探偵に悪魔は反則です

探偵に悪魔は反則です

ここはよろず相談所タカノ。所長の魔法で綺麗に見える廃ビルです。
わたしはいつも受付に座ってます。ただのコンクリートの瓦礫です。
初バイトは選択を誤りました。わたしの高校生活やいかに。
update:2023.2.22 直観探偵シリーズ①

表紙感謝:ハトリ様;https://estar.jp/users/104802264

※2/24:探偵シリーズ②、3/3:③、3/14:④掲載予定
※エブリスタで特集に掲載された作品です→https://estar.jp/novels/24829932

序曲

 突然だけど、わたし、ブラコンってよく言われます。
 わたしは棯猫羽(うつぎねこは)です。兄さんは一応、山科燕雨(やましなつばめ)です。

 でもわたしの兄さんは、多分三人以上いるんだけど、誰のことをさしてるんだろう。
 兄さんはいつも無茶ばっかりです。放っておくと死んじゃいそうで、昔から気が気じゃなかったんです。
 今まで何度も離れ離れになりました。悪魔使いのわたしには手の届かない、雲の上でのお仕事をしてます。

 わたしも兄さんも、本当はこの日本のヒトじゃありません。
 普通のヒトにはない「直観」を持つわたし達は、すぐに自分と周りの感覚がごっちゃになっちゃいます。わたしも兄さんも勘が良過ぎて反則だって、周りにはよく言われます。
 兄さんと違って人間なわたしは、人間らしい暮らしを学びに、一人で日本に留学に出されました。
 生活費の援助はあるけど、お小遣いは自分で稼ぎなさいって言われて、「よろず相談所・タカノ」で探偵見習バイトをしてます。

 日本に来てすぐ、わたしは援助者の玖堂(くどう)さんからスマホを持たせてもらえました。
 所長はこのスマホの画面で指示を送ってきます。
 所長いわく、この日本は平和過ぎるから、もっと暗黒を招かないとだって。
 この事務所では所長が法律です。次の契約更新時期がくるまで、わたしは所長のいうことをきくしかないです。

 一人暮らしは淋しいけど、こっちの生活も少しずつ慣れて、最近やっと楽しくなってきました。兄さんと契約する悪魔の氷輪(ひわ)くんが、わたしと一緒に高校に行ってくれてて、面白いことも時々教えてくれるし。

 これはそんなわたしの、初めての探偵バイトにまつわる、色んな思い出のお話です。


* * * 

変奏曲:9月;暗闇の中で

変奏曲:9月;暗闇の中で

 哀川(あいかわ)結葉(ゆいは)は、二学期からしばらく高校に行けなかった。
 結葉の家は元々両親が不仲で居心地が悪く、普段は親友の猫羽や穂波と学校にいる方が気が休まる。しかし今はどうしても、彼女達に以前までのように笑えそうにない。それで自室に引きこもっていた。

 小学生時代から、結葉はたまに不登校になった。今となっては両親は何も言わない。共働きで忙しいため、一人っ子の結葉が自力で回復するまで放っておいてくれる。
 親友達の前ではいつも笑顔でいたいように、結葉は見栄っ張りだ。小学校高学年から仲良くなった葉月(はづき)穂波(ほなみ)には、「また例のクラヤミ時期だから放っておいて」とラインしてある。穂波と仲良くなってから、中学校では不登校になるのは大分減ったが、まさか中学より平和な高校に入って再発するとは思いもよらなかった。

 電気をつけずにこもる自室で、ぼけっと横たわるベッドの下に、今回の闇落ちの最たる原因は封印してある。
 結葉は普通より神経質な自覚がある。巷では最近、「HSP」とか言われているやつにおそらく近い。ハイリー・センシティブ・パーソンというアレ。
 五感が過敏なので、暗くて音の無い場所にいることが落ち着く。小学校時代から妙に疲れやすかったのも、このせいだと思っている。外の世界は結葉には刺激が多過ぎるのだ。

 なまじ平和な私立高校に入れ、可愛い親友が一人増え、夏休みにも余裕があったのが良くなかったのかもしれない。新しいことに挑戦しよう、なんて張り切ってしまったのが間違いの元だ。
 結葉は子供の頃から、少女漫画のようなイラストを描くのが好きだった。高校生になり、勉強に役立てるよう、と両親が買ってくれたアイパッドと専用のペンで、デジタルイラストの世界に足を踏み入れた。
 別に上手くも、個性のある方でもない。それでも何枚も描き上がってくると嬉しくなり、夏休みからある創作サイトにイラストの投稿を始めたことから災いは訪れてきた。

 もうイラストは描いていない。白いアイパッドをぐるぐる包帯で巻き、ベッドの下に押し込んである。
 これがいわゆる黒歴史か、と自分を客観視してみる。こんな下らないことが不登校の原因だと知られたら、さすがの親も渋い顔をするかもしれない。だから誰にも言えずにお手製の暗闇の中でうずくまっている。分厚い遮光カーテンを二重につけた部屋の中は満足がいく程度には暗い。

 幼馴染とも多分言える穂波は体育会系で、漫画やアニメをほとんど見ない。なので結葉を心配はすれど、事情をわかってもらうのは難しいだろう。最近できた新たな親友、(うつぎ)猫羽(ねこは)も、外国の探偵小説を少し読んでいるくらいらしい。
 親友達に説明しても、不思議な顔をされそうなちっぽけな悩み。こんなことで暗闇モードに入ってしまう、過敏な結葉の方が悪い。甘やかされて育ったのだろう、と周りに思われることは目に見えている。
 無理に話を聞こうとはせず、授業ノートのコピーとプリントを届けてくれる穂波は本当に人のできた親友だ。頑張って進路を合わせ、同じクラスになれてつくづく良かった。私学の学費を許してくれた両親にも感謝している。

 だから早く、立ち直らなければ。毎日そう思うのに、まるで吸血鬼のように日の当たる時間がしんどくなってしまった。小さい頃から謎なのだが、気持ちが落ち込むとこうして体まで動かなくなる。朝も目は覚めているのに、どうしても起き上がる気になれない。といって夜に楽になるわけでもない。
 欠席できる日数だって限界がある。ここで留年でもして、穂波達と学年が変わればもう高校自体行ける気がしない。
 早く早く、元気に戻らなければ。両親もおそらく何だかんだと、今まで自力で再起してきた結葉を信じてくれているはずだ。作り置きしてくれる食事をほとんど摂れていないことは、厳重に隠して捨てているのでまだ気付かれていない。体重がどれだけ落ちたかはもう測っていない。

 ずっと自宅警備員だが、両親に荷物が来ると頼まれない限り、インターホンは無視していた。しかし今日はやけにしつこく、閉め切った自室に何度も明るい音が聞こえてくる。自分の耳の過敏さをこういう時にも呪う。
 九月も終わりに近いのにまだ暑いので、布団で耳を塞ぐこともできない。電気代が申し訳なくてエアコンはつけず、青い遮光カーテンの向こうは網戸にしている。換気が悪くうだるような暑さの中、扇風機を命綱にノンスリーブの短パンのパジャマで何とか結葉は生きていた。

 散々繰り返されたインターホンが、十五分ほどでやっと鳴り止んでくれた。どれだけしつこいセールスマンか勧誘か、と胡乱な意識で丸まりながら毒づく。
 トイレや数日に一度のシャワー以外、もう自室から全然出られていない。毎日ぼーっとしている頭は、これまでにないほど判断力が低下している。そんなにも黒歴史程度が大ダメージか、と自分で自分を笑う。

 そのため、窓の外が何やらがさがさと騒がしいことに、物音には過敏なはずなのに気づけなかった。
 そして二重の遮光カーテンの外、戸建ての二階のベランダから有り得ない声がかかることになるのを、この時の結葉は予想だにしていなかった。

 かんかんかん、と。収納された雨戸を叩く慎ましい音に、結葉の頭は一瞬真っ白になった。
「ちょっと棯さん、やっぱり無茶だって! これ完全不法侵入だし、あの子絶対寝込んでそうだし……!」
「もしもし……こんにちは、ユイ。声、聴こえてるよね?」
 とても焦る幼馴染の穂波と、淡々と譲らず語りかけてきた猫羽の声。結葉は先程までのインターホンと、現状何が起きているかを一気に悟る。
「あ、無理に起き上がらないで、その状態だと倒れちゃうよ。あのねユイ、わたし達、言わないといけないことがあって今日は来たの」
 言われる前にがばっと起き上がったのだが、猫羽の言う通り目眩がした。それでも何とか網戸の近くへ、床に倒れ込むように這いずっていく。

「う、棯さんに、ほーちゃん……? ごめんね、ベランダ暑いよね、でもごめん、リビングもここも散らかってて……」
 何日ぶりかに出した声が嗄れる。まさか親友達がスカートの制服で二階によじ登ってくるとは、あまりに信じ難い光景がカーテンを隔てて展開されている。
「いいの、ただお話しができたら良かったの。無理を言ってごめんね、ホナミは悪くないの、わたしが絶対行くって言うから心配してついてきてくれたの」
 なるほど、確かに常識的な穂波の方はこんな強行には出ないだろう。若くして探偵バイトなどやっている猫羽の方は、大人しげで無表情な見た目によらず、相当の無法者だったらしい。

「あのね。もし、ユイがいやなら、わたし達には何も話さなくていいから」
「……え?」
 カーテン越しの猫羽の声が暗い。穂波が何も言えないでいるのも、心配と罪悪感が織り混ざって困っているのかもしれない。
「話さなくていいから、ユイは病院に行って。今日までずっと、お家で寝込んでるだけだよね?」
「で、でも……これはただ、私の心が弱いからで……」

 初めは確か、夏風邪をひいて新学期が始まったばかりの学校を休んだ。その時には馴染みの医院で受診したが、直後に黒歴史の闇落ちがあり、以後は家から一歩も出ていない。
 親身なおじいちゃん医者なので、何かあったのか、ときかれるだろうし、ネットのことなど全然詳しくないので話してもわからないだろう。自分でも下らないことだと思うのだから、精神科でもない医者に相談するなど論外だと思っていたのだが……。

「ユイは弱くないよ? 自分で何とかしなきゃ、と思ってただけだよね」
「――」

 青くて堅固なカーテンの外、猫羽が大きな目を丸くしているのが見えてきそうな声色だった。
 考えもしなかった反応に胸が詰まった。親友達にここまで極端な行動を取らせる自分は、もうどうしようもないダメな奴だとまさに思いかけていたのに。

 黙り込んだ結葉を気遣うように、猫羽がゆっくり、必死に言葉を考えて選んでいるのがわかった。
「えっとね、わたしも上手く言えないんだけど……ユイは、自分が弱いからしんどいって思ってると思うんだけど……何か違うっていうか、何かがそこでおかしくなってる気がするの、わたし……」
「……棯さん……」
「ま、まあ、メンタルにせよ体にせよ、しんどいなら病院行けばいいじゃないの。ていうか行くのもしんどいくらいだったら、良ければ今から付き合うからさ?」

 穂波の言いぶりは、ちょうど今の結葉には願ってもない申し出ではあった。
 両親に負担を増やしたくなかったので、病院という選択肢が浮かばなかったこともあるのだ。一人で行くには不安を感じる程度には全身がしんどい。

「ありがとー……ちょっと待ってね、着替えてく……」

 せっかく来てくれた親友達の前で、声だけでも元気にしようとしたせいだろうか。それとも安心して気が抜けたのかもしれない。
 今度こそ立ち上がろうとした時、結葉の視界は突然ブラックアウトした。
 そうして、慌てて窓から部屋に入ってきた親友達の声と夕陽を後ろに、意識は本当の暗闇に落ちていったのだった。


 気が付けばそこは、眩しい白い部屋の診察台の上だった。
「全く、この時期に屋内熱中症で酷い脱水状態とか、親は何を考えとるんじゃ! どうしてこんなになるまで受診させんかった!」
 おじいちゃん医者の怒った声だ。それだけ何とかひとまずわかった。
 腕には点滴がつながれており、横の丸椅子には泣き出しそうな顔で猫羽と穂波が並んで座っていた。

 猫羽はうるうると結葉の手を握りしめ、穂波はおじいちゃん医者に必死に状況を説明している。
「あの、この子我慢強過ぎて、ご両親も気づけなかったんだと思います……私も心配するなって言われて、つい放っておいちゃったので……」
 それは違う、と言おうとして咳き込んでしまった。意識の戻った結葉に安心して医者は外来に戻っていった。

 他に誰も患者のいない処置室で、現在はもう夜診も終わりに近い時間だとわかった。
 起き上がってみると、二人が来た夕方よりはるかに体が軽く、自分でもびっくりするほど元気だった。
 対して穂波はホラー映画でも見たのかと思うほど、いかめしい顔付きで結葉をじっと睨んだままだ。
「ご両親に連絡して、迎えに来れるまでここにいていいって先生が言ってたわよ」
「……え? 大丈夫だよ、私、一人で帰れそうだよー」
「何言ってんのよあんた! 棯さんがベランダ登るなんて無茶言い出さなきゃ、どうなってたと思ってんの!」
「……そう言えば棯さん、バイトは大丈夫なの? ごめんね、私の自己管理不足で、一杯心配かけちゃったみたい」

 猫羽は未だに、今にも本当に泣いてしまいそうだった。やっぱり可愛いなあ、とつい心が温まってしまうのは、奥ゆかしい女の子が好きな結葉の悪癖かもしれない。
 穂波が自分をここまで背負ってきてくれたのもうっすら感じていた。外で結葉に着せるための上着を猫羽に咄嗟に持たせる気配り上手で、鍵が何処にあるかも知っていて、出る時に戸締まりもしてくれたさすがの幼馴染だった。

 だから穂波の言う結葉像が、おそらく現状では妥当なのだろう。
「あんたね、メンタルの問題って思い込んで体を悪くしてたら、それほんとにどうなのよって話じゃないの」
「うん、そーだねぇ。点滴でこんなに楽になるなんて思わなかったよー」
 脱水、恐るべし。飲んだり食べたりができにくくなっていたのは気持ちの問題だと思っていたが、それも夏風邪の後の不調が影響している可能性もあるという。
 気持ちのショックは無関係ではないが、夏疲れという胃腸の不良はおじいちゃん医者にとっては常識らしい。メンタルでも何でもまず相談せんかい、と眠っている間に穂波が怒られたという。

 その後は父親が車で迎えに来てくれた。おじいちゃん医者にはなるべく親を怒らないよう頼んでいたので、子供にあんまり気を使わせなさんな! の一言で一応済んだ。帰ってから両親が口を揃えて「エアコンはケチらないように」と言ってくれ、不覚にもその場で泣いてしまった。
 学校に行け、と苦言を呈されるでもなく、二人共、ただ日々余裕がないだけなのだ。高い学費を出せるために、仲は良くなくても協力してくれている。きっと結葉が自立したら終わるだろう関係であっても。

 帰り道で久しぶりに軽く買い物をして、食べやすそうな好きな物を買ってもらえたからだろうか。次の日が土曜で半ドンだったこともあり、朝ご飯をきちんと食べてから母親が車で送ってくれたので、ようやく学校に行くことができた。
「あんたバカなの!? 昨日の今日で何で学校来んの!?」
「えぇ? だって、ほーちゃん達のおかげで、クラヤミから連れ出されたんだもん」
「あんなに死にそうな顔色してたのに!? 棯さんが道中、もっと早く来れば良かったって、どれだけメソメソしてたと思ってんの!?」
 わたし、探偵なのに、と猫羽はたいそう落ち込んでいたらしい。クラスが違うので、後で屋上で会おう、と古めかしいキャリアメールで送る。待ち構えていたかのように、今日はお家まで送るね! と、機械音痴にしては早い返信があった。

 結葉も正直、何処までが気持ちの落ち込みの影響で、何処から体の不調だったのかはよくわからない。心か体か、それを分けるのはあまり意味がない、と小さい頃から診てくれているおじいちゃん医者は昨夜に言っていた。
 何か気持ちの面で、黒歴史に解決があったわけでもない。心の整理がつけば今までのように回復するかと思っていたが、良くも悪くも、心も体もそんなに単純ではないらしい。

 昨夜に家に帰ってからも、相変わらず部屋は暗くしてアイパッドも封印したままにしてある。だから両親も結葉が今日、学校に行くとは思ってもみなかったドタバタの朝だった。
 放課後になるとやはり疲れは出てきたものの、ご飯をゆっくり食べてからなら歩いて帰れる気がした。
 優しい親友達と食べるご飯ほど美味しいものはないので、屋上に集まり、僅かな日陰の縁石に並んで座った。

「最初はほんとに、バカみたいなことだったんだよ。夏休みに仲良くなったネットの人に、私の絵はどれもこれもパクリ、人真似ばかりだって言われたんだー」
 誰からともなく、何かあったの? と軽い調子で話を振られた。ちょうどご飯も食べ終わった後で、他に特に話題もなかったので、重くならないように意識をしながら淡々と話す。
「確かに私の絵ってオリジナリティないし、向こうの方が私より上手いし、それと何でか、ほんとにたまたま、私の描きたいものが向こうとよく被っちゃってさ。真似されてるって不快だったんだろうな、って。もう絵は描いちゃダメかなって凹んだんだよねぇ。相手、別に悪い人じゃなかったからさー」

 結葉には全く寝耳に水の、言いがかりも甚だしい言われようだった。どれが人真似と断定できるのか、根拠すらなく一方的に言われた。
 それでも向こうに、もう描くなと言われたわけでもない。結葉の気が勝手にひけてしまった。そういう風に向こうが感じてしまったのなら、それはもうどうしようもないことだからだ。

「何よそれ。そもそも趣味が合うから仲良くなったってーなら、描きたいものが被って当たり前じゃない? 何であんたがパクったなんて、酷いこと言われなきゃなんないの?」
「……ユイは、そういう人には信じてもらえないってわかったから、言い返さなかったんだね。自分の感じたものが全てで、ユイの絵を本当にちゃんと見てなかった人には」

 のんびりしているようで正鵠をつく、探偵見習いは伊達でない猫羽と、知らない分野でも結葉の気持ちを汲もうとしてくれている穂波。
 初めて言えた。それだけでも救われたのに、嘘のように欲しい言葉を返してくれる二人。一生ついていくう! とこっそり内心で叫ぶ。

「そうよね、結のイラスト、あたしみたいに素人なら他との違いがわかんないかもしれないけどさ。向こうは絵を描いてんでしょ? 本当に結がパクったりするかも、仲良くしてたら余計わかるもんなんじゃないの?」
「そうだよね。ユイの人間性まで、そこでねじ曲げられたんだね」
「あはははー。まあ相手も何か理由があったんだろうし、私みたいな下手っぴだと仕方ないんだけど、でも私、他にあんまり趣味もないもんだからさー。否定しても、パクリじゃない証拠は示しようがないし、一度言われたらもうそこまでなんだとは、大分辛かったよねえ」

 ただ無心に描くことが好きな結葉にとっては、寝込むショックを受けたほどに大切な趣味だ。結葉が見栄っ張りだからこそ、趣味でくらいは等身大の自分を見てほしい。キラキラしている他人の絵より、稚拙でも自分の世界が大事だったのに、それは人のものだと断罪された。
 この先にまた言いがかりをつけられる可能性もある。その時二人のように、自分を支持してくれる人がいるとは思えなかった。自己満足で活動する下手な絵描きをかばったところで、誰にもメリットなどない。
 不意に迷い込んだ暗闇。突然貼られた盗人という、醜悪なレッテルは簡単に変えられはしない。世の無情の一端に触れたしんどさだった。

 そんなこじれは運不運で、素人でも襲ってくるらしい。気にしない、それしかできないのが人間の限界で、結葉には「気にしない」ことが難しい。誰を責めてもどうしようもないなら、自分が飲み込むしかない。
 暗闇はいつでも人の後ろにある。何かのキッカケで、誰かが落ちるのを待ち受けている。

 猫羽がまた、泣き出しそうな目をしていることに不意に心が和らぐ。可愛く傾げられた小さな頭で、トレードマークのリボンとツインテールが揺らいでいる。
 弱くない、と心から言ってくれた探偵の少女。
 その暗闇を知ることができる日は、いつか来るだろうか。


暗闇の中で 了

狂詩曲:introduction

狂詩曲:introduction

『探偵に悪魔は反則です』


 重苦しい……痛い、幻……冷たく細い、三日月みたいな金属の感触。
 凍える暗い水の底で、いつまでも揺らぎを止めないわたしの声。

――何か……――ことは、ある……?

 どうして今更、こんなに古い、嫌な記憶が浮かんでくるんだろう。
 ずっと、忘れていたはずなのに……あのバイトを、始めちゃうまでは――


 わたしは、ウツギ・ネコハ。それが今の、人間の「わたし」の名前です。
 わたしは毎晩、こうして暗い水底で、昔のわたしの夢を見ます。人間生活を学ぶために、留学に来た日本でも一緒。
 所長の魔法が通じにくいわたしは、まやかしを見抜く感覚を持ってるらしくて、何となく人の思いがわかるのも昔からだったし。
 「直観」っていうんだって。それで多分、所長が危ない人っていうのもわかるんだけど。

 仕事を楽しいって思ったことは、わたしは今まで、一度もなかったんだ。
 でも、生きていくためには、やらなきゃいけなかったから。

――だって……得意だよ。

 わたしにできることは、とても少なかった。    
 魔法なんて到底使えない、ただの人間の弱い体。
 悪魔と協力するくらいしか、仲間を作れない弱い心……。


 わたし、元の世界のPHSと、日本のスマホの二つを持ってます。
 わたしのPHSは、悪魔仕様です。
 わたしは一応、悪魔使いです。
 悪魔というのは、父さんいわく、ヒトの心にあるものらしいです。

 悪魔はわかりやすくて、代償さえ支払えば、契約の通りに動いてくれる。
 でも悪魔以外は、そうはいかなかった。
 ヒトは、特に人間は、何かあれば心が変わってしまう……わたしはすぐに、その変化がわかってしまう。

 守ってもらうということは、守ってくれるヒトが、いつかいなくなる日を思うことだった。
 わたしを守ろうとして、沢山のヒトが、色んな代償を支払ってきた。
 だからわたしも、わたしにできることなら何でもしたかった。

 それならわたしは、もう一度……昔みたいに……仕事のためなら、この手を汚すのかな……?


「――猫羽ちゃん。猫羽ちゃん……」

 吐いてしまいそうなくらい、頭が重たかったわたしに、誰かが何度も話しかけてきました。
「オレの声、猫羽ちゃんなら、聞こえてるでしょ? そろそろ起きないと……また今日も、みんなの注目浴びちゃうよ?」

 小声の誰かは、本当は声一つだって、出してはいないんだけど……。
 わたしの頭に、直接話しかけてると気付いたわたしは、驚いてばっと顔をあげて立ち上がってしまいました。
「――!?」

 …………。
 がたがたがたと、大きく机と椅子を揺らして、盛大に目を覚ましたわたしだったけど。
 前をよく見れば、そこはいつもの居眠り部屋で、つまりわたしの高校の教室で……。
「う……棯さん……? どうか、しましたか……?」
「あ――……あ、う……い、いいえ……」
 数学とかいう、わけのわからない呪文ですっかり悪夢の世界にいたわたしに、今日も盛大な視線が注がれてしまったのでした。 

 教室の端で、わたしを見ずにくすりと笑う、とてもキレイな顔の人影を除いて。
――だから……言ったのに?
 離れた席に座ってるのに、わたしに声をかけてきた同級生のヒト。
 わたしは恨めし気に、お昼休みまで、そのヒトをじっと見つめるのでした。


 わたし、お肉が大好きです。
 その次に甘いものが好きです。
 お肉は高いから、わたしのご飯は大体いつも、沢山入った菓子パンの一つで済ませています。

「あーもー! 棯さん、またそんな偏食してー!」

 屋上で一人、空を見ながら食べるのが好きです。
 それなのに最近、やたらに纏わりついてくる同級生がいます。
「お金足りないなら、かーさんに文句言うから言ってよね!? 棯さんみたいな年頃の女の子は、もっとしっかり食べなきゃ育たないよ、色々!」
 うううううん……やっぱり、この人、ちょっと苦手だなあ……。
 わたしが小柄で、体型も貧相なこと、いくら玖堂さんの息子でも、そんなにはっきり思ってほしくないなあ……。

 というわけで、わたしの下宿生活を預かる玖堂さんの子供の一人、いつも元気な鳥頭のサトシは、こうして妙にわたしにかまってきます。
 わたしが難しい顔で黙ってパンを食べてると、サトシの隣の、こっちも同級生のヒトが、男子にしてはとてもキレイな顔で笑いました。
「ダメだよ、サトシ。決められた金額でやりくりする、それも大事なことだって、猫羽ちゃんはちゃんとわかってるんだから」

 さっき、わたしの頭に直接話しかけてきたヒト。
 このヒトとサトシが、高校ではよく話しかけてきます。

「でもさ、氷輪(ひわ)ー! 棯さんいつも金欠過ぎだろ、ていうか何でオマエだけは、棯さんのこと名前で呼んでんだよ、畜生!」
 何やら、サトシの標的が氷輪くんにうつったので、わたしはちょっとだけほっとします。

 わたし、年上の人は好きだけど、同年代は実は苦手です。
 なのでこうして、ほとんど返事もせずにいるようにしてたら、サトシみたいな物好き以外、普段は話しかけられないんだけど……。
「ああでも、棯さんと氷輪のそんなミステリアスなとこ、やっぱりいいぜ! 氷輪なんてもう一人は兄弟っていうけど同じ奴にしか見えないし、何回転校してくんだオマエって感じだし!」
 一匹オオカミと呼ばれるわたしと、人当たりはいいけど、いつも一つの学校に長居しないらしい氷輪くん。
 氷輪くんは一見二人います。一人はここにいる、つんとした黒髪で、女の人みたいにキレイな顔のヒト。
 もう一人は本来の氷輪くんで、青っぽい銀の髪がすごく目立つヒト。二人共、ふっと現れてはいつの間にか消えて、存在ごと忘れられるようにしてるみたい。
 でもサトシには、あえて記憶を残してるようで、その辺りの事情はよくわかりません。
「猫羽ちゃんのことは、そっとしておいてあげてよ。今日もなんか、悪い夢、見てたみたいだしさ?」
 わかるのは、氷輪くんが油断ならないヒトなことで……それでもわたしは、氷輪くんくらいしか知り合いがいません。

 この町には、親戚のおにいちゃん、おねえちゃんはいるけど、わたしの元々の友達や知り合いは誰もいません。
 多分氷輪くんだけです。だから氷輪くんもわたしのこと、名前で呼ぶのかも。
 一応お互いに知ってるし、特に昔、兄さんが迷惑をかけたから、氷輪くんには頭が上がらないんだけど……。
「……別に、そっとしておいてくれなくても、いいよ」
 氷輪くんに対して答えたはずが、何でか後ろで、サトシがガッツポーズをとっちゃいました。
「うわ、棯さんから返事してもらえた! 今日のおれ、超らっきー!」

 いつも大体、見つめるか頷くか、首を振るしかしないわたしです。
 どうせ一年たったら、元の所に帰るんだし、ここでそんなに誰かと仲良くする必要はないと思うし……。
「気をつけなよ、サトシ。猫羽ちゃんに迂闊にさわると、火傷するよ?」
 氷輪くんの言う通り、サトシみたいな普通の人が、わたしに関わるのは少し危ないこともあります。
 事務所みたいに、人外なヒト達ばかりの所なら、わたしも普通に話すんだけど……。

 そんなわけで、わたしにとっては、高校はただの仮眠スペースなのでした。
 それじゃ勿体ないって、おねえちゃんには何度か言われたんだけどね。

「それにしても棯さん、やっぱりツインテール、似合うよなー! 氷輪のセンス、グッジョブ過ぎだろ!」
「別に、大したことじゃないよ。猫羽ちゃんが昔にこの髪型だったこと、知ってるだけだしね」
「…………」
 ちょっと変わってるらしい女子の制服――おへそが出る詰襟のジャケットと、大きなベルトのふんわりスカートに合わせて、明るいミカン色のリボンをくれたのは氷輪くんです。
 わたしの紫苑の髪には、よく似合ってるって言います。
 でもこれ、ツインテールだった頃は、この髪は瑠璃色だったんだけどね……。
「それに、渡しといてなんだけど……オレは、猫羽ちゃんには、帽子とポニーテールの方が合ってると思うよ」
 ポニーテールを帽子の隙間から出して、動きやすい上着とショートパンツ。それが休日のわたしの格好です。
 この制服と髪型も気に入ってるし、所長がこれに合わせた門番道具をくれたから、わたしのお仕事服だと思ってるけど。

 高校生活も、わたしには、与えられた仕事の一つなわけです。
 早く終わらせて、元の所に帰りたいけど、今はまだまだ始まったばかりです。

「とりあえず棯さん、今日の放課後、スイーツ天国行こうぜ! もちろんおれの奢りだし! その代わりデートって感じだし!」
「サトシそれ、正直なところは評価するけど、すごくえげつないこと言ってない?」
 キレイな顔に似合わずに、にやにや笑う氷輪くんの前で、わたしは黙って首を振ります。

「えー! うそうそ、妹と氷輪も誘うからさ、Wデートで! それもダメなら、何ていうか遅ればせの歓迎会でさー!」
菜奈(ナナ)ちゃん誘うの? それはちょっと、可哀想じゃない?」
 氷輪くんがさすがに呆れた顔をするのは、ちょっと深い理由があります。
 サトシの兄弟姉妹事情は、色々と複雑みたいで……。
 それはともかく、わたしはもう一度、黙って首を振ります。

 学校が終われば、今日はすぐに、昨日の件を所長に報告しにいかないとだし。
 バイトを休むなら、もう少し前から言っておかないとだし。
 こういういきなりのお誘いに、わたしが頷いたことは、ほとんどないかもしれません。
「ああもう、棯さんって本当につれない……でもそんなところがまたときめきハート、べりーキュート……」
 サトシは本当に変な人です。でもすごい明るくて、この前向きさは、兄さんとかには見習ってほしいかも。
「ダメだよ、サトシ。猫羽ちゃんは、筋金入りのブラコンだからねぇ」
「…………」
 にこにこと笑ってわたしを見る氷輪くんは、だから、ものすごく、曲者です……。
 氷輪くんのことだって、本当ならわたしは、にいさんって呼びたいんだから。
 たとえ氷輪くんが、「処刑人」の名を冠する悪魔だとしても――

 今はただ、氷輪くんと兄さんが取引をしたから、わたしの高校生活を見守ってくれてるだけ。
 その取引の代償を、こっそり兄さんが支払ってる。
 さすがにこの町での全てを、守ってもらうことはできないから、それは兄さんに代償の負担が大き過ぎるから……。

