落花の春

「僕が兄さまを、自由にしてあげる」



 神々しいまでに残酷な朝、澄んだ淀みのない声がたった一言、夢を劈くようにして鳴り止まないあの日を、多分私はいつまでも忘れないことだろう。



 冬の終わりに春告げを報せるかのごとく庭に咲いた椿の花は、潔さを伴って、首落とす準備を始めている。  

 一方で、相対するように覆い被さり佇む枝垂れ桜は、まるで命の灯が宿るようにふっくら蕾を孕んでいる。

 短命の桜と長命の椿は開花の時期こそ重なるものの、互いが寄り添い合いながらも一瞬の時を共にすることはない。抗えない四季の刹那に起きるほんの些細な現象ですら、花をこよなく愛する母には一大事だったことを思い出した。私と弟の名をなぞらえるように、いつか言った母の言葉が思い出とともに蘇る。



『桜と椿。私がいなくなっても貴方たちは強く美しく、お父様のように凛々しい男の子でいてね。寄り添い合う庭の花たちのように、ふたり仲睦まじく、それぞれが自分の為に幸せな未来を歩いてゆくの』



 古びた武家屋敷の名残がある大きな日本家屋と、病床に伏せった健気な母と、幼い兄弟ふたりを残して父は兵役により搾取され、私たちの前から姿を消した。

 裕福な家庭ではあったと思うが、物心がついた頃には男親のありがたみがわからず、父親がどんなに偉大なものだったのか、見当がつかなかった。

それでも幼い頃から長男としての自覚は少しだけあり、流行り病に蝕まれ日々弱っていく母を目の前に、私は弟の手を引いて自分がしっかりしなければ、とよく決意したものだった。

 成長していく中で父の命が薄命だと悟ったのは、ある満月の夜、泣いていた母の姿を目にして悟った。寝付けない弟に本を読み聞かせてやって、折角の満月なので月見をしようと縁側に出向いた時のことだった。

 珍しく母が自室を出て、真夜中の庭をぼんやり眺めている。衰弱しきった身体は骨と皮だけになっていて、しなやかな女性特有の肉付きはすっかり失われていた。

 夜中まで起きていては怒られてしまうと思い、床が軋まないように身を翻す。自室に戻るか、とため息が出た時、苦しみと悲しみの入り混じった諦めの悪い声が、力なく聴こえた。

 慌てて振り返ると、菖蒲色をした母の着物の袖が濡れていた。そして手には流暢な走り文字で書かれた手紙が皺くちゃに握られていて、母が行き場のない悔しい表情を浮かべていた。

 父はお国の為に死んだのだ。こんなにももろい母を置いて、愛国心にも似た虚勢の鎧を振りかざして、弔い合戦に負けたのだ。そう思うといたく情けなかった。 

愛した人ひとりの幸せさえも自由に守ってやれない世の中は、幼心ながらに非情で劣悪だと思った。日本に生まれてこなければと、わけの分からない感情が頭をよぎることもあった。あの母の弱りきった肩を抱いてやれるのは、きっともう最愛の父ではない。私は使命感に駆られ、この時母と弟の行く末を見つめていく役目が、自分にあるのだと気づいた。



 数年が経ち、幸運にも私の元へ赤紙が来ることもなく、世界は終戦を迎えた。年齢という壁もあり、無事に難を逃れた私は、父の二の舞いから解放された安堵もあり、満ち足りていた。

 蕾が花開くように自分のやりたいことを見つけては、次々と吸収することを覚えた。けれど挑戦していた物事の多数は、母と弟優先の生活もあり、断念しなければならなくなることも少なくはなかった。

 その頃、ちょうど人見知りで表情の固かった弟の椿季も、母を喜ばせようと必死に笑うようになった。生まれながらの甘えん坊で、四六時中母がいないと不安がる彼は感情表現こそ下手くそだったが、心の綺麗な、灰色の美しい瞳の持ち主だった。

