続・探偵に悪魔は反則です -神探シ-
初バイトがまだやめられません。兄さんごめんなさい。
update:2023.2.24 直観探偵シリーズ②
表紙感謝:ハトリ様;https://estar.jp/users/104802264
※2/22:探偵に悪魔は反則です<探偵シリーズ①>、3/3:探偵に天使は味方です<③>掲載開始
※エブリスタでも同シリーズを掲載しています→https://estar.jp/novels/25064556
起:落シ物
氷輪くんが、いなくなっちゃいました。
ある日突然、わたしはそれに気付いて、あんまりにも自然に消えちゃった氷輪くんに、背筋が冷えながら愕然としました。
わたし、ウツギ・ネコハです。異世界から日本に留学に来て、女子高校生をしながら探偵バイトをしてます。
そんなわたしの高校生活を、見守ってくれたのが悪魔の氷輪くん。そのはずなのに――
どうしてなんだろう。同じ組のサトシも、誰も氷輪くんを覚えてないんです。
いつも「転校生」として、何度も突然現れるらしい氷輪くん。それでも、サトシ達には氷輪くんというヒトの記憶を残してました。それなのに今は、みんな、氷輪くんを忘れちゃってます。
「これって……まさか、『神隠し』……?」
氷輪くんが助けてくれたわたしの兄さん、ツバメ兄さんも行方不明のままです。所長に頼み込んで、占いをしてもらったら、命に別状はないって返ってきたから、ちょっとほっとしてたんだけど。
でも氷輪くんの占い結果は、「空白」だって……一応顔見知りらしい、親戚の馨おにいちゃんや咲姫おねえちゃんは、存在は覚えてるけど、「最近、見たっけ?」の状態です。
わたしのPHSを持ったまま、氷輪くんは消えちゃいました。そんなのって多分、氷輪くんらしくないんだ。
「預かる」って言ったんだから、会えなくなっちゃう時には、できる限り返してくれると思う。返すこともできないような状況じゃなくて、その必要がなかった、また会えるんだって、思いたいけど……でも……。
「どうして、こんな……イヤな気配が、止まらないの……?」
所長の言った、「空白」のこの気配。わたしはこれ、多分、心当たりがあるんです。
「神隠し」で時雨兄さんがいなくなった時が、全く同じ感じでした。別に誰も、兄さんのことを忘れたわけじゃなかったけど、不思議なくらいにみんな、兄さんは死んだって確信してたの。父さんや母さんも、兄さんをずっと大好きでいてくれた、鶫ですらも。
「わたしだけ……? また、わたしだけ……?」
それは違うって。兄さんは何処かにいるって、わたしだけが必死だった。理由はわからなかったけど、兄さんは死んでないって確信できた。
兄さんの気配は弱り過ぎて、わたしにはわからなかった。でもわたしと兄さんには同じ直観ーーヒトの感覚を一緒に感じる力があるから。
そこから兄さんを助けてくれたのは、氷輪くんだった。時雨兄さんは、ツバメ兄さんとして帰ってきました。
じゃあ、氷輪くんのことは……誰が助けにいけるんだろう?
「どうして……わたしを呼んでくれなかったの、氷輪くん……?」
氷輪くんは悪魔です。そしてわたしは、悪魔使いです。
わたしと氷輪くんは、兄さんがわたしを助け出してくれる少し前に、「契約」してたことがあるんです。でも兄さん達の所に帰れたから、その「契約」もなしになった。
氷輪くんにはその時、いっぱい迷惑、かけてたと思う。もしかしたら、それで、氷輪くん……わたしともう一度「契約」するのは、嫌だった、のかな……?
最後に氷輪くんに会えた教会に、わたしはもう一度、来てみました。
そこには悪魔の気配なんて、欠片もないです。それなのに確かに、氷輪くんがいる感じがします。
「どうしよう……氷輪くんのこと、探したいのに……」
一応悪魔使いのわたしは、多分教会の中には、あまり何度も入らない方がいいです。今はPHSもないし、直接悪魔は憑いてないけど、わたしの中には悪魔に傾く要素が色々残ってる。
この教会はかなりちゃんとした聖域で、わたしの悪魔寄りの気配とは反発します。前に氷輪くんに会った時は、PHSに悪魔さんを集中させてたから、そのカラで悪魔を守ることができたし、聖域の方も傷付けずに済みました。でも今は、わたしが踏み入ると多分、わたしも聖域も影響を受けると思う。
氷輪くんが、ここの聖域を大事にしてること。それはわたし、直観でわかってました。
一番弱った時に隠れるんだから、きっと大切な場所なんだよね。だからここを汚しちゃいけない、それは絶対です。
「ここしかないのに……ここでないと、氷輪くん、見つからないよ……」
それでも今、わたしを突き動かしてくるもの。
氷輪くんにはもう、会えない気がする。その予感がどうしても拭えなくて、わたし、すごく怖くなっちゃったんです。
真昼間の住宅街の道端でなければ、泣き出しちゃいそう。やだ、氷輪くんにもう会えないなんてやだ。そんなのあんまりです、いきなり過ぎるよ。
兄さんのことも、わたしはこうやって、しばらく探しました。結局は見つからなくて、「ツバメ兄さん」は戻ってきたけど、本当の兄さんにはきっともう会えないままです。
ツバメ兄さんに会えてうれしかった気持ちと、変わってしまった兄さんの現実、両方を思い出して、教会を見つめて立ち尽くします。
「わたし、わかってたのに……また、守れなかった……?」
思えば兄さんも、氷輪くんも、消えたのは「いきなり」じゃない。消えてしまいそうなのはわかってたのに、止められる時が何処にもなかったんだ。
わたしにできることは、何でもするつもりだったのに。兄さんも氷輪くんも、結局はわたしを巻き込まずに、置いていっちゃうんだ……。
金縛りにあったみたいに肩をすくめて、わたしはじっと動けないまま、晴れ渡った空にとけ込みそうな十字架を見上げます。
教会の屋根にひっそりと立つ、古くて細い色褪せた十字架。折れてしまっても、不思議じゃなさそう。
氷輪くんはひょっとして、ここで、消えたかったのかな……?
そんな風に感じるくらい、今、わたしに浮かぶ氷輪くんの気配は、風の無い中で目をこらさないと見えない十字架――「凪」そのものでした。
不思議なくらい、わたしには、伝わってくるんです。
誰も悪くない、それは、氷輪くんが望んだことだって。時雨兄さんですらも、きっと止めようがなかったんだって。
あれ、時雨兄さんと氷輪くんは、敵対してなかったっけ。どうしてこんな風に、わたしは感じるんだろう。
大事な心や、感じる気配が、リアルタイムでどんどん書き換えられてく。そんなおかしな実感があります。いつの間にか、「時雨兄さん」に会えなくなった哀しみを忘れて、「ツバメ兄さん」が当たり前になった時みたいに。
ツバメ兄さんと同じく、「本当の兄さん」じゃないけど、闇の中の「時雨兄さん」を見つけた時も、これは同じでした。
「やっぱり……時雨兄さんが関わってる、これ……?」
胸がぎゅうっとして、泣き声を出しそうな感情を横に、わたしは理性で必死に考えます。
だってわたしは、探偵バイトをしてるんだから。おかしなことがあったら、できるだけ解明しないとだもの。
時雨兄さんは時の闇を渡るヒトです。それって、過去や未来を変えることができる、そのはずだよね?
それならここは、氷輪くんが初めからいなかった世界? 時雨兄さんが過去を変えて、そんな世界を導いてきた?
みんなが氷輪くんを忘れてるのは、最初からいなかった過去だから。それか、氷輪くんがあえて記憶を消したかです。でもそれなら、わたしにだけ残す理由がわからないよね。
PHSのことがあるなら、むしろわたしに忘れさせた方がいいよね、氷輪くんとしては。わたしを悪魔から遠ざけようとしてたのは、氷輪くんも同じなんだから。
時雨兄さんを見つけられたのは、わたしが一人、「変わる前の兄さんを覚えてる」からだった。これ、直観の影響なのかな? そんなにすごい感覚だったっけ?
もしかしたら、これは、わたしがわたし――……世界が変わって、消えたわたしの心を感じ取れてるのかな。何となく、それが一番、近い気がします。
あれ……と。
ここでわたしは、まるで狐さんにつままれたみたいな気持ちになりました。
「それなら消えたのは、氷輪くんだけじゃなくて……みんな、っていうこと……?」
冷静に考えれば、そうだよね。わたしの心もやがて、新しい世界のものに変わるなら、今のわたしだって消えていくんだ。氷輪くんだけじゃない、みんな一緒に消えて違う世界になるなら、別に哀しむ必要はないことなんだ。
でもわたしの記憶は消え残ってる。その方がおかしいのかもしれない。これって、そういうことだよね?
「あれ……これ、どっちがいいんだろう……?」
このわたしだって、気を抜けばもう、氷輪くんのいない世界に慣れてしまいそう。ただただ、会えないのは嫌だって、その心だけで踏み止まってる。
それじゃこれ以上、理性で考えちゃいけない気がする。「そうなって当たり前」と、思っちゃいけない。とことん抵抗しないと本当に、わたしも氷輪くんを忘れちゃいます。
ここでふっと、時雨兄さんの声が、遠くに聞こえた気がしました。
――そうだよ。だから、『神隠し』は怖いんだよ……猫羽。
それはとても素直で、隠さない淋しさに満ちた、兄さんの気配。
そして、わたしが時雨兄さんを見つけられたのは、同じように「絶対忘れなかった」から。それができるのは直観のおかげだと思うけど、でも、わたしがそうしたいって、強く願わなきゃいけないんだ……。
――だから……ありがとう。オレを、覚えていてくれて。
どうしてか、時雨兄さんに重なって、氷輪くんの声まで聴こえました。
同じ「神隠し」なら、二人はひょっとして、一緒にいられてるのかな……? 独りぼっちで、淋しくはなってないのかな……?
時雨兄さんとツバメ兄さんみたいに、わたしも二人、いれば良かったのに。そうしたら一人は、時雨兄さんの所に行けたのに。
それか、氷輪くんが二人、いればいいのに。そんなとぼけたことを思いながら、わたしは改めて、教会の十字架をじっと見つめました。
――何でみんな――鶫も猫羽も、オレじゃなくて、アイツを選ぶの?
あの時、自分の心を守ったわたしと違って、氷輪くんだけは時雨兄さんを選んだんだ。氷輪くん、本当に、優しいなあ……。
わたしは、今のわたしを、やっぱり捨てたくないよ。悪魔にもなりたくないし、みんなから忘れられてしまうのも嫌。いなくても同じ、いなかったことには、なりたくないよ……。
だからわたしだけは、絶対に忘れないって、約束するね。氷輪くんのことも、時雨兄さんのことも。
会いたいって思っちゃ、いけないのかもしれない。それでも諦めずに、また探すからね。
だから二人共……いつでも、会いにきてくれて、いいんだからね……。
「時雨兄さんの……意地悪」
これから残った期間、わたしは氷輪くんなしに、高校生活を乗り越えなきゃいけないんだ。
それはできると思うけど、ツバメ兄さんも遠ざけた上に、氷輪くんまで途中退場させなくてもいいのに。兄さんは本当に、いつもわたしには厳しいんだから。
何となく、わたしが、人間でいたい理由がちょっとわかりました。
「わたしは、わたしでいたい。忘れたくない……できるだけ変わらないで、わたしでいるからね」
わたしは元々、人間として生まれたから。
人間には珍しい直観を持ってるけど、人間であるわたしを、そう生まれたわたしを忘れたことはなかったよ。
兄さん達より弱くて足手まといでも、悪魔がいなくてできることが減っても、それでも、「今のわたし」で、できることを探す。それは絶対、やめないからね。
多分嫌でも、色々変わっていくとは思う。それで言えば、大昔に攫われる前のわたしとは、もう途方もないくらい別人だろうし。
サツリクの天使でもなくなったし、氷輪くんがいなくてPHSもなければ、悪魔使いも卒業が近いのかもしれない。それでも、わたしがわたしなことは、絶対に譲らないって。そう思って、生きていくしかないよね。
「できることは、まだ……何か、あるはずだから」
氷輪くんの存在が消え残る、小さくても温かな教会に、わたしは静かに背中を向けます。
兄さん達も、氷輪くんも、せめて安心しててくれるといいな。わたし、高校くらい何でもないって、今は思えてるもの。
とりあえず、もっとしっかり、探偵になるのを目指してみよう。それだと当分、バイトがやめられないけど、まあ、何とかなると思います。
お別れじゃない、始まりだから。探し物が得意な探偵になって、兄さんと氷輪くんをいつか見つける。今度は「神隠し」の闇から、連れ出す方法も一緒に探すよ。きっと初めて、わたしにはっきり、「やりたいこと」ができたよ。
ブラコン上等です。それでバイトをがんばれるなら、言うことないよね?