 兄さん、ごめんなさい。
 わたしの安全のために、最大限のことをしてくれているのに、わたしは危ないバイトを始めちゃいました。

 とりあえず今のところは、所長お手製の門番用大鎌は使わずに済んでいます。
 できればこれからも、使わないで済んだらいいと思っています……。


-please turn over-

★4月;よろず相談所殺人事件

★4月;よろず相談所殺人事件

 こんにちは。ウツギ・ネコハです。
 今日はとても焦ってるので、ぶっちゃけて単刀直入にいっちゃいます。
 あれ、こういうの、てんぱってると言った方が女子高校生っぽいのかな……。

 わたし、こう見えても天使でした。サツリクの天使というやつです。
 悪いことをするヒトをコロすお仕事です。だから楽しくありませんでした。
 おかしい子と言うならその通りです、色々複雑だったんです。

 最後の方は悪魔に雇われてたけど、兄さんが助け出してくれました。
 その辺りのお話は、また機会があればと思います。多分ないと思うんだけど。

 とりあえず、サツリクの天使はしてたけど、もうサツリクはしてません。
 したくありません。今のわたしは、人間なんだもの。

 だから「これ」も……わたしは、してません……。


* * *


 タカノ相談所、前代未聞の異常事態です。
 受付兼番人として急いで飛び込み、門番用の鎌を大きく振りかぶったわたしに、一階にいた二人のお客さんが腰を抜かしました。
「え、あ、って、か、鎌だぁ!?」
「って、ちょっと……!? 何事なの――!?」

 無言で二人を睨むわたしに、背後の入り口の方から、誰かの冷静な大声がかけられます。
「駄目です、猫羽ちゃん! The倦怠期カップル・首並べ殺人事件を起こす気ですか!」
 あれれれ。わたしの直観が確かなら、この怒ったフリの気配は所長かな?
 振り向いた先には、華奢なうなじで束ねたウェーブの金髪を可愛く振り乱す、碧い目の綺麗なヒトがいました。
「あ……久しぶりの、所長だ……」

 所長は自称、淑女です。本職は看護師で、そのイメージを大事にと、普段から白いツーピースをよく着てるそうです。
 完全な日本人でないらしい所長は、とても肌が白くて、わたしよりちょっと背が高いくらいで、いつも天使みたいな優しい笑顔です。
 対してわたしは、猫みたいな野生児って言われて、気合いを入れると無表情らしいです。兄さんなんかは時々、笑った方が女の子は得だと思うと、ヘンなことを言ってた気がする。
 でもこんな事態の時に、笑うことができるほど、わたしは人間離れはしてないと思う……。

 わたしは鎌を振り上げたまま、半分だけ振り向いて、もうっという珍しい顔の所長と対面中です。
 足元では、鍵のかかったドアのある壁際に追い詰められたお客さん達が、座り込んでひいいと抱き合いながらわたしを見上げてました。
「久しぶり、とは何ですか。ここは私のオフィスですよ」
「あ、うん……でも……」
「とにかくその手を下ろして下さい。それでは貴女が、殺人鬼にしか見えません」
 ……あ。そう言えば、ずっとこのままだと、そうかも……。
 でも大丈夫かな。だってここには、ついさっき、人を殺した人がいるのに……。

 わたしが突然番人モードに入った理由を、所長はわかってるみたいです。
 狭い肩で大きなため息をつきながら、ちらりと二人のお客さんを見下ろしました。
「つい先ほど、時空の遮断を施しました。貴女が『レヴァリー・サイス』を抜いたことで、事務所全体も警戒体制に入っています」
 あれれ。そんなすごい名前あったんだ、この門番用の鎌。バイトを始める時に所長がくれた、魔法の鎌ではあるんだけど。
 それはともかく、人間のお客さんの前で、そういう人外のことを遠慮なく喋ってもいいのかな?
「ここには現在、時間が流れていません。だから何を話しても、彼らは今起きていることを覚えてはいません」
 所長は時々、とんでもないことをさらりと言います。本当にこのヒト、出自は人間なのかな?
 とにかく、どうやら牽制の必要のない罪びとを前に、元サツリクの天使のわたしは、条件反射で構えた番人鎌を下ろしたのでした。

 壁際で抱き合ってた、二人のお客さん――……ラフな恰好の男の人と、真面目そうな女の人が、揃ってわたしを睨んできました。
「な、何なんだ、あんた達はいったい!?」
 先に男の人が立ち上がって、女の人はその後ろに隠れちゃいます。
 所長、今ここでは記憶は残らないと言ったけど、みんな動けたり喋れたりはするんだね……不思議だなあ……。

 わたしが黙ってると、後ろから所長が、慈愛の微笑みをたたえて出てきました。
「申し訳ありません、お客様。弊社の受付けが、失礼を致しました」
 本当に所長は、いつも大人しそうな雰囲気の綺麗なヒトなので、男の人が思わず息を呑みます。
「しかしこちらも、お二方に、事情をお伺いしなければなりません。二階の応接室で亡くなられている、依頼人の女性は――お二方とは、どういうご関係でしょう?」

 ここでぴたりと、お客さん二人が硬直しました。
 わたしも気を抜かないまま、じいっと二人の罪びとを見つめます。

 黙り込むお客さん達が、揃って唖然としてる理由……。
 ついさっき、外から事務所に駆け込んだわたしと、そのわたしに続いてきた所長が、まだ見ぬ二階の異常にどうして気が付いているのか。
 わたしもまさか、いつも通りのバイト通勤途中で、こんな気配を感じるとは思いませんでした。
 事務所の二階で、誰かが人を強く殴って……殺してしまった高揚感なんて……。

 気持ちが悪いです。胸がどくどくと高鳴り過ぎて、今にも吐いちゃいそうです。
 多分、これは、わたし自身の心じゃないと思う。
 この場にいる誰かが、すごく不安で、死ぬほど怖くって……。
 そして、とても強く後悔している、辛い心がいっぱいだから。

 今はみんな、近過ぎてはっきり区別はできてないけど。わたしの直観は、わたし自身とみんなを一緒くたに感じます。
 バイトのために、歩いて事務所に向かっていたわたしは、 急にひどく強い殺意を感じました。
 そして急いで駆け付けてみたら、二人の人間が一階にいて、二階ではちょうど、誰かが息を引き取っていって……。

「とにかく、死亡確認をします。そこをどいて、私達を二階に通して下さい、お客様」
 ここはよろず相談所です。だから一階は、相談事例集を飾る客寄場です。
 二つのついたてで、進み方がN型になるよう仕切られた一階では、二階に続く階段は玄関から二時の方向になる一番奥で――
 階段と反対にあるトイレの前に、お客さん達はいました。
 でも、大鎌を持ったわたしが玄関から駆けつけたら、階段のドアまで後ずさっていったの。

 階段のドアは、階段側から鍵がかかる仕組みです。お客さん達は階段には逃げられなくて、それはもう、追い詰められた心が伝わってはきたんだけど……。
 そんな時、罪びと相手に武器を下ろすような容赦を、わたしは元々持ってません。

 あ、もう完全に、お客さん達を犯人扱いしてるわたしだけど。
 所長がわざわざ、自分の事務所で人を殺すわけがないし、空間を遮断したっていうすごいこの場には、わたしと所長とお客さん達しかいないから……。
「し、死亡確認って、何のことだよ!? 二階で人が死んでるって、おれ達関係ねぇし!?」
「嘘……私達、ずっと一階で、パネルを見てたんですよ!?」
 うん……すごく探偵ものぽいっていうか、白々しいくらいに、嘘なんだけど……でも二人共嘘をついてるから、どっちが犯人さんかは、微妙だなあ。

 所長が階段の鍵を開けて、先頭を切って二階に上がります。
 わたしは、その後に続くお客さん二人を見張りながら、最後に階段を上がります。
 受付けのわたしのいつもの居場所、二階の瓦礫(がれき)部屋。普通の人には、応接セットの机と椅子と、沢山の事例集を入れた棚しかないように見える場所です。
 実際には、わたしだけでなくお客さんもブロック塊に座らされてる部屋で、わたしには瓦礫を寄せ集めた石の部屋にしか見えません。
 一階と違って、トイレもないしね。本当に、ひどい労働環境だよね……。

 その瓦礫の上――お客さん達にとっては、応接間の長椅子で、頭から血を流した学生服の人……お腹だけがちょっとぽっちゃりした、知らない女の子が、そこで静かに横たわっていました。
「ええっ!? そんな……何で、ユリちゃんが……!?」
「嘘でしょ!? ついさっきまで、元気だったのに!」
「…………――」
 うわあ……だめだ、わたし……すごく、気持ち悪い……。
 この子、きっと、わたしとあんまり年が変わらない……多分、少し年上くらいだと思う……。
 サツリクの天使をやめてから、わたしはずっと、なるべく血を見ないように守られてきたのに……こんなに嫌な匂いのするものなんだって、今、はっきり思い出しちゃった……。

 本当に、本当なんだ……。
 この事務所で、本物の殺人事件が、起こっちゃったんだ……。

 所長は色々、裏で何をやってるかはわからないけど、こんな風に死体を残すことはしそうにないです。だから今まで、命の危険は感じても、ここで人が死ぬのを見たことはないです。
 だめです、油断してました。自分で思ってたより、ずっとショックです。
 やっぱり、こういうお仕事なんだ……この事務所で働く、ということは……。

「遺体を確認します。知り合いならお二人は、私の横……その棚の前で、並んでご覧になっていて下さい」
 本職が看護師なので、人の死を見慣れてる所長は、とても冷静に遺体の状態を確かめ始めます。
「私程度に、ろくな検死はできませんが……お体はまだ温かくて柔らかいですし、死斑も出ていないので、死後二時間以内、でしょうね」
 机と遺体の左にある棚の前で、お客さんの二人が、わっと顔を覆います。
「看護師としての経験から言えば、この血の生々しさは、出血して三十分もたっていない気がします」

 本当にそれは、適当だと思います。
 被害者さんは、この季節なのに中に重ね着をしてて、ちょっとだぼっとした学生服は脱がせてません。だから見える範囲でだけ、所長は適当に言ってます。
 実際には、魔法の力で調べてるかもしれない。医療職といっても、検死は畑違いみたいだし、仕方ないと思うんだけど。
 でも、わたしが感じた異常もついさっきだから、その死亡時刻は間違ってないと思います。

 というわけで――と。
 検死のために、さっきはめていた手袋を脱いで、今も優しい声色の所長は……ふっと、とても場違いな微笑みをたたえました。

「よろず相談所・女子高校生殺人事件。その犯人は――この中に、いますね?」

 そうして、気持ちの悪い胸を掴むわたしを、所長の碧い目が不意にじっと見つめたのでした。


* * *


 現場保存の鉄則。と所長が言うので、わたし達は全員、遺体を置いて三階に上がりました。
 警察に連絡する。と言って、わたしと所長は一旦、お客さん達を置いて二階に戻ります。

 三階は、今日はいないけど、事務所の他のメンバーの控室です。
 やっぱり瓦礫部屋なんだけど、トイレやシャワー、給湯機とか色んな設備が一応あって、折り畳みベッドもあります。だからこのビルでは、一階と三階のどちらがマシか、いつも意見が分かれてるかな。

 二階でわたしと二人になって、遺体を前に、開口一番。
 所長は笑顔で、とても厳しい声になっちゃいました。
「猫羽ちゃん。貴女はうちの番人なのに、何をやっていたんですか?」
「それは……勤務時間外、だし……」
 わたしがここについたのは、高校が終わってから、五時前です。今はそのまま、所長が「時空を遮断した」ので、時計も止まっててビックリです。
 わたしのお仕事は五時からだし、だから全面的に、時間外労働だと思う。

 でも、わたしの拙い反論は、あっという間に封殺されちゃいました。
 それもよりによって――わたしが思っても見ない、恐ろしい言葉で。
「勤務時間外ですか、なるほど……勤務時間外の女子高校生なら、他校の先輩殺人事件を、職場で起こしても良いというのですか?」

 ……一瞬、わたしは、何を言われたのか全くわかりませんでした。
「……、え……?」
 ぽかんとするわたしを、所長はまるで哀れむように、とても悲しげな顔をして見つめてきました。
「猫羽ちゃん……何か悩みがあったなら、どうして話してくれなかったんですか?」
「……え……?」
「いくら貴女の前身が、処刑人とはいえ……よりにもよって、うちの事務所で、こんな殺人衝動を起こしてしまうなんて」

「って……えぇぇ……!」
 犯人はこの中にいる。探偵ものでよくある台詞を、ついさっき口にした所長は――
 まさかもまさか、何とわたしを、犯人だって言いたいみたい……!?
「――違う。わたしは、やってない」
 兄さん、助けて。思わず心の中で叫びながら、わたしは必死に、所長を見つめ返します。
「これは、わたしじゃない。何の証拠があって、そんなこと言うの……!?」
 言いながら、あれ、いかにも犯人さんが言いそうなことだと、わたし自身が混乱しちゃいます。

 不意打ち過ぎて、血相を変えちゃったわたしに、所長は悲しげな顔から一転……くすりと、いかにも魔女っぽい顔で、陰湿に微笑みました。
「ええ、勿論、私は信じていますけど……でもあの状況だと、疑われるのは、貴女であってもおかしくはないですね?」
「ええっ……な、何で……!?」
 ……自分で言うのも、なんだと思うんだけど。わたしがこんなにアワアワするのは、実はとっても珍しいです。
 それは多分、わたしの直観は、所長が何を言わんとしてるかを感じ取ってるからで……――
「警察沙汰など、そんな厄介なことは、手早く解決するにこしたことはないんです」
「……!」
「貴女が素直に、出頭して下されば……この事務所にとって、まだしも被害が少ないことは間違いないんですけどね?」

 そこにいるのは、きらりと輝く金髪の魔女。ううん、もうこんなヒト、金色の後光の悪魔でした。
 所長はこれから、事件の早期解決のために、わたしを警察に突き出そうとしてます……!
 このままだと、わたしが犯人として、証拠や動機を捏造されちゃいます……!
 所長ならします。所長は、学問外のことは苦手で、推理なんて到底できないって、探偵部門の(かおる)おにいちゃんもいつも言ってるし――

 それならわたしは、仮にも探偵部門の下っ端として、この台詞を言うしかないです。
「……待って。犯人さんは、わたしが見つける」
 危うく、警察に電話する受話器を取り上げようとした所長に、わたしはがしっと縋りつきます。
「今はここ、時間、止まってるんだよね? それならその間に、わたしが、真の犯人さんを見つけるから」
「ええ……それは、そうですけど……」
 所長の腕を掴むわたしの、いつにない気迫に、所長は目を丸くしていました。
「空間も遮断していますから、馨の助けも、貴女の悪魔すらも呼べません。しかも、貴女の言う通り、勤務時間外です。それでも……貴女がやるというのですか?」

 サツリクの天使をやめて、悪魔使いになったわたし。
 悪魔がいないなら、わたしにできることなんて、確かにほとんどありません。
 でも……だからって、わたしが犯人にされるなんてあんまりだもの……!
「やる。やるから、フィオナはこのまま、時間を止めてて」
 ここはとにかく、そう答えて乗り切るしかない。
 唯一、わたし自身の武器と言える「直観」は、その道しかないとわたしに囁いていました。

 時空を遮断する。所長は簡単に言ってたけど、実際それは、すごく大変なことのはずです。
「そうですねぇ。私程度の魔法では、もって、後一時間というところでしょうか?」
 えええええ。そんなのあんまりだ。所長は肝心なところで、こうしてかよわい人間の女性だから困ります。
「三階の二人か、それとも私か。警察が一目で頷く証拠と犯人を、その間に探して下さいね?」
 えええええ、所長も容疑者に入ってるの? まず違うけど、所長、何だか楽しんでないかなぁ?
「この事務所は、大半の光景がまやかしです。しかし、そのまやかしにはモデル物件があります。時空の遮断が解けたら、この遺体の発見はそこでの事件にすり替えますから、その前に証拠と犯人を用意して下さい」
 要するに普段は、違うビルの風景を、ここでは再現してるらしいです。
 今の遮断が終わる時に、わたし達をそのモデルの場所に飛ばすと、所長は言ってるのかな。だったらこっちにいる間に手がかりを見つけないと、向こうには何もないもんね。

 そう言えば、今の遮断のままだと、警察にも連絡できなかったはずだよね……わざわざ電話するそぶりなんて、所長の意地悪……。
 でもどの道、連絡できるようになれば、すぐにしないとだし。
 その時、犯人がわかってなければ、所長はわたしを引き渡すつもりだよね……?

 もう、本当に、どうして殺されたのが女子高校生さんなんだろう。大人以外の依頼人は、とても珍しいのに。
 わたしと被害者さんは、会ったこともないけど、同じ女子高校生だというだけで、何か関係があると実際に思われちゃいそう……。
「フィオナ……この依頼人さんは、何の依頼で、ここに来てたの?」
 まず、遺体に触らないように様子を確かめながら、わたしはいよいよ探偵のお仕事――事情聴取を始めます。
 所長は、ちょっと待って下さい。と、なぜかおもむろにスマホを見始めました。
「それは私も、気になっているんです」
 あれ? それって、どういうことだろう?
 受付のわたしがいないのに、二階の応接室にいるお客さんは、イコール依頼人……元々予約をとって、来てる人のはずなんだけど。
 でないと、わたしも他の誰もいない時には、予約がないと階段の鍵はしまってるはずだから。被害者さんはまず、二階に入ってこれないはずなんだ。

 予約をとってたら、依頼内容はその時に、所長に先に連絡されてるはずです。
「実はですね。本来、今日の依頼人は、内密に一人で来られるはずだったんです」
「……?」
「ところが先だっての話とは違って、依頼人は、三階にいる二人……知り合いらしき人達を、ここに連れてきています。そうした変更のある場合は、必ず事前に連絡を下さるよう、あらかじめ説明していたはずなのに……」
 なので、所長は今、依頼人から変更の連絡がないか探してるみたいです。
 よくわからないけど、せきゅりてぃそふととかが、たまにそういう連絡を消しちゃうことがあるんだって。
「パソコンもつけて確認してみます。なので、事情聴取は先に、上の二人からしてきてください」
「ええっ……でも、本当のこと、喋ってくれなさそうだよ……」
「そこから真実を暴くのが、探偵です。私にはとてもできませんが、猫羽ちゃん、貴女ならきっとできます」
 だめです……所長には、とりつくしまもありません。
 ある程度は裏を取ってから、容疑者さん達に話を聴きたかったのに……。

 後一時間で、本当に何とかなるのかな、これ。
 弱気になったわたしは、三階に行く前に、駄目元で所長に尋ねてみます。
「ねえ、フィオナ……時間を止めたりとかができるなら、上の二人に、自白をしてもらうことはできないの?」
 何となく、時間も空間も遮断するとかより、よっぽど簡単な魔法の気がするんだけど……。
 思った通り、所長はいいえ、と首を振ります。
 そうだよね。できるなら、とっくにやってるよね、所長が。
「駄目ですね。そこまで強制介入すると、何らかの形で記憶が残ってしまいます。この凍結時間中の出来事は、忘れてもらわないといけませんから」

 あれ。ということは、やろうと思えばできるってことだよね。
 やっぱりできるんだ。でも所長は、自分のイメージを汚したくないんだね、多分。

「全く、うちの事務所で、殺人などと……人を殺したいなら、私にご依頼下されば、こんな手間などかからないものを……」
 パソコンっていう機械が、あんまり得意じゃない所長は、珍しくイライラした顔をしてます。さっきから必死に、画面とにらめっこ中です。
 というか、強制介入は駄目でも暗殺はいいって、結局よくわからないや。
 もう、まるで、わたしに意地悪をしたいだけに思えてきちゃった……。
 とても重い足取りで、わたしは、三階に上がる階段のドアを開けます。

 いつもより重たく感じるドアを閉めて、ばたんという音に、わたしはハッと、大事なことに気が付きました。
「あれ……これ、って……」
 所長だけが持つ鍵と、魔法に制御されてる階段のドア。
 この町に来る前に、いくつか読んだ、かっこいい探偵さん達のお話。
 その中で、よく見かけた物語は……誰も入れるはずのない場所で、何故か死んでる誰かがいるという、閉ざされた空間での事件で……。

「これ……密室、殺人……?」

 わたしはしばらく、呆然と、踊り場に立ち尽くしてしまいました……。


* * *


 ぶるりと、まだ春なのに、寒気がしてしまいました。
 密室殺人。何回も読んだことはあるけど、まさか自分が、実際にその立場になるなんて……。
「二階から、一階……被害者さんは、二階で死んでるのに……お客さんはどうして、一階にいたの……?」
 所長と会うのを、予約していた被害者さん。それに他の二人がついてきて、予約だから鍵が開いて、一緒に二階に上がれたとして。
 それから、被害者さんが死んでしまった直後には、二人は確かに一階にいて……。

 今は、所長やわたしがいるから、階段のドアは何階でも開いています。
 ビルの八時の位置が玄関で、三階までの階段は玄関とは真逆にあって、一階ごとに踊り場から部屋に入るドアがあります。
 四階の所長室だけは、三階から違う階段を昇るんだけど、それ以外の階段の制御機構は同じです。
 ということは……わたしや所長がいない時には、一階から二階に続く階段のドアは、鍵がしまってたはずで……。

 ついさっき、わたしが事務所に玄関から駆け込んで、所長もわたしの後に入ってきました。
 わたしに追い詰められたお客さんは、鍵のかかった階段に逃げることはできませんでした。
 そして鍵が開いたのは、遺体を確認するために二階に上がろうと、所長が階段の鍵を出した時のはずだから……。
「……まさか……そんな――……」

 普通の探偵ものなら、「魔法」なんて関わってきません。だから、ちょっと考えれば、誰でも密室を作れると思う。
 でも今回は……もしもお客さんが犯人なら、いったいどうやって……ただの人間が、所長の「魔法」に、トリックを仕掛けられたっていうんだろう?
「待って……そんなの、そんなの……」
 時間はきっと、どんどん迫ってるのに、わたしは三階に行けません。踊り場で一人、うずくまっちゃいます。

 二人共、ただの人間だと思う。万一何か、「力」があっても、所長に敵うレベルだとは到底思えない。
 それならわたしが、最初から否定してたこと……所長が、この事件に関わってる可能性が、出てきちゃいます。
 でないとどうやって、あの二人だけで、二階の密室から抜け出せるんだろう?
「有り得ないよ……そんなことしたって、フィオナには何の得も……」
 でもここで――このまやかしのビルで、密室を作れるのは、所長だけです。
 お客さんの二人は、最初から何か、嘘をついてました。だから間違いなく、とても怪しい。 
 所長はいつも通りだったけど、わたしを犯人にしようなんて、決めつけてきたのは予想外で……。

「それとも……みんな、グルなの……?」
 もしや所長が、あの二人を守るために密室を作って、わたしを犯人に仕立てあげようとしてるとか……?
 そんな考えが、沢山の違和感と一緒に、わたしの中に浮かんでしまいます。

 急に、とても、怖くなってしまいました。
 だっておかしい。所長が守ってる事務所で、こんなに大きな事件が起きて……こんな日に限って、いつもは三階に住んでるぐらいのヒト達も、みんながいない。
「ううん……フィオナはいつも通りだし、わざわざこの事務所内で、人殺しなんて……」
 必死に頭を振って、嫌な考えを払おうとしても、胸の中がどんどんヒヤリとしていきます。
 だって、所長が敵なら、わたしには絶対に勝てない。
 こんなんじゃ駄目。頭の中がぐるぐるして、さっきからわたしの「直観」が、全然働かなくなってしまってます。

 わたしとわたし以外のものを、いつも、一緒くたに感じてる直観。その中で、わたしの心が大きくなるとわたし以外が他所に追いやられて、感じ取り難くなっちゃうんです。
「どうしよう……兄さん、どうしよう……」
 通じないとはわかってても、思わずスマホとPHSを、わたしはポケットから両方取り出します。

 誰にも、助けてって言えない。それって、こんなに怖いことだったんだ……。
 みんなが守ってくれたわたしと違って、兄さんはいつでも、何でも自分でやろうとしてたけど……どうしたらそんな風に、今のわたしも頑張れるんだろう?
「この間……兄さんのことも、咲姫(さき)おねえちゃん、少し送ってくれたよね……」
 時計の進まないスマホのメール画面と、PHSに少しだけあるみんなの写真を見て、わたしは気持ちを落ち着かせます。

 咲姫おねえちゃんは、わたしの父さんと母さんの大事なヒトで、故郷にいる父さんと母さんのPHSに、おねえちゃんはわたしのメールを送ることができます。
 わたしのPHSからでは、遠過ぎて届かないの。いつもはわたしのスマホからおねえちゃんの携帯へ、そして二人のPHSへ。
 でもここでは、咲姫おねえちゃんにも連絡できないみたい。スマホの電話じゃなく、PHSの伝話(でんわ)なら何とかならないかと思ったけど、圏外マークが出ちゃってます。

「犯人にされちゃったら……京都に、戻ることになるのかな……」
 わたしの戸籍は偽物です。だから警察事件とか、ややこしいことになれば、元の場所に戻されて失踪扱いになると思う。
 それなら帰れるし、わたしも帰りたかったし、フィオナもそれで、わたしを犯人にしてもいいと思ってるのかも……。

「……それは……イヤ、だ……」
 でもわたしは……「人殺し」として帰されるのは、すごく、辛くって……。
 ここでは別に、本当の犯人はわたしじゃなくても、でも、わたしは……――
「人殺しって……もう、言われたく、ない……」

 それは、わたしには……元々、本当のことだから……。
 わたしはいっぱい、自分の意思で、ヒトを殺してきたから……。
 もう殺すなって、兄さんが言ってくれて。やっと普通に、人間の女の子になれたと思ったのに……。

 不安だらけのわたしが、一人ぼっちで、膝を抱えて丸くなってたからかもしれません。
 スマホとPHSを、ポケットにしまおうとした時のことでした。
 不意に、それは……その、消えそうな声は――

 ああああん、と。
 今のわたしとよく似てて、とても不安で、怖がっている誰か。
 そんな誰かの、不思議な泣き声が、突然聞こえました。

「……え……?」

 同じように、泣き出しそうだったわたしは、わたしに急に混じった誰かを探して上を向きます。

 とりあえず、わたし自身の不安は棚に置いて、もっと泣き声に耳を澄ませます。
 どうしても、気になって仕方がない。今はほとんど、他のことはわからないし……こんなに怖がってる泣き声は、放っておけないし。

「……え……ウソ……?」
 声の在り処が、やっとわかりました。わたし以外には、その発信源は一つしかなかったから。
 それと同時に、わたしに何故か、不思議なやる気がわいてきました。
「これだけでも……何とか、してあげないと」

 顔を上げて、立ち上がって、よし! と気合いを入れます。
 わたしのことは、ひとまず知らない。どうなるかはわからないけど、この声をまず助けてあげないと。
 そのためには、三階の人達にちゃんと話を聴かなきゃです。もうあんまり、時間もなさそうだしね。

 覚悟を決めたわたしが、三階に上がると、部屋の隅の瓦礫に座らされた二人が、不満そうな顔で待っていました。
「あの……警察は、まだなんですか……?」
「おいおい、いつまでおれ達、こんな所にいさせる気なんだよ?」
 二人にはここは、わたしの高校にもあるような、ベンチシートの並ぶ更衣室に見えてるみたいです。シャワーとトイレに、ロッカーやベッドもあるせいなのかな?

 わたしは軽く息を吸って、落ち着いて答えます。
「警察は、後、一時間くらいで来る」
 それに二人は、はぁ? と、大きく目を見開いてわたしを見ました。
 真面目そうな女の人が、きつい顔付きでわたしを睨んできます。
「殺人事件なのに、そんなに初動が遅いって、どういうことです?」
 隣の男の人も、大袈裟に焦った顔をして、立ち上がってわたしの方に来ました。
「勘弁してくれよ! おれは一刻も早く、ユリちゃんのこと、家に連絡しなきゃなのに!」

 二人はわたしを威嚇、というか警戒してるみたいです。最初が最初だし、仕方ないよね。
 ええと、探偵さんの基本、事情聴取……まずは、何から聴けばいいのかな?
「あのね……二人は、あの女の子とは、知り合い?」
 大人に怯まず、淡々ときくわたしに、お客さん達はバツが悪そうな顔をします。
「それは……そりゃ、ユリちゃんは、おれの義理の姪だから……」
「タケは、連れ子のお姉さんがいて、血は繋がってないから。その娘さんだから、義理っていうのも変かもしれないけど……」

 男の人は、タケさんというらしいです。被害者さんは、ユリさん。
 じゃあ、女の人は誰さんだろう?