 ただ、一般的な男児よりも少し成長が遅く、いつまでも男の子らしくならない彼のことを母はとても心配した。 

 もちろん私もその異変に気づいていないわけではなかったが、母にはもっと自分の身体に気を使ってほしいと常々思っていた。

『母様は、自分のことだけ考えていよう。私が全てなんとかする、なんとかしてみせるさ』

 自分が生きている今、散らなかった命は父の代わりとしてここに寄り添う。それがせめてもの、父への餞に成り代わっていけばいい。

 擦り切れるような思いをして寿命を縮めたのだから、もうこれ以上母が苦しむ必要はないのだ。

 私の目に迷いはなかった。あとどれだけ、母という神聖で淀みのない人が、この世を生きられるのか分からずとも、簡単にあきらめるわけにはいかなかったのだ。



『桜良は優しすぎるから、時折目を背けてしまいたくなるぐらいあの人の面影を探してしまう。まだここにいるのかなあと、影も形も見えないあの人の後ろ姿や匂いを追いかけてしまいそうになる』

 それから少し経った春の昼下がり、麗らかな春の陽気の日だった。いつものように給仕たちが母の看病をしている傍ら、死相を纏った母が、出先から帰ってきて部屋に踏み込んだ私に、弱音のような一言を漏らしたのだ。

 椿季はその日十六の誕生日を迎え、頭を撫でられながら母の傍で小さくうずくまり眠りについていた。その顔の近くには、庭に枯れ落ちた椿の花びらが、二つ、三つと散らばっている。

 おそらくいいことがあったのだろう。椿季が花を摘んでくるのは、いつも嬉しいことがあった時と決まっているのだ。こちらもつい、顔が綻び、このふとした幸せが永遠に続けば、それだけでいいと思っていた。

 ところが、母は父の死を受け入れた時のような、あの悲しそうな表情をこちらに向けて、静かに息をする。そして、ごめんねと何度も繰り返す母に、なぜ謝られているのか、まるで理由が分からなかった。

 私は息子として、当然のことをしているまでだ。たかが子どもの拙い母への思いやりは、父に成り代われるほど、強い存在感でその肩を支えてはやれないというのに。

『桜良…お母さんを許してね』

 言葉の意味を教えてくれぬまま、最後に母は少し歪な笑顔を浮かべた。

やがて動かなくなった乾いた唇は、次第に赤みを忘れ冷たくなった。弟が握っていた手のひらから上品な椿の匂いがほんのり優しく香る。

 心の琴線がぷつんと切れた音がして、途端に大粒の涙が瞳の奥から溢れ出す。しばらくすると途方に暮れた感情が、わっと波のように押し寄せ、耐えきれなくなった嗚咽が不甲斐なく漏れた。



 同じ家で生まれ、同じ家で育った人間にしては体温の限りなく低い、色素の薄い手肌が伸びてくる。閉じていた瞼を無造作にくすぐられ、緩やかに上を向いている睫毛を触られた。

「もう少し寝かせておくれ」

「徹夜続きは、身体を壊してしまうよ」

「いい文章は残しておかないと忘れるからなあ」

 些細なじゃれ合いにいたたまれなくなり、私はとっさに伸びてくる弟の指先を払ってしまう。

「そうやってまた、僕のことをからかって」

 構ってもらえず、すぐに不服そうな声色になったので、これ以上機嫌を損ねないために、気だるい身体を無理やりに起こした。朝の光は庭一面の木々たちを潤すようにして、無垢に差し込んでいる。

 寝不足で変わらず頭は重いが、倦怠感も忘れてしまえるほどの自然の恵みは、割りと悪くはない。

 私はほどけかけていた着物の帯を、もう一度しっかりと締め直しては呟いた。

「愛しく思わなければ、ここまで甘やかさないさ」

 縁側はいつの日も心地がよく、心が乱れてもすぐさま波立った気持ちを静かに宥めてくれる。

 ゆっくりと腰掛けて体勢を変えれば、古めかしく木の軋む音が聞こえた。

「兄さまの、そういうところはずるいと思う」

 眠たい目をこすり、無気力に大きなあくびが一つ出た。椿季は私の言葉に頬を赤らめ嬉しそうに微笑んでは、私の肩に寄りかかる。

 重みのないその姿は、血を分けた兄弟にしてはもろくて儚い、という印象を拭い去れないでいる。

 あと二年で成人の歳を迎えるのに、椿季の声はざらつかず、澄んで透明なまま、耳に流れ込んでくる。男子特有の野太い声や響きやすい声は手に入らず、喉仏も出ていない。 

 自分の思春期を思い返すと起きていた数々の身体の変化も、全て彼には当てはまらなかった。身長はせいぜい子どもの頃から五センチ伸びるのがやっとで、筋肉が発達することを拒んでいるように思えた。



