愛日(原題:花屋に来る女子高生が怖い)

愛日(あいじつ)

駅の長い長い通路を歩く。
ホームでクソ高いおにぎりを売る兄ちゃんは今日も気怠そうにのんびりと呼び込みをしていた。そんな眠そうな顔でもバイトってできるんだな。俺も人のことは言えない。あくびを噛み締めることもせず放った。
長い長い通路を抜けた次には、長い長いエスカレーターを降りる。のろのろと運行するそれはたまに一生かかっても地面にたどり着かないんじゃないかと思うことがある。
エスカレーターからホームの床を踏みしめると、ちょうど電車が来るところだった。いつものように手近なドアから乗り込む。
数駅揺られれば勤務先の花屋だ。奥まったところにあるので、いくらかは歩くが。
10m置きにゲロが落ちている繁華街の裏手、今日もオカマの絶叫が聞こえる。
「冗談じゃないわよーッッ!」
店の仲間内でじゃれあっているらしい嬌声が響く。
冗談じゃないのはこっちだよ。睡眠不足で吐きそうなんだ。そういえばあの店のオカマどもはいつもうるさいな。
でも悪いやつらじゃないんだ。この店に向けてちょくちょくスタンド花の注文があるのでいい客先でもある。ただいつも騒がしいだけで。

昼下がりの柔らかくなった陽射しを受けるシャッターを上げる。花屋の店内って踏み込むといつも寒いよな。うちも同じだ。

「どう、変わりない?」
オープンの準備に取り掛かろうとしたら背後から声がした。姉だ。気配を消して近寄ってくるのをやめてほしい。
「順調。あのさ、いつも言ってるけど遠くの配達だけ俺に押し付けるの、やめてくんない」
「あんた電話対応だめだめなんだからそれ受け付けてる私の分くらい行ってくれてもいいでしょ。それとも何、今日からフルで電話番もする?」
それを言われると何も返せない。俺は電話がこの世のテクノロジーの中で一番嫌いなんだ。
苦い顔をして何も言い返せないでいると、姉がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさあ、昨日あんたが配達に行ってるあいだにさ、ちょっと変な子が来たんだよね」
「変な子?」
「なんか、怪我してんの。制服と靴下にも泥がついてたし。いじめでも受けてんのかね」
他人事のように姉は言った。
「それで、なんかあったの」
「別になにも。店先でずっと立ってるから、入るかと思って見てたけどそのままどっか行った」
この街じゃよくありそうな、なんでもない光景なのになぜ姉がそこまで覚えているのか不思議だった。
「じゃあ私は奥で作業してるから」
そう言い残して姉はカウンターの向こうへ消えた。
それからは俺もルーチンをこなし、冷たい水であかぎれを悪化させ、仕入れた花の積み下ろしで腰に負担をかけ、霞む目で運転をして仕事を終えた。
シャッターを下ろす頃には夜中の2時になっていた。
吐く息が白い。
こういう冷える日には子供のときのことを思い出す。家から締め出されて、そのとき見えた、晴れ渡った真夜中の星空がバカみたいに綺麗で、俺いまなんで生きてるんだろうと思ったこととか。
中学に上がるころには、親父がお袋を殴るので、家に帰りたくなくてひとりで歩いて行ける公園で寝ていたこととか。姉はそのころ年上の彼氏と遊び歩いてた気がする。女に生まれていたら、そういうとき、つまり、寝床の代わりに、何を要求されるんだろうか。
過去は変えられないし、どうせ俺は、と思いながら、いつものようにボロ家に帰ってヤニと酒を喰らって、寝た。
どうせ俺は。
どうせ俺は、俺は……何だ?
よく覚えていないが、悪夢を見た気がする。

次の日、姉が言っていたらしき「変な子」が来た。
前髪は切りそろえられ、他は長くてあまり手入れされていない。ぼさっとしたロングヘア。
高校生だろうか。あれはたしか近くの高校の制服だ。
髪に隠れて見づらいが、顔にあざがあった。
彼女を見て、姉がその子を覚えていた理由がわかった。目だ。
こんな街だから、ヤク中だって見たこともある。
女子高生は、なんとも形容しがたい目つきをしていた。
うつろとも開いてるとも言えない瞳孔。
異様なぎらつきを放っているとも、何の力もないとも言えない微妙な光を灯した虹彩。追い詰められた人間ってこういう目つきになるんだよな。
見ればブレザーの左手首のあたりが汚れていた。指先からは血のようなものが滴っている。
「薬局は隣だよ」
女子高生は一瞬、俺が誰に話しかけているのか探すように周囲を見渡した。それからはっと左手を見る。自分に話しかけられているとわかったようだが、無言を貫かれた。
「怪我してるんじゃないの」
「……そういうの要らないので」
あ、そう。
まあ、こんな街だ。他人には下手に介入しないのが吉だ。軒先に来た野良猫に餌付けするとどういうことになるのかくらいは、あんたにも想像がつくよな。しかもその野良猫は怪我まみれで、どんな狂気を持っているかもわからないんだ。
女子高生はしばらく軒先の仏花を見て、去っていった。