「そこまで話さなくてもいいだろ、ミチ」
「どうしてなの。どうせ、警察でもきかれることでしょう?」

 女の人は、ミチさん。普通の小さな鞄と、買い物用の手提げを持っていて、手ぶらなタケさんとは二人でここに来たみたい。
 タケさんの家庭の事情を知ってることも含めて、多分、恋人同士さんだと思います。
 それくらいがわかっただけで、わたしの胸は、大分重くなっちゃいました。
 理由は、さっきの声の主が、もうほとんどわかったから。でも、先に色々、話を聴いておかないとね。

「今日はどうして、みんな、ここに来たの?」
 二人共、ただ買い物に出たような気楽な恰好です。ミチさんはまだましだけど、改まってこういう事務所に依頼に来る人って、結構きっちりした姿をしてくるんだけど。
「私達は――ユリちゃんから、頼まれたのよ。占いを教えてもらいにいくけど、一人じゃ不安だから、ついてきてほしいって」
 ミチさんは元々、真面目な人に見えるけど。買い物用の手提げを見せてもらったら、冷凍食品ばかりが入ってて、料理はできそうなのに不思議です。
「それがまさか、こんなことになるなんてよ……ユリちゃんの不安は、当たってたってことだよな?」
 タケさんがじろりと、わたしの方を見ます。まるでさも、この事務所のせいで、ユリさんが死んだと言いたいみたいに。

 でもそれにしては、そんな危険な事務所にずっと閉じ込められてることを、二人共全然怖がってません。
 最初にわたしが鎌を抜いた時は、あんなにビクビクしてたし、特別度胸があるわけでもなさそうなのに。
 困ったことに、わたしがずっと感じてるのは……この二人は、二人共嘘をついてて、何かを強く後悔してるから、それだけでは犯人さんを決められないことかな……。

「ユリちゃんが二階で予約の時間を待ってる間、おれ達はずっと一階にいたから、何があったかはわからねぇな」
「そもそも、ユリちゃんはどうして死んだの? さっきは、頭が血まみれだったけど?」
 想定外に、二人の方から話を振ってきました。わたしは全然、医学的なことはわからないから、わたしが感じたままを言います。
「頭を強く殴られたからだと思う。撲殺……っていうのかな?」
「そうなの? それって、凶器は何なの?」
 えっと。ミチさんの勢いが、段々強くなってきました。これは、どういうことなんだろう。
「わからない。でも、鋭い物ではないと思う」
「そうなのね。それじゃあ……私達はまず、容疑者にはならないわよね」
「――?」

 あれれ。違和感がどんどん膨らんでくけど、追い詰められてるのは、もしやわたしなのかも?
「私達のどこに、凶器があるというの? あなたくらいじゃないの。さっきの鎌とか、鈍器にもなりそうな物を持っているのは」
 それはまるで、わたしが鎌の背で、ユリさんを殴ったと言わんばかりです。
 何で、そんなことを言うんだろう。それだと、ミチさんがわたしに、罪を押し付けようとしてるように聞こえちゃうよ。

 ……うん。今ので確信したけど、犯人はほぼ、この人だと思う。
 でも、どうしよう……それはわかるのに、どうやって殺したか、凶器も証拠も何も言えない……。

 わからないです。密室の謎も、凶器も証拠も。
 でもわたしには、一つだけ……ミチさんがきっと、ユリさんを殺した理由は、わかる気がしました。

 だから、それだけは、はっきりさせておかないと。でないと、さっきの声を助けてあげられなさそうだから。
「……後一つ、きいてもいい?」
 胸がずーんと、重くなります。でも、わたしの気持ちは、どうでもいいことでした。
「被害者さんのお腹にいるのは……アナタの、子供?」

 不安だらけのわたしに聴こえてきた、一人ぼっちの誰かの泣き声。
 その存在を、わたしははっきり、本来それを守るべき人に伝えたのでした。


* * *


 時間が止まりました。って、もうずっと、止まってるんだけどね。
 タケさんとミチさんが、わたしの最後の質問に絶句しちゃったんです。
「……被害者さんのお腹の子供は、まだ、生きてる。早く、助けてあげないと」

 時間が止まってるので、その気配は変わってません。多分、そのまま生きてます。
 でも時空の遮断が終わったら、すぐに病院に連れてってあげないと。
 重ね着をして隠せるくらいのお腹だから、今生まれても、赤ちゃんが生きのびられるのかはわからないけど……。

 しばらく、黙り込んでたミチさんが、やがてぶるぶると震え始めました。
「ちょっと……タケ、どういうこと……!?」
 うわあ、とタケさんは頭を抱えます。それでも心配そうな横目で、二階に続く階段を見ています。
「何で……何でその子が、それを知ってるの……!?」
 やっぱり……お腹の子供の、お父さんはタケさんなんだ。タケさんはさっきから、とても強い後悔で、ユリさんのことばかり考えてたから。
 そうなると、本来恋人のミチさんには、それは酷いことのはずです。そのせいなのか、タケさんはミチさんに遠慮して、わたしに嘘ばかりついてました。

 そしてミチさんは、ずっとどこか、怒り狂ってる。
 人を殺せるくらい、自分を見失ってて――そして、罪の発覚を恐れてる。すごく後悔してて苦しい、自分自身にも気付かないくらいに。

 なるほど――と。ここで、タイミング良く、所長の声が響いてきました。
「妙にお腹だけ、着ぶくれした被害者とは思いましたが……妊婦さんだったなら、納得できます」
 ……ううん……いくら推理は苦手でも、看護師さんなのに、調べた遺体の妊娠に気付かないのはどうなんだろう、所長。
 案外、おっとりしてるのかな? 占いとかではズバズバ分析ができるのに、それは学問だからだって言うし……。

「遺憾です。やはりちゃんと、服を脱がせて検死するべきでしたね」
 所長自身、悔しいみたいです。いつもふわりと笑顔なのに、今は無表情だし。

 ずっと愕然としていたミチさんが、ここで息を吹き返しました。
「で、でも、だからって何になるの? ユリちゃんがタケの子供を妊娠してたら、何なのよ!」
 わたしはそれに、そのまま素直に答えます。
「……ミチさんは、それ、嫌じゃなかった?」
「つまり、貴方には動機があるということです。被害者を殺害することの、ね」
 わたしの言い分を聞いてから、所長が探偵っぽく言い換えてくれました。なるほど、今度からはこう言おう……でも、今度があってほしくはないけど。

「タケさんには、ユリさんを殺す理由はないから……」
 そこでわたしは、さっきから真っ青に黙ったままのタケさんを、じっと見つめます。
「本当のこと……話してほしいな、タケさん」

 わたしの声にびくっとしたタケさんを、ミチさんが振り返ってきつく睨みます。
 わたし達がいない間に、多分タケさん、何も言うなってミチさんに言われてる。
 血は繋がってないとはいえ、自分の姪を、恋人さんのいる身で妊娠させちゃったんだから……弱味は沢山、握られてると思います。

「未成年を妊娠させる無責任な男性と、それに尽くす一途な女性ですね。今日はどうして、お二人が依頼人についてこられたか、私はとても不思議です」
 所長が喋り始めます。そうだ、被害者さんの依頼の内容、まだ聞けてなかったよね。
「フィオナ。その依頼って……」
「守秘義務がありますが、まあ良いでしょう。依頼人は内密に、『人を呪い殺す方法はあるか』聞きたいと、連絡してきたんですよ」
 あっさり言っちゃった。けど、言ってることはすごい重くて、わたしはぐっと息を呑んじゃいます。
「私も内容が内容なので、あくまで自己責任で、お一人でこっそりいらしてくださいと伝えています。誰にも口外しないように、とね」

 タケさんとミチさんは、占いしてもらいに行くのについてきてほしいと言われたと、さっき言ってました。
 でも、それは嘘。だって所長が調べ直しても、「一人で」の変更連絡はなかったみたいだし。
 口外しないという約束までは、二人は知らなかったみたい。青ざめた顔をしています。
 でも推理が苦手な所長は、不思議のこたえはわからないみたいです。

 だから、わたしは……ここで唯一、真実を教えてくれそうな人に、望みをかけます。
「タケさん。早く解決して、ユリさんを病院に連れて行かないと……子供だけでも、助けてあげようよ」
「……――」
「もうユリさんは帰ってこない。でも、お腹の子供は、まだ助けてあげられる」
「…………――」

 ……うん。きっとそれは、遅すぎるだろうけど、タケさんはユリさんにすごく申し訳なく思ってる。
 そして、ユリさんの死に動揺してる。タケさんの中では、ミチさんに対する嫌悪の方が、大きくなってきてます。
 だから、タケさんは……――

「……悪いけど、ミチ……」
「――!?」
「さすがに、おれ……いくら感謝してても、やっぱり、人殺しとはもう暮らせねぇわ……」
 ここできっと、やっとタケさんは、お腹を括ったみたいでした。
「おれ、ユリの子供と、やり直す。姉貴に詫び入れて、ちゃんと働いて……お前にはもう、頼らねぇから」
「そんな……タケ……!!」

 蒼白になったミチさんが、ぺたんと、座り込んでしまいました。
 何だか元々、複雑な問題のあった恋人さん達みたいだね……。
「ヒモ解消宣言ですね。しかと聞き届けましたよ」
 所長はそこで、何だかすごく満足そうで……どうして所長が、心から笑ってるのか、とても謎です。
 「ヒモ」って何か、ちゃんと覚えておいて、後で調べてみよう……。

 違う――と。ミチさんは床に手をついたまま、ぶんぶんと頭を振り始めました。
「私じゃない、私は悪くない、私はただ、呪い殺されると思ったから追いかけてきただけ……!!」
「――?」
「だって、『今日はミッチーを呪う方法、習ってきまーす☆』なんて、ユリがタケのラインに入れるから……! いつ別れるの、別れないなら殺しちゃおっかなって、そんなことばっかり、最近二人で話してるから……!」

 そのミチさんに、タケさんはバツが悪そうに、そっぽを向きます。
「それは……おれは、若い子のよくある冗談だと思って……」
 まさか本当に、ユリさんが所長に「呪殺」の方法を聞きに行くなんて、タケさんは思ってもみなかったみたい。
「子供も……ユリは、堕ろすと思ってたし……」
「甘いですねぇ。堕胎できる期間はとっくに過ぎていますよ? 貴方はとことん、甘くて無責任な男性ですねぇ?」

 うわ。所長の視線が、笑顔でも何だか、すごく厳しい。
「結局、ミチさんと別れるつもりもなかったんですよね? でも今は、やり直す気であるなら、そこは不問にしますけどね」
 タケさんも、俯いてしまいます。
 でも今は、お腹の子供しか、ユリさんの形見がないから……ユリさんを好きだった思いは、本当みたいです。

 あああ! と、ミチさんが今度は床をだんだんと叩き始めました。
「みんなで私を悪者にして! 私にどうやって殺せるって言うの!? 言ったでしょ、私は凶器なんて持ってないって!」
 あ……そうだったっけ……。
 しかも、密室の謎も解けてないままだし……今までの話は、「動機がある」だけの内容だよね……。

「タケさんは、何も見てないの?」
「ああ……おれはずっと一階にいてさ。ユリの後を一緒につけさせられて、ミチはユリを追いかけて、二階に上がってったんだ」
 予約した依頼人が開けたドアを、ミチさんはそのまま通ったんだね。でも、その後、どうやって一階に降りてきたのかな……?
「ミチさんは、その後すぐ、降りてきたの?」
「さあ……おれはユリが降りてきても見つからないよう、ついたての向こうで待ってて、パネルを見てたから」

 うーん、うーん……どうしよう、やっぱり密室の謎も、さっぱりわからない……。
 ここで所長が、とても意外な展開を、ふっと場に差し出しました。
「タケさん。ミチさんはその後、一階でトイレに行きませんでしたか?」
「そうだな。階段の方に行こうとしたら、トイレからミチが出てきて、その後急に、あの子が鎌持って飛び込んで来たんだ」

 そう言えば最初、玄関から見て右手にある、トイレの前に二人はいたっけ。
 わたしはN字に仕切られた一階を、回り込んで駆けつけたんだけど。

 トイレの話が出た途端、暴れていたミチさんは、何故かぴたっと止まりました。
 わたしは何が何だかわからなくて、そのまま所長が、そんな話を出した理由を窺っていたら……。

「消える凶器。以前に一度、検索したことがあるのですが……その時に沢山出てきた結果は、『氷』でしたね」
 時空が遮断されてて、今は通信も使えないよね。本当にそんなこと、前に調べてたんだね、所長……それって、何目的……?
「被害者の創部は、少し湿っていました。と思えば、二階の室内にもてんてんと、水滴が落ちていました。それを辿ったら、こんな光景が、一階にあったんですよ」

 所長はそこで、ばーんと……スマホの画面を、高らかに見せつけてきました。
 きっと、わたしが辿りつけなかった、犯行の決定打。
 ずっと時間の流れてないトイレで、まだ溶けずに残っていた……便器に流されている、大きな氷の塊の写真を。
「……!!」
 ミチさんは両手で、口を押えちゃいます。

「貴方の手提げは、保冷仕様マイバッグですね。中身も冷凍食品ばかりのようですし、最初からとにかく殴るつもりで、貴方は大きな氷を作って、ここに持ってきたのでは?」
 うわあ。所長、推理苦手って言ってたのに、何で?
 氷が溶けない時間の内に、トイレに行ったのはミチさんだけだし。これはきっと、タケさんの証言と合わせて、警察にも証拠として渡せると思う……。

 ミチさんは完全に逃げ道を断たれて、黙って、床に伏せてしまいました。
 ぶるぶる震えて、沢山の涙をこぼして、大きくしゃくりあげていて……。
「何で……何で私が、こんな目に合うの……」
 ……きっと、長い間、タケさんに尽くしてきたミチさん。
 その結果がタケさんの裏切りで、しかも、自分を呪い殺すなんて言葉を目にしちゃって……ミチさんが動揺した気持ちは、わたしは、わかる気がする。

 でも、所長はぴしゃりと、厳しい言葉を言い放ちます。
「犯行を隠す計画性を持てるなら、そもそも、こんな男に引っかからないで下さい。この相手を選び、尽くしてきたのは、貴方の自己責任です」
 うわあ……それって、何だか、厳し過ぎないかなあ……。
 わたしも、サツリクの天使なんてやってたけど。その時は、それ以外にできることがなかったから……。
 今みたいに、他にできることがあれば、わたしだってそうしたかったし。

 できることを、選べる人ばっかりじゃないと思う。所長みたいに、強くて賢くて、何でもできる人は少ないもの。
 でもそれも、所長曰く、「自己責任」……なのかな?

 何だか、ミチさんが、とても可哀想になってきちゃいました。
 誰だって、人殺しなんて、普通はやりたくないと思う。
 特に今回は、本当に悪いのは、ミチさんだけじゃないと思うし……。

 最後だけ妙に大活躍した所長は、その数分後、とんでもないことを言い出しました。
「この私が、時間を止めるような多大な労苦を、何の意味も無しに行うと思いますか?」
 あれ……警察の介入を遅めて、事件を事務所のモデル物件の方にずらすため……じゃなかったっけ?

 そうして所長は、いつも纏った金色の光で……ミチさんとタケさんに、陽の当たる一筋の道を照らし出します――


* * *


 今日は、いい天気です。
 この間のどんよりした空気が、嘘みたいです。

 土曜日なので、昼間の内に事務所にくると、瓦礫も少しは明るく見えました。
 事務所は今日も平和です。警察とか不穏な人影の出入りなんて、微塵もありません。

「いやさ。そりゃ完全に、推理じゃなくて、ただの偶然」

 数日前の嫌な事件を、珍しく事務所にいた(かおる)おにいちゃん――探偵部門の責任者で、父さんと母さんがわたしのことを頼んだヒトに、わたしは相談してみます。

「あの、頭カっチカチの姉貴に、推理なんて絶対できねーよ。三階には猫羽達がいたから、一階のトイレに行ったら、たまたま便器に血まみれの氷が残ってたんだろ」

 最後はすごく、いきいきと犯人さんを追い詰めていた所長。
 できるなら、最初からそうすればいいのにと思ったけど、おにいちゃんは「一階と三階しかトイレがないから」と結論付けます。
「被害者の頭が湿ってたとか水滴とか、ぜってー後付けだし。妊娠も気付いてなかったんだろ? ムリムリ」
 そもそも、犯行も杜撰(ずさん)で、犯人の服を調べれば返り血の「るみのーる反応」も出るはずだと、おにいちゃんは色々辛辣です。
 わたしも結局、あんまり役に立たなかった気がする。
 でも、よく頑張ったと、後で頭を撫でてもらえました。

 あ、馨おにいちゃんと所長は、異母姉弟らしいです。
 所長は半分日本人で、お母さんのいる国から、元は馨おにいちゃんを助けるために日本に来たといいます。馨おにいちゃん、何度も死にかけたって、母さんからも咲姫おねえちゃんからも聴いたからなあ……。

 あの後、結局所長は、あの場にいた全員を助けてしまいました。
 何でも、被害者のユリさんが死ぬギリギリで時間を止めたから、ユリさんは本当はまだ死んでなくて……。
 所長が二階にいる間に、時間が戻ったら治癒の魔法も発動するよう、手早く仕掛けていたらしいです。

 うちの事務所で、人死にや警察沙汰は有り得ません。最後に胸を張ってそう言ってたけど、本当のところはどうなんだろう。
 そして、全員に説教をして、何事もなかったように家に帰した所長でした。

 その時のことは、誰も、記憶には残ってないはずです。
 ミチさんの人殺しも、きっと、悪い夢を見たくらいな感じで……でもミチさんは、その後すぐ、タケさんと別れたみたいです。
 タケさんも、お父さんになるんだって、ちゃんと働き出したみたい。
 覚えてなくても、それだけ強く、何かがみんなに残ったんだね。

 馨おにいちゃんは、一応指導者として、わたしの駄目出しもしてくれました。
「密室ってのは、完全に猫羽の考え過ぎだな。階段は予約の時に開いて、次に閉まったのは、猫羽が鎌を抜いた時――事務所が警戒体制に入った時だろうから。犯人はその前に、一階に降りてるはずだし」
「がーん……そうなんだ……」
 じゃあ、その謎がわからなくて、あれだけわたしが怖がったのも……意味は無かったみたい……。
「今回は時間が無かったら仕方ないとはいえ、まずは現場検証を徹底しろよ。それなら凶器もすぐ見つかっただろ」
 ううん。探偵って、難しいな。素人にはなかなかできないみたい。
「猫羽は、感じてることはそう間違ってねぇ。後は知識と、情報戦――コミュ力を磨け」
 うううん。わたし、兄さんもそうなんだけど、言わないでも何となくわかるから……ちゃんと言葉にしろっていうの、苦手なんだけどなぁ。

 馨おにいちゃんはその後、今日は俺がいるから、もう帰っていいと言ってくれました。
 わたしも、玖堂さんの所に仕送りをもらいにいく日だし、ありがたく事務所から出ていきます。

 嫌な事件は、終わりました。
 所長のおかげで、みんな、悪くないことになったと思うけど……。
「それでも……これで、良かったのかな?」
 所長の魔法で、色々何とかはなったんだけど。
 そもそも所長が、呪殺法の教授なんて依頼、引き受けなければ……事件自体、起きなかったんじゃないかな?

 どうしてそんな、厄介事になりそうな依頼を引き受けたのかな。
 あの後、理由をきいたわたしに、所長はいつも通りの笑顔で答えました。
「猫羽ちゃん。大人の世界には、善悪よりも大事なことがあるんですよ」
 善悪よりも、大事なこと。
 悪魔使いのわたしは、多分善悪には拘ってないけど、どうして所長はそういう言い方をしたんだろう。
 悪いことを、何で引き受けたのって、責めたように思われたのかな。

「呪いを教わろうなんて人種は、そもそも精神が異常なのです。そんな者に呪われたところで、健全な人間に効果はないし、今回の被害者のように、しっぺ返しを受けるだけです」
 それはわたしも、わかる気がする。でも、その依頼を受けることに、何の得があったんだろうって思ったんだけど。
「呪殺が本当に発動すれば、より健全な精神力を持った方が生き残るだけです。異常者が一人、自業自得で世から消えるわけです」
 えっと……要するに、呪いを教えることで変な人がこの世から一人減ったら、所長にはいい結果なのかな……?
「異常者の精神力なんて、見せかけのハリボテですから。そうしたエネルギーは無駄に消費され、かえって人間を消耗させます」
 うん……どう考えても、自滅を誘ってるようにしか、思えなくなってきちゃった。

 そのわりには、自滅に近いユリさんを、最後には助けてるし……。
 でも、ユリさんがまだ死んでなかったことも、わたしには内緒だったし……。
 何で教えてくれなかったのかも、その時にきいたら、やっぱりよくわからないこたえでした。
「嫌ですねぇ。そんなの平和過ぎて、せっかくの緊急事態が勿体ないでしょう?」
 馨おにいちゃんは、所長の頭はかっちかちと言ったけど……わたしには全然、そうは思えないんだけどな。
「処世のコツは便乗ですよ、猫羽ちゃん。何かが起きれば、それをとことん利用するんです」

 にこにこと、人の好さそうに言う所長に、さすがにわたしは、その場で頷けませんでした。
「ううん……そういうのは、命がかかってたら嫌だな、わたし」
「貴女が純粋なのは、良いことなんですけどね。大人の世界というものは、今回の事件みたいに黒いんですよ。善意でも悪意でも、賢くても愚かでも、人は互いに傷付け合います。それはもう少し、知っておいて下さいね」

 サツリクの天使の頃を入れたら、わたしも結構、長生きしてるんだけどな。
 所長の目には、まだまだわたしは子供みたいです。

「とはいえ、警察の介入も面倒じゃないですか。別に私は、あの愚か者達を助けようとしたわけじゃありませんから」
 あ。そういえば、思い出した。
 馨おにいちゃんは、かっちかちという前に、あの笑顔ツンデレめとか、よくわからない単語を言ってた気がする。
 一見所長は優しそうに見えて、言うことと考えてることは、悪魔的で危なくって。
 全然素直じゃなくて、でも本当は、見た目通りって感じのぼやきだったような……馨おにいちゃん……。
 わたしにはまだ、よくわからないし、もう少し様子を見ないとダメかな。

 ずっと考えごとをしてたら、この町での保護者、玖堂さんの家にあっという間についちゃいました。
 塀に囲まれた大きなお屋敷の前で、ちょうど、玖堂さんの息子……わたしと同級生のサトシが、同じく同級生の氷輪くんと話をしています。

 珍しいな。氷輪くんとは滅多に、学校の外では出会わないのに。
 そう思って、立ち止まって見つめていたら、二人もわたしに気付きました。
「あ、棯さんー! 待ってたぜー、こっちこっちー!」

 わたしはこうして、月に一度、玖堂さんに挨拶に来て生活費をもらいます。
 色々と事情があって、高校に通うのは一年だけでいいと言われてるけど……母さんの母さんの知り合いなだけで、一年も生活を援助してくれるなんて、玖堂さんはすごいと思います。

 立ち止まってたわたしの方に、サトシが何故か駆けてくるので、正門から少し離れた所でわたし達は顔を合わせます。
「今日は棯さん、暇ー!? 暇ならおれんとこ寄ってってよ、ゲームしようぜ、ゲーム!」
 大きなお屋敷にしては、普通の広さのサトシの部屋に、わたしは何回も誘われてます。そのたび断るんだけど、サトシはこうして、めげずに誘ってきます。
 サトシの後ろでは、そんなわたし達を、氷輪くんが穏やかに見守ってて……わたしは、氷輪くんがここにいることの方が気になって、ちょっと上の空です。

 サトシとも、あんまり学校の外ではつるまないらしい氷輪くんは、不意にわたしに、すごく優しい顔で笑いかけてきました。
「最近、大変だったみたいだね? ……お疲れ様、猫羽ちゃん」
「えー? なに、なに? 棯さん、何かあったのかよ?」

 あれ……何で氷輪くん、そんなこと知ってるのかな?
 そしてどうして……わたしは今、すごく安心してるのかな?
「うん……ありがとう、氷輪くん」
 高校生活が始まってから、わたしはあんまり、笑わなくなった自覚があります。
 だって、一人暮らしは寂しいし。初めてのアルバイトは、やっぱり大変だし。

「あっれー……! 棯さんが……笑ってる……!?」
 でも今は、氷輪くんの笑顔がうつったのかな。何だかとても、温かい気持ちが、急に胸に込み上げてきて……。
「そんな猫羽ちゃんに――ある意味、ご褒美?」

 氷輪くんは何だか、いっそう楽しそうに、後ろを振り返りながら目を細めて笑います。
 視線の先には、玖堂さんの家の正門があって……不意にそこが、静かに開いて、お屋敷から出てきたその人影は……――

 いつも自然に、呼吸を殺しているヒト。
 わたしの直観にすら、気配一つも感じさせずに……有り得ないはずのヒトが、そこにいました。
「えっ――……兄、さん……?」

 今日はどうして、氷輪くんがここにいたのか。
 氷輪くんと取引をした兄さんが、お屋敷から出てきた姿を見て、わたしはそれでわかった気がします。

「――あ。久しぶり、猫羽」

 サトシ達をほっぽって、一目散に正門まで駆けていったわたしに、兄さんは全く変わらない優しい目で、穏やかに笑います。

 相変わらず痩せた体も、蝶型のペンダントも。腕に巻くバンダナも涼しげな袖のない服も、兄さんがそこにいる。
 ぎゅうっとわたしは、懐かしい胸に、とにかく飛びつきました。
「何で、ここにいるの……? 兄さん……」
「いや……ちょっと色々、仕事があって」
 兄さんも嬉しそうにわたしの頭を撫でながら、それでも冷静に、すぐに言います。
「俺はもう、帰るから。猫羽は早く、挨拶しに行けよ」

 兄さんは、いつもこう。優しいから、わたしを甘やかしちゃダメって思ってるの。
 だからわたしは、駄々をこねるしかなくって……。
「やだ。兄さん、帰っちゃやだ」
「頑張れ。猫羽なら、大丈夫だから」

 ぽんぽんと、冷たい手でわたしの頭を撫で叩いて、消えそうな顔で笑う兄さん。
 いつも通り、体調が悪いんだ。それがわかって、わたしは手を離すしかありません。
 兄さんはずっと、こんな感じです。自分のことより、ヒトのために頑張る兄さんだから……。

 その後は、仕方なく兄さんと氷輪くんを置いて、サトシとお屋敷に入ったわたしでした。
「え、え、棯さん……どーしよ、大丈夫ー……?」
 ぐず、ぐずっと。懐かしい兄さんが、あんまり一瞬過ぎて……離れてから涙が止まらなくなって、歩きながら大泣きするわたしに、サトシが隣でおろおろと焦ってます。
「えっと……棯さんと、さっきの人とか……一緒に残った氷輪って、どういう関係……?」

 兄さんがここにいた理由。それは多分、氷輪くんの生活とかを見張るために、何かがあってのことだから……。

「氷輪くんは……兄さんの、ヒモ」

 最近覚えた言葉で答えたわたしに、何でかサトシが、急に大笑いを始めました。
「何それー!! でもでも、氷輪ならありそー!! ていうかもしかして、棯さん、腐女子のケとかあるのー!?」

 ……兄さん、ごめんなさい。わたしはやっぱり、何かを言うのがちょっと下手みたい。
 とりあえず今は、人の気も知らずに大爆笑してるサトシを、サツリクしようと思っています……ぐずっ……。


4月 了

★5月;殺戮の天使の悪魔事件

★5月;殺戮の天使の悪魔事件

 帰りたいです。とりあえず帰りたいです。

 わたしには兄さんが沢山います。と言っても存在不詳だけど。
 おねえちゃんも三人以上います。もう会えないヒトもいるけど会いたいです。
 他にも会いたいヒトがいっぱいいます。みんなみんな、帰らないと会えないんです。

 親戚みたいな馨おにいちゃんと、咲姫おねえちゃんだけが、こっち、日本で会えるヒトです。
 二人にはこっちでないとあんまり会えないから、それは嬉しいんだけど。
 馨おにいちゃんも、咲姫おねえちゃんも悪魔の因を持つヒトで、あんまり甘えるといけないんだ。二人共、特に悪魔の自分を持ってる咲姫おねえちゃんが困るんだって。悪魔として狩られちゃうかもしれないって。

 唯一の故郷での知り合い、氷輪くんと会うと、兄さんが何かと警戒しそうだし。
 お話し聞いたりしたら、兄さんにもっと、会いたくなってきちゃうし。

 こっちで友達をつくると、今度は帰る時に、寂しくなっちゃいます。
 だからスマホの中で捕まえる、小さな悪魔さん達でいいんです。寂しいけどいいんです。
 帰りたいです。とりあえず、帰りたいです……。


* * *


 珍しい灰色の野良猫さんを、わたしは下宿の屋上で見つけました。
「……あれ。おまえ……」
 十階建てで、普通なら上がってこれないような高い場所です。
 思わず、スマホのゲームの悪魔さんかと思っちゃいました。
「……迷子……なの?」

 スマホ越しじゃないから、多分本物の、ちょっと小さめな猫さんがいます。
 でも今まで、会ったことのない猫さん。それはわたし、気配でわかります。

 わたしは猫羽なんて名前だけど、兄さんに言わせればもっと危険な山猫系(オセロット)で、今まで猫さんを飼ったことはないんだ。
 馨おにいちゃんは探偵になる前、似た大きさの灰色の仔猫さんを飼ってました。わたしもたまに遊んでたけど、その仔はいなくなっちゃったから……。

 でも、ここに来てから、野良猫さんにはよく出会います。
 と言っても、それは駐車場とか、もっと地面に近い所なんだけど。
「ここには、ご飯はないよ……それと、近づくと危ないよ」
 わたしは毎朝、洗濯物の干せる屋上で、物干し竿を借りて素振りをします。
 こう見えてもわたし、とても朝が弱くって、無理やり体を動かさないと目が覚めてくれないの。
 なので今日も、門番用の大鎌よりさらに長い物干し竿を、よたよたっと振り回してたところです。

 本当に、人間の体ってヒヨワだなあ。今日は一段と眩しい朝日の中で、わたしは小さく顔をしかめます。
 番人鎌は魔法の武器だから簡単に扱えるけど、今のわたしじゃ腰を入れても、物干し竿でも重く感じます。
 だから勢いがつき過ぎることも多くて、猫さんがヘンに近寄ってきたら、命の保証ができなさそうです。

 灰色の野良猫さんは、屋上の隅にちょこんと座ってたけど、わたしの方を見ながら両足を立てて、大きく体を伸ばし始めました。
 何だか、まるで……まず筋トレをしろって、言ってるみたい。
「……ううん。筋肉はいらないって、兄さんが言ってたから」
 危ないことはするなって、兄さんは何度も、わたしに言うから。
 強くなんて、ならなくていいって。だからわたしも、これは目を覚ますためで、後はちょっと、昔の勘を戻したいだけ。
 今のバイトは、いつあの鎌を使うような、荒事になるかわからないし。
 この間の事件もあって、わたしは改めて、番人としてしっかりしなきゃと思ったんだけど。

 自分の体くらいある、長い武器を振り回すのは、本当に久しぶりです。ここに来るまでは、もう全然やってなかったから。
 元の所にいた時は、敵の攻撃をやんわり受け流す? 体術を習ってたんだけど、それはあくまで防御が中心だったし。
「兄さん……怒るかな……」

 今日はどうしてか、いつまで物干し竿を振っても、気分がすっきりしません。
 きっとこの間、兄さんに会っちゃったからだと思う。
 あれから兄さんのことばかり考えてるわたしは、素振りにも身が入らずに、物干し竿を元に戻して、屋上の端に座り込んじゃいました。

 屋上のへりに持たれて、膝を軽く抱えていると、野良猫さんがごろごろお腹に乗ってきました。
 でもちょっと、運動用の短パンだと、足に爪が引っかかって痛いな……。
「おまえ……『アークちゃん』に、よく似てるね?」
 ――自分で言って、はっとしました。
 あれ、わたしは何で、そう口走ったんだろう?
 わたしに浮かんだのは、この猫さんに似てる、いなくなった仔猫の名前なのに。

 わたしを見上げる野良猫さんの、キレイな薄青い目。そこにはきらりと、紫苑の髪でポニーテールの……(あか)い目のわたしが、笑って映ってて……――

「『アーク』って……何、だっけ……」

 それはきっと……わたしでないものが言わせた、失くした古いココロ。
 今はっきりと、目を覚ました「私」が、猫さんの瞳の中で微笑んでいました。


 高校に行かないといけない時間になったから、泣く泣く猫さんを下ろして部屋に戻ると、猫さんはついてきてくれませんでした。
「ご飯……あげたかったな……」
 わたしの下宿は、猫さんもOKの、オートロックまんしょんです。わたしの生活費の大半は、ここの家賃に消えちゃってます。
 それでも、治安が良くてきちんとした所に住むようにって、父さんと母さんにしっかり言われてきてるから。
「本当に、あの子……どこから入ってきたのかな?」

