前線都市

第1章 重峰イノリという機構について

第1章 第1節「Prologue」
 
 彼らは、よく晴れた夏の日に訪れた。

 かつて日本と呼ばれていた島国の、工業地帯が広がる田舎町。その中央に、突如として地下深くまで続く大穴が開いたのだ。地盤沈下か、あるいは埋め立て工事の際に欠陥があったのかと、政府が調査計画を立て始めたころ。彼らはずるりと穴の中から這い出した。
 怪物らしさはそのままに輪郭だけ人間に似せたような歪な容姿。おぞましい呻き声。人知を超えた異能力。なにより、手当たり次第にヒトを食い荒らす凶悪性。
 その「外敵」を恐れた人々は現代科学の総力を上げてとある「生体兵器」を作り出し、外敵諸共封じ込めるという策を打ち出した。
 故にこの町は、こう呼ばれる。

――前線都市、と。

第1章 第2節「重ね重ねて、祈り奉る」
 まだ朝日が昇り切る前の薄暗い寝室で、重峰イノリは目を覚ました。空色の瞳がぱちり、ぱちりと数回瞬いて現状を把握する。それからゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに置かれていた円筒形の無骨な器具に手を伸ばす。彼はその底面を自身の首筋に押し当てると、指先で軽くボタンを押し込んだ。
かしゅ、という軽い音とともに、首に当てていた部分から突き出た針が皮膚を貫く。そのまま数秒経って器具のランプが点滅するのを確認し、彼は無造作にそれを引き抜いた。器具には止血剤の塗布と針の消毒を自動で行う機能が搭載されており、傷口からは一滴の血も流れていない。
 イノリは静かに目を伏せる。頭蓋内の魔力管制デバイスが反応し様々な情報を脳裏に提示し始めるが、彼はそのひとつひとつを適切に処理しつつ、最後にこう結論付けた。

――身体機能および魔力回路、双方に異常なし。


 簡単に着替えを済ませ、カソックの上着とストラを腕に抱えたまま部屋を出る。リビングのソファにそれらを掛けて、イノリはまっすぐに聖堂を目指した。居住棟と教会は重い扉一枚に隔てられていて、開けばすぐに古めかしくも荘厳な聖堂に繋がっている。彼の朝はまず聖堂内の清掃と礼拝から始まるのが常だった。その様は、まるで熱心な信徒ようだろう。しかし実のところ彼のこの習慣は信仰心に拠るものではなく、自身が所有する魔術の精度と効果を強めるための儀式でしかない。
 無人の聖堂で、既に暗記している誓言をあえて聖書片手に読み上げる。形ばかり繕ったままごとのようなそれを、指摘するものはこの町に誰ひとりとしていない。何故なら彼らにとって神に等しいその存在は、天上ではなく脳に埋め込まれたデバイスを通して、彼らを監視しているのだから。


 「……なればこそ偉大なりし我らが母、大いなる戦神クレィアの導きに従いて、遍く外敵を討ち滅ぼさん」 

 最後の一節を唱え終え、ぱたんと聖書を閉じる。柱時計は午前7時過ぎを示していた。寝起きの悪い同居人はまだ布団の中にいる時間だが、朝食の準備を始めるには丁度いい頃合いだろう。そう当たりを付けて、イノリは聖堂の正面扉の錠を外し居住棟へと戻る。しかしリビングには、意外にも既に人影があった。

