呪いの仮面

それでもずっと一緒に居て欲しい

とあるオフィス街。
その一室でひたむきにデスクに向かう男がいた。
男は効率よく書類をまとめながら、部下の取り扱っているプロジェクトにも目を通し、的確なアドバイスを行っていた。
てきぱきと仕事をこなしていた男だったが、終業のチャイムがフロアに響くといち早く荷物をまとめ立ち上がった。
「みんなごめん、お先に上がらせてもらうね」
そそくさと出口に向かう男を同僚の一人が呼び止めた。
「この後さ、みんなで飲みに行くんだが、お前もどうだ?久しぶりに行かないか?」
同僚の誘いに、男は首を振りにこやかに答えた。
「いや、やめとくよ。今月ちょっと金欠でさ。それに遅くなると奥さんに怒られるしさ」
「まーた奥さんかよ。相変わらず仲良しなこって」
同僚の言葉に男は声を上げて笑うと、笑顔のままオフィスを出た。その彼の後ろ姿を見て、何人かの女性社員がひそひそと話し始めた。
「なんか変わったよね主任」
「ねー。昔だったら残業もするし、飲みにも来てたのにね。いつからあんなに奥さん第一になったっけ?」
「ちょうど一年前くらい?なんかそのころに奥さんが病気になったとかで、そこから出張も断ってるもんね。なんか家にいる時間が減るのも嫌だから昇任も断ってるらしいよ」
「うそ?本当に?どんだけ奥さん思いなの?そういえば髪も長いままだし、休みの日もずっと家にいるのかな」
「でも、正直前のギラギラしてた主任より今の方が好きかも。髪長いのもアンニュイな感じで良いし」
「それさぁ。あんたがロン毛で陰のあるイケメンが好きなだけでしょ」
クスクスと笑いあう彼女たちの後ろを、髭面の上司がわざとらしく咳ばらいをしながら通り過ぎると、彼女たちは話を中断しデスクへと向き直った。


会社を出た男は、都市部から離れた山道で車を走らせていた。
助手席には白い箱と、真っ赤な薔薇の花束。
男は5年前のことを想起していた。
ずっと好意を抱いていた相手と結ばれた日。真っ白なドレスを着た誰よりも、何よりも美しい彼女。周りからの祝福を受けて幸せそうに微笑む彼女。背後から呼びかけると、長い髪を揺らしながらにこやかに振り向く彼女。花言葉に詳しく聡明で誰よりも愛しい彼女。
幸せな日々を思い返している男の目に、道の先にあるぼんやりとした灯りが見えてきた。自宅の玄関先の灯りである。
木々に囲まれ、ぽつんと立つ家の前で車を止めると、男は箱と花束を手に、自宅の玄関を開けた。
薄暗い室内へ向けて、男は晴れやかな声で呼びかけた。
「ただいま。遅くなってごめん」
男の呼びかけに対する返事は無い。その代わりに奥のキッチンから何かが這いずる音と、かすかな呻き声が聞こえてきた。
男はゆったりとした足取りで、リビング奥のキッチンへと向かった。薄暗いキッチンでは人間大の巨大な芋虫を思わせるシルエットが蠢いていた。
男が壁にある電灯のスイッチを押すと、切れかけの電球が鈍い光を放ち、シルエットが明らかになった。