 生活費の援助者、玖堂さんが買ってくれた大きなクローゼットを開けると、扉の裏の鏡にわたしが映ります。
 人間にはない、紫苑色の髪。人間の薄い碧よりも濃い、暗い青色の目。
 でもさっき、猫さんの目に映ってたわたしは、確かにキレイな紅い目だった……。

「困ったなあ。あれ……いつからだったんだろ?」
 紅い目と青い目。どっちも人間には無い色だけど、自分の目は自分で見えないから、今頃わたしはそのことに気が付きました。
「わたしも……悪魔さんに、なっちゃうのかな」
 何より純度の高い、悪魔さんの色。それが紅だと、わたしは教わってます。
 ほとんど空っぽのクローゼットの前で、鏡に映るわたしが立ち尽くします。

 人外生物だと怪しまれないように、わたしの姿は魔法の力で、周りには黒髪の女子高校生に映ってるみたい。でもそれは、わたしにそう見えるわけじゃありません。
 わたしには、周りあるものの気配とわたしを、一緒くたに感じちゃう「直観」があるけど……それは「気配」が中心で、さっきの猫さんくらい近付かないと、映像としては見えないんです。
 兄さんはわたしと逆で、人の視界とかがよくわかるみたいだけど。

「みんなには、わたしの目……どう見えてたのかな?」
 わたしがもっと前から、悪魔の目になってたら、誰かが気が付いてると思う。
 所長とか馨おにいちゃんとか、もしくは氷輪くんとか。
 土曜にたまたま、氷輪くんと兄さんと会って、その時は大丈夫だったはずだから……。

「今日……氷輪くんに会って、大丈夫かな……」
 悪魔になったら、わたしはどうなるんだろう。だって氷輪くんはああ見えて、悪魔専門の「処刑人」なんだもの。
 引き金はわかりません。でも、確かにさっき、わたしは悪魔さんでした。氷輪くんにはきっと、見抜かれちゃいます。
 さっきはずっと気分が重くて、猫さんが近くに来てくれて、ほんのちょっと嬉しくなって……。
「でも……今は、すごく、淋しい」
 そして、珍しい灰色の猫さんを見て、いなくなった仔のことを思い出して。
 それでますます、淋しくなっちゃったんだけど。

 ……高校、行きたくない。玖堂さんとの約束だけど、今日は行きたくない。
 一日休むごとに、ちょっとずつ、生活費を減らされちゃいます。病気とかは仕方ないけど、わたしはほとんど、病気はしたことがないし。
「昨日おととい、ちょっと、さぼり過ぎちゃったかなあ……」
 日曜日はいつも、バイトもお休みをもらってます。この間は土曜日のお昼も休ませてもらえたから、わたしは部屋に帰ってから、一歩も外に出ませんでした。
 何だか疲れたし、ずっとベッドで眠ってました。昔から、寝る時はほんとに猫の子みたいって、みんなにも言われたことがあります。

 すごくユーウツになりながら、とにかくまず、制服に着替え始めます。
「一限目くらい、遅れてもいいかなあ……シャワー、したいなあ……」
 昨日の夜にも浴びたけど、二日ぶりに素振りをしたら意外に汗をかいたし、わたしに悪魔の誘惑がやってきます。

 この町で一人部屋を借りて、わたしが一番気に入ったのは、キレイなお風呂です。
 元々水浴びも好きだったけど、温かいお湯がずっと出てくるシャワーって、本当に気持ちがいいんだもん。
 こんなに気分が重い時には、ちょっとは気が晴れるかもしれないし。

 遅刻は休みに入るのかな、どうかな。
 少し悩んでわたしは、髪を濡らさないようにさっと入って、走って高校に行くことに決めたのでした。


 高校生活って、何が面白いのか、わたしには本当にさっぱりわかりません。
 授業はほとんど神様がかった暗号だし、体育とかは楽しいけど、すごくあっさり終わって物足らないし。
「棯さんは、部活やんないのー? せっかくそれだけ、運動神経いいのにさー」
 放課後の屋上でスマホをいじってると、珍しくサトシが上がってきました。
 お昼にはよく見るけど、サトシは授業が終わったら、いつも運動場に一直線だから。
「うちの高校、バイトおっけーだけどさー。バイトより大事な青春は部活だよ、棯さん!」

 わたしのバイトは午後五時からです。高校から事務所には十分くらいで行けるから、わたしはよくこうして放課後、屋上で休んで時間を潰します。
 サトシについて、屋上に上がってきた氷輪くんが、にこにことサトシに水をさします。
「そうかなぁ? バイトでも青春は十分あり得るよねぇ。特に猫羽ちゃんのバイト先は、イケメンのお兄さんばかりだしね」
「え!? まじで!? それなら尚更、バイトより部活しよ、棯さん!」
 主にうちの部で! と、サトシが何度目かの勧誘を、またしてきました。
 屋上の端にもたれて座るわたしは、いつも通り、黙って首を横に振ります。
 朝は急いで適当に括ったから、改めてリボンを結び直した髪が、首を振ると自分のほっぺたに当たっちゃいます。

 正直、今のわたしは、部活でもバイトどころでもないです……。
 これまでずっと、わたし自身が悪魔になるなんて兆候はなかったのに。
 びっくりしてます。だってわたしは、今まで通りのつもりだったのに。
「……猫羽ちゃんには、悪いことしたかな。かえって淋しくなっちゃった?」

 土曜日の午後に、わたしを兄さんに引き会わせてくれたのは、多分氷輪くん。
 やっぱり氷輪くんは、わたしが何かおかしいことに気が付いたみたい。
 でも、悪魔になりそうだなんて、これ以上知られちゃいけないよね……。
「……違う。兄さんには、会えて良かったよ」
 思わずまた、涙が出そうになって、わたしは座ったまま目を伏せて氷輪くんに言います。

 屋上の入り口では、サトシが困ったように頭をかいてます。
 並んで立つ氷輪くんは、不意に、わたしと反対の方向に振り返りました。

「――あれ。懐かしいメンバーがいるじゃん?」

 氷輪くんの視線は、隅で座るわたしとは向かいの端へ。運動場を見下ろしてる、二人の女の子がいます。
 氷輪くんはその二人を見て、ふっと……まるで、いたずら悪魔みたいな顔になって笑いました。
 サトシも氷輪くんの視線を追って、納得したように、おおっと笑います。
「あ、ほんっとーだ。葉月と哀川(あいかわ)じゃん!」
 そこで二人共、向こうに行ってくれたので、わたしは安心してぐすっと涙ぐみます。

 情けないなあ。何でこんなに、気分が重いままなのかなあ。
 そう思いつつ、そろそろバイトの時間なので、わたしが腰を上げたその時でした。

 ぴんぽんぱんぽーん。放課後にはよく、誰かを呼び出す目的でなるヘンな音が、学校中に響きました。
「一年A組の棯さん、棯猫羽さん。今すぐ、職員室まで来てください」
 あれれ。わたし、何か、呼び出されるようなことをしたかな?
 首を傾げながら、わたしが屋上の入り口に向かうと、ちょうど氷輪くんや他の人達も、屋上から降りようとしてるところでした。

 そうしてこの日……忘れもしない「私」の悪魔記念日が、屋上の扉を開けた瞬間から始まりを告げます……。


* * * 


 暗い所が、わたしはすごく嫌いです。
 太陽がないだけの、夜の暗さはいいの。でも、何かに閉じ込められた真っ暗な所は、忘れたい嫌な記憶を思い出すから……。

「ちょっと……! 何なの、この真っ暗なの!」

 わたしの後にすぐ、屋上の扉の中に入った女の子が、突然大きな声を上げました。
 茫然としてたわたしは、その怒り声でやっと、我に返ります。

 呼び出しの放送を聞いて、屋上に続く階段に戻ったはずが、その踊り場には突然の真っ暗闇。
 体が竦むわたしをよそに、後から入った他の人が、どんどん喋り始めました。

「あー、ほーちゃん、落ち着いてぇー。きっと停電か何か、じゃないかなぁー」
「って哀川、さすがにそれはないだろ! だって外まだ明るかったぜ、ドアも窓ついてるじゃん、フツー光入るじゃん!?」
「まーまー。サトシも穂波も、落ち着いて。って点では、結ちゃんの言う通りだよ」

 ここにいるのは、わたしとサトシと氷輪くん。それと、二人がさっき会いに行った、屋上にいた二人の女の子。
 氷輪くん曰く、ホナミとユイっていうらしい女の子は、どっちかが突然、一番先頭にいたわたしの肩をがしっと掴みました。
「ちょっと、動かない! 落ちるから、階段!」
 何だか少し、言葉足らず。でもその声は、身動きしようとしたわたしに、下手に進むと足元が危ないと慌てて訴えてきました。

 肩を掴んできた人……これだけ暗いのに、わたしが動こうとしたのがよくわかったなあ。それにちょっとまた、茫然としちゃいます。
「あー、ほーちゃん、言葉がきつーい! ごめんね棯さん、ほーちゃんは不器用なだけなの、ツンデレなだけなんだよー」
 え。しかももう一人の女の子、わたしは全然知らないのに、わたしの名前を知ってるみたいです。
 思わずわたしは、まだ真っ暗な中で、やっと声を出しました。
「えっと……だ……誰……?」
 顔は全然見えないけど、暗い中で振り返ると、肩を掴む手も離してくれました。
 直観というか流れでだけど、掴んできた人が「ホナミ」、もう一人が「ユイ」ってことしか、今のわたしにはわからないです。

 「ユイ」な方の声が、あー。と、思い出したように、てへっと笑いました。
「ごめん、ごめーん。ワタシはE組の哀川結葉で、ほーちゃん……葉月穂波も、同じクラスだよー。棯さんはA組で、氷輪くん達と同じクラスだよねー?」
 元々、氷輪くんとサトシの友達みたいな二人の女の子。どうしてわたしのことまで知ってるかはわからないけど、ひとまず同じ学年みたいです。

「それはいーけど、こんなとこで立ち止まってどーすんだよ!? 手探りでいいからさっさと階段下りて、明るい所まで行こーぜ!」
 案外、常識人のサトシは、とても真っ当な反応をしてる気がしました。

 でもすぐに「ホナミ」の声が、みんなを立ち止まらせます。
「だから駄目って! ここ、何かおかしいから!」
「穂波がそう言うなら、そうなんだろうね。まぁ、わかってたけど」 
「そうだよねー。ほーちゃんちょっとだけ、霊感あるもんねー」
「やめろー! 霊とか怖いこと言うの、なし、なしー!!」
「あー、ほんとだねー。階段なだけに、学校の怪談だー」
 そこで更にサトシが、ぎゃーっと叫びます。真っ暗なのにみんなワイワイガヤガヤで、わたしは何も言う暇がありません。
 確かに今、この場所は、わたしが屋上に来た時の階段とは全然違う。だからといって、じゃあ何なのかときかれても、わけがわからないです。

 とりあえず動くなと言われて、怖がるサトシを氷輪くんがからかってる中で、それは突然、わたしの鞄にやってきました。
 じりりりんと、いきなり大きく鳴ったPHSの着信音に、サトシがびっくりして飛び上がります。
「ぎゃあああ! って何、電話かよ!? え、誰の!?」
 わたしはわたしで、さっきまで持ってたスマホじゃなくて、「PHS」に着信が入ったことの意味に、背筋に緊張が走ります。

 このPHSはわたしと、わたしの契約する悪魔さん達を繋ぐ媒介。
 ここに来る「伝話」は、悪魔さんからかけられる声。
 普段はわたしから呼びかけない限り、滅多に向こうから、かかってはこないのに……。

 ……はい、と。わたしが伝話に出てすぐ、騒がしかった場が静まりました。
 ただ一人、急に調子の変わった賑やかな人を除いて。
「え、今の、棯さんの携帯? うわあ、おれにも番号教えてほしー!」
 わたしがスマホに出てるか、PHSに出てるか、この暗闇ではわからないと思う。
 とにかく着信が来たから、みんな静かにしてくれたみたい。電話通じるんだ、とホナミが不思議そうに自分のスマホを取り出したけど、それは圏外になってるみたいです。

 サトシもホナミもユイも、一斉にスマホを取り出して、その明りでみんなの顔が少しずつ見え出しました。
 でもわたしはまず、かけてきたのに黙ったままの、「伝話」の相手と話さなくちゃです。
「もしもし……あなた、誰?」
 PHSの小さな画面に映った番号には、全然覚えがありません。
 でもわたしのPHSに伝話をかけられるのは、悪魔以外、誰かいるかな。
 それこそ、一人くらいしか、心当たりはないんだけど……。

 PHSの向こうでは、わたしの脳裏をよぎったヒトとは全く違う……何だかとても、場違いに明るい声が、突然響き渡りました。
「――にゃー! はろー・はろー! きこえてるのニ、貴女はミィの声が聞こえてるのニー!?」
 その甲高い女の子の声は、PHS越しとはとても思えない大音量で、わたしの耳をどかんと突き刺します。

 くらりとしたわたしは、何か大事なことを思いかけて、そして、忘れちゃいました。
「えっ……聞こえ、てるけど……」
「聞こえてますのニ!? にゃー! やったやった、ミィ、喋ってるですのニー!」
 PHSの声はみんなにも聞こえて、うっすら癖毛の茶髪が見えるホナミが、わたしの方を見て怪訝な顔です。

「何、あれ……何語……?」
 その感想は、無理もないと思うけど……どうしてか、わたしは何だか、急にじわっと泣きそうになりました。
「えっと……聞こえてるよ……あなた、誰……?」

 早くそれを、確認しないと。このヒトが誰かを確かめて、この暗闇と関係があるのか、原因を突き止めないと。
 じゃないとこれじゃ、バイトに行けません。いつまでもここにいると、所長に怒られちゃいます。

 その焦りのせいか、暗い所にずっといるのが嫌なのか……わたしはもう、涙声になっちゃいました。
 サトシが慌てて、棯さん、大丈夫!? と近付こうとするのを、氷輪くんが抑えてくれたみたいです。
「猫羽ちゃんに、話させたげてよ。きっと、大事な伝話だから」
 もう今日はわたし、朝からずっと、駄目駄目みたいです。
 こんなよくわからない伝話の一つで、涙が止まらなくなるなんて……。
 でも、この相手とはちゃんと話さなきゃいけない。それはわたしの直観が、辛うじて囁いていました。

 わたしにあんまり余裕がないのを、伝話のヒトはすぐに悟ったみたいでした。
「んニニニー! どうして泣いてるんですのニ? ひょっとして、そこから出たいなんて言うですのニ?」
「……え?」
「そこは貴女のために、ミィがつくった世界ですのニ! そこにいれば貴女はもう、嫌な思いをする必要はないですのニ!」

 ……え。いきなり、何を言ってるんだろう、この伝話のヒト?
 わたしは何も、こんな暗い所に来たいとか、嫌なことをしたくないとか、思ったつもりは全くないのに……。
 わけがわからないわたしを、完全に置き去りにするように、伝話のヒトは唐突に、わたしの終わりを宣告しました。
「これからは貴女の代わりに、ミィが貴女になるですのニ! だから貴女はずっと、そこで休むといいですのニ!」

 え。その一言でわたしは、この状況の意味に気付くことになります。
「ひょっとして……あなたはわたしの、悪魔……?」

 わたしをここに閉じ込めて、わたしになろうとしてる「私」。
 PHSを媒介に契約した、今までの悪魔の誰でもない「私」が、こんな暗闇をつくり出したっていうなら……――
「わたし……悪魔に、なっちゃったの……?」
 今この場にいる、サトシも他の人達も忘れて、わたしは愕然と呟きました。

 どうして、と。思わず声がこぼれた直後に、わたしは周囲にいるみんなのことを思い出しました。
 どうしてこんなことに、なってるんだろう。
 わたし一人が悪魔になって、今のわたしが消えて、「私」になるだけならともかく……。
「……待って。他の人達は、何も関係ないよ」
「――んニニニ?」
「どうしてこんなに、みんなを巻き込むの? わたしは全然、知らない人だよ?」

 たまたまわたしに続いて、階段に戻ろうとしただけの人達。
 最初から悪魔の氷輪くんはともかく、ただの人間のサトシや他の二人がここにいるのは、全然納得がいきません。
 それならいったい、この変な暗闇は、どういう場所になるんだろう?

 わたしの質問に、伝話のヒトは、直接答えてはくれませんでした。
「それは貴女が――寂しいから、ですのニ」
「……え?」
「寂しい、寂しい、寂しい。ミィはそんな貴女の声が、聞こえてきただけですのニ」

 それじゃまるで、わたしがみんなを、ここに引きずり込んだみたい。
 そのこたえの直後に、今まで黙ってたホナミが、ここで口を開きました。
「――何なの? あたし達、早く帰りたいんだけど?」
 当たり前の文句に、わたしはびくっと体がふるえます。
 だってもし、伝話のヒトが言う通りなら、わたしのせいで、みんなもこの暗闇に迷い込んだんだから……。

 帰りたい。そのホナミの言葉を聞いた途端、伝話のヒトは、急に様相が変わりました。
「……貴女は……帰りたいの?」
 「!?」とホナミが、わたしのPHSを睨む前で、わたしも思わずPHSを耳から離して見つめました。
 そもそもさっきから、耳につけてなくても、十分声は聴こえてたし。
「それなら――こっちだよ」
 声色は幼いままだけど、すごく優しくなった声に、わたしはまたぎゅっと体が固まります。
 変わっちゃった伝話のヒトは、そのままわたしに、暗闇では見えない小さな手を差し出してきて……そのヒトの心配を、確かにわたしは感じ取ります。
「こっちだよ……そこから出てきて、一緒に、遊ぼう?」

 この手は、温かい手。わかってるのに、さっきからわたし、何だかおかしい。
 どうしてこんなに、まるで凍っちゃったみたいに、体が動かないんだろう。
 こんな暗い所にいたくないのに、みんなを早く、ここから出さないとなのに……わたしも早く、バイトに行かなきゃなのに……。

――……帰り、たい……。

 ただ、胸を埋め尽くしてるのは、この暗闇と全く同じ昔の記憶。
 そこは酷く寒くって、どれだけ帰りたくても、わたしは一歩も動けなくって……どこに帰りたいのかもわからなかった、ずっと前のわたし……一人ぼっちの、サツリクの天使。
 今までの声はきっと、淋しかった天使のわたしへの呼びかけでした。

 兄さんが助け出してくれるまで、わたしはずっと、暗い所にいました。
 悪魔の力で動けるようにはなって、サツリクの天使をしてたけど……わたしの意識はずっと、暗闇にいたままでした。
 天使と悪魔……わたしは結局、どっちかを選ばなきゃいけないのかな?

 辛いから忘れようとしてた、真っ暗な水の底の記憶。
 わたしがやっとそれを思い出しかけた時、伝話のヒトもわたしの時間に追いついたように、ちょっと大人びた声になりました。

「それじゃ、遊ぼうか……ねぇ、ネコハ?」

 まだ誰かわからないそのヒトは、それからわたしに、命がけの推理の試練を課します……。


* * * 


 わたしの悪魔さん専用PHSに伝話をかけてきた、知らない声色のヒト。
 女の子や中性的なヒトと、どんどん雰囲気が変わるのが不思議だけど、わけがわからないわたしは何も言えません。
 そうして伝話のヒトは、有無を言わさず、わたし達全員に明るく宣言したのでした。
「ようこそ、悪魔でボーンのセカイへ! 今日は特別イベント、『エレメンタル・ナイト』にみんなを招待するよ!」

 周囲は真っ暗なまま、PHSの小さな画面だけが明るく光ってて、それを見つめるみんなの顔が「?」になりました。
「ええーっ! おれ、職員室行かなきゃなのに!?」
「あれぇ。里史くんも職員室、呼ばれたんだー? 奇遇だね、ワタシもだよー」
 何やらここで、状況が更におかしくなっていきます。
「何言ってんの、呼ばれたのはあたしでしょ?」
「あー……なるほど、そういう手口か、さっきの放送は」
 氷輪くんが一人、納得したような余裕の声で、わたしはちょっとほっとしました。
 ここはわけがわからないけど、氷輪くんがいてくれるのは、心強い気がします。
「それでみんな、一緒に階段に戻ったわけだ。誰相手にも、自分が呼ばれたように聞こえる誘導の暗示……オレ達は最初から、狙われてここに招かれたんだね」
 冷静な氷輪くんに、PHSの伝話のヒトは、ざっつらいと! って……見抜かれたって何も困らない感じで、ひたすら楽しそうです。

 それにしても、「悪魔でボーン」って何だろう……スマホのゲーム、「悪魔でGONE」と、何だか似てるけど……。
「さぁさぁ、エレメンタル・ナイトが始まるよ! 今日は自然なままのみんなが主役、むき出しのみんなの真剣勝負だよ!」
 何それ! とホナミが怒ったり、意味わかんねー! とサトシが頭を抱えたりする気配が伝わってきます。
 わたしはずっと、何も言えなくて……ただただ、不安です。
「ルールは簡単! みんなの大切なもの、どっちがホンモノ? 天使と悪魔、ホンモノだけが、正しい道を教えてくれるよ!」

 みんな、えーって、まだまだ戸惑ってます。当たり前だと思う。
 どうしてこうなったのか、このヒトは誰なんだろう。
 こんなに沢山人を巻き込んだ、人間の沙汰じゃない事態、後でどうなっちゃうの?

 「エレメンタル・ナイト」の説明を聞きながら、一人動じてない氷輪くんが、呆れたようにPHSに向かって尋ねました。
「意味がよくわからないけど……それ、どういう風に試されるわけ? それでもし間違えたら、誰がどうなっちゃうのさ?」
 勢いばっかりで、勝手に何かのルールを押し付ける、よくわからない伝話のヒト。
 でも氷輪くんが、きちんとルールを確認してること……その意味はわかって、わたしはヒヤリとしちゃいました。
 この伝話のヒトは……氷輪くんが対等に喋るほどの、何かなんだって。

 氷輪くんは貧血気味で、いつも大人しくしてるけど、かなり名のある悪魔さんです。わたしなんかを見守ってくれるのは、ひとえに兄さんとの取引の結果です。
 でもその氷輪くんも、ここでは伝話のヒトに従わなきゃいけないんだ……そもそも、誘い込まれてしまった時点で、少し不利みたい。

 伝話のヒトも、その僅差を多分わかってて、氷輪くんの質問にはきちんと答えました。
「あははははー。それじゃ一つ、例題を出してあげよう! さてさて、君達はこの夜から目覚められるかな?」
 ぽーん! と、暗い中に、突然大きな白い煙が湧き出しました。
 きゃあってユイがびっくりしてホナミに抱き着いて、わあってサトシが氷輪くんに飛びつこうとして、見事に避けられてます。
「このイベントは、ネコハのためのものだからね! まずはネコハ、どっちがホンモノ!?」
 ぎくっと、体を震わせるわたしの前で、白い煙は二つに分かれました。
 そして段々、小さくヒト型に収まっていって……。
「え……え――……?」
「って――棯さんが、二人ぃ!?」

 わたしが息をのんで、サトシもびっくりしてる通りに……。
 白い煙に燻し出されて、暗闇の中で浮かび上がった、二つの白いドア。
 わたし達の前に現れたのは、そのドアの前に一人ずつ佇む、瑠璃色の髪と黒い髪の、二人のわたしでした。

「みんなもう、常識は忘れてね! とにかく進まないと、この夜は明けないからね!」
 ええーっと不満そうなサトシやホナミは、きっと普通だと思います。
 でもその中で、わたわたしながら頷いてるユイが、二人のわたしにすすっと近寄りました。
「二人の棯さん……このどっちがホンモノか、当てなくちゃいけないのー?」
 ドアの光で照らされたユイは、可愛いふわふわの茶髪を二つお下げにしてて、大きな眼鏡越しに、二人のわたしをあちこちから覗き込みます。

 一人のわたしは、瑠璃色の髪のツインテールで、今のわたしと同じ高校の制服を着てる。
 もう一人は黒い髪を左耳の上でポニーテルにして、やっぱり制服。
 そのどっちも、随分前から紫苑色の髪のわたしには、ちぐはぐな姿でおかしいんだけど。

「あ、そうそう! ニセモノを消すのはネコハの役目! 幻想を斬るか、現実を斬るか、ちゃんと消さないとドアは開かないからね?」
 ここでやっと、わたしは一つ、自分の武器を思い出しました。
 所長の魔法で、普段はスマホの中に、写真として封印してる門番用の大鎌。
 あれは元々、人外生物に使うためのもので、事務所の外で出会うことは滅多にないと所長は言ってました。

 でも何かあれば、何処でも使っていいと言ってくれてます。
 事務所を守る、わたしの身を守れと、所長が渡してくれたものだから……。

 暗闇の中で、番人鎌の写真を、スマホの画面から追い出すようになぞります。
 こんなの見られたら、わたしが変な子だって、余計にわかっちゃうんだろうな。
 それはまあ、別にいいけど。もう何回も、この暗闇はわたしのせいって言われてるしね。

 ユイが嘆きながら、瑠璃色の髪のわたしをぺたぺたと触ってます。
「えーん……どっちも棯さんそっくりで、わかんないよー」
 瑠璃色の髪は、サツリクの天使だったわたしが、人間になれた時のもので……黒い髪はサツリクの天使のわたしです。
 そう言えば、今の紫苑の髪のわたしは何なんだっけ……あれ、どうしてこうなったんだっけ?
「とりあえずそれじゃ、色々聞いてみよ――って、棯さん!?」
 サトシが黒髪のわたしに近付こうとする前に、わたしはあっさり結論を出しました。

 消えた方がいいのは、サツリクの天使。
 ユイもちょうど、違う方のそばにいるし、無言でわたしは踏み込んで、黒い髪の自分にスマホから出した番人鎌を振り上げます。

 謎の大鎌を急に取り出したわたしを、ホナミやサトシがうわって避けて、氷輪くんも無表情にわたしを見守って――
 唖然としてるユイの前で、袈裟懸けに鎌を振り下ろした先、黒髪のわたしがぽかんとした顔で二つに分かれました。
 元々煙でできたわたしは、ゆらゆらと揺らめいて、姿が薄くなっていって……最後に、泣き出しそうな顔で笑いました。

 あーあー。と……残念そうな、呆れたような声が、PHSから大きく響きます。
「……っ……!?」
 二人のわたしと、後ろのドアも全部消えて、急にわたしの全身に痛みが走りました。
 あれ、何これ……体中の力が一気に抜けて、鎌も落として、ぺたんと座り込んじゃいます。
「あーあー。ネコハってば、仮にも探偵にあるまじき浅慮。感情で動かずに、冷静に、ホンモノを当てなきゃいけなかったのに」
 ううん……わたし、ひょっとして、間違えちゃったのかな……。
 気持ち悪い、痛みを我慢するだけで吐いちゃいそう、体が動かないよ……。

 でも、そんな弱音を吐いてる暇はありませんでした。
「今回は例題だから、それだけで済んでるけどね? 次からはホンモノだよ、ネコハが間違えれば、ホンモノは現実でも死んじゃうよ?」
「って……えええ……!?」
 思わず顔を上げたわたしに、ユイがしゃがんで肩をさすってくれて、ホナミがわたしの代わりに怒り出しました。
「何よそれ!? 斬れって言っといて、間違えたら相手死ぬって!? そんなのあんまりだし!」

「そうそう。じゃないとみんな、本気になってくれないでしょ?」
 悪びれない伝話のヒトの言いぶりに、サトシがふっと、青ざめるのがわかりました。
「それって……棯さんに、人殺ししろって……そうなるかもしれないこと、しろって言ってんの……?」

 ……うわあ。鎌を持ったわたしの姿も、サトシは衝撃だったみたいだけど……。
 これからまだ起こるはずの問題、そのシビアさに、すごいショックを受けてる、サトシ。
 伝話のヒトは、やっぱり悪魔だと思う。こういう待ったなしの悪いゲーム、悪魔はみんな、大好きだもの。

 みんなの大切な人が、さっきみたいに二人現れて、ニセモノを消さないと先には進めない。
 間違えてホンモノを斬った時、今のわたし以上にひどいことが、きっと現実のその人に起こる。
 そんなの、確かに一回も、間違えられないよね……わたしがみんなの大切な人を、殺すことになっちゃうんだから……。

 氷輪くんがわたしの前にしゃがみ込んで、ぽんぽんと、頭を撫で叩いてきます。
「それじゃ、次からはもうちょっと、慎重にいこっか」
 わたしを覗き込む灰色の目は、何だかとても悲しそうに見えて……笑ってるのに、氷輪くん、わたしに悪いって思ってるみたい。
「止めれば良かったね。オレは多分――黒い方が、本当の猫羽ちゃんだと思ったからさ」

 氷輪くんとわたしは、わたしがサツリクの天使の頃からの知り合い。
 今でもわたしは、そこから変わってないのかな。わたしの本性は、結局、あの暗闇にいるサツリクの天使なのかな……。
 氷輪くんの冷たい手のおかげか、わたしは不思議と、しんどい中でも冷静な気持ちになっていくのがわかりました。

「次からは……絶対、間違えないから」
 むくりと、顔を上げて、へろへろでもわたしは立ち上がります。
「みんなをちゃんと、外に帰すから……次の問題に、早く、行こう」
 番人鎌を支えに縋って、わたしはもう、覚悟を決めるしかない。
 みんなの大切な人を、殺してしまうかもしれない。でも、ホンモノを見分けることぐらい、わたしの直観で何とか探偵をしなきゃです。
 それはわりと、得意分野なんだから……。

 そもそもわたしは、悪魔使いなんだから、しっかりしないと。
 わたしのせいで、閉じ込められた人達。ゲームをクリアしなきゃいけないんだったら……とにかく、進むしかないんだから。

「おーけーおーけー! ネコハの意志が固まったところで、それじゃ、本チャンのゲームを始めようか!」
 立ち上がったわたしをかばうように、ホナミとユイが隣に来てくれました。
 ホナミはわたしの、地面に置いた鞄を持っててくれて、ユイはわたしの背中をさすってくれて……思わず、じんときちゃいます。

 鎌を振る時に置いたPHSを氷輪くんが拾ってたけど、サトシが氷輪くんの手元のPHSに、そこで宣戦布告をしちゃいました。
「本チャンでも何でも、来るなら来いよ! でも棯さんを傷つけるのは、許さないかんな!」
 ずっと怖がってたサトシまで、何でか随分、お腹を括ったみたい。
 そうしてみんな、心の準備はできたようでした。

 それじゃ――と。PHSからは楽しそうに、悪魔の歌が流れてきます。
「一人目ぇ……それは、サトシくん!」
「――!?」
「サトシくんの、大切なもの……ホンモノは、どっちだ!?」

 そうして「悪魔でボーン」、エレメンタル・ナイトは、サトシの試練から始まりを告げます……。


* * * 


 わたしのPHSを持った氷輪くんが、とても冷たい目で、小さく光るPHSを見つめました。
「お前、本当に……悪趣味だね?」
 この悪魔のゲームを、受けて立つ宣言をしたサトシの前に、また二つのドアが現れて……。
 その前に立ったのは、一人はパジャマ姿で、手作りの帽子を被った女の子。
 もう一人は、黒い髪と目で黒い洋服の、同じ顔の女の子でした。

「げっ……ナナ……!」
 サトシがすごく、うわあってなってます。氷輪くんもどうしてか、大きな溜め息をついてます。

 ナナって確か、玖堂さんの子供……サトシの九人もいる兄弟の、下の方の妹さんだったかな。
 わたしも玖堂さんのお家で会ったことがあるけど、その姿は、黒い方のナナだったけど。

 黙ってたさっきのわたし達と違って、二人のナナは、パジャマの方から順に喋り出しました。
「お兄ちゃん、どうしたの? ひょっとして、菜奈に会いにきてくれたの……?」
「お兄ちゃん! こんな所、いちゃいけないよ! こっちに来て!」
 パジャマのナナは、とても弱々しくて……わたしが会ったナナからは、想像もできないです。
 黒いナナは、サトシをはっきり呼んでいて、ここが危ない所とちゃんとわかってるみたい。
 それならわたしは、黒いナナが、ホンモノだと思うんだけど……。

 サトシは、とても困った様子で、考え込んじゃいました。
「どーしよー……さすがに、こんなのってよ……」
 パジャマのナナはサトシにしきりに、会えて嬉しいよ、お兄ちゃん、って言ってて……サトシはますます、唸っていきます。

「ねー、ほーちゃん……里史くんの妹さんって、亡くなってなかったっけ……?」
「……よね、確か……白血病で、二年くらい前……」
 ……あれ。じゃあ、わたしが玖堂さん家で会ったナナは、誰なんだろう?
「玖堂先輩はその後、お母さんが妹に似せた機械を作ったって、嘆いてたよねぇ……あんなの、妹じゃないって……」
「よね……正美先輩、妹に骨髄あげるほど、可愛がってたみたいだし……」

 あれれ……ということは、わたしが会ったナナが、ナナじゃないニセモノかもしれないのかな?
 それってちょっと、怖くて込み入った家庭事情だよね……?

