待ち焦がれる二人

待ち焦がれる二人

 このまま春が終わらなければいいのにと、願えば願う程、胸は締め付けられ、息が詰まった。いつだって瑠璃は笑っていた。


『待ち焦がれる二人』


輝いてた記憶から消えてくのに
微笑みばかりが浮かぶ

作詞/作曲:小渕健太郎『STAY』より


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 一等鮮やかな季節のことだった。洒落た香水を纏った春風が、人差し指を唇に当てて通り過ぎていくような、静かで美しい朝だった。

「交通事故がもっと沢山起きますように」

 偶然立ち寄った東大寺で、そんな変わった絵馬を見つけた。不謹慎な人もいたものである。名前が書いていなかったから、ふざけた高校生あたりのいたずらかもしれない。夢や希望や、優しい願いに出会いたくて、絵馬を覗いてみたというのに。
 当てが外れ、牧村幸平はため息をついた。どこへ行っても世知辛い。
 本堂を出て、正倉院に向かい坂を下る。そこには、幸平が学生時代、お気に入りにしていた場所があった。開けた広い芝生に、枝垂れ気味の大きな八重桜が二本、出会ったばかりの運命の二人みたいな絶妙の距離感で、揃って花を咲かせていた。桜が名高い奈良の中でも、観光客の少ない穴場だった。折りよく今年は正倉院が工事中で、思い出よりも一層人気がなかった。
 目に付いたのは、たった一人の少女だけだ。右胸を絞ってリボンで飾った、白く上品なリンネルのワンピース。黒いレギンス、玩具みたいに軽やかなパンプス。細い手首と、冷たいミルクのように滑らかな頬、肩まで伸びるふんわりした黒髪。彼女は桜の木の下に、仰向けに横たわっていた。歳は多分、十七、八くらいだろう。花精のように微睡む彼女を、木漏れ日が優しく濡らしていた。
 幸平がどれほど近づき、見つめても、目覚める様子がない。もうじき現世を去るんだと言わんばかりの儚さが、わずかに揺れる睫毛から感じられた。風が吹く度桜が散り、彼女の白さに色を添えた。
 どれくらいの時間、見蕩れていただろう。幸平は首に下げたカメラに何度か手を伸ばしては、躊躇いの苦笑を浮かべた。写真を撮りたかった。それだけの価値があると思った。けれど、断り無く撮るようなまねはしたくなかった。もう、そんな写真の撮り方はしないと決めていた。
 声をかけることすらはばかられた。彼女が目覚めれば、今のこの、奇跡的な構図は永遠に失われてしまう。散った花びらが二度と戻らぬように、美しさはいつだって刹那的だった。
 そうして迷っているうちに、どこからか現れた子鹿が一匹、そっと彼女に寄り添った。潤んだ瞳で見下ろして、首を垂れる。ぺろりと頬を舐めると、彼女は緩慢に目を開いた。寝ぼけ眼でいたずらの犯人を確かめ、ふっと、薄く微笑む。片手を伸ばして顔を撫でてやると、お返しとばかりに、子鹿は彼女をもうひと舐めした。

「くすぐったいよ」

 嬉しそうに笑って、彼女は立ち上がる。手をぱっと開いて、子供をあやすように言った。

「ほーら、餌はここにはないですよ」

 子鹿は悲しそうに頭を垂れると、振り向いて、あなたはどうですか、と問いたげに幸平を見上げた。

「俺もご飯は持ってないよ」

 手のひらを見せてやると、子鹿はとぼとぼ二人から離れていった。哀愁漂う尻尾を見送ってから向き直る。少女は訝しげな表情を浮かべていた。

「綺麗な場所ですね」

 カメラを持ち上げ、幸平は微笑みかけた。この時期、奈良で写真家は珍しくない。まさかずっと見つめられていたとも知らない彼女は、納得したように頷くと、そそくさとその場を離れようとした。

