奇想短篇小説『CAの念力』
「必然的な出来事はけっして起こらず、予想外の出来事はつねに起こる」
(ジョン・ペントランド・マハフィ)
それは離陸前のことだった。私の前の座席に坐っていた少年は、どうやらはじめて飛行機に乗ったようだった。少年は横にいる母親に学校でおそらく流行っているのであろうよくわからない冗談を言ったり、座席モニターをやたらといじったり、座席ポケットに入っているエチケット袋で嘔吐する真似をしたりしてぎこちないくらい陽気に振舞っていた。しかし時間が経つにつれて少年の口数は減り、彼の空気のまわりには重い鉛色をした恐怖心が煙のように漂っていた。
そりゃ誰だってはじめは怖いものよ。けれどもきっと大丈夫。飛行機が空を飛べる理由は未だに科学的には明確に証明されていないらしいけど、それでもきっと大丈夫。私は何度も飛行機に乗っているけど一回も落っこちたことなんてなかったわ。あんなのは映画の中だけのことよ。それと、もう少し後のことだけど、機内では食事も出るのよ。フィッシュかチキンかビーフか好きなのを自由に選べるの。上空一万メートルくらいのところで座りながら食事ができるのってちょっと素敵だと思わない? そうでしょ? ニスくさい教室で食べる給食なんかよりもよっぽどロマンチックじゃない? それに座席のモニターで見たい映画も聴きたい音楽も何だって選べるのよ。だから怖がる必要なんてこれっぽっちもないわ。飛行機には楽しいことがいっぱいなのよ。
そんなふうに私は後ろの座席から届くことのない無言のエールを少年に送った。やがて両翼の巨大なジェット・エンジンが点火し、回転するタービンの轟音が機内に地響きのように伝わってきた。それを感じとった少年は神妙な面持ちでこう言った。
「なんだか心臓の音みたいだ」
私は機体の揺れで目を覚ました。墨汁が真白な半紙を滲ませていくように私の意識が徐々にはっきりとしてきた。飛行機はすでに上空を順調に飛んでいるようだった。私は周囲の人たちをひと通りぐるりと見まわした。まだ機内食は配られていないようだった。そこではじめて私は前の座席に変化が起きていることに気がついた。そこには、先ほどの怯えていた少年ではなく、なぜか大柄の天然パーマの男が坐っていた。天然パーマは飛行機のことなどまったく怖がることもなく、ジェット・エンジンのタービンくらい大きないびきをかいて熟睡していた。この男はいったい誰だ。あの少年はどこにいった。この男はまったくの別人じゃないか。いや、あるいはもしかすると、あの哀れな少年が気圧の関係か何かの理由で急速に成長して醜い天然パーマの男になってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。映画や本の中でならあり得る話だけど、私が今いるのは間違いなく現実の機内の現実のエコノミー席だ。あとそれに天然パーマの顔にはあのか弱い少年の面影なんてまったく感じられない。ということは普通に考えれば、先ほどまでの少年のなんやかんやのことはどうやらたんなる私のリアルな夢だったようだ。それにしても飛行機に乗りながら飛行機に乗っている夢を見るというのはずいぶんと不思議なものだ。なんだか人形の中にまた人形が入っているロシアのマトリョーシカみたいだ。それにどうやら私の頭の中の夢を作る部署には夢を作るためのネタがよほど不足しているようだった。夢作り課の担当者が困り果てている様子を私は想像した。「なんだってうちの部署にかぎっていつもこういう七面倒くさい状況を抱え込まんといけんのだ。たのむから勘弁してくれよ。うちには女房とかわいい二人の娘だっているんだ。家族をしっかり養っていかなきゃならんというのに、いつまでもこんな調子じゃこっちの身が持たんよ」と夢作り課の担当者が私の頭の中で嘆いた。申しわけない。
