Aの35

 午後の講義を終えたあと、俺は昨日と同じようにサークル会館の31号室のまえにやって来た。そして入念に確認した。

( 時間は合っている。間違いはない )

 この部屋は時間を間違えて入ると、いろいろ面倒なことになると分かっている。ゆえに部屋に入る時間だけは気をつける必要がある。

 西川さんの自宅でゲームを終えたあと俺はろくにお礼も言わず、さっさと帰ってしまった。大城さんの失礼な態度のせいだけど、西川さんに食事のお礼をちゃんと言えなかったことが今も心残りになっている。

 31号室のドアを開けた時、西川さんがすでに席についていた。しかし特に何かしている様子はない。

 彼女はただ椅子に座ったままぼーっとしているように見える。

 大城さんは部屋に居なかった。

( 昨日のこと気にしてるのかな )

 俺はさりげなく声をかけた。

「こんにちは。今日は漫画読まないんだね」

 西川さんがはっと俺の存在に気付いた。何か考え事でもしていたのだろうか。それにしても、彼女の様子がどうも怪しい。

 落ち着きがなくソワソワしている彼女を見ていると、何故かこっちまで落ち着かなくなってくる。

( これは、何かあるな )

「はぁ……」

 俺が席に着くと、彼女はわざとらしく大きなため息をついた。

 もう遠慮せず即座に聞いたほうが良いと思った。

「どうしたの?」

「あっ、いえ……。別に大した悩みではないのですが……」

 そろそろ減量を始めたい。なんて言い出したら俺はなんて返そうか。後輩の悩みだから、出来る限りアドバイスはしたいけれど。

 西川さんはまたソワソワしたあと話しはじめた。

「実は。ゲーム中にお金を無くしてしまったんです」

 本当に大した事じゃなくて良かった。こんな狭い部屋で、西川さんと二人きりで深刻な話をするものだと思っていた。俺はすぐに気持ちが軽くなった。

「所持金が無くなったってこと?」

「はい。そうなんです……」

 西川さんは本当に悲しそうにうつむいている。彼女にはだいぶショッキングな事だったのかもしれない。

「昨日の朝ベネチアに着いたんです。そこから私、すっかり舞い上がっちゃって。運河とかもうすごく綺麗で。もう大興奮で街の中を見ていたんです」

 俺は彼女の話を聞いているうちに、気まずくなって思わず彼女から目を逸らした。西川さんはぽろぽろ涙をこぼしている。

「私の不注意でした。街の人とお喋りしているときに、お金と荷物の入ったバッグを誰かに取られたみたいす。そのあと近くを走り回って探しましたけど、ダメでした。見つからなかったです……」

 ただの日本人観光客じゃねぇか。

 彼女をこれ以上傷つけないように、俺はできるだけ優しく声をかけることにした。

「そういう失敗は誰でもするよ。これから気を付ければいいじゃない。お金はまた貯めればいいし。ゲームなんだしさ」

 そう言っていると、西川さんもやがて落ち着き始めた。

「……そうですよね。ゲームは楽しまないとですよね」

「うん。そうだよ」

 彼女が前向きになったので俺も安心した。

 それにしても、先ほどから腑に落ちない事がある。

「西川さんは何でベネチアに行ったの?」

 彼女の表情がまた少しこわばった。

「先輩、ひどい……」

「えっ?」

 西川さんはまた沈んでしまった。最初とあまり変わらない状態になっている。

 俺には何だかよく分からない。

「吉田先輩がベルリンに来てって言ったんじゃないですか」

 そう言われたとき何かが俺を貫いた感じがした。
 
 すっかり忘れていた。そもそも俺の頼みが原因だった。昨日、このサークル部屋でキルヒアイスをベルリンに向かわせるよう言ったのは自分だった。山賊プレイヤーのせいで治安が悪くなっているので、狙撃スキルを持っているキルヒアイスに俺の用心棒をさせようという計画。それで開始地点のナポリからベルリンに向かう途中でベネチアに立ち寄ったものと思われる。