イノシシを思わせる胴体から猿のような長い腕、軟体動物のようにのっぺりとした下肢がついた異形が、そこには佇んでいた。
異形は入り口に背を向けて、シンク下の戸棚に首から先を突っ込んでいたが、男の視線に気づいたのかゆっくりと男の方に振り向いた。狼を模した頭部が男をじっと見据え、それに伴い頭部から伸びる長い髪が揺れた。
顔の半分以上が赤黒くなっている異形に男は近づき、懐から出したハンカチでその頭部を丁寧に拭き始めた。
「ごめんね。待ち切れなかったよね。もうすぐご飯作るから。でもその前に…」
トマトの缶詰で赤くなったハンカチを無造作にシンクに投げ入れると、異形の前に白い箱と花束を丁寧に置いた。
「覚えてる?今日は僕らの結婚記念日だよ。職場の若い子に聞いたんだけど、最近流行りのケーキで上品な甘さで美味しいらしいよ。あ、もちろんただの部下だからね。心配しないでね。それで、花束は100本の薔薇で、君が昔言ってたみたいに『100%の愛』ってやつを……」
男が話している間に、異形は箱ごとケーキを乱雑に貪っていた。その様子に男は一瞬呆気にとられるも、やがて小さく吹き出し、花束を一層異形に近づけた。ケーキを飲み込んだ異形はやがて花束も貪り始めた。
男はその様子をぼんやりと眺めていると、咀嚼の度に揺れる異形の頭部に乗った小さな仮面が目に入った。
獣を象った年季の入った仮面。男が出張先で買ってきたものであった。
現地の商人から『魔除け』の効果と嘘くさい伝承の話を聞き、身体の弱い妻の気休めにでもなれば良いと購入し、妻に手渡したものだった。妻もそれをいたく気に入り、家事の最中も眠る時ですら着けるようになっていた。少し不思議に思いながらも「よほど気に入ってくれたのだな」程度にしか捉えていなかった男が異変に気付いたのは再度出張から戻ってきた時だった。
妻が獣のような唸り声を上げ、獣のように四足歩行で移動し、獣のように室内を荒らしまわっていた時。男が気付いた時には妻はすでに妻ではなくなっていた。美しかった外見も、内面が獣に近付くにつれ、やがて異形のものとなっていた。今では彼女を想起させる外見は艶やかで美しい長い髪しか残されていなかった。
男は異形に向けていた視線をふと横に逸らした。キッチンの小窓に男の姿が反射して映り込んだ。顔の右半分を覆うように伸ばした前髪。前髪を掻き上げると、頬から額にかけて伸びる大きく痛々しい傷が露わとなった。
妻の異形化が大きく進んだ時期に、暴れる妻を抑えるときに負った傷。病院へ行けばそれなりの費用で幾分かまともなものとなるが、自分への戒めとして残した傷。傷を見るたびに男は深い後悔と自責の念、そして妻への強い愛を忘れずにいられた。

男は再度異形へと向き直ると、花束を一心不乱に齧り続けている異形の頭部に手を伸ばした。頭に手を乗せると、異形は顔を上げて、わずかに首を傾げた。
花に囲まれながら行うその仕草がいつぞやの妻の姿と重なり笑みがこぼれた。
姿は大きく変わり、理性をほぼ失っていても、妻の欠片と言えるものが確かに残っている。そのことが男には嬉しく思えた。妻への思いを抱き続けることにこれ以上の理由はいらなかった。
たとえ二度と姿が戻らなくても。
言葉を交わせなくなっても。
いずれ完全な獣と化した妻に『エサ』として認識される日がくるとしても。
男にはそれで十分だった。


男に頭を撫でられながら花束を貪っていた異形だったが、花の味に飽きたのか、数本を残した花束を鼻先で男の方へと押し返した。
「あぁ、ごめんね。ちゃんとしたご飯も用意するからね」
男は僅かとなった花束を拾い上げ机の上に置くと、冷蔵庫を開けて妻と自分の食事を作り始めた。
異形は彼の足元で伏せた姿勢のまま、躾された犬が待つように調理をする彼の姿をじっと見つめていた。

机の上には9本の薔薇の花束。
愛する者を見つめながら『彼女』は、いつだったか彼と交わした何気ない会話を思い出していた。
「薔薇って本数で花言葉が変わるんだよ。私が一番好きなのは100本の花束で『100%の愛』って意味の花言葉なんだけど、もう一つ好きなのがあってね。9本の薔薇の花言葉なんだけど……『───』っていう意味があるんだって」


足元から送られてくる視線に、深い愛情と強い願いが込められていることに、調理に集中する男が気付くことは無かった。

呪いの仮面

呪いの仮面

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-02-01

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