次の日もそれは来た。
今度は右足から血を流していた。もしかして怪我じゃなくて生理か? そんな下世話なことは言わない。
「薬局は隣だよ」
昨日と同じフレーズを繰り返す。正直薬局に行きたいのは俺のほうだ。あかぎれが悪化している。冬場の冷水って、何年経っても慣れないんだよな。
女子高生は口ごもりながら、ようやく絞り出したような声で言った。
「……やり方、わからないので」
少し考えた。これは安全な野良猫か?
そうじゃない可能性も高い。だが軒先に血痕を残されるのもちょっと嫌だ。掃除をしなきゃならないのは誰だっていうんだ。
「じゃあ必要なもの持ってくるから待ってて」
花屋にもいちおう応急処置のセットはある。花材や荷物の取り扱いで怪我をすることもあるからな。
救急箱を持ってきたら、女子高生はそのままおとなしく立っていた。店内に入るように手招きする。
躊躇いがちに背を丸めて、花のバケツに囲まれた狭い通路を抜けて女子高生が寄ってくる。
椅子を引き出して、そこに座るよう指示する。またおずおずと遠慮がちに座った。見れば、ゆっくりと床に置かれた鞄もぼろぼろだった。
相変わらず目が怖い。
目力があるとか、そういうのとは違うんだよな。なんていうか……そういう気持ちがないと、ならない目つきだ。あんたにそれを想像する力があるかないかは、今の俺にはわからないが。
ひとまず霧吹きの消毒液で右膝の擦り傷を消毒する。意外にも痛がる表情をしなかった。血液その他を拭き取って、デカめの絆創膏で蓋をした。ひとまずこんなところでいいだろう。
女子高生がこちらを見ている。
「お兄さんは、いつもそうなんですか」
「そう、って何」
「知らない人間に親切にするってこと」
返答に迷った。しかし相手は野良猫だ。突き放すのが最適解。
「別に親切にしたわけじゃない。店先に血を垂れ流されても困る。掃除するのは俺だから」
女子高生は、ふーん、と言ってうつむいた。傷ついたのだろうか。それを気にするような生活でもないが。
その日彼女はそのまま出ていった。
俺はまたアパートに帰って、酒とヤニを喰らって、寝た。夢にぼろぼろの捨て猫が出てきたことを覚えている。

次の日から毎日その女子高生が来るようになった。
正直、迷惑している。
配達で店を空けるとき以外、つまり俺が店にいる間、ずっと話しかけてくるのだ。
「なんで人って人を殺しちゃいけないんですかね」
「神様って信じてますか? 私は信じてないです」
「お兄さんは生きててなにかいいことってありました? 私はないです」
「クラスメイトをね、殺しちゃいたいんですよ。呪い屋とか頼もうかな。まあ呪殺なんて信じてないですけどねー。でも可能性があるならやってみたいじゃないですか。あーでもお金かかるんだよなー」
「人殺すのってどうしたらいいんですかね」
運気が下がりそうだ。

ある日来た姉に取っ捕まった。
「あんたあの子拾ったの?」
「拾ったつもりはない」
「じゃあ何があったの」
「怪我してたから手当てした。それだけ」
「それは拾ったっていうんだよ」
うんざりだ、とでも言いたげな息を吐きながら姉は言う。
「運気が下がりそう」
「それは俺も思ってた」
「お前が引き入れたんだろうが」
背中をはたかれた。
正直どうしたものかと思う。でも世間体を気にする必要が過度にあるわけでもない、場末の花屋だ。だめになったらそのときで、また別の職場を探せばいい。
「あのさあ、もっと仕事にプライド持ってよ」
「プライドってなんだよ」
場末の花屋にプライドもクソもあるのかよ。
「目の前のことをこつこつやるってことだよ。私たちみたいな現場の人間が地道に働かないと、この世は回らないんだから」
よくわからないけど姉の言い分としてはそういうことらしかった。
「こつこつやる?」
「目の前にある仕事をこなすってこと」
「家出少女のケアは?」
「場合による」
場合による、の場合分けをしてくれないと困る。

「お兄さんは殺したい人とかいないんですかあ」
「前はいた」
花に悪いので、煙草は店を締めきってから軒先に置いてあるスタンドで吸っている。
前はいた。今はもういない。
いないと言ったら嘘になる。いなくした、と言ったら正しいだろうか。
「お前さ、たぶん病院とか行ったほうがいいよ。ここじゃなくて」
そのとき女子高生(未だに名前も知らない)が、なんだか傷ついたような顔をしたのを覚えている。
「あとそのバケツの上に座るのはやめてくれ。掃除に使うんだ」
女子高生は帰っていった。帰る家があるのかも定かではないが。
その日も変わらずルーチンをこなして、あかぎれを悪化させて、荷物の積み下ろしで腰に負担をかけて、配達に行った。
シャッターを下ろして帰宅する。

翌日はやけに早く目が覚めた。といっても、日はもう高く、東の窓から燦々と日光が降り注いでいる。
なんとなくニュースを見てみる。テレビはめったにつけないが、誰かが映像に合わせて喋っているのを見たい気分だった。
都内の高校で、女子高生が同級生を刺したニュースが流れていた。現場は、花屋の近所。
毎日あの花屋に来ていた女子高生を思い出した。それから彼女と自分との違いを考えた。

違いは、何もわからなかった。
ただ、彼女にはエネルギーがあったというだけだ。
自分にはそれがなかった。
それが良いことなのか悪いことなのか、善悪のラベルを貼ることは俺には不可能だ。
テレビを消して、俺はまた敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。

愛日(原題:花屋に来る女子高生が怖い)

愛日(原題:花屋に来る女子高生が怖い)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-11

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