ガーネット・ライン

prologue

それは、或る夏の日の出来事だった。

「あっつ……。」

翳した手の指の間から、熱を伴った太陽の光が燦々と降り注ぐ。太陽っていうのはよくもまぁ、毎日飽きもせず昇るものだ。別に1日ぐらい休んだって構わないのに。なんてくだらない事を真面目に考えながら、ぼくは半分溶け始めた氷菓子の袋を開けた。
ここ最近、この地域では猛暑日が続いている。ニュースキャスターが言うには『史上類をみない猛暑』らしいけれど、なんだか毎年そんな台詞を言っている気がするので、今年も特に異常な事態では無いのだろう。あれか、温暖化ってやつか。地球は大事にしようぜ。とか言っといて、冬になったら馬鹿みたいに寒くなるんだよな。例年通りに。暑いのか寒いのかどっちかにしろよって話だ。いや、どっちも嫌いだけどさ。

「なんだっけ、熱中症?日射病?それになりそう。」

 ぼくは誰に訊かせるでもなくそうひとりごちて、口に含んだアイスに歯を立てる。独り言が多いのはぼくの悪い癖だ。自覚している。
 ガリガリと噛み砕かれたそれが喉の奥で溶けるたびに、1度だけ体温が下がった様な錯覚を覚えた。路上で立ち食い、っていうのは端から見てあまり行儀が良いとはいえないけれど、これだけ暑いのだから、今日くらいは許して頂こう。
さて。では現在のぼくがこんなクソ暑い場所で――具体的には直射日光に晒された公園のベンチで、一体何をしているのかといえば。

「あ、の。」

 突如として聞こえた控えめな声。戸惑っている様な、それでいて怯えている様なその声に、ぼくは落としていた視線を上げる。
そこにいたのは、20代後半くらいに見える一人の女性だった。ぼくを覗き込んで、不安そうに瞳を揺らしている。しばらくの沈黙。それから彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「縁切り屋さん、ですか?」

そう。ぼくは只今色々な事情や思惑の元、この人と待ち合わせしている最中だったのである。女性がネット上でしか関わりのない男と1人で会うなんて、やむを得ない事情があったとしたって緊張するのは当たり前のことではある。だからせめてこれ以上おどかさない様に、ぼくは柄にもなく柔らかく微笑んでみせた。

 ジンジンと太陽光が肌を焼く、児童公園の隅。ぼくと彼女の一ヶ月にも満たない利害関係は、こうして始まった。

第1節『彼女の事情』


愛染グループ。
江戸時代から続く名門一族“愛染家”によって作り上げられたその財閥は、財閥解体によって多くのグループが企業化した現代日本においてなおも唯一全盛期の規模を保ち続けている。そしてその巫山戯た大金持ちが、あまりに余った金の消費と暇潰しを兼ねて新しく開業した悪趣味な商売――それが、“縁切り稼業”。
人と人との、「縁を切る」商売である。

 「職業柄いわゆる裏社会との繋がりも多くなるんで、ぶっちゃけ政府関係からは嫌われてますけどね……と、まぁこんな感じなんですけど。ここまでいいですか?」
 「えっと、はぁ、あの、大丈夫です。」

 嘘だな。

ぼくはオレンジジュースをストローでかき混ぜながら、そんなことを思った。そのたびに氷がグラスの内側に当たって、からからと耳触りの良い音を立てている。
 あれからぼくたちは、お互いに軽い自己紹介を終えた後早々に場所を変えることにした。何故って、暑いからだ。炎天下、しかもろくな日陰もないあんなところでさくっと出来るような簡単な話ではないし、何より今回のぼくの依頼者――つまり今目の前にいる彼女が、この暑さに耐えられる様にはとても見えなかったから。勿論、ぼく自身に限界が迫っていたってのもあるけれど。
兎にも角にもそんな訳で、すぐ近くの喫茶店に場所を移した現在、ぼくは一方的に、彼女へ事前説明もといルール説明をしているのだった。

 「“縁切り”におけるリスクは二つ。1つは、一度切った縁を再び繋ぎ直すのは基本的に不可能であること。そして、“縁を切る”というのは本来やっちゃいけない、反則みたいなものなんです。言ってみれば過去の改変ですからね。だから、結果なんて誰にもわからない。“縁を切る”ことで事態が好転するとは限らないし、むしろどうしようもないくらい悪化することだってある。それが二つ目です。」
 「……はい。」

だが、一つ問題があった。今回の依頼主である彼女は、当初のぼくが思っていた以上にぽやっとした人物であるらしい。出来るだけ丁寧に言葉を選んだ、つもりなんだけれど。彼女はわかっているのかわかっていないのか、どちらにしても表情の変化があまり見られなかった。
困ったな、と思う。大抵“縁切り”を依頼してくるのは、怨恨や恐怖で狂い始めている奴ばっかりだ。だからある意味必然的に、“縁切り”を担当している同業者もちょっとマッドが入っている奴が大多数で。こういうタイプは――悪意とか複雑な事情に疎そうな、平和ボケした感じのタイプは――少なくともぼくの周囲では稀な存在なのだった。頭が悪い、というのとは少し違う。いっそただの馬鹿だったら扱いやすいのだけれど、若干調子が狂う。

 それにしても、だ。

 「それでも――お願い、したいです。」
 「勿論。貴女が良いのであれば、お受けしますよ。」

 言いながら、ぼくは改めて彼女を観察する。無論、不審に思われないようこっそりと。
長い茶色の髪と、白いワンピースにチェック柄のストール。彼女の年齢にしては飾り気の無い服装だけれど、決して地味に見えないのは本人の素材が良いからなのだろう。
 ……余談だがぼくの周りには何故か美男美女が多い。本当にもう、嫌味かという位に。彼女もまた、その一人だった。まぁ彼女の外見なんてぼくには関係の無いことだ。重要なのは、あくまで“仕事”に関連する情報な訳で。

 「改めて名乗っておきますね。ぼくの名前はオリベシオリ。折り紙の“折”に海辺の“辺”、武士と機織りから一文字ずつ取って“士織”です。――仙崎悠さん。貴女の依頼は必ず達成しましょう」

 そうしてぼくは、作り上げた笑顔でわざとらしく笑う。視界の隅でふわりと舞った“糸”の先を、横目で確認しつつ。

 「それじゃ、本題に入りましょうか。具体的には貴女と、旦那さんとについて。」
 「……はい。」

 すると仙崎さんは一度目を閉じて、それからゆっくりとまっすぐぼくを見た。探るとか騙すとかじゃなく、まるで何らかの覚悟を決める時のように。

 「これは、夫には話していないんですけれど……。」

そのほっそりした指先は、無意識なのか、左手の薬指に嵌った銀の指輪を撫でていた。

第2節『ティータイムアラート』


 「今日はありがとうございました。あの、」
 「ええ。明日から取り掛かりますので、ご安心を。」

 席を立った彼女をお辞儀で見送る。やがてぱたり、と閉じた喫茶店のドアを見つめて、ぼくは一つ溜息を零す。手元のグラスでは溶け切った氷とオレンジジュースがすっかり混ざり合い、淡い色味に変わっていた。

 「内容自体は想像とは違った、けど、想定の範囲内。よくある悲劇って感じだ」

 結局どれくらいの時間話していたんだろう。ふいにそう思い立って、携帯の電源を入れる。浮かび上がった液晶に表示されたのは“18:23”の文字。だけどぼくにとってはそれよりも、十数件と続けて受信していた、とある人物からの電話の方が目についた。

 「……うわ。」

何かあった、というよりは何も無かったから連絡したんだろう。あいつは“そういう”人だ。それは良い。問題は、ぼくがその電話に出なかったという事実。仕事中だったのだから仕方が無かったんだけれど、そんな常識的な理屈が通じない人物であることもぼくはわかりきっていた。伊達に長い付き合いじゃない。

 「怒ってるな、これは……。」

 最後の着信は14:12。それからもう四時間以上経過しているだけに、すぐに掛け直すというのは少し躊躇われるタイミングだ。どうせ理不尽に怒られるなら電話口で怒鳴られるよりも、目の前で地団駄踏まれた方がマシだと思ったのも確かだけれど。
 どちらにせよさっさと帰った方が良さそうだ。そう判断したぼくは、現状分析もそこそこに席を立った。レシートと、仙崎さんがいつの間にか置いて行った彼女の飲み物代を片手に。お代っていったってたかが2〜300円程度なんだから、奢ったって良かったのに。彼女にしたら、相手が年下であることとか依頼した自分の立場とかを考えたのかもしれない。いやはやなんとも、最初っから最後まで正常な依頼人である。

 「変人の間に普通の人がいるとその人が一番異常に見える」って何かで読んだけれど、それはあながち間違いでもないようだ。これから行くのがぼく史上最高の変人であることを考えると、より一層そう思う。

「マスター、お勘定。」

  ガタガタとなにやら気になる音を立てている厨房に向かって声を上げれば、突如として一瞬静寂が訪れる。後に一番大きな、まるで皿でも落としたようなっていうか多分本当に落としたのであろう音が響いて、この喫茶店の主人が慌てたように走り出てきた。そんなに焦らなくても、とは思ったけれど、それを指摘すればまたパニックになるだろうから黙っておく。

 「悪いな、いつもいつも。助かったよ」

 小銭をトレイに載せつつそう言うと、こくこくこくと擬音が聞こえそうなくらい大袈裟に頷いて彼は気の抜けたような笑顔を見せる。その仕草に、こちらまでつい笑ってしまった。
この喫茶店――ドグラ・カルマ(すげぇ名前だ)の主人、つまり目の前の彼は、実を言うとぼくの幼馴染である。中学卒業と共に調理師免許を取って、親の形見の喫茶店を継いだ。元から仲はいい方だったし、色々と助けたり助けられたりした“縁”もあって――少し前から“縁切り”の話をする際の打ち合わせにはもっぱらここを使わせて貰っていたのだった。
 顔なじみの店、というだけではない。ちゃんと理にかなった利点が多々あるし、雰囲気も良い。ビジネスの話をするには打ってつけの店だとも思う。ただ、一つだけ。

 「…………!」
 「ああ、はいはい。」

落ち着きなく周囲を見回していた彼が、やがてカウンターの下に消える。おおよそ5秒の沈黙。その後、ぱっと立ち上がった彼の手には、どこにでもありそうな白の炊飯器があって。あろうことか、彼はそれをぼくの目の前で、勢い良くぱかりと開けた。
 中身を見せるように角度を変えて差し出され、ぼくは内心溜息混じりに中身を覗き込む。中身。それは、ほかほかなあさりの炊き込みご飯だった。
 はたから見れば意味不明な行動だろうが、ぼくはその意味を知っていた。というか見慣れている。だから、当たり前のように口を開いた。

 「なんだ、妙に機嫌良いな。なんかあったのか?」

 ぶんぶんぶんと何度も何度も頷いて、それから彼は炊飯器を置き、再び厨房に駆け戻る。一方のぼくは、カウンターに肘をついて彼の帰りを待つことにした。急ぎの用事はあるが、親友が珍しくこんなにも嬉しそうなのだから――たまには、話しくらい聞いてやったっていいだろう、と。話っていっても彼は自分の言葉で話すのが苦手で、昔から何故か(本当に意味はわからない)炊飯器の中身で意思表示するので意味を察するのには少しコツがいるのだけれど。滅多にないが怒っている時は玄米、悲しいときはお粥、というように。

やがて聞こえてきたのは何かが倒れる音。あるいは、何かが崩れる音。それから彼は、手にしたものを零さないようにそぅっと戻ってくる。ソレを見た瞬間、ぼくは先ほどの少しこっぱずかしい感じの友情だとかが一気に失せるのを感じた。

 「……お前、」

 何故なら。彼が大事そうに運んできたのは、未だかつて見たことのないような特大パフェ、だったからだ。っていうか、パフェ?パフェだよな?サイズ的にはもう全然違う種類の食べ物に見えるけど、っつーかタワーにしか見えないけど、パフェだよな?

