愛〈LOVE〉を口移し
Love is the greatest refreshment in life.
人生で最も素晴らしい癒し
其れが愛なのだ
Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso (Málaga, 25 de octubre de 1881-Mougins, 8 de abril de 1973)
俗に「無理をするとカラダが祟る」と言う。
祟られる様な事をした憶えなんて、これっぽっちも無いのだが。
新調したばかりの寝室のダブルベッドの暖かな布団に包〈くる〉まり乍ら、モクレンは頭の中でボンヤリとそんな事を考える反面、此れが歳と言うヤツか、と言う事も考えたりしていた。
モクレン、時に三十歳の節分の日の朝の事である。
そうこうしていると、合鍵を使って玄関の扉をガチャガチャと開ける音が聴こえて来た。
本来ならば御出迎えの一つもすれば、大層色っぽいのだろうが、生憎と此の身体、モクレンは欠伸を噛み殺し乍ら、あ、来たな、と頭の中で思う事位しか出来ないで居ると、寝室をノックする音がしたのち、入るぞ、と言って、両手に此の部屋から五分と離れていない場所のドラッグストアで購入をして来たのであろうあれやこれやを、ドラッグストアの店の名前が印刷されたレジ袋にぎっしりも詰め込んだらしい訪問者、即ち同僚兼戀人の黒曜が姿を現した。
さっきメッセージを貰った通り、熱は無さそうだな。
触るぞ、と聲を掛け乍ら、左手でモクレンの額にそっと触れた黒曜がそう言った。
喉の調子は?。
さっき水を飲んだから、渇きもしなければ掠れてもいない。
ただ・・・。
ただ・・・?。
聲を出すのが何となく億劫だ、此れも皆此の疲れのせいだな。
じゃあお喋りは止した方が良いか。
かもな。
了解。
じゃあ、何も難しい事は考えず、ゆっくり眼を瞑って子供の様に寝ちまえ。
そう言って黒曜はモクレンの右手の小指に自身の右手の小指をスルリと絡めた。
呑ますのか?。
嘘付いたら針千本。
モクレンが黒曜の瞳を覗き込み乍ら言った。
まさか。
我慢して貰うだけの事よ。
何をだ?。
お前の好きなお菓子だよ。
分かった、分かった。
モクレンは呆れ顔を浮かべたのち、観念したと言わんばかりに静かに両眼を閉じた。
おやすみ、モクレン。
大柄な身体に不釣り合いな小聲でこんな風な愛を黒曜は伝えると、眠り姫が眼を醒ました際、何も無いのは拙いので、レジ袋の中からカロリーメイトとウイダーINゼリーを取り出し、其れを二人で夢の国へ赴いた際にお城の前で撮った写真が飾ってあるベッド脇に置いてから一旦寝室を出ると、変に足音を立てぬ様、レジ袋両手にリビングへと向かった。
交際をする様になってから、三度目のデートをした際、此の建物から歩いて十分程の場所にある家具屋にて二人で選んだ紺色のカートンを開き、ベランダへと通ずる扉の鍵をカチャリと操作すると、冷たい冬の朝の海風と光が部屋の中へ土足で入って来ると同時に、何時聴いても独特な港街の音が黒曜の耳に入って来た。
普段の黒曜であれば、去年の夏、アマゾンで購入をした煉瓦色のビーチチェアにゆったりと腰掛けて、海風を浴び乍ら焦茶色の灰皿スタンドに灰を落とす位の事は平気でしたものだが、今は状況が状況だけに其の様な悠長な事はして居られないとばかりに音を立てない様、ゆったりとした手付きで窓を閉めた黒曜は、黒鳶色のコートの左ポケットに突っ込んでいた漆黒色のカラーが特徴的な『オーディオ・テクニカ』のBluetoothイヤホンの電源を取り出すや否や、其れを慣れた手付きで起動し接続すると、一切の音を遮断するかの様に其れを耳に挿し、スマホから音楽を流し始めた。
相変わらずこざっぱりな御様子で。
フスト・アルマリオの『セブンス・アベニュー』を聴き乍ら冷蔵庫の中を左手を使って黒曜がゆっくりと開けると、案の定と言うのか当たり前と言うのか、冷蔵庫の中は調味料だのなんだのと言った最低限のモノしか入っておらず、良くも惡しくも新しい食材を詰め込み易くなっていた。
買い物などと言った殊勝な心掛けが出来ているなら、とっくの昔に彼奴は誰かのモノか。
