうな下手くそな顔で、笑っていたのです。
この不器用な友達のためならなんでもしようと、ルルシィはひっそり思いました。
少年の絶望を知る
病気を治す魔法探しは、なかなかうまくいっていません。もうほとんどの本を読んでしまって、残すところあと僅かなのですが、それらしい魔法が全く見当たらないのです。軽い風邪を治す魔法や、ちょっとした発作を一時的に鎮める魔法なんかなら、何度も見かけたのですが。
もうこのまま見つからないんじゃないか、という考えが頭をもたげて、慌てて首を振ります。絶対に見つけると決めたのですから、弱音なんて吐いていられません。
それに今からアビーに会いに行くのです。暗い顔をしていては心配させてしまいます。
今日アビーに話すことを考えながら、ルルシィは待ちきれない様子で笑みをこぼしました。最近は、アビーに会うのが楽しみで仕方がありません。
ふわふわと病室の窓に近付きます。ルルシィは「あれ」と思いました。いつもならルルシィが近くに行くだけで開けられる窓が、固く閉じたままなのです。
不思議に思い、窓をノックしてみようと更に近付きます。けれども次の瞬間、ルルシィは息を飲みました。月明かりに照らされた部屋のベッドに、アビーが苦しそうに横たわっているのです。
「アビー!」
ルルシィは直ぐにすり抜けの魔法で中に入り、アビーのベッドの横に駆け寄りました。呼吸が乱れ、酷く汗をかいています。
なんとかしなくちゃ、とルルシィは思いました。幸い発作を鎮める魔法はさっきまで頭に浮かべていましたから、すぐに思い至りました。
魔法を使うと、アビーの呼吸はさっきよりずいぶん安定しました。そのまま隣で様子をうかがいます。
「ルルシィ……?」
アビーの口から、囁きのような声が漏れました。今まで聞いたことがないような、か細い声です。
「アビー!? 大丈夫なの、苦しいところは?」
「うん、もう平気……」
胸を大きく上下させながら呼吸をするアビーは、とても痛々しく見えました。アビーは微かに微笑んで見せましたが、ルルシィの不安は消えません。
「よくあるんだ、気にしないで……」
「でも」
「……今日ね、聞いちゃったんだ」
アビーは、ルルシィに向けていた視線を、天井へと逸らしました。その目の端から、つう、と涙がこぼれ落ちます。
「僕、大人になれないんだって」
「えっ……」
「大人になる前に、死んじゃうんだって」
ルルシィはその言葉に、なんと返せばいいのか分かりません。天井を見つめたままのアビーは、涙を流したっきり、何の表情も浮かべていませんでした。
「怖い、怖いんだよ……」
「……大丈夫よ、私が治すもの」
「無理だよ、誰にも治せないってみんな言ってる! どんなにすごいなお医者さんでも無理だって……!」
突然声を荒げたアビーは、そのまま咳き込んでしまいました。横を向いたアビーの背中を擦りながら、でも、とルルシィは言います。
「魔法にできないことなんてないのよ。約束するわ、アビー。どんなことをしてでも、あなたの病気を治してみせる」
けれどアビーは、うわ言のように、無理だと呟くだけでした。
泣き虫魔女と
家に帰ってから、ルルシィは残っていた本を全て読み漁りました。けれどどこにも病気を治す魔法は載っていません。次の手を考えなければ。ルルシィは顔をしかめ、難しい顔をします。悠長に構えてはいられないというのは、昨日のアビーの様子から嫌というほど分かりました。
けれども他にどうしようもないというのも、正直なところでした。魔女や魔法使いの知り合いでもいれば良かったのでしょうが、あいにくルルシィの知り合いにそんな人、お師匠様以外いません。
次の日、ルルシィは沈んだ気持ちで街にやって来ました。まだ日は高く、アビーに会いに行く時間ではありません。今日ルルシィは、顔馴染みの人間のお店に買い物に来たのです。
道中の広場で、子供たちが走り回っているのが見えました。見たところ、ルルシィやアビーと同い年くらいの子供たちです。楽しそうに笑いながら、遊んでいました。
本当ならアビーもあそこに混ざっていたのでしょうか。そう考えると、ルルシィはとても悔しい気持ちになりました。