 ゆっくりと弟が成長していく過程で、ひとつわかったことがある。

 物質的なものは過不足なく事足りていたが、唯一、椿季の心に空いた空洞のような穴の中だけは、もう二度と戻らない過去の思い出と同じように、取り戻すことも埋めることもできなかった。

 母を失った時の、誰に成り代わって生きればいいのか、という私が得た喪失感も然ることながら、常に傍で寄り添い母の温もりを求め続けた椿季の虚しさは、計り知れないほどに増幅し続けていた。季節が巡れば巡るほど、成長における違和感は、庭に降り積もる花弁のように募っていった。

 言動や仕草で大人の片鱗を見せる一方で、父によく似た私と椿季は決定的に何かが違っていた。母が持ちうる無駄のない骨格はもとい、通った鼻筋、景色の中でくっきりと映える二重と灰色の瞳に至るまで、私の中では生まれることのなかった繊細さが備わっている。

 それゆえ少年としての美しさはずっと存在し、柔和な笑顔の中でも、素直で純朴な瞳の輝きは濁ることを知らないまま時間だけを重ねていった。



 春の一瞬に身を任せ庭の花を見ていると、体重を預けた椿季はそのまま両手を私の腰元に伸ばす。

「椿季?」

 抱きついてきた身体がどうしようもなく震えていたので、落ち着かせるために二度ほど頭を優しく撫でてやる。

「母さまがいなくても、もう寂しくない」

 心の中を整理している最中、弟は呼吸がうまく出来なくなることがあり、言葉が唐突に紡げなくなったりする。そういった場合は必ず、些細な言葉の欠片で自分の心が傷つかないように、助けを求めてくることがある。

「…だけど、兄さまを失うのは怖くて」

 黙って頷きながら聞いてやれば、久しぶりに弱音というものが椿季の口から漏れ始める。頬を擦り寄せるようにして私の着物に顔を埋め、椿季は涙まじりの声で言う。

「でも、僕には勿体ないから」

 その言葉の意味を待たずして、私は目の前の身体から湧き上がる花の匂いに気づいてしまう。立ち籠めた植物の瑞々しい香りは、いつもより一際強烈で、蠱惑的に鼻孔をくすぐった。

 座っているだけなのに、私の周りを纏ったその匂いは心を捉えて離そうとはせず、徐々に自分の身体に痺れのようなものをもたらした。

 意識が曖昧になる私をよそに、しばらく動かなかった椿季は顔を上げ、視線をこちらによこす。次に腕が、するすると上に登ってきた。先ほどまで悪戯をしていたはずの指に無邪気さはない。その指が怪しく蠢いては慈しみを込めて頬を撫ぜるものだから、手足は自然と硬直した。

 崩れるようにすがっていた体勢を変え、目が合ったかと思えば、そんな力がどこにあったのかと言わんばかりの勢いで、床に強く押し倒される。

「っ…つば、き…何を、」

 視界が反転し、打ち付けられた身体が痛む。大人の男ひとりでも立ち向かえないぐらいの大きな負荷に、到底叶うはずもなく、健気な姿に馬乗りになられた私は、為す術を見失った。普段はちっとも重たくないはずのその身体は、どこからか引き連れてきた重力を伴って、押さえつけて離さない。

「ねえ兄さま、」

 その眼差しは最愛の人を失うことに怯えていた母に似ていた。弟は確かに寂しがり屋だが、普段生活を共にしている時はこのような表情を滅多に見せることはない。

けれどこの時ばかりは異様にもろく中性的だと感じていた。まるで誰かに骨の髄まで支配され、融通の利かない恍惚と苦悩で交互に心をすり減らしていると言った印象を抱いた。

「怖い夢を見たんだ」

 震えるような声が耳元に降りかかる。

 甘い眩暈に視界が歪んで、ぼんやりとする景色の中で、椿季は不敵で物悲しい笑みをこちらにこぼす。

 征服する悦びを覚え、独占欲に満ちた瞳の色は、禍々しく輝いていた。

「ゆ、め…」

「僕が兄さまを殺してしまう夢」

 呆気に取られようやくなけなしの声を漏らすと、椿季は唇をきつく噛みしめて一言、そう返した。 

 言葉は口に出せば時としてあらゆる感情を傷つける最もささやかで残酷な凶器だと、以前何かの文学書で読んだことがある。その言葉通り、今の彼には言葉ひとつひとつでさえも時として牙を向いてしまう。