落シ物 了
承:諧謔曲;夜の鏡花・朝の水月
正史 -鏡花ノ未来-
新たな命を得る。心を変えれば救われる時、何も変わらず、そのまま救われたいというのは無理な話だろうか。
変わってしまうなら、変わる前の自分は永遠に救われない。
人間界では大多数を占める宗教の教義に、時間の止まった「悪神」、時雨翼は度々そう思う。
「あんたはどう思う? ……冬花紫音」
「――?」
時空を渡り、数多の世界を気まぐれに訪れ、堕ちた「神々」を狩る秩序の管理者が時雨だ。妹も遥か昔に成人した中、時雨は今も銀髪に黒のロングコートと遊び人の身なりで、仕事以外のことはほとんどしない。
今いる人間世界の「地球」には、人外生物の堕落者が多い。鬼や妖が存在を表立って許されていないためか、人間に混じって生きる内に彼らはたやすくヒトに堕ちてしまう。
一仕事を終えた夜の廃ビルで、目前には堕ちた者ならぬ「変わってしまった者」がいる。黒いダッフルコートに身を包み、羽を生やした人形の冬花紫音。時雨が「神」となってから付き従う人形は、冷ややかな鋭い紅の目で応えた。
「……そもそも、救われるって何?」
始末した妖の頭を両手で抱え、血潮の滴る首を舐める人形。白い頬が血で汚れ、特徴的な青銀の長い髪には宵闇の靄がかかる。これがかつて、時雨を拾い上げた黒い狼少女の依り代だとは誰が思うだろう。
神秘的なほど端整な顔立ちの人形は、あくまで純粋な声色で先を続けた。
「時雨は、救われたかったの?」
丹念に味わっていた首を置いて、時雨の方にやってきた人形は、時雨の頬に細い手を当てる。
覗き込む人形の動かない双眸は、いつも澄み切っていた。ただ真意を見たがっている紅い硝子に、意地悪そうに笑う時雨が映る。
ここが廃ビルでなければ、今すぐ押し倒していたかもしれない。時雨を「神」としてなすがままにされる天使を造るため、人形に閉じ込めた狼少女。そこに埋め込んだ天使の羽をもう一度抉ってやりたい。残念ながらこの人形の修理者は、とっくの昔にいないので無理な話だ。
そう。過去に時雨は、この人形に羽を植え込んだ。それから変わってしまった人形は、時雨にだけ都合の良い天使となった。
時雨はともかく、人形にはそれが救いだっただろう。今では何も迷うことなく時雨を慕い、無表情に何処までもついてくる姿は幸せそのものだからだ。
「冬花は救われただろ? 桃花から変わってしまうことで」
「知らない。そんなのいちいち、考えてない」
背後にあった瓦礫の溜まり場に腰を下ろすと、床にちょこんと座った人形が、時雨の膝に腕枕で頭を置いた。さらりと髪を掬って撫でると、満足そうにその目を閉じる。
人間の女の骨から造られた人形には、外面的には人間と遜色のない機能がある。以前の桃花――狼の霊体を持つ少女をその人形に宿らせたのだが、時雨以外には触れさせない人形は、時雨だけのものと言って差し支えない。
「オレも変われば、救われるかな。可愛い冬花だけを想う、オレでない奴になりたい」
「…………」
「相思相愛って憧れるだろ。それでもオレは――オレにしかなれないけど」
以前の桃花にはこんな話はできなかった。狼少女の澱んだ黒い瞳は、時雨の内にいつも違う誰かを見ていた。
冬花は違う。たとえ時雨が違う者を永く想っていても、それでもいい、と時雨に己の全てを預ける人形の道を選んだ。
信じる者は救われる。その通りだろうと時雨も思う。何も信じるものがない足場なき命は、一人で立つにはあまりに心細い。
人形である冬花は、空ろな紅い目を小さく開けて、時雨にとって都合の良い反応だけを返す。
「時雨は時雨でいい。……わたしには、それがいい」
もしもここに鏡があるなら、その小さな声の主を見せてやりたかった。とっくの昔に時雨が手折った造花は、無自覚な悲痛だけを青白い顔に浮かべていた。
一番大切な者の傍らで生きて、その相手のためにできることがあれば、それはどれだけ幸せなことだろう。
相手が自分を想っていなくてもいい。迷惑にさえならず、そばに置いてくれるのであれば。
時雨もどれだけそれを願ったか知れない。ヒトを破滅させる悪神なんて身の上でなければ、とっくに愛する者達の元へ帰っていた。
「地球」を後にすると、久々に「悪神」の雇い主から召集が入った。
近況報告をしなければいけないらしい。面倒事しかない予感がしていた。
「『楽園』に先に帰ってろ。オレは寄らないといけない所があるから」
「……」
時空飛空艇「天龍」は、時の闇での時雨のねぐらだ。長細い船上の一画に、塀で囲まれた小さな庭と縁側付きの離れが建つ和風の船楼は、時雨も人形も「楽園」と呼んでよく使っている。
闇から数々の世界を巡る、時雨の母船。「神」の座である時の闇には、形のある居場所がとても少ない。街はあるが基本的に安全でなく、いつ命を奪われても自業自得の領域になる。己の社以外に在るものは、襲ってくださいと言っているようなものなのだ。
時の闇――常夜は何処もかしこも、太陽なんて存在せずに常に闇の中にある。普通は物が直接発光しない人間世界と逆で、質量があり変化をする物だけが闇の中に浮き上がる。時雨のように変わらないものは闇から出られない。明かりという概念を備えた秀作、「天龍」の中にいる時を除いて。
「冬花がいれば、大体月は出てるけど」
「月光の天使」が肩書である者のそばなら、その心象が再現される。月光は「紫音」の名に纏わる加護で、狼少女に植えた羽は、月光の天使となるべき翼だ。
しかし時雨にはかつて、もっと眩い光の娘な知り合いがいた。彼女のいる所はまるで人世のような明るさで、常春の白夜に花や新緑がよく映えていた。
それが本物の「橘桃花」だ。なのにいつしか、彼女の時間は夜になり、それはどうあっても覆すことはできない変化だった。
この「神」の座――「時の闇」には本来、単体に限れば変化がない。闇から出られるものだけが仮初めの生を得て、無常の世界で時を動かす。時とは変化の代名詞で、変化なきところに時は存在しない。
光の娘を連れ出したのは時雨だ。だから変わってしまったのは自業自得なのだが、残骸の夜が長く訪れるのは想定外とも言えた。
時雨を必要としてくれた、光の娘がいないのは残念ではあるが、時雨が想っているのは彼女ではない。残骸である黒い夜の狼少女でもない。
その残骸の狼少女は、どうでもいいことをいちいち口に出すから苦手だった。
――貴男が欲しいのは、鶫でしょう? 時雨。
狼少女はニセモノのくせに、橘桃花をわざわざ名乗る。それが嘘だと感じたからこそ、時雨は時の闇を遡って光の娘を見つけた。
光の娘を最後まで「桃花」と呼んだ男を、狼少女は横から慕っている。だから「桃花」の名に固執するのだと、ほどなく気が付くことになった。
――あんたは『桃花冥夜』……光の桃花でなく、混沌の冥夜だろ。烙人に誤解されたのも、自業自得だし。
この常闇の世では、真の名を隠すのは常識でもある。冥夜は煩雑な己の実態を、最後まで愛する男に明かせなかった。
だから男――烙人の命を奪った時雨に執着していた。時雨を闇から引っ張り上げたのも、彼を探してのことだとわかった。
救われない思慕。それは冥夜のような想いを言うのだろう。
冥夜は時雨の内に烙人を見ながら、時雨の方を救おうとしていた。冥夜が桃花に戻れないように、烙人も戻りはしないと知っていた。
混沌を司る黒い夜の狼少女――常闇の世そのものである冥夜は、己の内に包む存在について、直接目にすれば大体の事情はわかってしまう。時雨を見た瞬間に、烙人は助けられないものとわかっていたのだ。
――アナタの依り代は消えたの、シグレ。
そして冥夜は、「悪神」を宿した少年を時渡りへと導く。
――シグレを殺すか、『時雨』になるか……。アナタの好きにすればいい。
時雨が呼び出された診療所には、ほどなく辿り着いた。
「混沌」に接続する冥夜と「悪神」を宿す時雨の、雇い主の代理が、心から気怠そうに煙草を吸って待っていた。
「来たか。お前さんと会うのは随分久しぶりだな、鴉夜の後任」
そのドアの多い外来室は橘診療所という、数多の世界と時空に繋がる中継地点の一角だ。時雨の雇い主に協力する代わりに、アナザーワールドワイドな診療所の開業を許された院長は、黒髪に黒眼、黒ずくめの軽装に白衣を着る黒い医者だった。
「呼び出された理由はわかってるんだろ。どうやら『漣』は、あの月光の天使が気に食わないらしい」
アホらしい。と診察机で頬杖をつき、伝言役を任されている医者は、本来なら時雨の雇い主程度に使われる身上ではない。時雨もその雇い主も、日本語で言えば「八百万の神」に相当し、代理のこの医者はそれより最上位の神の一部だ。八百万の「神」はどちらかというと、神に存在を許された使徒と言ってよく、こんな数多の時空が入り混じる診療所の院長などとてもできない。
橘診療所の院長はいつも坦々としているが、どの時空の、どんな世界からの来訪者も平然と受け入れる。同一人物でありながら違う時空の伴侶達も複数抱えているらしく、全ての事情を把握する「神眼」は大したものだった。
「……ほんとに、アンタさ。いつもよくわかるよな、オレが誰かって」
この院長の神眼だからこそ、時雨を呼び込むなんて芸当ができる。
時雨は数多の時空を渡ることで、一人の「時雨」ではなくなっている。大体は時雨自身が気付かないまま、訪れた時空に本来在る時雨と同一化し、記憶も意識も更新される。時空は数多に存在するのだから、その数だけ時雨も存在していると言える。
だから時雨は、己が本来属していた時空か、もしくは気に入った時空に留まることが多い。違う時空に長く留まれば、本来の己の記憶が徐々に薄まっていくのはいつものことだ。自分ですらあやふやである自分を、神眼の院長は的確に見分ける。
「お前さんの見分けは全然難しくない。色違いでわかりやすいし、鴉夜のため以外に『時雨』になるお前さんは存在しない」
「ふうん。でも、月光の天使――冬花紫音については?」
「時雨にくっつく奴で、漣が文句をつけるのは十中八九そいつだ。それくらいお前さんは自然に、一番起こり得る道筋を順当に辿っている、らしい」
後は凪の助言だ、と院長が正直に言う。
この院長が曲者なのは、数多の時空にある並行存在者を察知し、歪んだ時空の接点を見分ける特殊感覚を持つ伴侶がいることだ。
時空の接点――分岐箇所がわかる者は、その前後での時空同士の差異もある程度はわかるという。そうして数多の可能性、未来に近いものが見える故に狂ってしまったらしい伴侶は、時々時雨の邪魔もするので厄介だった。
「それじゃ、冬花は運命通りの存在なのに、何で文句をつけられるんだ?」
「漣はわざわざ時空に波風を立てる使徒だぞ。変化がないのも、変化が起こり過ぎるのも嫌なんだろうさ」
「なるほど。面倒くさいな」
時雨は秩序の管理者として、数多の時空で不要な波乱を起こす人外生物を狩る。実働部隊だが厳密には監視者ではなく、世界を見張るのは「さざなみ」であることは、この院長から「秩序の管理」職を押し付けられた時にきいていた話だった。
橘灰を名乗る院長は、橘桃花の関係者だ。時空によっては実の父になるらしく、それは消える運命にある光の娘「橘桃花」で、伴侶である橘凪と共に、桃花を救える道を医者は探していた。橘診療所もそのために開き、その結果、橘桃花は時雨の母である者、「棯流惟」という存在になった。
それは結局、橘桃花は救われたことになるのだろうか。橘桃花でなくなることしか道がなかったから、桃花冥夜がその残骸を引き受けた。冥夜も冥夜のままでいるよりも、冬花紫音になることを選んだ。それで冥夜が救われたとして、「橘桃花」が救われたとは言えるのだろうか。
そうした様々な事情で、世界の裏に在る使徒と時雨の橋渡しをしている院長は、信用も嫌悪もできない相手だった。
「ま、お前さんはもう少し派手に、好きに動け。俺が言えるのはそれくらいだ」
「ふーん。冬花を始末しろとか、そういうのではないんだ」
「お前さんが時を渡りまくれば、勝手に波風は立つ。冬花可愛さにここに安住するな、そういうことだ」
「ケチ。あんなに従順なあいつの世界、他にないのに」
時雨が時空の壁を越える時に、天使の人形を共に連れていくことはできる。しかしその先に在る同じ存在と記憶が同期するので、どうしても向こう側の性格になってしまう。
月光の天使な冬花はそもそも、紫音の加護――鏡の性質により、ヒトの望み通りに咲く桃花冥夜だ。違う時空で別の望みを映せば変わるのは当然で、それならわざわざ連れていかず、時々この時空に会いに来るのが妥協点だった。
冬花はおそらく、ついてきたがるだろう。
相手が自分を想っていなくても、一番大切な者の傍らで生きられて、助けになれるのは幸せなこと。それを体現している人形であるのに。
「にしても、紫音の加護がある時点で、ここにも波風は立ってるはずだろ。紫音はこの時空にはいない存在なのに」
「俺もそう思ってたがな。だからここでは、紫音本来の人格が冬花に反映されない……ところがそれすら、凪曰く、運命通りなんだそうだ」
「――?」
時雨は時を渡る「悪神」であるため、様々な過去や未来を観て回っている。しかしそれは直接観た時空のみを知っているだけで、橘凪のように、一つの分岐点から先の世界を漠然と察知する感覚には及ばない。精密さで言えば、直に観に行ける時雨の方が断然に上だが、全ての時空を網羅できるわけもなかった。
だからこうして、凪から大まかなヒントがもらえる時には、最大限に利用しようと時雨は決めている。
「それじゃもしや、この時空にも紫音は元々存在してる……ってこと?」
「真羽夕烏が存在せず、氷輪汐音が具現せず、氷輪翼槞も退場した時空で、それらから生まれるはずの紫音がいるか、か。現状は氷輪翼槞の翼をお前さんが預かったままだが、それ以外の可能性――紫音を具現する者は他にも有り得るってことだな、時雨」
それは面白いことを聞いた。早速調べに時を渡ってみようと思った時点で、巧く乗せられていることにも気が付く。
「女狐は今度は何を企んでる? アンタも甘やかし過ぎだろ、灰」
「さあてな。俺自身はここから動かないし、凪が視ているものも、お前が観てくるものも大体知らない。興味もないしな」
何であれこの院長は、現れた結果を受け止め、診察するだけ。
その姿勢に介入するほどの権限は「さざなみ」にもない。それなら誰が一番の敵だろう、そう思いながら、時雨は橘診療所を後にしたのだった。
「楽園」に帰らずに、このままもう時空を渡ってしまおうか。先に帰らせた人形の淋しげな顔を思い出すと、自然とその結論が出てきた。
別離というのはいつもこうして、突然呆気なく訪れるものだ。人形はいつまでも帰りを待っているだろうし、わざわざ別れを告げる必要もない。
そう思っていたのに、冬花としても紫音の加護でも勘の良い人形は、診療所の出口の一つに続く「天龍」で、ドアの横で時雨を待っていた。
中での会話もおおむね見当がついていたようで、大いに不満げな大人しい顔で、時雨をじっと見つめてきたのだった。
ごめんな。と笑うと、人形が時雨の服を掴んでひっついてきた。
「天龍」の船上である暗闇の宙で、十三夜の月が慎ましく光る。「天龍」を包む混沌の「桃花水」が、陽のない闇世では有り得ないはずの月を水面に映しているのだ。
「オレがいないと、そんなに淋しい?」
「……」
「その想いだって、紫音から取り込んだニセモノ。冬花はそれを、本当に望んでる?」
「…………」
胸にしがみつく頭を撫でてやると、存在しない「紫音」の思慕が、人形の羽から伝わってきた。
実際問題、有り得ない水月の放つ月光が紫音だ。水月が生やす光の羽を植えたことで、桃花冥夜が冬花紫音になる。水月を光らせるのは月の内に在る出処不明の六芒星で、紫音という羽は、その星の花を映す鏡。時雨を想うのは謎の星花だと、結論だけはわかっていた。
月光という事象も本来、恒星の光を反射する虚ろの灯りだ。幻の六芒星を映す、幾重もの幻である鏡花こそが冬花紫音。
聖なる六芒星から光を受けている羽。堕ちたものと変わったものはどう違うのだろう。秩序の監視者――漣はどんな基準で堕ちたものを見定め、排除を時雨に命じるのだろう。時雨を想うこの人形が堕ちたものではないと、どうして言えるのだろうか。
人形と一旦、「楽園」に戻る。二人だけの世界で堕落した行為に耽っていても、この人形は堕ちてはいないのか。どれだけ汚しても痛みを受け入れ、光を失わない人形に、「悪神」は嗤いを浮かべずにはいられない。
真っ白な雪がちらほらと降る時が、いつも「楽園」の夜明けだった。星のような雪の結晶が人形の羽と同じ光を放ち、「楽園」に束の間の朝が訪れる。
闇の水月は薄れてしまう。かき乱した水面が治まるまでは姿を見せない。
別れの朝に雪白の縁側に出た人形に、おはよう、と声をかけると、星の花が淡く笑った。
舞い散る白い花びらを背に、かごめの人形はその目が澱んでもキレイだった。
諧謔曲 了
転:神探シ;EDEN
大切なことを忘れちゃいそう。
でも絶対忘れたくなくて、忘れそうな自分がすごく辛いです。わたし、ウツギ・ネコハは、ただの人間だから。
「……なに、これ?」
気が付けばもう、高校は夏休み。鞄を置きっぱなしの机に、見慣れないものを見つけました。
バイトやお出かけに忙しくて、部屋を放置し過ぎちゃったみたい。知らない間に花瓶があって、名前も知らない乾いたお花が生けてありました。
「どこで、拾ったっけ?」
どうしてこのお花、ひとりでにここに眠ってたんだろう。
近頃はいつも、玖堂さんが派遣してくれたヒトが家事を教えてくれるけど、わたしがいない時に勝手に部屋までは入りません。
明らかにおかしい。でもその謎は全然わからなくて、とりあえず部屋をきょろきょろ見回すと、わたしはとても重大なことに気が付きました。
「これ……氷輪くんの、匂いがする……?」
部屋の空気がいつもと違います。受付けバイト用に所長が魔法をかけてくれた「くーるびず」な制服を着てるのに、何だか適度に温かくって。
梅雨の初め頃から、急にいなくなってしまった氷輪くん。
氷輪くんは兄さんが、わたしの高校生活を見守ってくれるように頼んだ高位の悪魔さんです。元は吸血鬼なんだけど、一時期だけわたしと契約することで悪魔になったの。今思えば申し訳ないけど、わたしが悪魔使いだったから。
これでやっと、わたしは探しに行ける。不思議なドライフラワーを観て、何故かそう確信しました。
「兄さん、氷輪くん……わたし、行くよ」
始まりはきっと反則。それでもこれくらいしないと、「神」様には敵わないから。
そうしてわたしは、「神隠し」にあった大切なヒト達を、運命を変えてでも迎えに行きます――
-please turn over-
★序幕
その日、所長が急に仕事を電話してきた時には、わたしは何故か不思議な予感で胸がいっぱいになってました。
「すみませんが、馨には内緒で引き受けていただけませんか? その分、今回の依頼料は弾みますので」
よろず相談所の探偵部門で、わたしは見習いバイトをしてます。先輩探偵の馨おにいちゃんに内緒の依頼って、何なんだろう? それだけでもまず波乱の匂いだよね。
「元は梅雨頃に、貴女と馨の二人で、と依頼したのですが……貴女に良くない影響があると、馨が珍しく拒否した仕事なんです。とても気になりますので、是非とも一人で頑張ってみてください、猫羽ちゃん」
うん。所長はやっぱり、鬼だと思う。明らかに何かトラブルを期待してるよね、これ。
でもわたしもわくわくしてる。理由はわからないけど、おにいちゃんにはごめんね、と心の中で謝って、わたしの責任で引き受けることにしました。
「ありがと、フィオナ。ばれた時には、わたしのお願いだって言ってね」
所長は鬼だけど、たとえわたしに危険があっても、わたしの望むことだとわかってる気がする。
占いが得意なんだよね、所長。仕事を割り振る時はそれで、先に適性をみてるっていうから、ちょっと覚悟を決めつつ、依頼場所に向かうわたしでした。
わたしは夏休みに入ったばっかりです。それでももう沢山、高校の友達や馨おにいちゃん達とお出かけしたよ。バイトの定時は夕方だから、それ以外のこういう依頼はしばらくお休みしてました。
わたしがここのところ、ずっと気分が沈みがちだから、みんなが元気づけようとしてくれてたんだ。ツバメ兄さんと氷輪くんがいなくなって、氷輪くんは存在も忘れられてるから相談できる人もいなくて、どうしても落ち込んじゃって。
でも今日はバイトの制服を着て、みんなと出かける時みたいに気持ちが高揚しながら、所長が言う依頼場所に向かいます。
紫陽花がキレイだったその公園は、わたしのマンションから高校に行く道の途中にあります。依頼先がこの公園だって聞いた時から、こんな気持ちになってきた気がする。今まで一度も入ったことはないのに、どうしてだろう?