どうしてアビーだけが、あんな辛い目に逢わなければならないのか、ルルシィには分かりません。何も悪いことなんてしていないのに。悪いことなら、ルルシィの方がよっぽどたくさんしています。
「はあ……」
「なあに、ルルシィ。元気の塊みたいなあなたがため息だなんて、珍しいこともあるものねえ」
「なによ、私にだって悩みくらいあるわ」
少しきつい顔立ちの女店主は、反省した様子もなく「あら、ごめんなさい」と笑いました。
「ところで、なにをそんなに悩んでいるのかしら。お姉さんに話してみなさいな」
先ほどとはうって変わって優しそうに笑う店主に、ルルシィは泣きそうになりました。どのみちルルシィ一人では、もう手詰まりです。相談してみるのも悪くないかもしれない、とルルシィは口を開きました。
友達が酷い心臓の病気であること。
それをなんとしても治してあげたいこと。
けれども唯一のあてだったお師匠様の書斎には、そんな魔法が書いてある本はなかったこと。
全部全部、話しました。途中でルルシィは悲しくなってきて、思わず泣いてしまいました。アビーは毎日苦しい思いをして病気と戦っているのに、ルルシィにできることはなにもないのです。
「よし、よし。泣かないでルルシィ。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
「ううっ、でも、もうどうしたらいいか、分からなくて」
「……ねえルルシィ。その書斎の本は、本当に全部読んだの?」
女店主が、不思議なことを言い出しました。本棚の本は全部順番に読みましたし、積まれている本も残さず読みました。間違いなくあの部屋の本は全て読んでいます。
「よ、読んだわ! 読んだわよ!」
だからこそ、もう打つ手がなくてこんなにも悲しいのですから。
「ルルシィ。あなた、前に自分で言ってたでしょう。お師匠様が絶対に読ませてくれない本があるって。危険だからって、私がきっと見つけられないところに隠してあるんだって」
「……あ!」
「それも、読んだの?」
「読んでない……」
ルルシィは呆然と呟きました。お師匠様が亡くなって以来、その本の存在をすっかり忘れていたのです。
「私、探してみる!」
「そうね、それがいいわ」
「ありがとう、本当にありがとう!」
女店主が差し出した紙袋を受け取ると、ルルシィはお金を渡すや否や、駆け出しました。後ろから、「頑張ってね!」という声が聞こえます。ルルシィはすっかり元気になって、森の家まで立ち止まらずに走り続けました。
書斎に駆け込むと、怪しそうな場所を思いつく限りすべて探し始めます。
まず本棚の本を全部床にひっくり返しました。けれども足の踏み場がなくなっただけで、特に何も見つかりません。
本棚の後ろ側を覗いてみました。重たい本棚はぴったりと壁にくっついていましたから、動かさなければ後ろ側を見ることができません。一人で動かすのは骨の折れる作業でしたが、魔法も使って何とか移動させます。けれど何もありませんでした。
机の引き出しの裏側も、天井に付いた照明の裏も、書斎以外の場所も、全部全部探しました。けれどもどこにもありませんでした。
気が付くと、ルルシィは家中探し回りながら泣いていました。もうどこにも心当たりがありません。さっきまでの悲しい気持ちが帰ってきます。物という物をひっくり返した部屋の中で、ルルシィは座り込んでわんわん泣きました。こんなことなら、お師匠様にもっとちゃんと魔法を習っておけばよかったと、今更後悔ばかりが募ります。面倒くさがってサボったり逃げ出したりしないで、ちゃんといろんな魔法のことを聞いておけばよかったと。
扉をノックする音が聞こえてきたのは、そんな時でした。
けれどもルルシィは泣くことに忙しかったものですから、その音には気が付きません。何度かノックの音が続きましたが、最後にはルルシィが答える前に、扉の方が開いてしまいました。急いで帰ってきたので、鍵を閉めるのを忘れていたのです。
「うおっ、ひでえ部屋だな」