私は変な妄想を振り払ってから目を閉じ、もう一度眠りにつこうとしたが、やはり寝つけなかった。目的地に着いてからのスケジュールを考慮すると今のうちにできるだけ眠っておかなくてはならなかったのだが、そう考えれば考えるほど、銃声を聞きつけた鳥たちのように眠気は私からできるかぎり遠ざかっていった。機内というのはバスや電車とは違った、飛行機特有の寝つきにくさというものがある。そして不幸にも、私とその飛行機的な寝つきにくさとの相性は、度合いで言えばシェイクスピアのハムレットくらい悲劇的だった。
私は眠れないまま目を閉じて、まぶたの裏のうごめく不思議な模様を観察していたが、それにもやがて飽きてきたので、目を開けてふと横にある円窓を覗きこんだ。そこは真暗だった。外の景色が見えるかわりに、そこにはひどくくたびれた他人のような自分の顔が反射していた。それはチャールズ・ディケンズの小説に出てくる孤児たちのように救いようのないひどい顔だった。私はどうしても寝られそうになかったので、読書灯をつけ、ひどい顔のまま持参したレイモンド・カーヴァーの文庫本を読むことにした。それは、ある男が煩わしくなった飼い犬を家族には内緒でどこか遠くの場所へ捨てに行く、というどこまでも暗い話だった。私はそれで余計に眠れなくなってしまった。
私は読書灯を消し、本を鞄に仕舞い、目を閉じてしばらく考え事をした。飛行機に乗っていると、私はよく死について考える。ここではつまり、墜落のことだ。
離陸、ドカン、おわり。
あるいは
着陸、ドカン、おわり。
いずれにしても、死はほんの一瞬のことだ。けれども、そこにいったいどんな特殊な因果関係があるのかはわからないが、私のこの考え事のせいで本当に飛行機が墜落してしまったらなんだか乗客の皆さんに申しわけないので、墜落について考えるのはそこで止めておいた。
やがて足音のない猫のように尿意が私に訪れた。しかし、私は窓側の席に坐っていたので、横で気持ちよさそうに寝ている人(うらやましいかぎりだ)に気を使って、ぎりぎりまで我慢してなかなかトイレに行けなかった。
そこで突然、機内が揺れ始めた。シートベルト着用のランプが点灯した。ただいま気流が乱れているエリアを通過しているので着席してシートベルトをしっかりとお締め下さい、という機内アナウンスが流れた。乱気流だ。虎を鞭打つサーカスの調教師のように機内の揺れが私の尿意を必要以上に刺激した。やがて、母なる自然の導きに従う決心がようやくついたので、私はシートベルトを外し、足早に機体の後部にあるトイレへと向かった。機内が大きく揺れたり小さく揺れたりするなか、私はトイレの前にたどり着き、空き状況を知らせる表示板を見た。
「OCCUPIED」(使用中)
やはりそうか。はじめからこうなるだろうとなんとなくわかっていた。なので私は仕方なく、トイレ横のスペースで空室になるのを待つことにした。待ちながらなんとなく近くにあるギャレー(CAたちの楽屋みたいなところ)に目をやった。カーテンの隙間から少し室内が見えた。中から何か音が聞こえてきた。よく見ると、端正な顔立ちの三人のCA (CAという職業についている人間はほとんど例外なくみんな晴れ晴れしいほどに端正な顔立ちをしている)が小さな円陣を組んで、何やら呪文のような文言を唱えていた。三人のうちの一人は〝大〟がつくほどのベテランで、あとの二人は新人のようだった。
「そんなんじゃ機体がもたないわよ。しっかりしなさい」と大ベテランが言った。
すいません、と新人たちは声をそろえて謝った。
彼女たちは目を閉じ、力強く唸った。
これはひょっとすると、念力かあるいはそれに似たような何かなのかもしれない、と私は思った。三人のCAたちがその端正な顔を歪めながら、一所懸命に念力のようなもので機体を乱気流から守っているのだ。私は何かとんでもないものを目にしてしまったような気がした。あるいは本当はこんな光景を見てはいけなかったのかもしれない。しかし、もう見てしまったことは記憶からはなかなか簡単には抹消できない。特に今回のような奇妙な光景は、消えることのない刺青のように私の脳裏にいつまでも残ることになるだろう。
彼女たちの懸命な頑張りをいつまでも見守っていたかったが、私の尿意はすでに限界に達していた。するとそれを察知したかのようにトイレの扉が開いた。