 でもサトシも、黒いナナがホンモノだって、感じてるみたいなんだけど。
「死んだナナと、今のナナ……どっちか選べなんて、おれに言うのかよう……」
 怪談が怖いサトシは、つまり、死後の世界を信じてる。
 だから、ここにいるのは本当に、死んだナナの霊なのかもしれない。
 そう思ったら、サトシに会えて喜んでるパジャマのナナを、ニセモノだなんて言うことは……優しいサトシには、できないよね……。
 鎌を持ったままのわたしは、項垂れてるサトシの後ろ姿を見て、踏み切ることができません。

 そこで口を開いたのは、冷たい無表情の氷輪くんでした。
「……猫羽ちゃん。サトシの迷いを、解いてやってよ」
「――え?」
「猫羽ちゃんには、答はわかってるよね。それはもう、一つだけしか――この場では、やりようがないんだってこと」
「…………」

 氷輪くんが何を言いたいのかは……わたしには、とてもよくわかりました。
 ここでサトシに、決断なんてできっこない。
 でもそれじゃ、サトシもみんなも、前に進めないから……誰かが決めなきゃいけないのなら、それはわたしの役目だと思うから。
 わたしは一度だけ頷いて、無言でそっと、サトシの前に出ました。

「あ、棯さん、待って……!!」
 サトシが悲壮な声で、わたしを止めます。それでもわたしはためらいません。
 だってこれは――わたしだけでなく、ホンモノのナナの願いだって感じてるから。
「……本当のナナは多分……死んじゃったら、サトシに会いにきてほしいなんて、言わないと思うよ……」

 わたしが会った黒いナナは、とても優しかった。
 パジャマのナナが死んだナナなら、ここで斬っても死んでるはずだから。
 黒いナナが、もしもニセモノだとしても、今生きてるナナを斬るよりはいい。

 サトシが何か答える前に、サトシの顔を見れないままで、わたしは容赦なく――
 パジャマのナナが、怯える暇もないくらい、黒刃の大鎌を一瞬で振り切りました。

 わたしが動いた瞬間、氷輪くんが後ろからサトシの目をふさいでくれて、サトシには嫌な光景を見せずに済みました。
「わー、氷輪ー! 棯さん……ごめーん!!」
 煙になって消えてくパジャマのナナの前で、わたしは大きく、息をつくしかなくて……そんなわたしに、サトシはどうしてか、謝ってきました。
「ごめんほんっと、棯さんにやなことさせて本当にごめん……!!」

 あれ……サトシ、ひょっとして、泣いてる……?
 消えたナナのためじゃなくて、鎌を下ろして立ち竦む、情けないわたしのために……。

 すごく久しぶりの、何かを一息に殺そうとする、このサツリクの感覚。
 二つのドアも二人のわたしも、全部消えたさっきと違って、黒いナナとドアは消えずに残ってる。だから、正解を選んだんだと思うけど……。
「別に……わたしは、大丈夫だよ」
 間違えてない。わたしは、正しいことをしたんだと思う。
 それなのに、どうしてわたしも、声と手が震えるんだろう……?

 誰かを斬る、それ自体が、こんなにも嫌なこととは思わなかった。
 それならわたし、サツリクをしてた頃は、どれだけ嫌だったんだろう?

 そう思った瞬間、黒いナナの後ろのドアが、急に開きました。
「って、わ……!」
 開いたドアからすごい光が差し込んで、わたし達はみんな、わっと目を閉じます。
 光はほとんど一瞬で、次にわたしが目を開けた時には、また暗闇が戻ってきて……でも、そこにはもう、サトシの姿もナナの姿もありませんでした。

 唖然とするわたし達の中で、またわたしのPHSが、うるさく騒ぎ始めました。
「第一試練・クリア! やったね、これで今のナナちゃんがホンモノだって、サトシくんも改めてわかったよね!」
 妙に嬉しそうな声に、顔をしかめる氷輪くんが、PHSを忌々しそうに見て言います。
「そんなの大きなお世話だよ、ホントにさ。サトシは最初から、疑ってなんかいないのにね」
 氷輪くんは普段、あんまり感情を見せたりしません。でもサトシに関しては、ちょっと思い入れがあるみたい。
 サトシじゃなくて、ナナにかもしれないけど……その辺りは、わたしはわかりません。

「それじゃ、次の試練はホナミちゃん! れでぃーす・あんど・じぇんとるめーん!」
 今度はいっそう、大きな煙がこの場に溢れます。
 クリアのせいか一人消えちゃったサトシ以外、みんなが咳込みます。

 そしてすぐに、そこに現れた次のドアと、二人の誰かに……わたしとホナミが、揃って飛び上がりました。
「えっ……えええっ!?」
 わたしは本当に、すごく驚き過ぎて、その二人の名前を呼ぶこともできなくて……。
「嘘っっ!? (かおる)兄さんと、咲姫(さき)先輩!?」
 ホナミがすぐに二人を呼んだことも、わたしはどびっくりです。
 だってそこにいたのは、わたしのバイト先で一緒の二人……親戚の咲姫おねえちゃんと、探偵部門の馨おにいちゃんだったんだから。

 馨おにいちゃんも、咲姫おねえちゃんも、血は繋がってないけどわたしの親戚です。二人共、父さんや母さんの、とても大事なヒト達だから。
 でも今は、ホナミの試練のはずなのに、どうして二人が出てきたんだろう?
「……帰るぞ、穂波。学生なのに、遅くまで出歩くな」
 あれ。何だか馨おにいちゃん、雰囲気が少し違う。わたしには全く目もくれないで、ホナミにだけ話しかけてる。
 そう言えば、髪の毛も銀髪じゃなくて全部真っ黒だし、今までに一回も見たことのない、郵便屋さんの恰好をしてるし……。

「馨兄さん……何で……」
 ホナミとおにいちゃん、知り合いだったんだ。兄さんって言ってることは、実の家族……?
「待って! それはニセモノだよ、穂波ちゃん!」
 ここで割って入ったのは、編み込み入りの長い髪を淡くきらめかせる、懐かしい咲姫おねえちゃんでした。
 直接会うのは、意外に久しぶり。電話や伝話では話してるし、わたしのメールをいつも、父さんや母さんに送ってくれるんだけど。

 おなじみの恰好、ハイネックにスカートのおねえちゃんは、馨おにいちゃんとは違ってわたしに気が付いてくれました。
「助けに来たよ、猫羽ちゃん! 結葉ちゃんも、私がホンモノだってわかるよね?」
 平和な笑顔の似合う咲姫おねえちゃんは、わたしが知ってるままの姿で、そして、わたし達みんなと知り合いみたいです。

 でも、ちょっと待って。咲姫おねえちゃんの中には、悪魔のおねえちゃんがいます。こんな状況で、その気配を全然感じないのは変な気がする。
 それに馨おにいちゃんも、同じ名前でそっくりなだけの、別人なのかもしれないし。
「ホナミは、おにいちゃん達のこと、知ってるの?」
 尋ねたわたしに、ホナミが何故か、鋭い顔をきょとんとさせてこっちを見ました。
「……棯さんが、マトモに話しかけてきたの、初めてね」
「え?」

 え……うん……?
 そう言えば、そうかもしれない、けど……どうしてこんな時に、ホナミはそんなことを言うんだろう?
「あー! ほーちゃんずるーい、棯さんにいきなり名前で呼ばれてるー!」
 ユイまで何だか声をあげて、わたしは何か、そんなに変なことをしたのかな?

 多分ホナミ達には見えてないけど、首を傾げたわたしに対して、ホナミはふうっと息をついたみたいでした。
「……別に、いーけど。馨兄さんはあたしの従兄で、咲姫先輩には前に、馨兄さんのことで相談に乗ってもらったの」
「えー、うそうそー。馨お兄さんが変わったのは咲姫先輩のせいだって、いちゃもんつけに行ったんだよねー、ほーちゃん」
 こら! と怒るホナミや、ユイが言ったことに、咲姫おねえちゃんは苦笑いをしてます。
 当のおにいちゃんは「?」って感じで、ホナミのこと以外誰も見えてない感じです。

 ホナミは静かそうな馨おにいちゃんを後ろに、だって! と声を大きくします。
「馨兄さん、昔はこんな硬派だったのに! 今は全然チャラくなっちゃって、別にもういいけど、本当はこんな人だったし!」
「そういや、そうだっけね。でも穂波も結局、咲姫ねーちゃんに手なずけられたんだよね」
 人聞きの悪いことをゆーな! と、ホナミが氷輪くんに本気で怒り出します。というか氷輪くんも、おねえちゃん達と知り合いなんだ。
 でもこの「大切な」二人に、おねえちゃんが出てくるってことは、ホナミはおねえちゃんが大好きなんだと思う。

 そしてホナミの言うように、そこにいるのは昔の馨おにいちゃん……それならわたしのことをまだ知らないのも、納得がいきました。
 何しろわたし、サツリクの天使をやめるまでは、家族なんていなかったもの。
 でもじゃあ、その場合……二人のどっちが、ホンモノって言えるのかな?

「騙されないで、猫羽ちゃん! 大事なのはいつだって、今なんだから!」
「何してるんだ、穂波。早く帰ろう、暗くなるぞ」

 二人は多分、どっちもホンモノ。ただおねえちゃんの言うように、今か昔か、その違いだけ。
 でもそれでいくと、おねえちゃんにも、悪魔が足りないし……。
 さっきのナナとは違って確信も無いし、二人共、まだ生きてる。それを間違えたら、本当にどっちかが、死んじゃうことになるとしたら……。

 どっちもホンモノで、どっちも何かが足りてない。それがわかるわたしは、足が強張って固まっちゃいました。
 そんなのって、ありなのかな。どっちを選んでも、これって多分、正解で間違いだよね?
 それはつまり、どちらか一人を選んで、もう一人を見捨てろってこと……。
 ここからどうやって、おにいちゃんとおねえちゃんを一人、わたしに選べって言うんだろう……?

 黙りこくるわたしを、同じように黙って氷輪くんが見守って、ユイがあたふたとしてる横で……。
 ずっと難しい顔をしてたホナミが、思わぬことを言い始めます――


* * *


 ホナミには、ちょっとだけ霊感があるって、さっきユイが言ってました。
 その力なのかわからないけど、ホナミはわたしをまっすぐに見て、はっきりと言いました。
「棯さん。ニセモノは、馨兄さん」
「……え?」
「あたしが保証するから、斬っていいよ。もう馨兄さんは――この馨兄さんは、何処にもいないから」

 ドアの近くにいると、ホナミの凛とした顔つきが本当によく見えます。
 でもホナミはそれ……すごく、強がって言ってる。それもわたしは、わかっちゃいます。
 もしも間違えた時、ホナミは多分、わたしに責任を背負わせたくないんだ……。

 馨おにいちゃんも、咲姫おねえちゃんすらも何も言わずに、わたしとホナミだけが真剣に見つめ合います。
「…………」
 変わってしまったという、馨おにいちゃん。わたしの知らない、昔のおにいちゃん。
 確かにおにいちゃんは、何度も死にかけたってこと、わたしも聴いてはいたから……。

「……わかった……ホナミ」
 わたしもそこで、覚悟を決めます。
 このおにいちゃんには、わたしのことは見えてないけど。馨おにいちゃんなら今も昔も、そうしろって言ったと思うし。
 おにいちゃんと咲姫おねえちゃんを、天秤にかけるとしたら……馨おにいちゃんは迷わず、おねえちゃんを選ぶと思うから。

 おにいちゃん、ごめんね。
 心の中で謝りながら、わたしは鎌を振り上げました。

 色々と、わからない部分も残った選択だったけど……。
 もう一度、ドアから光が溢れ出した時、ホナミの決意は正解だったことがすぐにわかりました。
「ありがと……ホナミ」
 サトシと同じように、ホナミもいなくなっちゃいました。残ったのはわたしと、氷輪くんとユイだけです。

 PHSからまたすぐに、あの声が聞こえ始めました。
「んんん、グレイティスト! 自分で選べなかったサトシくんよりずっと男らしい、ホナミちゃん!」
 それはちょっと、酷だと思うな。サトシとホナミじゃ、色々立場も違うだろうし。
「それじゃあ更に、難易度上げていこう! 次の試練は、ユイハちゃんだよ!」
 伝話のヒトは本当に、待ったなしです。
 わたしは早くも疲れてきちゃって、胸がどくんと、悪い鳴り方をしてるけど……。

 それにしても、このゲームは氷輪くんの言う通り、趣味が悪いと思います。
 だって次に、そこに現れたのは……たった今クリアしてここから消えたはずの、ホナミだったんだから。

「えっ……何で、ほーちゃんと棯さん!?」
 ユイの大切な人、二人。ホナミは友達みたいだから、わかるけど……そこに何で、わたしがいるのかな?
 ユイもすごく驚いてるけど、わたしも一緒に、ぽかんとしてしまいました。
「やだー! そんなのワタシが、棯さんに一目惚れってバレバレだー!」
 え……? それって、どういうこと……?

 くすくすと、楽しそうに笑い出したのは氷輪くんでした。
「何だ。やっぱり猫羽ちゃん、全然気付いてなかったんだ」
「……え?」
「穂波も結ちゃんも、前から猫羽ちゃんのこと、気になってたのにさ。猫羽ちゃんがガン無視するから、話しかけられなかったんだよね」
「わー! やだー、氷輪くん、それは言いっこなしー!」

 とても慌ててるユイは、眼鏡もずれそうな勢いで顔を赤くしてる。その感情はわたしにも、ダイレクトに伝わってきました。
「だってだって棯さん、馨お兄さんがよろしく頼むって言ってたし! 一匹狼なのが危険すぎるやまねこみたいで滅茶苦茶かっこいいんだもん……!」
 ええっと……狼と猫は、とりあえず両立しないと思う……。
 でも混乱してるユイの試練で、わたしがここに出てきたのは、氷輪くんの言うことが本当なんだと思うし……。

 そこでまた、思わぬ口を挟んできたのは、新たに現れたホナミでした。
「待ってよ、結。それじゃ、あたしと棯さん、どっちを選ぶっていうの?」
 はっきりとスタイルのいい全身が見えるホナミは、キレイな眉をひそめて、怪訝そうにユイを見ています。
 もう一人のわたしは、隣でそっぽを向いてて、これが氷輪くんの言う「ガン無視」みたい……うん、確かに、今まで通りのわたしだと思う。
 それで言えば、どっちがニセモノっぽいかは、何となくわかってきたんだけど……。

 わたしと同じことに気付いたように、ユイがうわーんと、きつい顔のホナミを見返しました。
「ひどーい! ほーちゃんはそんなこと、絶対に言わないよー!」
 その一言だけで、ユイはそれを確信してます。
 でもわたしは……元々、ユイとホナミのことは、全然知らなかったから……。
「何でそう言い切れるの? あたしはずっと結の親友なのに、ここで三人グループ化とか、正直冗談じゃないし」
 最初に伝話のヒトが言った通り、ここが人の、本音をむき出しにするところなら……これが絶対に、ホナミの本心じゃないって、誰も保証はできないよね?

 そもそも、ユイは全く、わたしのことなんて知らないと思う。
 それならここに出たわたしは、ユイから見ただけの、中身はわからないわたしだから……。 
「……――」
 何も言わずに、わたしはまた鎌を構えます。
 でも今度は、わたしが動く前に、氷輪くんがすっとわたしの前に入っちゃいました。
「――猫羽ちゃん。それはさすがにオレ、止めるよ」
 わたしの高校生活を見守るようにと、兄さんと取引をしたはずの氷輪くん。だからきっと、そう言うんだと思う。
 でもこれは……わたしのこたえは、もう決まってるから。
 それは氷輪くんが止めても、わたしは……――

 わたしと氷輪くんの緊迫に気付いたユイが、泣きそうな顔になりました。
「棯さん! ダメだよ、そんな……!」 
 わたしとホナミ、もしもここで間違えちゃって、どっちかが消えるとしたら――
 それはこのホナミの言う通り、どっちが大事かってお話しだと思うから。
「ニセモノは絶対ほーちゃんだよ! わかりきってるのにそんな――自分を斬るようなことしないで、棯さん!」

 …………。
 それは、絶対じゃ、ないと思う……。
 だったらわたしには……間違えてホナミを殺すより、こっちの方が気が楽だもの。

「猫羽ちゃん。それは最初と同じ……ただの感情論だよ」
 氷輪くんの冷たい声に、わたしがびくっとした隙に、そこでユイが――
 まるで、わたしを力ずくで止めるみたいに。いきなり全力でがしっと抱きついてきて、わたしは呆気にとられました。
「ほーちゃんはさっき、クリアしたんだよ!? それだけでもこんなこと、言うはずがないんだからあ!」
 うわあああんと、そのままユイは、大声で泣き出しちゃって……。
「せっかく棯さんと、仲良くなれるって思ったのにいい……一緒にクリアしようよおおお!」
 死んじゃやだあああ、って……意外に激情な人っぽいユイが、すごく大きな声で、そんなことをはっきりと言うから……。

 ああ……そっか……。
 このわたしを斬れば、わたしは死んじゃうんだ。
 自分でもびっくりするくらい、考えないようにしてた、当たり前のその結果。
 気付いた時には、わたしは鎌を、無残に取り落としてました。

 ……どうして、だったのかな。
 ここでもしも、わたしが消えても、後は氷輪くんとユイの二人だけだし。
 氷輪くんがいれば、きっとその後、ユイ一人くらいは大丈夫だと思う。
 だから……わたしは別に、消えてもいいはずだったのに……。

 ユイがわたしを抱き締めてる間に、わたしの鎌を拾った氷輪くんが、それでホナミを消してしまいました。
「ま、これくらいは……ね?」
 本当に氷輪くんは、何でもできるんだなあ。
 ぎゅううっと、温かかったユイが消えていく中、わたしはそんなことを考えるしかありませんでした。

 ……うん。これでユイも、クリアできたんだ。……良かった。
 ユイに抱き着かれた後、座り込んじゃったわたしと、氷輪くんだけが暗闇に残りました。
 わたしが何も言えないでいると、性懲りもなく、またPHSが叫び出しました。

「はーい、ユイちゃんも見事クリア! ちょっと反則だけど、それはユイちゃんの涙に免じて大目に見てあげる!」
 ずっと氷輪くんが持ってたPHSは、よく続くなってくらい、まだ光がつきっぱなしです。
「それじゃ、次の試練は――ええと、翼槞(よくる)くんだっけ?」
「ふーん。オレと本気でやりあう気、お前?」
「ごめんなさい嘘です冗談です。だからPHS壊さないでね、お願い?」

 何だか一瞬で、次が終わりました。
 氷輪くんもそのまま、そこで消えてしまいました。

 もー! と、氷輪くんが消えてから、地面に落ちたPHSが怒ってました。
 わたしは何とか、自分の鎌を拾って立ち上がります。
「それじゃ、最後はネコハ! 全く、ああいう過保護な悪魔がいるから、ネコハはいつまでも悪魔に頼るんだよね!」
「……」
 それは、うん、伝話のヒトの言う通りだと思う。だからきっと、氷輪くんを退場させたんだよね。

「あなたは……悪魔さんじゃないの?」
 不思議に思ってきいたわたしに、伝話のヒトは、はぁ? と、素っ頓狂な声を出しました。
「え? ネコハ、ボクが誰かわかってないの? まじで?」
「……」
「今朝にボクを、見つけてくれたばかりじゃない? ボクはてっきり、気付いてくれてると思ってたよ?」

 その声の調子は、半分くらい嘘で、半分は本当。
 そのヒトが誰かわからないわたしを、不思議に思ってる……そんな感じです。
 今朝は確か、珍しい灰色の猫さんに会って、それは前にいなくなった仔、「美咲」に似てて……。

「シグレからきいてないの? ボクのこと」
 ここで兄さんの古い名前まで出したヒトに、わたしは余計混乱しました。
 わたしも兄さんも、美咲には助けられたから。兄さんは美咲の首輪を借りてて、何かに使ってたと思うし。

 伝話のヒトはついに、その決定打を口にします。
「シグレに『眼』を貸してるのもボクなのに。あのチョーカー、便利でしょ?」

 探偵部門担当の馨おにーちゃんは、透視能力なんて持った、とても反則な探偵さんです。そのおにいちゃんの飼い猫、美咲は、とても不思議な猫さんでした。
 成長しないし、咲姫おねえちゃんと同じ色の眼をしてるし。それで、眼のいいおねえちゃんと、同じものを視ることができたっていうから。
 だから、おねえちゃんに一文字加えた名前なんだって、誰かが言ってた気がする。

「ま、仕方ないか。『ミサキ』の気配、一番最後にみた夢しか、覚えててはくれないもんだよね」
 伝話のヒトは……自分が美咲だって、言ってるんだよね?
 でも美咲は、女の子らしい可愛い灰色の仔猫で、性格だってすごく優しかった。だから馨おにいちゃんのためにいなくなっちゃって、わたしはとても悲しかった。
 こんなゲームをつくり出して、人を沢山巻き込むような、そんな仔じゃなかったのに――

 わたしはとにかく、それを尋ねずにはいられません。
「待って。美咲ならどうして、こんなことするの?」
「ノーノー。ボクは、『(ミサキ)』。綺麗で棘のある薔薇(美咲)ちゃんじゃなく、儚い一春の存在なのさ。悪魔に拾われはしたけど、ボク自身は悪魔じゃないし、ここをつくったのもボクではないよ」

 ミサキがその、漢字を意識して名乗った時、わたしはやっと事情が繋がりました。
 さっきは不思議と、悪魔の気配を感じなかった咲姫おねえちゃん。
 悪魔に拾われたっていう、美咲じゃないミサキ。
 おねえちゃんの中の悪魔は……「咲杳(サクラ)」って名前だから……。

 (ミサキ)と悪魔のおねえちゃん、サクラ……「桜」。同じ意味を持つ名前の二人は、絶対関係があって、本来の二人とは離れて動いてるはずです。だからさっき咲姫おねえちゃんに、悪魔の気配がしなかったんだと思う。
 ミサキが変わってしまったのは……悪魔のおねえちゃんに、関わったからだとしたら……。

 とにかく! と、ミサキは仕切り直すみたいに、今までよりマジメな声になりました。
「ネコハはここをクリアしなきゃいけないのさ。だってここは、ネコハの心の闇なんだから」
「……え?」
「悪魔に負けるか、精霊に頼るか。エレメンタル・ナイトは、そのためのイベントなんだよ」

 ……あれ? 精霊って、何のことだろう。天使じゃなくて、何で精霊?
 わたしはまだ何か、大切なことを忘れてるのかな……?

 そしてミサキが、最後にわたしに与えた試練が、突き刺さるように始まりを告げます……。


* * * 


 ずっと、突き刺さるように冷たい、暗い水の底にいました。
 小さい頃に家族と引き離されて、わたしはその暗闇に、一人ぼっちで閉じ込められた。
 体は動いても、意識はいつも真っ暗なところで……それと引き換えに、サツリクの力を与えられたから。

――何か……言い残すことはある?

 道は、一つだけでした。
 悪いことをするヒトを、殺すお仕事。それをすれば、わたしも外に出ていいって。
 でもわたしは、殺したくないヒトは殺さなかった。ニセモノだって確信できない、さっきのホナミみたいに。
 殺すヒトのココロをきいて、殺さなくていいと思えば、自分に嘘はつかなかった。

 だから全てのサツリクは、わたし自身の意思で……沢山奪った命の重しで、いつまでたっても水底にいる。
 光は見えてて、そっちに向かってるつもりなのに。

 わたしは、ヒト殺しだから。だからきっと、罰を受けてるのかな。
 どうしてわたしは今、一人で……みんなのそばに、いられなかったのかな……。


 人間として在りたいなら、人間の世界に行くように言われました。
 人間じゃない兄さんやみんなとは、違うものを身につけなさいって。
 
 ……弱くていいから、人間がいい。うん、わたしも、そう望んだんだ。
 だって、ヒト殺しは――……ヒトを斬るのは、辛いから。しなくて済むなら、他のことをしたいから。
 今のわたしが、人間だからできることも、何かあるはずだって――
 ごぼごぼと、光に向かってわたしは必死に、暗闇を這い上がります。


 気が付けばわたしは、ふっと、不思議な霧の泉にいました。
 髪や服から水が滴って、ひんやりとします。波打ち際で砂まみれです。
 頬に当たる小さな風に、木の匂いが香るような山奥で、鎌もPHSも持たずにいます。

 あれ……最後の試練は、どうなったのかな?
 そう思ってたら、半分水中で座り込むわたしの前に、誰かが一人で立っていました。
「やっと会えたね……アークちゃん」
「……え……?」

 曇り空を背に、わたしを見下ろす、長い紫苑色の髪の女の子。
 桜色の肩掛けを羽織って、森の泉には似合わない、足まで隠すスカートの寝間着姿で。
「私のこと、アークちゃんは、覚えてないんだよね」
「え……アーク……って……」
 今朝にわたしが口にした、「アークちゃん」。それは、わたし自身のこと、だったの?

「アークちゃんは、私が見つけた一人ぼっちの天使……ミィもアークちゃんも同じ、一人ぼっちだったですのニ?」
 どこかで見た気がする、可愛くて鋭い、その紫苑色の目。
 女の子は途中から、PHSの最初と同じ、小悪魔みたいな口調で笑いました。
「ミィがアークちゃんのために造ったあの仔のことも、アークちゃんは、忘れてしまったですの二?」

 そこで女の子が強く思った気配は、小さな灰色の猫。
 と言っても生きた猫さんじゃなくて、大きな頭のぬいぐるみで……。
「……あ――」
 わたしはやっと、それを思い出します。

 サツリクの天使から人間になって、わたしが猫羽と名付けられた理由。
 その頃、わたしはいつも、灰色の猫のぬいぐるみを持ってました。
 だってそのぬいぐるみは、わたしのために造られた居場所(うつわ)だったから。

「アークちゃんに殺戮をさせたのは……アークちゃんを見つけて力を借りた、ミィの責任ですのニ」
 黒い天使の羽が憑く猫のぬいぐるみ。「猫羽」が一時期、このヒトの手で封じられた依り代。
「アークちゃんはずっと、眠ってる方が良かったですのニ。ミィと一緒で、そうすれば誰も傷付けなかったから」

 あれ……それは、違うと思うな。
 だってこのヒトが、わたしを天使(アーク)と呼んだように、わたしはすでにサツリクの天使だったし。
 でもずっと、暗い水底にいた。そのわたしをそっくり、このヒトは「アークちゃん」に遷してくれた。

――そこは貴女のために、ミィがつくった世界ですのニ。

 その後、わたしの封印を解いたのが咲姫おねえちゃん。
 ううん、悪魔のサクラおねえちゃん。
 おねえちゃんが良かれと、わたしを起こしてくれたことが、悪魔との契約に繋がって……そして、兄さんが助けてくれたんだ。
 でなきゃわたしは、アークちゃんの中で眠ってるはずだったから。

――貴女はずっと、そこで休むといいですのニ。

 だからわたしはさっき、PHSの声を聴いた時、無意識に涙が出てきたんだ……。

 思い出してみれば、懐かしさで胸が締め付けられました。
 わたし、どうしておねえちゃんを忘れてたんだろう。
 わたしの髪が紫苑色になったのは、ぬいぐるみとお別れした時……ぬいぐるみがなくてもこの同じ紫苑色のおねえちゃんが、わたしと一緒にいてくれるようになったからなのに。

 紫苑のおねえちゃんは哀しそうに、草むらにしゃがんでわたしと目を合わせました。
「……私とアークちゃんは、似過ぎてたんだよ。みんなより弱くて、だから一人ぼっちで……寂しい、寂しいって……」
 おねえちゃんの紫苑の目が、そこで紅く染まっていきます。
「このままじゃアークちゃんも、私と同じで悪魔になっちゃう。私に引っ張られるって……そう、思ったんだ」
 とても辛い笑顔のおねえちゃん。それでわたしも、わけがわかりました。
 わたしの記憶をいじって、おねえちゃんやぬいぐるみのことを消したのは、おねえちゃん自身だったんだ……。
 それはきっと、高校生活が始まって、わたしが寂しくなっちゃった時に。

 おねえちゃんはもう一度立ち上がると、顔が薄暗い影に隠れて、不自然に笑う口元しか見えなくなりました。
「アークちゃんは……一人じゃなくなるなら、悪魔になりたい?」
 家族も失くして死んだらしい、紫苑のおねえちゃん。生前は病弱で、友達もいなくて、それで悪魔に利用されたんだって。
 わたしも実際に話したのは初めてで、だから今も、おねえちゃんは一人ぼっちなんだ……。

 ホンモノ、ニセモノを選ぶはずなのに、悪魔になるか、ならないか。
 これがわたしの試練なら……悪魔を選べば、おねえちゃんが「私」になるってことだよね?

