ラムネ色の街
どうやらやっぱり、私は人間に向いていない。畳に広がるコーヒーを見ながら、そう思った。倒したコップを慌てて机に戻し、洗面所にあった真白いタオルでコーヒーを拭き取った。しかし、それでも畳には薄っすらと茶色い染みが残った。この宿のこの部屋に染みを作ったのは今日が初めてではない。部屋のあちこちに、私がしでかした痕跡が残っている。
もちろん、私は、別に他人の部屋ならば、どれだけ汚しても構わないと考えるような、そんな不届き者ではない。ただ、どうにも人様より少しずつ、何に関しても、不器用なようで、こういったことがよく起きてしまう。
この温泉宿で暮らすようになったのも、それがきっかけだった。仕事をする中で、どうにも取り返しのつかない大きな失敗をしてしまい、いよいよ自分が恐ろしくなっていた時に、宝くじに当たった。天命だと思った。おまえはとにかく何もするな、関わるな、ただそっと生きろ、そんな声を聞いた気がした。それで、この街にやって来た。
慎ましくあれば、身の回りを一生世話してもらうくらいの金はある。私はできる限り何もしない方がよい。私が動かない限りは、人に迷惑をかけることも、誰かを傷つけることもない。それで私は旅館で暮らすことを思いついた。
ここは、良い宿だ。女将は親切だし、板前の腕も確かである。ただ古い。そして、少しばかり場所が悪い。温泉街から、一歩外れた住宅街にあり、確かに宿から見える景色に情趣は足りない。古くは長期の湯治客のための宿であったらしい。だが、今時、温泉宿に悠長に逗留できる者などはいない。今は冬の時期であるからして、他のホテルから溢れた客で、この宿も半数以上が埋まっているが、そうはいっても、どうしても新しく、立地の良い宿に客は流れがちだった。でも、そんな雰囲気が私には心地よかった。
私は今日もいつものように出かける支度をした。午前中は散歩に行くのが、私の日課だ。皺になりにくい柔らかい生地のトレーナーに、カーキ色のズボンを履いた。持っているのは、アイロンの要らない服ばかりだ。アイロンは、数年前に服を燃やしかけてから捨てた。
ルームキーは必ずフロントに預ける。持ったまま出かけると、無くすかもしれない。ただ、時々、その預けること自体を忘れてしまうから、自分がおっかない。
今日はキーを預け忘れることはなかった。フロント前で掃除をしている女将さんにに会ったからだ。
「あら、おはようございます。いってらっしゃい」まだ若い女将さんの声は、いかにも朝といった爽やかなもので、私もそれに軽い会釈で応じた。そしてその時に、キーを預けることを思い出した。私がキーを手渡すと、また先ほどの心地よい声で、送り出してくれた。私はその声に見送られて、清々しい心持ちで宿の外に出た。
背後の自動ドアが閉まる。と、ほぼそれと同時に、部屋に財布を忘れたことを思い出す。先ほどの明るい気分が一気に萎む。
私は仕方なくフロントに戻り、女将さんに事情を申し出て、キーを返してもらった。女将さんは、その時、玄関周りを箒で掃いていた。仕事の手を止めてしまうことになり、ただただ申し訳ない。けれども、女将さんは笑って「わかります。私もいつも少ししてから気がつくんです。どうしてでしょうね」と言って、直ぐに対応してくれた。どうして、世の中はこうも優しい人ばかりなのだろうかと私は思った。
財布を取り、再びキーを預けた後は、いつものように散歩に出かけた。空こそ晴れているが、凍てつく大気が痛いくらいの朝だ。その上、観光客の多くは、まだのんびりと旅館で朝食を食べている頃合で、街に人はおらず、時々朝風呂目当てで出歩く人らとすれ違う程度だった。
私は日課通りに、近所の山に登った。健康を害せば、宿に迷惑がかかる。いつかは他人の世話になるとわかっているが、それまではなるべく元気でいることが大切だ。
この山は、山といっても観光客のための遊歩道の整備された山で、冬場でも大きな苦なく半時間ほどで展望台に辿り着ける。昨晩も少しばかり雪は降ったが、除雪剤が撒かれているせいか、滑って転んだりするようなことはなかった。