「あ、どうぞ、お構いなく」

 幸平が呼び止めると、彼女は困ったような顔で、桜の木と幸平を何度か見比べた。どうやら、桜の撮影を自分が邪魔してしまったと思ったらしい。

「できれば、そのまま、また横になっていて」

 そこで彼女は、鋭く眉を寄せる。警戒の色が露わだった。慌てて幸平は、バッグから名刺を取り出す。

「牧村幸平、カメラマン?」

 ほんとに? と疑いの目で少女が睨む。幸平には苦く笑うことしかできなかった。

「どこの会社の人?」

「今はフリーなんだ」

 我ながら苦しいと幸平は思った。案の定、不信感を深めて首を横に振ると、私急ぐので、と言い残して少女は足早に去ってしまった。
 世知辛い。再び溜め息をつく幸平だった。


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 次の日の朝、幸平は県立図書館にいた。ある写真雑誌のバックナンバーを探すためだった。目当ての号が数年前のものだったため、司書に頼んで閉架書庫まで探しに行ってもらわなければならなかった。あまり手にとられることがなかったらしく、保存状態はすこぶる良かった。
 貸し出し手続きを済ませ、正倉院へ向かう。彼女は昨日と同じ場所にいた。白いダンガリーシャツに淡いオレンジのスカートを合わせ、桜の木にもたれて座り文庫本を読んでいた。彼女は幸平に気付くと、驚いたように目を見開いた。立ち上がろうとするのを笑顔でなだめ、雑誌を差し出す。反射的に受け取った彼女は、戸惑った瞳で幸平を見上げた。

「24ページ、見てもらえる?」

 眉を寄せながらも素直に頷いた彼女は、繊細な指先で丁寧にページを捲った。

「コンクール学生の部、優秀賞、『花の舟』、撮影者、牧村幸平」

 確かめるように読み上げた後、彼女は目を細め、綺麗、と呟いた。それは、幸平が大学生時代、春の佐保川で撮影した写真だった。女子大の辺りから大安寺にかけて、川沿いにはずっと桜並木が続いている。開花時期、少し風の強い日があると、川は舞い降りた薄紅色の花びらに埋め尽くされるのだ。構図としては、水面の花は微妙にぼかし、傍の歩道を並んで歩く一組の男女の後ろ姿にピントを合わせてある。もともと、友人カップルの思い出のために、プレゼントとして撮ったものだった。思いの外出来が良かったため、許可を貰って賞に応募した結果、幸運にも多くの審査員に認めてもらえた。今でこそ、女性人気が出てきて、カメラや写真の雑誌も色々と洒落たものが沢山書店に並んでいるが、当時は誰もが一つの雑誌を読んでいた。日本中の愛好家に自分の写真を見てもらえる、それは途方もない栄誉だった。実際、この受賞のおかげで、上京してすぐ就職することも出来た。

「これ、佐保川だよね。図書館の前?」

「そう。わかるの?」

 彼女は写真から目を離さずに首肯した。どうやら、奈良市が地元の子らしい。他県の人間からすれば奈良の桜と言えば吉野だろうが、地元民の多くはむしろ、佐保川の長閑な風景をより愛していた。