大人の男の声がして、ようやくルルシィは誰かが訪ねてきたことに気が付きました。涙に濡れた顔のまま、玄関の方を見上げます。時々すん、と鼻をすする音が響きました。
「よう嬢ちゃん。ここに偏屈な婆さんが住んでなかったか?」
そう言いながらドアから顔を覗かせたのは、大柄で無骨な、知らない男でした。
見知らぬ訪問者
「ばあさん……? お師匠様のこと?」
「へえ、嬢ちゃん、あの婆さんの弟子なのか」
男はどうにか足場を見つけながらルルシィの前までやってくると、しゃがみ込んで目線を合わせます。それから、人のよさそうな顔でくしゃりと笑いました。
「あの人が死んだってんで墓参りにでも、と思ったんだが……こんな可愛い嬢ちゃん残してくたばっちまうたあ、相変わらず嫌な婆さんだな」
男はごつごつした手で、ルルシィのクリクリの髪の毛を掻き回しました。撫でるとは表現できないような荒っぽい手つきでしたが、どうしてか優しさを感じさせるものでした。
「さて。嬢ちゃんがなんで泣いてたかは知らねえが」
「なっ泣いてないもん!」
「その顔でよく言うぜ。それに外まで泣き声聞こえてたぞ」
「うう……」
「まあ、とにかくだ。部屋ァ片付けて、婆さんの墓参りして、話はそれからだな」
ルルシィは首を傾げました。話とは一体なんでしょう。男とは初対面ですから、少なくともルルシィは男と話すことなど思い当たりませんでした。
そんなルルシィの態度を察したのか、男は困ったように頭を掻きました。
「あんだけ派手に泣いてたんだ、ほっとく訳にもいかねえだろ」
男は魔法であっという間に元の部屋に戻してしまいました。その様子を見ていたルルシィは、部屋中探しまわる間あまり魔法を使わなかったことに気付きます。どこを探すにしても魔法で物をどかした方が効率がいいのに、気が動転していたのかもしれません。
「おじさん、魔法使いなの?」
「おうよ。婆さんの一番弟子だぜ。つまりお前の兄弟子だな」
ルルシィ以外にもお師匠様に弟子がいたことに、ルルシィはびっくりしました。なかなかとっつきにくい性格をしていましたし、他人とは距離を取りたがる人でしたから。
ルルシィは男をお師匠様のお墓まで案内しました。お墓は、家から少し歩いた丘の上にあります。少しでも見晴らしが良いところの方がいいと思って、ルルシィが場所を決めました。
男はお墓の前でしばらく目を閉じて黙っていましたが、少しするとルルシィの方を振り向いてお礼を言いました。
「ありがとうな、嬢ちゃん。お前さんがいなかったら、あの偏屈ババアのことだ、墓を作ってもらえることもなかったろうよ」
男は穏やかな顔で笑うと、さて、と言葉を続けます。
「今度は嬢ちゃんの番だぜ。何か悩みがあんなら、話してみな」
男が墓の前にどっかりと座るものですから、ルルシィもつられて、向かい合うようにちょこんと腰を下ろしました。お師匠様の一番弟子だったなら、ルルシィが知らないことも知っているかもしれません。
「あのね、お師匠様が隠してた本を、探してるの」
「隠してた本……? 禁書のことか? なんだってまた、そんなもんを」
「心臓が悪い友達がいるの。今までに治った人はいないって、大人になる前に死んじゃうんだって」
しばらく落ち着いていた涙が、また溢れだします。自分では何もできないまま相談ばかりしていることを、とっても悔しく思いました。
「魔法にできないことなんてないって、お師匠様言ってたから、治してあげたくてっ」
「嬢ちゃん……」
「アビーが死んじゃうの、嫌だよう」
ぐずぐず泣き続けるルルシィを、男は複雑な面持ちで見つめます。
「……婆さんが物を隠す場所は、天井裏って決まってる。直ぐに見つかるだろう」
「ほ、ほんと?」
「ああ。それにあらゆる病気を治す魔法の話も、噂には聞いたことがある。多分その禁書になら載ってるだろう。……でもな」
ふう、と男は深呼吸をすると、ルルシィの両肩を掴みました。あんまり真剣な眼差しをしているので、ルルシィは戸惑います。
「禁書に載ってる魔法が、どうして禁じられてるのか、考えたことあるか? 危険だからだよ。物や自分を浮かせたり、火を起こしたりするのとは訳が違う。人間の生死に関わる魔法ってのは、それだけで自然の理をねじ曲げるギリギリのモンだ。当然、使った側も無事じゃ済まない」