 「おっと。――今日は随分と早いね、ミコト」
 「好きで起きたわけではない。あまりにも喧しくて、寝ていられなかった」
 ミコト、と呼ばれた青年は不機嫌そうに欠伸混じりにそう言った。桔梗色の瞳はまだ眠たげに瞬きを繰り返していて、イノリは小さく苦笑した。ある程度防音の効いた聖堂にいたとはいえ、騒音の類は彼の耳に届いていない。つまりはミコトを目覚めさせたのは物理的な音の波ではなく、魔力が激しく衝突し合う気配なのだろう。生命としての肉体を持たず、魔力の集合体である「魔術式」の彼は、性質上そういったものに敏感だった。
 「この近くで戦闘になるのは珍しいな。討伐?」
 「……外敵はE級とD級が5体ずつ、Cが1体。東地区の連中が迎撃している」
 「東。――あぁ、大鏡隊長か」
 「あれが出てくると他以上に騒々しい。迷惑だ」
ソファの背もたれに身を預けた拍子に、ミコトの長い白髪がさらりと揺れる。それを横目にイノリはシャツの袖口を捲りつつ簡易的なキッチンに入ると、背中越しに声をかけた。
 「それはまた災難だったね。珈琲でも淹れようか?」
 「……温かいものなら」
 「了解」
ミル式のコーヒーメーカーに豆をセットして、知り尽くしているミコト好みの味に合わせて挽き具合を設定する。生き物の身体構造とは根本的に異なるミコトは、食べ物からの栄養補給を必要とせず自ら食事を摂ることもない。そんな彼が唯一好んで口にする珈琲には少しだけ手間をかけるのが、イノリの密かな習慣となっていた。
自身は配給品のパンとレーションを咀嚼しながら、珈琲が淹れ終わるのを待つ。
 その時、イノリの首にかけられていた白銀のロザリオが小さく点滅した。
 「……」
 「……」
二人は思わず顔を見合わせる。尚も点滅を繰り返しているロザリオに彼は渋々といった仕草で指先を伸ばし、とん、と一度触れて呟く。
 「応答」
途端、平坦な機械音声が室内に響く。同時に空中に浮かび上がった半透明の操作ウィンドウには、地図と男性の顔写真、そして簡素なプロフィールが表示されていた。
 『No.38645およびNo.24875を規律違反者と認定。至急捜索および排除を実行してください』
 「――命令を承認」
 応えながら、彼はコーヒーメーカーの一時停止ボタンを押す。背後では面倒臭そうに立ち上がったミコトがふわりと宙に浮かんでいた。その腕には、置いたままにしていた上着とストラが抱えられている。それらを受け取って服装を正し、イノリは小首を傾げてこう言った。
 「とりあえずは、豆の抽出が始まる前で良かったね」

第1章 第3節「同族殺し」
 初めて「外敵」が現れたとき、人間はそれらへの対抗策を持っていなかった。のちに「魔力」と呼称される未確認物質で形成されていた外敵には、一切の軍事兵器が通用せず。絶望的な戦力差を前に、それでも人間たちは抗うことを諦めなかった。奇跡的に採取できた外敵のサンプルから解析と研究、開発を積み重ね、あらゆる方法を模索し。

 そうして作り出されたのが、「魔術師」という名の生体兵器である。

 まだ未成熟な子どもの脳に高度な演算能力を有する魔力管制デバイスを埋め込むことで、外敵同様に魔力を扱えるよう人体改造を行い。そして汎用化、強化、個別化と人々は進歩を積み重ね――いつしか人間は、外敵の侵攻を前線都市の内部へ押し留めるに至ったのだ。
 けれど、当然次の問題が発生する。強力になった魔術師たちを、如何にして制御し支配下におくか、という問題である。全魔術師の魔力管制デバイスにセーフティを導入するのはコストがかかり過ぎる。しかしいまや外敵に匹敵する力を有す魔術師たちを放置するのはリスクが大きい。警邏用ロボットを配置したとしても抑止力にはなり得ないだろう。そこで人間は、魔術師対策に特化した魔術師の作成を開始した。つまりは、「同族殺し」の兵器。規律に反した魔術師や、反乱分子を処分。そして前線都市全体を結界で覆い、外部への逃亡を防ぐもの。
 その特殊な魔術師は、代々同じ名で呼称される。
――重峰イノリ、と。