「ほんとに写真家だったんだ」

 雑誌を閉じ、返しながら、感心したように言う。信じてくれてありがとう、と幸平は肩をすくめおどけた。

「凄く、綺麗だった。でも、私を撮るのはやめてね」

 開きかけた蕾のように密やかな笑みで焦らすと、彼女はまた文庫本に視線を落とした。思わず小さく吹き出して、幸平は頭を掻いた。


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「写真家って、意外と暇人なのね」

 三日目の朝、彼女は呆れ顔で言った。上は控えめに花柄をしつらえた白いビッグプルオーバー、下はティーカップシュガープリントのベージュのガウチョパンツだった。

「狙ったものを撮るためなら、ずっと待つ。カメラと狙撃銃は似ている」

 幸平の冗談に、彼女はピンと来ない顔をした。

「オーロラや、日の出なんかを撮ってる人は、それこそ何年もじっと待ち続けるくらい」

「ふーん、そういうものなんだ」

 私の知ったことじゃないけれど、と空耳が聞えてきそうな程気怠げに、彼女は相槌を打った。脈のなさをわざと見せつけるような仕草だった。

「俺だってプロだから、モデルもノーギャラとは言わないよ」

「なんかそれ、逆にやらしくて恐い」

 じと目で呟かれ、苦笑する。援助交際のような大金は積めないけど、と幸平はとぼけた。

「カフェのケーキセットくらいなら、ご馳走するのもやぶさかではない」

 きょとんとした彼女は、少し遅れて笑みを浮かべると、ダンスに誘われた貴婦人みたいに器用に、瞳の奥だけで頷いてみせた。駄目でもともとの提案だったが、どうやらお気に召したらしい。

「いいよ。初対面じゃないし。デートくらいは付き合ってあげる」

 われ先に歩き出した彼女は、やがて思い出したように振り向くと、後ろ手に可愛らしくにっこりした。

「私、水原瑠璃。お店は任せていいのかしら? 牧村さん?」


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 そこは、東大寺から十分程歩いたところにある、北欧風のインテリアが洒落た静かなカフェだった。調度品には木製の白とブリキの金具が目立つ。店の一角には手作り雑貨の棚もあった。

「合格」

 黙ってついてきた瑠璃は、店内を一通り見回すと、真剣な表情で囁いた。ほっとして幸平は微笑む。運ばれてきたベイクドチーズケーキとアールグレイを口にした後、瑠璃の台詞は「満足」に変わっていた。

「牧村さんは、ずっと奈良で写真を撮ってるの?」

 彼女はこれまでになく自然に、さらりと尋ねた。ようやく心を許してくれたらしかった。

「大学を卒業してからこれまで、四年間は東京で働いてた。こっちに帰って来たのは、君に会った日の早朝だ」

「クビ?」

「まあね」

 幸平が自嘲気味に口の端を上げると、瑠璃は励ますようにからりと笑った。丁寧に織られた麻布みたいに、心地の良い爽やかさだった。

「東京でも、風景の写真を撮ってたの?」

「いや、むこうではずっと、パパラッチの真似事をしてた」

 嫌悪感を隠しきれず、幸平は顔をしかめる。全部、自分の考えが甘かったのだ。好きなことをやって生きていけるだなんて、そんな夢みたいなことを、上京したばかりの頃はまだ信じていた。

「下品な週刊誌の下請けカメラマンでさ、芸能人の張り込みとかして、下らないスキャンダルを漁るんだ。人から恨まれても仕方ないような写真を、何枚も撮った」

 手を引いてもらえたのは、美しい景色を捉える手腕を認めてもらえたからだと思っていた。社会に出たばかりの若造が、なんて思い上がりだったろう。若手からベテランまで、風景写真家なんて掃いて捨てるほどいるというのに。

「なるほど、だから写真家じゃなくてカメラマンだったんだ、名刺」

 フォークをくわえたまま頷く瑠璃。

「軽蔑した?」

「全然」

 迷いの無い返答だった。大人げない自虐をしてしまったと、幸平は悔やむ。

「同じような仕事で、立派に家族を養っている人もいる。仕事自体に貴賤があるなんて、俺も思わない。ただ、俺がやりたかったこととは違ったんだ。もっと、綺麗な写真が撮りたかった」

