マジック・イン・ムーンライト
You make me want to be a better man.
James Lawrence Brooks
『As Good as It Gets』(1997)
君のおかげで、ましな男になろうと思ったのさ。
ジェームズ・ロレンス・ブルックス
『恋愛小説家』(1997)
南半球は迚も暖かい。
何れ程暖かいかと言えば、聖誕祭に白い髭を生やし、でっぷりとしたお腹のサンタクロースがサーフィンをする位に暖かい。
そして同時に降り注ぐ日光の眩しさも、大変に容赦が無い。
其れが証拠に、物心ついた子供達が親のお金で作って貰った色とりどりのサングラスを掛け、週末のアベニューを闊歩する姿を其処彼処で垣間見る事が出来る。
無論、帽子も欠かせない。
そして日傘も。
『スターレス』崩壊以降、一度も逢う事はおろか、連絡を取る事すら無かったモクレンに逢う為、黒曜が降り立った場所とは、そんな風な場所である。
『スターレス』に其の身を置いていた頃からSNSをやっている訳でも無ければ、そもそもスマホ自体、他人の手を借りずに一人でキチンと扱えていたのかすら実際の所良く判りかねない様な立ち位置にあったモクレンが南半球に居ると言う情報を黒曜が得たのは、さんざっぱら危険な眼に遭遇したにも拘らず、相変わらずきな臭い「御商売」に精を出しているらしかった羽瀬山氏から、コッチが奢ってやっから、偶にゃ、外で一杯、と誘われた際に、羽瀬山氏からの「御紹介」で、南半球のさる町にて、モクレンの身の回りの世話をしていると言う斎藤実盛と言う名の人物と対面した事が切っ掛けであった。
まどろっこしい話はお嫌いでしょうから、単刀直入に申し上げますと、今月の九日で御主人様が四十歳の御誕生日を迎えるので、其の御誕生日会に出席していただければ、と。
早速の質問で恐縮なんですが、其の御誕生日会、他に出席者は?。
黒曜が燐寸を擦って、斎藤氏が咥えたばかりの紫煙に火を点け乍ら言った。
いえ。
貴方様一人だけです。
其れは貴方の仰る・・・御主人様の御要望と言うヤツで?。
まぁ、そんな所です。
他にお知り合いは、と質問をさせていただいた際、知り合いと呼べる程の付き合いがあるかは分からんが、とひと言言葉を添えた上で貴方様、即ち黒曜さんの御名前を。
へぇ。
過去と言う御言葉に対しちゃ、常日頃から無頓着だった「あのお方」がね。
燐寸の燃え殻を硝子の灰皿にひょいと放り込んだ黒曜は、自身の手でグラスに麦酒を並々注ぐと、其れを勢いよくグイと呑み干し、分かりました、大したことが出来るか分かりませんが、行きましょう、其の町迄、と旅の誘いを了承した。
お前、ホントに行くのかよ。
斎藤氏と別れたのち、もう一軒付き合え、と言う羽瀬山氏に誘われるがまゝ、BAR『さらば冬のかもめ』にて、ジャック・ダニエルの入ったグラス片手に羽瀬山氏が言った。
へぇ、アンタが他人〈ひと〉の心配なんざする姿を垣間見る日が来るたぁね。
長生きはするモンだな、お互いよ。
けっ、元とはいえ、雇い主様が心配して差し上げているって言うのによ、オメェみてぇな
出来の悪かった元従業員の。
ひでぇ言い草。
で、なんて言う積もりなんだ?。
まさか南半球くんだり迄のこのこ行って、御誕生日御目出度う御座いますのひと言で済ませるんじゃ、そりゃ色気があるめぇ。
お呼びに預かりまして位の事は言うっての。
だから何時迄経っても三枚目なんだよ、お前ってヤツは。
分かった、分かった。
何とかすらぁ。
そう言って注文したばかりのウヰスキー・ソーダのグラスに口を付け、羽瀬山氏からの言葉諸共勢いよく喉に流し込んだ「つもり」の黒曜ではあったが、正直なところ『スターレス』での記憶はおろか、其処で働いていた人間たちの顔も朧げになりかかっている所へ今回の様な「変わった」話が持ち込まれた事に関しては若干どころか、だいぶ困惑をしていた。
が、ある種の物の弾みとはいえ、引き受けてしまったモノはもうしょうがない。
黒曜は部屋へ帰宅するなり荷物を纏め、翌々日、斎藤氏と共に南半球へと向かったのである。
でも僕は愛を信じてるのさ
音楽も信じてる
魔法だって信じてる
そして君を信じてるんだ