 「さっきから作ってたの、それか。」

 こくこくこく、と三回頷く。
肯定だった。

「……士織も、食べる?」

 控えめに、だけれど少し声を弾ませて放たれた誘い。彼の肉声を聞いたのはなんだかんだで一ヶ月ぶりくらいだったけれど、その誘いに乗るには、ぼくの味覚と胃袋はちょっと正常過ぎたので。
妙に嬉しそうな彼には申し訳ないが、拒否以外の選択肢はどこにもなかったのだった。ごめん。

第3節『暴れ姫君』


 「渋谷のハチ公伝説を知っているかな?」

 …………。

 「とある大学博士に貰われた秋田犬“ハチ”が、亡くなってもう帰ってこない主人を渋谷駅前で待ち続けるというお涙頂戴の物語だよ。映画にもなったし、知っている人も多いだろうね。ちなみにわたしは泣いたよ。三回連続で見て三回とも泣いたさ。」

 三回泣くって凄いな。つーかどんだけ好きなんだよハチ公。

 「ただあの物語、確かに面白いけれど実話とは大分違うところがあってね。フィクションにしてのノンフィクション故にあれだけの面白さだったのかもしれないけれど。ただし、ハチ公の晩年を変えてしまったのはわたし的には残念だったかな。あれではハチ公はただの悲劇の女王だよ。いやここは、悲劇の犬にしておくべきか。現実に劇的な事象など起こりえない、というのがわたしの哲学。リアリティを追求するのであれば、あれは頂けなかったね……。感動のラストシーンでハチ公が餌付けされていたりとか自分の銅像の除幕式に出席していたとかのエピソードを足してしまったら、台無しどころの話ではなかっただろうけれど。でも本来は、そういうものだと思うの。綺麗なエンディングなんてそうそう起こり得ない――さて、ここで質問だ。」

 「――人間でありながら、主人でも無い人間をハチ公よろしく待たされたわたしが今何を求めているか。または、跡継ぎ候補としての地位は低くとも一応は愛染財閥の令嬢であるわたしをまんまと犬扱いしてくれた君が、この場で発言できる最善の言葉はなにか。君の足りない頭でも、それくらいはわかるかな?」

 一方的に朗々と捲し立てた後で、ん?と微笑みながら首を傾げたのは、ぼくよりいくつか歳下の少女。淡い白髪がさらりと揺れて、ゆっくりと赤い目が見開かれて。怒りを隠そうともしないその視線を向けられた途端、ぼくは勢いよく頭を下げた。

 「お待たせしてすいまっせんでした!」
 「足りないなぁ。もう一声」
 「申し訳ありませんでした許してくださいお願いします」

 ――ああ、もう、ついてねぇ。


それは、数十分前のこと。

 喫茶店を出たぼくは、大通りを真っ直ぐに駆け抜けていた。時刻は夕方。帰宅途中の学生や会社員の奇々とした視線を感じたけれど、それに気を取られている余裕なんてぼくには無い。
何故なら、だ。

《着信:“姫”》

 先ほどから何度も何度も何度も執念深く携帯電話に表示される、同じ名前。恐る恐る電話に出てみても無言で切られ、けれどまたすぐにかかってくる。これでもう13回目の着信だ。
おそらく、というか確実に、通話を目当てにした行為ではない。残酷なまでに正確に明確に遠慮なく推測するなら、これはきっと、警告音代りなのだろう。
さっさと来いよこの野郎、という……

 まったくもって洒落にならない。

 「ぼくが悪いのか?いや別にぼくのせいじゃないと思うんだけどぼくが悪いんだよなぁ多分」

 なんてぶつぶつ呟きながら、硝子張りのビルの中へと飛び込む。お洒落なフロントの空気に溶け込めてなぼくは明らかに不審者だった。それは自覚済み。でも、一旦漏れ出した自問自答はそう簡単には止まらないもので。
 どんな事情があってどんな理由があってどれだけ避けようのないことだったとしても、“彼女”が「悪い」と言えば悪くなる。今回だってそうだ。ぼくには弁解の余地すらない――“彼女”が、「ぼくが悪い」と思っている間は。ぶっちゃけ矛盾しているしかなり理不尽だけれど、ついでにものすごく困ってもいるけれど、それを指摘する気にはならなかった。諦めざるを得ない、というか。それ程までに、“彼女”は絶対にして圧倒的なのだ。
 だから、もはや今ぼくの中にあるのはどう言い訳するかという思考ではなく。被害を最小限に留めるにはどうやって謝罪するのが最善か、という思索シミュレーションだけであって。

 「怒ってんだろうな、よくわかんないけど。」

 丁度、というか多分意図的に向かわされていたエレベーターに飛び乗り、ボタンを乱暴に叩いて扉を閉じる。それから続けて『388811159』と、押し慣れたその順番で素早く回数ボタンを連打すれば、がたんと音を立て上りかけていた鉄の箱が、一気に降下し始めた。
 ここまで来ればもう。と、エレベーター特有の、重力が狂った様な感覚に耐えつつ背後の壁に背を預けて、ゆっくりとため息を吐く。その間も携帯電話は鳴りっぱなしだ。充電は大丈夫だろうか。少し心配だけれど、でもそれどころでは無い。
 こう言うと誤解を生むだろうが、“彼女”は決して怒りっぽい訳ではない。リーダーとしてなら一流と言えるだろうことは、“彼女”と相対したことがあれば誰だって知っている。ただ、――ただ。沸点がいまいちおかしいというか、より正確に言い表すなら、

 「あら、おかえりなさい。士織」

 そう。怒ると怖い、のだ。

 「それじゃ、ちょぉっとお話しようか?」

 エレベーターの扉――《その部屋》に直接繋がる唯一の出入り口――が、焦らす様にのんびり開いて。窓から差し込む夕日が、磨き抜かれたタイルの壁や床に乱反射する。
 僅かに広くなった視界の先、“彼女”は可愛らしく笑っていた。引きずるくらい長い白髪を乱暴に後ろへ払い、深く深く深い真紅の目を柔らかく細めて。それは絵になるくらい綺麗な光景だったけれど、一点。手にした大きな熊の縫いぐるみが、その構成をぶち壊していた。何故って、そんなの決まってる。
 熊には、両手両足が付いていなかったからだ。それだけじゃない。首だって、今にももげてしまいそうなほどぐらついている。おかしいなぁ、こんなスプラッタな縫いぐるみだったけ。今朝ここを出た時はもっと子供向けのデザインだったと思うんだけれど。それと、切り口。あれって多分鋏の切り口だよなぁ。アレか、ぼくが留守の間にこの熊は開腹手術ならぬ切断手術でもしたのか。そりゃあ一大事だなぁ、って。

 「あれ?士檻、もしかして嫌なの?美人の依頼人とはわたくしの電話ガン無視してまで楽しくお喋りしてた癖に、わたくしとはちょっとも、一言一句一音たりともお話したくないってことなのかなぁ。それは少し、少しだけれど……腹が立つなぁ。腹が立つから、言い直すね」

 すると“彼女”は、あくまで微笑みを絶やさずに――けれど悪魔みたいに冷たい口調でそうっと囁く。

 「……事情を説明する機会をやるからちゃっちゃと吐けって言ってんだよ。もちろん正座ね。一から十まで、全部、わたくしが納得するまで存分に言い訳しろ。返答によっちゃ、抉るぞ」

 で、冒頭に戻るわけで。
 回想終了。

第4節『椿のさくらん』


 「お客様に会うときは携帯電話を切る。それは確かに正しいことだけれど……前提として、ただのルール説明に時間をかけ過ぎだよねぇ。そんなに話すことがあったの?依頼人――仙崎悠、だっけ。その人と」
 「いや、まぁ、そうっちゃそうなんだけど、」
 「美人だから?」
 「はい?別に、依頼人の外見は関係な、」
 「でも、美人だったんでしょ?」
 「……美人でした。」

 愛染椿。確かに本名はその一つだけだけれど、彼女には呼び名が多数存在した。《愛染家第六令嬢。》《現当主の唯一の血縁者。》《災厄の娘。》《暴君。》《白椿。》《姫。》
それから、《愛染グループ絶縁部門最高責任者。》

 つまり、目の前にいるこの少女が、ぼくの直属の上司という訳だ。

 「馬鹿。この馬鹿。ばかばかばーか。」

 彼女は自身の玉座ならぬ事務椅子に腰掛け、不満気に頬を膨らませる。彼女の年齢を考慮すると年相応だけれど、少しでもその内面を知っている人間から見れば少しだけ不釣り合いにも思える、そんな表情。
何故彼女がこんなに怒っているのか、正直ぼくには全く心当たりが無い。いやまず、ぼくは怒られてるのか?怒られてるんだよな?

 「怒ってるっていうよりは、“拗ねてる”んだろ」と。

 不意に背後から届いた無遠慮な声に、あっさり思考が切れる。正座したままじゃどうやったって真後ろにいるその人物の姿を視認することは出来ないから、ぼくは痺れた足でなんとか立ち上がり振り返った。
 一方で、当の本人はもうぼくから興味を無くした様に悠々と缶珈琲を啜り、緩慢な仕草で足を組み直す。それがなんだか妙に似合っていて、ぼくは内心舌を打った。
白いワイシャツに黒いスラックスという、至極シンプルな装い。窮屈そうにまくり上げられた両の袖口から覗く、決して少ないとも小さいとも言えない古傷の痕。加えて仄かなグレイの髪に同系色の目。それらが、盛大に全体の調和を乱してしまっていた。乱したというか、ぶっ壊しているというか。
まぁ、彼らしいと言えば、彼らしい――――

 「己れはあまり人の精神の機微に詳しく無いが、それぐらいはわかるぞ。」
 「はいはいそーですか。じゃあ今回の依頼もぼくに押し付けてないで自分でやれってんだよこのニート。」

おっと、失礼。つい本音が。

 するとあいつは、そこで初めてぼくを見て。――っつっても、開けたのは片目だけだったけれど――その瞳が愉快そうに面白そうに楽しそうに細められたのを感じて、少しだけ体が強張った。
 ぼくは知っていたのだ。
“彼”が常時手元に置いている、ついでに言えば今も自分が腰掛けたソファに立て掛けてある、紺の竹刀袋。いつでも手に取れるその中身が、竹刀なんて安全な物ではないことを。まぁ、彼がぼくの戯言程度で気分を損ねるたちじゃないことも、理解はしているんだけど。
 こればっかりはしょうがない。条件反射というか、動物的な本能みたいなものなのだから。眠れる獅子を恐れるように、あるいは、君子が危うきに近寄らないように。

 「過大評価してもらってるとこ悪いが、己れは獅子なんて器ではないよ。お前が君子なんて大層なものじゃないくらいにはな。」
 「うっさいよ例え話だっつーの。そこまでナルシストじゃねーし。っていうかさりげなく人の心読むのやめなさい。」
 「いっそナルシストだったら良かったのにな。お前の場合は、自分を過小評価した上でのそれだから、」

 尚更悪いな。
そう言って喉の奥で笑う彼に、ぼくは何も言い返せず視線を逸らす。なんだか負けた気分だった。
畜生。今度依頼あっても代わってやらねぇからな。

 「ちょっと、」

 なんてことを考えながら、それでも何か一矢報いてやろうと口を開きかけた、瞬間。とすん。と、背中に走った軽い衝撃。それからまるで締め上げるみたいに腹部に絡んだ白い腕に、ぼくは呼ぶ予定の無かった名前を呼ぶことになった。

 「姫?」
 「……わたくしのお説教中に雑談なんて、いい度胸だよねぇそう思うよねぇ。」

 言うが早いか、腕に力が込められてぐっと腹を締め付けられた。と、いってもだ。彼女の力ぐらいじゃ別に苦しくもないっていうかあんまり圧力は伝わってこないんだけれど、だから内臓の心配とか骨折を気にする必要もないんだけれど、何これ、ドメスティックバイオレンス?反抗期?

