雨夜
1.秋雨
どこからでもいい
どこへでもいい
きっと
連れ出してほしい二人だった
森博嗣『魔的』より
1.秋雨
千秋は雨が怖かった。視界のすべてを覆い尽くす雨は、あらゆる物を滲ませ、隠し、彼女から遠ざける気がした。人は揺らぎ、空気はくすみ、香りは薄れ、世界が千秋一人を残して淡く霞む。その寂しさが、千秋には耐え難かった。
その夜、千秋は精神科医師の新海を捜していた。彼女は元々悪戯好きで、夜になるとしょっちゅう病室を抜け出す。そうして、しばらく散歩を楽しんだ後決まって会いに行くのが、院内で一番親しい新海だった。
新海には妻も子もない。家に帰る必要性の希薄な彼は、よく病院で寝泊まりをしていた。仮眠室の不在を確認し、休憩室を覗いてから、千秋は彼はいつもの場所にいると予想し、少し憂鬱になった。今夜は雨夜だったからだ。
エレベータで最上階まで行き、最後の一階分は階段を上る。案の定、屋上への扉は鍵が開いていた。原則立ち入り禁止なこの場所の鍵は、新海だけが所持している。小さな溜息の後、意を決して、千秋は扉を押した。
屋上は、夜の闇と冷たい秋雨に閉ざされていた。一歩足を踏み出した途端、千秋は猛然と心細くなって、ああやはり自分は雨はダメだと、今更のように確信した。
そこはもう、「雨」という世界だった。途切れることを知らない雨音は千秋の耳を独占し、冷たい滴は気温さえも誤魔化す。仄かな香りは穏やかに排他的で、視界には白く靄がかかり、重苦しい雲は夜空を隠している。何故か千秋は泣きたくなった。けれどきっと、この雨は彼女の涙さえも飲み込んでしまうだろう。
入り口からそう遠くない位置に、千秋は新海の姿を見つけた。ひどく不確かなその像には、下手をすると瞬きの合間にでも雨に溶けてしまいそうな危うさがある。声をかけようと彼女は思った。そうしなければ、彼の存在が自分にとってただの風景に成り下がってしまう気すらした。
「風邪引いちゃいますよーっ、先生」
どれほどの大きさで喋れば雨に掻き消されないか不安で、無意識のうちに、馬鹿みたいに元気な声を出す。早く応えて欲しかった。振り向いて、微笑んで、自分は一人ではないと安心させて欲しい。
「……ああ、うん。そうだね」
新海は、まるで落ちる朝露のような緩慢さで背中越しに小さく頷いただけだった。声をかけてきたのが千秋だということはわかっているのだろう。なのに、空を見上げる体勢はそのままに、彼は千秋の方を見ようとすらしなかった。それでも、彼女にとっては彼の声が聞こえただけで充分だった。声がする。彼がいる。それだけで、随分と気が楽になる。
「そうだね、じゃありませんよ。何なさってるんですか? 中、入った方が良いですよ」
新海はよくこの屋上で星を眺めながら煙草を吸う。けれど、今日のような雨夜では星は雲に隠れて見えないし煙草の火もつかない。一体、彼は何をしているのだろうか。
「うん……。月をね、見ているんだ」
新海が答える。千秋は首を傾げた。この雨では月など見えはしない。
「もう。熱でもあるんじゃないですか? 月なんて雲に隠れちゃってるじゃないですか。やっぱり濡れるのは良くないですよ」
そう言って、千秋は新海の腕の袖を引いた。少し蹌踉めいて、ようやく彼は千秋の方を向く。
生まれつきらしい少し色の抜けた髪も、優しい目元も、痩せすぎのきらいがある顎のラインも、雨越しだと儚く映った。
「千秋さん。雨夜の月って、知ってる?」
「え?」
千秋は眉を寄せた。新海の目は、どこか遠くを見るように細められながらも、しっかりと彼女を捉えていた。
雨の音が大きくなる。濡れた髪から頬へ滴が伝ってゆく。二人の吐く息が、白く浮かんでは消えていった。千秋の指先だけが、今は熱い。
ふっと、新海が笑う。
「実はね、傘、持ってるんだ。うん、千秋さんが濡れるといけないし、差そうか」
やんわり千秋の手を振り解くと、彼は足下に置いてあった漆黒の傘を手に取りゆっくり開いた。人二人が入るには少し小さいそれを、そっと千秋の頭上に翳す。もう随分濡れちゃったねと、彼はにっこりした。