それでも、殆どの観光客はロープウェイに乗って登るし、そもそもこんな朝方にわざわざ山を歩く人はほとんどいない。会うとしたら、観光客ではなく、大抵この街の人間で、すれ違った時はいつも互いに静かに会釈をした。
だが、今日は誰一人とも出会わなかった。今朝の冷え込みが厳しいからだろうか。今日は雲一つない晴天で、放射冷却というのか、冬のそういう日の朝は、とてつもなく寒い。けれども、人がいないからと言って、この散歩に魅力がないわけではない。木々の色に、空の色に季節の移ろいを感じながら、ただ登る時間は贅沢であった。
私は道中、その道すがらにある小さな社に手を合わせた。これもまた日課だ。こんな場所にひっそりとあるのに、社はいつも綺麗に掃除され、そして美しく、それでいて気取らない素朴な花が飾られていた。どうやら、この街に暮らす人々が大切に手入れをしているらしい。私に信仰心というものは、さしてないし、そもそも何が祀られているかは知らなかったが、それでもこの街の人が大切にするものは、同じように大切にしたいと思っていた。
ーこの穏やかな街でずっと暮らせますようにー 誰になのかはわからないが、それでもそう祈って、私はまた山を登り続けた。
やがてロープウェイの降り場にあたる展望台に辿り着いた。ここにも今日はまだ、誰もいなかった。薄らと広がる雪に誰の足跡もないところから考えると、私が一番乗りなのだろう。
ロープウェイの降車場から出た先は、広場のようになっていて、その一番奥から、街を一望できるようになっている。
私は真っ直ぐそこへ向かい、展望台の中心に立った。そして、その朝一番の美しい景色を独り占めする。何度も来た場所なのに、思わず溜め息が出る。
この街が好きだ。ここに来る度にそう思う。
とりわけ、今日は強く思う。それくらいに、美しかった。家々の屋根に降り積もった雪を湯煙が作った靄が覆い、それに朝日が反射して街全体がぼんやりと輝いて見える。輝きがあるのに、全ての線は柔らかで、何か温かいものに街全体が覆われているように見えた。優しい街だと思う。景色も。人も。
大きく息を吸い込む。凍てついた空気が胸を冷やす。けれども、山を登って火照った体にはそれくらいが心地よい。
この街で暮らすようになって、生まれて初めて心の安寧を得た気がする。四十にして惑わずとはよく言ったものだ。この街に来ることは、天命だったに違いない。
誰かを傷つける可能性の少ない世界、困らせる可能性の少ない世界で生きるようになり、どれほど心穏やかに過ごせるようになったか。
私にとって、この世は生きにくい。
でも、この街でなら、生きていける、そっと。
そんなことを、今日も思いながら、展望台を後にした。
私が温泉街に戻ってきたのは、昼前だった。相変わらず見事な冬晴れで、朝はあんなにも寒かったのに、今は多少暑いくらいだった。
まだ昼食を取るには若干早いのだが、川に沿って歩き、今日はどこで食べようかと、めぼしい店を探した。
川沿いに枝垂れ柳の植えられたこの往来はとても趣深く、毎日歩いても飽きはしない。いつもこうして古い街の中を行ったり来たりしながら、その日の食事を決めるのだ。
その時、不意に一軒の饅頭屋の軒先に掲げられたのぼり旗に目がいった。
ーラムネありますー
店頭にガラス戸の小さな冷蔵庫が置かれていて、その中に瓶ラムネが詰まっているのが目に入った。
冬日和とはいえ、こんな日にラムネなど買う人はいるのだろうか。
ずっと前から、置かれていたであろうに、なぜだか今日はやけにそれが目について、売れ残るラムネの気持ちになった。そうして、なんだか切なくなって、買わないではいられなくなった。
「すみません、ラムネを一つ」
「あら。富さん。今日はお饅頭じゃないの」富さんとは、私のあだ名で、誰が言い始めたかは知らないが、街の人たちは、私を富くじに当たった富さんと呼んだ。何年か住んでいると、この狭い街で暮らす人々とは、もう大体顔馴染みで、少なくとも私は知らなくとも、向こうは知っていた。
街の人たちは、とても良くしてくれた。年中いる都合の良い客であったからかもしれない。しかし、私は決して気前良くお金を落としていたわけではないし、そう考えると、この街の住人たちが持つ温かさなのだと思われる。