 「ひーめー?痛い痛い痛いってぼくそんな丈夫じゃないんだから勘弁して下さいっていうか痛い!」
 「そんなすぐバレる嘘にどんな意味があるの?大して痛くなんかないくせに。とにかく、さっさとお仕事の話して。出張に行ってる子達が帰って来る前に完了するのが理想かなぁ。」
 「そうですねじゃあ会議しましょうかだから離して下さいってほら!あいつやっちゃっていいんで!」

 ギリギリ、と音がしそうな程に締め付けられて、咄嗟に目の前の男を指で示す。すると彼女はちらりとあいつを横目で見て、次に非難する様な視線をぼくに向けた。

 「士織、仲間と敵の区別付いてる?」
 「今だけは言われたくなかったなその台詞!」

 その間も、あいつはひきつづき我関せずという態度を貫いていて。ぶっ飛ばすことは出来ずとも、一回殴ってやろうかと割と本気で思ったのはぼくだけの秘密である。

第5節『語らぬ花』


 「仙崎悠、現在25歳。性別、女。血液型はRh+のA型。入籍したのは3日前で、結婚式は一週間後。両親はすでに他界している。右利き。趣味はピアノで特技は編み物。前科・補導歴共に無し――ついでに、彼女の夫にも“一応”は無し。で、今回の依頼内容は『夫との縁を切ること』だ、そうです」
 「ふーん?なんだか珍しく普通というか、平凡というか、異常だね」

 肘起きへ突いた手に顎を乗せて、つまらなそうに姫は言う。確かにそれはぼくも一度考えたことで、おそらくこの話を聞いた全ての同業者がそう言うだろうことは間違いなかった。普通で、だからこその異常。

 「裏に何があるかわかったものじゃないねぇ。ああ、怖い怖い」

 心にもないことを、と思う。
思っただけだった。

 「その人、暴力でも受けてたの?何かしら理由が無かったら、縁切りなんて手は出さないと思うんだけれど」
 「それは無い、気がする。律儀に指輪付けてたからな。

 そんなぼくの独り言に気付いているのかいないのか、姫はゆっくりと目を伏せる。その赤い目に宿った感情が一瞬だけ静まって、だが次に開かれた瞬間、そこには子供のように無邪気な笑みが浮かんでいた。

 「そう、そこなんだよ」

 「指輪付けて、三日前に籍入れたばっかりで、だけどもう相手を“夫”と呼んだ。つまり彼らの生活は、幸せとは言えずともそれに近い状態ではある筈でしょ?なのに、縁を切りたいだなんて……気になるね」

 がたん、と跳ね上がるように椅子から降りた姫は、至極楽しそうに笑っていた。その様を見ながらぼくは昼間彼女と交わした話を思い返す。

『これは、夫には話していないんですけれど……。』

依頼人、仙崎悠。実を言うと、ぼくは彼女の“事情”を知っていた。というか、本人から聞き出している。それは“縁切り”を完遂するために必要なことだったからってだけの理由で、他意は存在していなかったんだけれど。存在していなかったのだから、ここで説明するべきではあったんだけれど。

 ただ、なんとなく、“言い辛かった”。
真実を、真相を、――――舞台裏を。

 舞台の表でぼくがすることは、『依頼に則って縁を切る』、それだけのことだ。仙崎悠という役の設定まで口にする必要はない。……なんて、言い訳してみたり。するとそこで唐突に、先ほどから黙ったままだった彼が口を開いた。

 「姫、」
 「ん、?なぁに、桐夜。」

 矢塔桐夜。
彼の――45番目の、名前だった。

 「最近政府が動き始めてるって、ちょっと前に報告したよな?そっちもいよいよ手を打たなきゃならない段階まで悪化――否、世間的には良化か。どっちだっていいけれど、とにかく動き始めている。己れ個人の意見としては、貴女には大人しく敷地内で策を弄して頂いた方が最善なのだが。」

 彼は、横目でぼくを伺いながら言う。どうせさっきの思考でも読んだんだろう、と思った。そしてきっと今も、彼の前では筒抜けなのだ。

“読心術”

 それが桐夜の特技であり、本人曰く「最も余分」な能力であることは、ここの従業員なら誰でも知っている。ぼくもその例外ではない。そのうえで。ぼくが結果的に隠した事実を知ってなお話を進めてくれたことは、正直ありがたかった。
 姫が万が一にでも仙崎悠に興味を持って、また万が一にでも探り出し始めてしまったとしたらど――う転んでもこちらに被害がくるのは間違い無いのだから。

 「そうだろう?士織」
 「確かにな。最善を尽くすのが必ずしも最善とは限らないけれど、上策ではある。」
 「うーん、一理あるねぇ。」

 姫はぶつぶつと何かを呟いて、それから溜息を一つ、溢した。諦めたように、妥協混じりの溜息を。

 「しょうがないね。うん、こればっかりはしょうがない。わたしも人間だから、一気に全部は無理があるもの。」

 その手から離された熊のぬいぐるみが、ぼすんと地面に落ちて。自由になった両手をなんでもなさげに広げつつ、姫は少し演出過剰気味に、こう宣言する。

 「今回の依頼は士織に任せるよ。わたしは手を引く。手を引いて、黙って政府と遊んでいるよ。桐夜も、こっちに付き合ってもらう。最近は物騒だからねぇ。」

 「……だから、《後は頼んだよ?》」

 柔らかく、だけど反論を許さない強い声。それは普段の、いたいけな少女のものではなく。引け目も掛け値もなく絶対にして圧倒的に、愛染グループ絶縁部門最高責任者としてのそれだった。だからぼくも余計な言葉は弄せずシンプルに応答する。

 「……了解」

第6節『ガーネットライン』


 それでは皆様、少しの間お付き合い願います。

 今の自分を作ったのは、昔の自分だと仮定した時のこと。思い返してみて、思い出した時のこと。
 出会って良かったと思う人。そんな人物はいるだろうか?ぼくには、いたような気がしている。その人物に出会わないまま生きていたらきっと今の自分は存在しないだろうという人物が。

では逆に。

 出会わなければ良かったと、本当に一生巡り会わなければどれだけ良かったかという人物も、存在しているだろうか。ぼくには、いる。そいつとさえ《縁がなければ》、ぼくはもっとまともに生きていられたんじゃないかと思えるほどの人物が。
 それでも人は言う。「無ければ良かった出会いなどない。一つでも足りなければ、“今”はなかったのだから」と。それはきっと正論だ。正しい。残酷なくらいに、正しい。
 けれど世の中の人間が、必ずしも正しいとは限らない。正義の味方がいるように、悪の味方とは言わないまでも。正義の敵は、いる。否。正確には――正義の味方でいることに耐えられなかった人間。それはいつだって、一定多数存在しているものだ。そして、正義から見捨てられた彼らは願う。願って、祈る。

「無かったことにしたい」と。

 その言葉に答えた結果が、“縁切り”。
人と人との間に通った縁――出会いの赤い糸を切り捨てる、一方的な拒絶という救済策。そして、その救済策を執行するぼくたちもまた、正義の味方にはなれなかった人間だ。
 だからまぁ、頑なに正義を信仰してきたご立派な人間様が、逃げ出して堕落した負け犬を嫌うのも、しょうがないといえばしょうがないことなわけで。

 「政府、ねぇ。」

 自問自答、終了。
 結果、特になし。

 「ぼくはそっちの担当じゃないし、関係はないんだけどな。」

 でもやはり動きにくくなる事実は否めない。と、ぼくは内心溜息を吐いた。イヤホン越しに聞こえる電車の音が、体の中で鮮明に響いている。かたん、ことんと。
 心臓の音のようだ、とも思ったけれど。
 電車が生きているように感じるほど、ぼくの脳は素敵で詩的ではなかった。

ところで現在、ぼくが何をしているかというと――答えは大方の想像通りで、一人電車に揺られている最中なのだった。とはいえ。ただくだらない脳内会議をするためだけに電車に乗車するほど、ぼくは暇人でも無ければ金銭な余裕も無い。ついでに、電車という文明発展の成果に喧嘩を売るつもりもない。じゃあ何故ここにいるのかと問われれば――まぁ、移動のためだとしか答えようがないが。それも、結構長距離の移動。
 つまり今までの、独り語りというか自分語りは、単なる暇つぶしだったということで。

 さて。

 先ほどは随分と抽象的な話をした自覚があるので、ここからは具体的な話をしよう。ぼくたちが政府に狙われているのは、というか危険視されているのは、何も正義がどうとか悪がどうとかなんて精神論が理由ではない。そこには否定の使用もないくらい正当な理由があって、だからこそぼくたちは真っ向から対立しているのだけれど。

≪縁切事業は犯罪の温床≫

 いつだったかどこかの警視が、確かそんなことを言っていた。つまりは、そういうこと。
 銃刀法違反、プライバシーの侵害、傷害……時には殺人未遂まで入ってくる。“縁切り”というだけで割と道徳には反しているんだけれど、こうも違法行為のオンパレードでは目をつけられてもおかしくはない。いや、逆に目をつけられなければおかしいだろう。日本警察は何やってんだっていう話だ。色々と事情はあるんだけれど、情状酌量が望めるような高尚な事情ではないわけだし。詳しくはまた別の機会に語ることになるだろう。今大切なのは――“縁切り稼業”は、犯罪者の一歩手前であるという事実。
 だからって、何をするでもない。ぼくの場合は特に。交渉事は姫の仕事で、暴力沙汰になったら次は桐夜の仕事で。ぼくの仕事は、“縁切り”を遂行するだけだ。
 非常に簡単なお仕事である。ある条件を果たせれば、誰にだって出来ること。だから、ぼくがやる。