「あ、ごめん西川さん……。すっかり忘れてたよ」

 彼女はさっと椅子から立ち上がり、ドアのほうに歩いていく。

( 怒らせたかな…… )

「私、今日はもう帰ります」

 西川さんはそう言って部屋の外に出ていった。

 残された俺は自分の過ちを責めたい気分になった。

( もしかしてこのまま二度とサークルに戻らない可能性も )

 しんと静まり返った部屋にいると何かが重くのしかかってくる。結局自分も部屋を出て、サークル会館の廊下を歩いた。

 今日も普段通りこの建物内は騒がしい。

「俺は細い子よりも、やっぱりむっちりが好きだな。ほら、ここもやっぱボリュームが無いと……」

「おまえ本当にパイすきだな」

「おーい、おーいっ!」

 前を歩いている男子2人が大笑いしている。しばらく楽しそうにしていたのに、急に立ち止まって静かになった。

 その2人からさらに先へと視線を向けたとき、俺はまずいものを見た。

 西川さんが窓の方を向いて、静かに涙を流している。

「大丈夫ですか!?」

 男子学生はさすがに心配したようで、彼女に声をかけていた。

「あっ、いえ。大丈夫です……ちょっと悲しいことがあって。でも大丈夫です」

 イケメンの男子学生2人が心配そうに西川さんを見ている。一人は背の高い黒髪で、もう一人は茶髪の長い髪。

 俺は窓側から距離を置いてひっそりと廊下を進んだ。

「あの。もしよかったら一緒に甘い物でも食べに行きませんか? 今日は練習休みだから、俺たち暇なんですよ」

「え……。でも」

「ね。行きましょうよー」

 西川さんはその男子二人と一緒に、階段を下りていった。

 俺はその様子を後ろから見ているだけだったが、どうも落ち着かないし3人の行方が気になってきた。

( 妙に怪しくないか )

 廊下を歩いているうちに悪い方向に想像が膨らむ。

( あいつら。もしかして西川さんにいやらしい事しようと考えているんじゃないか )

 急いで階段を下りたが、そのときには既に3人を見失っていた。

「くそ……」

 俺は探すのを中止してスマホを取り出し、DOVRのコミュニティーアプリを起動した。そこから西川さんのアカウントにメールを送信した。

《 さっきはごめんなさい。ベルリンで合流する件、もう一度しっかり話し合いたいです。よろしくです 》

 大学近くのスーパーで買い物を済ませた後も西川さんからの返信は来ていなかった。

 俺はいったんあきらめる事にした。

 自宅に戻った俺は、買った物を冷蔵庫や棚に並べた。そのとき自分のミスに気がついた。

( 朝食用のパンが無い )

 すぐにまたマンションの外に出て近くのコンビニに向かった。コンビニまでは5分もかからないが、また午後の蒸し暑い路上を歩くことになると思うと気が滅入ってくる。

 店の売り棚で目的のパンを見つけレジの前に並んでいたとき、あるものが目に入ってきた。店員の後ろの壁に貼られている2枚の大きなポスター。両方ともVRゲームの広告だが、そのうち1枚はものすごくカラフルで派手なデザインになっている。その左隣のポスターはかなり地味だった。

 描かれているのは水平線に小さな帆船が一隻。ただそれだけだった。

( ずいぶん出世したよな。ドラゴンブーストの隣を陣取ってやがる )

 その貧相なポスターを見てむしろ安心した。

 店員に声をかけられたとき、いつの間にかレジの順番が来ていた。

 ゲームにログインしてみると、俺は料理人部屋にいた。部屋のドアを開けると外側のドアノブに小さなかごが下がっていることに気づいた。

( 何か入ってる…… )