 瑠璃は何も言わなかった。感情の読めない穏やかな顔をしていた。彼女が次に口を開くまで、チーズケーキ一個分の時間がかかった。

「私もね、ついこの前、高校を辞めたんだ」

 瑠璃の告白に、幸平はあまり驚かなかった。毎日同じ場所で出会う彼女を、予々不思議に感じていた。

「どうして辞めたか、訊いてもいいかな?」

「牧村さんと一緒だよ。私のやりたいことが、ここじゃできないと思ったの」

 とんだ偶然もあったものである。幸平が笑むと、瑠璃も悪戯っぽく笑ってみせた。似た者同士の二人は、仲良く同時にティーカップを口に運んだ。

「牧村さんは、私を綺麗に撮れる?」

 試すような物言いに、幸平は片方だけ眉を上げて応えた。

「わかった。じゃあ、牧村さんが再就職できるように、私が明日から手伝ってあげる」

 石楠花のように荘厳に、瑠璃は頷いた。

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 次の日の朝、いつもの場所に瑠璃の姿はなかった。少し早く着き過ぎたらしい。暇つぶしに立ち寄った東大寺の本堂から、例の不穏な絵馬は姿を消していた。内容が不適切なため、住職に処分されてしまったのだろうか。撮影の下見も兼ねて、境内を半時間程ぶらついてから戻った。正倉院前の道路に出た時、瑠璃の後ろ姿を見つけた。白いコットンのギャザーブラウスに、ブルーの柔らかいスカートを合わせていた。彼女は、車道沿いにどこか遠くを見つめていた。幸平が隣に立っても気付かない。視線の先を窺うと、制服を着た高校生のカップルが、自転車に二人乗りして路側帯を走っていた。少し遅い登校だろうか。じゃれ合いながら漕いでいるらしく、やけにふらつく運転で、見ていて不安だった。

「知り合い?」

 幸平が尋ねると、瑠璃は弾かれたように振り向き、口をぱくぱくさせた。いたの? とか、驚かさないでよ、とか、沢山の言葉を未完成のまま空気に混ぜてから、うなだれ気味に彼女は首を横に振った。

「ううん。見たこともない」

 だとしたら、こんなに元気がないのは何故だろう。高校という場所に、まだ色々と思うところがあるのかも知れない。

「牧村さんさ、血液型は?」

「ん? B型だけど」

 不意に問われ、反射的に答える。瑠璃は小さく頷くと、魔法にかかる前のシンデレラが自分を鏡に映した時のような、疲れた微笑を浮かべた。

「そっか、私と一緒だね」

 零した言葉を振り払うように、彼女は桜の木の方へ駆けていってしまった。ゆっくり一度息を吐き、雑念を捨てて後を追う幸平。せっかく念願の撮影機会を得たのだ。気になることも多々あるが、とにかく今は辛気臭くならないように注意しなければならない。
 出会った時と同じ木の下で、瑠璃は背伸びをしながら幸平を待っていた。目を瞑り、猫みたいに気持ち良さそうに震え、脱力すればすっかり落ち着いた顔。大した切り替えの早さである。澄んだ瞳と、さっぱりした軽い笑み。モデルより女優の方が向いている、なんて台詞を、幸平はぐっと飲み込んだ。


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「顔は撮らないの?」

「そう。後ろ姿だったり、横顔だったり、髪の毛で隠したり。少なくとも目許は写さないようにするんだ」

 顔をはっきり入れてしまうと、自然ではなく人物が主役のようになってしまう。写真に人が必要なのは、風景を情景にするためだ。誰かわからない人影なら、観る人は写真の世界を自分の人生に重ねられる。昔どこかで見たような、いつかきっと出会えるような、そんな微熱を含んで、美しさを共有できる。
 幸平の説明に、瑠璃は安心した様子だった。顔まで撮られるのは恥ずかしい、ということらしい。もっと自信を持っていいと幸平は思った。瑠璃は綺麗な少女だった。けれど、その一言を幸平は秘密にする。どんな褒め言葉も、胸に秘めている内が一番真実味を持つからだ。
 単純な造型もさることながら、瑠璃には被写体として不思議な魅力があった。あえて日本語にするなら淡さだろう。彼女は風景を邪魔しなかった。すっと溶け込んで、どんな時、どんな場所にも抵抗なく馴染む。彼女の輪郭は、晴れの日に輝き、雨の日は霞んだ。朝日に滲み、夕日に揺れた。花も、川も、風も空も、奈良の春を構成する全てが、彼女をすんなりと受け入れていた。
 散りゆく桜に急かされるように、二人は毎日、沢山の写真を撮った。綺麗な場所を見つけては、静かにたたずみ、シャッターを切った。幸平は幸せだった。瑠璃は、よく笑った。


