Missing 第一章

Missing 第一章

 それは芸術という分野から遠い人間の考え方だと思った。画家たちは、自分が描く一作一作に万感の思いを込める。過去になどなろうはずがない。
 しかし、俺は何も口にはしなかった。儚げに薄らいでいく彼女の輪郭をこの世に留める資格など、持ち合わせてはいなかったからだ。


『Missing』


 想いは想いのままで熱を失うだけ


 あなたは帰る

 あの日の場所へ


 僕は僕の道へ



『You Go Your Way/CHEMISTRY』より



 ある夏の日の朝。目が覚めると幽霊に憑かれていた。

 とりあえず驚いた。毎朝の習慣でベットから出た後カーテンを開けると、窓の向こう、足場もないはずの空中に女子高生が浮いていたのだ。

 恐怖より混乱が勝って悲鳴は出なかった。条件反射的に後ずさると、俺を追うように彼女は“窓をすり抜けて”室内に入ってきた。

あ、幽霊だ、と思った。だってそうでなければ物をすり抜けたり出来ない。案の定、犬伏麻耶(いぬぶしまや)と名乗った女子高生は自分は幽霊だとのたまった。そんなもの存在するんだろうかだなんて疑問はなく、ただただ、ああ自分はまだ夢の中なんだなと思った。

 我が身に起こった特異な出来事が夢でも幻覚でもなく紛れもない事実なのだと理解したのは、付きまとう彼女を丸一日無視しとおした翌日のことだ。その日の朝も彼女は窓の向こうに浮いていて、一晩越えても続くとなると流石にただの夢とは思えなかった。

『ねぇ、いい加減に観念したらどう?』

 苦笑気味に犬伏麻耶が言う。真っ直ぐ伸びた長い黒髪、細い眉、高めの鼻、スッキリした顎から繋がる細い首、純白のブラウス、結ばれた赤いタイ。上半身だけ見ればどこにでもいるような立派な女子高生。しかし、紺色のスカートから伸びるべきスラリとした足はどんなに目を凝らしても見あたらない。辛うじて覗く太股から下は末端に向かうにつれて濃度が減少し、いつの間にか綺麗に空中に消えてしまっている。

『いくら無視したって現実は変わらないんだからさぁ。逃避なんて男らしくないよ?』

 硝子も、カーテンも、俺さえもすり抜け部屋に入ってくる麻耶。ベッドにふわりと腰掛け、からかうような目でこちらを見る。

『ほらほら、もう、素直に受け入れちゃいなさい』

「あんた、幽霊にしては明るすぎないか?」

『不自然さが逆にリアルでしょ?』

「ごもっともで」

 溜息混じりに肩を竦める。夢にしろ過労にしろ、俺自身が作り出した幻覚にしては彼女の設定はあまりにも“それらしくない”。頭の中にある幽霊像はもっと陰鬱だ。となれば、これは現実なのだろう。短絡的だと自覚はするが、正直なところそんなのはどちらでも構わないのである。

 彼女が本物の幽霊だというのなら別にそれでもいい。信じがたいことだとは思うが、俺がそのことを信じようが信じまいが何かが変わるわけでもない。昨日一日で無害なことは立証済みであるし、この世に未練があるのなら好きなだけ留まればいい。

 制服に着替え、顔を洗いに部屋を出る。何やら拍子抜けしたような声を上げ麻耶が後を追ってきた。

『あ、あのさぁ。なんかあっさりし過ぎてない? 幽霊だよ? 幽霊。あり得ないでしょ。ここもっと大きなリアクションとるところだと思うなぁ』

 何かをアピールしたいらしく、しきりに俺の身体をすり抜けながら彼女は言う。目元を女子高生が出たり消えたりして非常に前が見辛い。

「あんた、ちょっと邪魔」

『なーんであっさり受け入れちゃうかなぁ。おかしいって絶対。もっとこう、“し、信じられない”とか“これは現実なのか?!”とかやるのが普通でしょう? こんなリアリティに欠ける対応世界が納得しないってば』

「さっきと言ってることが違うぞ。あと、そういうビックリや疑いは昨日のうちに大方出尽くした」

 ふらつきながらも辛うじて洗面所に到着。鏡に麻耶が映らないのを見て、やはり幽霊なんだと再認識。

 結局は、自室にゴキブリを見付けた時大騒ぎするか否か、程度の問題なのだろう。少女の幽霊だなんてベタ過ぎる展開には映画や小説で免疫があるし、呪い殺されそうな霊に夜中に出会うならまだしも、爽やかな朝に笑顔の女子高生が現れたところで怖くもない。驚きがなかったと言えば当然嘘だが、現状に混乱しすぎて発狂しそうだなどとはそれこそ嘘でも言えない。

 洗顔をすませ、ついでに歯も磨いて次はキッチンへ。今日は両親とも早く仕事に出たことを思いだし、朝食を作る煩わしさに少し気分が沈んだ。傍らの麻耶は色々諦めたらしく大人しくなっている。

「なあ、あんた朝飯作れない?」

 無理だとわかっていながらも、願望の意を込めて尋ねる。壁すら抜けてしまう幽霊なのだ、どうせ物には触れられない仕組みに違いない。

『作れるよ?』

「ちょっと待てユーレー。どこまでハチャメチャだ」

 予想外の返答を責めると、彼女は心外そうに眉を寄せた。

『いや、だってよくあるでしょ、幽霊に足を引っ張られた、とか。基本的にはスケスケだけど、要は胸三寸なわけよ』

 私は人には触れられないけどねー、などと、歌うように呟いて麻耶は冷蔵庫へ。卵とベーコンをとりだし、勝手に目玉焼きを作り始める。

 それは困ると、俺は思った。無害な幽霊くらい家に何人来たって構いやしないのである。しかし、物に触れられるとなるともはや生きた人間と大差はない。場合によっては実害を生むこともあるだろう。突然家に女子高生が転がり込んでくるなんて迷惑千万だ。

「他にもあるのか」

 テーブルの上のトースターにパンをセットしながら訊く。何が? と、フライパン片手に首だけ振り向く麻耶。

「そういう、幽霊としてのルールみたいな物」

『ああ、あるよ。そんなに沢山はないけど』

 何故か楽しそうに彼女は答えた。その存在について詳しく知る必要性を感じた俺は、冗談めかした彼女の説明を真剣に聞いた。

 第一に、彼女は俺にしか見えないし、声も聞こえない。
 第二に、彼女は自分の意志次第で人間以外の物には触れることが出来る。
 第三に、彼女はこの世への未練が無くなれば消える。

 一つ目の決まりは納得出来るとして、二つ目の人間以外という制限は少し引っかかった。物に触れるというだけでそれなりの驚きなのだが、どうせ触れるのならなぜ人間だけ駄目なのだろうか。

『んー、まずもってね、幽霊ってのは取捨選択なワケよ』

 曰く、幽霊とは生者から様々な要素を引き算した結果なのだそうだ。命という高価な品物を神様から分けてもらうために死者達は自分の持つ“人間”を質に入れる。足だとか、声だとか、そういった幾つかの人間的要素を犠牲にし、ようやく現世に舞い戻ってくるらしい。

 だから世間一般の幽霊は目に見えない。取り憑かれた相手以外には声も聞こえない。

 ただ、それらの性質は何を捨てたかによって変わるものであるから、捨て方によっては例えば夜中の墓地だけなど限定的に姿を現すことも出来るし、人や物に触れることも出来る。

『スケスケで壁とかすり抜けられるのも、何か特別な力を得たわけじゃなくて、単に“壁に触れられなくなった”だけなの。宙に浮けるのは地面に立てなくなったから。声とか質量とかは、なんて言うか、レートが高いのよね。命って、やっぱり重いから。そういう尊い犠牲を払わないと、貸して貰えないワケ。ほんとはね、その気になれば人にも触れられるんだけど。それだと寿命がごっそり減っちゃうんだ』

 フライパンから目を離さない背中越しの説明。幽霊のくせに寿命とは珍妙な。彼女の言葉が正しいかなんて知る由もないが、本人がそう言っているのだから生者である自分が疑ったところで仕方がない。

 他にも幾つか疑問があったが、今はこのくらいにしておくことにした。一気に詰め込もうとすると混乱しそうだったし、朝っぱらから幽霊講釈なんてなんだか不健康だ。

 料理が完成したらしく、麻耶はコンロの火を止めると食器棚へ向かった。白い皿を取りだし、元の位置に戻り、今度はキョロキョロと物欲しそうに辺りを見回す。下半身さえ見なければいたって普通の女子高生。これで死んでいるっていうんだから、現実味なんて持てなくても仕方がないだろう。

 近くの引き出しからようやくフライ返しを見付けた麻耶は、出来たての目玉焼きを皿に盛ると誇らしげにテーブルに乗せた。人生初、幽霊による手料理である。

『ソース派? 醤油派? それとも渋く塩胡椒派?』

「マヨネーズ派」

『同志!』

 にぱっと嬉しげに笑う麻耶。一口食べて上手いと褒めると一層笑みを深めた。別に世辞ではない。素直に美味しかったのだ。

 あんたは食べないのかと問うと、幽霊は食べないと彼女は答えた。

「まぁ、色々疑問は残るけど、それは追々訊いていくとして……。あと一ついいか?」

 食べ終わった皿を下げ、洗い物までしてくれている背中に尋ねる。麻耶は傾げ気味に首だけ振り返った。

「あんたさ、なんで幽霊になんてなったんだ?」

『そりゃ、死んだからだけど?』

 そうじゃねぇよと的外れな返答に心中毒突き、同じ台詞を言い直すのも億劫だったので別の質問に差し替える。知りたかったのは、この世に何の未練があったのかということと、それと――

「あんた、そもそもなんで俺に取り憑いてるわけ?」


『そう。それ、私もわかんないのよねー』

 えらく脳天気な声で彼女は告白した。少なくとも、調味料の趣味が同じだから、だなんて馬鹿げた理由ではないことだけは確かだった。

別離へのイニシエーション 1-1 for ages

別離へのイニシエーション 1-1 for ages

 君に会えたらもっと話したい
 できるだけその声聞いていたい

 それがもう叶わない望みだとしたなら
 僕に何が残るだろう


『nothing/CHEMISTRY』より


1.『for ages』

色彩が爆発していた。荒々しい筆遣いは女性のものとは思えぬほどに攻撃的で、幾重にも重ねられた絵の具は生命力と躍動感を前面に押し出している。抽象的なモチーフはしかし抽象的であるがゆえにストレートで、僅かな劣化すら許さず網膜を刺激する。
 走り出したくなる絵だと俺は思った。人を走らせるだけの力がこの絵にはある、と。

