Aの36

 その日の夕食の下準備を済ませたあと、俺は机の上のテキストをすべて転送袋の中に詰めていった。そして転送袋をGT3の近くに置いて、GT3を起動させた。

( 本当にこれで大丈夫かな )

 不安を抱えつつゲームマニュアルの説明を見ながら転送作業を進めてみることにした。まずパソコンからDOVRユーザーアカウントにアクセスして「ゲーム世界への物品転送」の項目を探した。それを見つけて次の画面に進むと、さらにいくつかの選択肢があった。「物品の登録」「物品の削除」「紛失した物品の再登録」などの選択肢が並んでいて、俺はその中から「物品の登録」を選択した。すると、《 しばらくお待ちください 》という案内の画面に切り替わった。

 俺は待つことにした。

 しかしそこからエラー画面になった。《 物品が複数認識されています。物品は1つずつしか登録できません 》という表示に切り替わっている。俺はマニュアルをよく見ていなかった。

 すぐに袋を開けてテキストを2つ取り出し、改めてパソコンに向き直って「登録開始」のボタンを押した。するとわずか20秒ほどで登録が完了した。説明書に書かれている通り、転送しても袋の中身が消えるわけではない。袋の中にはテキストが残っている。

 最初のテキストを袋から出したあと、同じようにして他のテキストも次々と登録していった。ついでに蛍光ペンも登録しておいた。登録されたテキストの画像がアイコン化されてパソコンの画面に並んでいるが、アイコンがわりと小さいのでどれがどの教材なのかいまいち判別しずらい。しかし蛍光ペンのほうは一目ですぐに分かる。

 次の段階になってさらに気持ちが高ぶってきた。「物品の出力」の項目を選択して、表示されているアイコンすべてにチェックを付けた。そして画面右下の【出力】ボタンをクリックした。それは5秒も経たないうちに終わった。

《 物品の出力が完了いたしました 》

 そのメッセージを確認したあと俺はさっそくアイマスクを着用して椅子に腰かけた。

・  ・  ・

 料理人部屋の机のすぐ前に俺は立っている。しかし机の上には何も無い。俺は焦って周囲を見わたした。するとベッドの上に大学のテキストが置かれているのが見えた。すぐにそれを取り上げてページをめくりながら観察してみた。そのテキストの中身を見てよく分かった。

( よし問題ない。転送成功だ )

 すっかり満足してしばらくベッドの上でテキストを読んでいたが、やがてある事に気がついた。ふと窓の外に目を向けてみたら既にあたりが暗くなっている。そのときようやく夫人の件を思い出した。

「やべえ……」

 俺は急いで部屋の外に出た。そして早足で廊下を進み、階段から2階へ上がった。そのとき一人の執事に出くわした。

「あのう。ハイネマン夫人は今どこにいますか?」

「奥様はいまお客様とお話し中です」

 その執事はかなり若い。あまり詳しい事までは知らないのかもしれない。

「何時ごろ終わりますか? 奥様に話したいことがあるんですけど」

「今日はもう遅いですし、急に予定は入れられませんよ。また明日以降でないと……」

 相手の狼狽した様子を見て、俺は引き下がる事にした。

 とりあえず料理人部屋に戻ろうと思い、階段を下りて1階の廊下を歩いていたとき俺は厨房のドアの前で思わず足を止めた。

 そこでずっと抱えていた疑問を思い出した。なぜ自分はいつの間にか正料理人に任命されていたのか。気になっていても、真剣に考察したことが無かった。

 いま改めて厨房の前で同じ疑問が浮上してきた。

 俺は何としても確かめたくなった。

( もしかすると、すでに )

 厨房のドアを開けて奥へ進んでいった。明らかに景色が違う。古めかしい大きな焜炉はそこにはもう無く、代わりに小さめの焜炉が2台横並びに設置されている。新しい焜炉はわりとシンプルなデザインでよけいな飾りがあまり無く、使いやすそうに見える。

 それを見てようやくマニュアルに書かれていない要素を見つけた。

( ログアウトしている間にも時間は進行しているし、ハチローも他のキャラクターもそれぞれ勝手に動いている )

 それが確実だと分かった事は大きな収穫だが、もう少し早く気づけなかったのかと自分を責めたい気分にもなった。

 いったんゲームからログアウトした俺は、既に用意していた夕食を食べることにした。そんなとき、ふと思い出したようにテーブルの上のスマホを取った。そしてDOVRのコミュニティーアプリを起動してみた。

( お、連絡が来てる…… )

 メールボックスに〈キルヒアイス〉からのメールが届いたいたので、俺はそのメールを開いた。

《 今日は本当にごめんなさい。サークル部屋を急に飛びだしてしまったことを謝ります。失礼だったと思います。でも私はまだ落ち込んでいて今日もゲームする気になれません。しばらくは来ないと思います。ごめんなさい。 》

 俺も返信した。

《 こちらこそ、ゲーム中に大変なことがあったのに役に立てず申し訳ないです。また気持ちが向いたとき再開すれば良いと思います。ゲーム内のお金はまた貯めればいいので、気にしすぎない方が良いと思いますよ。おたがい自分に合うペースでゲームを楽しみましょう! 》

 メールを送信したあとスマホをテーブルに置き、今度はテレビのチャンネルを変えた。夕食をあと少しで食べ終えそうなところで、西川さんから返信が来た。

《 ( ;∀;) 》

 俺はそれをどう受け取って良いのかよく分からなかったが、あまり深く考えもせず食器を流し台に運んで洗った。そのあと風呂に入り、洗濯機に衣類を突っこんだあと再びGT3を起動した。

 もう辺りも暗くなって道路工事の時間はとっくに終わっている。騒音も一切聞こえてこない。なのに俺はわざわざハチローの部屋に移動してそっちで勉強を始めた。

 ベルリンはいま昼間の明るい時間帯だが、とても涼しい。

( やっぱりここは良いな…… )

 庭に面している窓を開けると、心地よくて涼しい風が広い室内の隅々まで循環していく。外から聞こえてくる小鳥の鳴き声も集中の妨げにはならず、聞いていて心が落ち着く。

 俺はハチローの部屋で3時間ほど勉強したあと、ログアウトしてすぐに眠った。



【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身 

Aの36

Aの36

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted