こうちゃんのアルバム

白山無寐

 今日でトータル何回明日という単語を唱えたのだろうか。トイレに行くために踏むたった八歩の歩数でも、その二倍の数明日と僕はぶつぶつ呟いた気がする。決して明日を迎えたくないとか、膨らみかけの希死念慮ではなかったが、ただ何となく当たり前に来る明日というものが急に気持ち悪くなった。
「明日は。明日が」
 この言葉が口癖になったら僕はいつかぽろっと死にたいと口にしてしまう気がした。流行り病に感染したくなかったから、なるべく頭で考えることは辞めたかった。天井、窓際、カメラの順番に黒目を動かすと、部員は僕以外にもいるはずの写真部から課題が出ていたことを思い出し、脊髄に頼る前に身体を動かした。
 必ず部活動に入部しないといけない僕の学校にも、逃げ場というものがある。幽霊部員になっても単位や成績には響かない写真部は大人気だ。
 いつも窓際のソファで毛布にくるまって座っている顧問の匂いを思い出した。少しだけ煙草の匂いがするのに、なぜだかその下には柔らかい黄色い花を連想させる匂いも隠れている。この顧問のせいで、部活に入りたくない生徒が写真部に集まった。
 秋の終わりに咲く、寒さに怯えているような綺麗な花を連想させるほど儚い榊先生。この人は確か美術の先生だった気がする。僕は美術の授業を取っていないのであいまいだけど、白衣の汚れを見るとそんな感じがしたし、入学式の時も眠たそうに、自己紹介を頑張っていた記憶が奥底にある。
 榊先生の教師としての印象があまり定着する気がないのは別の榊先生の印象が強いから仕方ない。これからお世話になるわけでもないし、どうだっていいだろう。
 鞄の中からプリントを引き出した。他の教科書に挟まれていたプリントを強く摘まんだせいで、少しだけ親指が痛かったのと、無駄な折り目がついてまた僕のやる気が弾けた。一通りプリントに目を通して、さっき香った匂いが僕の鼻に戻ってきた。
 今回の課題が花だったから顧問の匂いを思い出したわけではないが、どんな理由があろうと女性の匂いを思い出してしまったという後ろめたさが結局鬱陶しい砂鉄のように僕にくっついてしまった。
 砂鉄を踏みながら、最近買った三代目のカメラとメモ帳を鞄に入れて靴を履いた。誰もいないリビングが明るかった。
祖父の趣味だった写真になぜか僕がはまってしまった。そこまで祖父と仲が良かったわけでもないから、時々不安になったりもする。僕が今無意味に続けているこれを好きだと言えないことに。
 毎日通っているから、何も特別じゃないこの道をわざわざカメラ越しに見たりなんかしない。わかりやすい特別が欲しい僕は、どんどんなくなっていく近所の知らない町に足を運ぶ。退化していくだけの、思い出が絶頂な僕らの町がなくなったらどんな音楽が鳴り響くんだろうと僕自身も理解できない変な妄想をしながら、見慣れない景色と鉢合わせた瞬間にレンズ越しでしか町を見ることができなかった。
 慣れない構図を頑張った橋の上や、天使の階段を撮りたくて必死になったアングル。他にも、生き物をうまく画面に収められなかった不器用なネガティブスペースが愛おしかった。肝心の花は撮っていないが、課題をやるために外に出たという意識の高さだけで僕は十分だった。
 ここからバスに乗れば、ちょうど六限目が終わるころには学校に着くだろう。僕にとって大事なのは部活に出るということ。僕と榊先生しかいない教室で、簡単な部活動をやって、あとは適当に話すだけ。榊先生の煙草を吸っている姿を眺めているだけ。今の僕にはそれが何よりも大事なのだ。