そんな事をこゝろの中でボヤいた黒曜は、拉麺、蕎麦、饂飩、ちゃんぽん、焼き蕎麦、パスタ、カレー、中華丼、牛丼のレトルトパック、パスタソース、スパム、焼き鳥、各種魚類の缶詰、豆腐、納豆、餃子、焼売、野菜炒めの具と素、経口補水液の入ったペットボトルを冷蔵庫の中へとまるでパズルゲームでもプレイするかの様に、整理整頓をし乍ら冷蔵庫の中へ詰め込むと、羽織っていたコートをモクレンの服は勿論の事、自身の寝間着だとか言った様な類いの服が保管してある部屋へ持って行き、其の場で水回りの事も含めて作業のし易い部屋着に着替えてから、淡々と米を研ぎ始めた。
黒曜が物心ついた頃、母方の祖母から最初に仕込まれた家事が米を炊く事であった。
母方の祖母は嘗て御大家の家に女中頭の様な立場で仕えていた経験のある人物で、いざ一人暮らしをしようと決めた時に何にも出来ないまま放り出す訳にもいくまい、と言う考えのもと、黒曜にあれやこれやを仕込み、時には所謂商売女の居る場所へと連れて行き、祖母の言う所の「気の利いた」女性の口説き方迄身に付けさせた。
其れ位、黒曜は可愛がられ、そして其れなりの人物になる事を期待されていた。
其の祖母も黒曜が大學を卒業すると同時にまるで肩の荷が降りたと言わんばかりに此の世を去ったのだが、訃報を聞いた時も彼はこうしてキッチンに立ち、一人で晩酌用の刺身を淡々と切っていた。
そんな過去の事を埃の被った旧い日記の頁を捲りでもするかの様につらつらと思い出し乍ら米を炊き終えた黒曜は、首にぶら下げた紺青色のタオルで軽く額を拭ったのち、住み込みの家政婦よろしく、部屋の拭き掃除だの本棚の整理だのをいそいそ行ったのち、狩りを終えた獣が寝ぐらで眠る時の様に、三年前の聖誕祭の晩、『スターレス』に於けるクリスマス公演最終日を無事終えた時の気分と勢い其のまゝに、黒曜の口からモクレンへ愛を告げ、深く口付けを交わしたと言う甘ったるい想い出を刻み込んだ黒鳶色のソファへとごろりと寝転がり、そして其のまゝ一時間半程眠っていた。
おい、起きろ。
様々な意味で聴き慣れた聲に両眼をゆっくり開くと、シャワーを浴びて寝間着から別の部屋着に着替えたらしいモクレンの姿が其処にはあった。
ベッド脇のプレゼントのご感想は?。
欠伸を噛み殺し乍ら、孔雀緑のテーブル掛が掛けられたガラステーブルの上に置かれたティアドロップの眼鏡に手を伸ばした黒曜が言った。
誕生日の際にはもうちょっと気の利いたのを用意しとくんだな。
じゃあ其れ迄に健康を維持しておく様に。
一本取った気で居られるうちが花だ。
調子が戻ってきたじゃないか、マドモアゼル。
相変わらずの減らず口をどうも、ムッシュ。
で、昼食のご注文は?。
黒曜の言葉に釣られる様に玄色の壁掛け時計に、半分程の量の経口補水液が入った黒と白の縞模様の椅子に腰掛けたモクレンがひょいと視線をやると、時計の針はもうそろそろ正午を迎えようとしていたので、モクレンはひと言、ハムエッグ、と回答し、ペットボトルの飲み口を疲れが癒えて、潤いを取り戻したばかりの唇に運んだ。
了解。
ポール・デスモンドの『ウォーム・バレー』をスマートフォンから流し乍ら黒曜がハムエッグを作っている間、モクレンは読みかけていた伊丹十三の『女たちよ!』を手に取り、黒曜が作ってくれた珈琲で身体を暖め乍らエッセイを読み進めた。
そしてお互いの気分が食事に向けてだいぶ落ち着いた頃、黒曜とモクレンはハムエッグを食べる為に、呉須色のテーブル掛と隣町の雑貨屋で買って来たランチョンマットが敷かれた漆黒色の食卓へと移動した。
ランチョンマットの上には炊き立てのご飯とハムエッグの他に、納豆、卵焼き、縮緬雑魚〈ちりめんじゃこ〉の乗った豆腐、インスタントの南瓜のスープ、そして暖かな緑茶と言うメニューが用意されており、其れ等のメニューを垣間見た瞬間、モクレンのお腹は自然と鳴った。
定食屋でアルバイトしていたと言い張っても通用するレベルなんじゃないのか、こりゃ。
丁寧な手付きでモクレンが緑茶を嗜む為の備前焼の湯呑み茶碗に唐津焼の急須で緑茶を注ぐ黒曜に対し、モクレンが言った。
実際似た様な所で働いた経験はあるけどな。
尤も其処は旅館の厨房だったが。
お前みたいながさつ者を厨房に突っ立たせておく様な旅館だ、嘸〈さぞかし〉広かったんだろうよ、敷地もこゝろも。
畑の案山子よか役には立った積りだがな、此れでも。
そうだな、間抜けヅラを晒さないだけマシかもしれん。
モクレンはそう言って茶を軽く啜った。
手嚴しいな、褒めちゃいるんだろうが。
部屋の中に料理と緑茶の香りが漂う中、黒曜は椅子に腰掛け乍ら言った。
優しい台詞を聴きたきゃ、「そう言う」お店にでも行ったらどうだ。
振り回されるのはおめぇ一人で懲り懲りよ。
手綱をしっかり握っておけば良いだけの話だと思うが。