「えっと……依頼は、この公園に死体は埋まってないか、だよね……」
うううん。物騒な依頼だなあ。少し前にここで、人の一部だけが見つかる事件があったんだって。勿論警察さんも捜査したんだけど、その時には何も手掛りがなかったみたいで。
「ほぼないと思います。って言いながら、どうして探させるのかな、所長……」
これは確実に、透視っていう何かすごい眼を持つ馨おにいちゃん向きの仕事なんだけど、わたしもヘンな気配があるところなら少しはわかるから。
ツバメ兄さんは五感、わたしは気配。「直観」っていうらしいんだけど、自分以外のことの感覚が少しだけわかるんだ、わたしやツバメ兄さんは。
高校くらい広い公園を、隅から隅まで、ぐるっと回ります。
半分は広場で、半分は小さな雑木林の丘になってて、真夏のわりに何だかひやっとするくらい涼しいこと以外、特に異常はありそうにないです。
「もっと森の匂いがするといいのにな、ここ……」
入口の花壇にも咲いてる紫陽花はキレイだったけど、他には特に、あんまり気に入る場所がありませんでした。
でも公園中の気配を探ってちょっと疲れたから、さっき見つけた、林の中の休憩所に行くことにします。
広場からは見えにくい所で、和風の屋根と畳のベンチがある小さな休憩所。向かい始めると、どうしてか、この公園に来た時と同じようなわくわくが込み上げてきました。
それからどうなったのか、わたしは正直、何が何やらさっぱりわかりませんでした。
休憩所に一歩入った瞬間、急に意識が遠くなりました。
あれ、と思いながら必死にベンチに近付こうとしたけど、すぐに目の前が真っ暗になっちゃった。
次に目を開けた時にはいきなり、真っ青な大空の中にいたわたしでした。
「え……ここ、どこ……?」
休憩所の畳のベンチと少し似てる、すだれの長椅子から空を眺めるわたし。蛇みたいな雲が目前をにょろにょろと遠くまで走ってて、それは多分、わたしのいる船が空を航行してる軌跡みたいです。
うそ。それしか言えないです、わたし。
だってどうして、日本のフツウの公園から、急に空飛ぶ船の尻尾に来ちゃったの?
雲ばっかりで地上は全然見えなくて、ここが何処かもさっぱりわかりません。多分、わたしやツバメ兄さんが元いた世界、そうでないとこんな空飛ぶ船なんてないと思うんだけど。
呆然としてたら、私が背にする壁のすぐそばにあるドアから、突然ヒトが出てきてびくっとしました。
「――!」
隠れる所もないしどうしようもないんだけど、その二人にはどうやらわたしが見えてないみたいで、そして……――
「え……ツバメ、兄さ……?」
船尾の柵からよっと身を乗り出して、景色を楽しそうに眺める金髪のヒト。そのヒトはツバメ兄さんにそっくりな顔で、勿論わたしは驚いたけど、隣で柵にもたれて俯くヒトを見て、更に声が出なくなっちゃいました。
「え……なんで……」
じわりと、胸ポケットに入れてるスマホが急に熱くなりました。
「なんで……ラクト……?」
同時にわたしも、息が詰まって声がかすれます。
気怠そうに柵にもたれて、苦々しそうに腕を組んでる紫苑色の髪と目のヒト。それは確かに、もういなくなっちゃった大好きなおにいちゃん……わたしに同じ紫苑色の髪をくれた、ラクトそのものだったから。
わたしが二人の丸見えなベンチに座ってることには気付かずに、ツバメ兄さん似のヒトと、ラクトが重い声で話を始めました。
「――そんでさ。オレの話に乗る気はあるん? お前さんは」
「何度も言わせるな、炯。そうでもしなきゃ、その躰……シグレを解放しないだろ、アンタ」
びくっともう一度、わたしの体が震えます。
そうだ、このヒト。兄さんにそっくりな「ケイ」は、少しの間、時雨兄さんの体を奪って使ってた悪魔……時雨兄さんがツバメ兄さんになる前に、消えてしまうキッカケになった大嫌いな蛇のヒト。
しかもラクトが、蛇のヒトと一緒にいる時間。それは多分、ラクトがいなくなってしまう……死んじゃう直前のはずです。
「アンタが殺せ、炯。オレはこのまま――悪神の言いなりになるしか、桃花を守れないんだから」
そうすれば――と。きっと、それは、蛇のヒトとラクトの間で本当にあったお話。目の前の二人があんまりリアル過ぎて、そうとしか思えません。
それならこれは、過去の光景? でもどうして、直観しかないわたしに、そんなものが見えるの?
ラクトは大事なヒトのために死んだって、ラクトを弟みたいに可愛がってた父さんは言いました。とても辛くて、痛い心で。
元々ラクトは体が弱くて、今にも死んじゃいそうだったけど、最後の最後で父さん達を裏切って敵になってしまった。時雨兄さんを攫ったヒト達側について、兄さんもその後に行方不明になってしまって……。
「……悪いな。お前さんの『力』が、時雨と妹以外に渡ると最悪だからな」
「アンタこそ、鴉夜を助ける算段はあるのか。このままじゃ誰もが犬死にするぞ」
でもやっぱり、ラクトは裏切ってなかった。ラクトの大切なヒトと、そして時雨兄さんも助けてくれようとしたんだ。
ラクトの願いは叶ったのかな? ラクトの大切なヒトっていうのも、この船に乗ってたのかな……?
その後は急に周囲が真っ暗になって、二人の姿だけが見えて、まるで早送りしてるみたいな光景になりました。
どうしたらいいかわからなくて、とにかく二人についていってたら、やがてその時が来てしまいます。
黒い髪でパーカー姿の女の子をかばって、父さん達に刃を向けるラクトをケイが殺した。そのケイを殺そうとしたアヤってヒトを……ケイから自分に戻った、時雨兄さんが殺しました。
――……ごめん、なさい……。
重い全身を引きずって、アヤから抜いた短刀を取り落して、意識を取り戻した時雨兄さんが泣きながら笑います。
――俺は……ヒト殺し、だから……――
兄さんが殺したのは、アヤだけじゃない。
もうすぐ終わる体だったとはいえ、ラクトの命も兄さんが奪ったその現実。
手を下したのはケイだけど、兄さんには止めることもできたはずだから。でもそれでも、兄さんはあえて、自分の体を使うケイの手でラクトを殺したんだ……。
「そんな……何で、こんな……」
簡単に見せつけられてるけど、時雨兄さん、こんなに酷い過去を通って来たんだ。兄さんを助けに行った父さんも、詳しいことは教えてくれなくて。
その後すぐに、時雨兄さんは船から落ちて、真っ黒な空の中に消えてしまいました。そうして神隠しにあったはずの、時雨兄さん……。
こんな運命なら、いなかった方が良かった、って。
時雨兄さんの悲鳴が聞こえた気がして、わたしは思わず、いやだって叫んじゃいました。兄さんがいた場所の、赤くなった船のへりを掴みながら。
「それは駄目――消えちゃいやだよ、時雨兄さん……!」
どうしてかわからないけど、時雨兄さんは必ず、自分を消そうとする。それはきっと、アヤやケイやラクトのために。
その確信だけがあって、わたしは必死に虚空に呼びかけます。
「誰、なの……? これ……ねえ……!」
どうしてこんな、悪夢の空に来ちゃったんだろう。わたしが知れるはずのない過去の出来事。
誰がわたしにこれを見せてるの? そう思った瞬間、一時だけ、この船全体の姿がわたしの脳裏に気配として浮かびました。
天国を探して、空を往く大きな細い船。龍を造ったと笑う、誰かの小さな紫の暗影。
胸がどくん、と強く軋みました。
暗闇に浮かび上がる龍の船を、色とりどりに囲む紫陽花。まるで一枚の絵みたいに小さな世界。
そのままわたしは、船の中に居場所を失くして、兄さんと同じように真っ暗な所に堕ちていくしかなくて……。
でもそれは、慣れてることだから、別に良かった。
暗い水底。元々わたしは、ここから生まれ直して、毎夜ここに還りゆく定めの悪魔使いだから。
「猫羽ちゃん。オレもツバメも、これくらいのことでへこたれないからさ」
優しい悪魔さんのそんな声が、最後に聞こえた気がしました。
誰だったっけ。あれ、どうしてわからないんだろう。
わたしは唐突に、有り得ないはずの夢に取り込まれます。
その折り重なる夢は、声の主や、そしてツバメ兄さんまでが消えた、みんなが沈む遠い水底。
それは駄目だって、わたしは必死に思い出したところで、気が付けば自分の部屋で目を覚ましたのでした。
起きてすぐ、クローゼットの扉をあけて、中にある鏡で必死に自分の顔を見つめました。
またわたし、大切なことを忘れちゃってた。
氷輪くんという優しい悪魔さんを、みんなが忘れてしまったように、わたしもこうして徐々に忘れかけてるんです。
でも絶対忘れたくなくて、忘れそうな自分がすごく辛いです。わたし、ウツギ・ネコハは、結局ただの人間だから。
「……ツバメ兄さんの家を、片付けにいった。それは……『わたし』がしたことだっけ?」
違う、と一人で首を振ります。昨日のわたしは、確かに紫陽花の公園に行ったよね。なのにどうしてか、「消えた兄さんの部屋を片付けた」記憶が今、うっすらとあって。
その有り得ない夢の記憶が、氷輪くんの存在を消そうとしてる。どうしてなのか、そう感じました。
誰かがわたしに、夢の中で話しかけてました。
――捨てましょう。荷物になります。そんなものは最初からなかったんです。
氷輪くんを忘れてしまったわたしは、何もわかってないはずなのに。でも、いやだ、って答えました。
その瞬間、そことは全然違うはずの場所――紫陽花の公園の何処かで、キレイな誰かが悲しい顔に。
わたしは誰かに、大事な何かを渡したような? 昨日のわたしと同じように、紫陽花の公園を一人で訪ねて。
それにしても、紫陽花の公園で倒れたはずなのに、どうしてわたし、自分の部屋にいるんだろう?
さらに不思議なことに、鞄を置きっぱなしの机に、見慣れないものを見つけました。
「……なに、これ?」
ほとんど使ったことのない机の上に、知らない間に置かれた花瓶。名前も知らない乾いたお花が生けてあります。見覚えがある、と思うわたしも少しだけいて、それは多分、氷輪くんのことを忘れてしまったわたしに近く思えました。
「……どこで、拾ったっけ?」
このお花、いつからここに眠ってたんだろう。
明らかにおかしい。もしもわたしが、これを持ってきたなら、それは昨日……紫陽花の公園、から……?