 「単純だよなぁ。」

 誰が?
 さぁ誰だろうね。

 『まもなく鈴白駅、鈴白駅に停車します。お忘れ物のないようにーーーー』

鼻にかかるような、電子音のアナウンスが次の目的地を告げる。聞き覚えのある名前。確かここだった筈だ。そう思って、膝の上の茶封筒を開け中から一枚の紙を取り出す。
B5サイズの再生紙に印刷されているのは、“依頼人No.4789『仙崎悠』”の様々な情報だった。性別・年齢・家族構成・経歴は勿論趣味や特技、利き手まで余すところ無く記されている。その中でも最上部――氏名の欄のすぐ下、住所の欄に目を移せば、そこには間違いなく『鈴白地区⚪︎⚪︎丁目△×通り』の文字が。
 つまり、ぼくはこの駅で降りることになる訳だ。

 「……問題は、どっちを選ぶかなんだよ。」

 始めるか、終わらせるか。

 この時点で、ぼくはまだ決断していなかった。どちらを選んでも変わらないような気がしたし、どちらを選ばなくても、大して困ることはなさそうだったから。ただ、あまり時間は無い。ぼくではなく彼女の方に。
 とりあえずは行動あるのみだ。と、紙を再び封筒に戻して席を立つ。

 ふわり、と。

 視界の端で躍った赤い色。
思わず振り返れば、その色――否、その“糸”の先はたまたま居合わせた女子高生の小指に絡まっていた。彼女は携帯の画面を何やら懸命な様子で覗き込んでいて、その表情は至って幸せそうに緩んでいる。糸のもう片方の先は、車体の外へと続いたまま見えない。
 少しの沈黙。それから軽く両目をこすって、ぼくは開いたドアへと歩き出した。
とん、と駅のホームに降り立った途端、なぜか溢れてきて堪えきれなかった笑いが喉の奥から漏れて。次に振り返った時、そこにはもう、“赤い糸”の姿は無かった。

第7節『ゆうやけこやけ』


 「それじゃあ悠、行こうか」
 「はい、知英さん。――あぁちょっと待って、水筒忘れちゃった」

 現在位置、仙崎家前。
柔らかい笑みを浮かべ、手を取り合って歩き出す男女。二人の薬指にはお揃いのシルバーリングがはめられていて、どこからどう見ても新婚夫婦、という出で立ち。確認。女性の方は間違いなく仙崎悠である。となれば、隣の男性は彼女の旦那と考えて良いだろう。確か名前は――――

「仙崎知英、だったっけ。」

 とりあえず、二人はどこかに出掛けるつもりらしかった。ぼくとしては好都合だ。直接話をするよりは、普段の生活を見た方が人間関係の状態は分かり易い。二人揃っての外出は想定外だったけれど、もともと“外側”から観察するだけの予定だったし、幾分か手間が省けるのだから。
……そう。あくまで仕事としては好都合だ。とはいえ。

 「新婚夫婦の休日デートを尾行して盗み見るとか、我ながらいい趣味してるよなぁ。」

まぁ別に趣味じゃないんだけど。
なんて一人漫才みたいなことを呟いて、ぼくは出来るだけ平静を装いつつ、彼らの後ろを歩き始める。仕事だからしょうがない、とはいってもなんだか少し申し訳ないような気分だ。二人だけの世界に乱入してるような、あるいは馬に蹴られて死んでしまいそうな、そんな気分。
……けれど、いつまでも良心の呵責に浸ってる場合じゃない。正直言って尾行は専門外だ。ぼくは探偵じゃないので。仙崎悠にはぼくの顔が知られている。まぁ彼女の方は万が一バレても誤魔化せそうだけれど、問題は夫の方である。
 一見すれば人の良さそうな彼の“本職”をぼくは知っている。彼に怪しまれれば、ぶっちゃけ生きて帰れるかも定かじゃない。

 「ハイリスク、ただしリターンは保障しませんってか?面白くなってきやがった。」

 ふっと短く息を吸って、思考を切り替える。何者でもない誰か、主人公の背景。そういう脇役になりきるためには意識して自意識を殺さなければならない。余計なことは考えず、空間そのものに寄り添うように。

やがて不意に振り返った仙崎知英の両目は、狙い通りぼくの姿を捉えることなく逸らされた。


 数十分後。

「っ知英さん!何から乗りましょうか?」
「そうだね……悠はどれがいい?」
「私は――、」

《不動遊戯場》、いわゆる遊園地。二人の目的地はここで間違いないだろう。一人で入園するのはちょっと躊躇われたけれど、なんとか尾行は続行中だ。被害妄想だろうが若干受付のお姉さんが訝しげにしていた気がして勝手に少し凹んだ。もう二度と来るかこんなとこ。

 「まぁ、それは置いといて。」

 周囲から不審に思われないよう注意を払いながら、二人を伺う。ぼくと彼らの間に必ず何かしらの障害物が入る絶妙な位置を見計い、少しずつ近づくのも忘れずに。そんなことを繰り返し、会話が聞こえる距離まで移動して――ようやくぼくは強張っていた体から力を抜いた。

 ベタなデートプラン。となると理由ぐらい馬鹿でもわかる。

“思い出作り”

 恋人同士が遊園地に行くのに他に何があるというのだ。別にそれは良い。ありふれた、当たり前の感情だろう。……ただ。

 「私は、なんだっていいです。知英さんの側に、いられるなら。」
 「おいおい、なんだよそれ?」

 仙崎悠の様子に、ほんの少し、違和感があった。
心の底から楽しそうなその笑顔も、跳ねるように軽い足取りも、柔らかく響く優しい声も。なんだか――そう、作り物っぽいというか。
 大して付き合いのないぼくにわかったんだから、仙崎知英が気づいていない訳がないけれど、彼はあえて彼女を問い詰めようとはしなかった。どころか、見て見ぬ振りの知らん振りを通している。――誰だって、勿論ぼくだって、仙崎知英と同じ立場だったならきっと等しく口を噤む。それ程までに、今の仙崎悠は奇妙だったのだ。
 まるで硝子の積み木を積んだような、指先で押したら崩れてしまいそうな根拠のない不安定さ。だからこそ、仙崎知英は沈黙を貫いて。
そんな彼に、彼女は変わらない笑顔で問う。

 「知英さん、楽しいですか?」
 「ああ、そうだね――うん。とても、楽しいよ」

 その言葉以降、彼女は子供に戻ったのかのように遊びまわった。最初にぼくが出会った“仙崎悠”は偽物だったのではないかと思える程に。
 大人らしさなど欠片も無く。
 キャラ設定なんて見る影もなく。
 何もかも投げ打って。
 はしゃぎ回って。
 駆け回って。
 跳ね回って。
 壊れてしまったかのように。
 割れてしまったかのように。
 致命傷でも負ったみたいに。
 狂った玩具のように。
 舞い踊って。
 舞い上がって。
 限度を忘れて。
 立ち止まることも。
 振り返ることも。
 戻ることさえも。
 諦めて。
 見限って。
 見捨てて。
 見飽きて。
 それでいて足掻くように。
 逃れるように。

 彼女は笑っていた。声を上げて笑っていた。自分に言いきかせるように。幼い子供に言って聞かせるように。押し殺すように。

 彼も笑っていた。
誤魔化す様に、笑っていた。

 二人は、何かを埋める様にデートを楽しんでいて。それこそ日が暮れるまで、幸せそうに。だけど二人とも本当は、心の中ではちっとも笑っていなかったのだろうと。
ぼくは、思った。
思わざるを得なかった。

夕焼け小焼けのメロディが鳴る。

 「悠、飲み物買ってくるよ。何が良い?」
 「知英さんと同じのであれば、なんだっていいです」
 「……わかった。ここで待っていて」

 流石に疲れたのか、二人は園内のベンチで休憩するようだった。仙崎知英が少し離れた自販機に向かうのを横目に、ぼくも一度大きく伸びをする。これだから尾行は嫌いだ。無駄に疲れる。ついでに時間もかなり消費する。盗聴器なり監視カメラなり仕掛けた方がよっぽど有意義な気はするんだけれど――やっぱり雰囲気とか“形の無いもの”は、その場で感じるのが一番手っ取り早かったりもするわけで。
 結論。仙崎夫婦の仲は決して悪くはない。どころか非常に良好だ。大袈裟に言うなら、理想の夫婦というか。

 さて。

 今回の結論と仙崎悠の告白を合わせて考えれば、やはりぼくが最初に考えた推論が一番正解に近いのだろう。
“仙崎悠が夫と縁を切りたい理由”
だけど、ぼくの想像通りの理由だと仮定するならば――今回の物語に、ハッピーエンドは《在りえない》ということになる。それはちょっと、何というか、やるせない気分だった。“誰も悪くないのに誰も救われない”なんて、縁切りっていう仕事をしている以上幾度となく見てきたけれど、というか見飽きているけれど。

 「なんだかなぁ。」

 真相を知ってしまっているぼくがこの場で言えるのは、それだけだった。あまりにも滑稽で、いたたまれなくて。見るに堪えない――そんなことを考えた、時。

 「あーあ」

 不意に聞こえた小さな小さな声に、ぼくは慌ててベンチの方を振り返る。そこに居たのは仙崎悠だけで、仙崎知英の姿は無い。つまり、彼女の独り言だったと。思わず安堵し、ため息を漏らす。
そして、

「ごめんね、知英さん。
私のこと、ちゃんと忘れてね」

 真っ赤な夕日に向けて吐き出されたその言葉を聞き届けて、ぼくは彼女から遠ざかるように歩き出した。ある程度の離れてから、携帯電話を取り出し画面に触れる。ロックを外し電話帳を開いて、――“あ行”の一番上、彼女の番号を押して。
 数回のコール。それから、聞き慣れたあの声がぼくの名前を呼ぶ。

 「もしもし士織?この前の仕返しにしばらく着信無視ってやろうと思って待ち構えてたのに気づいたら通話ボタン押しちゃっててちょっと後悔したけど久しぶりに士織の方から電話かかってきたから驚き半分嬉しさ半分でそれどころじゃなくなってる愛染椿さんだよ」
「無駄に詳しい状況報告ありがとう」
「いえいえどう致しまして。っていうかどうしたの、元気ないよね」

 やけに確信めいた問いに、ぼくは少しだけ苦笑する。一から十までいつも通りの姫だ。そう思うとなんだか悪くない気分で、いつもより少し饒舌になってる自分を自覚した。

 「別に、何でもないよ」
 「そう?わかった。そういうことにしておく」
 「ところで姫、お前今事務所に居るのか?」
 「いるよー。補足するなら、床に寝転んでポテトチップスを食べています」
 「そこはソファーにしとけよ……」

 財閥令嬢の癖に寝転んでポテチってどうよ。まったく、変な所で庶民感覚を発揮する奴である。だがそれも、“らしい”といえば――らしい。
愛染椿。
愛染家随一の、異端分子。
彼女がいつも通りであることに、ぼくは不思議と安堵していた。

 「姫、ぼく今日事務所に泊まりたいんだけど。いいか?」
 「勿論いいけど、どうしたの?珍しいねぇ。明日(雨でも降る)んじゃない?」
 「降るか!いや降るかもしれないけども……じゃなくて。なんか家に帰る気しないんだよ。こっからだと事務所の方が近いし」
 「ふふん、喜んで」

 電話の向こうで、ぱりんと小気味好い音がする。きっとポテチだ。さっきの台詞は現在進行形だった、つまりは、そういうことなのだろう。
 電話越しだと三割り増しで子供っぽく感じるこの少女が、実はぼくの上司だというのだから、世の中わからないものだ。そんなどうでもいいことを考えていた、ぼくの耳に。
飛び込んできたのは、別人の様に明るい声で。