だから婆さんも隠してたんだろうよ、と苦虫を潰したような顔のまま、男は言いました。ルルシィはそれに返す言葉が浮かびません。どうして隠していたのか、どうして危険なのか、深く考えたことがなかったのです。
「嬢ちゃんはまだ幼い、未熟な魔女だ。その分リスクも増えるだろう。その魔法を使えば、友達は救われるかも知れねえが……その後嬢ちゃんがどうなるかは、俺にも想像がつかん。悪いことは言わねえ、やめとけ」
男はそういうと、難しい顔のまま立ち上がりました。そしてルルシィに向かって手を差し出します。ルルシィはそれに捕まって立ち上がりました。
「……おじさんは、この後どうするの?」
「野暮用があってな。すぐ別の街に行かにゃならん」
「そっか……」
「嬢ちゃん。俺をまた、お前さんに会わせてくれよ。これっきりなんて、勘弁だぜ」
最後に男はそう言うと、不器用に笑いながら手を振り、遠ざかっていきました。さようなら、とルルシィも手を振り返します。
最後の言葉が、男なりの「無茶をするな」という意味だったことくらい、ルルシィにだって分かります。今までアビーを助けたい一心で過ごしてきたのに、男の言葉が頭の中をぐるぐる回って、消えてくれません。アビーのために自分にできることなら何だってしようと、そう思っていたはずなのに。
胸の中にもやもやを抱えたまま、ルルシィは家に帰りました。
魔女の決意
男の言った通り、お師匠様が隠していた禁書は天井裏の柱の影にありました。ずいぶん古い本で埃も被っていましたが、開いてみればきちんと読めました。
あんなに探していた魔法も、確かにそこに載っています。
『あらゆる病を治す事ができる魔法。使用中に失敗した場合、または未熟な術者による使用の場合、使用者自身に【人から認識されなくなる呪い】がかかる場合あり。解呪方法は不明。使用手順を以下に示す――』
「人から認識されなくなる……」
パタン、と本を閉じました。魔法自体を使うことは問題なくできそうですが、ルルシィはどんなに贔屓目に見ても未熟な魔女です。十中八九、呪いにかかるでしょう。
人から認識されなくなるとはどういうことだろう、とルルシィは考えます。自分にかけるものなら透明化の魔法がありますが、あれはただ透明になるだけのものです。ルルシィもよくいたずらに使いましたが、声を出せば自分の居場所を伝えることもできましたし、認識されなくなるというほど恐ろしいものではありませんでした。
ルルシィは、書斎から呪いについての本を引っ張り出してきました。そして見つけた項目に目を走らせます。
『人から認識されなくなる呪い。基本原理は透明化の魔法と同様のため割愛。透明化の魔法と異なる点として、自身の存在を相手に知らせることが非常に困難である事が挙げられる。接触または発声は通常意味を成さない。例外として相手が事前にこの呪いについて認識し、その上で呪いを受けた者の存在を認識した場合、接触が可能となる。解呪方法は不明。』
その文章を読んだ瞬間、ルルシィはゾッとしました。つまり前もって誰かにこの呪いのことを言っておかなければ、この呪いが解けるまでずっと、いないものとして扱われるのです。声をかけても答えてもらえず、手を握っても握り返してもらえず。どうやったら呪いが解けるのか、いつ解けるのかも分からないままで。
誰かに言おう、とルルシィは思いました。街にも何人か知り合いがいますから、言えばなんとかなるのではないかと思ったのです。けれども思い直しました。呪いについて認識してもらうことは簡単ですが、その後の条件は人間には満たせないでしょう。透明人間がそこにいるのを認識しろだなんて、難しい話です。簡単にばれないために透明になるのですから、魔法も使えない人間が、近くにいるとはいえそんな存在に気付けるはずがありません。
ルルシィはとても恐ろしくなりました。怖くて怖くて堪らなくなりました。自分がそんな魔法を使うだなんて、考えたくありません。