「何を描いてるんだ?」

 画材臭い美術室。窓際に椅子を置き、換気ついでに涼んでいる作者に尋ねた。

「何だと思う?」

 汗に湿った髪を風に揺らし、この絵を描いた少女はぼんやりと外を眺めている。

「夏」

「おしい、八月」

 気の抜けた様子はそのままに、振り返ることすらせず彼女は答えた。

 なるほど確かに、言われてみれば八月だった。夏と言うほどセンチメンタルなわけでもなく、気怠いのに、けれど何故か何かをせずにはいられない月。外から来るエネルギーも内から湧くエネルギーも強すぎて持て余す、そんなどうしようもない月だ。

 走り出したくなるという感想も悪くはなかったなと自己評価する。見ていて疲れるほどの力強さを持ちながら、同時に見る者の内側に熱を宿す影響力も秘めた絵だった。

 暑さしぶとい夏休み後半。幼馴染みが美術部員である俺は、こうして時々、何をするでもなく彼女の絵を見にやって来る。

「わたしちょっと飲み物買ってくるから、由稀しばらくここにいてよ」

「コーラよろしく」

「無理。七十円の牛乳ね」

 ひらひらと手を振り出ていく小さい背中。

 園村色(しき)。色とは、彼女が転校してきた小学三年生の頃からの付き合いだった。気の強そうな瞳と、せっかく綺麗なのに適当に切ったり結ったりした髪、そして小柄な体格は昔から変わらない。変化し続けるのはどこまでも上昇を続ける画力ばかりだ。

 色は所謂天才だった。小さい頃からその表現力は抜きん出ていて、初めての図工の時間にすべてのクラスメイトが彼女は特別なのだと知った。

 最初、俺は色が苦手だった。なぜって、彼女がやって来るまで、クラスで一番絵が上手いのは俺だったから。
 少なからず誇りに思っていた地位を、彼女はこちらが身構える暇すら与えず一瞬で奪い去ってしまったのだ。惨めだとか悔しいだとかいう気持ちも当然あったし、それより何より恐かった。

 担任も他の生徒も上手い上手いと呑気に彼女の画力を褒め称えていた中、誰よりも先に彼女の恐ろしさに気が付いたのは多分俺だ。自意識過剰な考え方だがあの頃の俺にはそれなりに絵の才能があって、ただ“遠い”としか感じられない周りの人々よりは、色との距離を正確に推し量れた。

 そのあまりの遠さが恐すぎて、俺は自然にシキを避けるようになった。二番目として彼女と比較させる恐怖もさることながら、ただ彼女の絵を見るということ自体がどうしようもなく恐ろしかった。
 幼い頃のことなのでハッキリと憶えてはいないが、きっと描けなくなると思ったのだろう。彼女の絵を見たら、きっと自分は描けなくなる、と。刃こぼれや、あるいは強い薬品に嗅覚がやられてしまうようなものだ。結局色を避けきれなかった俺が今現在絵を描いていないところからして、小学三年生当時の懸念は見事に正鵠を得ていたと言える。

 そんな俺とは逆に、シキはむしろ進んで俺に関わろうとしてきた。つとめて距離を置くこちらをわざわざ追い回して、やれ一緒に絵を描こうだの美術館に着いて来いだのと毎日騒ぎたてた。色のあまりの遠さから考えれば俺の絵の力なんて他の皆ともはや五十歩百歩だったのだが、それでも彼女にとってはまだ俺が最も自分に近い存在だったらしい。


『はぁー。何枚か彼女の作品は見たことあるけど、ほんと、大したものね』

 今まで静かにしていた麻耶が、色がいなくなった隙にしみじみと呟く。彼女の着ている制服はうちの学校のもので、校章から判断するに、どうやら俺より一学年上の三年生だったようだ。

「色を知ってるのか」

『しょっちゅう表彰されてるし、結構有名よ? それに、私、彼氏が美術部だったから』

 部の美術展とかも真面目に覗いてたのよね、と。さらりと告げ、麻耶は絵を眺め続ける。

 別段恋人がいたことに驚きはしないが、相手が芸術系とはなんとも不似合いだ。自身は陸上部だったという麻耶は性格も雰囲気もいかにも体育会系で、趣味なんて合わなかったんじゃないかと心配にすらなる。

「接点なんてなさそうだ」

『うっさいなぁ』

「一体いつ知り合ったんだ?」

『秘密。教える義理なんてありませーん』

 いーっと子供っぽく口を歪める麻耶。

 確かにそんな込み入った話をするほど親密ではないし、どうしても知りたいと言うほど興味があるわけでもない。向こうは俺と色の関係を詮索してこないのだから、こちらだけ深入りするのはルール違反だ。
 きっと自分の胸の中にだけそっと仕舞っておきたいことなのだろう。

「大事な思い出は棺桶の中まで」

『それ、ブラックジョーク?』

 幽霊が半目で睨む。

 色が帰ってきたため、二人の会話はそこまでとなった。俺以外に麻耶は見えない以上、人前で言葉を交わせば、虚空に語りかける妙な男と思われてしまう。

 邪魔をしない配慮のつもりか、麻耶は背後霊みたくスッと後ろに控えた。そんな彼女に気付きもしない色が、再び窓際に陣取り黒いペットボトルを投げて寄越す。

「コーラを投げるな」

「ばっか、感謝しなさいよね」

 先ほどの麻耶そっくりにジトっと睨んでくる色。自分の手には白く小さな紙パックがあった。どうやら飲み物を交換してくれたらしい。
 彼女は昔から、口ではいつも突っぱねるくせに、実際にはこうやって優しさを発揮してくる。


 関わりたくないとさえ思っていた俺が結果的に一番色と親密になってしまったのはそういう彼女の性格が原因だった。

 押しの強さに音を上げたというのももちろんあるが、それ以上に誘いを断った時の心底悲しそうな表情に負けた。顔をしわくちゃにして涙を浮かべるなんて反則だ。強引にぶつかってきておいて跳ね返されたら泣き落としだなんて、そこらの当たり屋並に質が悪い。

 何が困るって、時折見せるギャップの大きさが困る。いつもは男兄弟のようにいがみ合っているのに、時々びっくりするくらい優しかったりしおらしかったりするのだ。慣れるまでは上手く対応するのに必死だったし、慣れた頃にはすっかりその特殊なポジションに愛着を持ってしまっていた。


「変な気をつかうなよ。別に牛乳でいいって」

「買ってから炭酸が嫌になっただけよ。それに、もう口付けちゃったし」

「別に、今更気にしないだろそんなの」

 小さい頃はよく二人で一つのアイスバーを食べたりしたものだった。色の口が小さいので、一人で食べると結局溶けて半分無駄になってしまっていたのだ。

「そ、そっちが気にしなくったってこっちは嫌なのっ」

 戸惑うように俺から目を逸らし、色はコクコクと一心不乱に牛乳を飲みだした。どうやら、これ以上何か言われる前に全部消費してしまうつもりらしい。

『あーもぅ、甘酸っぱいなぁ。二人はさぁ、ちょっと複雑な幼馴染みなワケ? それとも別れた恋人?』

 堪えかねたように麻耶が尋ねてくる。前者だという意味を込め、後ろ手に指を一本立てた。別段隠す理由もない。
 確かに俺達の関係は少し複雑だったが、思うに、複雑じゃない幼馴染みなんてこの世にはいないのだろう。綺麗に結ばれた糸よりもどこかで妙に絡んだ糸の方がほどけにくいものだ。


 一気に牛乳を飲みきった色は、しかし逆に手持ち無沙汰になってしまったらしく、一層気まずげな様子で窓の外を眺めた。

 不器用なヤツめと笑う。絵を描くこと以外、大抵のことが彼女は下手だ。

 風が色の頬の火照りを冷ますまで。そう決めて、俺は黙って彼女を見ていることにした。元々、彼女と過ごす無言の時間は苦手ではない。筆をとっている間に話しかけるわけにもいかないため、彼女が絵を描いている途中に現れ、一言も喋らないうちに帰る、というのもよくあることだった。

「あ、そうだ」

 数分間の沈黙の後、こちらから口火を切る前に思い出したようにシキが言った。

「由稀、日記は?」

「いや、まだだ」

「早く書いてよねー。由稀が滞納すると、私一度に一週間分くらい書かなきゃいけなくなるんだから」

 キッと睨め付け釘を刺す。日記というのは小学三年の色によって無理矢理書かされ始めた交換日記のことで、何と奇跡的に八年近くも続いている。友人曰く世間一般の交換日記とは精々三ヶ月続けば上等らしく、二年目辺りからは妙に記録更新へのモチベーションが上がり多少面倒でも律儀に書き続けている。

 もっとも、年々書き込む字数の増えてくる色と違い、コンスタントに一日二行程度しか書かない俺にはどれほどの苦労もないのだが。


『うわぁ、交換日記とかしてるんだ君達。小学校の頃流行ったよね、懐かしいな』

 背後霊がはしゃぐ。確かに、手書きの交換日記だなんてアナログな代物は昔の流行以外の何物でもない。現代に生きる若者としてはブログを見せ合うなどの形式の方が自然な気がするが、もし途中でそうなっていたとしたら、日記も含め俺達の関係は八年も続かなかっただろう。

『気になってた男の子に無理矢理書かせて、一週間で駄目になったりしてたなぁ』

 やたらと赤裸々な独り言をこぼす麻耶。

 ずっと気になっていることだが、この女子高生の幽霊は、とても楽しそうに生前のことを話す。普通、死とはもっと悲壮なもののはずだ。なのに麻耶は、あっけらかんとして心底楽しそうに振る舞う。

 それは、幽霊なんて存在以上に不思議で理解しがたいことだった。

1-2 see to it that

2.『see to it that』

 二日が過ぎた。幽霊に憑かれたと言っても麻耶が俺になにか悪さをするでもなく、また俺自身も今までと何ら変わりなく日々を過ごした。
 もともと友達の少ない人間だったため、必然的に色
しき
といる時以外は麻耶と二人っきりになることが多かった。いくら興味がないとは言え、一日中付きまとわれていればある程度会話をする。麻耶のおしゃべり好きな性格もあり、普通の友人と同じくらいには、俺達は互いのことを知った。


「表情が硬い」

『じ、自覚してるんだから、わざわざ言わないでよ。写真って苦手なの』

「別にモデルみたいにポーズとれとは言わんから、自然にしてりゃいいさ」

 言われて、逆に一層固まる麻耶。いつの間にか定位置となったベッドの上に何故か見えない足を折り畳んで正座している。いつもはヘラヘラとしているくせにカメラを向けられた途端まるで人が変わったようだった。意外であるし、愉快でもある。