 「――待ってるねっ」

 言うが早いか、プツンと一方的に切られた回線。

 「え、」

 あんまりにも唐突過ぎたそれに反応出来たのは、随分時間が経ってからだった。


 「……とりあえず、帰るか」

 とっくに通話の終わった携帯電話をポケットに仕舞って、ぼくはもう一度だけ振り返る。
彼女たちはまだ、そこに居た。並んでベンチに座って、無理やりな笑顔で笑って。
その姿を第三者として見ていることが、なんだかどうしても我慢出来なくてすぐに目を逸らす。
わかってるんだ。
自分の役割くらい、自分でわかってる。
わかっては、いるんだよ。

 ただ今は、何となく、姫に会いたい。
そんな気分だった。

第8節『幕を下ろせ』


 ぐい、と力強く服を引かれて目が覚める。いつもとは違う天井に内心首を傾げ、一瞬遅れてから理解した。昨日は事務所に泊まったのだ。つまりここは、事務所のソファの上。自己完結。

 「はよ、」
 「おはよう。よく眠れた?」
 「まぁ、割と」
 「それは重畳」

 肘を付いて体を起こし、未だ冴えない頭を軽く振る。低血圧って訳じゃないと思うんだけれど、ぼくは何故か寝起きが悪い。もっともそんなのは自覚さえしてしまえば、あまり困ることはないが。
改めて周りを見渡せば、やはりそこはソファの上だった。見覚えのある室内に、姫の姿。

 「わたくしが添い寝してあげた甲斐があったね」

 待て、どういうことだ。

 「嘘だよ。試してみたけれどこんな狭いソファで添い寝はちょっと無理だった。とりあえず写真は撮った」
 「何してんのお前……つーか何に使うんだよそんなの」

すると、姫はにやりと口角を上げて笑う。
嫌な予感がした。

 「馬っ鹿だなぁ。印刷して生徒手帳に入れて、誰かに見つかるフラグを立てるっていうのが昨今の少女漫画の定番でしょ?」
 「いや知らないけども。」

 っていうかお前生徒手帳持ってないだろ。学生じゃないんだから。とは言わないでおく。
一人で楽しそうな姫はとりあえず放置して、大きく伸びをする。愛染家特注の家具とはいえ基準以上の大きさはないソファで眠った体はいたるところが強張っていて、いつもより少しだけ重く感じる。耐えられない程ではないけれど。
 さて、だいぶ意識もはっきりしてきたことだし、いい加減行動を開始しなければ。
 もう、あまり時間は、無いのだから。

 「ああ、そうそう。言い忘れてたんだけど、」

 ふと。
さも今思い出したとばかりに手を打った姫が、ゆっくりと立ち上がる。
演出過剰。
そんな言葉が脳内を過るけれど、それを指摘できる様な空気ではない。そのくらい、今の姫は真剣だった。

 「……、」
 「タイムアップだよ。士織が隠してたあのひとの秘密、それはこういうことだったんだね」

 すい、と空を泳いだ白い手が、ぼくの目の前で静止する。明確な意識と決意を兼ね備えて、どこまでも冷静に。
押し殺すように、冷静に。

 「仙崎悠、」

 「ついさっき救急搬送されたって」


 姫の声は奇妙な程すんなりと耳に入って、ぼくは黙り込んだまま目を伏せる。わかっていたことだ。唐突でも突然でもなく。最初から、必然的に当然の結果として当たり前に、この時は来る筈だったのだ。それがたまたま今日だっただけで――これが昨日だろうと明日だろうと一週間後だろうと、大した誤差じゃあ無い。
 そう、わかっていたんだ。少なくとも、彼女自身は。覚悟だって――していただろう。

 「成程、成程、成程ね。だからこその思い出作りで、だからこその縁切り。死んだ後だって“いと”は続くものね……」
 「姫、ぼくちょっと行ってくる」

 立ち上がって、ローテーブルから携帯を拾い上げる。現在の時刻は午前8時26分。まだ間に合うだろうか?さぁ、わからない。わからないけれど、だったら。
真っ正面から見た赤い瞳は、一度として揺れることはなくこちらを見据えている。それは睨んでいるようにも、責めているようにも見えて。
 姫の言いたいことは何と無くわかる。わかっているから、ぼくも応えるように視線を固定した。見つめ合うと表現するには張り詰めた空気を纏ったまま、数分。静寂からくる耳鳴りが喧しく響いて、まるで世界が止まってしまったみたいに錯覚する。
先に口を開いたのは、姫の方だった。

 「何をするつもりなの?」

 「わたくしたちにできることなんて何もないよ。他人がどうこうできるほど人の一生は単純じゃない。加えてわたしたちは悪役だ――主人公補正なんて存在しない。誰かを何かを変えることなんて、身の程知らずもいいところだよ。どうにもならないしどうにもしてはいけない、それが前提での“縁切り”なんだから。機械的なルーチンワークとして縁を切る、わたくしの役目も士織の役目も、たったそれだけ。もう切るべき縁は、見えてるんでしょう?」

 何をするつもりなの?

 繰り返し、繰り返し問われて、ぼくは息を詰める。《何を》なんて、決まってるだろう。

 問題は、始めるか終わらせるかだ。

姫の言うとおり、“縁切り”の準備は整っていた。切ろうと思えば、いつでも切れるように。ただ、《一度切った縁を再び繋ぎ直すのは基本的に不可能》。ぼくが切ってしまえば――、あの二人の縁は、もう。
仙崎悠が、命を掛けて守ろうとしたもの。
仙崎知英が、知り得なかったもの。
何も暴かず終わらせるのか、全て曝け出させて始めるのか、ぼくはまだ決めかねていて。……気がつけばずるずると、決断の時を遅らせていた。けれど、もう先延ばしには出来ない。執行猶予は尽きた。ぼくは決めなければならないのだろう。
始めるか、終わらせるか。
と、そこで。

 「ぷっ、くく……あははは!」
 「は?」

 突如聞こえた笑い声に、ぼくは慌てて意識を姫へと戻した。

 「いいよ。わたくしは、それでいいよ」

 くすくすと。
先ほどまでの緊迫感を綺麗に霧散させて、姫は笑う。深い赤の両目を柔らかく細め、得意げに胸を張る姿はまさしく少女のそれだった。
そして彼女は、まるで全てを理解している風に笑って。それから、いつもの声で告げた。

 「言ったでしょ?《あとは任せた》って。元々ね、士織の行動を縛るつもりなんて更々無いの。なのにあんまりにも思い詰めてるから、ちょっとからかっただけ」

 驚いた?

 なんて言って得意げに覗き込んでくる姫の表情に、嘘の類は一つも無い。ついでに言えば、彼女が俗に言う“優しい嘘”を吐くような性格をしていないことも、ぼくはよく知っていた。彼女は呼吸をするついでに嘘を吐く、詐欺師みたいな少女だけれどーーこれだけは確かだ。
愛染椿は《必要》を好まない。愛染椿が好むのは《不必要》。要らない物をこそ、余分で不要で無駄で何かが欠陥している物こそを。

 世界から不必要とされた彼女は、誰よりも不必要な存在を愛している。

 絶縁部門のトップなんて最悪の悪役を甘んじて受け入れた時も、しかもその従業員として、ぼくや矢塔桐夜を始めとする“異質”を選び受け入れた時もそうだったように。
 吐かれる嘘の全てが無意味だ。冗談やお世辞や慰めなんて、一言一句口にしない――加えて言い訳や誤魔化しなんていうものは、有意味で必要な嘘だから彼女は好まない。
 つまり。万が一彼女から優しい言葉が出たならば、それは“嘘みたいな真実”だということ。

故に、この言葉は“正しい”。
正し過ぎる程に、正しい。

「ねぇ士織、わたくしはどっちでもいいんだよ。ただあんまり時間は無いから、わたくしにはあるけど仙崎悠には無いから、手遅れになる前に後悔しない方を選んでほしいの。仙崎悠はどうだっていいけれど、士織のことは大事だから」

 言うが早いか、姫は自身の玉座とも言える事務椅子に飛び乗った。その小さな体には大き過ぎるそれに、半ば埋もれるようにして座る。アルビノ特有の、ウサギに似た白い髪がさらさらと床に零れ落ちた。

 「わたくしたちの仕事は“縁切り”。レッドカード一発退場の悪徳事業。存在自体が反則なんだからプ――ライバシーとか守秘義務とか銃刀法とか、今更でしょ?ね、《後は任せた》。出張メンバーが帰ってくるのは一週間後……それまでに片付けて?」

 いってらっしゃい。

 気怠げに、いつもの調子で挙げられた小さな手。シリアスな空気なんてぶち壊すような、そんな気安さと気楽さを纏って。
要するに。
愛染グループ絶縁部門最高責任者、我らが姫君は、あくまでも通常運転だった。
という訳で。ぼくはなんだか気落ちしたような、または気が抜けたような気分で、言う。

 「おう、行って来ます」
 「ん、わたくしのお腹が空くまでには帰って来てねー」
 「はいはい」

 それから彼女は、もう一切こちらを振り返らなかった。どころか少年漫画を手に取って、パラパラとそのページを捲っている。まるで“特別なことなど何もない”と、言外に語っているみたいに。
 呆れ半分、そして安心も半分。ぼくは小さく溜息を吐き、部屋を出る。

 「……ありがとな、姫」
 「いーえ」

 さぁて。
それでは一丁、気軽に気楽に軽快に楽々に、ただ働きでもしに行こうか。

第9節『喜劇は終わった』


 「こちらが仙崎様の病室になります」
 「有り難う」

 ビジネススマイルで頭を下げた看護師に、簡単な礼を言ってドアを引く。天井も床も壁も真っ白なその部屋の中で、こちらも純白のベッドから上半身だけを起こした彼女が、小さく目を見開いてこちらを見ていた。あんまりにも素直な反応に、ぼくは苦笑しつつ口を開く。

 「お久しぶりです、仙崎さん」
 「縁切り屋さん……!?どうしてここに、」
 「貴女が病院へ運ばれたって聞いたので、お見舞いです」

 そう言って、果物の入った籠を晒してみせる。すると彼女は得心いったと言わんばかりに両手を合わせ、にっこりと微笑んだ。

「凄いですね。縁切り屋さんともなると、依頼人の入院先ぐらいわかっちゃうんですねぇ。流石です」
「ま、まぁうちの情報収集担当は優秀ですんで」

 ネタばらし。
入院先がわかったのは、ここが愛染グループの系列病院ってだけだったり。補足すると、現在うちの情報収集担当はブラジルに出張中なのでこの件には無関係である。あえて明かしたりしないけども。

 「…………」

それは、ともかく。

 「想定外、だな」

 予測はしていた。想像も、していた筈だった。ただ、現実はそんな予想ものをも軽く凌駕していたということで。

 縁。
人と人とを繋ぐ証。
それは関係性であったり。
絆であったり。
時には運命であったりと、様々な形に姿を変える――
非常に曖昧で、異常にあやふやなもの。
ぼくたち縁切り屋にとって、その存在の重要性はかなり高いと言っていい。なんたって“縁”を切るのがぼくたちの仕事なのだから。
ではどうすれば縁は切れるのか?
 答えは実に簡単だ。《毛糸を切断するように。》鋏や何かで切ってもいいし、こう、手繰り寄せて引き千切ったっていい。方法はいくらでもある。
ちなみにこれは、比喩でも何でもない。言ったとおりに、そのままの意味だ。

 ぼくたちには“縁”がみえる。

 本来なら見えざるものであるそれが、真っ赤な糸の姿で。縁――所謂“赤い糸”は、相手を想う心が強ければ強い程はっきりと、鮮やかに現れる。勿論見える人間は至極少数、それだって、普段から全ての赤い糸を目視出来る訳じゃ無い。赤い糸の持ち主のことをよく理解し、相手、つまりは糸の先に居る人物にどんな想いを抱いているのかを知って始めて、赤い糸はそこに存在を表すのだ。先日ぼくが仙崎夫婦をストーキングしていたのもこのためである。
 とはいえ、どの程度知る必要があるのかは個人差があるし場合によっても違う。その人の想いが半端じゃなく強ければ、すれ違っただけでも糸が見えることはある。その逆も、また然り。
 今回は、完全に前者だ。

 「どうかしました?縁切り屋さん」
 「ああ、いえいえ。――特には何も、無い、ですが」

 ふわり、と。
仙崎悠の首に、腹に、髪に、絡みついた赤い糸。
左手の小指から流れ、薬指のシルバーリングを通って手首へと。緩く円を描くように空を漂うそれは、思わず目を奪われるような綺麗な赤色だった。

感嘆。

成る程これは、素晴らしい。
否。
凄まじいと、言うべきか。
予想以上――文字通りに、想定の外だ。
それだけ仙崎悠は、仙崎知英を。
愛、
し?