それに、たとえルルシィがこの魔法を使わなかったとしても、優しいアビーは責めたりしないでしょう。そんな考えも頭によぎります。
けれど。
街で見かけた子供たちを思い出します。ルルシィやアビーと同い年くらいの子供たちが、楽しそうに走り回っていました。ルルシィは混ざろうと思えばその中に混ざることもできますが、アビーは違います。走り回って遊ぶことなんて、今のままでは絶対にできないのです。外で友達を作ることも、大人になることも。今のアビーにはできないのです。本当なら、全部できるはずの当然のことなのに。
ルルシィは今まで、やりたいように好き勝手生きてきました。アビーはずっと、ずっとずっと、我慢して生きてきたはずです。
それならばルルシィのやることはひとつしか思い浮かびません。恐ろしいけれど。怖くて怖くて、逃げ出したいけれど。
だってアビーを救うためなら何でもしたいというその気持ちは、今も変わりないのですから。
魔女として生きてきてよかったと、心の底から思うのです。
「……アビー」
鏡の前に立って呟きました。今までよりもずっと、まっすぐな目をしています。涙の跡はずいぶん目立たなくなりました。もうルルシィは、泣いたりしません。
コートを着込んで帽子を被り、扉を開けます。初めてアビーに会ったときよりも、うんと寒い季節になりました。もう少ししたら雪が降るでしょう。それを一緒に見たかったような気もします。
今はとにかく、無性にアビーに会いたいと思いました。
嘘つきルルシィ
「今日の街はずいぶん賑やかねえ。何かあるの?」
窓から外を見下ろしながら、ルルシィは尋ねました。
「今日、年に一度のお祭りなんだ。何のお祭りかはよく分からないんだけど、街中キラキラしてて、楽しそうなんだよ」
へえ、とルルシィは声を上げました。お師匠様が生きていた頃には「この日だけは街に行ってはいけない」ときつく言われていたのですが、それはこのせいか、とルルシィは納得します。あの人の人間嫌いにも困ったものです。
けれどもうお師匠様はいませんから、最後に言いつけを少しくらい破っても問題ないでしょう。
ルルシィはちらりとアビーをうかがいました。楽しそう、とまるで他人事のように感想を言ったのが気になったのです。案の定、彼は少し寂しそうな顔をしていました。こうして些細な表情の変化を見つけられるようになったことを、ルルシィは嬉しく思います。出会った頃よりもずっと、友達らしくなったようでした。
「アビー、もうちょっと近くで見てみない?」
「でも、流石にお祭りには行けないよ……。見つかったら大変だもの」
「あら、お祭りに行くんじゃないわ。ちょっと空を散歩しに行くだけよ。それなら誰にも見つからないでしょ!」
ルルシィがそういうと、アビーは少しだけ悩む素振りを見せました。けれどもその後、期待を滲ませた目でルルシィを見上げます。
「分かった」
その言葉を聞いて、ルルシィは満足そうに笑いました。ルルシィだって、最後に一つくらい、特別な思い出が欲しかったのです。
ルルシィはアビーの手を取ると、窓からそっと外へ連れ出しました。前のように屋上から景色を眺めるだけではありません。本当の空中散歩です。
「わあ……!」
アビーがうっとりとした声を上げました。空がいつもよりもずっと近くで輝いています。下を見下ろせば、大小さまざまな大きさの色とりどりの明かりが、そこかしこに灯っていました。上にも下にも、星空が広がっているようでした。
普段ならばこの時間にはすっかり静まり返っている街の人々も、今日ばかりは賑やかです。大人も子供も楽しそうに歩き回る様子が、この高さからも分かりました。
「……いいなあ」
小さな小さな声でアビーが呟きます。ともすれば聞き逃してしまいそうな弱い声でしたが、ルルシィにはしっかり届きました。アビーのこんなに弱々しい声を聞くのは二回目です。一回目は、屋上から星を見たあの日。ルルシィは今なら分かります、どちらの声も、紛れもなくアビーの本当の気持ちだったと。