『ねぇ、やっぱりやめない?』

「俺の部活動が知りたいって言ったのはあんただろうが」

『まさか写真部だなんて似合わない部活に入ってるとは思わなかったのよ!』

「余計なお世話だ」

 脅すようにシャッターに指をかけると、麻耶は観念したように息を吐き、少しだけ俯いた。スカートをギュッと掴む仕草は幼く、けれど、震える伏し目は大人っぽかった。


 色の影響ですっかり絵を描けなくなってしまった俺は、それでも芸術の分野から完全に抜けることは出来ず、筆とパレットの代わりにカメラを持つようになった。もともと自分の絵が、色のそれのように己の内面を昇華させた結果ではなく、美しいと感じたものを写実的に切り取るための手段に近いことを自覚していたからだ。カメラといっても本格的なものではなく、薄くて軽い、女性が好みそうなデジタルカメラを使った。あまり本腰を入れすぎないようにという自戒からくる判断だった。色のような天才が再び現れた時、第二の趣味まで挫折してしまっては困る。


『ほら、やるなら早く、いっそ一思いにやっちゃって』

「そりゃ撮るのは一瞬だが、大仰な」

 実は、覗き込むディスプレイに麻耶の姿は映っていない。鏡にすら映らない幽霊なのだから当然といえば当然だ。だが、教えない方が反応が面白いので黙っておくことにする。あるいは心霊写真が撮れる可能性もあることだし。

 ピっと間の抜けた機械音がし、一拍遅れてシャッターが鳴った。すぐに撮れ具合を確認しようとした俺を麻耶が血相変えて止める。

「なんだよ、ちゃんと撮れてるか気になるだろ」

『絶対ダメ! 見たら呪い殺すわよ』

 鬼の形相に思わず怯む。何度か色に同じ台詞を言われたことがあるが、やはり本物の幽霊は迫力が違う。呪い殺されたくはないので素直にカメラを置いた。本当にそんなことが出来るのか気になったが、出来ると答えられた時心の整理に手間取りそうだったため尋ねるのはやめることにする。

 心底見られたくないらしく、麻耶はわざわざカメラを手に取ると勉強机の引き出しの中に隠した。そんな労力使わなくてもいいのにと感じたが、彼女の自由なので口にはしない。


 この二日間のやり取りで、俺は幽霊にも寿命があることを知った。曰く、彼女らが現世に留まれる時間は最初からある程度決まっているらしい。

 最も重要な基準は“未練”。現世に未練があるから彼等は霊になるのであり、その内容によって霊としての寿命も決まる。
 大原則として、未練がなくなれば成仏して消えるわけだが、彼女達はもともとやり残したことをこなすために必要な最低限の時間しか与えられていない。神様なりの厳しさなのか何なのか、理由はわからないが、とにかくそういう仕組みなのだそうだ。
 取捨選択の法則は絶対のため、未練の内容が凄まじい場合は長い時間を与えられる代わりに人間味が極端に薄い。逆に慎ましい望みだけを抱いて現世に残る場合、麻耶のように比較的生前に近い状態で短く濃い時間を過ごすことになる。

 また、成仏することを第二の死とするならば、彼女らはこの世に舞い戻った瞬間から“徐々に死んでいる”。時間が経つ、あるいは未練が薄くなるにつれて、幽霊達の存在はだんだんと消えてゆくらしい。麻耶が物を掴んだりする時も同様。要するに、すべての源となる命のストックがあって、幽霊はそれをどうにかやりくりして想いを果たしていくわけだ。実際、節約しなきゃと言って、麻耶は三日前に朝食を作って以来今まで物に触れることはなかった。


 この話を聞いてわかったことは、麻耶といる時間はそう長くはないということと、やはり彼女には何か現世への未練があるのだということ。自分の望みは慎ましいと説明したところからして、何が諦めきれなくて霊になったのかという自覚はあるようだ。

 しかし、麻耶は何も言い出さない。理由はわからないが俺に取り憑いている以上、彼女は俺の行く先にしか移動出来ない。どこかに行きたいだとか、何かをしたいだとか、そういう望みがあるのなら、必然的に俺へ協力を依頼するはずである。

 そうは思うのだが、こちらから何かを言ったりはしない。相手から尋ねてくれるのを待つような性格でもなさそうだし、彼女には彼女の事情があるのだろう。好きなようにさせて、頼まれた時だけ助けてやればいい。初めて会った時ならいざ知らず、それなりに親しくなった今なら多少の無理もきいてやれる。
 彼女が幽霊としての寿命を縮めてまで作ってくれた朝食。その分の借りくらいは返しておくのが道理だろう。


「なぁ、あんた」

 カメラにはもう近付かないという意思表示としてベッドに仰向けに倒れこみ、問う。訊かないでおこうと決めたことは訊かないが、それ以外にも気になることは幾つかあるのだ。

『あんたじゃなくて、まーやーさーん。一応私の方が年上なんだから』

 机に飾られた俺の幼い頃の写真を眺めながら麻耶が訂正する。

「なぁ麻耶」

『敬称が抜けてるぞー』

「そういう幽霊としての知識って、一体誰から聞いて知ったんだ?」

『べっつにー。最初っから知ってただけですよー』

 唇を尖らせ、ふて腐れたように幽霊少女は答える。

「最初からってどういうことだよ」

『そのまんまよ。幽霊になった瞬間から、頭の中にそういう情報があったの。普通に生きててもよくあるでしょ、いつどこで何から得た知識かは憶えてないけど、とりあえず記憶にあるってやつ』

 つまり、幽霊として生活しやすいように神様が前もって刷り込んでくれたデータがあるということだろうか。
 まったく、神だの霊だの、今まで切り捨ててきた胡散臭いものたちを真剣に信じるようになった現在の自分が気持ち悪いったらない。

「なるほど。――話変わるが、メディアを騒がす悪霊達ってのは、どうして時間切れで消えないんだ? 麻耶の説明を信じるなら、人や物に触れて害を与えるような真似してたら、あっと言う間に幽霊としての寿命が尽きるはずだろう? やっぱり人間を襲うと力が増したりするのか」

『はぁ?』

 不機嫌そうな様子から一変し、素っ頓狂な声を上げる麻耶。目を大きく見開き、奇妙なものでも見るように俺を見つめる。

『なーに言ってらっしゃるのアナタ。悪霊なんているわけないじゃない』

「いない?」

『そうそう。なに? 由稀ってオカルト信じる人だったの? デマに決まってるわよそんなの』

 そう言って、オカルト以外の何物でもない幽霊少女は笑い転げる。馬鹿にしたような笑みが悔しい。

「なんだよ。麻耶だって霊が足を引っ張ったりするって言ったろうが。海で悪霊に足引かれたとか、よくあるだろ」

『私が言ったのは例え話。――いいかな? 竹中由稀クン。悪霊なんてこの世に現れっこないの。なぜなら、死んだ人を幽霊にするかは神様が決めるから』

 人差し指など立て、芝居じみた仕草で麻耶が諭す。

『幽霊にとっては、未練の内容がそのまま“理由”でもあるわけ。神様だって、ろくでもない理由でわざわざ死んだ人を蘇らせたりしないわよ。助けてあげたいなって思えるような真っ当な事情のある人だけが現世に戻れるの。だから、悪意を持った幽霊なんていない。呪いとか復讐とか、そんな理由じゃ神様は許さないから』

 元々世間一般の幽霊なんてものは全部眉唾と言われていて、それを示す証拠も沢山ある。要するに、俺達が作り出した偽物の幽霊と、摩耶達本物の幽霊の二種類がこの世にはいるわけだ。そして、実在する幽霊というやつは基本的に善良らしい。

「じゃあ、幽霊になれないまま素直に死んでいく人もいるってことか」

『そりゃあそうよ。何の未練もなく大往生を遂げた人とか、すっごく悪質な願いを抱えて死んだ人とか――』

「実現不可能なことを願うヤツ、とか?」

 指折り数える麻耶に合わせて、ふと思いついた例を口にしてみる。未練という名の願いを叶えることが幽霊の意味だとしたら、叶わぬ願いを持った死人は蘇っても仕方がないのではないか。

『不可能を望む人も、神様は幽霊にしてくれると思うよ。多分、そういう人には――』

 躊躇うように言葉を切る麻耶。窓の外を眺め、苦笑いなどしている。

「そういう人には?」

 このままでは収まりが悪いため、俺は先を促した。振り返った麻耶が、小さく頷いて告げる。


『――そういう人には、諦めるための時間をくれるんじゃないかな』


 口にした途端下を向き、目を細める麻耶。彼女は、この数日で始めて見せる寂しげな表情を浮かべていた。

1-3 run a risk

3.『run a risk』

 小学生時代のいつだったか、真剣に色と絶交しようと思ったことがある。別に、彼女に何かをされたわけではなかったように思う。ただ、きっと気付いてしまったのだろう。彼女と共に過ごすことで失うものもある、と。
 もともと彼女に関わることの危うさは幼いながらに察していたというのに、涙や笑顔に流されて時を重ねるうちに、いつの間にかその危険性を忘れてしまっていた。色との時間が目まぐるしすぎて、他のことを顧みられなくなってしまっていたのかも知れない。
 だから、多分、ある程度賢くなり視野の広くなった当時の俺は、自分が今まで失ってきたものと、この先取りこぼしていくであろうもののあまりの多さに愕然としたに違いない。

 その頃既に、絵を描くことをあまり楽しいと感じられなくなっていた。写実的な上手さなら我ながら小学生としては上等だったし、その力は相当目が肥えているであろう色の両親も認めてくれていた。けれど、それだけだった。俺の絵には、色のそれにはある何かが決定的に不足していたのだ。彼女の絵を素晴らしいと感じるたび、その俺に欠けている部分こそが絵画の本質なのだと思うようになっていった。

 努力はした。が、俺には無理だった。どうしたって色のようにはなれなかった。俺の絵はいつまで経ってもどこか欠けたままで、少しの感動も生み出さなかった。不満ばかり募る創作が無価値だったとは言わない。言わないが、少しも心が弾まなかったことは揺るぎない事実だ。

 また、そういった芸術面での行き詰まりもさることながら、人間関係の悪化も当時の俺にとっては深刻だった。

 色には友達がいなかった。子供のくせに化け物じみた画力を持ち、休み時間には専ら絵ばかり描いている奇妙な転校生。最初のうちは物珍しさから興味を持っていたクラスメイト達も、すぐに彼女をつまらない人間と判断し離れていった。最後まで残ったのが誰よりも彼女を避けようとしていた俺一人なのだから皮肉な話である。

 しかし、自分のそんな状況を色は気にしていない様子だった。ひょっとすると、彼女は絵さえ描ければそれで良かったのかも知れない。好かれこそしなかったものの嫌われるわけでもなく、苛められたりすることもなかったため、さして問題を感じなかったのだろう。

 そして、そんな色に付き合っているうちに、気が付けば俺まで友人がいなくなっていた。

 小さな頃の話だ。周りの生徒にしてみれば、妙に仲の良い一組の男女を少しからかっているつもりだったのかも知れない。もともと俺の人付き合いが悪かったのもあるから、当然一概に色の所為だけとは言えない。

 それでも事実、彼女と一緒にいた結果として俺は孤立した。体育にしろ遠足にしろ、どうしたって男子同士でグループを作ることになる学校という場において色一人と親しくても仕方がなかったのだ。