でもその謎は全然わからなくて、とりあえず部屋をきょろきょろ見回すと、わたしはとても重大なことに気が付きました。
「これ……氷輪くんの、匂いがする……?」
部屋の空気がいつもと違います。受付けバイト用に所長が魔法をかけてくれた「くーるびず」な制服を着てるのに、何だか適度に温かくって。
梅雨の初め頃から、急にいなくなってしまった氷輪くん。
これでやっと、わたしは探しに行ける。不思議なドライフラワーを観て、何故かそう確信しました。
「兄さん、氷輪くん…………わたし、行くよ」
始まりはきっと反則。それでもこれくらいしないと、「神」様には敵わないから。
そうしてわたしは、「神隠し」にあった大切なヒト達を、天国を出て楽園に迎えに行きます――
* * *
★中幕
氷輪くんがいなくなった時の、場所は既にわかってました。
氷輪くん、急にいなくなる少し前に、高校の近くの教会に避難してたから。そこから動けそうにない弱りようで、その時から心配はしてたんだよね。
「うううう……でもやっぱり、入れなさそう……」
わたしは悪魔使いです。その道具のPHSを氷輪くんに渡しちゃったから、契約する悪魔さんが氷輪くんと一緒にいなくなったけど。
それでもわたしの属性は「魔」。今目の前にある赤いレンガの教会は、こぢんまりした住宅街にあるわりには、すごく強い「聖」の結界が張ってあって……バイトの時に使う魔法の鎌で、結界を叩き斬るつもりなら多分入れるけど、それは傍迷惑だなぁと一応思うんだ。
「このドライフラワー……聖なる匂いがしてるのにな」
なんとなく、持ってきた謎のお花があれば、結界の問題は何とかなるんじゃないかと思ったんだけど。そんなに世の中甘くないのかな、ここなら絶対、氷輪くんが消えた手がかりがあるはずなのに……。
暑い夏の黄昏時、じいっとわたしは、教会の屋根の十字架を見上げることしかできません。
せっかくわたし、バイトもお休みを取ってきたのに。昨日の仕事は、所長の言う通り何も見つからなかったって、それだけちゃんと報告しました。後に起きたヘンなことはまた、時間ができたら相談してみようかなって。
今日は受付け用の制服をそのまま着てるけど、これ、おヘソが出てたり長袖だったりするわりに、暑過ぎず寒過ぎずで便利なんだ。
「……もう。わたし、そろそろガマンの限界だよ、氷輪くん」
受付兼番人として使う魔法の鎌を、いっそ取り出して使っちゃおうか。
結界を斬っちゃえ。そんな悪魔のささやきが、わたしに降りかけてきた時のことでした。
「――あれぇ? ひょっとして、棯さんちの猫羽ちゃん?」
夕暮れの教会の前で立ち尽くすわたしに、背後から知ってる女の人の声がかかりました。
後ろには三人の人が来てて、どうやらこの教会の人達みたいです。
「……陽子さん、知り合い?」
「あれ? 詩乃ちゃんには話さなかったっけ? この子が棯さんだよ、勝一の昔の件を解決してくれた、あの可愛い探偵さんなんだよー」
一人は真羽陽子さん。以前に担当した事件の依頼人さんで、氷輪くんの口コミでわたしを指名してきた人です。
もう一人は知らない女のヒト。真羽さんは活発そうなセミロングの髪型に短いスカートだけど、こっちのヒトはゆるっと長い髪に眼鏡が似合って、真面目そうだけどあんまり女のヒトっぽくはない青いジーンズ。
わたしもジーンズって最近知って、一度はいてみたいと思ってたんだけど、猫羽ちゃんには似合わないよって、みんなから何でか反対されるんだ……。
シノって呼ばれた眼鏡のヒトは、わたしが持ってるドライフラワーに、何故か興味津々そうでした。
「……探偵さんなの? それも、翼槞くんが紹介したっていう、あの」
でもわたしでなくて、お花を視てることは言わない。
このヒト、何かヘン。わたしはすぐにそう感じて、警戒というより、何処か不思議な違和感があります。
そもそも、わたしの周りのみんなが忘れてる氷輪くんを、この人達は覚えてることも何だかおかしいよね?
二人共、氷輪くんの知り合いみたい。
そして後一人、二人が連れてる小さな子供が、わたしのそんな違和感を強烈に吹き飛ばしました。
「――タンテイさん? タンテイさんって、なに、かーさん!」
まだ多分四歳くらいの、無造作な黒い髪の男の子。
え……氷輪、くん?
わたしの最初の印象は、何故かその一言で、呆気にとられてしまいました。
呆然としてるわたしの前で、お母さんらしい真羽さんが、しゃがんで目を合わせながら男の子の頭を撫でます。
「探偵さんはねえ、普通なら頼み難いお願いをきいてくれる人なんだよ、夕烏。お母さんもね、猫羽ちゃんに大変な事件を解決してもらったんだよー」
「タイヘン……なジケン!」
真羽さん、わたしに久しぶりに会って喜んでくれてるみたい。「棯さん」から「猫羽ちゃん」に、なんか自然に呼び方が変わってる。
ユウ。っていうらしい男の子。氷輪くんが小さくなったみたいな顔と気配の子供に、ほら、とわたしの方を向かせました。
「そうなの、大変な事件だったの。お母さんとても助かったんだ、だから夕烏も、猫羽ちゃんにお礼を言って?」
「……ネコハ! うん……ありがとー、ネコハ!」
きらきらとわたしを見つめてくるユウ。
見れば観るほど、存在そのものが氷輪くんにそっくりで……でもただの人間で、どうしてかこうして目の前に来るまで、わたしはそっくりだと気付けませんでした。
氷輪くんのそっくりさんが近付いてきたなら、氷輪くんを探しに来たわたしだから、気配に気付いても良かったはずなのに。
あ、でも真羽さんのお家に行った時、知ってる気配を感じたのはこれだったんだ……あの時も何故か、氷輪くんにそっくりとはわからなかったけど。
色んな意味で戸惑うしかできないわたしを、シノっていうヒトの方は、眼鏡の奥に意味ありげな空気を漂わせながら見つめていました。
「…………」
真羽さんはユウを、シノに預けに来たみたい。じゃあ、私は仕事だから! と、一人だけすぐに、教会を後にしていったのでした。
真羽さんがいなくなったのを見届けてから、シノが改めてユウを抱っこして、わたしに話しかけてきました。
「あなた……翼槞くんの知り合いなのね?」
「……」
「わたしは音戯詩乃。あなたなら意味がわかると思うから言うけど、翼槞くんの契約者なの」
――がーん。
わたしはもう、わけのわからなさがいっぱいいっぱいです。
氷輪くん、それはひょっとして悪魔として、シノと契約をしてるってこと……?
「契約者って……氷輪くんと?」
「ええ。でも最近、彼が現れなくなって困ってしまって。あなたももしや、それでここに来たんじゃないかと思って」
うわあ。シノ、何だか一瞬きらりと眼を光らせたけど、これってちょっと見覚えがある色なんだけどな。
わたしの「兄さん」。氷輪くんと同じで、神隠しにあった棯時雨な方の「兄さん」は、本当の目は青だったのに金色に光るの。それと同じ。
それは「神」様に関わる色だって、異界にいた頃に教えられたことがあったから。
「あなた、悪魔となにがしか因縁がある人でしょう。彼が消えたことに関して、何か知っているなら教えてほしいの」
シノは多分人間だけど、その眼を持つからには「神」の力がある仕え人。
それで初対面のわたしが「魔」属性ってわかってる。氷輪くんもきっと、シノの「力」を見込んで契約したんだ。それだけ何とか、必死に推理します。
氷輪くんの情報を、というのは、わたしこそ訊きたいことでした。
「わたし、知らないよ。氷輪くんがここで消えたから、わたしもずっとここを探したくて。それで今日は来たんだけど……」
「そうなの? でも、それなら何故――あなたは神器を持っているの」
「――え?」
ドライフラワーを握り締めるわたしの前で、シノに抱っこされるユウは、淋しそうな顔で大人しくしてます。
わたし達の話を邪魔しちゃいけない。ちっちゃいのにそう感じてるらしい敏感さも、まさに氷輪くんとそっくりです。
「天の主でなく、昔のわたしが関わる方の『神』。わたしにはあなたの持ってる花が、何故かヒトの心臓に視えるの……そしてそれは、ユウくんと同じ、消えかけた何かの残骸なんだって」
シノはすごく厳しい顔をしてる。ユウを抱きしめる手に力が入ってます。
「わたしが視れるものは、主以外の地上に在る高次存在だけ。天使や悪魔、そして八百万の『神』々。あなたの花がおかしく視えるということは、それは何かの高次存在――多分、『神』に関係する器であるはずなの」
やおよろずの「神」。そこまで聞いて、わたしはすぐに思いました。
あ……これ、悪魔使いなわたしの専門外だ……。
昔に少し教えられはしたけど、もっと勉強しておけば良かったなあ。わたしのいた異界の神隠しと、日本の神隠しは多分ちょっと違うし、だから余計に専門外で何も言えない……。
わたしがひたすら困るのをわかってか、やがてシノが一緒に来て、と。
教会の結界の維持者らしい「力」で、わたしを易々と、その内に招き入れてくれたのでした。
ユウと一緒に入れてもらったシノの部屋。それはわたしが、最後に氷輪くんに会った避難場所そのものでした。
わたしとユウをベッドに座らせて、クローゼットからシノがヘンな道具を取り出してます。
「それ……何?」
「わたしの最初の主人の形見。振り香炉と言うの。神楽鈴でも良いんだけれど、あいにく実家にしか置いていなくて」
鈴が沢山ついた鎖に吊られる金属の入れ物が、小さく横に振られて揺れます。
丸いランプみたいな入れ物の部分が香炉なんだって。そこから出てくる白い煙が、シノの部屋だけを別世界にしていくみたい。
「ごめんなさいね、教派が違って、人目のある聖堂で出すと迷惑なものだから。でも、あなたにつられて悪魔が現れると困るから、これで一応魔除けを…………――」
あれ。何でか急に、シノの声が遠くなりました。
同時に部屋が真っ黒に染まっていきます。まるで香炉から出る白い煙が、わたしの周りのものを消していくように。
隣で絵本を見てるユウと、ずっと持ってるドライフラワーだけが、真っ黒な部屋の中で浮かび上がります。
「……え……これ、確か……」
昨日の最後と同じような、真っ暗な世界。そういえばこれ、真羽さんの依頼の時にもありました。急に周りが暗くなって、わたし、座り込んじゃったの。
今は最初からベッドに座ってたけど、一度お邪魔した場所で油断してたせいか、意識までだんだん遠のいてきました。
ひとまずユウにぶつからないようにだけ、わたしは後ろに倒れ込みます。
――俺は……ヒト殺し、だから……――
暗い世界で、真っ黒な空に堕ちていっちゃう前に、そう残していった兄さん。
そのままわたしは、真っ黒な世界へ、今度は自分から迷い込むと心に決めたのでした。
かごめ、かごめ。かごの中の鳥は……。
とても有名で、わたしの故郷でも詠われるまじない。その気配が沢山の鈴の音と一緒に、何処かから小さく聞こえてきました。
「かごめ、かごめ…………いついつ、出やる…………」
胡乱なわたしが思い出せるその詞の意味は、ごく一部だけ。
籠の目は六芒星の形をしてる。六芒星は、悪魔を喚ぶ魔法陣の逆向きの五芒星と違って、逆の向きがないもの。魔除けとできる聖なる意味を持ちながら、上向きの三角と下向きの三角を持った、聖魔どちらの意味も持つもの……。
「夜明けの晩に…………後ろの正面…………」
六芒星が含む矛盾。二つ以上の意味を持った籠目。
そこに閉じ込められた鳥が、何なのかまではわからないや。でも、とても大きな「力」を持つ詠唱だって、それだけ教えられました。
悪魔使いのわたしには扱えないもの。それがどうして、この黒い世界で聴こえてくるんだろう?
でもきっと、これはシノが詠ってた声。それは何となくわかりました。
振り香炉っていう、沢山の鈴がついた器を持っていたシノ。それを今日みたいにベッドのそばで持って、シノが子守唄を歌う姿が不意に見えました。
――……ねえ。天使さまのうた、うたって、ね?