「そういえば、千秋さん、そろそろ退院だったね。風邪を引かせちゃ大変だ」
「そろそろというか、明日です」
千秋は苦笑する。最近はもう担当が変わっていたから仕方がないものの、自分がいなくなる日すら正確に把握してもらえていなかったことはショックだった。
「明日? 早いね」
驚いた顔をする新海。
「……はい」
家では家族が待っているし、学校にも行かなくてはならない。もうじき試験のシーズンだ。名残惜しくないと言えば嘘になるが、病気が治ったのならば日常に戻らなければならない。いつまでも入院している時間は今の千秋にはなかった。許されなかったと、言っても良い。
「ああ、明日は朝から出張だ……。一足先に、退院おめでとう」
視線を虚空に彷徨わせ、まるでそこに浮かぶスケジュール帳を確認するようにして新海は告げる。ありがとうございます、と千秋は小さく頭を下げた。笑顔は作れなかった。
病院で過ごす夜も、屋上での新海との時間も、これが最後なのだ。そう思うと、千秋は言葉が出てこなくなった。彼女に合わせるように新海も黙し、しばし二人は無言で見つかるはずのない月を雨空に探した。
どれほどの時間そうしていただろうか。雨滴が傘に当たる鈍い音ばかりが零れている。次第に雨が弱まってきていることに、千秋は気が付いた。ひょっとすると、じきに晴れるかも知れない。
雨が怖い、と。千秋は新海に相談したことがあった。それが言い訳になると思っていたのだ。それを理由に病院に残れると、もう一度新海の患者に戻れると踏んでいた。しかし、その程度ならば時間が癒してくれると、彼の返答はまったく千秋に優しくなかった。少し意地になって、自分がいなくなって寂しくないのかと問うと、患者を追い出すのが医者の仕事と、彼は笑った。
これで、お終いか。
千秋は心中呟く。
「……先生、私、知ってますよ」
恐る恐る彼女は口を開いた。小雨にさえ負けてしまいそうなか細い声だった。
「うん?」
「あっても見えないもの。どれほど望んでも窺い知ることのできない幻。でしょう? 雨夜の月」
「ああ……。物知りだね」
新海は頷く。切なげに、僅かに寄せられた眉。
「昔ね、とても好きな女性がいたんだ」
唐突に、彼はそんなことを言った。
「千秋さんと違って、雨の好きな女性だったよ。死別したわけじゃないから、その人は今もこの世のどこかにいる。けれどそれって、もうほとんどいないのと同じなんだよね。少なくとも、僕にとっては」
新海が天を仰ぐ。千秋は、自分が震えるのがわかった。この僅かな光すらない夜空に、彼はかつての想い人の姿を映していたのだ。無情にも、千秋と過ごす最後の夜に千秋以外の女性へ想いを馳せている。
目頭が熱くなるのを感じた。
「先生は、その女性にもう一度会いたいんですか?」
傘を閉じ、わざと顔を雨に晒す。もしも目の中に一粒でも雨の滴が入れば、それがすべてを隠してくれると信じた。
「逢いたくない、と言えば嘘になるね」
新海は答える。千秋が彼を見ると、彼も千秋を見返していた。
真っ直ぐと千秋を見つめていながら、しかしその視線は千秋を捉えてはいない。
「でも、それは叶わない望みだ」
2.驟雨
2.驟雨
紗耶香は雨が好きだった。本人に確かめたことはないが、少なくとも、新海の目にはそう映った。いつもは穏やかで物静かな彼女が、雨の日だけは少しはしゃいでいるように見えたからだ。自分よりも一つ年上の大人な彼女がそのときだけはなんだか幼く見えて、そんな子供のような理由で、気が付けば新海も雨を好むようになっていた。
「新海さん」
そう声をかけられ、屋上で一人煙草を吸っていた新海は振り返った。とある夏の夜のことだった。
振り返った先には、病院指定の水色の寝衣を着た紗耶香が立っていた。どうしたんですかと問うと、特に用事はないんですと彼女は困ったように微笑んだ。
「新海さん、夜になるといつもここですね」
新海の隣に並び彼女が言う。