――これからは貴女の代わりに、ミィが貴女になるですのニ。

 わたしはそれでもいい。そう思うのを、おねえちゃんはわかってたんだ。
 それならわたしは……自分にもおねえちゃんにも、嘘はつきたくない……。

 何が一番、今、いびつなことなのか。
 それを無視して、わたし自身を捨てちゃ駄目って、このゲームは何度もわたしに訴えてきました。
 これまでの試練の、その意味は……。
 探偵として冷静に考えた、精一杯のわたしのこたえを、そのままおねえちゃんに伝えます。

「それでおねえちゃんが、寂しくなくなるなら……別に、悪魔になってもいいよ」
 おねえちゃんが顔をしかめて、わたしを見つめます。今朝のミサキに映った、悪魔らしい紅い目で。
「おねえちゃんはわたしを悪魔にしたくなくて、わたしの記憶を消した……わたしに忘れられて、一人ぼっちに戻っちゃった」

 そう。悪魔になりそうなほど寂しいのは、わたしじゃなかったんだ。
「迷ってるのは、おねえちゃんで……わたしじゃないよ……」
 わたしは泉につかって座り込んだまま、おねえちゃんに手を差し出します。
 おねえちゃんは不安そうな顔で、手を上げかけて、でもためらってます。

 わたしのこたえは、最初から決まってる。
 できれば人間を頑張りたいけど、悪魔も捨てられない。探偵的には反則だと思うけど、どっちも大切。
 向こうにはわたしは、寄生相手でも……わたしにはみんな、助け合う仲間だから。

 そのままわたしは、自分から紫苑のおねえちゃんの手を掴むことに決めました。
 沢山のヒトを傷付けたから、そう簡単には消えない、わたしの中の長い暗闇。
 誰が「私」でも、ここを無視しては生きられないと思ったから……。
 やっと顔を出せた水面から、わたしはおねえちゃんを連れて、泉の底に引きずり込んだのでした。

 バカですのニ、と。暗い泉に消えていく、悪魔のおねえちゃんの声が聴こえました。
「泉の精霊に戻されたら、ミィは今まで通り、アークちゃんとは喋れないですのニ。だから悪魔の方が、良かったんですのニ」
 あ、そっか。おねえちゃんは元々、神聖な霧の泉の巫女さんだっけ。だから水底のわたしと相性が良かったんだ。
 そこから精霊になったおねえちゃんに、わたしの守護をしてほしいって、それでわたしの中に来てもらったのに。
 沢山の悪魔と契約してる、弱いわたしを守ってもらうために。

「……ありがと、おねえちゃん」

 ここ最近、わたしがあんまり落ち込んでたから、心配になっちゃったのかな。
 だからわたしと話せるように……こんな世界をつくってくれたんだね。
 多分その代償、ゲームのペナルティは、とても怖かったけどね。

 というか、わたし、正解を選べたのかな?
 おねえちゃんは納得してくれた……ってことなのかな。
 おねえちゃんのホンモノは精霊さんだけど、悪魔のおねえちゃんも、本当な気がするのにな。

「ミィも伊達に、ひっそり長生きしてないですのニ?」

 最後にそんな、不敵な声が聴こえた気がしました。
 そっか。今日は精霊のおねえちゃんの、悪魔記念日だったんだね。

 どんどんと、暗闇に包まれていきます。これがわたしのクリアなら、それでいいや。
 だってわたしは、ヒト殺しで……だからこそ、寂しい場所でも人間でいたい、探偵見習いだから。
 ここまで来れて、本当に良かったな。
 意識が遠ざかってく中、わたしはそのお礼を、一緒に参加してくれたみんなに呟きました。
「みんなのおかげで……クリア、できたよ」
 こんな大がかりな世界をつくるには、きっと沢山、人のエネルギーが必要だろうし。
 クリア自体、わたし一人じゃ無理だろうって、紫苑のおねえちゃんもミサキも、わかってたんだと思う。

 とりあえずもう、お休みの日を寝て過ごすのはやめとこう。
 そう思った辺りで、急にわたしの周りが、重いカーテンを開けたように明るくなっていきました。

「――棯さん! 目が覚めた、大丈夫!?」
「……、え……?」

 目の前にはばんと、心配顔のサトシのふさふさ鳥頭。
 その後ろには知らない天井と、周りにはホナミとユイ、氷輪くんの姿があって……。

「あ、良かったー。せんせー、棯さん、気が付いたみたいですー」
 さっきの大泣きとは打って変わって、落ち着いた様子のユイが、白衣の女の人をすぐに呼びにいきました。
 わたしは何だか、ベッドに寝てたみたい。あれ……ここって、高校の中?
「棯さん、大丈夫? ここが何処かわかるかしら?」
「えっと……保健、室……?」
 そう、とほっとしたように、保健の先生が笑いました。
 わたしはどうやら、屋上の階段で倒れて、運び込まれたみたいです。

 わたしの様子を確かめてから、担任の先生に連絡にいくって、保健の先生は出ていきました。
 後のみんなも、氷輪くん以外何事もなかったような感じで、それじゃってあっさり行っちゃいました。サトシは部活があるし、ホナミやユイとは、知り合ってすらもいないみたいで。
 急に倒れたわたしを、心配してついててくれたことに、わたしは慌ててお礼だけ言います。

 わけがわからないわたしに、氷輪くんがこっそり、カラクリを教えてくれました。
「選択肢で出てきた、ホンモノニセモノと一緒だよ。みんな、それぞれと全く同じ心を、あのゲームの中で再現されてただけ」
 要するに……みんなと同一人物がゲームには参加したけど、それはあの世界だけのものだったんだ……。
 でも、それがわかる氷輪くんは、何と言うかほんとにすごいね?

「クリアおめでと、猫羽ちゃん。……ちょっとは、元気出た?」
「うん。怖かったけど、楽しかったよ」
 自然に笑って言えたわたしに、氷輪くんも良かったって笑ってくれて、更にはわたしのスマホまで使って、色んなフォローも完璧でした。
「猫羽ちゃんのバイト先には、『五月病だから休みます』って連絡しといたよ。はいはい、知ってますって、二つ返事だったよ」

 五月病って何だろう。でもわたし、病気だったんだ、なるほど……。
 その後氷輪くんは、担任の先生の頼みで、わたしを下宿に送ってくれたのでした。

 暗くなった空の下で、PHSを返してくれながら、氷輪くんは当たり前みたいにわたしにきいてきました。
「猫羽ちゃんはこの後、自分から、穂波達に声をかけるの?」
「……うん。わたし……二人みたいな人、きっと好きだから」
 だと思った、って。氷輪くんはまるで、昔に出会った時みたいに、わたしに明るく笑ってくれました。
「いくら壁を作っても、縁ってやつは勝手に繋がるんだよね。たとえその先、近いお別れがわかってる場合でもさ」

 多分、色んなヒトと出会っては、お別れを繰り返してきた氷輪くん。わたしを見守ってくれる生活も、長くはないのかもしれない。
 わたしも一年だけだとか、普通の人と一緒にいていいかとか、不安はいっぱいあるんだけど……でもそのこたえは、これから探すことにします。
 ホナミやユイみたいな、優しい人が好き。そのココロには、嘘はつけないもの。

 人間の高校で、初めてのお友達。いいこたえが、見つかるといいな。
 それまでもうちょっと探偵バイトを続けて、自分を鍛えようと思います。
 氷輪くんがホナミとユイの連絡先を入れてくれた、大事なスマホを握りしめながら。


5月 了

☆5月;後日談

 部屋に戻ると、合鍵を持ってる咲姫おねえちゃんが、わたしを待ち受けていました。
 あれ、それって、「後日」談っていうのかな……?
「もー、猫羽ちゃん、遅ーい! スマホにかけても出ないし、心配したんだよ!?」
 そういえば、何かいっぱい、ヘンな通知が出てた気がする。PHSはずっと氷輪くんが持ってたから、ガン無視してたみたい。
 でもわたし、未だにスマホ、よくわからなくって……使ってる機能は全部、おねえちゃんや所長が、ショートカットを作ってくれてるんだ。

 咲姫おねえちゃんは、わたしの無事を確認すると、その場で馨おにいちゃんに電話をかけました。
「あ、もしもし? 猫羽ちゃん、元気そうだから! 流惟(るい)ちゃん達にはそっちから伝えてね、花憐にもちゃんと説明してね!」

 おねえちゃんは元々、事務所の営業担当で、いつも出かけてていません。
 外でお客さんを探すって言うけど、要は、人の心に働きかけて、事務所に引っ張り込む危ないお仕事なんだって。
 咲姫おねえちゃんなら有り得るなあ……おねえちゃんは「心眼」っていう、人の心が視える眼の持ち主らしいから。

 わたしの父さんもそうなんだけど、父さんよりもさらに強いみたい。
 そしておねえちゃんと似た名前のミサキも、同じ眼を持ってるというんだけど。この三人しか存在しないんじゃないかってくらい、珍しい能力なんだって。

 だからなのか、おねえちゃんはあっさり、大変なことを口にしました。
「ごめんね、猫羽ちゃん。私、結局、『ホンモノ』役でしか助けにいってあげられなかったよ」
「……え?」
「何回も言ったでしょ? 私がホンモノだって。もう、ミサキったらまだ不安定なのに、すぐ脱走して悪さをするんだから……可愛い美咲ちゃんには程遠いなあ……」

 今、咲姫おねえちゃんは、悪魔の気配も内側にあるけど……いつも通りのおねえちゃんです。
 「悪魔でボーン」は結局、ミサキとサクラおねえちゃんが、紫苑のおねえちゃんとつくったものみたい。ミサキが全員を代弁して伝話してたんだね。
 そしてわたしの目も、ミサキやおねえちゃんの眼で視た時と、鎌を使う時には紅いんだって。なーんだ……そうだったんだ……。

「私のやり残した宿題……だから、ミサキが片付けようとしたんだろうけど。でも猫羽ちゃんは、もう全部、思い出したみたいだね?」
「うん。わたし、大丈夫だよ、おねえちゃん」
 わたしのベッドに座るおねえちゃんの隣に行くと、おねえちゃんがぎゅっと抱き締めてくれました。
「もー、猫羽ちゃん、本当にいいコだぁー!」
 そんなこと言うけど、おねえちゃんの方がいいヒトなんだけどな。
 何度も死にかけた馨おにいちゃんも、いなくなった美咲も、みんなを助けようと走り回ってる。

 秘密を沢山持ってて、たまにちょっと手段を選ばずに、反則の悪魔になるだけだよね。
 それもおねえちゃんの、いいところだから。

 今日は泊まると言って、咲姫おねえちゃんは、一緒にお料理を始めてくれました。
 わたしは不器用で、細かいことが苦手なんだけど、おねえちゃんも似たり寄ったりです。お喋りをしながら、二人で苦戦します。
「そうだね、精霊のことを思い出したなら、今度は猫羽ちゃん、惣一(ソウイチ)さんとか妹さん達に精霊との話し方を聞いてみるといいよ?」
「え……精霊さんって、話せるの?」
 ソウイチさんは、事務所の三階に住む、家事担当のヒトです。所長の旦那だって馨おにいちゃんはいうけど、所長はべたべた甘えながら否定します。
「人間には難しいけど、猫羽ちゃんならいけるかも。あ、氷輪くんのこと、同じ吸血鬼の昴くんとかに一度相談してみてもいいかも」
 スバルっていうのも、三階に住んでるヒトで、二人共違う意味で話しにくいんだけど。
 人参を花型に切ろうとしながら、おねえちゃんはどんどん、色んな名前を言うのでした。

「後ねえ、里史くんや菜奈ちゃんだけでなく、美佐ちゃんや厚美ちゃん、正男君も学年が近いよ。時間が全然足りないね、猫羽ちゃん?」

 そうだった……おねえちゃんは、玖堂さんの養子だから……。
 玖堂さんの沢山の子供、みんなと話しをしようと思ったら、一年なんてあっという間に終わっちゃいます。

 わたしは、玉ねぎのせいで目を真っ赤にしながら、また今度、って……。
 この先の高校生活も、なかなか険しそうです。


-please turn over-

★6月;ユウウツ少年転落事件

★6月;ユウウツ少年転落事件

 泥々したお仕事プラス心配事は、イコール、ユウウツです。
 多分誰でも、そうなるよね……。
 お仕事だけでもしんどい内容なのに、大事な人がいなくなっちゃって、気が気でない状態なんて……。

 咲姫おねえちゃんと馨おにいちゃんが話してた、わたしの兄さんの異変。
「そうなのよ……ツバメくん、連絡もすっぱり絶っちゃったみたいで、流惟ちゃんがまた動揺してて……」
 兄さんは本当に、危なっかしいんです。母さんも昔から、兄さんのことではずっと気を病んでるんだから。
「猫羽には言うなよ。あいつ絶対、心配するからな」
 二人には内緒だけど、わたし、所長から二人に渡されてる仕事用電話は、お話が聞こえるようにされてるんです。
 二人がひどくさぼってないか、教えて下さいねって言われてるの。
 だからなるべく考えないようにしてた兄さんのこと、行方不明だって知っちゃって……。

 同じ時期から、ずっと休んでる氷輪くんも、居場所がわからなくて。
 みんな、絶対に、ただ事じゃないから……バイトの時間中もずっと、悪魔のPHSを握りしめてます――


* * * 


 兄さんに何か、あったんだ。
 というのは、その「兄さん」を見た時に、一目でわかりました。

「……久しぶり、猫羽」

 暗い川辺の夕暮れ、風流じゃない鉄骨の橋の下で。立ち尽くすわたしの前に降り立った、真っ黒なシルエットのヒト。
 短い銀色の髪と、空ろな金色の眼。左腕に黒いバンダナを巻いて、痩せた体に袖のない黒い服を着込んだ姿……兄さんより少しだけ若い、「兄さん」がそこにいます。

 いつもの金髪と違う、銀髪の「兄さん」。まさか「兄さん」に会えると思わなくて、呆然とするわたしに、そのヒトは優しそうに微笑みました。
「――怖がらないの? オレには気を付けろって、あちこちから言われてるだろ?」
 驚いてても、怖くなんかないって、わかってるはずの「兄さん」。
 そもそも、兄さんが氷輪くんに高校でのわたしのことを頼んだって、教えてくれたのは「兄さん」なんだから……。
 わたしはじっと、故郷からここに来た時にも会った「兄さん」を、よくわからずに見つめることしかできません。

 それは、「兄さん」と初めて会った時に、突然放り込まれたおかしな世界でした。
 慣れない町で、下宿の場所がわからなくなって、道に迷っちゃったわたし。そしたらどうしてか、気が付いたらわたしは、振り出しの高校に戻ってて……。

 その時、クスっと、不意に声をかけてきたヒト。
――一人で帰らずに、アイツと帰れよ。アイツは猫羽を、見守るためにいるんだから。
 振り返ったわたしに、氷輪くんを探せと、黒ずくめの「兄さん」がそこで微笑みました。
 わたしにとっては懐かしくて仕方ない、まだあどけなかった頃の声で……。

「……時雨(しぐれ)、兄さん……」
 まるでわたしと同年代の、時間の止まった少年の「兄さん」。
 ツバメ兄さんと同じ顔で、魂も体も同質の存在。だからこそ、ここにいるはずのないもう一人の「兄さん」に、わたしはとまどうばっかりです。
「どうして……ここに、来たの?」

 どっちかというと、無愛想なツバメ兄さんよりも、空っぽな笑顔を浮かべる時雨兄さん。質問の声をしぼり出したわたしに、いっそう空虚な顔で笑いました。
「当ててみてよ。猫羽、探偵になったんだろ?」
 少し前から、気の重い仕事を任されたので、この大きな川をうろうろしてたわたしです。
 そこに急に現れた、時雨兄さん。今までずっと、ツバメ兄さんよりもっと、わたしに関わろうとはしなかったのに。

 わたしには兄さんが、多分三人以上います。みんな元は、同じ兄さんなんです。
 その中で一番、会っちゃいけないと言われる時雨兄さん。夕闇の中の黒い姿に、わたしは精一杯のこたえを返します。
「わたしに何か――心配があるの?」
 時雨兄さんをまっすぐに見ながら、眉をひそめずにいられないわたしに、時雨兄さんはクスっと小さく(わら)ったみたいでした。

 それは、「神隠し」とでも言えばいいのかな。
 人間世界では意味が違うかもしれないけど、起こることは似てます。誰かが急に、世界からいなくなっちゃうんです。
 兄さんと何度も離れ離れになったわたしだけど、最後の一回が神隠しです。その時いなくなった姿のままなのが、この時雨兄さん。
 そこからちょっと、別人になって帰って来たのがツバメ兄さんで……神隠し前の、本来の兄さんを合わせて、わたしには三人以上の兄さんがいます。

 ツバメ兄さんは、氷輪くんという悪魔に拾われたから戻ってこれた。でもそういう意味では、時雨兄さんの方が、本来の銀髪の兄さんに近いのかもしれません。
 サツリクの天使だったわたしを助け出してくれた兄さん。無茶ばっかりして、神隠しにあう直前はもうぼろぼろで、みんなには死んだって思われてました。
 氷輪くんが手を差し伸べてくれなければ、ツバメ兄さんとしても帰ってはこれなかった。神隠しで常闇の存在になってしまった、時雨兄さんだけが残ったはずです。

 ツバメ兄さんへの皮肉みたいに、時雨兄さんが冷ややかに笑います。
「心配はそりゃ、してるよ? 今は誰も、猫羽をしっかり守ってはくれないものな」
 ツバメ兄さんには、守るものが沢山あります。主の氷輪くん、連れ合いのツグミや、その身内のみんな。だからもう、わたしばかりを守ってもらうわけにはいかなくって。
 時雨兄さんの方は、本当はわたしに会っちゃいけません。ツバメ兄さんがいるこの世界では、時雨兄さんの存在は何というか、反則なんです。

 この時のわたしは、ツバメ兄さんが行方不明って知りませんでした。馨おにいちゃん達の話を聞いちゃったのは、下宿に帰ってからのことです。
 でも時雨兄さんは、ツバメ兄さんを敵視してます。それはもう、ずっとずっと前からです。
 だからわざわざ、時雨兄さんがこうして現れるなら、ツバメ兄さんにとっては凶兆のはずで……。

 淡く首を傾けて、わたしを憐れむような時雨兄さんが、やっと目的を口にし始めました。
「仕事……大変そうだよな、猫羽」
 それは多分――ツバメ兄さんなら、絶対に言わないようなこと。
「オレならその仕事……手伝ってやれるけど?」

 ぽつぽつと、時雨兄さんがこの世に降りたことを示すように、黒っぽい雨が降り始めました。
 時雨兄さんの言葉の意味を感じて、わたしが何も言えないでいる間に、にわか雨の勢いがどんどん強まっていきます。
 それから一言二言、時雨兄さんと僅かな話をした後には、もう橋の下から出れないほどの大雨になってました。


 時雨兄さんはそのまま、降りしきる雨の中へと消えてしまって。
 雨宿りするしかないわたしは、突然の黒い雨が過ぎていくまで、水も平気なPHSを眺めてることしかできませんでした。

 時雨兄さんに会った。というのは、わたしは誰にも言ってません。下宿に帰れなかったあの日に、初めて会った時のことも。
――オレがいるってばれたら、猫羽にはもう会えなくなるよ。
 時雨兄さんがそう言ったから、言えなかった。
 神隠しにあった時雨兄さん。本当はそのまま、言葉通り隠されてなくちゃいけないんです。
 ツバメ兄さんとして、戻ってきたことの方が奇跡でした。でもわたしは直観のせいか、暗闇に取り残された時雨兄さんの存在も、いつかに気が付いちゃったから……。

「時雨兄さん……何をする、気なの……?」
 同じ時に、有り得てはいけない、二人の兄さん。
 ツバメ兄さん、ごめんなさい。それが兄さんにとって、危険なことってわかってるのに、わたしは黙ってました。

 どうすればいいのかな、わたし。
 やっと雨がやんで、家に帰って、それから兄さんが行方不明っていうのをこっそり聞いてしまって……。

 今のわたしは、みんなに秘密だらけです。
 馨おにいちゃんや咲姫おねえちゃん、ホナミやユイ、サトシにも話せない。
 ツバメ兄さんと取引をしたはずの氷輪くんも、すっかり高校に来なくなって、兄さん達に心配だけがつのる毎日。
 そんな中で、わたしにできることは、与えられた気の重い仕事に全力をかけることくらいです。


 この仕事は、猫羽ちゃんにしかできません。所長にそう言われた時に、嫌な感じはすぐにしました。
 数日前の夜に所長は、看護師の日勤のお仕事が終わってから、その女の人を連れて事務所に帰ってきました。
真羽陽子(まはねようこ)さんです。この方の依頼は、猫羽ちゃん、貴女が一人でお願いします」

 ガレキの上に、クセ毛の茶髪でミニスカートの女の人を座らせてから、所長は坦々とそう言いました。
 多分最近、探偵部門の馨おにいちゃんが警察の捜査協力で忙しいから。おにいちゃんは警察さんに知り合いがいて、よく助けてくれと言われるんです。
 だからわたし一人なのかと思ってたら、所長の空気が、いつもと何処となく違いました。

「誰の力を借りても良いですが、主導は貴女がして下さい。進捗の報告も同様です」
 あれれ。わたしがメインでって、すごく強調した所長は、笑顔だけど目が笑ってません。
 メインがわたしなら、お給料も受付けの時給に加えて、依頼料のほとんどがわたしにくるはずです。その意味を考えて、わたしに冷や汗が走ります。
「期限は特にありませんが、依頼料は変わりませんので、長引けば貴女が損をするだけです。それでは後は、依頼人にお話をきいてください」

 早い話、所長は、自分にはできないとお手上げみたいです。
 どうしていったい、どんな依頼が、それでわたしに回ってくるんだろう?

 所長が四階の自室に行ってしまってから、依頼人の女の人は、気さくそうにわたしに笑いかけてくれました。
「初めまして、真羽っていいます。あなたが、棯猫羽さん?」
 真羽さん、まだ二十代前半じゃないかな。お化粧が濃くて大人びて見えるけど、笑った顔が何て言うか、いたずらっぽくて。
 でもどうして、わたしの名前を知ってるんだろう。そう思ってたら、驚く名前がここで出てきました。
「氷輪くんって学生さんが、あなたの事を教えてくれたの。あなたならきっと、私の心を晴らしてくれるって」
「……え?」
「暗い話になっちゃうんだけど、ごめんね。依頼は、私の弟――勝一(しょういち)が、六年前に自殺した件について、調べてほしくって」

 すごくからっとしてるのに、真羽さんはあっさり、とても重い単語を口にしました。
 実の家族……弟さんの自殺。それについての、調査の依頼。
 どうして微笑んだまま、そんなことが言えるんだろう。呆気にとられたわたしに気付くように、真羽さんが苦笑しました。
「ごめんね、警察では自殺ってされちゃったんだけど、私は今でも信じてないんだ。だから今更だけど、もしもわかるなら、真相が知りたくなっちゃったの」

 ここでわたしは、真羽さんがあえて笑ってることに気が付きました。
 内心にはとても、大きな怒りと後悔。それを隠そうとして、さらりとしてるんだって。

 真羽さんはアクセサリーをいくつか着けていて、派手に見えるけど、そんなにお金持ちではなさそうです。
 大きなカバンはお洒落じゃなくて、客に見せない物は安物でいいの、と後で言ってました。
「遺体は見つからなくて、でも自殺だろうって言われちゃったから、両親はそれから今までの家に住めなくなったの。近所の人から私も未だに、ちくちく言われることがあるわ」
「…………」
「いじめとかは本当になくてね、家庭での問題だろうって言われたのよね。まあその頃は、私もやんちゃしてたから、子供がぐれるような育て方したんだろうってさ。知りもしないで、世間は勝手な事を言うわよねー」

 暗い話を、気丈に語る真羽さんです。
 世間体を気にして、引っ越しちゃったご両親とは別に、真羽さんは今も同じ家に住んでるみたい。
 でも当時から、思うところは色々とあったようでした。

「勝一には最初、可哀想というより、腹が立って仕方なくて……でもそれは、自殺と言われたからだって、後で気が付いたの。あの頃はわけがわからず苛々したり、でもいつまでも悲しかったり、私もすごく混乱してたわ」
「……」
「今は思うの。勝一が、自殺なんてするわけない。うちはそこまで、壊れてなんかいなかったって」
 その時の真羽さんは、まっすぐにわたしを見つめていて――
 その目を見るだけで、わたしも何故か、うなずきたくなっちゃいました。

 六年前に死んでしまった、弟さんの真相。少ない貯金をはたいてでも晴らしたいその心。
 こんなお姉さんがいるのに、弟さんが自殺したなんて、わたしもちょっと信じられない。
「あなたは人の気持ちがわかるって、氷輪くんが言っていたから……どうか私に、勝一の本当のところを教えてほしいの」

 調査期限はなしの、六年前の事件。
 この依頼をきっかけに、わたし自身の周りのことも、大きく動き出し始めます。


* * *


 わたしにしかできない……というより、わたし向きらしい仕事。
 過去に亡くなった人の事を調べ直すといった内容は、所長や馨おにいちゃんは苦手分野みたいです。
「詳細な占いの結果を伝えることはできます。でも依頼人は、現実的な調査をしてほしいとのことなんです」
「俺は正直、そこまで時間がねぇ。六年も前のことになると、まずは聞き込みから始めるしかないけど、それもこの件は範囲が広過ぎるしな」

 馨おにいちゃんは、できなくはないけど、要所だけ手伝ってもらうことにしました。
 というのも、過去の情報収集が重要なら、この場合はわたしの方が適してるんだって。
「まず、思い出せる奴が少ないはずだ。猫羽は話を聞くたび、相手の気配に意識を集中させろ。本人が思い返すこと以上の情報を、そこから引き出せ」
 だからわたしが――何となく人の心がわかるわたしの直観が一番だと、馨おにいちゃんが面倒そうに言います。
 ちょっとでも何か、相手の意識の中に引っかかる部分があったら、そこをつっこめってことみたいです。

 でもそれ、しらみつぶしに聞き込みをしなきゃいけない点では、苦労は変わらないと思うんだけど。
「目撃者が見つかるかどうか自体は……結局、運だよね……」
 ぽつりと、事件の現場になった川面を見つめて、わたしはついグチっちゃいます。

 事件の全容は、あれからじっくりと、真羽さんに教えてもらいました。
「六年前の、台風の後の日よ。雨が残って川がとても増水していて、でも警報が出るほどじゃないから、勝一はいつも通りに高校に行っていたわ」
 弟さん、勝一くんは、中学までは成績優秀だったみたいです。
 でも難関高校に入ってからはふるわなくて、やる気をなくしちゃったみたいで、その日も本当は塾があったけど、さぼってそっちには行ってなかったとか。
「私もその頃はたいがい、午前様でね。勝一はよく、嫌そうな顔で、夜中でもお帰りって言ってきたけど……あの日は勝一がいつまでも帰らなくて、日付が変わる頃に私が帰ったら、焦った両親がずっと待っていたの」

 そこで陽子さんは、勝一くんを探しに出たというけど、その先で見つかったのが悲しい遺物――
 勝一くんの通学路の川辺で、揃えられた勝一くんの靴とたたまれた学生服の上着、その上に置かれたカバン。
 そこから少し離れた位置に、勝一くんの傘が、開いたまま転がってるって状況でした。

「警察に捜索願を出したんだけど、結局、勝一は見つからなかった。しばらく後に、DNA鑑定までした体の一部……数キロ先に流れ着いていた、右手一つだけを除いて」
 警察は沢山、川底の捜索をしたそうです。
 でも元々大きな川の上に、台風で増水してて、土砂やガレキもいっぱい流れたみたいで、勝一くんの遺体は見つからなかったのでした。
「死体が上がらなかったことも含めて、溺水だろうって結論になったの。そんなことはすごく珍しいらしいんだけど、右手が腐ってから千切れるほどの衝撃を水中で受けたら、遺体はその瓦礫や土砂に引っかかって、川底に埋もれてしまったんだろうって」
 普通は、おぼれて死んだ人も、殺されて沈められた人も、時間がたてばほとんど浮いてくるらしいです。
 でも生きてる間に川に入って、肺に水が入ると、少し浮きにくくなるみたい。川辺に荷物があったことからも、勝一くんは自分で、増水した川に入ったんだろうって。
 だから、自殺。それで事件は終わってしまったようです。

「でもさ。確かにアイツ、成績不振でウツウツしてたけど、遺書の一つも残してないのよ。昨日も部屋を調べ直してみたけど、やりかけのゲームだって残ってたくらい」
 高校での人間関係も、大きな問題はなかったと真羽さんが言います。
 そこは昔に、自分で聞いて回ったみたい。それに勝一くんは、大人しくいじめられるタイプじゃないとも言ってました。
「こう言っちゃなんだけど、勝一、本気で死ぬなら、どろどろとした遺書を何通も残すような子だと思うわ。見た目は地味だけど、中学までは友達も多かったし、私が夜中に帰るたびに、敵意満面でお帰りって粘着に言ってきたんだから」
 ……それは、ううん、どうなんだろう。
 お姉さんが帰るまで、待ってる点では、優しい人だよね? わたしはそう思うけど。

 でも、自殺に思えないって真羽さんが言うのも、よくわかりました。
 何となくだけど、自分で死のうと川に入るなら、靴やカバンはともかく、上着まで置いてくのは不思議な気がする。
 開いたまま離れた場所にあったって傘も、最初は靴やカバン、上着を守るために、そばに置いてたんじゃないかな? 風とかに吹かれて、移動しちゃっただけで。
 それは荷物も服も、濡らす物は最低限にしたかったってことだよね。自分で死んじゃう人なら、そんなこと、気にするものなのかなあ。

 勝一くんが靴とカバンと上着を残した川辺に来てみて、わたしはすぐにそう思いました。
 でもそれ以上の推理も、手がかりも何もないです。
 そこからはひたすら、その川辺の付近に住む人、通りがかる人に、六年前の増水について聞いて回る毎日なのでした。

「もう五日かあ……さすがに、疲れたなあ……」
 探偵のお仕事って、実際は本当に地道なんだね。警察もそうだっていうけど、六年前にも目撃証言は、一切得られなかったんだって。
 まず雨で視界が悪かったし、靴とかが置いてあったのも橋の下側で、人に見えにくい場所から勝一くんは川に入ったはずだから。
 泳ぐにはちょっと寒い季節のはずだけど、勝一くんは水泳もわりとできたって真羽さんが言ってました。

 成績も良いし、真面目で運動もそこそこできて、ご両親には期待の息子さんだった。
 対してお姉さんの真羽さんは勉強も学校も嫌いで、両親からも特に怒られないし、好き勝手に過ごしてたみたいです。
 でもこの事件の難しいところは……六年前っていうことに加えて、どうしたら解決なのか、わからないのが一番かもしれない。
「何がわかれば、解決なのかな。勝一くんが、どうして川に入ったか、かな?」

 誰か人が通りかかるまで、橋によりかかりながら、PHSを手にしてわたしは一人でぼやきます。
「自分で死のうと思ったのかな。それとも、落し物でもしたのかな」
 勝一くんの持ち物は一応全部、カバンにあったみたい。ご両親が知る範囲ではだけど。
 最悪の場合、殺されたってことも有り得るのかな。他はもう、今は思いつかないなあ。

 見つかった右手は、断面からは、挫傷と腐敗による分離だろうってことです。
 殺されてから川に捨てられたなら、もっと鋭利に切られて、手だけじゃなく他の部位もバラバラにされてるんじゃないかっていうし。
「じゃあ誰かに、川に突き落とされたとか?」
 もしも一番、自殺以外にわかりやすいこたえがあるとしたら、それだと思うんだけど。
 それがわかったら、真羽さんの心は楽になるのかな? ……あんまり、ならない気がするな……。

 自殺でも他殺でも、辛い事件であることに変わりはないよね。
 なのでわたしは、聞き込みを続けてこたえを考えるだに、気分が重くなっちゃうわけです。

 残された勝一くんの上着やカバンからは、ご両親や同級生の指紋が出ただけで、不審な点もなかったって言うし。上着も手早くたたまれていて、折り目にしっかり勝一くん自身の指紋が残ってたんだって。
 それだと事故の線も薄くなっちゃいます。勝一くんは何かの理由で、川に入るために上着と靴を自分で脱いだってことだもの。

 台風の後の川に入るなんて、それだけで自殺行為だよね。
 塾をさぼって、家にも帰らず雨の川にいた勝一くんは、その時何を考えてたんだろう?
「勝一くんの、ほんとのところ……かあ……」
 ひょっとしたら、自分で死んじゃったかもしれない高校生の男の子の、迷宮入りの心の中。
 黒っぽくきらきらする川面を見るわたしが、重ねてどうしても考えてしまうのは、今まで自分を傷つけるような無茶ばかりしてきた兄さんの姿でした。

 手がかりが全然見つからないから、わたしもウツウツしてたところに、この間は時雨兄さんまで現れるし。
 学校に来ない氷輪くんや、連絡が取れないってツバメ兄さんを探しに行きたいのに、バイトがあるから気が引けちゃうし。
 橋を通りがかる人達は、ほとんどこの町の人だけど、六年前に死んだ高校生がいることすら知らない人ばっかりです。
 もうちょっと、場所を変えてみた方がいいのかな。でも――何処に?

