『エゴン・シーレ展』
一
ユーゴスラビアの彫刻家、イヴァン・メシェトロヴィチの作品である「手」について感じたものを、記すことから始めるのがいいのだと思う。なぜならその「手」の表現を通じてエゴン・シーレの絵画表現に表れる人物造形の歪さと、かかる歪さが実現している表現主義の核心に迫れると信じるから。
サイス感からして強調される「手」の存在感は、五指のそれぞれがとるポージングの不統一感で先ずはバラける。骨格としてのそれぞれの指の位置や長さ、あるいは筋肉の繋がり具合で可能になる関節の駆動域を突き詰めたかの様な無理のある形で固定され、血管の走り方も浮き彫りにする造形美は材料に用いられる大理石の重厚感で冷たき質感を獲得し、厚みの力を発揮してくるが全体像としてその「手」の表現を具に観察すれば、モデルとなった人物の動かす意思が各関節に即して分割されていると錯覚するのに困難はない。こうして二度目のバラけ方がその「手」に起きる。
目的に沿った手の動きと、それを可能とする手の形を模索する意思ないし思考。そこに認められる統一感を私たち人こそが直に感じ、経験してきたことであると一般論としては語り得るが、かかる意思ないし思考が電気信号として行き渡った状態で固定される「手」の造形からは各関節ごとに表れる意思ないし思考が等しく並び、別人格の様相を呈してキメラなあり方を夢想できる。それぞれの動きの違いが語り口の違いにも見えてくる。
そんなものは概念的なお遊びだろう、とどこかから聞こえてきそうな声に対して絵画好きの一素人としておぼつかない考えを記せば、以下の通りになる。
すなわち視覚に関わる物理法則に沿って描かれる絵の真実は、そのために用いられる道具と技術の複合的な絡まり合いを鑑賞する側が情報として読み解く際に生まれる交流、その結果としての言葉の意味を離れた脳内世界のイメージの更新として落ち着きを見せ、受け入れられる。だから描いたものを観る側にどう錯覚させるか、さらに欲張って、錯覚させられたものをどう豊かなものにしていくのかということが絵画表現には欠かせない。それゆえに目の前の表現作品に対して観る側がどういう見立てを行えるかを契機としてそこから先の、可能となる見立てに内包される余白の幅や質を把持できる感性が絵画をはじめとする表現一般に関していつの時代でも言及され、さらにはその感性に火をつける術として哲学的な問いといった論理のメスが有用に働く一面が注目される。
かかる考えに基づけば、イヴァン・メシェトロヴィチの「手」に対してバラけた「人」の意思の共存を見て取ることの意義は言葉=意味を手にこの「世界」を生きるしかない人がその内側にあって可能となる自由をただの夢物語として片付けられない、頭を悩ます実際的な選択肢として体感するためのアプローチとして捉え得る。それしかない、ではなくてそれもある、これもあると広がっていってこそ意義を有する自由と可能性なのだから、この悩みは実に有益だと筆者は考える。この有益さが実となって結ぶ重要性を表現主義と評されることが少なくないエゴン・シーレの作品表現に認められる大きな志として直観できるのだから、東京都美術館で開催中の『エゴン・シーレ展』をこの文章を通じてお勧めしたいと思うのである。
二
「思うままに描く」という特徴はアカデミックな絵画と対置されるときに表現主義に添えられる言葉であるという印象を筆者は持っているが、前述したように、視覚に関わる物理法則を絵画表現が無視できないことに加えて、作品を鑑賞して抱く印象や感想には各時代における美的感覚や世俗的感覚、あるいは業界内で通用する常識といった社会的要因がどうしたって入り込む。ここに画業の現実をも勘案すれば、「思うままに描く」ことに向けた画家の冒険心や並々ならぬ覚悟が想像できる反面、進もうとする道に立ちはだかる難問も容易く視界に収まってしまう。
技法として見れば新しく、また表現として見ると心に響いて二度と忘れられない。絵画の理想とも思えるこの一文の命運を握るのはやはり観る側であり、新たな表現を追い求める画家はその目を開拓するぐらいの意志で筆を取り、キャンバスにイメージする「こと」を描いていくのだからそこに狙いが無いなんて言えば嘘になるのだろうし、作品表現に表れるものが全てその才能と感性であると語るのは、大事な要素を大胆に削ぎ落とす勿体なさを感じさせる。何より、パブロ・ピカソを始めとする表現主義に括られる画家のどの作品にも見て取れる異和の昇華、奇妙だとか、私でも描けそうといった観る側の素朴な感想を積極的に招き込むぐらいの絵画世界の到達ぶりにはプロの画家としての確かな判断とその先を見据えた直観が満ちていると思えて止まない。
思ったとおりのままに描くことには決してなり得ない、「思うままに描く」ことの現実。それをエゴン・シーレの絵画表現に即して見ればどうなるだろうか。かかる疑問を胸に秘めて本展を見て回ることの意義はきっと大きい。