「はい、ラムネだよ。ここでの飲むかい?」私がそうする旨を伝えると、ふっくらとした、いかにも懐が深そうなこの店のおばさんは、小気味良い音を立たせてラムネのビー玉を瓶に落とし込み、よく冷えたそのまま私に手渡した。
この店にも五日に一度くらいは来ているので、おばさんとも商店で会ったら軽く挨拶するくらいの間柄ではあった。さすがに名前は知らないので、便宜上、おばさんと呼んでいるが、私よりは一回り以上は歳上だろう。店の奥にいるはずの旦那と二人で切り盛りしている。旦那の方は一見無愛想な感じもするが、しかし、ふとした瞬間に根っこにある情の深さを隠しきれない、そういう人だった。
私はラムネを受け取り、店前の軽食スペースでそれを飲んだ。軒下にちょっとしたベンチが置いてあるだけの場所だ。
一口目、二口目、それは歩き回って火照った身体に、ひんやり心地よく入ってきた。優しい炭酸が乾いた喉を潤した。
しかし、三口目を飲む頃には、もう体が冷えてしまっていた。何より、この真冬の寒空の下で、ラムネ瓶を持ち続けると、掌が痛かった。私は一度ベンチに瓶を置いて、凍える手に息を吹きかけ温めた。
目的もなく、私はただぼんやりと往来を眺めた。目的はなくとも、賑やかな冬の往来をただ眺めるのというは、幸福なこと違いない。この時期は、一年で最も街が賑わう時で、赤の他人とは言え、観光客らの幸せそうな顔を見ているだけでも、その幸福の一部を分け与えれたような気持ちになれた。
そしてその時、道ゆく人々の間に偶然きらりと光るものを見た。店向かいにある枝垂柳の葉に乗った雪が、日差しを浴びて、今まさに解けようとしているのだ。雪解けの刹那の美しさに、私は心を奪われた。そして、そこから目を離さないまま、無意識にラムネを掴もうとした。が、当然、掴み損ねた。指先はラムネを押し倒し、瓶は椅子から落ち、コンクリートに打ち付けられ、甲高い大きな音を立てて割れてしまった。
「あら、富さん、大丈夫かね。ああ、いいよ、いいよ、置いといて。新しいラムネ飲むかい」奥からおばさんが、すっ飛んでやってきて、私がガラスを拾い集めるよりも早く、箒とちりとりで、それらを回収してしまった。私が新しいラムネを断ると、温かいお茶をいれて手渡してくれた。
私はその優しさを申し訳なく感じながら、かといってその優しさを無下にもできず、お茶をいただき、そのまま暫くその腰掛けで時間を過ごした。
また失敗してしまった。今のは手元を見ずにラムネを掴もうとしたのが良くなかったのだ。反省はきちんとする。きちんと、毎回自分が嫌になる。なぜいつもこうなのだろう。
ふと地面に目をやると、道ゆく人の足元に、光る玉を見た。澄んだ青のビー玉だ。先ほどラムネが割れた時に、転がっていったのだろう。私はそれを拾いに行った。拾って元の腰掛けに戻った。私はそれを指で摘んで何気なく太陽に翳した。
ああ、なんと、美しいのだろう。
太陽を一心に集めたビー玉は、まるで宝石のように輝いて見えた。一瞬のことであったかと思うが、思わず惚けて眺めてしまった。
と、不意にビー玉がその指から奪われた。
「うわー、おかあさん、みて。きれいよ」
「こら!勝手に人の物を取ってはいけないでしょ。本当に急にすみません」お母さんが慌てて子どもから、ビー玉を奪い返して、私に手渡した。
私はいえいえと笑いながら、親子を見た。観光で来たのだろう。上品な母親と、まだあどけない少女の親子であった。ビー玉を奪われた娘の膨れっ面が、破顔してしまうほど愛らしい。
「お嬢ちゃんは、このビー玉の素晴らしさがわかるんだね」私は一度立ち上がり、腰を屈めて、少女と目の高さを合わせてそう言った。
少女は力強く頷いた。
「うん。あのね、あのね。すっごい、きれい。ええと、ピカピカってしてね……うーん、違うなあ。きらきら? これも違うかなあ。とにかく、光ってね、とっても綺麗なの。きっとね、雪の妖精さんの魔法なんだと思うの」
一生懸命言葉を尽くして教えてくれる見知らぬ少女が、どうしようもなく愛おしかった。