 五感を刺激し続けていた花の匂いが、椿季の言葉と交わってさらに強くなる。匂いに誘われるように無意識に伸ばされた細い両手は、一瞬にして私の首元を捉え締め上げ始めた。

「ごめんね、兄さま」

 呼吸をするのも忘れ、椿季から向けられた表情を見て私は困惑した。あの時と同じだ。顔も余計に似ているものだから、忘れたかったはずの走馬灯が蘇りそうになった。

『桜良は優しすぎるから』

 ふと、頭の奥底で誰かがそう唱えた気がした。しかし母ではない。もっと若く、澄んだ別の声である。後ろめたさのこもっていない声は反響を繰り返し、私に語りかける。

『僕が、兄さまを自由にしてあげる』

 少し不安げに、もう一度響いた声に何を今さら、とぼやいてしまいそうになる。意識は宙に浮き、身体が段々と使い物にならなくなるのを、私はゆっくり体感した。

 心と身体が切り離されていく感覚は地に足をつけるのを拒みたくなる。私はその声に愛しささえ覚え、淡々と続けられる行為に、自然と警戒を解いていく。強さが増していく小さな両手の、どこにそんな力があったのかと、ふっと力なく笑いがこぼれた。

 兄の大きな首を握ることがやっとの、健気で壊れてしまいそうない弟に、臆病でいつも私の後ろに隠れていることしか出来ない弟に、一体何が出来るというのか。そう思えばこの痛みなど、いとも簡単に受け入れてしまえる気さえした。



 意識の薄れゆく私の手が、伸びてくる弟の手をとっさに掴んだのは、いよいよ虫の息になる頃合いのことだった。はっとして我に返ると、絞められている感覚はいつの間にかなくなり、意識が鮮明に戻ってきた。手と足も自由に動く。

 夢だったのかもしれないと、私は自分に言い聞かせる。ここのところ、仕事のせいもあってきっと疲れていたせいだ。実のところ椿季は、近頃では昔のように取り乱すことなく落ち着いて、順調に歳を重ねていたじゃあないか。私は昨日もそのまた昨日も、元気に庭で笑う姿を見たはずだ。

 そう思って瞳を大きく見開いたが、これは決して夢などではないと気づく。目の前には先ほどまで並々ならぬ重力が注がれていた椿季の身体が、力なく跨っていた。 

驚くほどに軽い身体は、私の乱れた着物の上で小さく声を殺して泣いている。その頬を滑り落ちていく涙は、人間らしさをとうの昔に忘れ、全てを花びらに変えていた。

花の匂いはさほどきつくなく、今度こそしっかりした意識で向き合おうと、とっさに掴んだ手首に視線を送る。白いシャツの袖がめくれ返り、そこには庭の桜が木の枝に蕾をつけるのと時を同じくして、無数に広がる花の蕾が発疹のように芽吹く春を待っていた。

「…どうして」

 二人の間を唐突に通り過ぎた春風が、椿季が零す涙の花びらを爽やかに攫っては舞い上がり、庭の外へと運んでゆく。

 私は自分の目を何度も疑った。そして今起きていることが何度も夢であってほしいと強く願ってはみたが、濡れた花びらは無常にも私の胸に燦々と降り積もる。

「兄さまには、知られたくなかった」

 兄として、こんな時の弟の慰め方は、両親を失った時に嫌というほど身についたはずなのに。いざ本人を目の前にするとかけてやれる最善の言葉は、すぐには頭で浮かばない。綻んだ涙腺から涙がこぼれ、頬を伝う。唇に少し触れた涙はとても人間らしく塩辛いものだ。弟が今流しているものとは、きっと色も形も違うのだろう。

 優しく握ってやった椿季の手は、一向に震えが止まることはなく、私の心の中でも片付けられない胸騒ぎもまた、依然として鳴り止むことはなかった。



 名も知らぬ奇病の予兆を、私達兄弟は決して見過ごしたくて見過ごしていたわけではない。

 確かに発症した時は、親身になって向き合ってどうすればいいかを考えたし、弟の成長が遅れていたのもすべて合点がいったので、すぐにでも助けてやりたいという衝動に駆られては必死で医者を探した。そして私は、門前払いばかりを食らう毎日の中でようやく一人の医者にたどり着いた。