 前線都市西部3番地区。無数の配管やタンクに囲まれた工業区域の狭い通路を歩きながら、イノリはぐるりと周囲を見渡した。背後では地面からわずかに浮いたままのミコトがつまらなそうに腕を組んでいる。
 「通報はこの辺り、かな」
 「……サーチャーに反応あり。近くにいる」
 「ん。なら少し探してみようか」
 「その必要はない。魔力の急速な接近を感知。向こうから仕掛けてくる」
 言うが早いか、ミコトは音もなく距離を詰めるとイノリの左側に回り、手のひらを物陰に向けて突き出した。瞬間、圧縮された空気の塊が魔力を帯びて襲い掛かってくる。ミコトが手のひらの前に構築した防御の魔方陣により、突風は二人を避けるようにして吹き荒れた。
 轟音が止み、土煙が晴れる。その先には、真っ青な顔に大粒の汗を浮かべた大男と、怯えた顔で男にしがみ付く女の姿があった。肩で息をする二人に柔らかい笑みを浮かべて、イノリがミコトの背後から歩み出る。
 「No.38645とNo.24875……ええと、山岡ミズチさんと水車町カノコさんですね?」
 「っ、お、おまえが、『同族殺し』か……!」
 「はい。――その口ぶりからして、規律違反の自覚はあるようですね」
 話が早くてなによりです、と。つとめて穏やかにイノリは答えた。その態度になんらかの希望を感じ取ったのか、女が切羽詰まった様子で身を乗り出した。
 「お願い!見逃してっ!……私たちはただ、二人で静かに暮らしたかっただけなの。反抗しようなんて考えてないっ!これからだってちゃんと、ちゃんと外敵討伐に参加するから、だから、」
 「残念ですけれど」
 女の懇願を遮って、イノリは片手を差し出す。ミコトが黙ってその手に指先を重ねると、彼の体は足元から静かに“ほどけ”始めた。白銀の光を帯びた粒子は一度散った後に再び収束し、別の姿を形作る。最後にぱきんと音を立てて、真白の薙刀がイノリの手に収まった。
それを手慣れた仕草でくるりと回し、彼は小さく首を傾けてみせる。
 「あなた方には既に処分命令が下されています。であれば、それに従うのみ。おれに命乞いをしても意味はありません――まぁ、ご存じだとは思いますが」
 「人間の犬め……!そうまでして奴らの機嫌を取りたいのか!このひとでなしが!」
 「否定はしませんよ。けれど、」
 イノリが言い切るのを待たず、男は右腕に魔力を集めると力強く振りかぶった。“身体強化”の魔術を渾身の力で発動したのだろう。周辺の空気が渦を巻いて、男の拳にまとわりついている。小さく悲鳴を飲み込んだ女が一歩下がり、男が地面を蹴って駆け出した。

 応じるように、イノリの薙刀が空を裂く。

ひゅ、と軽い音とともに一閃された刃が、あっさりと、しかし的確に男の首を刎ねる。そのまま回転の勢いを殺さずに振り抜かれ、続けて踊るように女の胴を両断した。ぽかんと開かれた二人の口は一言の悲鳴も漏らさず、力の抜けた体が重力に従って血に落ちる。
 思い出したかのように間を置いて広がり始める鮮血を冷めきった目で見下ろしながら、誰に聞かせるでもなく、イノリは呟いた。
 「魔術師にされた時から――ひとでなしは、お互い様でしょうに」

第1章 第4節「名前のない裏切り者」
 「No.38645およびNo.24875の処分を完了。監視塔に現在地を送信。素体回収装置の出動を要請します」
 ロザリオに向かってそう告げ終えると、通信を切り薙刀から手を離す。瞬間、またふわりと形が解け、薙刀は元のミコトの姿へと戻った。何か言いたげなその表情に苦笑を返し、イノリは遠くの空を見上げる。視線の先には、工場群の隙間から巨大な鉄塔が頭を覗かせている。
 前線都市一帯を見下ろすそれこそが、AIにて魔術師たちの生死を決定する監視塔。イノリにとっては絶対的な“上司”である。先程処分した二人の逢瀬を無許可の戦線離脱による規律違反と判断したのも、あの鉄塔だった。

 「――……主よ。どうか彼の者らに、神々の天秤にて正しく罰を与え給え。願わくばその魂が、永き贖罪の果て、約束の地へと至らんことを――」

 定められた通りに教典の一部を唱える。この場には祈られる神もいなければ、祈る信徒さえいない。だから、彼らは誰にも救われない。それは魔力の集合体でしかないミコトも、そしてイノリも同じだった。
 “彼”が“重峰イノリ”になったのは11歳の時だ。それ以前の名を彼は覚えていないし、重峰イノリとしてミコトと“契約”した際にデータバンクからも消去されている。還るべき故郷も、墓石に刻まれる名前も持たない彼は、前線都市に住むほとんどの魔術師に忌み嫌われる存在だった。