 関係があるかはわからないけど、というか、全然ないような気がするけど。
 台風で、ガレキも沢山流れてたっていうのは、何処から流れてきたのかな? と、ふと、わたしは思いました。
「もしかしたら、流れてきたガレキに、気になるものでも見つけたのかな?」
 勝一くん自身は、落し物はしてないみたいだけど。もしや、欲しかった物が流れてたから拾いに入ったとか、そんな可能性もなくはないかな?
 普通はそんな、増水した川に入ってまで取ろうとはしないと思うけど……勝一くんはゲームとかを買うのも一苦労だったと、真羽さんが言ってたんです。

――うちの親、携帯だって持たせなかったくらいだから、勝一には変に厳しくってさ。

 だからそれで、こっそりお小遣いを貯めてまで買ったゲームを、やりかけで残してくのは不可解なんだって。
 勝一くんは、ご両親が思うほどには、真面目じゃなかったってことでもあるよね。
 それならちょっと、気分を変えて、どんな物が流れてたのか調べに行こうかな。
 川沿いにお家がある人達に聞けば、多分少しはわかるよね?
 流れてきたことを考えると、ここより上流に向かいながら、一軒ずつ聞いてみるのが良さそうかな。

 新しい方向性を思いついて、やっとちょっと、気分が軽くなりました。
 真羽さんにも、勝一くんが欲しがってたものがないかとか、もう一度お話聞いてみようと思います。

 真羽さんにがんばって、スマホでメールを打ちます。
 この町に来る前も、PHSでメールは打ったことがあったから、わたしはメールの方がまだ使えるんだけど、どうせならラインをした方がいいよってみんなに言われます。

「……PHS……メール、かあ……」
 あ、いけない……この間、時雨兄さんが言い残してったこと、また思い出しちゃった。

――オレならその仕事……手伝ってやれるけど?

 時雨兄さんはあの後、どうしても困ったら「伝話」しろって、わたしに連絡先を教えていきました。
 だからわたし、何度もPHSを見つめちゃってます。それはダメだって、その都度自分に言い聞かせるんだけど。
「時雨兄さんに頼ったら……きっとわたしも、悪魔になっちゃうよね……」

 時雨兄さんの「力」なら確かに、この事件を、一瞬で片付けられます。それはわたし、わかってるんです。
 神隠しにあった時雨兄さん。ここに有り得てはいけない、闇の中に棲むヒト。

 悪魔よりさらに禁断の存在が、多分神様です。ただの人間のわたしが、時雨兄さんと深く関わることは、神様の領域に踏み込むことを意味してるから。
 そうなったらわたしもいよいよ、人間ではいられなくなる気がします。
「でも……会いたいよ、時雨兄さん……」
 どうしようもないです。この心だけは、わたしだって抑え切れない。
 だって、わたしを長い長い暗闇から連れ出してくれたのは、時雨兄さんなのに……。

 でも、忘れなきゃって、真羽さんへのメールを必死に打ちます。
 わたしは人間として生きるためにここにいる。そのためにこのバイトをしてるんだから。

 メールを送って、川沿いの道に上がると、辺りはもう大分暗くなってました。
 陽が落ちるのは遅い方の季節だけど、空が曇ってきちゃったみたい。雨が降り出す前に、今日は切り上げた方が良さそうです。
 最近は高校が終わった直後から、このお仕事に集中していいって、受付けの方は六時半から一時間だけです。長引けば長引くほど、受付兼門番の時給が減っちゃいます。もっとお小遣いを貯めてユイやホナミと遊びに行ってみたいし、がんばらなくちゃだね、わたし。

 だからこんな――時雨兄さんの悪のささやきなんて、考えてる場合じゃないんです。

――オレならずっと、猫羽のそばにいられるけど?

 土砂降りの雨の中、橋の下で立ちすくむわたしに、優しく言い残していった声。
 それを思うたびに、わたしを見下ろす空模様も、泣き出しそうに黒くなってくのでした。


* * *


 世の中って本当に、色んな人がいるな。川上に向かって、六年前にどんなガレキが流れたのか聞き込みを始めたわたしは、強くそう思いました。
「六年前? あーわかるわかる! 自転車とか看板とか色々流れてたよ、あの時はすごかったよ、わかる!」
「は……六年前……? 何でうちに、そんなことをきくんですか……?」
「六年前かはわかんねーけど、台風の時はそういや、砂防が決壊した日もあったっけな?」

 すごく快く、記憶力も良くて、色々なことを教えてくれた猫屋敷のおねえちゃんとか。ピンポンを五回くらい押してやっと出てきてくれて、でも覚えてない。の一言だった、お昼なのに真っ青で幽霊みたいなおばさんとか。
 六年前も去年も変わんねーよ! って、ガハハと笑ったおじさんとかは、何か不快なことを話の途中に思い出したみたいで、急に不機嫌そうになりました。

 わたしはおじさんのその引っかかりが気になって、さらに詳しく聞いてみたんだけど。
「わたしみたいなことを聞いてきた人、他にもいたの?」
「え? ああ、そうなんだよ、ったく。あいつらも嬢ちゃんみたく、可愛くきいてくれりゃいいのにな!」
「?」
「警察なんて偉そうな奴らばっかりだぜ、ったく。何でおれが、近所に土砂が流れたからって、散々詳細聞かれなきゃなんないんだよ!」

 おじさんは一応怒ってるけど、それは結構、数年以上は遠い時間を思う感じでした。
 それに加えて、警察という単語。この近辺で何か事件があったの? と続けて聞くと、これまでで初めての、きっと勝一くんに近い情報が返ってきました。
「いつかの台風の次の日だよ、あれ。まだ雨がえらく降ってて、台風で傷んだ古い砂防が決壊したってんで、土嚢積みにかりだされてさ。あの日はもう台風行ってみんな油断してたから、川辺にいるバカも沢山いたっつうの」
「さぼう……って、何?」
「こういう川はさ、もう少し上の方で、小さなダムが山からの土砂をくいとめてんだよ。それが壊れたから、下手したら土石流がくるぞって、あんときゃ大慌てでなー」

 おじさんはそこで沢山お手伝いをしたことを、数日後に来た警察さんにも言ったのに、そんなことはいいですから、って冷たく言われたみたい。
 がんばったのに、それでむかむかしてるんだね、きっと。
「警察さんは、何を聞きに来たの?」
「え? ああ、確か、どの辺に土嚢積みに行ったか、高校生がその辺にいなかったかとか、そんなんだったかな。雨なのに凄い急いで自転車こぐ変なねーちゃんはいたけど、それ以外はおれみたいな、町内会員ばっかりだったよ」
 おじさんがかりだされたのは、勝一くんのいた橋より上流みたいです。
 壊れた小さなダムのガレキは沢山流れたけど、土石流はその後、思った程には来なかったんだって。

 おじさんの家を出た後、うちの事務所に電話しました。
 事務所の三階には、パソコンがすごく得意なヒトがいるから。この川の「さぼう」が壊れたのが六年前かどうか、調べてもらおうと思ったんだ。
 答えは早くて、それは見事、勝一くんが行方不明になった六年前の日でした。
「ありがとう、(すばる)おね……おにいちゃん」
 ガレキは多分、沢山流れてただろうって。他にも桟橋や堤防の弱い部分が土石の影響で崩れて、人間の事故はほとんどなかったけど、全体の損害額が大きかったみたい。

 スマホを切ってから、何だか最近は、悪魔さんにきけることが少ないなと思いました。
「人間のことは、人間にきかなきゃ……なのかな?」
 誰の力を借りてもいいって言われたけど、時雨兄さんのことは、なるべく考えちゃいけないし。
 人間世界の戦いは、悪魔さんとかとは少し、違うところで起きてるみたい。力を借りることが減ったなあって、そんな風にわたしは感じてきてます。

 ある意味、勝一くんのことが他人事じゃなくて。今日はわたしも、実は高校のテスト期間に入って、それで昼間から聞き込みができてるんだ。
 テストの方は、もちろんダメダメです。わけがわからなさ過ぎて、教室を出たくなっちゃったくらい。
 これ、人間世界に無知なわたしは覚悟してたけど、それでもちょっと辛かったな。何か、自分が無力だって、つきつけられてるような気がするの。
 それなら、元々賢かったって勝一くんは、成績が落ちたらどれだけ辛かったんだろう?

 次のお家に行こうとしたら、真羽さんからお返事がありました。

――遅くなってごめんね!ヾ(*´▽`*) 勝一が何か、欲しがってなかったかって件だけど、さすがにそれで川に入るバカな子じゃなかったと思うわ!(f^_^;)

 真羽さん、夜中まで働いて、小さな息子さんを一人で育ててるんだって。夕方からお仕事だっていうから、昨日は電話せずにメールをがんばったんだ。
 メールが何だか可愛いな、いいな。子供さんがいたら、こんなの喜びそうだね。

――それで思い出したんだけど、アイツ、私を見るだに『誰かさんのせいで猫が飼えない』と恨み言を言ってたの(廿_廿) 猫を飼いたがってたけど、親が勝手に私を猫アレルギーにしたみたい(▼Д▼#) まあこの家新築だし、傷を付けたくなかったのはわかるけどね!

 あ、そっか。猫さんは爪とぎとかをするから、普通のお家じゃ飼えないんだよね。
 わたしは治安のいいきちんとした所を下宿に選んだら、たまたま猫さんもOKだったんだけど。人間の世界って、こういう細かいルールが沢山あって大変だよね。

 そう言えばさっき、おじさんよりも前に聞き込みをしたお家は、猫だらけでした。
 あれは大丈夫なのかな。そう思いつつ、聞き込みを続けてたら、他にも猫さんのいるお家がありました。
「六年前……? さあ……私はその後、引っ越してきたから……」
 何だか顔付きが暗い、長い三つ編みのお姉さんです。
 でも少し、不思議なことがありました。お姉さんが抱いてる猫さん、さっきのお家の猫さん達と、何だか模様が似てるような……。

 どうしてなのか、無性に気になったわたしは、事件に関係ないことをお姉さんにきいちゃいました。
「この川沿いは、猫さんを飼ってるお家は多いの?」
「ああ……そうかもね……この辺は猫OKにしては、安い貸家ばっかりだったから」
 そこでちょっと、暗い顔のお姉さんが微笑みます。
 お姉さんは猫が飼いたくて、このお家に引っ越したのかな。きっと猫が大好きなんだなって、そんな笑顔でした。

 急な訪問のお礼を言って、お姉さんに背中を向けた瞬間、わたしの目にふっと――
 入り口の横に立てかけられた、とてもボロボロの自転車が、何故か変な衝撃と共にわたしの視界を占拠しました。
「……――え……?」
「――?」
 門から出ずに立ち止まったわたしを、お姉さんが不思議そうに首を傾げて、後ろから見つめてるのもわかります。

 おかしい、わたし、自分と何かがごっちゃになってる。これはわたしの心じゃない、でも確かに、その自転車を見てわたしはすぐに思ったのでした。
「これ……見たこと、ある……?」

 脳裏をよぎったのは、視界の悪い雨の中、傘もささずに必死に自転車をこぐ三つ編みの姿。
 これは違う、わたしの記憶じゃありません。
 でもそれなら、誰の記憶なんだろう。お姉さんが見えてる光景なんだから、お姉さんの記憶じゃないはずだし……。

 家の裏にある川を、下流に向かって川沿いを走る、必死な顔色の自転車のお姉さん。その苦しい息遣いだけは、今後ろにいるお姉さんから、直接感じる辛さでした。
 それを思い出してるから、お姉さんは暗い顔をして、わたしの直観にもしんどさが伝わってるんだ。でも何で今、そんなことを、お姉さんは思ったんだろう……。

 一つ気になることができると、連鎖的に、色んなことが気になってきました。
 お姉さんの家を後にしてから、わたしはもう一度、さっきの猫屋敷のおねえちゃん家に行ってみることにしました。
「……関係あるかは、わからないけど」
 そもそもずっと、雲をつかむような調査だから。
 今はわたし、とにかく動いてないと、すぐに兄さん達や氷輪くんのことを考えてしまって……。
 そのままきびすを返して、何度も聞き込みに回るわたしなのでした。


 この五日間、テスト勉強なんてさっぱりしてないけど、聞き込みをした後に事務所で受付けもすると、もう毎日くたくたでした。
 下宿に帰ったらお風呂に入るのが精一杯で、ここのところ、夜ご飯があんまり食べれてません。
 それはダメって、兄さんの痩せた姿を見てるからわかってるんだけど。兄さんは人間じゃないから、ご飯を食べれなくても何とかなるけど、わたしはそういうわけにはいかないんだから。

 兄さんはもう、随分前から、ご飯を食べられないヒトになってます。
 ツバメ兄さんも、時雨兄さんも同じです。神隠しにあう前から、ずっと兄さんはぼろぼろだったんです。

 もしかすると、自分で死んじゃったかもしれない人、勝一くん。
 わたしがどうしても重ねてしまうのは、兄さんの姿。わたしと同じ直観を持って、でもわたしより鋭くて、誰かの痛みも自分の痛みに感じちゃう兄さん。
 わたし以上に自分と周囲がごっちゃな兄さんは、自分がどうでもいいみたいに、誰かを助けることばかりやってきました。それで消耗しても、体が悪いから何も食べれないんだって、自分では思ってるけど。

 でもわたしは知ってるの。兄さんは自分が大嫌いだったんです。いつも消えたいって思ってるから、ご飯がいらなくなったんだって。
 神隠しにあったのも、兄さんが自分で望んだこと。
 サツリクの天使だったわたしを助けるまでは、兄さんも気が張ってたみたい。その後はみるみる弱って、それまでの無理がきちゃいました。
 自分も人も、痛いのが辛くて、何とかしようと動き回るのに。望むほどに強くないのが、兄さんは嫌だったんだと思う。わたしが小さい頃に攫われて、その時も守ろうとしてくれたけど、子供には無理な話だよね。
 勝一くんも、成績優秀でいたかったのかな。それなら兄さんみたいに、自分が嫌いになっててもおかしくないかもしれない……。


 近くの聞き込みを終えた頃には、もう夕方でした。勝一くんの遺品があった橋の下……この事件の出発点に戻ってきました。
 ぐったりと、座り込んじゃいます。頭の中がぐるぐるして、何も知らない六年前とわたしの心が、何とかつながろうと四苦八苦してる。
 歩きっぱなしだったし、心も体も、へとへとだって悲鳴をあげてます。

 わからないんです。勝一くんがどんな気持ちだったのか。
 もしもわたしだったら……わたしが自分で死にたい時って、どんな状態だろう。
 今よりさらにクタクタになったら、そう思うのかな。楽になりたい、病気とか借金とか何かの理由で未来が怖いと、死んじゃう人も多いって所長が言ってたけど。
「わたしは……死んじゃいたいとは、きっと思わないな……」

 兄さんと違って、わたしは、消えたいと望んだことはないんです。
 わたしと兄さん、何が違うんだろう。ただの人間のわたしの方が、みんなの足手まといになることも多いのに……わたしは別に、わたしが嫌いじゃないんだ。
 違いって言えば、それくらいしか思い浮かばないな。わたしも兄さんも、直観の影響だと思うけど、誰かが嬉しいと嬉しいのは同じだから。

 わたしも兄さんも、自分自身が何をしたいかって聞かれたら、ちょっとこたえに困ります。大事な人達を守りたいし、何か役に立ちたいけど、それ以外が思い浮かばないんだ。
 やりたくないことなら、わたしはわかるよ。兄さんはそれすら自覚してなかったけど、最近は大分ましになってきました。

「勝一くんは……勉強は、やりたいことだったのかな……?」
 そう言えば、真羽さんは何で、真相を知りたいんだろう?
 勝一くんが自殺だって、思いたくないってことだよね。わたし、勝手に納得してたけど、何で自殺だって思いたくないのかな?

――うちはそこまで、壊れてなんかいなかった。

 真羽さんの声を思い出します。あっけらかんとして、意志の強さもそこそこありそうな、とても普通で気丈な感じでした。
 自殺する人がいる家は、壊れてるのかな? 少なくとも真羽さんは、そう思ってそうだよね。

 ……うん。真羽さんの心を晴らすための依頼なんだから、もうちょっとお話を聞かないとダメだね。
 わたしの頭はまとまらないままだけど、またやるべきことを思いついて、少しほっとしました。所長にも途中報告のメールを送って、わたしは立ち上がります。

 体はとても疲れてるけど、まだまだわたしには、できることがあるはずだから。できることがなくなるのが、わたしは一番嫌だから。
 時雨兄さんと話すのは、それからでも遅くないから……このお仕事の本当の出発点へと、わたしは改めて足を向けたのでした。


* * *


 真羽さんのお仕事が何時からかわからなかったから、電話するのも気がひけて、試しにお家に行ってみることにしました。
 勝一くんの部屋も見てみたくって。考えてみれば、そこを調べずに、勝一くんのことは何もわからないよね。

 最初に会った日、馨おにいちゃんと一緒に真羽さんを送ったから、場所もわかってます。
 いなかったら諦めて明日にしよう。帰り道からそんなに離れてないので、ついでくらいのつもりでした。
 びっくりなことに、お家の直前で、事務所から電話が入りました。
「え? 今日は受付け、お休みしていいの?」

 さっき調べ物をしてくれた三階のヒトからです。所長に、わたしの代わりに受付けをやれって言われたみたい。
 何だろう、すごく不吉な感じ。わたしの違和感を裏付けるように、もう一つびっくりなことが起こりました。

「あ、棯さん! いらっしゃい、待ってたわ!」
 着いたお家でピンポンを押したら、連絡もしてないのに、真羽さんが一人で出迎えてくれて……。
 呆気にとられたままのわたしを、真羽さんはどうぞ、ってすぐに、お家に入れてくれました。

 あれれ、何かが色々、おかしい気がする。
 でも何がおかしいのか、疲れてるせいか、うまくまとめられません。
「真羽さん……今日は、お仕事は?」
 辛うじてそれを聞いたわたしに、何でもないことみたいに、遅出にしてもらったの! と笑う真羽さんでした。

 ダメだなあ、わたし、ちょっと疲れ過ぎてるかもしれない。
 頭がよく回らないまま、上がらせてもらったお家は、キレイな二階建ての普通そうな所でした。

 何でだろう、一歩踏み入った途端、知ってる気配が残る気がしました。誰だっけ、これ。あれ、わからないや。
 リビングでお茶を出してくれた真羽さんに、何をききたかったかも忘れるくらい、ぐるぐると混乱が強くなってきてます。

 まずはとにかく、勝一くんの部屋を、そのまま見せてもらうことにしました。
「え? いいけど、男の子だし、散らかってるからね?」
 わたしと真羽さん、二人だけが今、ここにいること。それは偶然じゃない、色んなヒトの思惑がある。冷たい階段を昇りながら必死に考えます。
 おかしいな、ちゃんとわたしと周りを分けないと、わかったことを整理しないと……。

 とりあえず所長は、わたしがここに行くことが大事って、判断したはずなんだよね。
 さっきの途中報告のメールで、事務所にはその後行くって送ったから、それを見て急にわたしをお休みにしたんだと思うし。
 それだけ何とかわかったところで、わたしは勝一くんの部屋の前まで来ました。
「母さんの希望で、ここはあの日のままになってるの。辛気臭いから片付けた方がいいって、何度も言ったんだけどね」
 今はここには住んでないご両親。真羽さんは気丈だけど、声には痛みがにじみ出てます。

 勝一くんの部屋は、真羽さんのまだ小さな子供さんが入らないように、普段は鍵がかけてあるみたいです。
 真羽さんが白いドアを開けてくれて、どうぞって促してくれたから、わたしはそっと部屋に入って……。

 暗い藍色のカーテンで、光が全然入らないくらい窓を閉ざして、よどむ空気が溜まったその部屋。
 一歩立ち入った瞬間、わたしはすぐに、泣き出しそうになっちゃいました。
「……!」

 足元で破裂した爆弾みたいに、いきなり噴き出した黒い闇に包まれます。
 これもおかしい。わかってるのに、わたしを襲う無遠慮な暗闇は待ったなしでした。
 こんなのおかしい。六年も前に亡くなった人の部屋で、霊感もないわたしが、わたし以外に侵されるはずなんてないのに――

 勝一くんの部屋に入った途端、わたしの周囲が、突然真っ暗になりました。
 パジャマが脱ぎっ放しで、あちこち埃がつもった部屋のことは見えてるのに、物以外が全部真っ黒に塗りつぶされてます。
「何……これ」
 こんな経験、わたしは初めてです。
 わたしの直観は、直接観るってぐらいだから、わかるのは「今ここにある」気配のこと。
 それなのに、ドアの方にいた真羽さんが見えなくて、まずドア自体も見えなくて……部屋の中の物だけが、黒い空間に浮かび上がります。

 これはいけない。わたしが見てはダメなものだと、それだけはわかります。
 この家に入った時に感じた、知ってる気がする誰かの気配。
 それがわたしに見せようとする反則……きっとここは、勝一くんがいた頃の気配を残す、昔の時間の部屋なんだって。

 人外生物と人間の境って、実はとても、曖昧なんです。
 人間にできないことをしちゃえば、わたしも人外生物です。直観はまだ、「空気読み過ぎる人間」としてギリギリセーフだって、氷輪くんに言われたことがあるし。
 人間には本来、その「共感」能力はあって、わたしや兄さんはそれが行き過ぎてるだけなんだって。
 でもこの黒い部屋は、人間を越えた何かが、わたしに見せているもの。
 そうしたところの影響を受ければ、わたしはあっさり悪魔になるって、自分でもわかってるんです。
 所長がくれた番人鎌を使うだけでも、わたしの目は、人間にない紅色になっちゃうのに……さらに全身が悪魔になっちゃったら、きっと色々困っちゃいます。

 たとえば悪魔専門の処刑人の、氷輪くんに狩られちゃうかもしれない。もう人間とは誰も、友達でも一緒にいちゃだめって言われるかもしれない。
 たとえば体の成長が止まって、兄さんみたいにずっと同じ姿になるかもしれない。
 わたしに関わる人達を、悪魔の世界に巻き込んじゃうかもしれない。そういうのは嫌だから、わたしは人間でいようって……会いたくて仕方ないのに、時雨兄さんにも頼らずに、ここまで自分でがんばって来たのに……。

 逃げる方法がさっぱりわからない黒い部屋は、立ち尽くすわたしに、そこにいたはずの人の声を届けようとします。

――何、で……――

 耳を塞いでも、全く無駄でした。
 今この時だけは、ここは六年前の勝一くんの部屋。その嘆きはダイレクトに、わたしに聴こえちゃいました。
 何で……って。とても疲れた誰かの声が、わたしに直接突き刺さります。

――何で、姉貴は許されてるのに……何で俺は、頑張らなきゃ駄目なの?

 暗い声が、わたしを縛り上げるみたいに、ただ体の全部が痛みました。
 自分では抜け出せそうになかったわたしを、暗闇から引き戻してくれたのは、真羽さんの涙混じりの大声でした。

「――棯さん! 大丈夫、大丈夫……!?」
 気が付けばわたしは、勝一くんの部屋の床に、泣きながら耳を塞いで座り込んでて……。
 わたしの肩を全力でぎゅっと抱きしめて、真羽さんも隣に座り込んでました。
「ごめんね、本当ごめんね、辛いこと頼んじゃってごめんね……!」
 真羽さん、今までの明るさが嘘みたいに、わたしの横で大泣きしてます。わたしがどうして崩れ落ちたか、わかるはずなんてないのに。

 力強い腕の温かさが、わたしをここに連れ戻してくれました。
 本当に助かったよ。すごく怖かったよ、わたし。
 でも今はそれどころじゃないね。自分の子供を抱きしめるみたいに、わたしを心配してくれてる真羽さんに何か応えないと。
「ごめんなさい……大丈夫、だから……」
 顔を上げると、真羽さんの後ろに、何の変哲もないドアとカレンダーのかかる壁が見えました。
 カレンダーの月は、勝一くんが亡くなったところで止まってる。
 それで改めて、わたしの目にも、涙がじわっとしちゃいました。

 リビングに戻って、落ち着くまで一旦休ませてもらいました。
 部屋の物も少しは調べたけど、勝一くん、確かにウツウツしてたんだなってわかる程度でした。
 閉めっ放しのカーテンとか、中学時代よりひどい散らかり方だとか。数少ないゲームの箱も、カレンダーの日付より大分前の発売日で、開けてない物すらあると真羽さんが気付きました。
 沢山ある参考書もつみ上がるだけで、ほとんど書き込みもありません。

「ごめんね、棯さん……やっぱり勝一、自殺、なのかもね」
 真羽さんは、わたしが勝一くんの部屋のウツウツさに、ショックを受けたって思ってるみたい。
 それは全くハズレではないと思うけど、人間世界でそこまでひどい「ウツウツな部屋」かは、わたしにはわからないなあ。

 わたし自身は、勝一くんが、しんどかったのはわかりました。
 それでも今日はちゃんと、真羽さんに聞き返します。
「……どうして真羽さんは、そう思うの?」
 あの部屋を見ただけでは、勝一くんが死んじゃいたいほどしんどかったのか、それはわかりません。
 一言だけの嘆きの声は、確かにすごく辛かったけど。実際のところは多分、勝一くんをもっと知る人じゃないと、わからないと思ったから。

 真羽さんはまた、涙をぬぐいながら、今度は笑わずに口にしました。
「だってさ。私も親も勝一のこと、全然知らない……そんな家族しか、そばにいなかったんだから」
 何も言えないわたしが黙ってると、そのまま真羽さんが先を続けます。
「成績が落ちたなんて大したことじゃないって、私は思ってた。こっそり買ってたゲームでも、現を抜かしてるんだろうって。だって元々、勝一、勉強好きな方じゃなかったから」
「…………」
「何であんなに、やたら勉強するようになったのかも知らない。親はその分勝一を可愛がって、私はちょっと、面白くなくて……でも、自分が親になった今なら、勝一は無理してたのかなって思う節があるの」

 真羽さんは、まだ若いけど、小さな子供さんがいるっていいます。大学も行かずに、好きに暮らしてきたんだって。
 真羽さん自身はそうして自由に生きてきたのに、二人だけで暮らしてると、子供さんはとても良い子らしくって……まだ本当に小さいのに、自分から家事を手伝おうとするんだって。
「親の注意を惹く、ってやつよね、多分。私はあまり、そういう発想がなかったから。期待されたこと自体、全然ないしね」
 それを思うと、そこから真羽さんは、勝一くんの死の真相が余計に気になってきたみたいです。 
 自殺なんて、バカな奴って。そう思えなくなったって、重い顔付きで静かに言いました。
「誰に怒ったらいいか、わからなくなったの。勝手なことして、家族をばらばらにした勝一に、今までは怒ってたけど……その辛さを考えようともしなかった私や親が、やっぱり悪かったのかなって」

 真相がわからないって、つまりは、辛い感情の整理ができないってことかな。
 そのやり場のなさ自体が、真羽さんはしんどいみたいです。後悔するところなのか、怒るところなのかって。
 確かに最初、真羽さんは大きな怒りと後悔を両方抱えてた。それを思い出しました。
 心がどっちかに定まれば、辛くないわけじゃないけど、前を向きやすいのかもしれない。真羽さんは、反省したがってるように、わたしには見えました。
 勝一くんの辛さに気付いてやりたかったって。自分の子供にそんな思いをさせないように、そういう心に目を向けられる、親になりたいんだって。

 一通り話すと、真羽さんは自分でも、何処かふっきれたみたいな顔で笑ってくれました。
「ありがとう、棯さん。こんな情けないこと、一から十まで人に話したの初めてなの、私」
 この依頼の根本は、真羽さんの心を晴らすこと。その意味では、真羽さんにはもう決着がついたみたい。勝一くんは自殺だって、そう思ってる様子でした。
「いい年して、棯さんにもらい泣きしちゃって……でも、勝一のために一緒に泣いてくれて、本当にありがとうね」

 …………。
 真羽さんが納得するなら……この事件の結末は、それでもいいのかもしれない。
 でも、わたしは……わたし自身は、それでいいのかな……?