 開花病と名付けられたその病は、実に複雑で繊細な病気である。日本ではおろか外国での症例もないこの病は、悲しみから抜け出せない人間の身体に寄生した花が、土の肥やしと同じように人間を養分として、花開くことから、そう名付けられていた。

花のメカニズムは主に、心の闇が増幅し、奥深くの深淵まで到達した時に発症する。咲く花は睡蓮に似ているらしく、人間の心の崩壊が始まったと同時に、花の命は、種を植え付け根を張って、成長し始める。

 寄生された人間は人体としての異常はないものの、成長が著しく遅れることもあり、年相応に発達していく力は、ほとんど花に奪われてしまうそうだ。

思春期に培われる栄養素は、ほとんど苗床の身体には蓄えられず、その代わり最低限、苗床が腐らない程度にだけ保たれる。

 研究が重ねられていく中で分かっているのはこの程度。以前聞いた話では、人間の精神を蝕み育つ気まぐれな花で、精神状態の安定さえ守れれば、一年で完治も夢ではないということだった。

 腫瘍とされる種を植え付けてからの育つ速度は実に早く、花が成長すればするほど切除するのが難しくなる。そのため早期発見では投薬治療で事なきを得るのだが、二年前初めてこの症状が現れた時、椿季のこめかみに芽吹いた蕾は、わずか一週間足らずで大きく膨らみ身体をすぐさま蝕んだ。

 幸か不幸か、その花は三分咲きほどにしか育たず結局手術ですぐに取り除かれて、椿季はまた普通の生活を再開できたのだった。



 椿季が病に倒れて一週間後、久しく見ていなかった男が我が家の門を叩いた。薄気味悪い医者だったので、連絡先を控えていたかどうかも覚えていなかった。だけど自分の記憶をどれだけ手繰り寄せても、厄介な弟の病状を詳しく知るのは、彼しか思い浮かばなかった。

 私は書斎の積み上がった本の山を懸命に探した。



「花の匂い、前より随分濃くなっていますね。涙腺も侵蝕されて、涙が花びらに変わってしまっているようだ。久方ぶりですけど、お元気でしたか」

 聴診器をぶら下げ、私より遥かに大きな痩せ型の身体が身を乗り出して、主治医の森山は呟いた。

「ええ、まあここ一年は」

 森山のすぐ横では、寝間着のまま椿季が布団で眠りについていた。静かに寝息を立て、深い眠りについていた姿は相変わらず小さく、愛くるしい。

「鎮静剤、打っておきます。これで腕の新芽たちは、しばらくすると剥がれ落ちていくでしょう」

 極秘に研究を重ねて造られたという、対植物人間用の鎮静剤を注射器に入れながら、森山は随分悲しそうな顔をして、私の話を聞いている。

 効果があるのかよくわからない、得体のしれない緑色の液体が、椿季の白く透き通った肌を汚してしまうのではないかと恐れた。それぐらい久々にあんな毒々しい色の薬を目にした気がする。

「これは、母の呪いですか」

 つい、堪えきれない思いが強めの口調で紡がれる。対面するように椿季を取り囲んで座っていた私は、森山の震える手を凝視しながら視線を外さなかった。

「春に再発するように、先生が毒薬でも盛ったのかな」

 できればもう二度とあの薬には頼りたくなかったというのに、今まさに目の前では気休め程度で、先ほどから投薬が始まっている。

「認めたくないのはわかります、」

「……何が言いたい」

 冷たくあしらった私の言葉に、森山は険しい顔をし、厳かな声色で私の思考を静止した。

「けどあなただって見たでしょう。あの大きな花を」

 二年前、風のたよりを聞きつけて我が家を突然訪ねてきた森山は、みすぼらしい身なりをしているが、椿季の病状を見て真っ先に心の治療を勧めた名医であった。

聞けば男は、植物学者が本職なのだそうで、植物が人体にもたらす効果と副作用を長年研究していると言っていた。医師免許も取得し、将来はどんなに害のある植物たちでも自分が必ず治療に活かせる特効薬に変えていくのだと、自慢げに語ってくれていたあの言葉を私は未だに忘れてはいない。