 「仙崎さん」
 「はい?」
 「ぼくは縁切り屋です。依頼されればどんな縁だって、意図通りに切りますよ。それが仕事ですから。なので、この先は折辺士織という“個人”からの言葉として聞いて欲しいんですけれど」
 「はい」

 彼女は首を傾げながらも、即答した。何でもないという風に、平然とした表情で。“彼女の残り時間”のことを思えばぼくの話なんて、他人の言葉なんてものに耳を貸している場合ではないだろうに、彼女はあくまで悠々とした態度を崩さない。
 怖くないのだろうか。
 これから、世界で一番愛しい人間に忘れられるというのに。理解していない訳が、無いと思うのだけれど。

 「これでいいんですか?」

 だからぼくは、確かめるように言葉を選んでいく。

 「どういう、意味ですか」
 「一度切れた縁が繋がることはまず無い、ということです。貴女は、仙崎知英さんに忘れられてしまうんですよ?彼はもう貴女のことを思い出さないし、貴女のことを愛しもしない。――否、“出来なくなる”。その分仙崎知英は、貴女の死を嘆くことはないでしょうけれど――本当に、それでいいんですか?」
 「、……」
 「そういうもんじゃないでしょう。そういうもんじゃ――ないはずですよ。貴女が作ろうとしているのは自己犠牲で成り立つおわりでしかないじゃないですか。この物語は、一体誰のためのものなんです」

 すると彼女の目が、少しだけ悲しそうに伏せられて。泣いている様にも見えたけれど、その頬に雫が伝うことは無かった。

 彼女は、まだ、笑っている。

 一瞬の沈黙。
それから返ってきたのはぼくへの答えではなく、質問だった。この場には不釣り合いな程の、明るい声で。

 「縁切り屋さん、ご存知ですか?」
 「何を、」
 「もうすぐ結婚式を挙げるんです。私たち」

 知っている。最初に調査したとき、確かにそういう情報が載っていた。
……そして。

「でも私、きっとそれまで保たないんですよ」

それも、知っていた。
医者が宣告した余命は、もうとっくに過ぎている。
ぼくは何も答えなかった――否、答えられずに立ち尽くしていたけれど、彼女はぼくの表情を見て察したのだろう。かといって笑顔を崩すこともなく、楽しげにさえ感じるような仕草で彼女の語り続ける。

 「昔、本当に昔。子供の頃に見た結婚式。あの時から、実はずっと憧れてたんです。白いドレスに身を包んで銀の指輪に愛を誓う、その瞬間だけは誰もが主人公になれるでしょう?」
 「主人公、ですか。」
 「よくいますよね、人生をドラマや舞台に例える人。自分の人生の主人公は自分――ってやつです。でも、私はきっと私の人生の主人公ではなかった。少なくとも、私はずっとそう思っていました。人生、人生――人生。きっと“これ”は、私のために存在してはいないんだって、違和感しかなく生きてきました。
私は、私の人生の主人公ではなかった。」

でも思っちゃったんです。憧れちゃったんですよ。

 そう言って、恥ずかしそうにはにかむ彼女。だけれど、ぼくは見ていないフリで確かに見ていた。
シーツに投げ出された右手、最初に会った時よりいくらか弱々しさを増したその指が、ぎちりとシーツに爪を立てたのを。

 「あそこに立てば、こんな私でも主人公になれるんじゃないか。一秒でも一瞬でも刹那だって構わないから、借り物みたいだった人生が私のものになるんじゃないかって。しかもその相手が、世界で一番愛しい人だって言うんだから……こんなに幸せなことって、ないじゃないですか。
でも、もう、私にその日は、来ない」

 脇役として生まれて。
 脇役として逝く。
自分のものがたりの、中でさえも。

 「ウェディングドレス、着たかったなぁ」
 「……」

悔い。
未練。
後悔。
やり残したことと、やりたかったこと。
仙崎悠。
花嫁になれなかった、花嫁。

 いつのまにか彼女は俯いていて、表情までは伺えない。けれどそれは初めて見る、死に恐怖する彼女の姿だった。
無理している。
そんな言葉が頭を過り、ぼくは何を言っていいものかわからないまま口を開きかけて、また押し黙ってを繰り返して。

 結局先に沈黙を破ったのは、やはりぼくでは無く仙崎さんだった。

 「ねぇ、縁切り屋さん。私ね、納得した訳じゃないんですよ。理不尽を、偶然を、許してなんかいません。今も私の心の中では、黒くてぐちゃぐちゃした何かが喚き散らしていたりするんです。ハッピーエンドなんて、最初から不可能でしょう?
誰も幸せになんかなれない。
だから……私は決めました」

 再び上げられた彼女の顔に、先ほどまでの明るさは残っていない。泣きそうな、いやむしろ泣いているような、不恰好な笑顔だけがそこにあって。

 「誰も幸せになれないというのなら、誰も不幸にはしません。あの人が、何処かで笑っていてくれるなら、それで良いと思うことにしたんです。少し寂しいけれど、それで良いですよ」

 早朝の病室。一定間隔で落ちる点滴。彼女の生を主張する電子音。どこまでも澄み渡った青い空。
それから、鮮やかに揺れる赤い色。

 「だから、縁切り屋さん――いえ、折辺さん」

 彼女は初めてぼくの名を呼ぶと、残酷なまでにはっきりと“言い切って”みせる。

 「縁を切って下さい」

 お願いします。と深く頭を下げた彼女は、この部屋で何より透明だった。

風景に溶け出して、消えてしまいそうな程に、透明だった。



「あっつ……」

 あの後。
病室を出たぼくは、当てもなく街中を彷徨いていた。彼女の言葉と表情が、脳裏に何度もリフレインして。
もう迷ってはいない。
ただ、決めかねている。
選択。
決断。
いや、四捨五入か。
“どちらを選ぶか”ではなく、“どちらを切り捨てるか”が問題なのだから。

「花嫁、ね」

なんとなく呟いてみる。
まぁ、大して効果は無かったけれど。

「あー、面倒だな。っつーか、厄介だ」

 そこまで考えて、一旦思考と足を止める。
信号は赤。

 「誰も不幸にならないなんて、皆が幸せになるくらい難しいことだと思うけどね、ぼくは」

 医者から聞いた話だけれど、彼女の病状は相当に悪いらしい。心臓だか脳だかの、鎮痛剤抜きではとても生活出来ないような、酷い痛みを伴う病気。ぼくを前にした彼女が、そんな素振りを見せたことは一度だってない。ないけれど――きっと、耐えていたのだとは思う。耐えきれない程の色々な痛みに、耐え切ってしまえたからこその、

 「……あのザマってわけね」

 無関係なぼくが、徹底的に客観論を述べるならば彼女は、『一番大事なことを失念している』。わざとなのか意図せずなのかは、わからないけれど。
何にせよ、状況は加速した。そろそろ終幕、決断の時。始めるか、終わらせるか。

 「――なんてのも、もう飽きたな」

そう、飽きた。
いいだろう、仙崎悠。貴女の意図に意思に遺志に則って。
精々綺麗に終わらせてやる。
この物語の幕が開くことは、永遠になくなるだろうけど。

 「さぁて、」

 ぽーん、と甲高い音が鳴って、信号が青に変わる。前後左右の人々が入り乱れながら歩き出すのを横目に、ぼくは彼らに交じって対岸へと向かった。
見上げた空は、今だに澄んでいる。

「つまらなくなってきやがった」

 それではそろそろこの辺で。
“縁切り”をーー始めよう。

第10節『さようならのやくそくを』


 縁切り。
……これについての補足説明もこれで最後になるだろう。だらだらと御託を並べるのは、趣味じゃない。

 さて、縁切り。
この反則的な行為の、罪状。
それは、いわゆる“殺人”だ。勿論、人体には一切の害がない――というか概念上の物体である赤い糸を切ることによって、“誰か”が死ぬことはない。だからこの場合死ぬのは切られた“人”でなく、切られた“心”の方。
 縁を一つ切るたび、心は確実に一つ死ぬ。縁とは、そこにあった想いの結晶だから。極論、全ての縁を切ればひとの心なんて簡単に殺せてしまうのだ。そして、当然のことだけれど――心が全て死ねば、持ち主の人間だって死ぬ。
 誰とも繋がらず、何とも糸を通わせることなく生きられる程“人間は強くない”。要するに、そういうこと。

 とするばぼくたち縁切り屋は、大きく見れば殺し屋と大差無いのかもしれなかった。少し対象が違うだけで、性質の悪さは一緒。
故に、ついたあだ名が“この世で最も残酷な殺人”。
だからこそ、縁切り屋も縁切りも、簡単に頼ってはならないのだ――


 「なんだ、君は?」
 「縁切り屋だよ」

 以上、説明終了。



 「縁切り屋……?」

 昼間だというのにうす暗い工場地帯の、真下。一種の地下街と化しているその場所で、ぼくはとある男性と対峙していた。知り合いではないけれど、顔も情報も充分過ぎる程に覚えている。

仙崎知英。

 中規模ヤクザ仙崎組若頭で、今だに一度も逮捕されたことが無いという有望株。で、仙崎悠の、最愛の夫。

 「噂には聞いたことがあったよ。ただ、実在するとは思わなかったな」
 「でしょうね」

 ここまで侵入出来れば、もう手袋は要らないな。
そう判断して、指紋対策のために付けていた手袋を外して床に落とす。一見すれば隙だらけの行為だ。だが、仙崎知英は動かない。咄嗟に行動できなかっただけならまだいいけれど、ぼくの意図まで読んで動かなかったというなら流石の一言だった。どこぞの読心術野郎を思い出す――が、すぐに思考から外す。あいつは論外だ。仙崎知英があいつと同種の化物だなんて1コンマたりとも想像したくない。
と、それは一旦置いておいて、