『でも、何だかんだ言って未だに二人は離れてないよねー』

「まぁ、結局はな」

『趣味よりも友達よりも、色ちゃんの方が大事だった?』

 茶化すように麻耶が訊く。

「その表現では語弊がある」

 歳の割に上手いとは言え所詮はお絵かきレベルだった十歳こそいらの頃の絵も、当時の俺にとっては等身大の、精一杯に大事なものだったはずだ。人付き合い諸々についても同じ。それら全部を色一人の存在のために捨てるなんてことは出来ない。少なくとも、あの頃の俺にはそんな風に思うことは不可能だった。

 だから、ただ、そういう結果があるだけだ。

 俺は色から離れようとした。けれど、結局今も一緒にいる。結果として、そういう事実が生まれただけの話。

『語弊? じゃあ、実際のところはどうなワケ?』

「秘密だな。話す義理がない」

『うっわ、なにそれー。自分から話だしといて』

 口を斜めにする麻耶を無視して俺は美術室への階段をのぼった。なにも、好きでこんな話をしたわけではない。

 よく笑う印象が強かったからだろうか。家で見た麻耶の寂しげな表情がどうやら俺にはある種の衝撃だったらしく、彼女にあんな顔をさせてしまったことに対する罪悪感のような物を抱いてしまった。だから話した。学校へ向かう道中が気まずかったのもあるし、何より自分も少しは損をしなければ不公平な気がしたのだ。

『どうせアレでしょオニーサン? 本当は壮大な愛のドラマがあったんだけど、今更になって言うのが恥ずかしくなったってヤツ』

 幽霊が意地悪い表情をする。そういうわけじゃないと、胸の中だけで返事をした。

 強いて言うならなし崩しだろう。世の中には白黒ハッキリしないことの方が多く、往々にして、気が付けば今ひとつすっきりしない微妙なところに着地している。そんな風にして俺と色は、明確な答えや大きな変化もないままにここまで来てしまった。

それは決して珍しいことでも悪いことでもないだろう。みんな同じはずだ。誰だって、フィクションみたいに劇的な日々ばかり送りはしないのだから。

 四階分の階段をのぼりきり、美術室に辿り着く。中に入るのを少し躊躇った。昔話なんてするものではない。

「――あ、竹中さん。どしたんです? そんなところに突っ立って」

 ガラリとドアを開け、立ちつくす俺の前に一人の少女が現れた。泉花
いずみはな
。ふわふわした髪が特徴的な童顔で、色と同じくらいの小柄な体格の後輩だ。
 泉は桜色のTシャツに学校指定の紺のハーフパンツといういかにも夏休みらしいラフな格好をしていた。

「別にどうもしやしない。久しぶりだな泉」

「あ、はい、ご無沙汰でした。今日も足繁く通い婚ですか? 残念ですけど、園村さんはいませんよ」

 軽く頭を下げる泉は、そう言って後ろ手にドアを閉めた。新聞部の彼女とは、校内誌に掲載する写真の撮影を依頼された時からの付き合いだった。何かと俺に関わっているうちに写真に興味が出たらしく一時期は殆どこちらの部員のようになっていたが、夏休みの頭頃から会うことが少なくなり、気が付くといなくなっていた。聞くところのよると、またどこか別の部活に入れ込んでいたらしい。

「いない? 来てないのか」

「さっき画材買いに出てったんです。ワケあって私、これから後追うんですけど、一緒ん来ます?」

 四国出身という泉が方言の抜けきらない声で提案する。

『とーぜん行くよねー』

 二人の少女から挑戦的な目を向けられた俺は、素直にのぼったばかりの階段を下り始めた。校舎を出るまで一度も振り向かないのはせめてもの抵抗だった。小さな後輩も背後霊も、どうせ嫌な笑みを浮かべていたに決まっている。


 俺達が通う高校は少し長い坂の上に建っており、その麓にはちょっとした商店街があった。流石に学校が近くにあるだけあって、どの店もそれなりに繁盛している。ただ、学生が多すぎて他の地域住民との折り合いが付けづらいことだけが玉に瑕だった。例えば学生を受け入れるためには自転車の通行を黙認せざるを得ないが、そうすると老人や子供との接触事故が起こる。似たような問題が他にも色々とあった。

 俺達がやって来た時、商店街は歩行者も自転車も非常に多い状態だった。時刻は昼前。食事時なうえ今の時期は学祭の買い出しがマメに行われるため自然と人口密度が高まっていた。

「園村さん、行ったはええけど財布忘れちゃったらしいんですよぉ」

 天然ですよね、と呆れた顔で泉が言う。彼女は軽い服装に、家庭科の授業で作ったような手作り臭漂う小さな布製のバッグをかけていた。女子高生の割に見た目に無頓着すぎる、と一見思うが、商店街までは校庭の内、という感覚がうちの学生にはあるため、さほど目立つ姿ではない。

「そんなのは今更だが――そもそもなんでお前美術室に?」

「そりゃあ、竹中さんに会おう思ったらあそこで待っとるんが賢いでしょ」

 ニヤリと笑うちびっ子。図星だとしても、まったく彼女はもう少し発言を控えるべきではないだろうか。別に俺は、歳の差も越えて気軽にからかい合う程この無礼な後輩と友情を深めたつもりはない。

 もっとも、俺自身が日頃そういった常識を気にしないため、あまり強くは言えないのだが。

「なんだ、俺に用か」

「はい。また、新聞部用に写真お願いしたいんです」

「そんなのお前が撮ればいいだろうが」

 俺だって趣味でかじっているだけなのだから、今となっては実力的に泉とさしたる差はない。むしろ、女のくせにごつい一眼レフを使っている彼女の方が余程それらしかった。

「私は……苦手なんです、今回みたいなケース。だから、ここは冷血漢の竹中さんにお願いしょうかと」

「説明不足だな。断るぞ」

「まぁそうおっしゃらず。学校帰ったらちゃんと話しますから」

 そう言って彼女は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべる。気が付けばもう色がいる文具店まで後少しだったので、ひとまずこれ以上は言及しないことにした。

 体格の差があるため、色や泉と二人で歩くとどうしても俺の方が前へ出てしまう。話しづらいのでいつもはある程度歩調を合わせるが、この時俺はハッキリしない泉の態度に多少不機嫌だったこともあり、文具店へのわずかな間だけは彼女を背後に置き去りズカズカと歩いた。

 ほんの一瞬のことだ。

 だが、その一瞬の間に事は起きた。

 泉の悲鳴が聞こえたのは俺が店のドアに手をかけた瞬間のことだった。

 振り返り際、視界を走り抜ける黒い影。

 尻餅をついた泉は影を目で追い、引きちぎられたバッグの肩ひもを握りしめて、え、何? と呟いた。

「引ったくりだろーが」
『引ったくりでしょ!』

 異口同音に叫び、反射的に俺と麻耶は影を追った。

 徒歩で逃げる犯人の足はさほど早くないのだが、いかんせん人混みが酷くてなかなか距離が縮まらない。夏場にライダースーツにフルフェイスヘルメットの黒ずくめだなんてあからさまな不審者、誰かが捕まえるのを手伝ってくれてもいいものだが、そんな人は一人も居ない。極力面倒に巻き込まれたくないという気持ちもわからないではなかった。

「埒があかないな」

 100メートルほどつかず離れずを続け、漏らす。文化部の体力はそう多くないし、精神面でも向こうは必死だ。正直そろそろ追いかけるのが億劫になってきていた。どうせバッグの中に大した物も入っていないだろう。

 しかし傍迷惑な犯人である。もう少しちゃんと、価値のありそうな鞄を狙ってくれれば俺がこんな苦労をすることもなかったというのに。

『ちょっと、なに諦めてるの? ここは元陸上部にまっかせなさい!』

 速度が落ち始めた俺に檄を飛ばし、麻耶が一直線に人混みを“すり抜けていく”。それは反則だろう、などと文句を言うよりも早く犯人に追いついた彼女は、目一杯相手の服を引っ張って足止めを始めた。

 突然の怪奇現象に驚き藻掻く犯人。悠々と追いついた俺は、思い切り肩をぶつけてその体を吹き飛ばしてやった。

 倒れた相手を抑えつけるべく距離を詰める。しかし思った以上に犯人は機敏で、こちらが接触するより一歩早く立ち上がった。

 駆ける勢いのままもう一度体当たりしようとした俺は、すんでの所で相手の手に折り畳み式のナイフが握られていることに気付いた。

 慌てて身を捩る。

 脇腹すれすれでナイフはかわせたが、代わりにバランスを崩し、今度はこちらが地面に倒れてしまった。

――あ、やばいな。

 逆手持ちでナイフを振りかざす黒い影を見上げ、俺はぼんやりと思った。今度は避けられない。

 覚悟を決めて目を閉じる。

 が、痛みはなかなか訪れなかった。不審に思って目を開けると、俺の顔のすぐ真上で麻耶の手がナイフを握り止めていた。

『由稀、早く!』

 叫び声に弾かれて、転がりながら身を起こす。麻耶が手を離した瞬間を見計らい相手の手元を蹴り上げた。

 弾き飛ばされたナイフを一瞬だけ目で追い、結局それを拾うことなく犯人は商店街から人気のない脇道へ逃げた。俺と麻耶は迷わず後を追った。泉の鞄が持ち去られたままだったからだ。

「鞄を返せ! そうすればもう追わない!」

 しばらくは普通に路地を追っていたが、いい加減面倒になって俺は言った。別に犯人をどうしても捕まえたいわけではない。物さえ戻ればそれでいいのだ。死ぬ思いまでしたのだからここまで来て成果無しでは馬鹿馬鹿しい、と、その程度の理由で追いすがっていた。

 ゴチャゴチャとやっているうちに泉のバッグが危険を冒してまで奪う価値がないと気付いたらしく、何度か振り向き俺の姿とバッグを見比べると、ついに犯人はくるりと体ごとこちらへ振り返り、大きく振りかぶって俺の遙か後方までバッグを投げ捨てた。

 俺がそれに気をとられているうちに逃げる算段だったのだろう。実際犯人はまたすぐ全速力で駆け出そうとしたし、俺と犯人の間にはそれなりの距離があり、ゆっくり立ち止まるならまだしも一瞬別の挙動をした程度でその差が縮まるはずもなかった。

 だが、麻耶との距離は違う。

 死にものぐるいの犯人に限りなく拮抗していた元スプリンターの彼女は、相手の速度がわずかに落ちた瞬間完全に追いつき、飛びかかるようにして無理矢理ヘルメットを脱がせた。そのやり方は強引極まりなく、かなりの負担を首に受けた犯人はうめき声を上げてその場に転がった。

「でかした相棒っ」

 それを見た俺は走るのをやめ、ポケットからデジカメを取りだして露わになった犯人の顔を何枚か撮った。汗だくで前髪を張り付かせた顔は存外に若い男のもので、学生くらいに思われた。