三
社会的動物として生きる人間が抱く鬱屈とした感情を、歪な人物造形と不穏なテーマないし色彩表現で描き切った。こう記してみてもエゴン・シーレという画家の作品表現に対する感想として筆者は疑問を抱かない。けれども実際に目にしたエゴン・シーレという画家の表現に対する言葉としては不十分さを感じてしまう。
正直に言えば本展の第7章、アイデンティティーの探究に展示されている作品については「ほおずきの実のある自画像」を除いて筆者はあまり感銘を覚えなかった。
一枚ごとの狙いがあからさま過ぎるというか、こう見て欲しいという主張の強さが前面に押し出されている感じに後退りしてしまう。抽象画の度合いが強くなればなるほどに比例して鑑賞熱が冷めていく。以前、国立新美術館で開催された『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』で鑑賞したと記憶するエゴン・シーレの作品表現に覚えた衝撃とは似ても似つかないその感想に筆者は会場内で戸惑い、都合のいい記憶の美化を疑った。それぐらいに苦手だった。これらの感情を見事に晴らしてくれたのが「カール・グリュンヴァルトの肖像」の一枚だった。
濃さを増して漆黒に近くなる青の背景に映えて、モデルとなるその人が袖を通したシャツの白さが主役となって見えるその画面を質的に仕上げるのもまた白シャツに刻まれる皺の数々で、対象を俯瞰する視点からの描き方が日常を超えたフィクションを作品内に持ち込んでいる。前述したエゴン・シーレならではの人物造形の歪さは鳴りを顰めて、しかしながらその内側に走る襞として観る側に奇妙な感覚を与えてくる。まるで、その人物の佇まいが何よりの感情表現そのものであるかの如く、あるいは絵画表現の形を取った画家自身の世界に対する独白であるかの様な響きを伝える。だからそれはどこまでも拭い切れない人間感覚、愛にも通じる覚え。エゴン・シーレの絵画鑑賞の記憶に刻まれた衝撃はこれだったのだと得心する瞬間だった。
そこからはもう信頼感に満ち足りて、本展の第13章に展示されている裸体のドローイングからエロスを巡る表現力の意味を見て取るのに苦労は無かった。露骨のさもしさをすり抜けて画家が掴み取る美は姿勢によって骨格を軋ませるポージングとなり、あるいはボリューム感ある肉厚の躍動感となって見る側の意識をキャンバス内に誘い込む。世間から向けられる批判を理解から称賛へと転換できると疑わない自信が画面上の其処彼処に滲み出ていて、その熱情に引っ張られる。
その状態で鑑賞した最終章の展示スペースに飾られている「横たわる女」であり、また「しゃがむ二人の女」であったから前者の画面いっぱいに花開いていた衣服と身体の豪奢な感覚には目一杯に酔えたし、または未完成に終わっていた具象と抽象の共生ぶりがスペイン風邪で夭折した画家の、閉ざされたその先を惜しんで惜しんで仕方なかった後者の絵に投影する感傷となって、色鮮やかなイメージへの耽溺を楽しめたのだった。
四
詩を書くように絵を描くという画家の言葉に即していえば姿見を通して感じ取る、苦しみといった負の感情を身体の歪さとしてそのままに表に出すのではなく、その歪みを当然のものとしてモデルとなる人に内在させる。その自然さを直視する行為とそこに覚える感覚で描く道を、画家は進んだ。最も描きたいことを最も描かない道にも見えるそのアプローチが、だから最も詩的だった。そうして画家の絵画世界は生まれて人々の心に残り、画家が思い描いていた以上の年月を経て、今に続く。ここまで述べてやっと口にできるエゴン・シーレという画家の表現主義。筆者はそう強く思う。
本展に展示されている別作家の絵画表現としてはコロモン・マーザーが特筆に値する素晴らしさで、理性と発想の仲違いとは無縁の大胆な構想力にそれを余す所なく実現する表出の技法がどの作品にも表れていて、一気に惚れ込んでしまった。また第10章のメインを飾るオスカー・ココシュカの、当時の人々の間で最も野生味に溢れると評された唐突な力強さに惹かれる絵画表現をポスターなどといった媒体でも鑑賞できて、凄く良かった。ウィーン工房ならではの優れたポスターデザインも冒頭から楽しめて、その違いを新鮮に検討できたから尚の事だったかもしれない。点数は少ないけれど、グスタフ・クリムトの風景画というもの珍しさもあって印象は深く残る。エゴン・シーレの風景画もまた同じである。
五
ウィーンの表現者たちが挑んだ闘いの歩みでもあり、達成した栄光でもある『エゴン・シーレ展』。エゴン・シーレという画家に焦点を当てて切り取られる一時代の軌跡に興味があれば是非、東京都美術館へと足を運んで欲しい。
『エゴン・シーレ展』