Aの38

 俺はじっと鏡に目を向けた。

 パジャマのようなネズミ色の庶民服はもう身に着けていない。上着はあざやかな刺繍が施してあるベストで、その上に紺色の長いコートを身に着けている。これは典型的なヨーロッパ式のコートに見えるが、ハイネマン男爵が着ている物に比べると華やかな飾りがあまり無く、シンプルなデザインだった。ズボンは庶民服の時とあまり変わらない気がするが、少し色が綺麗になっている。さらに靴にいたっては明らかに違う。袋を紐で止めたようなボロ靴ではなくなり、まともな見た目で丈夫そうな靴。

 俺は満足して鏡から離れ、英語のテキストを開いて勉強を始めた。それから30分くらいが経ったとき、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。

( 誰だろう…… )

 すぐにドアを開くと熟年の家政婦が大きい箱を重そうに抱えて立っていた。

「おはようございます。ハチローさん。旦那様からお預かりした物です。中身は新調したスーツ一式ですよ。旦那様がハチローさんにお渡しするようにと。もの凄くお高いものですから、お大事に……」

 大きな箱が迫ってくるので俺は慌てて身体を逸らし、家政婦を部屋の中に入れた。熟年の家政婦は箱を床の上に置くと「ふぅ」と息を吐いてその場で休息し、そのあと俺に一礼して部屋の外に出て行った。

( なんでまた服を )

 そう思いながら箱を開けてみた。やはり中身は自分がいま身に着けているものとほとんど同じもので、色だけが少し違う。

 俺はすぐにまた勉強を再開しようとして机に戻ったが、廊下のほうから聞き覚えのある老人の声がしたので、再びテキストを閉じて椅子から立ち上がった。

 ドアを開けてみるとやはりクラウゼンさんだった。彼も何かの箱を持っているが先ほどの衣装箱よりも小さい。

「どうしたんですか?」

「何を言っとるんだ。君に言われて持ってきたんじゃないか」

 クラウゼンさんは何だか楽しそうにしている。彼は箱を机の上に置くとそれを開いて中身を俺に見せた。そこにはフライパン、まな板、4種類の包丁、軽量スプーンなどが綺麗に整理されて入っている。

 何となく嫌な予感がしてきた。

「ベネチアは良い所だぞ。綺麗な女性がいっぱいいるし、トルコからやって来る交易商も多くてな。めずらしい物がたくさん見られる。色んな物が売っていて賑やかだし人もかなり多い。それに何といっても一番は……」

 クラウゼンさんは何か思い出そうとしている。難しいことでも考えるような顔をしながら、再び口を開いた。

「あの街はやっぱり芸術が一番だな。男爵様の目的もそれだろう? 有名な画家のサロンを見に行くそうじゃないか。……といっても私はその方面のことは全然知らないから何とも言えんが。とにかくあの場所にはいろんな所からすごい奴や変わった奴がやって来る。まぁ、そんな場所だろうな」

 クラウゼンさんの話を聞きながら俺は別のことを考えていた。ログアウト中にハチローのAI人格が何かしたに違いない。おそらくハイネマン男爵に媚びへつらって機嫌を取り、その過程で一緒にベネチアに行くことになったのだろう。

( なんて日だ )

 せっかく静かな環境で勉強しようとしたのに、これでは勉強どころではない。ここからベネチアまでかなりの距離があるだろうし、移動するだけでも相当な時間がかかると予想できる。

 俺は抵抗しようとした。

「クラウゼンさん。俺はここに残りたいです。代わりに男爵と一緒にベネチアへ行ってもらえませんか?」

「はぁ? 何を言ってる。私には無理だよ。男爵は君と一緒にサロンを見に行きたいと言ってるそうじゃないか。私が一緒に行ってどうなる?」

 かなり面倒な状況になっている。

 男爵は誰か料理人を同行したいというより、単にハチローと一緒にベネチアに行きたいらしい。これでは逃げようがない。

「はぁ」

 俺はため息をついてベッドに座りこんだ。

 その様子を目で追いながらクラウゼンさんが言った。

「ベネチアは一度行ってみて損はないと思うぞ? ベルリン以上の大都市だ。わしも19のときにお金を貯めて一人で旅行に行った。向こうの料理を食うだけでも良い経験になると思うがな……」

 俺は返答せず、じっと考え込んでみた。すると以外にも早く結論が出た。

「分かりました。ベネチアに行きますよ」

 俺がそう言うとクラウゼンさんは満足そうに頷いた。

「うん。行くべきだな。男爵様のご指名とあっては他の者が代わることもできん。むしろもっと喜ぶべきだぞ? ベネチア旅行の費用はすべて男爵様が持ってくれるんだからな。よし、そうと決まればさっそく出発の準備だ。もたもたしてられん。まずは荷物を正面入り口まで運ぶぞ。すでに馬車が来ているはずだ。ほら、ハチロー。そっちの箱はおまえが持つんだ」

「はい。分かりました」

 俺はそう返事したあと、スマホのボタンを押してゲームからログアウトした。

・  ・  ・

 気持ちがだいぶ揺れ動いたものの、今はわりと落ち着いてきている。

( あとはしばらく放置していれば連中が勝手に荷物を馬車に乗せてくれるはず。いっそのことベネチアに到着するまでゲームにログインせず放置しておくというのも良い手かもしれない。どうせ時間がかかるだろうから )

 残る問題はテスト対策をどこで行うかという事だった。工事の騒音はまだ続いているし、何か対策を考える必要がある。

( 大学の自習室に行ってみるか。運良く席が空いていれば…… )

 そう思ってさっそく着替えた。

 ログアウトする直前に俺はくだらない事を考えた。ハイネマン男爵の要求を拒絶して料理人の仕事を辞め、もういちど職業紹介所に行って新しい転職先を探す道。しかし冷静になれば、そっちの選択肢のほうが遥かにリスクが高いとわかる。俺の目標は旧作のような航海ライフを満喫すること。それはベルリンの職業紹介所で仕事探しをして時間と労力を無駄にすることじゃない。自分の船を持って世界中の港をめぐりながら貿易をしたい。

 そのための一番の近道は、このハイネマン家の料理人を続けながら資金を貯めることだと分かっている。そしてある程度の資金を貯めた段階で船を買い、まずは短距離交易でお金を貯めていき、いずれ外洋に出られるような大きな船を買えばいい。

 旧作の海野八郎も初めは船員4人の小船からスタートして食料品輸送などの近距離交易をはじめ、そこから事業を拡大させて中型船、大型船へと乗り換えて外洋に出ることができた。このDOVRの世界でも同じ方法で行けばいい。かつての経験は必ず役に立つ。

 午後5時過ぎに大学の自習室に行ってみたが満室になっていた。

( 自分の考えが甘かった…… )

 俺はイライラして4号館の階段を急いで降りようとし、誤って足を滑らせ階段から転げ落ちた。前方の2人の女子生徒が階段から離れた直後の事だったので、幸いだったかもしれない。もし前方に人がいたら確実に俺と衝突していた。

「うっ」

 俺はうめき声のような気持ち悪い声を出してゆらゆらと立ち上がった。女子生徒2人が心配そうにこっちを見ている。

「大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫ですよ」

 そう返答しながらにっこりと微笑んでみた。改めて確認してみると2人は心配そうに見ているというよりも、やばい奴を見ているような眼をしている。しかし、女子生徒は砂埃の付いたテキストをわざわざ手ではたいて俺に渡してくれた。

「これ……どうぞ」

「ありがとうございます」

 俺はテキストを受け取ったあと、片足を少し引きずりながら4号館を離れた。



【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身 

Aの38

Aの38

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted