Aの39
大学で自習する計画が頓挫し、帰宅しようと正門に向かっていたとき売店の入口付近で大城さんに遭遇した。
「吉田先輩。今から帰るんですか?」
「うん。そうだよ」
無視されるかと思ったら彼女は意外にも声をかけてくれた。
大城さんは片手に飲み物のボトルを持っている。
「4号館で勉強しようと思ったけど駄目だったよ。満員だった」
「哲学記念館も駄目でしたか?」
彼女がそう言うので俺は戸惑った。哲学記念館には行ったことがあるが、資料を置いているところなので自習室は無い。
「先輩もしかして知りませんか? 今年から向こうにも自習室ができたんですよ」
「えっ」
まったくの初耳だった。大学からの説明は無かったと思うが、ホームページや今年度のパンフレットを一切見ていない俺のほうが悪いような気もする。
「先輩。見に行きましょうよ。もし部屋が空いていたら一緒に勉強しましょう」
「あ、うん……」
急にぐいっと攻められたので思わず返事してしまった。
俺は大城さんと一緒に哲学記念館に向かった。
「建物の中の資料をだいぶ売り払ったらしいですよ。管理費削減とかだったと思います。それで1階の空いたスペースに自習室を作った感じです」
「やけに詳しいね」
「親戚がこの大学の事務員やってるんです。なのでこの大学の闇についてなら私だいたい知ってます」
何で入学した。
そう聞きたいところだけど、長くなりそうなのでやっぱり聞かない事にした。
「ありえねぇ。哲学の資料を売ったのかよ。創立者が知ったら絶対ぶちぎれるパターンだよこれは……」
その創立者の銅像も去年の夏ごろ修繕費が大変だとかで大学側と自治会が争いまくって最終的に自治会が勝利。その自治会の意向に従って創立者の銅像が撤去された。それで絶望した大学の理事長が辞職願いを出すという騒ぎになった。
久々に哲学記念館に入ったが、やはり以前と雰囲気が変わっている。入り口から施設内に入ってすぐ右側に設置されていたカウンターが無くなり、受付の人も警備員もいなくなっている。
「先輩こっちです……」
大城さんの後ろについて行きながら周囲を見たが、たしかに資料を展示していたガラスケースが1つも無い。ただし左側の階段の前に「2階・資料室」と書かれた案内板が立ててあるので、建物内の資料をすべて処分したわけではないと分かった。自習室はどこにあるのかと思えば、施設内を奥に進んでみて分かった。
「なるほど。個別の資料室をそのまま自習室にしたわけか」
ちょうどドアが開いている自習室があったので大城さんと俺はその部屋に入った。
室内には長テーブルが3つに椅子が6つ置かれ、広々としている。まだ誰も人がいないので、静かな環境で勉強に集中できそうだった。大城さんが1列目の席に座ったので、俺はその後ろの席に座ってテーブルの上に教材を広げた。
大城さんがなぜか後ろを振り返り、椅子から立ち上がった。そして自分の教材を持って2列目の隣に座った。
( あれ…… )
ほのかに香水の匂いがしてくる。
俺は少し戸惑ったが、気にせず勉強を進めることにした。
大城さんは近現代中国史と書かれた教材に目を向けている。俺は英語のテキストの付箋を貼っておいたページを開いてそこから勉強を進めた。しかし5分くらい経って、大城さんが口を開いた。
「あの。実は今日、西川さんに勉強を教えてもらおうと思ってたんですよね。西川さん歴史教えるのすごく上手くて、何度か一緒に勉強してすごく助かったんですけど。今日はなぜか断られちゃいました……」
俺は思わず耳を傾けた。
「西川さんは何て言ってたの?」
「なんか、別の予定があるって言ってましたよ。急に忙しくなったらしいです。あんまり時間の余裕がない的なことも言ってました」
大城さんの話を聞いているうちに俺は不安になってきた。
しかし彼女にバレないように表情は平静を保った。
「そういえば、吉田先輩も歴史科ですよね。中国史は得意ですか?」
「いや。俺は哲学科だよ……」
「えっ、うそ!」
そのセリフはこっちが言いたかった。最初にサークル部屋で会ったとき、俺は自己紹介の中で哲学科に所属していると確かに言っている。要するにこの人は俺の話をろくに聞いていない。
さすがにイライラしてきたが、それでも彼女の頼みを断る気になれない。