            *


 引っかかるドアを開けると、そこには毎回僕よりも一足先に榊先生がいる。今日はどこかの猫を抱きかかえていた。
「一年でそのサボり癖は卒業できないな」
「勉強は自分でやってるんで最悪やめます。おはようございます」
「おはよう。そういう問題じゃないんだけど、まぁいいや。不良少年は課題やってきたか?」
 僕と目を合わせずに、先生の顎近くにいる猫の顔を流し目で、愛おしいものを見る目で見つめていた。嫌がる様子を見せずに、むしろ喜んでいるのか、猫は喉を鳴らして満足げな表情で目を瞑ったままだった。白い毛が輝いている。眩しく暖かそうな野良猫は、何度見たって、どこで見かけようがやっぱり羨ましかった。
「花は撮れてないです。ていうか、この時期に花は咲いてないですよ」
「そんな言い訳するなよ。私は今日も花を踏んづけてしまったよ」
 一応写真部の顧問だからと毎日何かしらの写真を撮るようにしているらしい。ほらと携帯の画面に映し出された、すでに死んでしまった椿の花が先生の足によってもう一度殺されていた。画面の隅っこでは今も気持ちよさそうに眠っている猫がちょこんと座っていた。
「椿は地面に咲いたりしないんですよ」
「知ってるよ。でも花だろ?」
 僕がその意見に納得すると思ったのか、いたずらに口角を上げた。そして、猫を優しく起こして、後ろにある窓から逃がした。微々たる動揺でさえも見せない野生で生きている動物の反射神経に見とれてしまった。音を立てずに着地した猫は、そのまま不機嫌な態度を尻尾にだけ表して低木の陰に消えていった。
猫を視線で追うことのない先生を視界の隅に見つけた。案外簡単に手放せるもんなんだなと感心したのは、飼っていたペットが死んだとき僕はなかなか立ち直れなかったからだ。
「煙草いいかい?」
「いいですよ。今日撮ってきた写真貼っときますね」
 古い教科書がしまわれた大きな棚の横に、これもまた古いホワイトボードが置いてある。いつもの写真屋で現像した写真を鞄から次は丁寧に取り出した。カメラも入っているから、適当に手を突っ込んだりはできない。
 写真同士がくっつかないように、小さくて分厚いアルバムにいちいちしまっているから取り出すのも少し苦労する。今朝プリントを出した時と同じように、単純な力が指先に加わってしまいそうになるのを我慢して、やっと二十三枚の写真を取り出した。
 入部当時は写真の数がここまで多くなかったから、刑事ドラマのようなホワイトボードになっていて、先生と笑ってしまった。好きなだけ撮ってきていいよと言われてからは、失敗作も含め、撮ってきた写真全てを現像するようになった。
 僕の写真に対する知識のなさには比べ物にならないくらい先生は何も知らないから、羞恥心を感じる必要はなかった。これが高校に入って、初めて逃げたことだ。知識のない人間はそもそも評価してくれない。だからある程度手を抜いてもバレないし、僕の持っているくだらない知識でそれっぽいことを言えば言いくるめることができる。恥ずかしくないのかと聞かれたら、恥ずかしくはなかった。ただ悔しいだけだ。
 そんな甘えを誤魔化すために、最近は祖父のノートを読んで真似たりしているが、そっちの方が恥ずかしかった。頑張っている自分を見たくなかった。
「これだけあって花の写真がないってことは、あえて撮らなかっただろ」
「そんなことないですよ」
 思わずにやけてしまった僕を見ずに、遠くを見つめたまま僕と同じようににやけた先生にはやっぱり煙草は似合わなかった。無理しているように見えて、情けなく心配や同情を誘う。
「あ、ここ懐かしい」
 マグネットをわざわざ摘まんで外し、写真の端を優しく掴んで羽を置くように写真を手のひらに置いた。そこに映っている景色は僕も何度も見たし、先生もきっと毎日のように見ていた道で、思い出したくないことだらけな景色だろう。僕は今日その話をしに来た。そのために僕だって行きたくなかった町に、早起きして行った。課題を言い訳に。
「そうですよね。僕も久しぶりに行ってきました。先生がもう少し歩いた場所でタバコ吸ってるのずっと眺めてました。なんで辞めたんですか。患者に好かれてたくせになんでなんですか」
 榊先生は、母が無理やり僕のことを連れて行った精神科の先生だった。榊先生の話を聞くことが好きで、小さな僕は頻繁に仮病を使ったり変な人のふりをした。母は世間体ばかりを気にして、帰って来ない異常な父の顔とよく似た僕を、そんな理由だけで精神科へと連れて行った。本当に見た方がいい対象は母なんだろうなと当時は首をかしげてばかりだった。