誰だろう。甘えてる子供は、ユウにも見えるし、小さな娘さんにも見えます。
そしてシノの後ろには、わたしより少し年下みたいで、ふわふわとした服を着た淡い人影。聖なる光の翼をひっそりはやす、知らない女の子みたいなヒトがいます。
「……ひょっとして……天、使……?」
氷輪くんという悪魔と契約してるシノ。でもそれよりずっと前に、シノはこんなヒトとも出会ってるんだ。
それがきっとこの教会に、聖なる結界を最初に張った神の使徒。
それだけわかったわたしの前に、次の瞬間、思いもよらない相手が現れることになります。
ふっと、誰かがわたしを呼んだ気がして、急激にわたしの意識ははっきり戻ってきました。
「……え?」
「…………」
びっくりしました。もう誰もいなくなった黒い世界で、どうしてか、懐かしいヒトが立ってました。
鈴だけが鳴り続ける暗闇で、わたしと同じ場所にいるように浮かんでる人影。
いつの間にかわたしも立ってて、体がすくんじゃって……それをそのヒトは、とても哀しげに見つめていました。
「何で……精霊の、おねえちゃん……?」
キレイな紫苑色の長い髪。髪と同じ紫苑色の大きな目。それは昨日、あの大空の船上に出てきたラクトと全く同じ色。
肩掛けをして足までつくスカート姿の小さなおねえちゃんが、わたしの古い愛称を呼んでくれます。
「……ここに、来ちゃだめ。……アークちゃん」
「……?」
「アークちゃんは、天使……『神』になんか、なっちゃいけない……」
本当ならずっと、ラクトと一緒にいたはずの精霊。ラクトの双子だった紫苑のおねえちゃんは、懐かしさで声の詰まるわたしが何か応える前に、くるりと背中を向けて、静かに歩き始めました。
「――待って、おねえちゃん……!」
わたしは全力で走ってるはずなのに、黒い世界の中では全然追いつけなくて。ただ、ずっと何処かで鳴ってる鈴の音が、ちょっとずつ小さくなっていきます。
どんどん遠ざかるおねえちゃんを必死に追いかけます。せっかくラクトが最後にわたしに、遺してくれたおねえちゃんなのに。今もわたしと、ずっと一緒にいてくれてるはずなのに、どうして遠くへ行っちゃうんだろう。
その内に、突然そこに、月の光に照らされた和風な縁側が現れました。
「……――へ?」
「……えっ?」
その縁側で、生身の足を投げ出して座って、だらりと月を見上げてたヒト。
長い青銀の髪を右側で一つに束ねて、太ももまで隠す白いシャツ一枚だけを着るキレイなヒトに、わたしはあんまり驚いちゃいました。思わず、おねえちゃんを追いかけることも忘れるほどに。
「えっ……氷輪、くん……?」
「まさか……猫羽ちゃん?」
いきなり正面に現れたわたしを、鋭い蒼の目が過不足なく捉えます。
それは紛れもなく、わたしが探してたはずの氷輪くんの顔。それなのに、どうしてか元々以上にキレイで……そして、可愛くって……。
「もー……! ダメでしょ猫羽ちゃん、よりにもよってこんなところにやってきたら!」
大慌てで立ち上がって、下の方しかボタンを留めてないシャツで、そのヒトはずかずかとこっちに歩いてきました。
言ってることは、紫苑のおねえちゃんと同じ。この黒い世界に自分から来たわたしを、とても焦って見てます。
「やっぱり……氷輪くんだ……――」
色々違和感はあったけど、ちょっとほっとしちゃった。両手を組んで言ったわたしの肩を、そのヒトががしっと掴んできます。
「帰んなさい、猫羽ちゃん! オレはもう、氷輪くんじゃないから――ここは一番、猫羽ちゃんが来ちゃいけないところだから!」
「……?」
「ここには時雨もいない、猫羽ちゃんの探し人は誰もいないよ。風漓にも会っちゃだめだよ、せっかくここに隠れて猫羽ちゃんを守ってるのに」
何だか本当にヘンな感じ。氷輪くんと声も口調も同じそのヒトの恰好は、正直、氷輪くんとは程遠くて。
吸血鬼の氷輪くんはこんなに、生の肌をさらすような服装はしません。右ポニーテールの髪もここまで揺れるほど長くないし、そんなことが気になって、わたしはあんまり、そのヒトの言葉をきちんと聞けてません。
「氷輪くんじゃないって……どうして?」
「見ればわかるでしょ? オレは冬花紫音。何処からどう見ても、月光の似合う美少女天使でしょ」
……うん。確かに今、わたしの目の前にいるのは、すごくキレイで可愛い女のヒトで……。
氷輪くん、元々キレイな顔と華奢な体型で、厳密には完全な男のヒトじゃないみたいだけど、女のヒト扱いされるのは物凄く嫌がってたと思う。
自分からこんな、シャツ一枚なんて服、絶対着なかったよね……それでわたしも、色々違和感だらけです。
ぽかんとしてたら、その内ふっと、黒い世界が明るくなってきました。
「良かった、詩乃サン、やっと気が付いてくれたか。詩乃サンがいるだけでもあの部屋は神域になり得るのに、乳香なんて焚かれちゃ、そりゃこうなるよ」
「――え?」
さっき、シノの声が遠くなっていったみたいに、氷輪くんが急速に遠ざかっていきます。
待って、と言おうとしても声が出ない。代わりに剥がれ落ちてく黒い世界の合間から、本来の部屋の光景が戻ってきます。
「大丈夫、しっかりして、ごめんなさい、わたし……!」
シノがすごく焦りながらわたしを揺さぶってる。わたしは自分の意志でこっちに来たのに、申し訳なくなっちゃうくらい。
「詩乃サンに伝えて。余計なことをしなくても、翼槞は残ってるからユウは消えない。このまま詩乃サンに関わり続けてくれればね」
「――え?」
「もうここに来ちゃダメだよ、猫羽ちゃんも。それじゃ――ばいばい」
そこで氷輪くんが、そんなにもあっさり、本気の別れを告げてきたから。
わたしはやっと、全身に力を入れ直して、積もり積もった想いを必死に叫びました。
「そんな、氷輪くん――氷輪くんがいないと、兄さんが辛いよ……!」
黒い世界が消え去ってしまう、最後のその瞬間に。
氷輪くんは哀しそうにわたしを見つめて、ぽつりと……何だかとても、氷輪くんらしくないことを呟いて観えました。
「……猫羽ちゃん。オレはツバメの……何なのさ?」
どうしてそんな。
答えようとして顔を上げたら、そこにあったのはシノの細長い眼鏡で。
「――気が付いたの!? 良かった、本当に……まさかこんなことになるなんて……」
倒れ込んだはずが、座ったままだったわたしを、シノが必死に揺り起こしてました。
わたしの横ではハラハラと、ユウも両手をついてわたしを見上げてます。
そうしてわたしは完全に、黒い世界から連れ戻されてしまったわけでした。
どうしたの、と涙目で尋ねてきたシノに、わたしも自分でわかるだけのことしか返せません。
「……兄さん達の世界に行ってた。でも……会えなかったの」
わたしの頭を駆け巡るのは、どうしよう。ただその一念だけです。
どうしよう、氷輪くん、どうしちゃったんだろう。
何もわからないけど、シノに伝えて、と言われたことはちゃんと言います。
「あのね。氷輪くんが、シノが何もしなくても、ユウは消えないって」
「――えっ?」
「シノのそばにいれば消えないって。だから、何もするな、って」
震える声に涙が滲んじゃいました。多分これ、氷輪くん、わたしにも来るなって言ってるわけだし。
さっきの世界に行けたのは、つまりシノのおかげなんだ。それならわたしは、わたしの心もシノに伝えます。
「それでもお願い、シノ。わたし、氷輪くんにもう一度会いたい」
「――……」
「力を貸して。わたし一人じゃ、それは無理だと思う」
シノはさっきまで、意識を急に失くしたわたしを自分が巻き込んだって後悔してた。
でもそれは違う。わたしの意志だってちゃんと言わないと、何もするなって、氷輪くんの言うことを聞いてしまいそうだから。
「わたしは氷輪くんと兄さんを連れ戻したい。そのために、『神』の世界に行かなきゃいけないの」
シノがそこで、眼鏡の中の目を大きく見開いて、改めてわたしをじっと見つめてきたのでした。
「あなたのお兄さんが……翼槞くんと一緒に?」
シノがちょっと厳しい声色になりました。ユウが不安そうにベッドを降りて、床に座るシノの膝にちょこんとはまります。
悪魔と因縁のあるわたし。それをこのまま、好きにさせていいのか、シノは判断しかねてるみたい。
「相方がいるって、そう言えば彼は言っていたわね。ユウくんのことも当たっているから……あなたの言っていることは、きっと本当ね」
「…………」
心配そうに見上げるユウの頭を撫でながら、シノは険しい顔を崩しません。
「……あなたも、『神』の使徒なのね」
「――え?」
床に置いてる、さっきまで白い煙を出してた香炉の鎖をシノが持ちます。
それはシノの大切な物。右手で香炉を、左手はわたしの膝にあるドライフラワーを掴んで、二つの手をわたしに差し出しました。
「これは預からせてくれる? ……明日また、今度はお昼に、この教会に来てほしいの」
「――?」
「それまでにわたしも考えておくわ。……これが、悪魔の罠でないかどうかを」
そこでやっとわかりました。シノはわたしと、ユウがいない時に会いたいんだ。
ユウは消えない、そう言ったわたし。シノがそれを心配してるのは本当みたい。氷輪くんが言った通りで、だからシノはわたしを信じようとしてる。
ここで急いで、シノの意思を無視しちゃだめだよね。色々わからないことだらけで、お話ししたいことは沢山あるけど、シノにとってわたしは神様の敵の悪魔かもしれない。
わたしは黙って頷くと、教会の入り口まで送ってもらって、その日は家に帰ることにしました。
シノの言う通り素直に帰って、きっと正解だったんだと思う。
次の日、バイトの休みを取ってお昼過ぎに教会に行ったら、シノは驚くくらいに優しい顔でわたしを待ってました。
「来てくれてありがとう、棯さん。……わたしも、猫羽ちゃんと呼ばせてもらっていい?」
「……うん。シノ」
教会の前、明るい太陽の下で、シノがじょうろで花壇にお水をあげてます。時々きらりと、普通の茶色の目が金色に光ります。
「ユウはもう、真羽さんと帰ったの?」
「ええ。最近、ユウくんが時々透けて視えて心配だったんだけど……だから、ユウくんと同じ翼槞くんが消えたのが、わたしも気になって仕方ないの」
昨日はずっと、わたしもユウの気配が感じ取りにくいままでした。
それは同じ気配を持つ氷輪くんが消えたせいなのかな? 二人の関係はさっぱりだけど、今度会えたらもう少しじっくり観てみなきゃ。
「わたしがいれば、ユウくんは消えない。逆に言えば……わたしに関わらなくなれば、ユウくんは消えるのね」
「…………」
「それは駄目だわ。それならわたしも、あなたに依頼したいの。ユウくんが『神隠し』に逢わない方法を、一緒に探してほしいの、猫羽ちゃん」
氷輪くんと兄さんを連れ戻したいと、シノに昨日言ったわたし。
それが「神隠し」だって、シノにはわかったんだ。だから一緒に、ユウも守ってほしいと言ってる。
シノと協力するための条件がそれなら、悪魔相手よりよっぽど優しい取引でした。
「……うん、約束する。昨日みたいにシノがわたしを『神』の世界に送ってくれたら、わたしはユウのことも一緒に調べてくる」
氷輪くんに訊ければ、多分わかるよね。同じ気配なんだもの。
だからわたしとシノの目的は同じ。わたしはそれに、時雨兄さんも探さなきゃだけど。昨日は全く気配を感じられなかった、時を渡る「神」の時雨兄さん……。
シノがありがとうと笑って、教会に戻るようにわたしに背を向けました。
「今日は聖堂の方にしましょう。ちょうど、義父も義母も留守にしているの」
ついてきて、と言ってるのはわかるから、黙って後に続きます。
「『神』の世界は、天にまします主とは違う。地上の闇の中、八百万の『神』は常に世界にある。視えるだけのわたしでは届かなくて、猫羽ちゃんのように『神』を潜める人だけが行ける所」
……わたし、悪魔だけでなく「神」も憑いてるんだ。心当たりはあるからあんまり驚かないけど。
昨日出会った精霊のおねえちゃん。おねえちゃんは元々神聖な霧の泉の巫女で、神格化された泉の精霊に近いし。
わたしを悪魔から守るために、ラクトがわたしに託してくれたの。それでわたしの髪は、普通はない紫苑色なんだ。
聖堂に入ると、シノが告解室の聖職者側に入りました。わたしは告解する側に入れと言ってるみたい。
「昨日と同じで、乳香を焚くわ。でも場所が違うし、どうなるかわからないから、もしも手掛りがなければすぐに戻ってきて」
「戻るのは……どうやってやるの?」
「鈴の音が大きくなる方へ。ずっと振り香炉を鳴らしているから、それを探してくれれば戻れるはずよ」
振り香炉の乳香って、「ヒトの神性」を高めるものなんだって。それを聖なる結界の内で使えば、神域に近付けるみたい。
そして「神」側に踏み込む鍵があのドライフラワー。それが接点だとシノはその眼でわかったんだね。翼とか違う鍵があれば別だって言ってたけどね。
告解室に置いてあったドライフラワーを持って座ります。
流れてきた白い煙の中、わたしはまた黒い世界に包まれていったのでした。
* * *
よく考えたら、シノもだけど、わたしもあっさりシノを信じ過ぎだなあ。
本当は神と悪魔、敵同士の属性だよね。シノの素性はよくわからないけど、人間にも神官さんとかの血筋はあるしね。
そんなことを思いながら、暗闇の中で目を開けたら、遠くの方に小さな灯りが光って見えました。
「……昨日の縁側? ううん……なんか、屋形船みたいな?」
昨日は焦っててよくわからなかったけど、真っ黒な世界にもかすかに輪郭があります。まるで大きな生きた船の上で、和風な船楼がぽつんと一つ観えてるだけみたい。
結構大きい船な気配がするから、本当はもっと他にも船室やマストがあるんだろうけど、観えてる場所に行くしかないよね。きっとわたしには立ち入れない領域なんだ。
そもそもこの船が「力」の塊だから、わたしにも気配がわかるだけで、あの船楼が観えてることがおかしいくらいだし……。
氷輪くんが昨日、座ってた縁側。今日は誰もいなくて、月も出てません。
そこから障子をそっと開けると、中にはたった一人――
何処かで観たような気がする女の子が、和室の壁にもたれて、膝を揃えて座ってました。
「……え?」
「……――」
障子を開けたわたしの方へ、女の子の真っ黒な目がすっと向けられます。
目と同じで真っ黒い髪は、石竹色のリボンで小さく束ねられてる。括れるほどもない短さに見えるのに、どうなってるのかな。
和室の中は行燈の光が妙に明るくて、女の子の羽織る水色のパーカーと、膝上までの黒いスカートがよく見えていました。
もう大分、シノの鈴の音が遠くなってしまった黒い世界で。
いきなり侵入してきたわたしを、女の子は黙って見つめるだけ。
なので、わたしから思い切って声をかけます。
「あの……あなた、誰……?」
「……」
「昨日は氷輪くんが、ここにいたはずなんだけど……あなたは、氷輪くんの知り合い?」
行燈の横で、襖にもたれて座る女の子。それなのに影がないことに、そこで気付きました。
同時に女の子が、わたしの質問に答えるように口を開きます。
「……初めまして。ここで会えるとは思わなかったわ――棯猫羽」
「え? わたしを知ってるの?」
「当たり前でしょう。わたしがいるから貴女は存在する。でもいつもは、この船の外で、暗い水底で凍えているだけなのにね」
どきん。胸が突然、重苦しくなります。
暗い水底。その言葉には覚えがあり過ぎました。
「貴女をこの世につなぎ留める『桃花水』。空ろのオオカミも還る混沌の坩堝――貴女が肌身離さない命の水玉が、わたしと貴女の礎でしょう」
わたし、昔、サツリクの天使でした。ヘンな子だって思われるから、いつもは言わないけど。
小さい頃に家族の元から攫われて、サツリクの天使になった随分後に、最後に悪魔使いになりました。兄さんのおかげで人間に戻れて、棯猫羽になったんだけど。
でもわたしは、一度人間でなくなってしまった人間。
だから毎夜、眠りに落ちる度にそこに戻るんです。わたしをずっと、何とか人間として、生かしてくれてる暗い水底に。
もうとっくの昔に慣れたけど、毎日冷たい、暗い世界。
それに「桃花」って、あれ、どこかで聞いたような……とても大切な名前の気がして、わたしはしばらく黙り込んじゃいます。
女の子が畳で立ち上がって、わたしを手招きしました。
すごく無表情なのに、こころなしかちょっと笑ってるみたい?
「どうぞ、いらっしゃい。訊きたいことは何でも答えてあげる」
そうしてもたれてた襖を開けると、大きな座布団を二つ、よいしょと取り出した女の子でした。
和室の真ん中で、わたしはドライフラワーを握りしめながら正座します。
向かい合う女の子が改めて、自分は「橘桃花」だと名乗ります。ホントの名前じゃないけど、今はそのヒトに一番近いんだって。
「貴女一人でここに来るのは、到底不可能だと思ってたけど。未熟な探偵見習いさんは、人の力を借りることがとても上手いのね」
「……」
トウカは別に、嫌味ではないみたい。
わたしがここに辿り着いたことを、トウカなりに嬉しく思ってる感じ。
「時空の差異に気付ける観測者だけが、時の闇に干渉できる使徒だから。貴女の周囲には多いみたいね……でも貴女には闇を越える翼がないし、因果とその果ても観えていない。貴女の直観では『今』しか観えないでしょう?」
「――」
「神隠し――時の闇に消えた時雨を覚えてるのは貴女だけ。わたしに貴女の応対を任せる限り、時雨は帰りたくないみたいだけど」
「……」
うわあ……トウカは本当に、何でも応えてくれる気みたい……。
どうしよう、何から訊こう……探偵物でも反則だよね、いきなり解決編って……。
「えっと……トウカは昨日、わたしが来たことは知ってるの?」
とりあえず思い付いたことから話してみます。
猶予はいくらかありそうだったし、わたしにも落ち着く時間が必要でした。
「昨日も来たの? それは何処から、どうやってここに?」
「シノの部屋から、今日と同じ方法で。そしたら昨日は、氷輪くん……が、女のヒトみたいな姿でここにいたよ」
トウカが口元に手を当てて、少し考え込みます。どうでもいいけど、座布団の上で膝を下から抱えて、スカートが短いからちょっとはしたないな……。
「紫音に会ったの? それはまたレアな……ひょっとして、夕烏のいる所から神界に入った?」
「?」
「神界はね、過去か現在か未来、接点となる翼や神器次第で時相が変わるの。谷空木だけならここに来れるはずよ。今後は気を付けなさい」
たにうつぎ? 目を丸くしたわたしの手元に、トウカが視線を移しました。
同時にわたしが握り締めるドライフラワーが、何故かキレイな白いお花に戻っていきます。
「え……!?」
「この花の有無が、氷輪汐音に関わる接点。時雨に汐音の在り処を教えたキッカケ、『神』の悪戯の『雨降花』なの」
よくわからないけど、シノがこれを神器だと言ったことと関係がありそう。
このお花がなければ、時雨兄さんは氷輪くんを連れていかなかった……そう言いたいみたい。だからこれが、この黒い世界との「接点」なんだって。
「貸して。大丈夫、後でちゃんと返すから」
ひょいっと、横向きに座り直したトウカが、水気の戻ったお花を持っていきます。
それにしてもトウカ、さっきからすごく、実は面倒見が良いんじゃ……わたしが何か言う前に、全部先にフォローを加えてるね。
毎晩、わたしを包んでくれるという水底のヒトが、お花を手の平に乗せてちょっと冷たく笑いました。
「ヒントをあげる、探偵さん。氷輪汐音を連れ戻したいなら……この雨降花の末路が、今後の分岐点にもなる」
気安い声のトウカとは裏腹に、次にわたしが目にすることになったのは、思わず吐き気を催すくらいのひどい光景でした。
「……えっ……!?」
トウカの手の上で、水気の戻ったお花が突然、ヒトの心臓に変わりました。
シノが最初に、「ヒトの心臓に視える」と言ってた通りに。
「貴女の世界から隠されたのは氷輪汐音。もうこの心臓は返せないけど、血に宿る心だけなら、貴女に返せる」
真っ白な心臓は、時間が止まったみたいにぴくりともしません。
でも大きな血管の切り口からは、真っ赤な血がなみなみと見え隠れしてます。
「それ……氷輪くんの……!?」
「貴女が思っている通り、時雨が氷輪汐音をここに連れて来たの。汐音の心だけが宿る、この心臓を直接抉り出して」
だからバツが悪いのね。なんて、トウカは冷たい笑顔で言います。
「でもそれだけよ。『ツバメから成った時雨』は最も『神』の気が弱いから、時雨さえ望めば、あっさりツバメに戻れるでしょうに」
ここにいるらしいのに、顔を見せようとしない時雨兄さん。トウカの言うことが本当なら、行方不明のツバメ兄さんが時雨兄さんになっちゃった……そういうことなのかな?