御尤も、御尤も。
さ、食べようぜ、折角の料理が冷めちまう。
言われなくとも分かってる。
そう言ったのち、モクレンは黒曜の瞳をじっと見つめ乍ら、いただきます、と言って、あの何処と無く弱気な事を述べていた姿は、夢幻〈ゆめまぼろし〉の類いだったのでは、と変に錯覚を起こさせる程、料理を美味しそうに且つむしゃむしゃと食べ始めた。
黒曜は其の様子をじっと見つめ乍ら、愛しき人が何時もの調子に戻ってくれた事に対する神さまへの感謝を込めて、いただきます、と呟いたのち、阿弗利加の広大な大地を駆る獣の如く、大きな口を開けて白米を口の中に放り込んだ。
君を絶対にがっかりさせたりしないよ
君が必要なときは、そばにいるよ
ダーリン、きみはいつも僕にとって
ただ一人のひとさ
天が特別に君を作ったのさ
御皿洗いと言った様な食事の後片付けも含めて、粗方の事が片付いた頃、ザ・スピナーズの『フィラデルフィアより愛をこめて』が黒曜のスマートフォンから流れる中、そう言えば今日は節分の日だったな、と黒曜がそうしていた様に、毛布に包まってソファーに腰掛けていたモクレンが言った。
豆、あるっちゃあるが。
椅子に腰掛け、涅〈くり〉色のマグカップに注がれたホットミルク片手に黒曜が視線を向けた先には、ドラッグストアで購入をして来たらしい豆の入った袋が用意されていた。
喰うかね、豆。
椅子から立ち上がった状態でホットミルクを啜り、一旦テーブルにマグカップを置いてから袋の置いてある茅色の棚の場所迄近づいた黒曜がモクレンに質問を投げかけたモクレンは真っ白な天井を見つめ乍ら、六十三つになるのか、お互いの歳を合わせると、と言ったのちに、六十幾つ迄其の莫迦みたいに明るい髪、ちゃんと伸ばしておくのなら、私の側に居てもいいぞ、とモクレンらしい如何にも皮肉っぽい口調で呟いた。
そっちこそ色気のある年寄りで居てくれよ。
一千年早いんじゃないのか、お前が私に要求をするなんて。
つれなねぇなぁ、相変わらず。
左利きでも使える持ち手が黒い鋏で袋の入り口を綺麗に切り取り、両手を使ってそこそこの大きさの黒柿色の皿へ豆を運んでいた黒曜は、しょうがないな、と言わんばかりの微笑を浮かべると、ほれほれ、用意が出来ましたよ、と聲を掛けた。
其れからキッチンペーパーでベタついた両手を綺麗に拭いたのち、ガラステーブルの方へ豆を載せた皿を移動させると、飲み物、豆乳で構わねぇか、とモクレンに問うと、気怠そうな聲で、そうだな、うんと冷えたのを、とモクレンは注文を付けた。
琥珀色の照明の下、まるで宝石の様に銀色に光り輝くタンブラーへと氷を五、六個放り込み、冷蔵庫の中から取り出した豆乳を注ぎ込んだ。
トクトクと言う豆乳が注ぎ込まれる音色が二人きりの部屋の中に響き渡る中、モクレンは眼の前に運ばれて来たばかりの豆を見つめ乍ら、二週間前の晩、此の建物の一階で経営をしているコンビニに二人して足を運んだ際に黒曜の口から、偶にゃ、身体に良いモノを積極的に摂っとけよ、と言う台詞と一緒に水色のカゴに豆乳が入れられた事を思い出し、不覚を取られるとは此の事か、とこゝろの中で苦笑いを浮かべた。
そして同時に、如何に自身が黒曜に愛されているのかを感じた。
お互いの健康を祈って、って所か、乾杯の文句は。
両手に豆乳の注がれたタンブラーを持って現れた黒曜を見るなり、モクレンが言った。
そう言う文言で宜しいのであれば。
右手に握っていたタンブラーをモクレンに手渡し乍ら、態と芝居がかった聲で黒曜が言った。
ではお互いの健康を祈って。
お互いの健康を祈って。
タンブラーを握りしめた互いの手にひんやりとした感触が伝わって来る中、コツンと言うグラスが打つかる音と共にスマートフォンから流れて来たのは、チープ・トリックの『甘い罠』だった。
僕を求めてくれよ
僕を必要としてほしい
僕を愛してほしいよ
こうしてお願いするからきみもね
なあ、口移しで豆、喰わないか?。
豆乳で喉を潤したばかりの黒曜が言った。
気でも狂ったか、此の色暈け。
良いから、良いから。
黒曜は右手の親指と人差し指を使って豆を口の中に含むと、モクレンのふっくらとした唇に深く口付け、そして口の中へ豆を捩じ込んだ。
モクレンは捩じ込まれた其れを上手く飲み込むと、もうちょっとソフトにしてくれよ、とボヤキ乍ら、自身も豆を口に含み、態と黒曜の「男ごゝろ」とやらを刺激する様な口付けをした。
俗に言う初戀の味は、良い意味で塩っぱかった。〈終〉
愛〈LOVE〉を口移し