「それなら、お嬢ちゃん、この魔法のビー玉を、もらってくれるかい」私は私の掌にビー玉を乗せて差し出した。
「うん。おじちゃん、ありがとう」少女は、元気いっぱいに私からビー玉を受け取った。母親は何度もお礼を言って、二人幸せそうに去っていった。
私はその去ってゆく背中をぼんやりと眺めた。
その瞬間、何かに心臓を握り締められたような、苦しさと切なさを感じた。それが、誰かを喜ばせることができたという幸福と、もっとそうなりたいという憧れと、それを実現できない虚しさによる感情だと気がつくまで、時間はかからなかった。
世の中には、金の亡者というような、自分さえ良ければ、それで良いというような人もいるらしい。しかし、私にはその感情がわからない。
私は、私も誰かに何かを与えたいと、いつだって思っている。けれども自分が動いた瞬間、誰かを不幸にしてしまう。傷つけてしまう。それが、辛くって、恐ろしくて、立ちすくんでしまう。右にも左にも動けなくなってしまう。
この街に来てから、ただ与えられるだけの人間になってから、そんな思いは薄らいだと思っていた。少なくとも、この生活を続けていれば、誰かを傷つけることは最小限で済む。漸く安寧を手に入れたのだと思った。
だのに、こんなにも苦しいのは、切ないのはどうしてなのだろう。
不意に鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。私は慌ててトレーナーの袖口で眼を擦り、何事もなかった振りをした。心を落ち着けるために、お茶を啜った。そこにお茶があることがありがたかった。こんなお茶を淹れられる人間になりたいと思うと、また込み上げてくるものがあった。
幾時か、そうしていた。
ー富さん、富さんー 遠くでぼんやりと声が聞こえた。
「富さん、富さん」漸く自分が呼ばれていることに気がつき、慌てて振り返ると、饅頭屋のおばさんが、店の奥で棚上の大きな段ボールを下ろそうとして、悪戦苦闘しているのが目に入った。
「富さん、お客さんなのに悪いんだけれど、あれを下ろしてくれないかい。ちょいと届かなくってね」
私は慌てて駆け寄り、そこにあった踏み台に乗って、ひょいと箱を下ろした。土産菓子が詰まった箱らしい。別に重くは無かったが、おばさんの背丈で取るのは、台に乗っても確かに厳しかった。
「いやー、ありがとうね。助かったよ。この間亭主がね、あの馬鹿、階段から落ちてね、脚を折っちゃって、暫くは安静って言うんで、困ったもんだよ」おばさんは、ケラケラと笑いながら言った。
「そうですか。それは、大変ですね。おじさんにお大事にとお伝えください」困っているという訴えとは裏腹に、おばさんの調子は明るく、どう答えたらよいかわからず、私は当たり障りのない言葉を紡いだ。
ふとその時、おばさんは急に真面目な顔をして、言った。
「ねえ、富さん、あんたこの街にまだ暫くいるんだろ。暮らすお金もあるだろうに、悪いとは思うんだけれど、慈善事業だと思って、暫くここで働いちゃくれないかい」
私は瞬間、驚きながらも喜んで働く旨を伝えそうになった。とても素敵な店だ。ここで働けたら幸せだろう。だが、声が出るよりも早く、冷静な自分がそれを止めた。
「できません。私はおばさんの役には立てません」よく留まったと自分を褒めたい。しかし、そう簡単に食い下がるおばさんではない。
「それなら。ほら、この先、いつ来ても、饅頭サービスするからさ」
「できません」
「それなら、ラムネもつけちゃう」おどけた調子だが、その勢いに切実なものを感じた。
しかし、私は断らねばならない。
「すみません」項垂れ、しかしはっきりとそう伝えた。私が働くと碌なことがない。これが真実だ。
私が折れないことを理解したおばさんは、ふうっと溜息をついた。けれども、優しい声でこう言った。
「なんで、富さんが謝るのさ。富さんがここで働く義理なんでありゃしないじゃないか」
それでも、落胆するおばさんの声を聞くと、それはそれで、申し訳なさを感じないわけにはいかなかった。
何より本当は私自身がここで働きたかった。ここで働くと言えたらどんなに良いか。