「肥大した花の直径は数十センチ、二年前の小さな睡蓮とは桁違いの大きさです。花の種類は黒睡蓮。その花が人間の身体、しかも心臓に寄生しているとなればあとは花言葉通り、苗床の滅亡を待つのみです」

 少し遠慮めいた声の小ささで、森山はわかりきっていたことをべらべらと喋っている。覚悟をしておいてほしいというのは、母が病床に伏せった時から医者が乱用する殺し文句だ。

 私はその言葉の大半をいつも聞き流していた。覚悟をしたところで私の大切なものが必ず帰ってくるという保証がどこにある。

 それまでに別れを惜しんでくれというのは、用意されている目的地への欠けたレールを、希望に満ち溢れたふりをして笑って走っていくことと同じだ。

 母と別れる時、偽善と愛想で繕った笑顔がどれだけ歪で物悲しいかを経験していた自分にとって答えは簡単だった。

「椿季くんの命は、本人自身が死を望めばいつでも潰えてしまうぐらいには危険な状態だ。あとは本人次第。次に心が花に取り込まれた時が、最期の時だと思ってください」

 充分に悲しいはずなのに、母が衰弱して朽ちた時のあの時より悲しみはこみ上げず、涙は一筋も流れなかった。

 森山の声に耳を傾けることなくぐっすりと眠る椿季の頬にそっと手をあてがうと、至極気持ちよい夢を見ているのか、くすぐったそうな仕草で口角を上げてにっこりと笑うのが見て取れる。

「幸せそうな顔だ、」

 本心から漏れた森山の声が打って変わって明るくなったので、私はつかの間、椿季が起きた時のことを考えた。

 あの子は何をしたいと言うだろう。私は出来る限り椿季が笑える環境を作ってやって、負担をかけない毎日を有意義な余生として送れることを願って、急いで準備をしてやろう。好きだと言われたらいくらでも好きだと返してやるし、離れてほしくないと求められれば、その細い腕を引き寄せていつまでも抱きしめていてやろう。心臓に咲いた黒睡蓮だって誰かが傷をつけてしまわぬように、私が毎日着替えをさせて一瞬足りとも壊れてしまわぬように、丁寧に扱ってやって、それから、

「…私には、この子を幸せに出来る自信がない」

 気づけば情けない一言が、不意に私の心の底から漏れていた。思えば父を失ったあの時から、私の心はすり減り続けていたのかもしれない。

 逃げ場のない責任感がいつにも増して重く肩にのしかかっている気分だった。椿季の肉親はもう私を除いて他には誰もいないのだ。ならばなおさら背負って生きていってやらないと。その運命みたいな軌道は充分に分かる。分かってはいるが、尽くしているだけの私の気持ちは、その儚い命が終わってしまえば、一体どこへ行って、誰が拾ってくれるというのだろう。

 覚悟がないわけでは決してなく、ただ心の整理をするにはあまりに時間が足りなかった。家族の存在に縛られすぎていた自分のこの半生は、戦死した父の生き方に似ていると感じた。愛国心を掲げて、度胸などないくせに虚勢を盾に崩れていく。形は違っても、本質はそう変わらないのだと思うと、私は殺風景な自分の生き方に酷く失望してしまった。



 その晩、椿季の病状を心配した私はいつも寝床にしていた書斎を離れた。椿季が眠る隣に布団を並べ、眠ることにする。

 夕暮れが沈む頃、森山はまた来ますと帰っていった。もう来なくていい、と追い払うように玄関口で片手を振り上げ見送ると、苦笑いをぼんやり浮かべ、彼は履き古した下駄を鳴らして帰っていった。

 椿季は診察が終わっても寝返りを打つだけでその後、一度も起きては来なかった。

 夜も更け、満月の光が障子越しに部屋を煌々と照らしている。柔らかな金色の光の行方を、美しさのあまりずっと目で追いかけていたいと思った。

 その思いは虚しく、視界はゆっくりと深く、眠りの中へ沈んでいく。より繊細でもろくなった弟のことを、私はこれからもきちんと愛してやれるのだろうか。一抹の不安は募ったが、考えても仕方のないことだと、私はそっと瞼を閉じた。