「ええ。まあ、一応院内は禁煙ですからね」
「やめた方がよろしいですよ、煙草は」
「僕もそう思います」
新海がそう応えると、困った方ねと紗耶香はわざとらしく眉をつり上げて見せた。凛とした目元に形の良い唇、白い肌。美しい人だと、新海は改めて思う。
紗耶香は新海担当の入院患者の一人である。本来なら、彼女は現在ベッドで寝ているはずの時間だった。最初の頃は逐一注意していたが、一向に行動を改める気配がないので新海も今ではすっかり諦めている。そういう患者は、彼の経験上多かった。内科などと違い、精神科はある程度患者の自由を通してやった方が良いというのが彼の持論だ。
「紗耶香さんは、お吸いには?」
ふと思いつき、新海は意識的に尋ねてみる。紗耶香は目を伏せ首を横に振った。
「憶えていません」
「きっと、吸われなかったのでしょうね。小さいお子さんがいたわけですから」
俯いて苦笑するばかりの彼女に、新海はこの程度にすることにした。彼女は事故で子供を亡くしたショックで記憶を無くし、入院している。先程の新海の発言は、医師でなければ到底許されない配慮に欠けるものだった。我が子を失う悲しみも、その悲しみさえ失ってしまう戸惑いも、正直新海には計り知れない。
話題を変えようと、天を仰ぎ夜空に救いを求める。いつの間にか月が見えなくなっていることに気付いた。
「ああ、なんだか急に曇ってきましたね。一雨来るかも知れません」
夏の雨は突然だ。濡れるのは別段構わないが、煙草が吸えないほどの雨量ならば大人しく室内に戻ろうと新海は思った。
「そう言えば、紗耶香さんは――」
雨がお好きなんですか? そう訊こうとした彼を遮るように、紗耶香が口を開く。
「新海さん。私、本当は記憶なんて欲しくないんです」
――雨が、降り始めた。
驚いた新海が紗耶香を見ると、彼女の瞳はそんな新海の反応を楽しむように、寂しがるように、複雑に揺れていた。
確かに――。
「確かに、紗耶香さんにとっては辛い記憶でしょう。ですが――」
「そうじゃないんです」
またも紗耶香が新海を遮る。その言葉で、新海はようやく彼女の真意に気が付いた。まったくもって鈍い。けれど人間とはもともと、激しい雨に打たれて初めて自分の体温の熱さに気付くような、鈍い生き物なのだ。
慎ましい。そんな形容の似合う二人だと、新海は思っていた。不謹慎だが、慎ましい、と。触れたことも、想いを口にしたこともない。どうしようもなく不純でありながら、二人は子供のように純粋な男と女だった。
医師と患者などという関係では足りない、もっと近付きたいと、どちらかが言えば、二人はそれを受け入れたろう。しかし、決してそれを口にはしない自分たちをもまた、二人は受け入れていた。
「記憶を取り戻したら、記憶を無くしていた頃のことは忘れてしまうというのは、本当ですか?」
感情を押し殺したような声で紗耶香が問う。とっくの昔に火の消えていた煙草を、新海は雨の弾ける足下に捨てた。用事はないなどと言いながら、彼女は今夜はこの話をすると心に決めていたのだろう。
「そういう例は、多いですね」
「私も、そうなるんですね?」
「……おそらくは」
新海が頷くと、紗耶香は静かに目を閉じた。雨滴を飛ばしながら、彼女は首を横に振る。
「嫌です。と、私が言えば、新海さんはどうしてくださいますか?」
彼女は尋ねた。責めるような響きの中に、哀願にも似た弱さがあった。新海は答える。
「どうもしません。患者を追い出すのが、医者の仕事ですから」
「医師の鑑ですね」
「ええ。ですが――」
男のクズです。そう言おうとして、やめた。これ以上何を言っても、どちらも救われないと思った。
紗耶香は新海のことを忘れるだろう。そうして、もといた場所へ帰る。この夜も含めて、すべてが無かったことになるのだ。
「私、新海さんを忘れません」
声を震わす紗耶香に、新海は何も言い返さなかった。何一つ希望的な言葉は口に出来なかったが、せめて黙することくらいは許されると思った。