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「花は好きかな」

 幸平の頭についた桜の花びらを、一つ一つ丁寧に落としながら、瑠璃は言った。最初に会った瞬間から、この子は自然が好きなんだろうと感じていた。そうでなければ、あんなに無防備に微睡むことなんて出来ない。

「可愛いから動物だって好きだし、虫も、全然平気」

 そこで瑠璃は手を止め、思案するように幸平の瞳を覗き込んだ。二人の距離はあまりに近く、沈黙が破られるまでの間、幸平は自分が瑠璃に口付けるような未来すら予感しなければならなかった。

「牧村さんのことも、結構好きだよ、私」

 それは雪柳よりいじらしく、花水木より悩ましい囁きだった。


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 幸平は諦めた方がいいと勧めたけれど、瑠璃は出来ると主張して譲らなかった。彼女はどこからか手に入れてきた鹿せんべいを小さく割り、襟元に忍ばせると、自信満々の顔で芝生に横たわった。

「これできっと、前みたいに鹿が寄ってきて、ほっぺた舐めてくれるよ」

 シャッターチャンス逃しちゃ駄目だからね、だなんて、目を閉じたまま彼女は注意した。幸平は緩みそうになる口元を懸命に堪え、少し離れたところでカメラを構えた。数分と待たず、数等の鹿が現れ、瑠璃に向かって首を垂れた。彼らは頬を舐めるような紳士的な手順を踏まず、服の襟に噛み付き、時には鼻先で首筋を探った。くすぐったさに身をよじり、泣き笑いにあばれる少女の姿を、幸平は何枚か写真に収めた。助けを求める声は聞こえない振りをした。裏切り者、と瑠璃が叫んだ。


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 どうして付き合ってくれる気になったのか、質問したはずだった。返答は春の空気に混じって、必要以上に甘く響いた。聴き間違えたかと思い、もう一度言ってくれと、無粋にも尋ね直す。瑠璃はそんな幸平を優しく睨みつけ、もう知らない、と背を向けてしまった。苦笑する幸平の頬を、そよ風が慰めるように撫でた。その風は親切にも、瑠璃の僅かな声を掬い上げ、届けてくれた。

「三回会ったら、運命だって、信じようと決めてたの」

 それが果たしてどんな運命を指すのか、幸平は問うことが出来なかった。これ以上デリカシィのない真似なんて、できるはずがなかった。


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 奇跡みたいに美しい日々だった。このひと時のために自分は生まれたんじゃないかとすら、幸平は思った。このまま春が終わらなければいいのにと、願えば願う程、胸は締め付けられ、息が詰まった。いつだって瑠璃は笑っていた。


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 桜も盛りを過ぎようかという頃、とどめを刺すように強い雨が降った。もう、今日で花は散り尽くしてしまうだろうと思われた。短い間だったが、それでも、幸平たちは様々な春をカメラに収めることができた。現像した数枚をポストカードにしてみたところ、洒落たものに敏感な幾つかのカフェが、店に置いてくれることになった。再就職とまではいかないものの、写真家として奈良で活動していくには十分な第一歩だった。撮影は今日で一区切りにして、瑠璃には何か豪華な食事をご馳走してやろう。そんな風に幸平は考えた。
 しかし、瑠璃はなかなかいつもの場所に現れなかった。こういう時のお決まりで、幸平は暇つぶしに東大寺の本堂に向かった。驚いたことに、一度消えたはずの、あの不穏な絵馬が、改めて書き直されていた。しかも、今度はしっかり願った人物の名前も明記されていた。幸平は目を疑わなければならなかった。