 機械音に気付き、血走った目でこちらを睨みながら男はよろよろと身を起こす。再度攻撃しようとする麻耶を振り切って、相手は今までにない俊足で襲いかかってきた。

 その鼻先を、蹴る。

 今度は相手も素手だったので、非常に落ち着いて足が出せた。突如出血を始めた自分の鼻を押さえ、犯人は目を白黒させて退散した。

 黒い影が見えなくなったのを確認し、深く息を吐き、脱力する。握りしめていたカメラをポケットに戻し、俺は背後に捨てられっぱなしだった泉のバッグを拾いにいった。

『すごーい、漫画みたいな回し蹴りだったねー。なに、空手とか習ってたクチ?』

「昔、少しだけな。身を守る力くらいあれば便利だなって、誰でも一度は思うだろう?」

『ははーん、ナイトになるのも大変なワケね』

 したり顔の麻耶を無視し、バッグの中身を確認する。幸い泉の持ち物に破損は見られなかったし、泉と色
しき
、どちらの財布も無事だった。

 ふと思いつき、色の財布の中身を見てみる。残念ながら目当ての物は入っていないようだった。

『こらこら相棒、なーに乙女の秘密を物色してんの!』

「誰が相棒だ」

『由希が自分で言ったんじゃない』

「言ってない」

『言った』

「言ってない」

『つーかアレでしょ? こんな必死になって鞄取り返したのって、色ちゃんの財布が入ってたからでしょ?』

「まさか」

1-4 look away

4.『look away』

 愛用のバッグの破損にいたく立腹していた泉だったが、ひったくり犯の顔の撮影に成功したことを告げると、途端に機嫌を直した。見上げた新聞部根性だ。どうやら被害に対して釣りがくるレベルの特ダネと判断されたらしい。

「この手のネタは一般のメディアより先に出すことに意味がありますからね、早速私は号外の準備をしてきます」

 そう言って、学校に帰るや否や彼女は新聞部の部室の方へ一人駆けていった。何やら俺に用があるなどと言っていたけれど、結局聞かずじまいになってしまった。忘れてしまう程度なのだから、きっと大した用ではなかったのだろう。正直面倒なので、このままなかったことにしてくれると助かるのだが。

 色と二人並んで美術室への階段を上る。自分が財布を忘れたせいで俺たちを危険な目に遭わせたと思っているらしく、色は気持ちが悪いくらいに落ち込んでいた。なんともやりづらい。

「ごめんね」

 部活動が軒並み昼休みに入っているせいか、真昼の校舎は妙に静かで、色の謝罪がやたらとはっきり響いた。さて、これは一体何回目のごめんだったか。この僅か十数分の間に、彼女のごめんはすっかりインフレを起こしてしまっている。

「別にいいって、面倒くさい。謝り過ぎだ」

「だって、花ちゃんなんか、鞄、あんなにされちゃって」

 切羽詰まった、下手をすると泣き出しかねない表情で色は訴える。なまじ泉が怒ったものだから、気にしているのだろう。

「縫ってやれ、どうせ元々手作りだ」

「私裁縫できない」

 くぐもった声が返ってくる。

「家庭科でやったろうが」

「由稀にしてもらった」

「あぁ、そうだったかな」

 我ながら、ずいぶんと甘やかしたものだ。もっとも、左右あわせて六本以上も指を刺してしまうような色だから、誰かが代わってやるほか仕方なかったのだけれど。
 最初は普通に遠くの席で頑張っていたくせに、気がつくとすぐ隣でグズグズ言いながら絆創膏など巻いているのである。自分は優しい人間ではないけれど、それでもあの色を助けずにいられるほど薄情ではなかった。

『また由稀が縫ってあげたら?』

 ふさぎ込む一方の色を見かねたらしく、麻耶が助け舟を出してきた。確かに、このままでは埒があかないだろう。じゃあもう俺が縫ってやるから、ちゃんとしてやるから、だから元気出せと、言ってしまえば、きっとこの場は丸く収まる。だが、それでいいのだろうか?

「せっかくの機会だ、自分で縫ってみろよ」

 告げて、美術室のドアを引く。立て付けの悪いドアはやたらと大きな音をたてて、俺の体を強張らせた。色は一歩遅れている。立ちすくんでいる気配が分かる。後ろから何やら麻耶が罵声を飛ばしていたが、気づかぬふりを決め込んで中に入った。

 むせ返るような画材のにおいに目を細める。

 室内では、一人の男子生徒が椅子に腰掛けカンバスに向かっていた。あのサイズはF80号くらいだろうか。S120号(約二メートル四方)はある色の『八月』に比べれば幾分小さいが、縦一メートル半ほどの割と大きめの作品だった。

「お帰りなさい、園村さん。画材は?」

 男子生徒はゆったりとした動作でこちらを振り向き尋ねた。ボサボサの頭で、たれ目で、鼻が少し大きい。よく見る顔なのだが、名前は思い出せなかった。確か、ここしばらくは部活を休んでいたはずだ。この部屋で会うのも久しぶりになる。

「いっぱい買い溜めしたから、お店の人が夕方運び込んどいてくれるってさ」

 ぱっと両手をひらきながら低く答えると、色は奥にある自分のスペースに消えた。
 今この瞬間になって俺は、先程ドアの前で色を振り返らなかったことを悔やんだ。彼女はどんな表情をしていただろうか。その意志を、感情の揺れを、俺はちゃんと向き合って、汲み取ってやるべきではなかったか。
 二人の関係において、小さな、けれど決定的な一つの選択が、過ぎ去ってしまった気がした。

「ああ、ちょっと色々あってな。泉とは途中で別れた」

 視線を注がれていることに気がつき、補足を入れてやる。男子生徒は浅く頷き、すぐまたカンバスに向き直った。

 今更考えても、遅いか。

 もともと俺は色に会いに来たわけだが、さてこれからどうしたものだろう。どうも微妙な雰囲気になってしまった。今日はもう、これ以上シキの傍にはいられない。
 麻耶の顔色でも伺ってみるかと背後を見やると、彼女は小さく口を開き、呆然とした様子でただ一点、男子生徒の背中を凝視していた。

『ヤスヒロ』

 本当に無意識だったのだろう。その名を呟いた麻耶は、自分の口からこぼれ落ちた言葉に自分でハッとしたらしく、口元に手を当て、困ったように俺の方を見た。

 そうだ、ヤスヒロだ。彼は確か菊池康浩
きくちやすひろ
という名前だった。歳は俺たちの一つ下で一年生。新入生の割に筋がよく、色もよく目をかけていたので、なんとか覚えていることができた。物静かな一方、肝のすわったところがあって、愛想の無い俺にも自然に口をきいた。

 そっと歩み寄り、菊池の作品を見る。今はちょうど、ローシェンナで下地を塗り終えたあたりだった。ぱっと見ただの茶色い板である。だが、目を凝らすとジェッソで作ったマチェール(材質感、でこぼこ)がぼんやりとわかった。その輪郭に、俺は一つの仮説を立てる。

「これ、モチーフは? 写真とか見ないのか」

「記憶していますから」

 突然声をかけたにもかかわらず、菊池は驚いた風もなく、落ち着いた声で答えた。視線はカンバスから逸らさない。

『由稀、もう帰ろ』

 彼の返答と態度からある確信を得た俺だったが、麻耶の一声を聞き、これ以上追求することを控えた。彼女の声が、怯える子どものような震え方をしていたからだ。

 麻耶は既にこの世の人ではない。最初からわかっていたはずのその事実を、ようやくこの時、俺は正しく認識した。彼女は恐れているのだろう。何も届けられない自分を。何も届けられない自分を痛感することを。

 けれど、と俺は思う。せめて、抱きしめるくらいのことはすればいいのに。菊池はその感触を正しくできないかもしれないけれどそれでも。俺のために料理を作り、泉や色のためにひったくりを掴んだ、白く、まだかろうじてこの世と繋がっているその手で、どうして。

 目眩のような感覚がして、俺は思考を止める。ひとまず部屋を出よう。

 去り際、もう一度菊池の作品を見る。作者の熱意にもよるが、明日の夕方にはある程度の描き込みが済んでいるだろうと予想した。

1-5 look hard

5.『look hard』

『本当はさ、趣味なんて全然合わなかったんだよ』

 時刻は夜の九時。あの後家に帰った俺は、当たり障りなく時間をつぶし、夕食をとり、風呂に入った。その間、そして、部屋で読書をしている今まで、ずっと麻耶は黙っていた。彼女にしろ色にしろ、日頃騒がしい相手に大人しくなられるとどうにも調子が狂う。ようやく口を開いてくれて正直ほっとした。

「菊池のことか?」
『うん。やっぱ変だよね、あの子みたいな芸術家気質の人間と、私みたいな体育会系が付き合うなんてさ』

 どうもお気に入りの体勢らしく、麻耶はベッドの上に正座している。俯きがちに話す姿が儚い。デスクに座っていた俺は、読んでいた本をチェストの引き出しに放り込みながら、知らん、と答えた。以前はからかったりもしたが、正直そんなのは当人たちの勝手だ。

 俺の返答に何を思ったのか、麻耶はすっと顔を上げ、まっすぐこちらを見た。たっぷり一分は見つめ合っただろうか。いい加減息苦しくなってきた頃、彼女は突然へらりと相好を崩した。

『実はさー、あんまり好きでもなかったんだよねー』

 あっけらかんと笑う。静かに聞いてやろうと思い、眉だけ軽く動かし、先を促した。

『一度も話したことなかったのに、いきなり、告白されちゃってさ。なんとなくで、OKしちゃったわけ』

 芝居がかった仕草で右手を胸に当て、顎を持ち上げ気味に目を閉じる。ああなんてことでしょう、という意味のジェスチャーだ、おそらく。

『いつもかなり気をつかってくれてたから、別に不満があったわけではないんだけどね。ただ、話も弾まないし、やりたいことも違うし、この子、一体私の何がそんなに気に入ったんだろうって、ずっと思ってた』

 ひょっとしてこの美脚かな? などとおどけて、麻耶は足を伸ばす。残念ながら美脚なんてどこにも見当たらない。彼女は俺のさめた反応に一瞬口を尖らせたが、またすぐ軽く微笑んだ。

『そうすると、好きでもないのにつき合ってることが、なんだか申し訳なくなってね。いつかスッキリさせなきゃ、ちゃんと話して、終わらせなきゃって思ってて』

 そこで麻耶は俺から目を逸らし、しばし救いを求めるように視線をさまよわせた。結局何も見つけられなかった彼女は、諦めたように目を伏し、スカートの裾を握りしめた。

『でも、死んじゃった』

 柳眉を寄せ、唇に笑みを乗せる。なんて下手な笑い方をするんだと呆れた。

 時計を見る。九時十五分。風呂に入るのが早すぎたことを小さく後悔した。

「学校行くぞ」

 ベッドに近づく。手を引こうとして、躊躇った。麻耶は戸惑った表情でこちらを見上げている。ほの赤い瞳を直視するのが辛い。彼女はベッドの縁に体をずらすと、半端に差し出された俺の手にそっと自分の手を添えた。

