逆行

 昨日作って貰ったメガネを無くしたことを正直に伝えたら、値段を聞かれ、乱視と諸々高いレンズを使っていたから、4、5万はしたかなと言うと、ふざけるなと怒られた。


 怒られたところで、無いものはないのだし、保証書を持って行けばなんとかなるだろうと探してみたが、それすらもない。


 一気に頭から血の気が引いてしまって、昨日行ったところを、時間を逆行するみたいに、辿っていく。


 洗面台、トイレ、キッチンのガス台の横のスペース、テーブルの上、玄関、靴箱の上、扉を開けて最初のコンクリートの上、車の前、車の中。


 無い。探したけれど見つからない。

 
 保証書も無くなり、がっくりと項垂れる。
 メガネがなければ、車にも乗れない。一寸先もボヤがかかってよく見えない。昨日変えたカーテンの色、部屋の壁紙の色、テレビの砂嵐の色、なんとなく見える。けどみんなボヤがかかっている。


 無理やり車に乗って、エンジンをかけて、シフトをドライブにしてサイドブレーキを下げようとしたところで止められ、それで人を轢いたらどうするんだ、と怒られ、泣く泣く、高校生の頃使っていたリュックに、必要最低限のお金と身分証明書とスマホを入れて出かける。


 近くのバス停まで30分はかかるか。僕は足が遅い。


 メガネのない視界は常に遠くのものはぼやけていた。


 水彩画の中みたいに、遠くの山の木々の緑は滲んで、揺れ、緑色の炎みたいだった。


 そこに黄色い陽の光があたって、気持ちがいい。


 少し霞んで見える景色もなかなか悪くないと少し立ち止まって、辺りを見回していて、いやいや、車に乗れるのが一番楽でいいと思い出してまた歩く。


 そもそもこんなことしなくてよかったんだけれど、僕の不注意で、メガネはなくなるし、保証書も無くなるし、因果応報と言えばいいのか、全部俺が悪いんじゃないかと半笑いになりそうになるし、いっそこのままタクシーでも呼んで、誰も知らない遠くの眼鏡屋まで行って一番高級そうなメガネを頼んで自己破産してやろうかと、ケラケラしながら道端の木の棒を拾って、無闇にブンブン振り回しなら進む。


 随分な田舎道だった。両側田んぼ。遠くの方で、手拭いを巻いたおばあさんとおじいさんが、耕運機で田んぼのしろかきをしている。
 そんな季節だったかな、今は真冬のはずだったけれど、と頭をかきながらバス停に行くと、見知らぬスーツを着た男が腕時計を気にしながら今か今かとバスを待ってるみたいだった。


 何をそんなに急ぐんだろうとそれとなく気にしながら、バスを待った。あと20分くらいでバスが来る。


 久々にバスに乗る。
 小学生の時に乗っていたバスは、白いバスだった。
 バスの運転手はいつも僕のことを、小学生にしてはかなり太っていた僕のことを見て、体格がいい、柔道をしろと仕切りに勧めてくれた。
 今思うと真面目に何かに熱中してやるべきだったと今更になって思うんだけれど、小学生の頃は他にも楽しいことがいっぱいあって、いつも何か楽しいことを見つけてはそれをやっていたと思う。


 それを少し勉強とか他のことに向けていれば、もう少しは幸せだったのになぁとバスの席に座ってしばらく考えていると、そんなことより無くしたメガネのことが気になり出して仕方なくなり、一体あのメガネは今どこで何をしてるんだろうと仕切りに不安になり、保証書も何もないなら買い直すしかないのかと、多分、買い直すしかないのかと、2回、諦めさせるように心の中で呟き、次はどんなメガネにしようと考える。


 今度はシックな黒縁メガネにしようと思ったり、丸い大きなメガネもいいなと考えながら、バスに揺られて街に向かった。


 遠くの方でしろかきをしていたおじいさんとおばあさんが軽トラの隣で休んでいた。
 もうすぐ正午ぐらいなのかもしれない。

逆行

逆行

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-29

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