用を済ませた私はトイレを出て、またギャレーを覗くと、三人のCAたちは目を強く閉じ、額に汗を滲ませながら必死に念力を唱えつづけていた。本当に三人だけでこんなに大きな機体を支えきれるのかしら、と私はだんだん彼女たちのことが心配になってきた。そのうちに新人のどちらか(あるいは両方とも)が力尽きてしまうのではないか、と私はハラハラしながら彼女たちを見守っていた。しかし、やはりこの異様な光景は私のような平凡な人間が簡単に見てはいけないことのように思えてきた。それに私に見られているせいで彼女たちの念力が弱まってしまっては困るので(本当にそうなってしまうのかはもちろんわからないが)、残念ではあるが私はおとなしく座席に戻ることにした。
もとの座席に戻る途中、私は見覚えのある人物を目にした。それは私の夢の中ではじめての飛行機に怯えていたあの少年だった。その少年の横には見覚えのない別の母親(つまり彼女が本当の現実の少年の母親だ)が坐っていた。その少年はたしかに夢の中の少年と同じなのだが、しかし現実の少年は、夢の中のようには怯えていないようだった。現実の少年には不安げな様子はまったくなく、自分の好きなアニメ映画を見ながら、自分が選んだビーフの機内食をおいしそうに笑顔で食べていた。
そして私がその少年の横を通りがかったとき、少年がこちらにひょいと顔を向けて「大丈夫だよ」と声を出さずに口だけをそのかたちに動かした。あるいは私には少年が口をそのように動かしたように見えた。
私は一瞬、何が何だかわけが分からなくなり、頭が真白になった。空気が振動しない無音の真空世界の中に瞬間的に閉じ込められてしまったようだった。その世界ではいくら叫んだところでその声は何の音にもならない。その世界に留まっていると次第に自分の声を忘れ、やがて音という概念そのものも忘れていく。あの少年は本当に現実なのかそれともまた夢なのか。もしもこれが夢だとしたらどこからが夢なのか。いつまでが夢なのか。夢とはいったい何なのか。私は現実と非現実のはざまでこのまま永遠にこの飛行機からは降りられないのだろうか。そういう入口も出口もない世界で私は、自分の好きな映画や音楽をモニターで選択し、自分の好きなフィッシュやらチキンやらビーフやらの機内食を食べ続けることになるのだろうか。
そこで突然、現実と非現実のはざまにある真空世界から現実の機内へと意識が戻り、私は立ち止まることなく少年の横を通って、そのまま真っすぐに自分の座席へと戻った。私は少年がいる方向には決して振り返らなかった。振り返った途端に、夢なのか現実なのかをうまく区別できない世界とも呼べないような世界に永遠に閉じ込められてしまいそうな予感がしたからだ。
私は座席についてから、ひと呼吸おいて、現実から振り落とされないようにシートベルトをしっかりと締めた。私の前の座席の天然パーマの男は、あいかわらず大きないびきを庭先の回転するスプリンクラーのようにあたりにまき散らしていた。
私はゆっくりと目を閉じ、深く呼吸をした。そして周りのさまざまな音にゆっくりと耳を澄ませた。天然パーマのいびき、後ろのほうから聞こえる赤ん坊の泣き声、トイレの激しい水洗音、マスクをした人の苦しそうな咳、眠れない人の唸り声、通奏低音のように響くタービンの回転音、内履き用のスリッパが床を擦る音、ビール缶のプルリングをむしり取る音、機内食のゼリーフィルムを剥がす音、イヤホンから漏れる小さなポップ音楽、入国カードを記入するペン先の音。そういう大きな音から小さな音まで、私の柔らかくて脆い一対の耳が拾うことのできるありとあらゆる周りの雑音たちを、オセロの黒を白にカタンと裏返していくように、私は一つずつ確実に意識の中から消していった。やがてほとんどの雑音が消え、私のなかに無音が訪れた。
「大丈夫だよ」
無音の世界で少年の声が遠くのほうから小さく聞こえた。それはまるで沈没した船が海底で鳴らす汽笛のようだった。そして私はそのまま温かい海底の泥のなかでゆっくりと眠りについた。
おやすみなさい。
やがて乱気流がおさまり、シートベルト着用のランプが消えた。
奇想短篇小説『CAの念力』