「交通事故がもっと沢山起きますように 水原瑠璃」


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 どれだけ待っても瑠璃は現れなかった。何かあったのかも知れない、そう思えばこそ尚更、幸平は桜の木の下から動くことが出来なかった。瑠璃の住所も連絡先も、知ってはいなかった。この場所だけが、二人を巡り会わせる唯一のものだった。朝から夕方まで、幸平は一人、傘を片手に彼女を待ち続けていた。
 幸平が、自分の方へ走ってくる奇妙な人影を見つけたのは、日がもう暮れ切ってしまいそうな頃のことだった。人間ドックの時に着せられそうな白い検査着を纏ったその人は、傘もささずに一心不乱に駆けていた。暗くてなかなか顔が見えなかったが、それは確かに瑠璃の姿だった。

「牧村さんっ」

 息を切らせて叫び、瑠璃は幸平の胸に飛び込んできた。幸平は右手に傘を持ったまま、左手で懸命に彼女を抱きとめた。華奢な体は冷えきって、大袈裟なくらい呼吸が荒かった。瑠璃が落ち着くまで、かなり長い間、二人は固く抱き合っていた。幸平はバッグからタオルを出して濡れた体を拭いてやらなければならないと思っていたが、懸命にしがみつく細い腕が、それを許してはくれなかった。
 二人の抱擁の終わりは、瑠璃の小さなくしゃみがきっかけだった。頬を上気させ、照れたように笑う彼女に、幸平は何も言わなかった。タオルを頭からかぶせ、手を引く。無言で向かった先は、東大寺と駅の中間辺りにある、小さなリンネル系の服屋だった。店員は瑠璃と知り合いだったらしく、濡れ鼠でやってきた彼女に目を丸くした。幸平は瑠璃に、半袖の白いタックワンピースと、踵の低い茶色いパンプスを買ってやった。ここで着替えていきたいと断ると、店員は訳知り顔で瑠璃のもともと着ていたものを預かってくれた。病院から逃げ出してきたような彼女について、幸平がこれから知るであろうことすら、既に心得ている様子だった。
 それから二人は、手を繋いで、初めて一緒に入ったカフェへ向かった。夜は軽めのチキンプレートセットが用意されていた。暖かいスープを気持ち良さそうに飲みながら、瑠璃はようやくまともに口を利いた。

「くおりてぃーおぶらいふ、ってやつなの」

QOL(クオリティ・オブ・ライフ)?」

「うん。たーみなるけあ、とも言ってたかな。とにかくね、私、もうじき死ぬの」

 それは衝撃的な告白のはずだった。なのに幸平の動揺が、小さな胸の痛み程度で済んだのは、それを予感させるに十分な儚さを、彼女が最初から纏っていたからだろう。

「余命は、あと一・二ヶ月だったかな。絶対死ぬわけじゃないの。ドナーが現れれば、まだまだ希望はあるんだって」

 淡々と述べて、瑠璃は自分の小さな胸をとんっと叩いた。言葉とは裏腹に、それは絶望的な仕草だった。

「希望もクソもあるかって、話だよね。脳死じゃなきゃ駄目なんだよ、脳死。私と同じ血液型で、同じくらいの体型で、拒絶反応もでなくて。そんな奇跡みたいな相手がさ、病気でもなんでもなく、頭を打って死ななきゃいけない。それも、私より先に登録した人の移植を済ませ切って、私の番に届くまで、何人も、何人も」

 ざくざくと、瑠璃はフォークでサラダを弄んだ。幸平が手を重ねてたしなめると、彼女は泣きそうな顔をした。

「二年、病院で頑張ったけど、もう駄目だった。一人で綺麗なベッドに寝てると、生きたい生きたいって、願ってしまうの。まだやりたいことがあるのにって、このまま死ぬなんて嫌だって。そうやって考えていくと、最後はこんな言葉で頭がいっぱいになってさ」