それで氷輪くんの心臓まで奪ったって言うなら、確かにわたしはすごく怒るけど、ともかく今は氷輪くんを何とかしないとダメだね。
「待って。氷輪くんに心臓は返せないの、どうして?」
「そうしたら夕烏が消える。他にも消えてしまうヒトがいる。それは貴女の受けた依頼に反するでしょう」
「……!」
よくわからないけど、だからトウカは、「血を返す」と言ってるんだ。
でもそれって、要するに、つまり……。
「選んで、猫羽。これを誰に飲ませるか――どうやって汐音を連れ戻すか」
呆然として、わたしは声を忘れそうでした。
でもそれじゃいけない。今までちょっと、おかしなことだらけなんだから、まず現状の確認を優先しないと。仮にもわたし、探偵なんだから。
「……待って。氷輪くんは、翼槞だよね。さっきから言ってるシオンって、誰のことなの?」
「彼が二人いることは貴女も知ってたでしょう。山科ツバメを『鍵』としたのが汐音の心。彼が守る天の扉のために、新しく生まれた死神の悪魔よ」
「……兄さんに命を分けた、大人の氷輪くん。そのヒトのこと?」
「その通りよ、さすがね。貴女と共に高校にいた少年は氷輪翼槞。そっちは今も心臓を失くしたまま、天の国を封じて眠りについているはずよ」
頭が痛くなりそうでした。何でそうなったのかわからないけど、時雨兄さんはシオンの命だけを奪って連れて来たんだ。
そして心臓を氷輪くんに返すと、今度はユウが消えてしまう。それが導く推理は多分、一つでした。
「ユウは、もしかして……氷輪くんの心臓を持ってるの?」
「ご明察。ここから時雨は、この心臓を過去の時空へ持って渡る。それを基に現世の場合、夕烏が生まれることになる」
氷輪くんとユウの気配が同じ理由。フタを開けてみれば、それは結局、時雨兄さんの仕業だったわけだね。
「時雨兄さんはどうして、そんなことをするの?」
「そうしないと汐音が表れないから。汐音は翼槞の内の可能性に過ぎなくて、夕烏がいることで存在が確定するの」
「……トウカはどうして、そんなに色んなことを知ってるの」
「わたしは貴女の接続する『混沌』の管理者。いつも誰かを真似ながら、闇夜で世界を視る空ろのケモノ……こうして直接関わった相手のことしかわからないのも、貴女と似た直感の在り方でしょうに」
うううん…………。
トウカが嘘をついてないのは、わたしもわかるんだけど……。
あんまり話が急に進み過ぎて、鵜呑みにするのはダメって、わたしの探偵としての理性が警鐘を鳴らします……。
トウカがふっと、心臓を両手で持ち直すと、それは最初のドライフラワーに戻ってしまいました。
「後で返すと言ったでしょう。今すぐ選択しろとは言わない。氷輪汐音を連れ戻したいなら、さっきの方法しかないというだけ」
「――……」
わたしにタニウツギというお花を返します。受け取ったものの、これが氷輪くんの心臓のモトなんだと思うと、わたしの心中は穏やかじゃないです。
「氷輪くんの血を飲むって……飲んだヒトはその後、どうなるの?」
「そうね。飲ませるとしたら、どんな候補がいるの?」
「…………」
このタニウツギが氷輪くんの心臓になるのは、多分ここでだけです。
ここにいる人は少ししかいない。わたしとトウカと、顔を見せない時雨兄さん。
昨日のシオンや、精霊のおねえちゃんは違う気がする。現実にいないヒトに飲んでもらっても仕方ないよね。
「それは……わたしか、時雨兄さんしかいないんじゃ……」
「わたしでもいい。その場合、現れるのは冬花紫音だけど」
「え? ……え?」
「貴女が飲めば、今の貴女は消える。時雨が飲めばツバメになる。氷輪翼槞は吸血鬼なんだから、その血を飲めばどうなるかはわかるでしょう」
うう……それでなくても、血を飲むなんてあんまり考えたくないのに、結果までずばっと言うなあ、トウカ……。
それでも、元々氷輪くんの命をもらったツバメ兄さんはわかるけど、わたしが消えるってどういうことかな?
そんな三つの怖い選択を、冷たく突き付けるトウカに、どうしてか、紫苑のおねえちゃんがうっすら重なった気がしました。
その意味をまだこの時には、わたしは知る由もありません。
奪われた氷輪くんの心臓。その血を誰が連れて帰るか――飲むか。
とりあえずわたしは、気になることから質問を続けます。
「わたしが吸血鬼になったら、わたしは消えるの?」
「今までの貴女じゃなくなるのは当たり前でしょう。けれど貴女は、吸血鬼になるわけでもない」
「……?」
アークちゃんは、天使だから。昨日のおねえちゃんの声が、不意にまた聞こえました。
「この谷空木を見てもわからない? ここにある死神の血は、魔性の気配?」
「……ううん。何だか聖なる感じだなって、見つけた時に思ったよ」
そう、と。それなら十分とばかりトウカは立ち上がって、帰れと促すように障子を開けました。
「選んでからまた来て。あまりここに長居すると、それだけで貴女は変わってしまうから」
「…………」
これがどうやら、タイムリミットみたいです。
わたしも大体必要な情報は聞けたし、言う通り和室から出て、トウカにさよならって言いました。その後すぐに障子は閉まりました。
真っ黒な船の上に出て、最初に来た所。鈴の音が大きくなる方を探して、黒い世界を一人で歩きます。
「……時雨兄さんの、バカ」
あくまでずっと、出てこなかった兄さん。それが兄さんの意思表示だね。氷輪くんの血を飲む気は、多分ないんだ。
こんな真っ黒な淋しい世界に、時雨兄さんはずっといたいのかな。氷輪くんの心臓を奪ってきてまで……。
暗い告解室で目を覚ましたわたしは、すぐにそこが現実だとは思い出せませんでした。
シノに支えられながら聖堂に出て、長椅子でちょっと、ぐったり横にならせてもらいます。心配そうにしてるシノに、タニウツギのドライフラワーを改めて見せました。
「……これ。ユウに持たせてたら、ユウは消えないから」
今すぐシノにあげるわけじゃないけど。ひとまず依頼の成果は、ちゃんと言わないとだよね。
氷輪くんの心臓――というか、それにつながる接点らしいタニウツギ。
今日もユウは夜に来るらしくって、それなら、とわたしは、しんどい体を必死に起こします。
「今日の夜……もう一度、ユウのいる時にわたしを送って、シノ」
「――え? 猫羽ちゃん……そんな体で大丈夫なの?」
「会わなきゃいけないヒトがいるの。でも……今日、わたしもシノの部屋に泊めてくれたら、すごく助かるかなあ」
正直、わたし、ほんとにくたくたに疲れちゃいました。あの場所はそれだけきっと、人間には負担が大きいんだね。
今から家に帰るのもしんどいくらい。前に氷輪くんも泊めてもらってたし、それくらい甘えてもいいかな……とシノを見上げたら、シノは何だか、ちょっと赤くなりながら嬉しそうにしました。
「全然かまわないわ。娘が帰ってきたみたい……と言っても、猫羽ちゃんより随分まだちっちゃいんだけど」
……そっか。シノ、真面目で強そうだけど、けっこう淋しがり屋みたい。
悪魔な氷輪くんが好きそうなヒトだなあ。氷輪くん、ずっと一人だから、淋しい人間のことが嫌いじゃないんだよね。わたしもそうして、氷輪くんと昔に契約することになったし。
心配をかけないように、ユウが寝付いてから、シノはまた乳香を焚いてくれました。
今度は鈴は鳴らさずに、わたしの体が限界だと思ったら、昨日みたいに香を止めるんだって。
そうして、昨日と同じ月夜の縁側に、またわたしは足を向けます。
「……やっぱり、来ちゃったか」
そこでは昨日とちょっと違って、薄手の黒いダッフルコートを着込んだポニーテールの氷輪くんが、哀しそうに笑って待っててくれたのでした。
紫音っていう氷輪くんが改めて、わたしの来た理由をわかってるように、簡単な自己紹介をしてくれました。
「オレは月光の天使紫音。もしくはかごめの悪魔汐音。どっちも死神だけど氷輪なのはもう汐音だけで、オレは桃花ちゃんの後任みたいな感じ」
冬花紫音と名乗った氷輪くん。トウカが氷輪くんの血を飲んだ時、現れるらしい天使さん。
だからここは、少し未来の時相なんだって。もう一つの接点になるユウが未来の象徴だから、と紫音が付け加えました。
「……トウカが元だから、女の子になっちゃったの? 氷輪くん」
「というか、女の子になるために桃花ちゃんになった。そっちの方かなあ」
「――?」
たはは。と、紫音な氷輪くんがすごく珍しく、赤くなりながら頬をかきました。
「桃花ちゃんは、時雨の中にいる烙人兄ちゃんを慕ってるから。この姿がオレと桃花ちゃんの、一つの答なんだよね」
「……――」
氷輪くんもラクトを知ってるんだ。ここでやっと、わたしも少し前に見た過去の光景を思い出しました。
――オレはこのまま、悪神の言いなりになるしか、桃花を守れないんだから。
「ラクトが……時雨兄さんの中にいるの?」
そしてそのラクトを、トウカは好きなのかな?
じゃあ、時雨兄さんと一緒にトウカがここにいるのは、そのために?
「烙人兄ちゃんにとどめをさしたのが、多分時雨でしょ? 命を奪うって、奪った相手の命をそのまま抱えるってことだよ、猫羽ちゃん」
うん、そうだっけ。わたしもそれは知ってたはずなのに、時雨兄さんとラクトについては、思いもよりませんでした。
でも確かに、時雨兄さんの方がツバメ兄さんよりノリが軽いのは、そう言えばラクトにちょっと似てます。それってそういうことだったんだ、つまり。
「ここには厳密には、猫羽ちゃんの知る時雨はいないんだよ。桃花ちゃんや風漓のために、烙人兄ちゃんになろうとしたバカがいるだけ」」
「……じゃあ、やっぱり『かざり』は、精霊のおねえちゃんのこと?」
最初にここに来た時に、一瞬だけ会えた紫苑のおねえちゃん。
異世界の精霊のおねえちゃんに、いつ、どうして「かざり」って名前がついたのか、わたしは何も知らないんだけど……双子のラクトに会いたくておねえちゃんがここにいるなら、気持ちはすごくわかる気がしました。
「『風漓』は桃花ちゃんがつけた名前だよ。ここ――『天龍』を造ったのはそもそも生前の風漓だから、本来の家主は風漓になるわけで」
「え?」
そうだったんだ。というか、ここが「天龍」なんだ。
色々つながりました。それはあの紫陽花の公園で、わたしが急に大空の中に行った時の、龍みたいな船の名前のはずだから。
わたしは乗ったことがないけど、兄さんが攫われた事変の時に、父さん達に敵対した古代の飛空艇。大きな生きた船って、昼間に来た時にわたしが感じたのもあってたんだね。
「じゃあ、わたしはおねえちゃんには会えないの?」
「会わない方がいいよ。猫羽ちゃんの時間よりちょっと未来だから、今猫羽ちゃんの中にいる風漓より、少し変わっちゃってるからね」
「……?」
「正確には、変わったから『風漓』って名付けられたのかな。あんまりオレ達に関わると、それだけでも猫羽ちゃんの未来はここに決まる。それは今の猫羽ちゃんの望みとは、違うとだけは断言しとくよ」
それなら結局、ここから氷輪くん――シオンを連れ戻すこともできないんだよね。
わたしは改めて、シオンが何者なのか、ここに来た一番の目的をそこで尋ねます。
「オレは時雨の……ここでは『烙鍍』の遊び相手だよ。汐音は納得してないし、オレも自分をそう固定するのは不本意だったけどね」
今日は黒一色で体を包む、女の子っぽい姿の紫音。こっちがいつもの服みたいで、昨日のシャツ一枚は本当、油断してる時に押しかけちゃったんだね、わたし。
「それは時雨兄さんが、トウカのために望んだっていうこと? 氷輪くん」
「さぁねー。オレにも実は、さっぱりよくわかんなくて」
女の子になるために。さっきの紫音の言葉には、きっと色々と、複雑な思いが隠れていそうでした。
昨日の最後に、紫音が確か言ってたこと。
――オレはツバメの……何なのさ?