高校生時代に唯一得意だった科目は歴史で、さらに言うと世界史はダントツで成績が良かった。日本史はともかく、世界史だけなら歴史科の西川さんとクイズ対決しても勝てる自信がある。その世界史のカテゴリーの中でも中国史はかなり得意なほうだった。
「べつに教えても良いよ。西川さんみたいに教えるのは上手くないかもしれないけど……」
「期待してます。よろしくお願いします」
大城さんはろくに疑う事もせず。俺に任せることにしたらしい。おそらく本人もかなり切羽詰まっているのかもしれない。
彼女は俺にも見えやすいようにテキストを開いてくれた。俺はしばらく自分でページをめくってみた。内容は中華人民共和国の成立初期から1980年代あたりまで書かれている。
「それで、どこが分からないの?」
「えっと……。この辺とかよく分からないです。大躍進政策の失敗って書かれてますけど、なんで失敗したんですか?」
「あぁ。それはね」
俺は説明しようとしたが大城さんがまた口を開いた。
「大躍進政策って良い感じの名前じゃないですか。めっちゃ急成長しそうな名前じゃないですか。ダメなんですか?」
「……」
俺は困った。
「いや。名前に騙されるけど。真逆なんだよね。国がだいぶ荒廃してるから……。このページによく出るんだけど、まず人民公社について説明しようかな」
人に教える難しさを痛感しつつ、俺は少しでも大城さんが理解しやすくなるように分かりやすい説明を心がけることにした。
初めは教えるのに少し苦労したものの、大城さんはじっくり話を聞いて理解してくれるので、俺のほうも徐々に教え方のコツをつかんできた。文化大革命から毛沢東の死去、その後の鄧小平による改革開放と経済成長のあたりまで勉強したところで、既に午後6時を過ぎていた。俺たち2人は自習室の外に出た。
俺はある事を思い出した。
「そういえば、大城さんのキャラクターはまだロンドンにいるの?」
「え? あっ……はい」
大城さんは何か良くない事でも思い出すような表情をしている。
「でも……逮捕されちゃいました」
「はい?」
「このまえ街を歩いていたとき、警察に逮捕されちゃいました。強盗罪と住居侵入罪だそうです……。そのまま署まで連行されてしまいましたよ。そこで私、警官に服を脱がされて身体を触られたんです。それで嫌になってログアウトしました。……その次の日にもういちどログインしてみたら、今度は牢屋みたいなところに入ってました。看守の人に「おい、豚野郎!」って言われましたよ。すごくムカついたんで、そいつに唾飛ばしてすぐにログアウトしました」
「……」
あまりに衝撃的な話なので俺は返答に困って沈黙していたが、しばらくして重要なことを思い出した。
「警官には何か聞かれたの?」
「はい。共犯者は今どこにいるのか、としつこく聞かれました。それで「知らない」って何度も言い続けました」
「えっ、何で?」
「だって。それを言ったら、西川さんと吉田先輩に迷惑がかかるじゃないですか。二人を巻き込めませんよ」
何なんだろうこの人は。どうしてこんなに仁義に厚いんだろう。なんか変な映画でも見てるんじゃないのか。可愛い顔してるくせに。
しかし内心では俺は安心した。
カビゴンが犠牲になってくれたおかげで、俺とキルヒアイスは国際指名手配とかにされる事もなく今まで通り自由に行動することができる。
「ごめん。大城さん……」
「良いですよ。気にしないでください。私も今日は助かったんで」
大学の門のところで俺は声をかけた。
「じゃ、またね」
「はい。今日はありがとうございました」
大城さんに背を向けたとき、彼女がまた声をかけてきた。
「あ、吉田先輩。できればお願いがあるんですけど」
「なに?」
「また次のテストのとき歴史を教えてもらえますか?」
「うん。良いよ」
大城さんは無邪気に微笑んだあと、小さく手を振って俺から離れていった。俺も自分のマンションの方に向かって歩き始めたが、どうにも腑に落ちないし彼女の笑う顔がずっと目に残っている。
しばらく歩いているうちに気がついた。
( そういう事か…… )
俺は大城さんの頼みを断れなくなった。
【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身
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