空港にて拾ったタクシーのラジオからドン・ウィリアムスの『アイ・ビリーヴ・イン・ユー』のメロディが流れて来る中、燐寸で咥えたばかりの紫煙に火を点け乍ら、百八本の薔薇を用意出来りゃ、ハリウッド・スターの仲間入りなんだがな、と黒曜が苦笑いを浮かべると、薔薇を用意せずとも、後ろに積んであるギターを爪弾けば、キチンと格好はつく筈ですよ、アナタ程の色男なら、と斎藤氏は微笑ったので、其れも悪かぁなさそうだ、と黒曜は呟いた。
そうこうしていると、タクシーはモクレンの住む三階建の家の前に到着をした。
料金を支払ったのち、ゆっくりとタクシーから降りると、此の土地で雇ったらしい使用人達がせっせと荷物を家の中へと運び込んでいる姿があった。
海風が頬を撫でる中、携帯用灰皿に紫煙の吸い殻を棄てた黒曜が黄褐色のレンズが嵌め込まれたティアドロップのサングラス越しに海岸の方に視線を向けると、此の辺りに本宅或いは別荘を所有しているのだろうお金持ち連中が乗っているらしいヨットが、紺碧の海にぽつりぽつりと浮かんでおり、成る程、こんな雰囲気の場所なら、静かに余生を過ごせそうだ、と静かに感じた。
故郷の海に似ていますか?。
此処に辿り着く迄に、黒曜の口から生い立ちに纏わる話をタクシーの中で聴いた斎藤氏が黒曜の横に立つなり、視線を海に向けた状態で言った。
ヨットこそありませんでしたが、亡くなった父の言う通り、海の色は何処へ赴いても同じな様で。
故郷を離れる前日の晩、軒先にぶら下げた金魚の風鈴がリンリンと鳴る中、リビングの茅色のソファーに腰掛けていた黒曜の父がウヰスキーのオレンジ割りが注がれた舶来品のグラス片手にぽつりと発した言葉の事を思い出し乍ら、黒曜が言った。
尚、其の会話が黒曜と黒曜の父が交わした最後の会話であった。
さて、想い出に浸るのも結構ですが、我々は今を生きる人間だ、一先ず此れからの事を考えるとしましょう。
センチメンタルな空気を断ち切る様に大きく背伸びをした黒曜は、斎藤氏と共に敷地内へと入った。
人生はミネストローネ
パルメザンチーズのかかった
死は冷たいラザニア
冷凍で保存されたままの
普段から手入れの良く行き届いている事が一目で判る庭へとやって来ると、鼈甲〈べっこう〉の眼鏡を掛けた家の主は、籐椅子に腰掛けた状態でタブレット片手に青空文庫にて閲覧可能な片岡義男の短篇小説集『夏と少年の短篇』を読み進める傍ら、Bluetoothスピーカーから流れる10ccの『人生は野菜スープ』に耳を傾けていた。
そして少しばかり眩しそうな表情を浮かべ乍ら、気に入っていただけただろうか、此の場所を、と黒曜の方へ視線を向けた。
黒曜はモクレンをじっと見据え乍ら、たったひと言、あゝ、良い気分だ、と言って、どっしりと客人用の椅子へと腰掛けた。
呑み物は麦酒で良いか?。
モクレンが言った。
そうだな、適当なお摘みと一緒に。
クラッカーがあった筈だ、其れでも喰おう。
分かった。
黒曜は返事をするなり、紫煙を口に咥え、燐寸で火を点けると、真っ白なテーブルクロスが敷かれている煉瓦色の円卓の上に置かれたブリキ製の涅色の灰皿に、左手に握っていた燐寸の燃え滓をひょいと放り込み、変わっとらんな、お互いに、と言った。
モクレンは玄色のタブレットのカバーをパタンと閉じたのち、齢位なモンか、変わったと言えば、と呟いた。
其れから斎藤氏と使用人達の手によって、ささやかな食事会の準備が淀み無く進められていく中、相も変わらずゴツゴツとした黒曜の指へゆっくりと視線を向け乍ら、見た所まだフリーか、とっくの昔にどっかの誰かさんとくっついていると思っていたが、と話を黒曜に振った。
風が吹いて煙がゆらゆらと揺れる中、黒曜はニヤリと笑みを浮かべつゝ、色戀の話か、柄にも無く、と言ったのち、する暇がねぇ、って訳でもねぇが、する気が無かった、って言うのが本当の所かねぇ、と答え、似たような心持ちなんだろ、お前の方も、と言い乍ら味の薄れた紫煙の火を灰皿の上で揉み消した。
じゃなきゃ今こうして話しなんぞしちゃいないさ。
モクレンが遠い眼をし乍ら言った。
はっはっは、違いねぇ。