 先生は僕の欲しかったリアクションを取ってくれることはなかった。こういうことは慣れっこなんだろう。田舎と言い切っていいほど田舎ではないが、都会とは程遠いのんびりとしたここら辺の町には、あそこの精神科の評判の良さが異常だった。小さな子供から老人までしっかりと見てくれることだってレアなはずなのに、蛍病院は患者一人一人と鬱陶しいほどに向き合ってくれた。
 すごくいいのよと薄っぺらい感想が飛び交った最初のコミュニティは、小さな子を持つ母親たちだった。気にしすぎだと片付けられやすい育児に、安心を求めて母親たちは駆け込んでいった。そこからどんどんと隣町へと広がり、蛍病院は簡単に人気者になった。だから、この高校にも先生の患者だった子供はちらほらいて、せんせーと花畑に来たウサギのように楽しそうに話しかけるのだ。
 僕はそれを横目に見ては、あの時の安心感を必死に探した。いい子だねと賢いねと褒めて微笑んでくれた先生の姿をもがくように探した。結局見つからなかった。
「好かれてようがそれは私には関係ない話じゃない? 好みは第三者のものでしかないだろ。回りくどいことしてきやがって全く。こうちゃんは変わってないね」
 こうちゃんという声を聞いた途端、懐かしいにやけ顔をとらえたこの瞬間に、僕の目の前にもやっと光が降り注いだ。さっき眠たそうにしていた猫になってしまいそうなほど暖かくて優しい光。母の呼び方が移っていた当時の榊先生が戻ってきたような気がして嬉しかったはずなのに、僕の欲しかった変わらないものなはずなのに、何も嬉しくなかった。
 先生は置いてけぼりな僕を無視して、ねちっこい丁寧な指先で写真をホワイトボードに戻した。
「で? 私が辞めた理由か?」
「そうです。なんで、辞めたんですか」
 舌の上まで転がってきた言葉を飲みこんだ。なんで僕を一人にしたんですか。
「大切な人が死んだから」
 あぁ、ああぁあああぁぁぁぁああああ。
 思考を止めるという選択肢は取らなかった。諦めることなく絶望と現実を受け入れられる自分を必死に演じることにした。僕の緊張感をいとも簡単に破ってしまう声たちが廊下に響き始めたが、いきなり始まった緊張感の邪魔は許さない。
「精神科医は患者に極力感情移入をしないように心掛けていると聞きました。患者が死んでも、残酷な日常を作り上げなきゃいけないんだと僕は解釈しました。先生はどうだったんですか。患者が死んだら、泣きましたか」
「患者の陽性転移や陰性転移はそれなりに多かったと思う。わかりやすいわけではないけど、よくそれを実感して、感情をその度に殺してたな。だから患者が自殺を選んだときは泣けなかったかな。こうちゃんは勘違いしてるよ。私の大切な人は患者じゃなかったんだよ。だからそれだけで簡単に心が折れた」
 消え切っていないタバコの火を強く灰皿に押し付けて消している横顔を見つめた。僕の強がりも随分と弱くなってしまった。
 勘違いでも何でもよかった。僕だけのものではないことくらい、小さい時から理解していた。言い聞かせでも何でもない静かな理解で終わったはずなのに、やっぱり僕を見ようとしてくれた初めての存在は榊先生じゃなかったとしても独り占めしたくなる。僕以外の人に僕と同じように接してほしくないとあの時こねるべきだった駄々が今になって溢れてしまう。
「患者だったら先生は今ここにはいなかったってことですか」
「わかんないよ。その大切な人じゃないまた別の大切な人ができてたかもしれない。私には誰かがいなくても、早い段階で精神科医は辞めるつもりだったしね」
 榊先生はもう一本煙草を取り出して、四秒の沈黙を噛みしめた。
「私からも質問させてくれ。急になんだ? こうちゃんのことだからずっと気づいてたんだろ? 今更っていうほど時間は経ってないのかもしれないけどもうすぐ二年になるのに、なんで今、今日なんだ」
「昨日父から電話がありました。父が来年帰ってきます。新しい母を連れて」
 銀杏の香りを見つけるとどうしても吐き気を催すあの感じが今、この空間にも存在している。
「そうか。綾子さんは?」
「前の母は僕が中学校に上がるタイミングで家を出て行きました。僕が小学校低学年までの母は周りに人が近寄らないくらい弱っていて異常だったと思います。でもいきなり何かのタイミングで生まれ変わったかのように元気になりました。毎日母の手料理が食べられる感動を今でも思い出してしまう。それくらい衝撃でした。その日常が二、三年続きました。でも春休みが終わる三日前くらいに、いつも通り目を覚ますと朝ごはんの匂いがないんです。それどころか物音一つだってなかった。まだ寝ているのかなと久しぶりに母の部屋に行きました。ノックしても返事がないので大声で呼びかけました。それでも返事がないんです」
 俯いたまま話し続ける僕の目を、先生は探していた。吐ききった息をもう一度吸うために肩を落とし、ふと顔を上げると普段全く合わない目が、まっすぐなあの時と変わらない目が僕を優しく包もうとしていた。