わたしはどうして、氷輪くんが紫音になったのか。トウカが氷輪くんの血を飲んだ場合の、結果が知りたくって。
それでもう一度、紫音な氷輪くんに会おうと思ったんだ。でも事態は、思った以上に込み入ってる気がします。
「時雨兄さんは……トウカの力を借りてでも、シオンにここにいてほしかったんじゃないの?」
「……」
「だって、相方だから。……シオンは、それだといやなの?」
確かちょっと前、高校の友達のホナミやユイが、氷輪くんとわたしの兄さんはどういう関係? って、きらきらしながら聞いてきたなあ……。
わたしは別に、どんな関係でもいいんだけど。
紫音な氷輪くんは、多分兄さんが大好きなのに、そんな自分が恥ずかしいみたい。うん、まあ……元々の氷輪くんは、一応男のヒトだもんね。
多分、氷輪くん自身の心は、そういう「好き」じゃなかったと思う。氷輪くんはそんな、人間らしい感情、あんまり持ってなかったヒトだから。兄さんを大事に思っててはくれたけど、わたしのことも同じように思ってくれてるし。
それを無理やり、時雨兄さん――正確にはラクトを好きなトウカの心と、一つにしちゃった感じなんだね。
それが紫音と、トウカが見出した新しい道。
それはきっと、ここで独りぼっちの時雨兄さんのために。
困ったことに、と、紫音がぼやくように話し始めました。
「猫羽ちゃんはお観通しみたいだけど。オレは元々、恋とか愛とか……そういう感情、よくわからないんだ」
「……」
「だから、ニセモノの烙鍍でいいからそばにいたいって、桃花ちゃんの想いだけでも叶えたくて。つまりオレはニセモノの桃花で、それ以外の望みはわからないし、時雨がオレ達をどうしたかったのかも、謎のままなんだよね」
うーん。それはわたしも、氷輪くんのことは言えないかも。
大好きだって気持ちはわかるよ。でもそれはみんなにそうなのに、いったい何が違うんだろう?
「多分そっち系で、時雨が本当に望むのは鶫ちゃんでしょ。ツバメはオレの『鍵』だけど、ツバメからオレは仲間の一人。ツバメには大事な家族も友達も沢山いるのに、他には迷惑かけられないって、変な距離を置いてるだけじゃん?」
「ううん……それは……」
鶫は、兄さんが普段いる御所で、剣のお師匠さんの娘です。わたしにも色々良くしてくれて、大好きなヒト。
「汐音がツバメを生かす限り、鶫ちゃんはいつかツバメより先に死ぬから、それで汐音が邪魔ならわかるんだけどね。それでもこうやってオレを残すなら、時雨が何で素直にツバメに戻らないのか、オレも不思議で仕方なかったんだ」
「…………」
兄さんがあくまで、この真っ黒な世界に居続けるから。だから紫音もここにいられる自分になったって、そう言ってるみたいでした。
そうだよね。時雨兄さんが氷輪くんの血を飲めば、ツバメになる――つまり二人共、一緒に帰ってこれるはずなのに。
「オレにもほんと、サイアクな末路だよね。だから猫羽ちゃん……時雨を止めてやってよ」
「……どうやって?」
「オレがききたいよー。だから、オレはツバメの――時雨の何なのさ、って」
紫音が困ったように笑った時でした。
急にまた、黒い世界が崩れ始めて、わたしのタイムリミットが来ちゃったみたいでした。
シノの部屋に戻ってきました。
……うわあ。昼から夜まで、十分休ませてもらって元気になったのに、またすごくわたし、ぐったりしてる。
「猫羽ちゃん、大丈夫……? あんまり、焦らない方がいいんじゃない?」
「……ううん。わたしも、昨日までは忘れちゃいそうだったから、急がないとなんだ」
わたし達にベッドを貸して、眼鏡を外して床に布団を敷いたシノは、ほんとにお母さんみたいな顔。心配そうに見つめてきます。
シノが貸してくれたパジャマに何とか着替えます。後はもう起き上がれなくて、ユウと一緒に、シノのベッドにごろんと横になりました。
「……シノは忘れないんだね。忘れられないんだね……神隠しが起こっても」
「……そうね。それがうちの、実家の業だから」
ふっと、思いました。
わたしも「神」になったら、シノみたいになれるのかな? 時雨兄さんや氷輪くんを忘れちゃうって、もう心配しなくていいのかもしれない。
それとも「神」になれば、やっぱり人間世界にはいられないのかな。サツリクの天使だった大昔は、普通に色んな「神」様が、世界中にいたような気がするんだけど。
時雨兄さんがもし、氷輪くんの血を飲むのがいやなら、わたしが飲むしかない。わたしがどうしても、氷輪くんを連れて帰りたいなら。
トウカは飲んでもいいと思ってる。それで紫音のいる世界になるなら、それは本当に「サイアク」なのかな?
わたしが飲めばわたしは消える。これ、もう少しちゃんと聴いてこれば良かったな。
でも何だか、トウカもわざとはぐらかしたように観えて……内容を細かく話しちゃえば、わたしはそれを選ぶと思ったみたい。
それからまもなく、部屋の灯りが消されました。
でもわたし、なかなか寝付けません。眠ってもどうせ、あの暗い水底に落ちるだけだし。
そもそも夜型だから、ぼけっとシノの部屋の天井を見つめていたら、少しだけ胡乱なシノが声をかけてきました。
「……猫羽ちゃん。もしもあなたが忘れる時は、わたしは止めない」
「……」
「明日あなたが忘れていたら、そのまま家に帰すわ。陽子さんは……わたしに関わり続けることで、無意識にユウくんを留めようとしていて。それが、陽子さんにとって良いことか悪いことか、わたしにはわからないの……」
ユウ……氷輪くんの心臓を持ってる子供の、お母さんになった真羽さん。
きっと、相性とかそういう感じで、時雨兄さんに選ばれたんだろうね。でもそれは……真羽さんの本来の運命を、大きく狂わせたことのはずで。
何もするなって、紫音に言われたこともかなり気にしてるよね、シノ……。
――今までの貴女じゃなくなるのは当たり前でしょう。
――ここは一番、猫羽ちゃんが来ちゃいけないところだから。
シノが眠ってからも、わたしの目は冴えたままです。
体はくたくたなのに、意識が落ちてくれないってしんどいね。
まるでわたしが、わたしの中のくたくたなわたしに、どうするんだって寝ずに問い詰めてるみたい。
忘れるか、忘れないか。
どんな場合でも、本当の「選択」は、きっとそこにある。
それだけ思いながら、いつの間にかわたしは、凍える水底へと沈んでいったのでした。
* * *
★終幕
夢を見ました。長くて明るくて、温かい夢。
私と紫音が、楽しそうに高校に通ってる。それを兄さんが見守って、私はこれから、人間の世界にまだいると決めるの。
それはわたしが、紫音と一緒にいるって決めたから、そうなった世界みたいに思えました。
そう言えば夢の中でも、わたしは選択を迫られてた気がする。
――貴女が契約するの。たとえそれで、貴女が悪魔になったとしても。
何のことか、わたしにはさっぱりわからなかった。何か、ヘンだなって、それだけ思いました。
それでも私が、あんまり楽しそうだから。ああ、これならみんな幸せだって、わたしはとても嬉しくなっちゃって。
――……私は、悪魔になってもいいよ。
……あれ。でもそれだけが、引っかかってしまうところ。
――これで風漓が『神』として戻れても、それでも……。
何かがずれてる。誰かが何か、間違えてしまってる。
悪魔になってもいいって。そう言う「私」は、悪魔にはならない……「神」になるんだって、「私」はわかってない?
――アークちゃんは……『神』になんか、なっちゃいけない……。
……違うよ、おねえちゃん。
「神」になるのは、わたしじゃなくて……それは……――
目が覚めたら、知らないお部屋で眠ってました。
温かいなと思ったら、気が付けばユウを、ぬいぐるみみたいに抱き締めてました。ユウもすやすや気持ちよさそうで、思わず二度寝しそうになります。
シノがちょうど朝ご飯を持って入ってきて、わたしもユウも、もそもそ起き始めたのでした。
起きたらすっかり元気になってたから、シノに頼んで、また告解室に入れてもらいました。
朝の内は忙しいから、みんながお昼ご飯を食べてる間に、わたしとシノは聖堂に行きます。
夢のことが気になって、専門家のシノにきいてみることにしました。
「ねぇ、シノ。……『神』になるって、どういうこと?」
「え?」
この聖堂で礼拝する、天の神様とは違うよね。時雨兄さんとかはきっと、やおよろずの「神」に近くて、だからシノの方が詳しいと思ったんだ。
シノは乳香を焚き始めながら、答えてくれます。
「そうね。うちの実家では、それは万物を神格化する――『存在の意味』を見出すことだ、と教えられたわ」
「存在の……意味?」
「森羅万象は『神々』の体現。全ての内に神が在るという点では、天の主とも共通するわたしの信仰で……わたしや猫羽ちゃんの内にも主はいてくださって、新しい命で神化してくださることを、わたしは今も待っているの」
ううーん……難しいなあ。でも、ずっと考えてた何かが、わたしの中でつながった気もする。
とりあえずありがとうと言って、わたしはまた黒い世界に乗り込みました。
ここからどうするか、選択の話、全然決めてないんだけど。
別に絶対、今日決めなきゃいけないわけじゃないもの。わたしが忘れてしまわないか、それが心配なだけだものね。
そんなわたしを、昨日と同じ和風の船楼で、同じ姿のトウカが待ってました。
「また来たのね、貴女。それで、こたえは見つかったのかしら?」
「……ううん」
「そうなの? あんまり何度も出入りすると、貴女が『神』になるわよ」
ちょっと呆れたようなトウカは、縁側に立つわたしを部屋に入れずに、障子を閉めてしまおうとします。
「選んでから来て。一回にここにいる時間じゃなくて、前の分も積み立てされてるんだから」
「それって……トウカはわたしを、『神』にはしたくないってことだよね?」
「……」
「氷輪くんの血もそう。トウカはわたしに飲ませたくないから、自分も飲めるなんてわざわざ言ったんじゃない?」
昨日からずっと考えてたこと。少しずつわたしは、こたえ合わせをします。
「ちょっとだけ未来にいる紫音は、月光の天使だって言ってた。シオンはしばらくここにいるはずなのに、どうして『神』になってないの?」
「…………」
「それと、精霊のおねえちゃんは? 紫音と同じところにいて、少しだけ会えたんだけど……おねえちゃんは『神』になったの?」
質問攻めにするわたしに、トウカがぽかんと目を丸くしました。
何でも答えてくれるって、昨日言ったし。わたしは探偵見習いなんだから、これくらい訊いても、別にバチは当たらないよね?
フウ、と。
トウカは諦めたように障子を開けると、わたしを室内に招き入れてくれました。
「……『意味』の違いよ」
「――え?」
「ここ、神界に来るものは、どうしてやって来ると思う? 貴女はどうして、ここに来るの」
「……――」
わたしがここに来る理由。それは、兄さんと氷輪くんを探すためで……。
昨日と同じように座布団に座ったトウカに、わたしはまだ立ったまま訴えます。
「だって、会いたい。イミとかそんなの、わたしには関係ないよ」
「そう。貴女は『意味』を求めていない。時雨もそうだった……時雨はただ、大事なものを助けるためにここに来たから」
さっきシノに教えてもらったこと。やおよろずの「神」は、「意味」を見出された万物だって確か言ってたよね、シノ。
「解脱や悟りなんて言われることもあるけど、ここは元来、『意味』を求めるものが辿り着く闇。でも『意味』を見出された使徒は、ここでなく人世に在るのだから……だから、己の『意味』を望む者達は、裏を返せばその時点では『意味』を持たない闇。神が新しい命を与えるまではね」
……うううん?
「意味」を求めてないヒトの方が、既に「意味」があるってこと? 「意味」を求めるより、誰かを助けたいとか運命を変えに来ると「神」になって、使徒にもなるの?
逆に、「意味」を求めてるヒトは「神」にはならない……なれない?
そこでわたしも、紫音な氷輪くんが二回言った、あの言葉を思い出しました。
――オレはツバメの……何なのさ?
「じゃあ氷輪くんは……何か『意味』を求めてここに来たの?」
「汐音はそれに近いでしょうね。時雨に心臓を奪われるのを拒否しなかったから」
だからシオンは、「神」でなく天使になる。トウカがそう断言するのも不思議で、でもこのヘンな感じ、わたしじゃ上手く言葉にできません。
「風漓はね。貴女を助けたいんじゃなくて、ここに隠れることしかできなかったの」
「――」
「風漓は本来、『霧の泉』の成り損ない。自分の『意味』から目を背けてる。助けたいんじゃなくて、ただ烙人に会いたいの。会っていい理由――新たな『意味』を探してるの」
……全然、わかりません。
兄弟に会いたいっていうなら、わたしも精霊のおねえちゃんと一緒なのに。わたしは別に理由なんていらないけど、おねえちゃんは違うのかな?
