ラーメン一丁
あのときの味が忘れられない・・・。
湯気で曇った眼鏡も気にせずに豚骨の香りとねぎの風味を感じながら僕は一杯のラーメンを無心で食べ続けた。
「たけし、ラーメンでも食いに行くか」手をつなぎ、夕暮れ時の赤とんぼが時折飛んでいる商店街を歩きながら、親父が突如私にそう言った。「夜ごはんあるのにお母さんに怒られちゃうよ!」と心配する僕の言葉をよそに「いいから、気にすんな、美味いラーメン食わしちゃる!」とニッコリ笑って、僕の手を引っ張った。
商店街の路地に入り、餃子、鰻、カレーなどのいろんな匂いの混じった通路を抜け、古びた小さなラーメン屋の赤い暖簾をくぐった。「よぉ、大将、二名なんだけど、空いてるかい?」慣れた口調で親父がお店の人に声をかける。「あ、久しぶりだね。元さん。見ての通り空いてるよ。カウンターにするかい?」細身のおじいちゃんがカウンター席を勧める。ハチマキを巻いて、白髪の髪がいかにもラーメン職人らしいなと僕は心の中で思った。
「お客さん少ないね~。景気悪いのかい?」ラーメンを二つ注文しながら、親父が世間話を始める。「悪くはないさ、うちは酔っ払いのお客さんが多いからね時間がまだ早いだけさ」と手際よくラーメンの準備をしながら、大将が答える。「それより、元さん、一ヶ月くらい顔出さなかったんじゃないかい?ラーメン好きのあんたが珍しいねぇ~」麺の湯切りをしながら、大将が言う。「実はよ、俺、結婚したんだよ。嫁の飯がうまくてな、最近はそっちに夢中になっちまった」親父が嬉しそうに答える。「また結婚かい、一体何回結婚するんだよ。元さんは」「うるせぇな、今度は大丈夫だよ。なぁ、たけし」と僕の頭をクマのような大きな手でワシャワシャと撫でた。「元さんに子供がいたとはね~、いくつになるんだい?」「八歳です」「お~、自分で年を言えるなんて感心だね~。元さん本当にあんたの子供かい?」「馬鹿言うんじゃねぇよ。たけしは正真正銘俺の子供だよ!」と茶化すように聞く大将に笑いながら親父が答える。「へい!ラーメンお待ち、熱いよ」ラーメン二つが親父と僕の前に置かれる。「たけし、食べきれんかったら、お父さんに言えよ、代わりに食べたるけんな~」と割り箸を僕に渡しながら親父が言う。「いいや、一人で食べる!」と僕は少し意地を張って答えた。「お!いい気概だなぁ。男はそうじゃないとな!」僕の頭をまたワシャワシャと撫でた。
僕は本当のお母さんの顔は知らない、物心がついたときには親父と二人で暮らしていた。僕が知っている限りでも、お母さんが変わったのは二回目だから、親父がいかに結婚と離婚を繰り返しているのか、小さな僕でも子供ながらに理解はしていた。けど、僕は自分が不幸な境遇に居るとは思わなかった。親父は仕事で家を空けることは多かったけれど、帰ってくるといつも僕のことを気に掛けてくれたし、時折変わるお母さんは皆、優しかった。離婚した理由も衝動的にぶつかってしまったり、仕方ない理由だったりした。
「ごちそうさん」親父はラーメンをものの十分もせずに一気に平らげてしまった。「たけし、全部食べきれそうか?」と爪楊枝を咥えながら、意地悪そうな笑みを浮かべて親父が僕に聞いてくる。「食べれる!」まだ、半分くらい残っているラーメンを食べながら、僕はそう言って、意地を張った。「おう!頑張れ」親父は右手でガッツポーズを作った。
「でも、いいのかい元さん、奥さんが夕飯作って待ってるんじゃないのかい?」「いいのよ!たけしも小学二年になったし、男同士の時間っていうものを作ってやんないとな!」「あ~それはなんとなく、わかる気がするなぁ」と大将が昔を思い出すように笑う。「俺も親父に初めて食わしてもらった。ラーメンの味が忘れられなくて、脱サラしてラーメン屋になったもんな~」「へぇ~、大将にもそんなことがあったんだなぁ」親父が笑いながら言う。「俺は物心ついたときには親父が居なかったからよ。親父が居たらこんなことして欲しかったって、ガキの頃よく思ってた。だから、たけしには出来る限りのことはしてやりてぇ」親父には珍しく、寂しげな表情で、大将と話していた。
「全部食った!ごちそうさまでした!」僕はスープまで飲み干した丼を勢いよくカウンターに置いた。「お!やるなぁ~たけし、大将ごちそうさん、お勘定!」「あいよ!まいどあり!」会計を終えると「おいしかったよ!また来るよ!」と親父はかっこよく暖簾をくぐった。「うまかったか?」手をつなぎ、家路を歩きながら、親父が聞いてきた。「うん、うまかった」僕は笑って答えた。「そうか、そうか」親父はまた、僕の頭をワシャワシャと撫でた。
あれから、社会人になった僕はラーメンを食べるたびにあのときのことを思い出す。決して社会人として上手くいっているわけではないけど、苦しいことや辛いことがあっても親父やお母さんがくれた思い出の一つ一つが僕を強くしてくれた。
「父さん、今日、お休みでしょ~どっか連れてって~」息子が僕にせがむ。「そうだなぁ~、うまいラーメンでも食いに行くか!」そして、息子を車に乗せて、行きつけのラーメン屋まで車を走らせた。お店の赤い暖簾をくぐって「大将、二名なんだけど空いてるかい?」「あ、たけしさん。見ての通り空いてるよ。カウンターにするかい?」ラーメンを二つ注文し、テーブルの上にラーメンが置かれると僕は息子に割り箸を渡しながら「食べきれなかったら、父さんが代わりに食べてあげるよ」と息子に言った。「ううん!一人で食べれる!」息子は首を横に振って、勢いよく麺をすすり始めた。こうやって親父のように僕も息子に小さな思い出を一つ一つ残していこう。僕は昔を懐かしみながら割り箸を割り、湯気で曇った眼鏡も気にせずに豚骨の香りとねぎの風味を感じながら一杯のラーメンを無心で食べた。
ラーメン一丁