 「ダメ元で聞いて良いかな?」
 「どうぞ」
 「僕と縁を切りたい相手というのは、一体全体、どこの誰なんだい?」

 ぼくは答えない。
すると彼はちょっと困ったように肩を竦め、右手を懐の中へと突っ込んだ。
そこに何があるのかなんて、ぼくにだってわかってる――拳銃、だ。しかもモデルガンとかの玩具じゃなくて、ヤクザ御用達の無骨なヤツ。

 まったく、一般人に脅しかけんなよな。

 とはちょっと感じたけれど、自分たちは一般人だと断言出来ない存在っていうかもはや一般人じゃないことは自覚済みだったので、黙っておくことにした。
自主規制。

 「別に教えても良いですけど、」
 「へぇ……君たちには守秘義務とかはないみたいだね」
 「ありませんよ。だって何を教えても、糸を切れば全部忘れてしまうので。だからあんまり無駄なことはしたくないんです。したくなかった、んですけどねぇ」

 その一瞬、初めて彼の表情が変わったのを確認して、ぼくはゆるりと息を吸った。
ああ、息苦しい。というより、重苦しい。

 「仙崎悠」

 「現在25歳。性別、女。血液型はRh+のA型。入籍したのは一週間前。両親はすでに他界している。右利き。趣味はピアノで特技は編み物。前科・補導歴共に無し。そして貴方の奥方――仙崎悠さん。彼女が今回の、依頼者です」
 「――……な、」

 今までずっと。そう、今までずっと平静を保っていた仙崎知英の心が、ぐらりと音を立てて揺れる。同時に現れたのは、絡みつくような“赤い糸”。
 ぼくは続ける。今更止めようとは、思わなかった。

 「そういえば貴方は知らないんでしたっけ。今朝方彼女が病院に搬送されたことも、彼女がもう永くないことも」
 「君は、何を言ってるんだ……?」

違う。
違うだろう仙崎知英。
貴方が今聞かなきゃならないのは、知らなきゃいけないのはそんなことじゃあない。
貴方は何も悪くはないけれど、この先後悔するのは、後悔できるのは貴方だけなのだから。

 「仙崎悠は縁切り屋にすがった。でもぼくたちは生憎と“正しくない”……ぼくたちは、ぼくは、依頼を遂行するだけだ。戻れないし戻れない。仙崎悠も、もう振り返る方法なんて忘れている――貴方だけなんだよ、仙崎知英。正常なまま普通のままで“こっち”に引き摺り込まれるのは、貴方だけだ」
 「待て、まさか本当に君は――」

 驚愕に見開かれた彼の目が、理解できない物でも見たようにぼくを映す。
その手は懐から静かに拳銃を引き抜いていて、人差し指がしっかりとトリガーを捉えていた。
殺意も悪意もなく。
ただ押し付けられた衝動のままに。
かちりと。
装填。

 「君の言うことが、もしも本当ならば」

 仙崎知英は、今回における最大にして唯一の被害者である彼は、躊躇いがちに語り出す。その声は確かに震えていた。

 「悠は――自分のためじゃなく、僕のために縁を切るつもりなのだろう。自分が死んだ後、僕が悲しまないように。僕のことを嫌いになって離れたかったのだとしたら、悠がわざわざ縁を切ろうなんてするわけが無い。だって、」
 「彼女はもうすぐ亡くなりますからね。僕らのような反則技を使わなくとも、確実に貴方とは死“別”できるでしょう」
 「あ、ああ……そうだ。そうなんだよ。なら君は全部を知っていて、僕が彼女を忘れて幸せになんかなれないことを、“こんなことじゃハッピーエンドにはなり得ない”ことも知っていて、」

 「――それでも僕らの縁を切ろうと言うのか!」

 聞き覚えのある言葉だった。
確か少し前、ぼくが彼女に言った台詞。
言われてみて、初めてわかる。
終わりを決めた後の正論は、こんなにも虚しく響くんだと。
あの時の仙崎悠もこういう気分だったのだろうか?
――否。
彼女とぼくでは、圧倒的に何かが違う―――

少しの自嘲。
そしてぼくは、吐き捨てるように答えた。

「ああ、そうだよ」

瞬間。
乾いた破裂音が、閉鎖された空間に鳴り響く。
撃ち抜かれたのは、右の肩だった。

 「ふざけるな……ふざけるな!悠を、忘れる、?そんな、そんなことをさせてたまるか――!」

 そこを退け。

彼は、薄く硝煙を吹く拳銃を真っ直ぐに構えてそう言った。
流石はヤクザだ。この距離で正確に目標を撃つ度胸と技術も、また、一発目は痛みを与えつつ死には至らないという『脅迫性』を重視するところも。あれだけ動揺した後なのだから、後先考えずに行動したって何もおかしくはないのに。ただ、それは相手が普通だった場合の最善策で。
 対峙しているのがぼくのような“出来損ない”だった時点で、彼は心臓だの頭だの、あるいは両脚だとかを撃ち抜くべきだったのだった。

 「な、」

 丁度、彼もその“異常”に気がついた様で。
ぼくは冷や汗ひとつ流さずに、淡々と告げた。

 「残念でした。ぼくに痛みは、通じないよ。何故なら、痛みなんて無いんだから。」

 無痛症。
それが、ぼくの欠陥の名前。
痛覚そのものが無ければ、どれだけ痛くてもわからない。わからなければ、感じ取りさえしなければ、そんなもの無いのと同じ。
そして。
――赤い糸一本切り落とすのに、両手は必要ない。片手があれば、充分。

 「仙崎知英。貴方には少し申し訳ないけれど、」

ぼたぼたと床に赤い水溜りを作っていく右腕はとりあえず放置して、無事な左手の袖からするりと“ソレ”を引き抜く。全長10cm前後。銃の相手とするには不釣り合いな物だけれど、ぼくには分相応な武器だ。

 「糸切り、鋏……?」

呆然。いや、唖然か。
そういう気の抜けた声を上げた彼を、ぼくは黙って見据えて。
言葉を吐く。
可能な限り、淡々と。それでいて露悪的に。

 「ぼくは貴方を犠牲にして、幕を閉じることにします。もう、花嫁になれなかった花嫁の物語は見飽きたので」
 「や、やめ、」

 「……今までお疲れ様でした」

 ゆっくりと揺蕩う真紅の糸を、釣り上げる様に鋏を添えて。ぴん、と張った糸を刃と刃の間に挟み、一気に力を込めた。
ぶちん。
という嫌な音が、ぼくの耳にだけ届く。

仙崎知英は呆然と自分の手の平を眺めたまま座り込んでいた。その濁った目には何も写されていない。
まさに、空虚。
あるいは残響。
そんな、姿。
仙崎知英。
唯一の被害者。
今回の物語において本当の意味で同情に値する人物は、きっと彼だけなのだろう。
世界で一番愛したひとを失い、
……もう思い出すことすらできないのだから。

抜け殻みたいに佇む彼に、ぼくは一度だけ小さく頭を下げる。理由はよくわからないけれど、なんとなくそうしなければならない気がして。
そんなぼくに、彼は、何も言わなかった。
もしかしたら、ぼくのことなんてもう見えてすらいないのかもしれない。そう思って、ここから立ち去ろうと踵を返し。

「悠、」

力の無い声で彼が呟いたその名に、一瞬足が止まる。それからぼくは、乾いた声で嘲った。

「――ああ、」

「これで満足かよ、仙崎悠。」


 物語が終わる。

第11節『死がふたりを別つとも』


深くて浅い海の底から、空を見ていた。
腕も足も首も重くて、動くこともままならず横たわって、憎らしいぐらい青いあの空を見ていた。
不思議と冷たくはない。
ただ、重い。

何かを言っておこうと思った。
きっと私はこれで最期だろうから。
何かを遺して逝こうと。
でもできなかった。
声が出なかった。
何度力を入れてみても、私の声帯が震えることはなかった。
あれ?
私、今まで、どうやって喋っていたんだっけ。
どうやって、
貴方の名前を、呼んでいたんだっけ。
貴方の名前は何だっただろう。
ずっとずっと大好きで、忘れる筈のない名前だったのに。
わからない。
わからない。
思い出せない。
……でも、原因は覚えてる。
これはきっと罰なのだ。
自分勝手な理想で、彼を傷つけた罰。
謝りたかったなぁ。
だけどもう、それすらも、叶わないの。

どぷん。と何かが沈む音がして、思わず目を閉じる。
一瞬の浮遊感。
そして、すぐに気がついた。落ちているのは、私なのだと。
恐る恐る目を開ければ、空が遠ざかっていくのが見えた。
手を伸ばそうと思って。
動かせなかったから諦めた。
このまま沈んでいくのも、
悪くはないと思ったから。
ただ、酷く、息がし辛い。
酸素を失ったみたいだった。
何より、胸が。
彼のいなくなった心臓が、軋んで。
啼いて。
ああ。
苦しい。
誰か。
誰だろう?
私は一人。
私を覚えている人はもうすぐいなくなる。
愛してくれた人だって。
自分から遠ざけて。
何がしたいの?
何がしたかったの?
わかんないよ。
どうにもならなかっただけなんだよ。
苦しい。
苦しい。
ごめんね。
酷いことしてごめんね。
最低だったね。
最悪だったね。
でもね。
好きだったんだよ。
愛していたの。
ずっと昔から。
だからね。
思い出さなくていいよって。
私のこと思い出して、苦しむ必要なんて無いんだよって。
愛してた。
純白の宣誓は出来なかったけれど。
貴方と一緒に生きられないけれど。
それでも愛してた。
いまでもずっと「あいしてる」。

もうろくに開けていられない両目から零れた温かい雫が、透き通るような海に溶けて消える。
それで良いのだろう。
これで良かったのだろう。
少し胸は痛むけど、そんな痛みだってもうじき消える。
私と一緒に。

 「 」

ごぼ、っと大きく息が零れて。
透明な泡が海面へと上っていく。
空は、とっくに見えなくなっていた。
何も見えない。
聞こえない。
消えていく。
全部。
ああ、

 「―――悠!」

青い。

 「悠……!」

 気が付けばそこは病室だった。
海なんて何処にもなくて、動かしにくいけれど手だって動かせて、息苦しいけれど酸素はあって、遠ざけた筈の彼もいて、ただあの空だけが。
窓から覗くあの空だけが、変わらず青い。

 「と、もひでさん?ど、して……?」

 貴方との縁は切った筈なのに。

そう続けようとして、でも次の瞬間、私は思わず目を見開いた。
悲しげに微笑む彼の顔。
柔らかい体温の伝わってくる左手。
そして、その光景全てを繋ぐように揺蕩う、

――真っ赤な糸。

私の手を取って握ってくれてる彼の薬指と私の薬指に、ぴったり収まっている同じデザインのリング。その二つを起点にして、赤い糸は私と彼の周りを舞っていた。
異常事態。だけど私は、不思議と嬉しくなって。
そっか。貴方の見てる世界は、こんなにも鮮やかな赤い色で彩られているんだね。だとしたら、なかなか詩的な世界だ。
ねぇ、折辺さん。