生まれついての裏切り者。
同族殺し。

表立って動きさえしないが、自分の命を狙う者が街中に潜んでいることに彼はずっと前から気づいていた。そして、きっと楽に殺されはしないだろうということも。
 だからこそ、いつも通りに笑う。

 「そういえば、珈琲が途中だったね。風味がとんでしまっていないといいけれど」
 「……そうだな」
 何気ないその言葉にミコトは小さくうなづくと、白い着流しの裾が血に汚れないよう少しだけ浮く高さを上げてイノリの隣へ並ぶ。不意の襲撃があっても、不足なく彼を守るために。元来無口なミコトは進んで何かを語りはしなけれど、あえて言葉にする必要もなかった。互いに唯一、己の真実を知る相手なのだから。


 ――そう。この世で、ミコトだけは知っている。重峰イノリという男が、生粋の裏切り者であることを。

第2章 神崎ルカの長い1日

第2章 第1節「東の魔術師」
 前線都市東部中央、通称「研究特区」。
その食堂で、魔術師・神崎ルカは大きく伸びをした。生活補助ロボットが管理運営する食堂内に、他の魔術師の姿は無い。朝食にしても昼食にしてもひどく中途半端な時間帯だからだろう。では何故彼がここにいるのかと言えば、単純に夜間警戒の当番明けで食事を取り損ねていたからである。交代時間ギリギリまで外敵を迎撃していたため魔力残量は残り30パーセントを下回り、彼の愛機である武装端末『エリック』も、フルパワーで連続稼働した影響により性能が低下し始めている。要するに彼も彼の武器も、一仕事終えたばかりで疲れ切っていたのだった。
 1時間程前に攻撃を受け骨折し、十数分前に魔術で治癒されたばかりの右肩の調子を確かめるようにぐるりと回して、ルカは両手を合わせ目を閉じる。
 「ご馳走様でした」
すると、その時。まるで見計らったかのごとく、彼の手首にはまったバングル――『エリック』が、淡く点滅し始めた。同時に、機械音声が再生される。
 [マスター]
 「ん?」
 「端末名“エリザベート”よりメッセージを受信。応答しますか?]
 「リクさんから?……わかった、繋いで」
 [了。接続開始]
『エリック』の声が途切れて、掠れたノイズが鳴る。次の瞬間、うってかわって朗らかな子どもの声がルカの名を呼んだ。
 [あ、ルカ?お疲れ様ー!]
 「お疲れ様です。……なにかありました?」
 [うんまぁ、あったといえばあった、かな。とり急ぎ聞いて欲しいんだけれど]
 「わかりました。じゃあ今から戻りますんで――」
 [いや、大丈夫だよ。もうそっちに着く]
はい?と、ルカが聞き返すより早く。通信越しではなくもっと近くで――具体的には食堂の入り口の向こう側から、地響きと共に轟音が響いた。思わず肩を跳ねさせたルカの横で、テーブルやら椅子やらが衝撃によって揺れている。さらには、緊急事態を察知した店員ロボットたちが意味もなく走り回って。混乱の最中、がらりと入り口のドアが開いた。
来訪者たるその少年は、自身の武装端末である[エリザベート]を戦闘状態で起動したまま、――つまりは無骨な鋼鉄の大剣を二つ左右に浮かび上がらせたまま、顔を引き攣らせるルカににっこりと笑いかけた。
 「ほら、すぐだったでしょ?」