私はこの店が好きだった。この店は街の中にあった。街の中心となる往来に面し、街を行き交う人たちを眺められるこの店から見える景色が好きだった。私はこの街が好きだった。この街にあるこの店で働きたかった。けれども、私は商品を落として駄目にしてしまうかもしれない。お釣りを間違えて渡してしまうかもしれない。火の始末を忘れて帰ってしまうかもしれない。店を潰してしまうかもしれない。雇うなら私でない方が良い。こんな素晴らしい店に何かあったら、私はもう……。
悔しい。自分が憎い。こんなにも力になりたいのに、何もできない自分が情けない。そう考えると、また鼻の奥が痛み、瞼が熱を持って僅かに痙攣し始めた。最悪だ。今日はなぜ、こんなにも感傷的になるのだろう。
人前では泣きたくない。そう思うのに、そう思えば思うほど、耐え難くなって、いよいよ涙が溢れてしまった。最悪だ。
おばさんが側で驚いているのがわかる。「どうしたんだい」当たり前のように聞いてくる。
だんまりを決め込むのが迷惑だということは、わかる。だが、この想いを言葉にしたとして、なのだ。
何も上手くいかない自分が憎いと言えば、おばさんは必ず私を慰めてくれるだろう。私もそれを待っているのかもしれない。けれども、欲する言葉をかけてもらうためだけに、自分を語るのは嫌なのだ。それでは、本質は何も解決しない。自分勝手に安心して満たされた気になって、それでお終いだ。どれほど情けない人間であろうと、せめてそれに耐え、向き合う度量のある人間でくらいありたい、そう思うのだ。
だが、私がそう意固地になればなるほどおばさんは、私を穏やかに問い詰めてくる。
「一体急にどうしたんだい。何か困ったことがあるなら言ってごらんよ」
「いえ、本当に大丈夫なんです。ちょっと」
「大人が大丈夫なのに、泣くわけないだろ。何かが大丈夫じゃないんだよ」
「いえ、本当におばさんには関係ないことなんで」
「この街に暮らす富さんに、この街の人間で関係ない人なんて、いるもんかね。みんな関係あるんだよ」
その押し問答がしばらく続いた。幾ら拒んでもおばさんは、離してくれそうになかった。この状態を店先から誰かに見られたら、かえってややこしいとも気が付いた。
ついに私も根負けした。
私はこの街に来た訳を、一つ一つ話し始めた。昔からどうにも少し不器用だったこと。大人になり、仕事をする中でとんでもないミスをして、みんなに迷惑をかけたこと。それなのに、表立って私を責める者は誰もおらず、それがかえって辛かったこと。同じ頃、宝くじに当たり、働かずに生きることが天命だと思ったこと。それでこの街に来たこと。だから、おばさんの役には立てないこと。
おばさんは、最初神妙な顔で話を聞いていた。仕事を辞めたあたりで、一旦顔を曇らせた。しかし、その後はキョトンとした、不思議そうな顔をして、話が終わるとこう言った。
「え、もしかして、それで終わりかい?」
私が頷くとおばさんは、ブッと吹き出して、その後はゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。
私は訳がわからず、おばさんを見た。おばさんは変わらず、喉の奥を見せて大笑いしている。
「い、いや悪いね。富さんは至って真面目に話してくれたのにね。い、いや、でもね。富さんも悪いよ。この話の流れだったら、誰だって、富さんが、大悪党かと思うじゃないか」
私は、一瞬何を言っているか分からなかった。けれども、振り返ってみて、少ししてからおばさんが笑った訳を了解した。
「私が何か良からぬことをして流れ着いてここに来たって思ったのですか」
「そりゃ、そんな神妙な面持ちで、話始められたらね。急にしでかしたことへの罪悪感でも芽生えたのかって思うじゃないかい。宝くじなんて、そう当たるもんでもないだろうし、大金を当てたにしては、慎ましい生活をしているように見えるし」
「会社の金、持ち逃げして来たようにでも見えたってことですか」
「それか、保険金詐欺師、とか?」おばさんは涙が出るほど笑っている。