こんなに自由に生きてきたルルシィだって、まだまだいっぱいやりたいことがあるのです。同じほどの時間を、アビーはずっと病院で過ごしてきました。ルルシィよりももっとたくさんやりたいことがあって、でもたくさん我慢しなければならなかったのでしょう。だってアビーは、とっても良い子ですから。周りに迷惑をかけてはいけないと、気遣えるような。そんな子ですから。
けれど。
アビーの願いだって少しくらい叶ってもいいと、ルルシィは思うのです。
いいえ、少しではありません。これからはたくさん。
ルルシィは、繋いでいたアビーの手を握り直しました。涙が出そうなほど、温かい手でした。
大丈夫だ、とルルシィは思います。これからアビーはきっと幸せになるでしょう。アビーのパパもママも、皆幸せになるでしょう。
なんたって魔法に出来ないことなんて、なにひとつだってないのですから。
「……ねえ、アビー。あなたの病気は良くなるわ。治す魔法を見つけたのよ」
たとえその幸せの中に、ルルシィは混ざることが出来なくても。
「ほんとう?」
「ほんとうよ、前にも約束したでしょ。だから早く元気になって、星でもお祭りでも、なんでも見に行ったらいいわ」
少し信じられないような顔をした後、嬉しさと驚きと喜びがいっぺんに来たような顔で、アビーは笑いました。それは、ルルシィが今まで見たどんな表情より、幸せそうに見えました。
「アビー、あなたに魔法をかけてあげる。今すぐに全部よくなる訳じゃないけれど、あと何日かしたら、どんどんよくなっていくから」
「ねえ、ねえルルシィ」
「なあに?」
「僕の病気が治ったら、また一緒に星を見に行こうよ。それで来年の今日になったら、一緒に街のお祭りに行くんだ。それから、明るい時間に君とお話ししたいなあ。皆にも、僕の病気を治してくれたのは森の魔女だって、言い伝えは全部嘘だって、教えてあげなくちゃ」
楽しそうにこれからのことを話すアビーは、本当に幸せそうでした。けれども今アビーが言ったことは全て、ひとつも実現しないということを、ルルシィは知っていました。そしてそれをアビーに伝えてしまえば、恐らく彼は悲しんで、今からルルシィが魔法をかけようとするのを止めるだろうということも。
「そうねえ……」
これから元気になっていく彼と、大人になっていく彼と。ルルシィは一緒にいることができません。それが今になって、とても悲しくて寂しいことのように思えました。お師匠様が亡くなってしまったときよりも、ずっと。
本当なら、できることなら、ずっとアビーと友達で、今までどおりに遊んでいたい。それだけがルルシィ自身のたったひとつのわがままです。宇宙色のきらきらした瞳が、ほんの少しだけ潤みました。
けれどもルルシィは、アビーを救うことができる自分を誇らしく思っていましたから。魔法を使えることを、こんなに嬉しく思ったことはありませんでしたから。
だから嘘つきルルシィは、最後にひとつだけ、嘘をつくことにしたのです。とびきりの笑顔と一緒に。
「森の中からなら、星がうんと綺麗に見えるのよ。アビーがよくなったら、一緒に行きましょ!」
友達を悲しませないための、優しい、優しい嘘を。
大切な友達
それから、数年の月日が経ちました。
アビーの病気はすっかりよくなり、もう入院することもなくなりました。それどころか、あれ以来風邪ひとつだって引いていません。
あの日、綺麗に笑ったルルシィの言葉を聞いてから、アビーはなにかに引きずられるように気を失いました。そうして次の日の朝目が覚めると、ルルシィはどこにもいなかったのです。
ルルシィは夜の間だけ遊びに来る女の子でしたから、また夜になればひょっこり顔を出すかもしれないと、アビーは日が沈むのを待ちました。明くる日も、明くる日も、ずっとルルシィのことを待ち続けました。けれどもとうとう会うことができないまま、アビーは退院してしまいました。
病気がよくなっても、アビーはあまり嬉しくありませんでした。公園に遊びに行っても、星を見に行っても、ちっとも楽しくありませんでした。
隣にルルシィがいなければ、全部意味がなかったのです。
「もう怒った」
一緒に森で星を見ようと誘ったのはルルシィの方だというのに、そのルルシィの方から約束を破るのは納得がいきません。来ないならば自分から出向いてやろうと、アビーはそう決めたのです。
