橫櫛 家に飾りたくない絵
美術に関するエッセイです。
橫櫛 家に飾りたくない絵
最初にその絵を見たのはホラー小説「ぼっけぇきょうてい」の表紙だった。幽霊とかが怖いんじゃない、人間が嫌になる話だったと思う。恐ろしく前で、小説の内容はあまり覚えてはいないが、この表紙の絵を選んだ人がすごいセンスあるなと思ったことは強烈に覚えている。本当に嫌な気持ちになる絵だった。
まずこの絵の女の人、生きている人間のような気がしなかった。清楚で綺麗な顔立ちの女性だが、抜けるような白い肌に病的な影がある。小説の内容が病気に関係しているので、それがぴったりすぎて凄く嫌だった。
今でも私の心の中の「家に飾りたくない(飾れない)絵ランキング」で、カラヴァッジオの「マグダラのマリアの法悦」と一二を争うほどだ。嫌さの種類が違って、マグダラのマリアが私には官能的過ぎるからなのに対して、橫櫛は禍々し過ぎるからだ。
以前、知り合いにこの絵の話をする機会があった。彼にとっては綺麗な女の人の絵にしか見えないらしい。小説を読んでいるかいないかで見え方が違うのかなと思っていた。
先日、甲斐荘楠音の回顧展で初めてこの絵を直に観た。印刷されたものを見るだけでは分からない発見があった。
期待どおりの禍々しさがかえって心地いいくらい。まず正面からこの絵を観ると、瞳の中に白く丸く光る部分が描かれているのに気付く。そのせいか大人しそうに見えた女の表情が一変する。眼光炯々として人から人外のものに代わる。外面天女、内面夜叉。まずこれが怖い。
そして着物の柄は、上半身部分は迦陵頻伽のいる極楽、腰から下は地獄の業火の中に鬼なのか、とりあえず魔物がいるという奇抜さになっている。
両極端なものを対峙させ、微妙な均衡を保ちながら、ギリギリの表現を狙ってきた作品だなと私は感じた。
美しくもあり醜くもある、人であり人外のものでもある。矛盾しているけれどしていない不思議な絵。安心して観ていられない、でも惹き付けられる不思議な絵。
甲斐荘楠音がどういう経緯でこの絵を描いたのか、私は知らない。今回この文章を書くにあたって調べようとは思わなかった。ただ私の感じるままを正直に書いた。
私はこの絵を観たときの鮮烈な印象をいつまでも覚えていると思う。
彼の後半生は画家というよりは映画人だった。米アカデミー賞ノミネートされた映画人(衣装デザイン)としての方が成功したのかもしれない。そう考えると、彼は常に一つにはおさまらない人なのではないか。そもそも男でもあり女でもあり、そのどちらでもない視点をも持っている。
独特で強烈な美意識を持った彼の画家としての功績に、もっと光が当たるといいなと願うばかりである。
橫櫛 家に飾りたくない絵