お互いにグラスを握り締めると、じゃ、御誕生日御目出度う、と言う黒曜からの祝福があったのち、コツン、とグラスとグラスをぶつけ合った。
ファーストクラスのゆったりとしたシートで嗜むワインも最高だが、こうやって太陽が燦々と降り注ぐ中呑む麦酒は其れに負けない位旨いモンだ。
そう言い乍ら黒曜は、ナプキンで自身の口元の泡を綺麗に拭き取ると、チーズの載ったクラッカーを右手で掴むなり、ほれ、と何の躊躇〈ためら〉いも無く、モクレンの口へひょいと運んだ。
御味の方は?。
うん、美味だな。
なあ、やってくれよ、俺にも。
我が儘だな。
良いだろ、減るモンじゃないんだから。
分かった、分かった。
モクレンが苦笑いを浮かべ乍ら、ほれ、あーん、とクラッカーを口の中に運ぶと、黒曜は満足気な表情を浮かべ乍ら其れを咀嚼し、麦酒で流し込んだ。
子供だな。
モクレンが言った。
子供になるらしい、お前の前だと。
良い子で居ろよ。
其の積もりだ、ハナッから。
ハイハイ、良く言えました。
クラッカーを平らげると、「昼食」と称して鯛のカルパッチョ、チーズリゾット、スマッシュドアボカド、ズッキーニベイク、ビーフステーキ、ソーセージロール、ベジマイト・トースト、パンプキンスープ、と言ったメニューが運ばれて来たのだが、お互いに腹が減っていた事もあり、麦酒を呑み乍ら、ものの一時間余りで此れ等のメニューを平らげた。
なあ、此の後ちょっと散歩に出掛けないか?。
食後の一服と称して和蘭産の珈琲カップ片手に斎藤氏が注いだ珈琲を嗜んでいると、銀色のスプーンを使って、華尼拉〈バニラ〉味のカップアイスを頬張り乍ら、モクレンがぽつりと言った。
黒曜が瑞西〈スイス〉製の腕時計の文字盤に視線を向けると、時刻は午后三時で、モクレンの言う通り、軽い散歩をするには丁度良い時間帯だった。
なら浜辺に行こう。
其処なら眼と鼻の先だから、直ぐに戻って来る事が出来る。
黒曜が言った。
今晩の晩御飯は如何致しましょう。
日本人が来たんだ、偶には寿司だの天麩羅だのを喰おうじゃないか。
ナプキンで口元を拭き終えると、モクレンは女性の使用人にナプキンの結び目をスルスルと解かせ、腰掛けていた籐椅子からゆっくりと立ち上がるなり、大きく背伸びをした。
畏まりました。
では早速、腕利きの料理人達に料理を作らせると致しましょう。
では、ごゆっくり。
斎藤氏はそう言ってスマートフォンからメッセージを飛ばし、宴の準備と称して家の中へと入って行った。
持って行くかね、日傘。
空を見上げて黒曜がそう述べると、戯れた提案じゃないか、相合傘なんて、と言い乍ら使用人が玄関から持って来た紺青色の日傘をモクレンはパッと開いた。
庭に青色の物は設置されて居なかった為、黒曜の眼には日傘の青が良く映えている様に見えた。
黒曜はモクレンの側へと近づくなり、俺が持つ、と言って日傘を右手で受け取ると、左手でモクレンの手を握って、さ、歩きましょうかね、マダム、とモクレンに聲を掛けた。
モクレンは相変わらずのペースに対して、しょうがないなぁ、と言わんばかりの表情を浮かべ乍ら、ソフトに頼むぞ、ムッシュ、と呟くと、悠然と歩き始めた。
世界にいま必要なのものは、愛
甘く優しい愛
あまりに少なくて たったひとつのもの
いま世界が求めているのは、愛
甘く優しい愛
ただ誰かのためだけじゃなく
みんなのために
しかしまぁ、良く来る気になったな。
浜辺に設置されたスピーカーから、バート・バカラック作曲の『世界は愛を求めている』が流れる中、音楽に合わせて、見るからに品の良さげなお金持ちと判る老若男女が寛いでいる浜辺に辿り着いて、ゆったりとしたステップでビーチチェアへと腰掛けるなり、道中立ち寄った雑貨屋で購入をした黒曜とお揃いの麦藁帽子を被ったモクレンが言った。
断る理由も此れと言って浮かばなかったんでな。
そっちこそ、如何して後ろを振り返ってみたいと思ったんだ。
そう言うの、趣味じゃ無いだろうに。
趣味ではないが、どうせ誰かを呼ぶなら、と考えてな。
ただ其れだけの事だ。
要は気まぐれか。
黒曜がそう言い乍ら紫煙を口に咥えると、御名答、と言い乍らモクレンがジーンズのポケットから取り出したルイヴィトンのライターで火を点けた。
私の気まぐれに上手く付き合う。