 それはまるで、神聖な儀式のようだった。

 互いの手が決してすり抜けることのないように、ゆっくり、本当にゆっくり、引いて、引かれて、立ち上がる。二人以外のすべてが恭しく鳴りをひそめていて、ただこのひと時、きっと夜さえも止まっていた。そういう、似合いもしない錯覚が、確かにあった。

「あんたがそんなだと、困るんだよ」

 体を離し、部屋を、そして家を飛び出す。走れば三十分までには着けるだろうと計算した。

『ねぇ、急にどうしたの?』

 夜道を駆けながら麻耶が問う。軽く混乱している様だった。

「美術室に行く」
『もう閉まってるよ』
「適当に忍び込む」
『セコム知ってますか!?』

 何故か敬語の叫び声を黙殺し、校門をくぐる。美術室に明かりがついているのが見えて、走るのをやめた。色だろうか。忍び込むは冗談にしても、誰か一人ぐらい鍵を貸してくれる教師が残っているだろう、程度にしか考えていなかったので、好都合だ。
 呼吸を整えながら階段を上る。麻耶は静かだった。夜の校舎に響く自分の足音を確かめながら、自分は何をやっているのだろう、と思った。馬鹿なことをしている自覚はある。だが、麻耶はもう、十分に手遅れなのだ。彼女はこれ以上、躊躇ったり、先送りにしたりするべきではない気がしていた。
 どういう因果か知らないが、俺とともに過ごすことになった残り僅かな時間。それを彼女にとって、何かを諦めるためだけの時間には、したくなかった。

 美術室には、菊池が一人で居残っていた。彼は俺の方を振り返ると、軽く会釈をした。

「精が出るな」

 菊池は返事をしない。カンバスは今、その八割ほどをパールホワイトで塗り込められていた。昼間見た時よりも、幾分輪郭がしっかりしている。おそらくそろそろ本格的な描き込みだろう。

「竹中先輩、麻耶さんのこと、ご存知だったんですね」

 菊池は筆に絵の具をつけながら無表情で言った。背後で麻耶が息をのんだ。

「どうして?」
「昼間、マチェール見ただけで、僕が何を描いてるのか、わかったみたいでしたから」

 淡々と告げると、背を向け、カンバスに色を乗せる。そういう姿だよ、と俺は思った。この世のことなんてもうどうでもいい、とでも言いたげなぞんざいな在り方が、曖昧なマチェールなんかよりも余程多くを物語っていた。一挙手一投足が、一番大事なものをなくしてしまった人間の仕草だった。

「付き合っていたと知ったのは、極めて最近のことだけどな」
「本当は、趣味なんて、全然合わなかったんです。なんでOKしてくれたのか、不思議なくらい」

 手を動かし続けながら菊池は言った。

「絵の具を乾かしている間、窓からグラウンドを眺めるのが好きでした。麻耶さんは、いつも、誰よりも一生懸命に走っていました。その姿がとても綺麗で、あんまり綺麗だったから、つい、手を伸ばしてみたくなったんです。届くのかなって、試してみたくなったんです」

『康浩』

 麻耶が呟く。慈愛に満ちた響きだった。

「多分麻耶さんは、あまり僕のことが好きではありませんでした。これで結構、鋭いんですよ、僕。本当に、ただ、付き合ってくれてるだけって、感じでした」

 自嘲気味に笑う菊池。やっと、感情らしい感情が覗いた。

「謝らなければいけないって、ずっと、思っていました」

 筆の背中で頭をかき、彼は言った。

「やっぱり、遠かったですね」

 俺は、振り返って麻耶の表情を確かめようとした自分を、慌てて抑え込んだ。それはきっと、この世でただ一人しか見ることが許されないもののはずだった。

「しばらく、眺めてる」

 俺の申し出に菊池は初めて筆を止め、こちらを振り向こうとしたが、途中でカンバスに向き直り、どうぞ、とだけ応えた。

 十分、二十分が過ぎ、だんだんと絵の輪郭がハッキリしてゆくに連れて、麻耶は吸い寄せられるように菊池に近づいていった。一時間が過ぎ、素人目にも何がモチーフかわかるほどになった頃、とうとう彼女は目元に手を当てた。

『これ、私?』

 菊池のすぐ左横に佇み、麻耶は訊いた。俺は内心でだけ首肯する。カンバスには、駆け抜ける陸上少女の姿が確かに描かれつつあった。

 その後も菊池の筆は止まらず、俺はぼんやりと、神様ってやつがいるとしたら、そいつは存外優しいのかもしれないと感じていた。

 麻耶は相変わらず菊池の隣に立ち、何度か目元を拭いながら彼とカンバスを見つめていた。一方菊池は、一心不乱に絵を描きながら、時々、確かめるように自分の左側へ視線を向けた。

 奇跡だとか、彼女の涙の行方だとか、そういう繊細なことに、俺は考えを巡らせることにした。

『ねぇ、由稀』

 不意に名を呼ばれる。

『絵ってさぁ、描き終わったら、もうそれっきりだよね』

 麻耶はくしゃりと微笑む。

『これが出来上がったら、私のこと、ちゃんと、過去になってるよね』

 それは芸術という分野から遠い人間の考え方だと思った。画家たちは、自分が描く一作一作に万感の思いを込める。過去になどなろうはずがない。
 しかし、俺は何も口にはしなかった。儚げに薄らいでいく彼女の輪郭をこの世に留める資格など、持ち合わせてはいなかったからだ。

『綺麗に描いてくれたら、嬉しいな』

 優しい祈りが聴こえた。

 こいつは今でもこうやって、筆を動かし、色を尽くし、必死にあんたに手を伸ばしてるんだよ。そんな言葉を、俺はぐっと飲み込んだ。

1-6 entrust to

6.『entrust to』

 指を三本突きつけられた。かなり顔に近い。

「なんだよ」

 朝食のベーコンエッグを口に運びながら、俺は可能な限り不機嫌そうな顔を作ってみせた。しかし麻耶は俺の表情になぜかにんまりとし、一向に指を引く気配がない。わざわざテーブルの向かい側から身を乗り出して来て、行儀の悪いヤツである。

『私ね、決めたの』
「なにを」
『由稀に思いっきり甘えようって』
「迷惑だ、考え直せ」

 即答しても笑みを深めるばかり。豆腐に鎹というやつか。いつから俺たちの関係は、こんなものになってしまったのだろう。もっと他人行儀というか、一定の距離を保った関係を望んでいたはずである。そういう牽制はして来たはずだ。

『私ね、自分で言うのもなんだけど、かなり幸せ者なのよ』

 幽霊豆腐女はこちらに構わず話し続ける。何を喋ろうが勝手だが、とりあえず指を引いては貰えないだろうか。とびきり邪魔だ。

『最後の総体だってベストの走りできたしさ、模試の点だってあがってたし、友達みんな良い子だし、先生面白いし、とにかく、毎日が大満足で、足りないものなんて、ほとんど何もなかったわけ』

「それで、この世に未練があるとしても、たったの三つだけってことか」

 早く指をどけて欲しかったため、不本意ながら話に乗ってやる。何かを顔に突きつけられると、無駄に背筋が伸びてしまって、なんだか疲れるのだ。どういう根拠で三つと確信しているのか甚だ疑問だったが、きっと本人だって大した理屈は持っていないだろう。
 麻耶は満足げに頷くと、三本立てていた指をひとつ折り曲げた。

『そう、それも、由稀のおかげであと二つになりました』
「そりゃおめでとう」

 努めて素っ気なく返す。あまり聞きたい話ではなかった。ありがとうと笑み、麻耶はようやく身を引いてくれた。これで気兼ねなく食事ができる。第二波がこないうちに急いで卵とパンを詰め込んだ。

 結局、昨夜麻耶は指一本菊池に触れなかった。それで満足した。好きではないと言っていたが、少なくとも大事な相手だったはずだ。なのに彼女は、彼の中で自分が綺麗に処理されたのを見届けただけで満足し、完結させた。
 なら、あの不器用な笑みや、切なげな伏し目は、一体どうなってしまったのだろう。麻耶本人にさえ顧みられないそれらは、誰にも掬い上げられることなく、掬い上げようとされることもなく、消えてしまったのだろうか。本当に、それでよかったのだろうか。

 加えて、幸せだったから、ほとんど未練がない、である。呆れを通り越して腹が立つ。初めからおかしいと思っていたのだ。こんなの、あまりにも―-。

 そこで俺は、意図的に思考をやめた。最近どうも、頭の中が女々しく感情的で嫌になる。彼女の在り方について俺がどうこう考えても仕方がない。本人が選んだようにすればよいのだ。


 その後も彼女は色々と話していたが、要約すれば、俺と一緒にいるのも慣れて来たので、そろそろ本腰入れて未練を晴らしにかかりたい、ということらしかった。

 毒を食らわば皿までで、最後まで協力してやる覚悟は、実はもうできている。関係の変化に驚いてはいるけれど、拒んでいるわけではない。反射的(時には意図的)に拒絶的な台詞を吐いてしまうのは、癖であり、言ってしまえば単なるアイデンティティの防衛だ。

「それで、後の二つってなんだよ」

 食器を流しへ運び、蛇口をひねる。冷たい流水が心地よかった。

『んー、一つはわからない』

 間延びした声で答える麻耶。俺は洗っていた皿を落としそうになった。

「どういうことだよ」
『多分一つは、なんで私が由稀と一緒にいるのか、って部分に関わるんだと思う』

 最初に抱いた疑問は未だに消えないわけだ。考えてみれば当然の話で、俺たちの間に何の因果もないならば、麻耶は素直に菊池あたりに憑いていればよかったのだ。ただ、麻耶の生前、二人の間に関係性など皆無だったこともまた、少し考えれば明らかだった。

「まぁ、そっちはいいさ。もう一つは?」
『自覚してるよ』

 明るい返答に、それなら話は早いと言いかけた瞬間、インターホンが鳴った。例のごとく両親はいない。時刻は朝八時過ぎ。家に突然の訪問など大抵がセールスか町内会絡みなので居留守を使いたかったが、麻耶に急かされたので、食器を片付け、渋々玄関へ向かった。

 ドアを開けると、そこには制服姿の泉が立っていた。

「来ちゃった」

 後ろで手を組み、上目遣いに彼女は言った。俺はドアを閉めた。

「ちょ、なんで閉めるんですか! 開けてください! 竹中さん!」
「帰れ!」

 騒ぎ立てる泉に叫び返し、急いで鍵とチェーンをかける。迂闊だった。なぜ落ち着いて覗き穴を見る余裕が、数秒前の自分にはなかったのだろう。

「昨日、頼み事し忘れてもぅたんですってば!」
「写真なら自分で撮れ。面倒だ」
「話だけでも聞いてくださいよ! 犬伏さんっていう先日亡くなった生徒さんについてなんです!」