――……私は、悪魔になってもいいよ。
「罪悪感でしょうね。そんなことを望むのは悪魔だって、それだけよ」
「……?」
「己が悪魔だと受け入れれば、本来の『意味』が風漓に戻る。『意味』を持つとは、『意味』を求めなくなること……貴女の中に、『意味』はもうあるの」
それはまるで、トウカがわたしに言いながら、紫苑のおねえちゃんにも話してるような哀しい声色でした。
「目を背けることこそが貴女だから、それはいい。それで間違えても、それが貴女の辿るべき神魔のさだめ」
わたしの胸が勝手に熱くなります。じんわり両目にも涙が浮かんできました。
そう言えばおねえちゃんは、わたしの全身に精霊として憑いてくれてるんだっけ。ほとんど喋れることはないけど、ちゃんとわたしと一緒にいるって、こういう時によくわかります。
おねえちゃんもわたしも、生きる力の源は、普段スマホに封印してる魔法の鎌の核にある珠です。前はラクトがベルトに填まる石にしててくれたんだけど、所長がスマホに封印できる鎌をくれた時、こっちの方が持ち歩きしやすいからって鎌の中に移し替えてくれたんだ。
そしてその珠が、きっと最初に会った時にトウカが言った水玉、命の「桃花水」のことだから……。
「あたしも貴女も、わかってるのにね。それでももう、烙人には会えないって」
トウカはわたしも、紫苑のおねえちゃんのことも生かしてくれてる、わたしとおねえちゃんのお母さんみたいなもの。真っ黒な「桃花水」の管理者なんだと何となくわかりました。
ふっと、トウカが障子の向こうに顔を向けました。
そこにはうっすら、黒い翼の影。でもそれはわたしには、錯覚にしか観えなかったんだけど……。
「……行きなさい、猫羽。時雨が外に来てる」
「――え!?」
「貴女がしつこいから根負けしたんでしょう。それに貴女も、選択をする気はないようだし」
「……」
トウカの言う通りかも。わたしは初めから、トウカの言った選択肢より、ここで何とか時雨兄さんに会えないか、それを考えてたから。
「それも貴女のこたえの一つ。強いて言えば、選択肢としては『時雨』になるわ。それでいいから……後悔のないように」
トウカがすっと、反対側の障子を開けて、何処かに消えてしまいました。
わたしは影が映った方へ、急いで飛び出します。
腕を組んで待ってたのは、ここに来て初めて出会えた黒ずくめの姿。銀色の髪に金色の目をきらりと光らせる、紛れもなく時雨兄さんで……。
「……時雨、兄さん」
「ハロー、猫羽。そんなわけで、さっさと帰れ」
開口一番、それでした。ああもう……変わってないなあ、兄さん。
わたしの持ってるタニウツギを見て、ち、と時雨兄さんが顔をしかめました。
「……あの『天気雨』の女狐。だから橘診療所は厄介なんだ」
何だか兄さん、タニウツギを何でわたしが持ってるか、それにすごくイラっときたみたい。確かに、気が付けばこれが部屋にあったっていう、不思議な反則が始まりだったよね。
これがここへの接点で、そして氷輪くんの心臓のモトなら、怒りたいのはわたしの方なんだけど。兄さんを見ると気が抜けちゃって、タニウツギの犯人さんはどうでも良くなりました。
「帰れ、猫羽」
「帰ろ、兄さん」
声が被っちゃった……。でもわたし、負けないからね。
「氷輪くんは何処にいるの? みんなで一緒に帰ろう、兄さん」
「あのな。汐音が言うこときくと思ったら大間違いだからな、それ」
あれ。時雨兄さん、ちょっと気難しい顔になったね。
連れて来たはいいけど、氷輪くんを持て余してるのかな? そんなの、氷輪くんの悪魔ぶりを考えたら、最初からわかってることなのに……。
「そんなの簡単だよ。氷輪くんは翼の悪魔なんだから――兄さんの『翼』になればいいよ」
「は?」
「氷輪くんは『意味』が欲しいだけだから。自分が兄さんの何なのか……そのこたえが欲しいだけじゃない?」
言いながらわたしは、そっか、と自分でも納得してしまいました。
時雨兄さんが氷輪くんを連れて来た理由。それは無意識に、「意味」を求めたシオンへのこたえなんだって。「意味」を求めるヒトが来るのが、この世界……トウカがさっき言ってたことだよね。
兄さんは氷輪くんの願いを叶えたかった。氷輪くんは兄さんにとって意味ある誰かになりたかった。
それはきっと、「無意味」が辛い……何もできない独りが嫌だってこと。氷輪くんも兄さんも淋しかっただけなんだ。
あー……と、時雨兄さんがこころなしか、目を逸らし始めました。
呆れたなあ。わたしより直観が狭くて深いくせ、こういう時は本当に鈍いんだから。
昔からだけど、自分に向けられる好意に無頓着なんだよね、兄さん。
「兄さんは『鍵』、もしくは『神』だからわかんないよね。自分が何者かって、わからなくなった氷輪くんの気持ちは」
うん。きっとそれが、恋愛とか友情とか、そういうわかりやすい形なら、兄さんのこたえ……行動も違ったんじゃないかと思うな。
「兄さんだって居場所が欲しかったくせに。大方、シオンの願いを叶えようと思ったんだろうけど、何を願ってるのかわからなかったんだね」
「……」
「シオンもわかってなかったしね。兄さんを助けたいと思ってたから、お互い助けたい、でも助け方がわからないって、そんなの当たり前じゃない?」
だんだん、兄さんが片手で頭を抱え始めました。毒気が抜けてく感じ。逆にわたしは、ちょっと大分、積もる怒りを発散してます。
二人共、「助けたい」に隠れた自分の心を見てなかったんだ。
お互いに望んでることはわかったくせに。何でもいいから、いい相方として役に立ちたい……どっちが先にどっちのフォローをしようとしたのか、これだともうわからないよね。
「わたしは『神』様にはならないよ。でも兄さん達を連れ戻せるまでここに来るから。いやだったら氷輪くんの血を飲んで、兄さん」
「……あのな」
「兄さんが飲まないならわたしが飲む。どうなるかはわからないけど、氷輪くんだけでも連れて帰るからね」
がっくり、と。
口ゲンカではわたしに勝ったことのない兄さんが、大きくうなだれてました。
わたしだって、兄さんが神隠しにあってから長いんだから、たまには怒るんだからね。
「トウカの奴……仕組んだな、あいつ」
「ヒトのせいにしない。どうして兄さん、そんなに帰るのがいやなの?」
トウカは確か、ツバメ兄さんにならすぐに戻れるって言ったよね。
時雨兄さんとツバメ兄さん、つまり共存してたってことなんだ。ツバメ兄さんがそれを知らないだけで、時雨兄さんになれば「神」に隠されちゃうんだ。
「時雨兄さんはトウカが心配? それだとツグミはどうするの? 兄さんが今後帰らないと、ツバメ兄さんも行方不明のままでしょ?」
「……」
何か今回はわたし、急いでがんばって情報が少ないわりには、しっかりまとめて喋れてる気がする。
というか、それだけストレス溜まってたんだ……。
「ユウを消さないためとはいえ、シオンの心臓を奪ってきたから。だから一人で帰るのが氷輪くんに悪いの?」
ひたすら質問攻めにしちゃった。でも時雨兄さん反論しないから、当たってるんだ。
うん、わたし、えらいと思う。よくここまで辿りついた、がんばったよね。
トウカが言うには、心臓を失くした氷輪くんは、故郷の天の国で眠ってるみたいだし。それをどうするかとか、今後の問題は山積みだと思うけど。
だからって、現実逃避してる場合じゃないんだからね、兄さん。
「…………」
もうすっかり、ツバメ兄さんみたいな顔に戻った時雨兄さんは、額に手を当てて大きな溜め息をついたのでした。
「それじゃ……猫羽が汐音、説得してくれ」
気持ち情けなさそうに、そっぽを向いて言いました。
初めから素直に、そう言えばいいのに。わたしはこれでも、生粋の悪魔使いなんだから。
それから兄さんに連れられて行ったのは、さっきの和風の船楼とは違う、真っ黒な船の中の普通の船室でした。
それでも内装は色んな植物や、沢山の猫系のもので飾られてて、何だか楽しそうなお部屋です。
「やーだ! 帰んない! せっかくここに慣れてきたところなのにー!」
そこにいた氷輪くんは、一見は何の損傷もない、青銀の髪で学生服の姿。
「神」の世界って、概念とか心とか、そういうものさえあれば形をとれるんだって。心臓だけのはずの氷輪くんと、こうして普通にお喋りできちゃいます。
「戻ったってカラダがないじゃん、翼槞あれで動けそうにないじゃん! それならこっちにいる方が楽しいし!」
それにしても、「汐音」らしい氷輪くんは、黒髪の冷静な氷輪くんと違ってにぎやかそうだね……。
兄さんが扉の外で待ってる中で、わたしは初対面の汐音のベッドに、ちょこんと遠慮なく座ります。
「ここ、確かに明るいお部屋だけど……そんなに楽しいの? 氷輪くん」
「楽しいよー。媒介さえあれば何でもすぐに形になるんだもん。もう猫羽ちゃんも『神』になっちゃいなよ、そしたらずっとここにいられるしさぁ」
ううん……ここに来ちゃダメっていう、紫音と違ってちょっと強敵。さすがはかごめの悪魔さんだね、汐音。
でもわたしは、氷輪くんとのお付き合いも長いから、ちゃんと知ってるんだ。氷輪くんの弱点。
「……このままずっといると、いずれ女のコになっちゃうよ、氷輪くん」
「――へ?」
「気付いてないの? シオンの心は女のコよりだよ。心が形をとる世界にいると、そのまま心の方に、姿も引っ張られていっちゃうよ」
「……え……」
どうしてかはわからないけど、そうみたい。紫音はトウカの影響と言ってたけど、それはシオンにそもそも、トウカと同調できる適性がないと無理なはずだから。
わたしが悪魔使いだから、推理できることだけど。たとえ悪魔だって、気の合う人間とじゃないと契約はしないよ。まして自分以外と心を一つにするなんて、契約した悪魔と人間でも難しいこと。
「混沌」を管理できるっていうトウカは、きっとシオンとも混ざれるけど、トウカが消せない願い、それだけはシオンも心から受け入れないといけない。
汐音も紫音も、本来の氷輪くんとはちょっと違う。紫音は月光の天使と名乗った通り、氷輪くんにはなかった天使の羽を持ってる。タニウツギから感じた聖なる気配はそれだと思う。
多分その羽から、女のコみたいな気配がするの。元は女のコの天使さんの羽だったんだと思う。ここに最初に来た時に、シノの後ろに見えた、女の子みたいな天使のヒトの光の翼。
普通、天使に性別なんてないけど、昔のわたしみたいに天使以外から天使になったものはそうじゃないから。
シオンはきっと、悪魔の氷輪くんと、羽だけの天使さんの間で揺れる心。
どっちになってもいいとわたしは思うけど、氷輪くん寄りの汐音は多分、女のコにはなりたくないよね?
「えぇぇぇえ……そ、それ、どーいう……」
たじたじと、汐音がわたしを怖がるように冷や汗を流します。
紫音の末路、汐音は納得いってないって言ってたもんね。わたしはそこに付け込むだけかな……意識してにっこり笑います。
「兄さんにも言っちゃうよ。シオンは自分で気付いてないだけで、女のコだって」
「って――えええええ!?」
「秘密にしてほしかったら、一緒に帰ろ。それとも、時雨兄さんに教えちゃった方がいい?」
多分、時雨兄さん、薄々気付いてると思うけどね。ツバメ兄さんはまだ知らないと思う。
知ったらすごく、大事にするんだろうな……兄さん、女のコ好きだから……でも浮気はダメだよね……。
「やーめーてええええ! 帰る、帰るからっ、猫羽ちゃんのあくまーっ!」
契約終了です。契約というか、取引かな。
わたしも伊達に悪魔使い、長いことしてないんだから。ねぇ?
* * *
結:神探シ;heaven
かごめ、かごめ。いついつ、出やる……。
ふと気が付けば、そんなまじないを口ずさんでました。
受付けバイト中でした。
珍しく事務所にいた先輩探偵、馨おにいちゃんに聞かれてしまいました。
「最近明るいな、猫羽。何かいいことでもあったのか?」
「あ……うん、えっと……」
もうそろそろ、暦は八月。近い内に、馨おにいちゃんの誕生日があります。
シノの教会で色々あったわたしは、あれから特に、変わりのない日常に戻ってました。
「ツバメは行方不明なままなのに。流惟は今でも、胃が痛そうにしてるぜ」
母さんとは一応、兄弟みたいなものの馨おにいちゃん。でもそれも、母さんの胃が痛い理由の一つだよね。兄さんにも関係することだけど。
「無理に道を選ぶより、保留の時間があってもいい。俺はそう思うけどな」
何だか、意味深。この間のわたしの、「選択の話」を言ってるのかな。
時々思います。馨おにいちゃん、「透視」っていう不思議な眼があるんだけど、それはレベルが上がるとヒトの心霊まで覗く「霊視」になるらしくって。おにいちゃんはいったい何処まで、色々わかってるんだろうって。
紫音な氷輪くんが言ってたこと。トウカが好きなラクトって、本当の本当は馨おにいちゃんの分身というか、おにいちゃんの内に還るべきヒトなんだよね。
咲姫おねえちゃんはそれを望んでる。でもおにいちゃん達と、ツバメ兄さんがこたえを出すのを黙って待ってる。
「……兄さんは、帰ってくるって、約束してくれたから」
ラクトは消えちゃったけど、その残滓を受け入れて、守ってるのが時雨兄さん。だからトウカのことが心配なんだよね。汐音が今後どうするかも含めて、目途が立てば帰ってくると言ってた。
兄さんが「約束」したからには、いつか絶対守ってくれる。わたしはそれを知ってるから、のんびり待つつもりなんだ。
馨おにいちゃんは逆に、耳が痛そうにしてました。
兄さんがもし、ラクトの力をおにいちゃんに返したら、ちょっとややこしいお話になっちゃうもんね。トウカに会って初めて、わたしも少し事情がわかりました。
二人以上のヒトから好きになられるって、大変だね、馨おにいちゃん。
わたしが安心した理由の一つとしてはね。高校のみんなが、氷輪くんを思い出したことです。
サトシなんて特に、慣れた感じで言ってました。
「やっぱり氷輪、また転校しちまったのかー。まあいつものことだから、その内ひょっこり現れるさ」
わたしが秘密を守る代わりに帰ってくる取引、汐音はちゃんと果たしてくれてる。わたしももう、忘れそうな自分にはなってないし。
兄さんも氷輪くんも、そばにいないのはとても寂しいけど……今がんばるべきことは高校とバイトだし、すっかりわたしの日常は元通りです。
あ、PHSは氷輪くんに渡したままだったかな。
でも別に、PHSがないと悪魔と契約できないわけでもないし。悪魔が絶対必要なわけでもないし、わたしはわたしで、悪魔使いを卒業するかどうか、まだまだ保留中です。
隙間風が吹く事務所……廃ビルの二階は、夏になると暑いね。
お客さんが来たら魔法の空調モードになるんだけど、わたし一人だけの時は、制服にその機能があるからいらないの。
「でも、寒いよりは暑い方がいいな……おにいちゃんはどう思う?」
「同感だな。寒いとまず、布団から出られねぇ」
どの道うとうとしかけてる、居眠りさんなおにいちゃんが微笑みました。
わたしとは反対だね。わたしも居眠りな方だけど、起きないと寒くて仕方ないもの。
でもあの暗い水底がトウカの世界なら、今までよりも好きになれそう。
それも今回、わたしには良かったことでした。
それからどれくらい、たった日のことなんだろう。
いつでもいいんだ。それがもしも、わたしの願いだけだったとしても。
夢を見ました。暗くて寒くて、でも幸せな夢。
わたしと紫音が、楽しそうに高校に通ってる。それを兄さんが見守って、わたしは思う存分、人間の世界を楽しんでから帰るの。
それはわたしが、汐音を守る悪魔使いでいるって決めたから、そうなった世界みたいに思えました。
わたしのこたえは、やっぱり決まってる。
できれば人間を頑張りたいけど、悪魔も捨てられない。
向こうにはわたしは、寄生相手でも……わたしにはみんな、助け合う仲間だから。
ふっと、トウカの声が、何処かで聴こえました。
――貴女はどうして、ここに来るの。
何のことか、わかる気がします。いつもの水底、それだけ思いました。
沢山のヒトを傷付けたから、そう簡単には消えない、わたしの中の長い暗闇。
どんな世界でも、ここを無視しては生きられないと思ったから……。
こたえたわたしに、バカね、と。黒い水に重なる、トウカの声が聴こえました。
「夜の霧に隠されて、融け出さないように注意してね。貴女も時雨も、簡単に『神』になれてしまうのだから」
どうしてだろう。一瞬、黒い翼を生やしたトウカが、そう言ったように観えました。
兄さんの背にずっとあった黒い翼。それがまるで、本来の主へ戻ったみたいに……。
「……さよなら、時雨。……幸せに」
最後にそんな、淋しい声が聴こえた気がしました。
同時にばさりと、トウカを置いて、暗い水面から飛び立ったヒト……誰かのコウモリみたいな翼が観えました。
――いくら壁を作っても、縁ってやつは勝手に繋がるんだよね。
……あれ。ずっと昔に沈んだはずの、青銀の髪の人が笑ってる。
それは誰にも気付かれないこと。それでも守ると決めたから、誰かの背中に戻ってきたんだ。
そのこたえはきっと反則だね。でもそれくらいしないと、帰れないから……。
――たとえその先、近いお別れがわかってる場合でもさ。
お別れじゃない、始まりだから。
トウカを感じられる暗い水底に、わたしも静かに背中を向けます。
そうしてわたしは、「神隠し」から帰った大切なヒト達を、悪魔使いとして迎えに行きます――
神探シ 了
続・探偵に悪魔は反則です -神探シ-
ここまで読んで下さりありがとうございました。『探偵に天使は味方です』に続きます。
初稿:2019.2.24-2020.3.11
※エブリスタでは探偵シリーズ+-I-シリーズ『神探シ』LH版を掲載中です→https://estar.jp/novels/25087418