 俺はかごの中の紙切れを取り出して、それに目を向けた。

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ハチローさんへ

奥様が焜炉の買い換えの件、相談しても良いとの事です。本日の午後2時半に奥様の部屋に来てもらいたいとの事。よろしくお願い致します。リヒャルトより

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 俺はもういちど室内に戻り、壁際に置かれた木製の古時計を見た。しかし読みずらいので結局ポケットからスマホを取り出してその画面の時刻を見た。ゲーム内のスマホにはこの世界の現時刻が正確に表示されている。

( まだ9時半じゃねーか。どうするかな…… )

 俺は窓の外に目を向けた。そこからは痩せた木が生えているだけの貧相な庭しか確認できない。俺は街の様子を見たくなってきたが、同時に忘れていた恐怖を思い出した。

 また街の中にビッグマラー佐藤が現れるかもしれないし、他の山賊プレイヤーがうろついている可能性もあるから油断はできない。とくに俺の場合は戦闘系スキルを1つも持っていない。もし山賊に出くわしたらその時点で一方的に殺される可能性が高い。

「くそっ……」

 俺はおとなしく椅子に座ってスマホを操作し、ゲームマニュアルを開いて読んでおくことにした。しかしそれも30分すら持たなかった。元々このマニュアルは異様に簡潔すぎている。ほどんど基本的な入門知識しか書かれていないので、すべて読み終えるのに15分程あれば十分だった。特に知りたいスキルの強化方法については何ひとつ書かれていない。

( いっそログアウトして勉強でもしておくか )

 俺はそう思い、すぐにスマホのログアウトボタンを押した。

・   ・   ・

 英語のテキストを机の上にひろげてさっそく勉強に取り掛かった。しかし集中は長くは続かなかった。すぐ近くから騒々しい重機の音がする。急いでベランダ側の窓を開け、外に出てみた。道路の反対側の歩道で何やら工事をしている様子が見える。

 机の上の教材を放置してテレビの電源を付けた。それからしばらくテレビを見ていたが、外の騒音がうるさすぎてあまり内容が入ってこない。そんなときある事を思い出して、自分の愚かさに気がついた。

( マニュアルに書かれていた新しい機能を使ってみよう )

 俺は自宅の外に出てまたもコンビニに向かった。そして店内を忙しく歩き回って目的のものを探した。しかしどこを探しても見つからない。

( 緑の袋が無い…… )

 少し冷静さを失っていると自分でも分かる。通販サイトで注文すれば遅くても翌日には手に入るような代物だった。しかしそのアイテムはすでに俺の心をがっちりと掴んでいて、出来ることなら今すぐにでも手に入れて使ってみたいという衝動に駆られている。

 コンビニから出たあとスマホの地図を開いて、VR用の転送袋が置いていそうな店を探してみた。まず自宅周辺の地図を見ていたとき、可能性がありそうな店を見つけた。

 大通り近くのドンキ・パウデ。ここから歩いて25分。

( 行ってみるか )

 この暑い中を徒歩25分も歩く馬鹿馬鹿しさを分かっていながら、俺は歩かずにはいられなくなった。すでにシャツも汗で濡れていて気持ち悪かったが、俺は構わず歩いた。大学入学のとき、ここに引っ越しを済ませて最初に歩いて行った店なので、道のりは今でも多少覚えている。

 店は改装して以前より綺麗になっていた。

 俺は狭い店内をせわしなく歩き回った。店内は特に何も変わっている感じがしない。変わっていたのは外側だけだった。むしろ都合が良いのかもしれない。さほど時間もかからずゲーム関連機器のコーナーにたどり着くことができた。

 その目的物を手に取ったとき、すぐに高揚感に包まれた。

 パッケージの見た目は細長い箱で、中身の転送袋は折りたたまれて包装されている。俺は値段も気にせずその箱をそのままレジのところに持って行った。

「8800円になります」

 慌てて財布を見たとき1万2000円入っていたので、俺は安心して会計を済ませた。

( 思ったより高いな…… )

 店を出た直後にそう思ったが、後悔はしていない。冷静に考えてもこの緑色の袋は俺にとって8千円以上の価値があると分かる。


【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身 

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-06

Copyrighted
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