「それで、えっと」
 相槌一つ打たない先生と話すことがやっぱり好きだ。僕の話を邪魔する気がない、ただ聞きたいという意欲しか感じられない態度が僕の頭の回転を手伝ってくれる。恐れることなく話せてしまう。
「ドアを開けてまず言葉を失った景色が、母がどこにもいなかったことじゃないんです。酒の缶や瓶がまんべんなく床に落ちていて、あれだけ服の手入れをしつこくやっていた母の服はしわだらけになって畳まれていない状態であちこちに落ちてました。細かく掃除していたメイク道具も埃かぶっちゃってて。それ見て、母がどれだけ思い詰めてたとかそんなことよりもあぁ死にたいなって。初めて声に出しました。母の部屋だけが汚い現実と、なんとなくの直感でもう帰って来ないこと、これからどうしたらいいのか。考えることを放棄しました。とにかく床に落ちているゴミをかき集めて、ゴミ捨て場と母の部屋を何度も往復しました。簡単に綺麗になった部屋を見て初めて泣きました。そこでやっと結構まずい状況だって気づきました。父に連絡するのが怖かったから、とりあえず母の実家に電話しました。そこからは祖父と祖母が駆けつけてくれて、事前に母が祖父たちに伝えてたみたいで、今の状況を優しく教えてくれました。あとはもう大人の仕事です。父が頻繁に家に帰ってきたり、新しい母を連れて外食に行ったり。皆何事もなかったかのように起こってしまった現実を生きていることがなんでかは知らないけど悔しかった。なんで今になってかっていうと、初めにも言ったけど新しい家族ができるから。今まで耐えていたことが爆発してしまったから。こんなところに先生がいるなら助けを求めたくなっちゃうじゃないですか。ふざけんな」
 理不尽ではない、ただのわがままをぶつけた。どうしようもないことに落胆する日々は疲れる。ならもういっそ何も期待せず、絶望の感覚を忘れたふりをしようと思った。なぜか僕と口をきいてくれなかった厳格な祖父がそういえばなと簡単に教えてくれた写真に没頭したふりをした。
「こうちゃんが通院してた時から今までずっと助けた覚えはないよ。これから先も助けられない。求めるのは良いけど、今みたいに八つ当たりしてしまうならもうやめな。こうちゃんは気づいてたと思うけど、お母さんも別で治療してたんだよ。そう、そっか。もう私は美術の先生だから、教師として話すね。今まで頑張ったな。こうちゃんの努力が報われないことばかりだっただろうけど、今日も来てくれてありがとう。好きでもない写真を撮り続けてくれてありがとうね。私はこうちゃんの写真好きだから、余計なこと考えながら、逃げて、たまにぶつかって、泣きながらこれからも生きて撮り続けてくれると私は嬉しい。まぁ、死ぬも生きるも結局本人の勝手なんだろうけどさ、生きてたらありがとうって言ってくれる人がいてもいいのかなって思う」
 僕の足枷が外れることなく、なぜかまた少しだけ重たくなった気がした。先生の後ろにはいつの間にか帰ってきていた猫が丸まって寝ていた。寒くないかもしれないが、僕があそこにいたら中に入れてほしいから、ただそんな理由で窓を開けた。先生の言葉をすべて無視して、おいでと声を出した。
 鋭い歯をむき出しにした無防備なあくびをして、よたよた歩いてこちらに向かって来る猫に手を差し伸べようとした。だけど、ここから出せる腕は一本だけで、それじゃあ猫を支えることはできない。落としてしまうだろう。先生のように僕は武器も道具も持っていないから、怪我をさせてしまうなら触れない方がいいのだ。余計に助けたいという善意だけで動いてはいけない。わかってるんだ。
「また話してもいいですか。次は美術の榊先生に話しに来ます。課題もこれからも出してください。それと、なんで写真好きじゃないってわかったんですか」
「写真のことは最低限しかわかんないけど、絵と写真って少し似てる部分も多くてね。こうちゃんは知っていることを最低限詰め込んだ写真ばかり撮るじゃない? それが課題をとりあえずやっとけばいいだろうっていう学生時代の私と似てたからね。好きじゃなくても評価されてしまうことはちゃんと手を抜いてやるのって偉いからなぁ。毎度感心してるよ」
「それ、学生時代の先生のこともついでに褒めてませんか」
 猫が先生の膝に乗っかったことを今更認識して窓を閉めた。先生の笑い声を聞きながら、後ろを向くと少しだけ気合の入ったもう二度と戻らない景色たちが輝いて見えた。

こうちゃんのアルバム

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更新日
登録日
2023-02-01

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