其れがお前に与えられた役割だろ?。
まるっきり色気がねぇなぁ。
契約事項の御確認でもしてる気分だぜ。
そう言うモンだろ、腐れ縁なんて。
期待した方が莫迦だよな。
本日も頭が良く冴えていらっしゃる。
厭な褒め言葉。
そんな風な皮肉っぽいやり取りを掻き消す様に黒曜が手元のベルを鳴らすと、肌が小麦色に焼けた赤毛の男性店員がやって来て、御注文は、と黒曜とモクレンに向かって言った。
黒曜は降り注ぐ陽光を浴び、銀色に鈍く光るブリキの灰皿に紫煙の灰をポツポツと落とし乍ら、流暢な英語で、バナナシェイクとレアチーズケーキを二つずつ、と男性店員に伝えた。
気が利くな、相変わらず。
額にポツリと汗を浮かばせたモクレンがそう述べると、黒曜は淡々とした表情で、雀百まで踊り忘れず、と言いつゝ、紺色の半袖シャツの胸ポケットから取り出した純白のハンカチでモクレンの額に浮かんだ汗を丁寧に拭き取った。
そしてハンカチを畳み乍ら、ちょっと早めのケーキだけど、まぁ、喰ってくれ、とモクレンに告げた。
波音が響く中、モクレンはひと言、あゝ、と返事をした。
軈てザク、ザクと言う砂を踏む靴音と一緒に別の男性店員の手によって、バナナシェイクとレアチーズケーキが運ばれて来た。
黒曜は男性店員にチップを手渡すと、さてはて御味は、と言い乍ら、バナナシェイクの入ったプラスチックの容器に差し込まれた赤色のストローに口をつけ、容器を握り締めた右手にポタポタと水滴が垂れる中、ズズッと音を立て乍らシェイクを流し込んだ。
こんなのんびりとした状況でこんな飲み物を楽しむなんて、何年振りだろうな。
其れも誰かと一緒になんて。
黒曜同様、シェイクを喉に流し込んで渇きを潤したばかりのモクレンが言った。
まるで息でも吹き返したかの様な口振りだこって。
近過ぎず遠過ぎずかもしれん、心境としては。
期せずして新しい人生の扉をこじ開ける手伝いをした事になるのか。
悪かねぇな、偶の人助けも。
そう言って黒曜は左手でモクレンの右手を優しく握り締めた。
ケーキを食べたら真っ直ぐ帰ろうぜ。
待たせると悪いから。
モクレンは黙ってうなづくと、チーズケーキをバクバクと食べ始めた。
家に戻ると、斎藤氏と使用人、そして料理人達と手際の良い作業のお陰か、食事の用意はすっかり出来上がっていた。
シャンペンを御用意いたしました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。
斎藤氏の手によって空っぽのグラスに琥珀色のシャンペンが注がれると、パーティー・ルームの中に泡がシュワシュワと弾ける音が響いた。
乾杯を済ませると、モクレンは黒曜と一緒に並ぶなり、斎藤氏が知り合いのパテシエに依頼をして作らせたのだと言う苺のミルフィーユのホールケーキに差し込まれた四十本の蝋燭の火を勢いよく吹き消し、寿司と天麩羅をシャンペンと一緒にバクバクと食し始めた。
(今晩ここにいて)
きみの愛をすぐ近くに感じたい
(光を照らして)
僕を安心させるくらい近く
(僕の人生すべてかけて)
僕を見つけてほしいと思ってた
きみが僕の人生の大半を占めている
何日此処に居るんだ?。
総ての食事を済ませ、籐椅子に腰掛けたモクレンは、同じく籐椅子に腰掛けた黒曜に向かって、庭に降り注ぐ月光を眺め乍ら言った。
スピーカーからは、アムブロージアの『ビゲスト・パート・オブ・ミー』が流れていた。
一週間は滞在する予定だ。
距離を縮めたいんでね。
慾が沸いたか。
厭か?。
まさか。
どっから始める?。
お前に任せるよ。
じゃあ、一足飛びって言うのは如何だ。
随分と大きく出たな。
まぁ、良かろう。
そんじゃ、一先ず此れを。
黒曜は黒の紙袋の中からアメジストの首飾りの入った箱を取り出すと、男が好きな人に服を贈る意味が判らん歳頃でもなかろう、と言い乍ら、そっと立ち上がらせたモクレンの首に首飾りを添えた。
ちっとはマシな男になったんだな。
モクレンが笑い乍ら言った。
あゝ、お前と月の光のお陰でな。
黒曜は優しくモクレンの身体を抱きしめた。
其の瞬間、新しい人生が漸く始まった様な気がお互いの中にした。〈終〉
マジック・イン・ムーンライト