 交通事故がもっと沢山起きますように。絵馬の内容そのままの台詞を吐くと、瑠璃は自虐的に笑った。

「他人の死を望むなんて、最低だよね、私。汚くて、残酷で。そんな自分が堪えられなくて、病院を出たの」

 メインのプレートが運ばれてきて、話はそこまでになった。どんな大女優でも真似できないほどの素早さで笑顔を作ると、瑠璃は美味しそうにチキンソテーを口に運んだ。


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 店を出ると、もうすっかり夜が深まっていた。瑠璃に羽織るものを買ってやらなかったことを悔やむ程の、肌寒い夜だった。エスコートを乞うように、瑠璃はそっと手を差し出した。最後はいつもの場所に戻ってから別れるのが、二人のルールだった。せめて少しでも温かいようにと、幸平は強く手を握った。雨はやんでいた。傘は店に置いていくことにした。

「運命の出会いだって、思った」

 鹿の影すら見えなくなった奈良公園を横切りながら、瑠璃は呟いた。夜風を透くような、滑らかな声だった。

「せめて最後は綺麗に終わりたかったの。綺麗に、穏やかに生きて、そんな私を誰かが一人でも憶えていてくれれば、それで十分かなって」

 確かめるように、あるいは、知らせるように、瑠璃はぎゅっと手に力を込めた。

「病院を出て、学校を辞めて、最初はなかなか変われなかったけど、牧村さんに出会って、私、もう大丈夫なんだって思えた」

 沢山の瑠璃の笑顔を、幸平は思い出す。確かに彼女は綺麗だった。例え写真がなくたって、決して色褪せたり消えたりはしないだろう。

「ありがとう。楽しかった。私、牧村さんのおかげで、ちゃんと死ねるよ」

 交差点で信号を待ちながら、瑠璃は幸平に微笑みかけた。今までで一番へたくそで、歪で、そしてだからこそ一番忘れられそうにない笑顔だった。幸平は懸命に、自分が口にすべき言葉を探していた。どんな台詞も場違いな気がした。何を言っても手遅れに思われた。けれど、このままでは後悔してしまうことだけは、ちゃんとわかっていた。瑠璃が最近になって再び絵馬を書き直したことを、幸平は知っていた。彼女の願いを、知っていた。
 信号が変わり、歩き始める。いつの間にか、繋いだ手がほどけてしまっていた。慌てて立ち止まった幸平は、そちらに気をとられ、高速で左折してくる車があったことには、クラクションがけたたましく鳴らされるまで気付けなかった。

「危ないっ」

 悲鳴のような声とともに、強く腕を引かれる。二人はそのまま、路肩の水たまりに倒れ込んでしまった。もう一度深くクラクションを響かせ、車は走り去っていった。瑠璃は、幸平に上から覆いかぶさるようにして、身を強張らせていた。もう雨は降っていないのに、幾つもの水滴が幸平の頬を濡らした。か細い嗚咽が、いつまでも夜を震わせていた。


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 次の日からもう、瑠璃がいつもの場所に姿を現すことはなかった。病院に戻ったのかも知れない。奈良を出たのかも知れない。あるいは、他の何かが起こったのかも知れない。幸平にはもはや、何もわからなかった。ただ毎日、花の散り終わった桜の下に、一人たたずむばかりだった。
 夏まで待とうと決めていた。名残惜しい晩春も、陰鬱な雨期も、一日と欠かすことなく幸平はいつもの場所に通った。瑠璃は現れなかった。梅雨が開け、空の色があの日々とはすっかり変わってしまったのを見て、幸平は諦めることにした。瑠璃と撮った全ての写真を、彼は現像してしまうことにした。


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 本来写真と一番近い絵画は写実主義のはずなのに、二人で写した情景たちは、どこか印象派に似ていた。通りがかったミュージアムで、あるいは雑誌の一ページで、モネやルノアールの作品を見る度に、幸平は朝日に滲んだ瑠璃の輪郭を思い出した。人の肌は光に溶けると、彼らは半ば以上、本気で信じていたに違いないのだ。