あのときよりずいぶん体も丈夫になりましたし、背だってうんと伸びました。すっかり成長したアビーは、少年らしいしっかりとした体をしています。言葉遣いだって、あの頃の内気そうなものではありません。もうあの頃の病弱なアビーはどこにもいませんでした。きっとびっくりするだろうな、とアビーは笑います。
森の一番奥深くに辿り着くと、一軒の小さな家がありました。ルルシィが前に言っていたとおりです。アビーは、ここがルルシィの暮らしていた家だと確信しました。
「……ルルシィ? いないの?」
キィ。軋みながら開いた扉の先には、誰もいませんでした。やっぱりルルシィはどこか遠くに行ってしまったのだろうか、とアビーは不安になります。
けれどもすぐに思い直しました。だってその部屋は、つい最近使った形跡がありましたから。キッチンには洗った食器が干されていましたし、テーブルの上には読みかけの本が置いてあります。ルルシィはやっぱり、ここにいたのです。
「ルルシィ? いるんだろ? どこ?」
声をかけながら、隣の部屋へと続く扉を開きました。その先は一面本棚に覆われていて、とてつもない量の本がしまわれていました。アビーは思わず感心してしまいます。これだけの本を見たのは、初めてのことでした。
ふと、窓際の机に一冊の本が置いてあるのが目に留まりました。アビーはそれに近付き、手に取ってみました。
その本は、禁術と呼ばれる魔法について書かれていました。
どきり、もう治ったはずの心臓が、嫌な音を立てます。アビーは夢中になって文字を追い、ページを捲りました。座る時間すら惜しいとでも言うように、立ったままで。
そして、見つけたのです。人間のどんな病気も治す代わりに、人に認識されなくなってしまう呪いを受ける魔法を。
「ルルシィ、君は……」
その時、アビーの背後で物音がしました。振り向くと、先ほどまでテーブルの上に置いてあったはずの読みかけの本が、不自然な位置に落ちています。
「ルルシィ、そこにいるの」
もうなんの物音もしません。けれどもアビーは、そこにルルシィがいるような気がしてなりませんでした。
彼女に会ったら、言おうと思っていたことがたくさんあります。それに真相を知った今、さらに言いたいことが増えました。
どうして約束を破ったのか。どうして会いに来てくれなかったのか。どうしてこんなことをしたのか。こんな、知っていたならこんなこと、絶対にさせなかったのに。アビーは口を開いてなにか言おうとして、けれども言葉が出てこなくて口を閉じました。そしてひとつ、深呼吸をします。
今ルルシィに言うべき言葉は、会えたら一番に言いたかった言葉は、先ほどアビーが考えたようなことではありませんでしたから。
「あのとき、助けてくれてありがとう」
少しずつ、ルルシィのいる方に近付きました。この本に書いてある通りなら、ルルシィを認識した今のアビーにはきっと触ることもできるだろうとアビーは思ったのです。先ほど落ちた本も、最近使われた形跡のある部屋も、ルルシィがこの家にいるという証拠になるしょう。
ゆっくりと近付いて、そしてそっと手を差し出しました。ルルシィに手を取ってほしいと思いました。そうしたら、約束通り星を見に行くのです。アビーには、それがとても素敵な考えに思えました。
しばらくして、アビーの手に、恐る恐る乗せられる手の感触がありました。依然として透明で、何も見えませんでしたが、アビーはそれで充分でした。
「ずっとお礼が言いたかったんだ」
アビーは嬉しそうに笑いました。その笑顔だけは、以前から何も変わっていません。そして透明の手をきつく握ると、外に向かって歩き出しました。その顔はとっても幸せそうです。
アビーは思いました。
ルルシィは危険な魔法を使ってまで病気を治してくれたのだから、今度は自分の番だろうと。
何年かかっても、たとえ生涯をかけることになっても、アビーはルルシィの呪いを解こうと決めたのです。
それこそが、この心優しい友達に対する、最高のお礼だと思ったから。
ルルシィ・エイプリル