Aの40
その日の夕食は久々に、鷄むね肉とほうれん草のマヨポン炒めを作り、7時半ごろに食べた。
( 夕食後にもう一度勉強しておこう )
自習室では大城さんに近現代中国史をみっちり1時間教えていたので、けっきょく自分の英語には一切手を付けていない。
机の上にテキストを並べていたときスマホのメール受信音が鳴った。
バイトの先輩からメールが来ていたので、俺はすぐに目を通した。
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〈 バイト先・木村さん 〉
明日の撮影は「体育会系スペシャル。真夏の筋肉祭り」から始めるんで、新宿じゃなくて渋谷の第二撮影所に来てください。事前に撮影所のセッティングをお願いします。
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俺はスマホを机の上に置いた。
1時間半ほど勉強したところで休憩に入り、パソコンを開いて好きなアニメを見た。いくつか見終わったところで再びテキストに目を向けたが、そのときゲームのことを思い出した。
( 今はどの辺りにいるのか。いちど状況を見てみよう…… )
明日は大学の講義もバイトも入っているので、ログインできるとしたら夕方以降になる。そうなるとかなり時間が経過してしまうだろうから、その時にはすでにベネチアに到着している可能性が高い。できれば馬車の中で道中の景色を楽しみたいという願望もある。やはり今のうちにログインしておくべきか。
俺はGT3を起動してアイマスクを着用した。
・ ・ ・
ガタガタと騒々しい音の中で目を開けてみると、走る馬車の中にいた。ちょうど左側の席でハイネマン男爵が何か騒いでいる。右側には若い家政婦が座っている。
「うわっ」
俺は思わず声をあげてしまった。それほどの大きな衝撃だった。馬車はかなり荒れた道を走っているらしい。しばらく気づいていなかったが右ひじに何かが当たっている。
柔らかくて優しく包まれるような感覚。
Fカップくらいありそうな巨乳の1つに俺のひじが当たっている。
「おい! もっと速く走らせろ! あいつらに追いつかれるっ!!」
「旦那様。どうか頭を下げてくださいっ!」
家政婦が身を乗り出して必死に嘆願しているが、男爵は馬車の壁を何度も叩いて「もっと速く!」「もっと速く!」と連呼し、もはや完全なパニック状態に陥っている。
初め何が起こっているか分からなかったが、背後から「バーン!!」と重い銃声が聞こえて、ようやく状況を理解した。
( 山賊プレイヤーか…… )
馬車の窓の外を見てみると、馬に乗った山賊の一人がこちらに徐々に近づいて来るのが見える。かなり体格が大きくて強そうな印象で、片手に持っているピストルをこちらに向けている。
やはり襲ってきたのは山賊プレイヤーだった。そいつの頭上には赤い文字で〈プレミアムロールケーキ〉と書かれている。
俺は怖くなってきた。
( このままだと山賊に殺されてゲームオーバーになる可能性がある。ただし山賊と交渉して所持金や高価なものを譲り渡し、彼らを納得させれば命だけは…… )
そんなふうに考えたが、相手がどんな奴らなのか全く分からないし交渉に応じてくれるという保証は無い。もしただ単に殺しを楽しんでいるだけの奴らだったら、交渉しようとして馬車を停止させた時点でアウトになる。
( それならいっそ…… )
プレミアムロールケーキがさらに馬車へと近づいて来た。男爵は取り乱した様子で悲鳴を上げ、相変わらず馬車の壁を叩き続けている。家政婦のほうも途方に暮れていて、身体を震わせている振動がこっちにまで伝わってくる。
今さらできる事なんてもう何一つ無いように思えた。
( あとは運次第か )
俺はポケットからスマホを取り出し、ログアウトボタンを押した。
・ ・ ・
卓上の時計は22時34分になっている。
ログアウトしてもどうにも気分が落ち着かないし不安だった。それでもゲーム内に残って下手な小細工をするよりはよっぽど安全だと思える。自分で行動してさらに状況を悪化させるよりも、今回はハチローのAI人格に任せたほうがまだ活路があるかもしれない。
武器を持っていない以上奴らを撃退するのは無理だろうが、さすがにログアウト中にキャラクターが死亡するなんてことはあり得ないと思う。そんな理不尽な結末はSNSでも見たことがないし、そんな事をしたらユーザーが減っていくに決まっている。
俺は翌日までいったんゲームを忘れることにした。
【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身
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