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 二月堂から夜景を眺める時、佐保川沿いの歩道を並んで歩く時、しばしば、くすぐったい沈黙が二人を包むことがあった。そういう時、幸平を見つめる瑠璃の瞳は、語ることも聴くことも望んでいなかった。幸平は、唇を寄せる代わりにシャッターを切った。瑠璃は恥ずかしそうに微笑んだが、決して拒まなかった。


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 忘れようと思えば思う程、記憶は一層鮮明になった。季節が移ろい、遠く離れても、はっきり思い出すことが出来た。瑠璃は笑っていた。彼女は綺麗だった。幸せだった。


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 カフェや雑貨屋を中心に細々と活動していたのが報われ、幸平の写真家としての生活は、徐々に軌道にのっていった。他のアーティストとワークショップを持つような機会も増え、ローカルながら、知名度はなかなかのものになっていた。一年が経つ頃には、市役所の広報から、ポスターやパンフレット用の写真を依頼されるまでになった。
 二度目の春、幸平は久しぶりに、正倉院前の広場に足を運んだ。仕事のためにまた新しい写真を撮らなければならなかったが、どうにも気乗りがしなかった。一人で奈良の春を写すということに、幸平は慣れていなかった。
 前年の末頃、正倉院の工事は終わりを迎えた。今年からまた、この場所にも観光客が戻ることだろう。幸平は今日、わざと随分早起きをしていた。自分たち以外の誰かが桜の周りではしゃぐ姿なんて、見たくなかった。
 開けた広い芝生には、枝垂れ気味の大きな八重桜が二本、出会ったばかりの運命の二人みたいな絶妙の距離感で、揃って花を咲かせていた。人の姿はなかった。何度ファインダーを覗いてみてもしっくり来なくて、幸平は木の裏側に回ることにした。ほんの少し歩いたところで、足を止め、息をのんだ。最初死角になっていた幹の影に、一人の少女が仰向けに横たわっていた。
 右胸を絞ってリボンで飾った、白く上品なリンネルのワンピース。黒いレギンス、玩具みたいに軽やかなパンプス。しなやかで健康的な手足と、わずかに紅みが差した滑らかな頬。髪は肩の少し上で、さっぱりと切りそろえられていた。
 歩み寄る足音に、少女はゆっくりと目を開けた。体を起こし、澄んだ瞳で幸平を見上げると、彼女はそっと微笑んだ。

「待ってた」

 繊細な響きだった。いつまでも聴いていたくなるような優しい声だった。

「俺の方が、ずっと待ってた」

 言い返す幸平に、瑠璃はくすりと笑って、そうだよね、と小さく頷いた。

「突然ドナーが見つかったの。手術の後は、一年くらい状態が安定しなくて」

 遅くなってゴメンね。そう、愛らしく詫びる。幸平は首を横に振った。

「また会えて良かった」

 幸平が言うと、瑠璃は弱々しく眉を寄せた。目許に涙が浮かんでいた。

「私も、嬉しい。私の代わりに、死んじゃった人がいるのに、それでも、私」

「いいんだ」

 遮るように、幸平は告げた。なるべく強く言おうとしたのに、口に出してみると穏やかに響いた。

「俺は、瑠璃に会いたかったから。いいんだ」

 瑠璃はぎゅっと目を瞑り、何度も何度も頷いた。涙をふるい落とした後、彼女はすっと立ち上がり、幸平の瞳を覗き込んだ。微かに首を傾げ、綺麗な笑みを添えて。

「今年も、モデルは募集してる?」

 答える代わりに幸平は口付けた。一等鮮やかな季節のことだった。洒落た香水を纏った春風が、人差し指を唇に当てて通り過ぎていくような、静かで美しい朝だった。



『待ち焦がれる二人』終わり

待ち焦がれる二人

待ち焦がれる二人

綺麗なものを撮りたかったカメラマンと、綺麗に生きたかった少女の話です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-28

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