「私ってそんな風に見えますかね」
「見えないから問い詰めたんじゃないかい。この狭い街で、一緒に暮らして行くのに、何も知らないのは、あたしだって怖いからね」
「一体、私が本当に大悪党だったら、どうするつもりだったのか……」
「その時は、その時さね」
おばさんの大らかな笑い声に釣られて、私も思わず声を出して笑った。おばさんは、さぞ怖かったろう。それを思うと可笑しくて仕方がなかった。
ひとしきり笑った後で、おばさんは涙を拭い、それでもまだ、目尻に笑顔の皺を残しながら言った。
「大悪党じゃないなら、こちらはなんだって構わないよ。なんなら大悪党の手だって借りたい現状だ。お客さんに意地悪しないならね。やっぱり、ここで働いてくれないかい?」
私が言葉を返そうとすると、その前におばさんは、手で私を制して続けて言った。
「正直、あたしと亭主だけじゃ、あと何年、どこまでこの店を続けていけるか分からない。娘に継がそうにも、娘は東京でもっと稼げる仕事に就いていてね、今更呼び戻すのは酷ってもんだ。けれども、店を閉めるってなると、この街の景観がまた一つ寂しくなってしまう。そう、この店がここにある意味はね、ただ売り物があるってだけじゃないんだよ。私たちみたいな、景色がポツポツとあって、温泉街なんだ。温泉があるから温泉街じゃない。温泉の出るところに街があるから温泉街なんだ。だから、別に流行らなくてもいい、ただ店が開いているということが大切なのさ。その点、富さんはどうだい。この先、売り上げが伸びようが落ちようが、生きていくためのお金を最初から持っている。私たちにとっちゃ、富さんは気軽に店を託せる最高の駒なんだよ。それとも何かい? 富さんはこの街から、この店が消えてもいいと?」おばさんは、特に最後の言葉に力を込めて言った。
私は思わずこの店が消えた後の街の姿を想った。一つの店の話であるはずなのに、街全体がどこか味気ないと感じた。嫌だと思った。恐ろしいとさえ思った。私のためにも、この店はずっとここにあって欲しい。いや、ここになければならない。
人を喜ばせるような商売が自分に出来るとは思えない。だが、それ以上に、この店が自分から消えてゆくことの方が怖かった。世のためではなく、自分のために。少しでも出来ることがあるとするなら……。
私は一つ大きく息を吸った。おばさんを見据える。
「できる限りのことはします。どうぞ、ここで働かせてください」腰を曲げ、頭を下げる。おばさんの顔が視界から消える。おばさんが消えると同時に、実はとんでもないことを申し出たのではないかと、怖くなる。この後、頭を上げなくて済めばいいのに、そんな風にも思った。
だが、いつまで逃げるんだ、という自分の声を聞いた気もした。私は自分の頭の重みに負けぬよう、思い切り跳ね起きた。
顔を上げると、ただ嬉しそうなおばさんの顔がそこにあった。
「そうこなくっちゃ」おばさんは、私にウインクをしてみせる。
「そうしたら、早速裏手の回収場に、これを持っていってくれるかい。そこの通りを出て、店に沿ってぐるっと周れば着くから」
ーえ、今日から?ー そんなことを言わせる暇もなく、おばさんは私の腕に、空のラムネ瓶が詰まったケースを押しつけた。そしてそのまま、私の肩を掴んで回れ右をさせ、背中を強く押してくる。
半ば押し出されるようにして、ガラス瓶をがちゃつかせながら、私は店を出た。
と、外に一歩出た途端、軒で隠れていた空が露わになりになり、往来のパノラマがぐっと広がる。
ああ、よく知っている街だ。川があって、柳があって、店があって、人がいて。そして天には、冬の晴れた、今まさに抱えているラムネ瓶のような透き通った青空があった。好きだ。この街がどうしようもなく好きだ。
少しずつ、少しずつ、何かが動き始めた気がした。
ラムネ色の街
2月10日(金)「作家でごはん!」鍛錬場に投稿しました。投稿後1〜2週間はそちらを確認しますので、コメントいただけるという場合はそちらによろしくお願いします。
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