 「大丈夫」

 くすくすと力無く笑い出した私を見下ろして、泣きながら彼が言う。

 「大丈夫だよ。僕は絶対に君を忘れたりしない。何年経っても、何百年経っても『愛してる』」

 彼の言葉は、だんだん終わっていく私の体の、ずっとずっと奥まで響く。息苦しさが、恐怖が掻き消されていくのがわかった。
そっか。
そうだったんだね。
貴方は、私が思ってたよりずっと傷つきやすい人。
でも、なによりずっと、強い人で。

「――またいつか、君に会いに行くよ。それまで、待っててくれる?」

ほら。貴方を裏切った私にも、優しく笑ってくれる。

「ほ、んとぉ……?うれし、いなぁ。」

言い残してたことも、やり残してたことも沢山あったんだ。
でも、もう、十分。
ドレスの代わりの患者服。花束ブーケの代わりの点滴、神父の代わりにはお医者さん。そして、貴方が隣にいてくれるなら、それで十分だって思えたから。
私はきっと、脇役だった私もきっと、今この瞬間だけは主役になれたんだって。
私の人生はちゃんと、最後の最後に私のものになったんだって。

 だって、私は今こんなにも幸せだ。

 「――ありがとう、ともひでさん。」

感覚の無くなっていく手を無理矢理動かして、彼の手を引き寄せる。
おそらくあと数秒で眠ってしまうだろうから、これを最後の言葉にすることにしよう。

「あいしています」

 そのまま、握ったままの手の甲にキスを落として。
彼の表情を伺うことも出来ず、私は静かに目を閉じた。

epilogue


 蛇足というなら、今から語られることが何にも勝る蛇足だろうと思う。補足といえるほどの重要性はなく、おまけといえるほどの価値も無い。つまりは単なる後日談としての、消化不良を僅かながらにでも軽減しようという苦肉の策でしかない訳で。
手品のネタばらしににも似たその“つまらなさ”を、異質な彼が異質にも好んでいたからと。
ただそれだけの理由で、エピローグを始めよう。それではどうぞ、ご賞味あれ。



「さて、」

 正午。病院を出たぼくは、外の暑さにため息を零していた。そろそろ一日で一番気温の高い時刻を迎える、それはわかっているけれど――にしたって、暑い。病院内は当然ながら冷房が効いていたから、余計に。
 用件は済んだ。これは、熱中症になる前に早く帰った方が良いかもしれない。そう思って、ぼくは事務所に向け歩き出し、

 「終わったのか?」

突如として聞こえたその声に、思わず体が跳ねた。

 「驚かせんなよ……」

対して声の主は、ぼくの反応が面白かったらしく僅かに細めた灰色の瞳でこちらを見ていた。薄い笑みが腹立つぐらい似合う“そいつ”は、わざとらしく肩を竦めながら言った。
 夜塔桐夜。
人類の、最高傑作。

 「驚かせるつもりは無かったんだがな。それだけお前の挙動が不振だったってことだよ――あぁ、ついでに付け加えると、“最高傑作”っていうのは語弊があるな。己れは誰かに作り出された訳じゃない。そういう役目を負っただけだ」

 声に出していない言葉に返事が返ってくるのも、もう慣れた。なんだかんだ言って長い付き合いだからな。嬉しくないけど。
そんな心情すら“読んだ”のか、桐夜はふっと気が抜けたように息を吐く。その肩には相変わらずの竹刀袋が掛けられていて、ってあれ?
こいつ、なんでこんなとこに居るんだ?

 「この間報告しただろう?政府が動き始めてるって。まだ噂程度だけれど、専門の対策係が組織されたとかで――しばらくは警戒せよ、って姫からの命令だ」
「ふぅん。で、戦闘向きじゃないぼくの護衛って訳か」
「御名答」

 それはまぁ、なんともご苦労なことである。当事者が言うのも何だけれどさ。

 「そんなことよりも」

と、一旦言葉を切った桐夜は声の調子をがらりと変えて、楽しげというよりは愉しそうに言う。まるで見通すような、いや実際に今まで色々な事象を見透かしてきただろうその目で、ぼくを捉えながら。
器用に片方だけ口角を上げた唇が、内緒話でもするみたいに潜められた声で囁いた。

 「お前にしては随分と陳腐なトリックだったな。」
 「……何の話でしょうかねぇ」

――ああ、やっぱり“バレてる”。
っていっても正直に白状するのはちょっと癪に障るので、ぼくはわざとらしくとぼけることにした。

 「今回に関しては何もしてねぇよ。依頼通りに縁を切っただけだって。ああいう結末になったのは、えっと、まぁ、アレだ。愛の力とかその辺」
 「にしては、随分と回りくどいことをしたじゃないか」
 「……、」
「とりあえず、場所を移すとしようか。お前、昨日撃たれたばかりだろう?なにより、この暑さは己れにとってもやや辛い。そうだな、いつもの喫茶店ででも席を借りて、」

 言いながら歩き出した桐夜は、反射的に服の上から傷口に触れたぼくを、肩越しに振り返って笑う。

 「辻褄合わせでもしようか。今回限りだ――探偵役は、己れが請け負ってやるよ」

それはいつもの、柔らかい笑顔ではなかった。まるで裏路地を行く黒猫のように、人を喰ったような意地の悪い笑み。
ぼくは、深い深いため息を零し。
まったく、厄介な奴に捕まったものだ。そんな愚痴を脳内で呟いて、素直にその後を追ったのだった。


 からん、と氷が音を立てる。

 「可笑しかった事象を挙げればキリがないけれど、やはり最初に追求するならば、――お前が何故、わざわざ仙崎知英の“前”で縁を切ったのか。そこなんだろうな」

 喫茶店ドグラ・カルマ。
定休日なだけあって一人も客のいない……否、ぼくたち以外に客のいないこの場所で、桐夜はマスターからの差し入れであるアイスコーヒーを啜りながら話し出した。ちなみにぼくの前には当然のようにオレンジジュースが置かれた。なんか馬鹿にされてる気がする。いや、好きだけれども。

 「仙崎知英に対面すれば、そして縁を切ろうとなんかすれば、何らかの反撃を喰らうだろうことくらい簡単に想定出来た筈だろう?己れにわかるんだから、お前にわからない訳が無い。それでも承知の上で、奴に会いに行った」
 「……都合良く解釈し過ぎ」
 「そうか?こう見えて己れは楽天主義は苦手でな、割と悲観主義者なんだけれど」

 悠々と足を組み椅子に腰掛けたあいつは、袖口から大きな傷痕を晒しながら頬杖を付く。

 「まぁ、主義云々は置いておくとして。あまり遅くなると姫に叱られ兼ねないことだし、手っ取り早く本筋に入るとしよう」
 「本筋、ねぇ?」

 苦し紛れに聞き返したぼくを、何もかも知り尽くした化物が問い詰める。

「――お前、縁切らなかっただろ」
「……、」
「ん。もっと正確性をもって言うならば、あの二人」

 音もなくコップをコースターに戻し、空いた右手がこつこつとテーブルを叩く。沈黙を貫き通すぼくの目を見上げたあいつは、きっともう真相を見抜いているのだろう。自分の出した“結論”が正しいということも。
 だからこそ、趣味が悪い。本当に。
まるでガキみたいだ、と思う。愉しいことや面白いことを、決して見逃さないあたりが。

 「仙崎知英と仙崎悠。お前が切った糸はあいつらを繋ぐ糸ではなくて、あの場で生まれた“折辺士織と仙崎知英”を繋ぐ糸。……現場に同業者でもいない限り糸は視認されない。つまりバレにくい。単純だけれど悪くないトリックだ」

 そうだろう、と言外に語る視線。ぼくは白状するように両手を挙げて、やれやれとため息を吐いた。
なんだ、やっぱりそこまで見抜かれているのか。だったら隠したって、今更だろう。

 「一本くらい切っとかないと面目が立たないからな。っつっても誰に繋がってんのかわかんない糸を切るわけにもいかないし、ぼくとの糸を繋げて切った方が楽だったんだよ。時間さえ残ってればもう少し安全な手段も考えられたんだけど、そんな余裕も無くてさ」
 「だろうな。で?結局お前は、『何がしたかった』んだ」

 そう問われて、少し迷う。姫にも訊かれた質問だけれど、実は答えの用意を忘れていた。
二人を助けたかった。
これが一番綺麗な答で、正しい意識なのはわかっているんだが。
さて?

 「そうだなぁ……、」

 ぼくは背凭れに体を預け、たっぷりと時間を取ってから言葉を吐く。考えた末に出したその結論は、酷く醜悪で歪んでいた。

 「いい大人の癖に自己犠牲精神剥き出しなのが気に入らなくて、だからぶっ壊してやりたくなったって、それだけだよ」

 語尾まではっきりと言い放ってストローに口を付けると、珍しく目を見開いたあいつと視線がぶつかって。静寂の数十秒。それから、桐夜は堪えきれないように喉の奥で笑う。

 「っ、この、“天邪鬼”」
 「そりゃどーも」

 木曜日の午後。
相も変わらず眩しい日差しに照らされ、溶けかけた氷がグラスの内側を滑り落ちて。

ことん。

 「へ、?」

 テーブルの上。当然のように置かれたソレに、思考の全てが持って行かれた。

 「お待たせ、しました。」
 「いやいやいや」

 環境音に掻き消されそうなほど小さな声と共に差し出されたのは、見覚えのある新作スイーツで。生クリームやらフルーツやらチョコレートやらが綺麗に盛り付けられた、というか積み上げられた一品。しかも、三つ。つまりは三人前。
じゃなくて。

 「え、嘘。何事?」
 「己れが注文しておいた。定休日にも関わらず開けて貰ったんだ、少しくらい売り上げに貢献して然るべきだろう?」
 「あんたの仕業か!理屈はともかくチョイスがおかしいって……つーか、甘いもの得意だっけ?」
 「嫌いじゃない。」

 淡々と返してくる桐夜に若干殺意を覚える。が、無論そんなぼくの意図にも気づいている筈のあいつは知らん顔で。おまけに人数分のスプーンを配り終えたマスターが嬉々として椅子を持って来るのを視界に入れてしまえば、もう文句の一つも出てこなかった。こういう展開になってしまえば、何を言ったって無駄なのだから。
痛覚は無い筈なのに10年ぶりくらいに頭痛を感じる気がして、思わず額を押さえればさりげなく突き出される炊飯器。ぱかりと空いたその中身は、案の定湯気の立ったあさりの炊き込みご飯で。
 本日何度目かのため息を吐いたぼくは、大人しく席に座り直して呟いた。

 「ついてねぇ……」

 この後、ぼくがどういう目に遭ったのかといえば。
まぁ、大体はご想像通りだとお伝えしておくことにしよう。

ガーネット・ライン

ガーネット・ライン

だからぼくらは縁を切る。 2度と繋がらない赤い糸を。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-14

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC
  1. prologue
  2. 第1節『彼女の事情』
  3. 第2節『ティータイムアラート』
  4. 第3節『暴れ姫君』
  5. 第4節『椿のさくらん』
  6. 第5節『語らぬ花』
  7. 第6節『ガーネットライン』
  8. 第7節『ゆうやけこやけ』
  9. 第8節『幕を下ろせ』
  10. 第9節『喜劇は終わった』
  11. 第10節『さようならのやくそくを』
  12. 第11節『死がふたりを別つとも』
  13. epilogue