 そこから先はきっと、人間の限界を越えた領域。
 望んじゃいけないって、わたしの直観がわたしに警鐘をならします。

 ねえ……と。まだ沢山残ってる色んな違和感を、やっと整理できてきたわたしは、真羽さんにその疑問を尋ねる覚悟をしました。
 それが踏み越えてはいけない、悪魔の願いかもしれないとわかっていても。

「ねえ、真羽さん。……どうして今日は、わたしが家に来るって、真羽さんは知ってたの?」

 真羽さんには子供がいます。でもこの家には、わたしと真羽さんの二人しかいない。
 わたしが来た時、待ってたと言って、出勤時間を遅くしてまで出迎えてくれた真羽さん。うまい具合に、急にお休みになったわたしのお仕事。
 そしてこの家にある、知った気がする何かの気配。わたしを急に、六年前の黒い部屋に引き込んだもの。

 今日まで足を棒にして、わたしが探してきた勝一くんの真相……全てをこれから、明らかにしていかないと。
 仮にも探偵として、この依頼を引き受けたわたしは、そうしてついに心を決めます――


* * *


 兄さんのこと、わたし、人のこと言えないなって。
 すっかり暗くなった夜道を歩きながら、わたしはふと思いました。
「自分にできないことを、望んじゃうから……わたしも、悪魔が必要だったんだね」
 誰かを助けられるほど、自分が強くないのが嫌だった兄さん。
 人間の女の子は無力だから、悪魔の力を借りて自分を守ってきたわたし。
 時雨兄さんに頼らないでも、わたしが反則なのは一緒でした。反則の度合いが、ちょっと違うだけで。

 奥まった住宅街で、真羽さんに教えてもらった、尖った建物の前に立ちます。
 周りと雰囲気が違うそこには、わたし自身、探してたものがある。真羽さんも朝、仕事が終わってから来ると言うから、わたしは夜の内に来ることにしました。

――真羽さん。どうしてわたしが、家に来るってわかったの?

 わたしは所長以外、誰にも連絡せずに、真羽さんのお家に行きました。たまたま真羽さんがお休みだったら、子供さんも一緒にお家にいたはずです。
 でも真羽さんは、わたしと共通の知り合いから、今夜わたしが行くよって、この尖った建物……ささやかでもきちんとした教会にいるヒトから、言われたといいます。

 それは多分、真羽さんが仕事前に、子供さんをここに預けに来た時に告げられたこと。その後に真羽さんは仕事を遅出にして、家に帰って、一人でわたしを待ってたはずです。
 真羽さんの家に遊びに来るヒトが、最近この教会に居候してるんだって。うちの相談所と、そこでバイトするわたしを紹介したのも、そのヒトなんです。

 普通はわかるはずのない、わたしの動向をリアルタイムで知るヒト。
 それができるのは、わたしを見守る悪魔さんくらいだと思うから。
「ここに……氷輪くんが、いるんだ」

 真羽さんの息子さん、お仕事の時は大体ここに預けられるみたい。親友の家っていうけど、わたしにはどう見ても、人間の教会にしか見えないです。
「氷輪くんがいる所がわかれば……兄さんのことも、わかるはずだよね?」
 考えてみれば、そのことに思い至るのが、わたしも遅過ぎでした。
 真羽さんは元々、氷輪くんの紹介で、わたしを指名してきたのに。
 依頼が来たのは、兄さんが行方不明になる前だから、わたしも深く考えてなかったけど……この前に、兄さんに会わせてくれたのは氷輪くんだから、真っ先に氷輪くんを探すべきだったって。

 いつも呼吸を殺す兄さんの気配は、わたしにはわからないから。
 でもこの建物には確かに、すごく弱った氷輪くんの気配があります。
 氷輪くんは悪魔なのに、神様の家に隠れるなんて、よっぽど込み入った事情があるんじゃないかな……。

 明かりはついてるけど、とっくに門を閉ざした教会には入らずに、わたしはPHSを取り出しました。
「…………」
 もう迷わない。PHSからかける「伝話」の応答を、わたしは静かに待ちます。
 同時にスマホも片手に持って、いつでも使えるように準備します。

 スマホを使うことは、わたしも、ここに来てから決めたんだけど。
 氷輪くんの気配が、あんまりにも消えちゃいそうだから……ここに忍びよる暗闇と、向き合う覚悟を決めるしかないって。
 「伝話」をかけてほどなくして、目的のヒトが、教会を前にするわたしの背後に現れました。

「……呼んだ? 猫羽」

 真っ暗な夜空ではよくわからないけど、その声と同時に月が見えなくなっちゃいました。
 多分それは、急な雨雲に隠されたから。
 その名の通り、現れる時には雨を連れて来るヒト……伝話越しじゃなく、直接話しに来てくれたヒトに、わたしは重く振り返ります。
「……時雨、兄さん」

 黒い夜から現れたのは、闇の中に棲む真っ黒なヒト。
 わたしが頼らないと決めた、「時」の名前を持つヒト……ツバメ兄さんと同時に存在できてしまう、兄さんでない「兄さん」がここにいます。

 時雨兄さんに伝話したPHSを片付けて、スマホだけを持つわたしに、時雨兄さんは相変わらずの顔で笑いかけました。
「もう疲れただろ、猫羽。事件の答なら――オレがいくらでも教えてやれるよ?」
「…………」
 どうしてわたしが時雨兄さんを呼んだのか、既にわかってるはずの、空ろな甘い声。
 わたしも、時雨兄さんならこの事件を解決できることは、会った時からずっとわかってました。

 だって時雨兄さんは、神隠しにあった時から時間の止まったヒト。「時」の名が持つ「力」で、時の闇を渡ってこの時空に現れる、有り得ない存在のヒトだから。
 だから、時雨兄さんなら、六年前の勝一くんに何があったか――調べなくても、直接見にいくことができるはずだから。

 時雨兄さんとツバメ兄さんが、同一人物でありながら同時に存在できるのは、時雨兄さんが「時間」というルールを無視してるからです。
 それは多分、とても、取り返しのつかないこと。
 でも確かに、心身共にくたくたで、そもそも兄さんに会いたいわたしには、抗いがたい悪のささやきで……。

「オレと一緒に来ない? 猫羽」
 時雨兄さんと一緒に、時を渡る存在になる。それが時雨兄さんの誘いの本質です。
 多分わたし、確実に人間じゃなくなるよね。そもそもこの世界――時代にいられるのかすらも、わからないと思う。
「オレは、猫羽が呼んだからここに来たんだよ。猫羽もそれは、わかってるだろ?」
 ……うん、そうだと思う。
 今わたしは、自分の意志で時雨兄さんに会えて、とても……泣き出しちゃいそうに、胸が、痛くって……。
「オレならもう、こんな所で……――猫羽を一人には、しないからさ」
 頼ればきっと、助けてくれるヒトは沢山いる。馨おにいちゃんも、咲姫おねえちゃんも、サトシも、ユイやホナミだって……。
 でも、故郷からここに来て、わたしはずっと、いつだって淋しかった。
 氷輪くんが見守ってくれてても、精霊のおねえちゃんがわたしの中にいてくれても……じゃあわたしは、みんなの力に、なれてるのかなって。

 わたしを守ろうとして、沢山のヒトが、色んな代償を支払ってきた。だからわたしも、わたしにできることなら、何でもしたかった。わたしも、誰かの力に、なりたかった。
 助け合える仲間が、わたしはほしかった……たとえそれが、悪魔であっても。

 ツバメ兄さんはもう、わたしだけを甘やかしてはくれない。そしてわたしがいなくても、色んな人と素敵な新しい時を過ごしていける。
 でも時雨兄さんは、いつまでも闇の中で、昔の時雨兄さんのままでいる。
 わたしを助け出そうとして、ぼろぼろになった、永遠に痩せたあの頃の姿で……。

 だからわたしは、スマホを両手で握りしめながら、俯くことしかできない。
 時雨兄さんの存在を知ってて、それでも覚悟を決めた、わたしのこたえ。
 今も後ろの教会から感じる、氷輪くんのつたなくなった気配に、わたしは精一杯の声で時雨兄さんに伝えました。
「……氷輪くんとツバメ兄さんから、手をひいて。……時雨兄さん」
 ぴくりと、時雨兄さんが固まったのが、そこでわかりました。

 時雨兄さんは以前から、兄さんを敵視してました。自分が大嫌いな兄さんの心が、時雨兄さんになったみたいなものだから。
「ツバメ兄さんにはもう、勝てなくなったから……ツバメ兄さんに命を分けてる氷輪くんを、時雨兄さんは狙ってるんだよね?」
「……」
 休みがちになって、とても弱ってる氷輪くんの気配。氷輪くんが兄さんの居場所をわかるのは、氷輪くんの命を兄さんに分けてくれてるから。
 この人間世界に来るだけでも弱るのに、弱ったところを時雨兄さんに狙われたら、それはただごとじゃなかったはずです。そして氷輪くんが弱ったから、ツバメ兄さんもどこかに消えてしまった。

「氷輪くんのことも、わたしのことも。ツバメ兄さんから大事なものを奪ってやるって……そう思って、わたしの所に来たんだよね?」
 時間が止まったはずの、時雨兄さん。それでも氷輪くんが手を差し伸べてくれて、少しは自分が嫌いじゃないヒトに変わった、ツバメ兄さん。
 置き去りの時雨兄さんから見れば、腹立たしいだけだと思う。
 それこそわたしが、勝一くんの黒い部屋で感じたみたいな心……何で? っていう嘆き。あれはとても、時雨兄さんにも近い闇でした。もしかしたら、時雨兄さんにひっぱり込まれた過去の世界かもしれない。
 追求するのは危険だって、わかってたけど……それでもわたしは、真意を知りたくて、時雨兄さんに伝話せずにはいられませんでした。

 時雨兄さんは、それを思い浮かべたわたしを見透かすように、歪んだ笑顔を浮かべました。
「そっか。猫羽もやっぱり……ツバメを選ぶんだ?」
 わかる範囲がせまい分、わたしよりも鋭い兄さんの直観。
 嘘をつけずに悟られる心は、時雨兄さんを大きく傷付けたみたいでした。
「何でみんな――(つぐみ)も猫羽も、オレじゃなくて、アイツを選ぶの?」

 雨雲を連れる「時雨」兄さんの、心の動揺を示すように、突然大きな雷鳴が響きます。
 ぽつぽつと雨が降り出してきて、時雨兄さんは黙って微笑んだままで、殺意すら秘めてわたしを見てきます。
 わたしはそれが、すごく哀しくて……防水じゃないスマホを守らなきゃいけないのに、身動き一つとれなくなって……。

 そんなわたしに、突然後ろから、傘を差しかけたヒトがいました。
「それはさすがに、無茶し過ぎだよ、猫羽ちゃん」
「――!」
 驚くわたしと、瞬時に無表情になる時雨兄さん。
 歩くのすら苦しそうなのに、わたしにすっと傘を押付けて、時雨兄さんとの間に入った人影……白黒の学生服を着る氷輪くんが、いつも通りのキレイな顔で、わたしに笑いかけていたのでした。
「バイトだけでも精一杯でしょ。こんな人外生物のゴタゴタに、関わることなんてないんだからさ」
「でも……氷輪くん……!」

 スマホに封印する番人鎌を、わたしはすぐに取り出せるようにしてました。もしも時雨兄さんと、戦うことになった時のために。
 画面に映してる写真を、少しなぞって外に出すだけ。それだけなのに、氷輪くんの顔を見ると、いきなり気が緩んじゃいました。
 ううん、ほっとしてる場合じゃないよ、むしろこれじゃ氷輪くんが危ないよ。
 わたしのために氷輪くん、死にそうな状態なのに、外に出てきたんだ……!

 すごくウカツでした、わたし。氷輪くんが実際にここにいるか確かめてから、時雨兄さんに伝話しようと思ったから。
 もっと離れてからするべきだったんだ。氷輪くんと時雨兄さんが敵対してる可能性は、来る前からわかってた……だからわたし、氷輪くんとツバメ兄さんを守るつもりでここに来たのに。
 そんなわたしに傘を渡して、代わりに氷輪くんは、スマホを取ってっちゃいました。
「駄目だよ、猫羽ちゃんは人間なんだから。戦闘とかそういうのは、オレ達の仕事だよ」
 本当に、一瞬でした。氷輪くんはわたしのスマホを懐にしまうと、黙って雨に打たれる時雨兄さんの前で、同じように水を滴らせながら不敵に笑いました。

「それで――この状況でも、お前はやる気?」
「…………」
 前に出た氷輪くんを、時雨兄さんが冷たく見据えます。
 あんなに弱ってるのに、強がりとしか思えない氷輪くんの言葉。絶対に優位なはずの時雨兄さんが、それでも黙り込む理由を、わたしはやがて悟りました。

 夜の黒い豪雨の中で、蒼白い目を光らせて、キレイ過ぎる氷輪くんがくすりと笑います。
「いいけどさ。オレを誰だと思ってんの、お前」
 わずかに振り返った氷輪くんは、視界の端にわたしを映して、にやりとあくどく微笑みました。
「悪魔なんだからさ。誰より純粋な、弱い人間……生粋の悪魔使いがそこにいるのに、見逃す手があると思う?」

 わたしのスマホを取り上げた氷輪くんの、時雨兄さんより歪んだ、悪魔の笑顔。
 氷輪くんはわたしに「人間なんだから」と言った。それはつまり、人間であれって……悪魔である氷輪くんの糧になれって、そう言ってるんだ――

 氷輪くんが本気で言ってることは、わたしにも、時雨兄さんにもわかったと思う。
 時雨兄さんはつまり、わたしを人質に取られたも同じなわけです。だってわたしは、それで氷輪くんが助かるなら、迷わずそうすると思うから。
「……――」
 わたしが時雨兄さんでなく、氷輪くんの餌食になるのは、時雨兄さんは嫌なんだと思う。
 何も答えない時雨兄さんは、心なしか段々と、雨に溶け込むように姿が薄くなっていきました。

 氷輪くんはそれを見て、とても呆れたように、ため息をついて肩をすくめました。
「ホント、どっちもわかりやすいよね、お前達は」
 それが時雨兄さんとわたしをさしてるのか、それともツバメ兄さんをさしてるのか、そこまではわかりません。
 それでも氷輪くんが、悪魔たりえる理由。
 たとえ時雨兄さんや、ツバメ兄さんを敵に回しても、最終的には自分を守る――わたしの存在を切り札として残してることは、十分以上に感じました。

 切り札を使うような本当にまずい状態になるまでは、こうしてがんばっちゃう氷輪くんだけど。
 わたしを助けるために出て来てくれたのに、悪魔さんって、大変だね。

 そのまま、時雨兄さんは最後まで何も言わずに、元いた闇に戻っちゃいました。
 この因縁の決着は、わたしがいない時に持越しと言わんばかりに。

 氷輪くんはわたしに、ごめんね、と笑いながら、すぐにスマホを返してくれました。
「ツバメのことは心配しないで。住んでる所、教えちゃダメって言われてるから、言えないんだけどさ」
 氷輪くんからずっと、命を分けられてる兄さん。氷輪くんが生きてる限りは、行方不明でも無事のはずです。わたしは黙って、うなずくことしかできません。

 もうずぶ濡れの氷輪くんは、傘を返そうとしたわたしも拒んで、早く下宿に帰るように言ってきました。
「バイトをちゃんと、終わらせてからおいでよ。猫羽ちゃんはもう、答はわかってるでしょ?」
 わたしをそもそも、真羽さんにお勧めしたらしい氷輪くん。
 くるりと教会に振り返って、わたしに背を向けて歩き出すから、わたしはこれ以上、何も言えなかったのでした。


* * *


 その日はとても、キレイに晴れた日曜日でした。
 前日からお仕事のお休みをとって、朝からわたしと一緒にある家に向かう真羽さんが、緊張したように大きなため息をついていました。
「まさか本当に……こんなことになるなんて、ね」
 行く先は川沿いの、長い三つ編みのお姉さんの所。
 勝一くんの事件をたった一人、目撃した人……今もその日の悪夢をひきずる、暗い顔付きのお姉さん宅です。


 馨おにいちゃんには、びぎなーずらっくの超速だって喜ばれたんだけど。真羽さんのお家に行った日、わたしには、勝一くんが川に入った理由はわかってたんです。
 でも実際、その時勝一くんがどんな気持ちだったかが、さっぱりわからなくて。出来事だけわかっても意味ないよねって、ぐるぐる悩んでたんだ。

 川沿いの家々で聞き込みをした、初日にわかってしまったこと。
 猫が沢山いる、猫屋敷のおねえちゃんの家に二度目に行った時、わたしの違和感は色々とつながったのでした。
「三軒お隣の猫のことって? あー、わかるわかる! そりゃ似てるよ、うちの子達と兄弟だもん!」
 わたしがそこに二度行ったのは、三つ編みのお姉さんが飼う猫さんが、猫屋敷の猫さん達に似てると思ったから。
 聞けばみんな、六年前に、三つ編みのお姉さんが連れ込んだ子という話でした。
「大学に入れたら下宿して、引き取りにくるって言うからさあ。こっちはうっかり、承諾しちゃったってわけ!」

 その台風の次の日、見知らぬ三つ編みの女子高校生が、段ボールに入った仔猫達を自転車のカゴに乗せて、川沿いをとぼとぼ歩いてたんだって。
 びしょ濡れで様子が変だから、思わず声をかけたら、どうかしばらく仔猫達を預かってくれと、猫屋敷のおねえちゃんは頼まれたみたいです。
「約束通り、春には近くに下宿してきて、まずは一匹連れ帰ったんだけどねー。飼うのが意外に大変で、残りの子はまだ待ってって言われて、結局預かりっぱなしなのよ、わかる?」
 六年前の台風より後に引っ越したって、三つ編みのお姉さんの言葉とも合います。
 わたしはそれで、三つ編みのお姉さんの家に戻って、もう一度詳しく話を聞いたわけです。

 自転車で川沿いを必死に走った、三つ編みのお姉さんの姿の光景。
 それは土嚢を積みにかりだされたおじさんの記憶と、三つ編みのお姉さんが思い起こした記憶が、わたしの中で勝手につながって見えたものでした。

 三つ編みのお姉さんは元々、山あいの旧家の娘さんだけど、いつからか庭に猫が住みついたそうです。可愛がってたら子供を産んで、その日はその仔達を捨ててこいって、両親に怒鳴られたらしいです。
 お姉さんは半泣きになりながら、わたしに正直に全部教えてくれました。
「川に捨てろって言われたから、一度は言う通りにして……でもやっぱり気になって戻ったら、猫達を置いた場所が崩れて、段ボールに入ったまま、みんな流されちゃったの……」

 三つ編みのお姉さんはそれで必死に、流されていく段ボールを、自転車で追いかけたみたいです。
 すぐに見失っちゃったけど、諦めずに走って走って、段ボールがどこかに流れ着いてないかを、死に物狂いで探したんだって。
 その途中に、制服を着た男の子が川の中で、仔猫達の段ボールを岸に押し返そうとする姿が見えたって言うの。
 でも雨で視界が悪くて、確信が持てないまま近くの岸に降りたら、確かに仔猫達はそこに流れ着いてて――でも、男の子は何処にもいなかったらしくて。後は仔猫達をどうするかに夢中で、男の子のことは何も考えなかったと、話しながら泣き出しちゃいました。

 わたしはそこまで聞いて、何となくわかりました。
 その男の子……奇跡的に沈まず流されてきた仔猫達を、偶然見つけて助けようとしたのが、勝一くんなんだろうって。

「まさかあの時、人が死んだなんて私、思いたくなくて……! でも何度も何度も、あの男の子のことは夢に見て、もしかしたらって、ずっと怖くって……!」
 自分がその仔猫達を、川辺に置き去りにしたせいで、誰かが死んでしまった。そんなこと、絶対に考えたくないよね、普通。
 でもいさぎよい三つ編みのお姉さんは、その段ボールがまだ、猫屋敷のおねえちゃん家にあるはずだって言って……そしてそれを、馨おにいちゃんづてに警察に渡して調べてもらったら、本当に勝一くんの指紋が検出されたと、後でわかったのでした。

 猫を飼いたいって、何度も言ってたらしい勝一くん。
 塾をさぼって、家にも帰れずに川辺にいて、そんな仔猫達が流されてきたら川に飛び込むだろうって。真羽さんはすごく、納得した顔をして聞いてました。
「なまじあの子、泳ぎは得意だったから。要するに、一人で鬱々と、川辺になんていたのが悪かったのよね」
 事実がわかった真羽さんは、三つ編みのお姉さんに、わたしと一緒に会いにいきました。
 でも真羽さんは三つ編みのお姉さんのこと、全然責めませんでした。
 あれだけ大きかった怒りも後悔も、いつの間にか、何か違うものに変わったみたいです。

 わたしは真羽さんと違って、今でもちょっと、ひっかかってるんだけど。それは多分、わたしが勝一くんを知らないからかな。
 自分が力尽きて死んじゃっても、仔猫達を助けようとしたのは、優しさなのか無謀なのか……それとも、ものすごくヤケだったのかなって。
 勝一くんがウツウツして、疲れてたことは確かだから。わたしが黒い部屋でかいま見た、何で? っていう、あの声みたいに。

 誰か、勝一くんのその時の心、知ってるヒトが一人でもいてくれたらいいのに。
 じゃないと何だか、淋しくって。
 それをわたしは、改めて教会に会いにいった氷輪くんに、思わずグチっちゃいました。
 これで本当に、わたしがしたことは、良かったのかなって。

 氷輪くんは牧師さんの娘さんの部屋で、ベッドを借りて横になってました。その娘さんが、真羽さんの親友なんだって。
 教会にいるのは、娘さんの知り合いなことと、悪魔の力を強制的に封じるためみたい。その方が消耗が少なくなって、回復が早いんだって。スマホの「きないモード」と同じって言うけど、何のことだろう?

 ごろんと横向きの氷輪くんが、ソファにいるわたしを見て、何だか儚さそうに笑います。
「猫羽ちゃんは何も、気にすることはないよ。探偵として紹介した仕事、しっかりやり遂げてくれて、オレは嬉しいけどな?」
「…………」
「それ以上はねぇ、哀しいけど、神様にしかわかんないことなんだよね。悪魔のオレは何となく、勝一くんは満足したから、成仏したんじゃないかって思うけどね」

 もしも勝一くんが、ウツウツを沢山残してたら、地縛霊にでもなってるよって氷輪くんは言います。
 わたしは霊感が全然ないから、やっぱりわからないな。
 でも氷輪くんみたいに、思いたいな。そう、思っちゃいました。

 相変わらず氷輪くんは、兄さんのことは教えてくれなくて、時雨兄さんとどう敵対してるのかも、全部だんまりです。
 この教会にいたら安全とは、言えないと思うんだけど。時雨兄さんは悪魔じゃなくて、神隠しにあったヒトだから……神様に近い存在だから。

 なのでわたしはついつい、今まで通り優しい顔の氷輪くんに、こたえのわかったことを尋ねました。
「……ねえ、氷輪くん。わたしと契約するのは、本当にダメなことなの?」
 それが一番、氷輪くんの助け、ひいては兄さんの助けになるはずなんだけど。
 心からマジメにきいたわたしに、氷輪くんは、のーっ! って叫びました。何だかいつもと違う子供みたいな雰囲気で、わたしも気が抜けちゃいます。
「そんなことしたらオレ、ツバメに殺されるし」
「……」
「最後の手段はね、最後だから意味があるんだよ、猫羽ちゃん。オレもツバメも、これくらいのことでへこたれないからさ」

 神様の家に逃げ込むくらいだから、自分がどれだけ弱ってるか、氷輪くんはわかってるはずなのに。
 兄さんも兄さんだけど、氷輪くんも氷輪くんです。それならせめて二人共、わたしのことは心配せずに、故郷に帰ったらいいんです。

 自分でも珍しいと思うけど、わたしはそこで、意識して食い下がりました。
 今回は本当に、心配だらけでマジメだったから、わたし。
「最後って、いつ? 氷輪くんにとっては、何が『最後』なの?」
 実際は、氷輪くんが言いたいこと、何となくはわかるんだけどね。
 そうして勝手に納得するクセ、わたし、ちょっと反省したんだ。真羽さんや氷輪くんみたいに、よく聞かないと本心をはぐらかす人、沢山いるみたいだから。
 わたしがじっと氷輪くんを見つめるから、氷輪くんはバツが悪いのか、困ったような顔で笑ったのでした。


 その後、教会を出て行ったわたしは、かなり距離を取ってからPHSを手に取りました。
 伝話の先は、時雨兄さんです。氷輪くんを巻き込まずに、言わなきゃいけないことがあるから。

 PHSの向こうでは、ハロー。って、妙にさわやかな時雨兄さんが、わたしを待ち受けてました。
 真っ青な空には、雨雲がくる様子はないです。今日は時雨兄さん、ここに現れる気はないってことだね。
「ハロー、猫羽。探偵お疲れ、うまくいったみたいじゃん?」
「……」
 わたしは、やっぱり。と、思わず呆れちゃいます。 

「時雨兄さんの……嘘つき」
「ん? 何怒ってるんだ、猫羽?」
 わたしが伝話したのは、時雨兄さんの問いかけに答えるためです。
 どうして時雨兄さんが、わたしの前に現れたのか。探偵なら当ててよって言ってたから。
「何って、わかってるくせに。そういうとこも、全部、嘘つき」

 時雨兄さんはツバメ兄さんより、下手に器用です。時の闇を渡り過ぎて、多分世間ずれしちゃってる。
 それでも二人して、わたしを甘やかしちゃダメって思ってるのは、結局一緒なんだから。
 わたしも兄さんも、思いをうまく言葉にするのが苦手だから、こんなやり方になっちゃうんだよね。
「最初から……わたしを手伝う気なんて、なかったくせに」
 むしろ時雨兄さんは、足をひっぱりに来たんじゃないかな。わたしにそれを、乗り越えさせるために。

 わたしより鋭い直観の時雨兄さんには、それで伝わったと思います。
 クスっと、PHSの向こうで笑う姿が、手に取るように感じられました。
「……また、会いに行くよ。……猫羽」
「いつでもいいよ。わたしはもう、わたしからは伝話しないから」
 しないというより、できないんだけど。それも時雨兄さんはわかったみたいでした。
 それ以上は何も言わずに伝話を切って、わたしはまた、教会の方に歩き出します。

 最後っていつ? ときいたわたしに、氷輪くんは、しばらくためらってから答えてくれました。
「……猫羽ちゃんが、オレに頼る以外に手段がなくなったら。……かな」
 たとえば少なくとも、PHSは渡してもらうよって。それでつながる今の悪魔さん達は、卒業しろってことみたいです。
 それは確かに、氷輪くんの精一杯の本音だと思う。氷輪くんはわたしのこと、いつだって心配しててくれて、氷輪くんにもなるべく関わらずに、人間であれって願ってるから。

 だからわたしは一度外に出て、時雨兄さんに最後の伝話をしました。
 最後になるといいんだけど。わたしも自信がないから、氷輪くんに情けないこたえを返しちゃったし。

「それじゃ……わたしのPHS、氷輪くんが預かってくれる?」

 渡すとまでは言えなかった。本気で必要になったら、きっと返してもらっちゃいます。
 でもこのまま持ってたら、時雨兄さんにも伝話したくなっちゃう。我慢する方が大変って、今回わかったから。
 時雨兄さんの意地悪がなければ、わたしももう少し、余裕を持ってお仕事できてた気もするし。

 このことも含めて、時雨兄さんの思うつぼな気がするけど……氷輪くんは快く、いいよって言ってくれました。
 PHSを預かったからって、わたしとすぐに契約するわけじゃないし。条件の一つなだけで、それすらも、わたしがいつまでもつかは怪しいしね。

「……ありがとう、兄さん」

 今のわたしにできることは、これくらいかもしれない。
 兄さんや氷輪くんが故郷に帰れるように、これ以上心配をかけない……わたし自身がしっかりするのが、一番だと思ったから。

 淋しいのはずっと同じです。よくわからないけど、わたしがわたしな性格の限り、これは変わらないような気がする。悪魔がそばにいても、このまま手放したとしても。
 じゃあどうしたら、淋しいのを忘れてられるのかな? 多分だけど、転地学習の時とか、わたしはあんまり淋しいって思ってなかったよね。

 こたえはきっと……この世界での高校生活を、人間としてもっと楽しんで、二人に安心してもらうこと。わたしが淋しがって、兄さんや氷輪くんの敵になる時雨兄さんを呼ばないようにすること。
 心の隙間はできる限り、幸せな出来事で埋めちゃうことなのかなって。

 心配事も、悩み事も尽きないです。でもわたしの毎日は、わたしを中心に回ってく――わたしが選ぶことの全てが、明日のわたしを作ってくから。

 今日は事件解決のお祝いに、初の依頼料で、ユイやホナミと甘い物を食べに行きます。
 とっても、楽しみだな。


探偵に悪魔は反則です 了

探偵に悪魔は反則です

ここまで読んで下さりありがとうございました。続編も順次掲載します。
猫羽の殺戮の天使な過去については、来年2月下旬に掲載を予定していますので、お気が向けば良ければ。
初稿:2018.1.17-5.28

※過去話が先に気になる方はノベラボでご覧下さい→https://www.novelabo.com/books/6334/chapters

探偵に悪魔は反則です

★直観探偵シリーズ・1巻★ 人間を好む悪魔と協力しながら、何となくの直観で推理する猫羽は初めての探偵バイト中。平和な人間世界の日常にも色々あるものです。 ※4巻まであります ※1話完結&1話約2~3万字×4話(1巻)

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-22

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 序曲
  2. 変奏曲:9月;暗闇の中で
  3. 狂詩曲:introduction
  4. ★4月;よろず相談所殺人事件
  5. ★5月;殺戮の天使の悪魔事件
  6. ☆5月;後日談
  7. ★6月;ユウウツ少年転落事件