 そこで俺と麻耶は顔を見合わせた。数秒のにらみ合いの後、俺はため息をついてロックを外した。

「お前、最近俺に対して遠慮がなくなってないか?」
「えー、そんなことないですよぅ」

 にっこり笑って首を傾げる泉。なぜ俺の周りはこんな女性ばかりなのだろうか。朝からどっと疲れがたまった気がした。

1-7 embrace closely

7.『embrace closely』

 商店街を抜け、国道沿いに北へ歩く。広めの歩道には自転車に乗った学生が行き交っていた。午前中から活発なことである。個人的には、夏の日差しなんてあまり浴びたくはない。
 俺と麻耶は犬伏家、つまりは麻耶の家に向かっていた。


「学校の仲間が亡くなったってゆうのに、それをあっさり流してしまうんは、ダメな気がしてまして」

 朝っぱらから我が家のリビングに乗り込んで来てテーブルについた泉は、予想よりも遥かに真剣に用件を語った。別に騒ぎたてたいわけではなくて、ただ、新聞部として全校にこの悲しい事実を伝えて、皆で悼む機会を作りたいのだそうだ。

「今日の昼前に、ちゃんとアポも取ってるんです」
「周到だな。でも写真だけ撮っても仕方ないだろ。御遺族にインタビューとかしたいなら、結局お前が自分で行くしかない」
「いや、お話は、アポの電話をしたときに、もう伺ったんです。それで、私、その、心折れてもうて、顔合わせてもうたら、仕事できる自信なくて」

 申し訳なさそうに俯く泉。もともと小さい体がさらに縮こまっていた。

「じゃあ俺は、遺影でも抱いて一枚撮らせてください、の一言のためだけに娘を亡くされた人のところへ行くのか? あのな、確かに俺は冷血な人でなしかも知れんが、それと面の皮が厚いのとは……」
『行こう』

 まるで遊園地にでも誘うような、明朗な声が、背後から突き刺さる。危うく振り返りそうになり、俺は反射的に言葉を止め、身を強張らせた。

 笑っているのだろうか、彼女は、今。笑えてしまっているのだろうか。

『行こう、由稀。お願い』

「……ああ、もう。わかったさ」

 脱力しながら頷く。泉が無言で目を見開いた。どいつもこいつも人の気も知らないでと毒づきたいところだが、仕方ない。麻耶の助けになると決めたのだから。泉の提案は、いっそ好都合なくらいだった。


 麻耶の道案内に従い、住宅街へ入る。喧噪が遠ざかり、代わりに掃除機やテレビなどのささやかな生活音が漏れ聴こえてくるようになった。
 傍らの幽霊の表情は明るい。家族について彼女の中でどういう処理がなされているのか、俺は考えを巡らせていた。
 もしも会いたいのならば、もっと早く、何よりも先に言い出したはずだ。もう、二度と顔を合わせることすらできなくなるところだったのだ。幽霊としての時間すら限りあるのならば、残された時間すべてを家族と過ごしたいと思っても不思議はない。
 なのに、麻耶はそれをしなかった。
 恋人にも、家族にも、会いたいと口にせず。それを未練と自覚していながら、ただ漫然と俺との日々を過ごして。それでよかったのか、彼女は。

――諦めるための時間をくれるんじゃないかな。

 ため息が出る。なんて馬鹿なヤツ。自分勝手で、個人主義で。

「むかつく」
『え?』

 麻耶が首を傾げたが無視する。もういい。どういう心境の変化かはわからないが、今は自分から行こうと言いだすようになったのだ。

「俺の両親は、駆け落ちして一緒になったんだ」
『もう、さっきから突然なに?』

 呆れたように笑う麻耶。

「親父はもともとひとりぼっちの売れない芸術家で、良家のお嬢様だった母さんは家族の反対を押し切って結婚した。多分勘当されたんだろうな。新婚時代は滅茶苦茶貧乏だったらしい。母さんの昔の持ち物を売ってなんとか食いつないで、そんな中俺が産まれて、さてどうしたものかとなった時に、運良く親父が一山あてた。あ、どっち?」

 T字路にさしかかり尋ねる。麻耶は慌てて右を指差した。

「小さい頃、何枚か絵を見せてもらったことがあるけど、うちの親父に芸術の才能はなかったな。ただ、幸か不幸か商才はあったらしく、美術商として成功した。おかげで一気に生活が楽になったな。小金が貯まった頃、母さんの実家からよりを戻そうって提案が来たらしいけど、まぁ二人とも意地があったんだろ、きっぱり断って、それからは世界中の金持ちを見返してやるんだって勢いで働きだした」

 右折した先は細い路地だった。人通りはない。長々と独り言を呟く姿など見られるわけにはいかないので助かった。

「俺が小学生になる頃には両親はほとんど家に帰らなくなった。折よく俺の方も色の家に入り浸るようになったから、各々色々と都合は良かった。うちの両親は色の才能に惚れてたし、向こうの親も、問題児の数少ない友人ってことで、俺にはよくしてくれてた」
『あー、確かに、言われてみれば由稀のご両親はあんまり見ないかも。でも、あれだね、なんか運命的だね』
「あ? なにが」
『だってほら、由稀の家とご縁があれば、色ちゃんは将来画家として生きる時に便利でしょう? もしも由稀がご両親の仕事を継げば、二人はパートナーとしてぴったりじゃない』

 確かに、画家が画家として生きる上で才能の次に重要なのが商業的なパートナーだ。時には、後者の影響力が前者を上回ることすらある。実際、両家の判断で、今まで描いた色の作品はすべて我が家にストックされている。彼女が十八歳になったら売りに出すという約束だ。特例的に、収入の殆どは園村家に還元される。それでも十分、こちらには得な商談だった。色の作品を独占できることの価値は計り知れない。既に一年後の予約が多数寄せられている。宣伝効果も尋常ではないだろう。だが。

「俺はあまり、あいつを金の世界に巻き込みたくない」
『……そう』

 頷く麻耶は妙に優しい顔をしていて、俺は猛烈に気恥ずかしくなった。頭をかき、目一杯不機嫌そうな顔を作る。

「ほら、次は、あんたの番だぞ」
『え?』
「家族の話だ」

 そこで麻耶はふっと吹き出し、芝居がかった仕草で口元と腹を手で押さえ笑った。腹筋に力が入るのを俺は自覚した。

『由稀はさぁ、器用な不器用さんだよね』
「うるさい」

 努めて低く唸る。仕方ないだろう。死別した家族のことをストレートに尋ねられるほど俺は無神経ではない。

『うちはねー、いわゆる母子家庭ってやつ』

 ひとしきり笑ってから麻耶は話しだす。

『お母さんは十九の時に一人で私を産んで、それからもずっと一人で私を育ててくれた。親戚がいないって点では、由稀のところと同じかな』

 路地を抜けると川沿いの道に出た。横一線に並んでいるのは緑茂らす桜並木だ。春には散った花びらが川に流れ、さぞ綺麗なことだろう。
 あとはずっとまっすぐ。麻耶は上流を指差し先を歩いた。

「それだけか?」
『え?』
「家族の話」

 麻耶は困ったように腕組みをし、空を見上げた。

『そーだなー。まだ若いし、母さんは私に似て美人で美脚だよ』

 ん? 逆かな? などと言っておどける。俺は目を細め、段々とこの幽霊の嘘やごまかしを見破れるようになってきた自分に感心した。

「そうじゃない。会ってどうするつもりなんだ、これから。」
『どうって言われてもなぁ、向こうは私が見えないわけだし、どうしようもないよ。一方的に、最後に一目会っておくだけ』

 彼女はこちらを向かず前に進みながらヘラリと笑った。怒鳴り散らしたい衝動を抑え、俺はゆっくり立ち止まる。麻耶は少ししてからそれに気付き、いぶかしげな表情で振り返った。

「麻耶、今度こそ、ちゃんと母親に触れろ。向こうはその感触が理解できないだろうけど、構うもんか、抱きついとけ。菊池の時は我慢したが、もう限界だ。あんたは俺に朝飯を作ったりひったくりを捕まえたりするために幽霊になったわけじゃない。そうだろ?」

 可能な限り静かな声で、溜め込んでいた怒りをぶつける。偶然すれ違った人々の視線など知ったことか。
 麻耶はしばらく無表情でじっと立ち尽くしていたが、やがてふわりと微笑んでみせた。
 その笑顔のあまりの凄まじさに、俺はぞっとする。まるで彼女が遥か彼方にいるような、そんな錯覚を抱いた。

『優しいね、由稀は』

 気がつくと、俺は麻耶に抱きしめられていた。だが、何の感触もない。肩に乗せられた頭や、回された腕は見えるというのに、触覚は目の前の事実を否定している。

「あんた、まさかもう」
『貧乏っぷりなら、うちは多分昔の由稀の家にも負けてないよ。お母さん、私を育てるために、二十歳の頃からずーっと苦労してさ。自分は全然贅沢しないで。まだ若いのに結婚もしないで。……だからね、これからは自分の幸せのために生きてって、それだけ伝えて?』

 耳元で、麻耶はそっと囁いた。

1-8 for separation

8.『for separation』


 ほっそりとした顎のラインが娘とよく似た、優しげな美人だった。麻耶が髪を切り、歳を取ったら、きっとこんな感じになるのだろう、と思われた。アイボリーのサマーセーターにグレーのロングスカートを合わせており、残念ながら美脚を確認することは出来なかった。本人は名乗らなかったが、真紀子という名前なのだと、こっそり麻耶が耳打ちしてくれた。
 泉が余程上手く話を通しておいてくれたらしく、真紀子さんは初対面の俺を快く迎えてくれた。客間に通されるか、最悪玄関先で応対されるものと思っていたのに、案内されたのは麻耶の使っていた部屋だった。

「狭い家で、ごめんなさいね。あまり、ちゃんとした客間というのがなくて」

 申し訳なさそうにする真紀子さんに、逆に詫びる。ありがたいくらいですとフォローした。子を亡くした親の心理なんて推し量ることもできないが、その子の部屋を、気安く他人に見せてもいいとは思わないだろう。
 麻耶の部屋は、彼女の死んだ日からそのままにしてある様子だった。ベッドの上に脱ぎ捨てられた寝間着や、勉強机に詰まれた教科書が、生活感を色濃く残している。この部屋の主はついさっき元気に飛び出していったばかりなのだと言われても、違和感が無い。

「なんだか、まだ片付ける気になれなくて。散らかってますけれど」

 断りを入れつつ、真紀子さんはラグの上の薄いクッションの一つを手で示し、座るように促した。配慮に甘えて腰を下ろした俺は、部屋を見回す振りをして、こっそり麻耶の表情を窺った。彼女は、卒業式の日の三年生が校舎を望む時のような表情で、目を細めて、在りし日の自室を眺めていた。