 こんな夢を見た。

 足枷も手枷も外された幼い頃の自分は自由を手に入れて、人目を気にするでもなくはしゃいでは庭を駆け回っていた。

 縁側では父と母が座っていて、庭の桜は満開に咲いている。桜の花は桜良によく似て、キラキラと輝くのだと母も麗らかな笑い声をこぼした。

 父は使用人たちと酒を酌み交わし、高そうなカメラを構えている。もっとよく笑顔を見せなさい、と楽しそうな声がしたので、目線を狙ってサインを送ると、さすが私の息子だなと感心しながらシャッターを切る音がする。

 全てが満ち足りて、幸せな家族像だった。今の私には一生描くことの出来ない景色だと思った。こんな風にして自分が生まれた年に我が家にやってきた桜の木を、皆で取り囲みたかった。

 日本が戦争などにうつつを抜かさず、父親が兵役などにも行かず、家族四人で幸せに暮らせたらどれだけ幸せだっただろう。母が病を患わず、今でも父と仲良く家を守っていてくれたなら。椿季も父の大きな背中を見つめて、少しは男らしくなってくれていただろうか。

 ありふれた幸せの中で、私は椿季の存在が一向に写り込まないのを不思議に感じていた。椿季もいないと駄目なのだ、自分の弟は椿季でないと駄目なのだ。

少し頼りなくて身長もあまり伸びないけれど、笑顔にとても愛嬌のある、大切にしてきた宝のような弟だ。

 母と父にだって弟のことは私と同じぐらい大切なはずなのに、その椿季にはひとつも関心を示さない。私が椿季の所在を問えば、そんなことは二の次だと言われ、手招きをされてこちらへおいでと言われた。

 両親のその言葉を払いのけるようにして、背を向ける。椿季も花が大好きな子どもだったから、きっと庭の茂みにでも隠れているのだろうか。こんなに楽しい宴の席だ、隠れているのは勿体ない。

 椿季を見つけたら一目散に駆け寄り、その華奢な肩をすくい上げて抱きかかえてやって、満開の桜を必ず見せてやろう。



「僕が兄さまを、自由にしてあげる」



 澄んだ声がわっと響いて、私の頭を揺さぶった気がした。目尻を擦ってゆっくりと身体を起こす。先ほどまで見ていた夢の続きをもう少し見ていたかったのに、耳鳴りのように遠くで聴こえた声の行方が気になって私は目を覚まし、布団をめくり一度大きく伸びをする。

 あの眠りの深さだ。当然、椿季はまだ眠っているのだろう。とっさに横の布団を気にしてみれば、昨日まであった彼の姿はそこには存在していなかった。

「椿季、」

 布団に残る微かな温もりを噛みしめると、まだこの場を離れてから、そう時間が経っていないことを意味していた。この温かさこそ彼が人間として生きている証であり、拭い去れない生きる希望なのだ。そう思うと、居ても立ってもいられなくなり、浮足立った私は一目散に庭へと駆け出した。

 昨日見た夢の中はいつになく心地がよかったが、結局椿季を見つけ出すところまで辿り着けなかった。見つけたらひとまず離さないように手を握って、それから楽しかった夢の話をしよう。

 現実は塗り替えられないが、小さなことから椿季のために積み重ねていければそれでいい。夢の中で見た景色を嬉しく思い、私の心は軽やかになっていく。

 縁側を下り、庭用の下駄を履いた。昨晩の記憶を辿って、庭の真ん中まで駆け出してみると、昔から我が家でどっしりと腰を据える枝垂れ桜が枝いっぱいに咲いていた。春風が頬を撫でるように通り抜け、誘われるように歩を進めれば、しんしんと降る雪のように薄桃色の花びらが舞い上がる。

 毎年桜が見頃を迎える頃には、兄弟二人になった今でも花見をすることを欠かさない。それは時を同じくして、真向かいで佇む椿の花が最後の一つまで、丁寧に命を落としていく瞬間を見届ける時期でもあるということも意味していた。死と生の入り混じる空間はいつ訪れても空気が透明で、不思議な空間を作り出していた。

 私は開花した桜を目の前に心が踊った。早く椿季を見つけたいと願い、大きな幹の桜の周りを一周する。隠れているとすれば、場所は大体察しがつく。

昔から互いが互いの名前に引き寄せられるように、椿と桜の周りが遊び場となっているのは、紛れもない母の意向が私たちにも染み付いているからだ、と思う。

 何度も口にしたことがある慣れた名前を呼ぶ。呼べば呼ぶほど恋しくなる。感情とは単純で、色をとどめなくても簡単に塗り替えが出来るのだから、なんとも忙しい機能だと思う。