それから長い間、二人は一言も交わさずに冷たい驟雨に身を晒していた。千秋紗耶香が記憶を取り戻したのは、翌日の朝のことだった。
3.愁雨
3.愁雨
雨が好きだからだと思っていた雨天時の彼女の興奮が、実は雨嫌いを紛らわすための空元気だったと知ったのは、彼女の記憶が戻ってからのことだ。まったく逆の解釈をしていたわけである。医師としても、男としても、新海は笑ってしまうほどに愚かだった。
考えてみれば、彼女が雨を恐れることなど至極当然なのである。まだ幼かった彼女の息子は家族でキャンプにいった際に遭難し、一日中降り続けた雨が原因で衰弱してこの世を去った。そのときのショックが原因で、彼女は記憶を失ったのだから。雨が好きになど、なろうはずがないのだ。
しかし、新海は未だ心のどこかでこう思っている。今自分の目の前にいる千秋紗耶香とは違い、かつて夏を共にした紗耶香は本当に雨が好きだったのではないか、と。
「どうして叶わない望みなんですか? 会いに行けばいいじゃないですか」
ぼんやりと過去に想いを馳せていた新海に、紗耶香が問いかける。彼はゆっくり首を振り、出来ないよと答えた。
新海は、基本的に患者に敬語は使わない。言葉の距離が心の距離に繋がると考えるからだ。しかし、彼は紗耶香にだけは無意識に丁寧に話しかけていた。年上だからだという理由だけではない。おそらく、彼女のことを患者以上の特別な存在として見ていたからだろう。
「千秋さんが記憶を無くしていた頃のことを忘れてしまったのと同じだよ。もう過去のこと、消えてしまったことだ」
言いながら、未練がましい男だと心中彼は自嘲した。言葉の節々に、ひょっとすると彼女は自分のことを憶えているのではという期待が見え隠れしている。
記憶を取り戻した紗耶香もまた、ある程度は新海に好意を持ってくれているようではあった。しかし、それがかつて想いを寄せた女性からの好意ではないことくらい、新海にはちゃんとわかっていた。どれほど慕われても、少しも嬉しくない自分がいた。
記憶が戻ってからの紗耶香は妙に明るい。教師という職業故かも知れなかったが、きっと、これは彼女の作られた姿なのだろう。自分が見た夏の日の紗耶香こそが彼女の本来の姿だと新海は信じている。
「さて。もうそろそろ、中に戻ろうか」
新海が提案すると、紗耶香は素直に頷いた。
今夜別れれば、新海はもう二度と紗耶香と会うことはない。そして、新海は目まぐるしい仕事の中で、紗耶香は愛に溢れる家庭の中で、いつしか二人は互いのことを忘れてしまうだろう。忘れることが出来るだけの強さが、人間にはある。その強さこそ、新海達精神科医の信じるものだった。
「もう、これでお別れですね」
悲しそうに呟く紗耶香。
「ええ」
応えながら、最後に新海はちらりと空を見上げた。月など見える気配もなく、寂しさばかりが胸に募った。
「あの、私――」
「え?」
頬に手を添えられ、新海は紗耶香の方を向く。
睫毛を飾る雨の滴が見えるほどの距離。
切なげな眉。
震える呼吸。
離れる唇。
湿った声で、彼女は言った。
「私、新海さんを忘れません」
――雨夜の月。
あっても見えないもの。どれほど望めども窺い知ることのできぬ幻。 ――あるいは、在り得ないと思っていたことが稀にあることの意。
新海がすべてを理解するのと、紗耶香が彼に背を向けるのとはほぼ同時のことだった。
彼は無意識に息を止め、一歩一歩確実に紗耶香が自分から遠ざかっていくのを見つめた。
呼び止めようとは、思わなかった。
呼び止めることも、呼び止められることも、受け入れることも、受け入れられることも、互いにすべきではないと感じたからだ。
忘れなければならない。
けれど、せめて、今だけは彼女を目で追うことを許して欲しかった。
頬が熱く濡れゆく。雨はもうほとんど降っていない。
まだ止んでくれるなと、新海は願う。
この雨が止めば、すべて忘れる。何事もなかったかのように、二人は日常に戻るのだ。
一つ夏が終わった。ただ、それだけのことだった。
雨夜