 麦茶を持ってきてくれた真紀子さんは、コップを手渡すと、俺の正面に静かに正座した。彼女のどこか戸惑った顔は、進行の一切を俺に任せると言っていた。仕方なく俺は、慣れないながらも型通りのお悔やみを述べた。真紀子さんが、その一言一言に丁寧に応える。写真撮影を失礼無く切り出すにはまだ早いと感じ、もう少し前置きを添えることにする。

「新聞や、写真の件、不躾なお願いにも関わらず、引き受けて頂きありがとうございました」
「いえいえ、そんな。最近の高校生の子って、しっかりしてるんですね」

 意を汲みかねた俺に気付いたのだろう、真紀子さんは薄く微笑み補足した。

「学校の仲間をみんなで悼もうだなんて、立派なことだと思います。新聞部の方は、泉さん、でしたね? 麻耶とは面識もないそうなのに、とても誠実なお電話をいただきました」

 そこで真紀子さんは言葉を止め、何かを思い出すように目を閉じた。辛い電話だったと、泉は言っていた。情に素直なところのある彼女だから、きっと涙ながらの会話がなされたに違いない。

「えっと、それで、竹中さんも、麻耶とは?」

 やがて話を再開した真紀子さんは、俺も泉と同じく麻耶のことを知らないのかと尋ねた。生前の麻耶とは一度も話したことが無いが、彼女のことは嫌という程知っているつもりだ。少し迷って、首を横に振った。

「麻耶さんとは、親しくさせてもらっていました。その、告別式など、顔を出せず申し訳ありませんでした」

 嘘を誤摩化す為にとって付けた謝罪など気にもせず、真紀子さんは晴れやかな表情で目を見開いた。

「ああ、そうだったんですね。麻耶がお世話になりました」

 忙しく何度か顔を手で覆った彼女は、うれしいです、と口に出して言った。

「時々、その、誰かと娘の話をしたい気持ちになるんです。凄く。でも、身内が無いものですから、誰も……。式には、娘のお友達が沢山来てくれましたけれど、こちらから連絡するわけにもいきませんものね」

 恥ずかしそうに苦笑する真紀子さん。そういう人なんだな、と俺は思った。そうやって心の整理をしていく人なのだ。そしてだからこそ、まだ麻耶の部屋を片付けられずにいるのだろう。

「麻耶は、どんな子だったでしょう。ご迷惑は、おかけしませんでしたか?」

 問われて、反射的に麻耶を探した。俺の左後ろに立っていた彼女は、明るすぎるくらい朗らかな笑顔で頷いてみせた。胸の内からこみ上げてきた言葉を、俺はこらえることが出来なかった。

「腹の立つ人でした」

 麻耶の表情が翳る。振り返ると、真紀子さんも驚いた顔で眉を寄せていた。

「今ある幸せに満足してしまう人で。自分より周りのことをいつも優先して、他人の心配ばかりしていました。そういうところが、むかつきました。俺は多分、彼女にもっと……」

 不思議に、湧き出る声は淡々としていた。いつの間にか、真紀子さんは酷く深刻な目で俺を見つめていた。

「あなたは、麻耶の」

 首を横に振り、自ら言葉を切った真紀子さんは、すっと立ち上がると、無言で部屋を出て行ってしまった。
 残された俺が戸惑う間もなく、真紀子さんはすぐに戻ってきた。彼女の手には、小さな写真立てが握られていた。中身は、中学校の校門と思われるところに、麻耶と真紀子さんがならんで立っている写真だった。恐らく卒業式の記念写真なのだろう。今より少し幼い麻耶の、はにかんだ笑顔が写っている。やっぱり昔から写真は照れくさかったんだな、とか、二人とも本当に美脚だな、とか、妙に間の抜けた感想が次々と浮かんだ。

「先に済ましてしまいましょう。写真」

 不器用な笑みで真紀子さんは言った。

「泣いてからじゃ、目が腫れてしまいますもの」

 俺は頷いて、バッグから、泉に借りた一眼レフを取り出した。露出などを調整している間に、真紀子さんはぽつりぽつりと、麻耶のことを語ってくれた。

「私には出来過ぎた娘でした。片親で、貧乏で、沢山我慢を強いてきたのに、いつも笑っていて。つい卑屈になってしまう駄目な母親を、なんども励ましてくれて」
「若い頃から苦労して、自分は全然贅沢しないで、大事に育ててもらったって」

 カメラを構え、俺は真紀子さんの自責を遮る。

「これからは自分の幸せの為に生きて欲しいって、彼女は言っていました」

 息をのんだ真紀子さんは、痙攣するように僅かに、口元をあげて見せた。今はそれが精一杯の様子だった。閉じられた瞼から逃げ出すようにして、大粒の涙が二つ流れた。

「困りましたね。泣いてしまう前にって、言ったのに」

 手の甲で目許を拭い、真紀子さんは背筋を伸ばした。彼女が気丈でいられるうちに、俺は写真を五枚だけ撮った。写真立ては、両手で大切に抱えられていた。濡れたまつ毛が、少し揺れていた。
 俺がカメラを置き、お礼を言うと、真紀子さんは糸が切れたようにうなだれ、泣いた。そんな母に寄り添うようにして、麻耶が傍に座った。柳眉が、切なそうに歪んでいた。

「あの日の朝も、そうでした」

 懺悔するように、真紀子さんが漏らす。

「ちょっとしたことで、母親として自信をなくしてしまって。卑屈になる私を、あの子は慰めてくれたのに。それが余計に情けなくて、追い出すように、学校へ送り出して」
『違うの、いいの』

 麻耶は懸命に首を横に振るものの、その声が届くことは無かった。真紀子さんは続ける。

「あれが、最後だったのに。愛してるって、気をつけて帰っておいでって、言ってあげなきゃいけなかったのに。酷いことばかり言って、私は……」
『いいよ。気にしてないよ、そんなの。全然、全然だよ』

 空回る懺悔と許しに、俺は唇を噛む。ひとしきり泣いてから、取り乱して申し訳ないと、真紀子さんは詫びた。我慢できなくなり、口を開く。

「違うの、いいの。いいよ。気にしてないよ、そんなの。全然、全然だよ」
『ちょっと、由稀、どうしたの?』

 真紀子さんも、麻耶も、唖然としていた。最初の一言だけなら、俺自身の返答としても、ギリギリ通用しそうだった。迷いを振り切って、続ける。

「ちょっと、由稀、どうしたの?」
『馬鹿、やめなよ由稀、いいって』
「馬鹿、やめなよ由稀、いいって」
『やめてよ。お願い。もういいんだって』
「やめてよ。お願い。もういいんだって」
「竹中さん?」

 訝る真紀子さんを無視して、俺は麻耶をじっと見つめた。そこに確かに一人の少女が存在するのだと、気付いて欲しかった。

『私だって、本当は、ずっと……』

 肩を落とし、観念したかに見えた麻耶だったが、途中で言葉を飲み込み、やっぱり駄目だとばかりに唇を噛んだ。

「私だって、本当は、ずっと一緒に生きていたかった」

 構わずに、言い切る。真紀子さんは目を見開き、麻耶は、へたくそな微笑を隠すように、両手で顔を覆った。

 麻耶が、菊池や真紀子さんをわざと避けていた理由も、今なら多分わかる。情が移ってしまうのを恐れていたのだろう。彼女はきっと、自分はちゃんと消えなければならないと信じていた。

『ごめんなさい。一緒に生きてあげられなくてごめんなさい』
「ごめんなさい。一緒に生きてあげられなくてごめんなさい」

 言い募る麻耶の台詞を残さず繰り返す。真紀子さんは、俺の声に黙って耳を傾けていた。体は気持ち右向きで、涙を流れるに任せて。

『二人っきりだったのに、一人にしてごめんなさい。幸せだったのに、愛してくれたのに』
「二人っきりだったのに、一人にしてごめんなさい。幸せだったのに、愛してくれたのに」

 どうか悲しまないで欲しい、悔やまないで欲しい、と。麻耶は、愛する人たちが自分の死をちゃんと乗り越えてくれるか心配していた。それが死して後強く残る懸念であり、未練だった。正しいさよならをする為に、彼女は現世に留まっていた。

『不満なんて、一つもなかったよ』

『鍵っ子でも良かった』

『貧乏でも良かった』

『母さんさえいてくれれば、それで』

 それ以上は望まないと、思う気持ちに嘘は無かったはずだ。彼女は、それが出来る人間だった。幸せだったからもういいんだと、きっと、心の底から。

『母さんのお下がりの服、好きだったよ。大人っぽいって褒められて、誇らしかった』

『料理を覚えるのも楽しかった。母さんいつも喜んでくれたし、意外と家庭的って、みんなに驚かれるのも、くすぐったくて』

『素直でいようって、思ったよ。幸せなんだって、伝わるように、いつも明るく、笑っていようって』

 だから、恐れていたのは、自分の心変わりだけだ。もしも麻耶が、もう少しだけ一緒にいたいと求めてしまったら、菊池や真紀子さんの心は、もっと痛んだだろう。話せたとしても、触れられたとしても、それらはみな、来るべき二度目の別れを辛くする。
 そうしてしまいたい気持ちも、少しはあったに違いない。けれど麻耶は、諦めようと心に決めていた。一緒に生きてゆけないのなら、いっそ、すべてを。

『今までありがとう。母さんの娘で、良かった。だから、ね、どうか』

 続く願いを秘めたまま、それっきり、麻耶は黙ってしまった。瞳を閉じて、俯き、二度と口を開く気配がない。今のが、彼女の選ぶ最後の言葉だったのだ。

「もう一枚だけ、写真を撮りましょう」

 区切るように咳払いして、提案する。麻耶と真紀子さんは、二人そっくりに、薄い、不器用な微笑を浮かべて、俺の方を見た。どちらも頷きはしなかった。代わりに、そっと、居住まいを正した。写真立てを床に伏せた真紀子さんは、娘のいる方に、少しだけ首を傾げる。

「私も……。私も」

 別れを躊躇うように、真紀子さんが繰り返す。消え入りそうな、微かな声だった。麻耶は唇を噛んで、ぎゅっと、スカートを握りしめた。

「笑ってください」

 カメラを構え、俺は言った。次にファインダーから顔を上げたとき、麻耶はもうそこにはいないかも知れない。そんな恐怖に怯えながら、震える指でシャッターを切った。それは、別離の為にどうしても必要な通過儀礼だった。



第一章「別離へのイニシエーション」終わり

Missing 第一章

Missing 第一章

幽霊女子高生と、無愛想男子と、その幼なじみの天才少女の話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 別離へのイニシエーション 1-1 for ages
  2. 1-2 see to it that
  3. 1-3 run a risk
  4. 1-4 look away
  5. 1-5 look hard
  6. 1-6 entrust to
  7. 1-7 embrace closely
  8. 1-8 for separation