 桜を一周し終わる時、木の幹ではない少しやわらかいものに躓いた。きっと居眠りをしている椿季の身体だと思い、正面に立ってしっかり顔を覗いてやろうとする。

 すると降りしきる桜吹雪の中で、桜の幹の中央でぐったりうつむく青ざめた顔が飛び込んでくる。目を背けたくなったのもつかの間、白く汚れのない寝間着は確かに椿季のもので、肌の色と同化しているように見える。ただ、いつもと違ったのは、着物が左前で帯を結ばれていることだった。

「椿季。なあ、椿季」

 少しはだけた左の胸元には、昨日森山と一緒に目に焼き付けたあの黒睡蓮の花が昨日よりも肥大して花を咲かせていた。

 腕には引っかき傷がいくつもあり、鎮静剤により既に剥がれた小さな芽の数々が、そこに種を植え付けている跡が見えている。

「頼むから、返事をしておくれ」

 茫然とした自分の身体を、悲しみの動力だけが行動に駆り立てた。しばらくして衰弱した身体を刺激しないように抱き上げると、黒睡蓮の中心に何か鋭いものが深く突き刺さっている。見たところその正体が分からず、溢れる涙を拭いながら何なのか考えた。ふと、ほのかに香ったその匂いで見当がつく。

「桜の、木の枝…」

 切っ先は狙いを定めるように心臓ごと黒睡蓮の命を刺し殺していた。おそらく自分でやったのだろう、身体を抱きかかえると力なく振り下ろされた右手の中から、いくつかの木の皮の破片がボロボロとこぼれた。

 辺りには真っ赤な血の飛沫がいくつも付着している。

 私にはその凶器の意味が、まるで自分を指しているような気がして、自分に助けを求めていたような気がして、ならなかった。

 ずっと長らく言えなかったことを言って、罰が当たった。告白の代償として葬られた弟の命は、私の在り方一つでどうにでも活かしていけるはずだった。

それを私が傷つけた。それを私が亡き者にした。自分が巻き込まれることを拒み、現実を受け入れることを嫌がった。全て起きてしまった結果が、もう元に巻き戻ることは永遠にない。

 息をしていない抜け殻のような身体に、朝見つけた人の温もりを垣間見ることは、まるで出来なかった。 



 その後、いくら私が大粒の涙を流しても、腹の奥底から名前を呼んでも、身体を少し強く揺さぶってみても、椿季の伏せられた長い睫毛が上を向くことは二度となかった。

 痛くて苦しい思いをしたはずなのに、清々しいほどに椿季の死に顔は健やかだった。柔らかく口角があがり、全てを悟って息絶えたかのような表情が紡ぐ言葉の続きを、本当はもっと聞いてやりたいと思った。でも、彼は二度と動くことはない。私に笑いかけてくれることもなければ、私を求めてくれることもなく、こんなささやかなことでさえ、再び望んではいけないのだ。

 私は依然として微動だにしない、冷たい亡骸の額に口付けを深く落とした。せめて痛みのない夢の中では、苦しまずに済むように。そして父と母の元へ無事迷わず還れるように。思い浮かぶだけの願いごとを、伝え忘れることがないように強く込める。

 そして桜の花を仰ぎ見ては、とめどなく頬を滑り落ちる涙に、どうしようもなく嫌気を覚えながら、私は一人静かに泣いていた。

 

 その日、枝垂れ桜が散りゆくさまを優雅に眺めながら死を迎えるはずだった椿の花は、何を思ったか落ちることを大いに躊躇い、時を同じくして凛と咲き誇っていた。

そして大輪の桜が何度も何度も風に舞い、ひとしきり楽しんだかのように散り終える姿を横目にすると、椿は何かを悟るような鈍い音を立て、美しい健気さを引き連れながら、そっと命を落としたのであった。

 享年十八歳の春。桜と椿は、少しだけではあったがようやく一緒になって咲くことが出来たのだと、私は真っ先に言いたい気持ちが溢れんばかりにこみ上げた。 

だが、ささやかな春の風物詩さえ虚しく、私の声は言の葉になることなく届かぬまま、春の忙しい嵐の中で入り混じって消えていくだけだった。

落花の春

落花の春

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-29

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