第2章 第2節「反乱分子」
 ちょっと困ったことになったんだよねと、大鏡リクは唇を尖らせて呟いた。彼がオレンジジュースの入ったグラスをストローでかき回す度に、氷同士がぶつかり合ってからからと音を立てる。その様は、まるで普通の子どものようだった――東地区遊撃部隊隊長、“撃墜王”の異名を持つ魔術師だとは信じられない程に。けれど彼の直属の部下にして副官であるところのルカは、自然と居住まいを正した。
 「困ったこと、というと?」
 「今朝のさ、違反者の処分が執行されたことって報告受けてる?」
 昨晩は夜警当番だったでしょう、と問われて、記憶を辿る。昨晩は緊急出動が多く、そのせいでルカの元へは多種多様な報告を上がってきていたが、その中に違反者処分に関するものなどあっただろうか?勤務開始から順番に思い出していって、その量にうんざりし始めた頃――
 「……あぁ、ありましたね。西3工場の……確か山岡ミズチと水車町カノコの二人組。巡回担当が回収前の死体を見てしまったとかで」
 思い至ったのは、交代時間となり日中の警備担当へ引き継ぎをしている最中にかかってきた通報である。通報者は不意に見つけてしまった死体に驚いたのか、もしくは2人組と面識があったのかひどく動揺していて、話を聞き出すのにも時間がかかったのだ。本日ルカが残業することになった要因のひとつである。
 「そう、それそれ。……あ、ちなみにその件で“なにかした”?」
 「いいえ。そんな余計なことはしませんよ」
 そう言って、ルカはまだ湯気の立つ緑茶の湯呑みに口を付けた。――その言葉通り、ルカは例の通報者へ「すぐに離脱して何も見なかったことにしろ」と指示している。それが最善策だからだ。監視塔により規則違反者と認定されれば、『同族殺し』こと重峰イノリが処分に動く。邪魔や妨害を試みれば、その行為も規則違反と認定される。そうやって、ただ死体だけが増えていく――故に、重峰イノリという“機構”には極力関わるなというのが、少なくとも東地区に所属する魔術師の中では共通認識となっていた。
 それを聞いたリクもまた当たり前のようにうなづいて、後に小さく眉を寄せた。その両耳で、待機形態のピアス型となった“エリザベート”が揺れている。
 「そうなんだよ。そうなんだけどね。どうやらその通報者くん――あ、名前は“財前ユズキ”っていうんだけど。彼、処分された山岡ミズチの友人だったらしくって。冷静になったら腹が立ってきたのかな?東の魔術師に何を言っても動いてくれないから、それならと西地区に突撃したんだって」
 「……はい?」
 「で、まぁ間の悪いことに、というかタイミング良く?駆け込んだ先で過激派の連中に出会ってしまって。盛り上がっちゃったんだろうね。彼らと手を組んで人間相手に反乱起こすので助力してくださいって連絡がたったいま送られてきたところなんだけど」
 これ放っておいたら共謀罪になるよねぇ。
軽い調子で告げるリクに、ルカは思わず頭を抱えた。滅茶苦茶過ぎて笑えもしない話だ。東じゃダメだと西に行った癖に結局東の魔術師に協力要請してるじゃないか、とか。魔術師数人が集まったところで人間相手に敵うはずないだろう、とか。言いたいことは沢山あったもののとりあえずは呑み込んで、ルカは口を開いた。
 「……反乱って、具体的に何するつもりなんです?」
 するとリクは伸びをするように背もたれへのしかかり、ぴんと立てた人差し指を上に向けた。示したのは天井、ではなくそのさらに上の。
 
 「監視塔をぶっ壊すんだってさ」

 ついに、一瞬とはいえルカの思考は停止した。意味がわからない。いや言葉は理解できているのだが、そこに至った過程がわからなかった。監視塔を、破壊する。なるほど確かにそうすれば人間たちの“目”は一時的に失われ、うまくやればその隙をつくことも出来るかもしれない。当然その作戦を思いついた時点で違反者認定はされているだろうからあの”重峰イノリ“と交戦する必要は出てくるが、何か算段があるのだとして。
 そんな単純なことを、今までに実行した魔術師がひとりもいないと、本当に思っているのだろうか?それとも、自分たちであれば成功すると?どちらにせよ無謀すぎる。
なにより。
戦力を確保したかったのだとしても、リクに――東地区の幹部クラスに、先んじて連絡するのはあまりに浅はかすぎる。長くこの街にいれば彼らの作戦の無謀さなど計算するまでもなくわかりきっている。むしろリクが言った通り、無視すれば共謀罪に問われる可能性だってあるのだから――協力、どころか。
 「一応、きいておきますけど。どうするおつもりなんです?」
 「向こうが動き始める前に叩き潰すしかないねぇ。ともだちが処分されて怒る気持ちもわかるけれど、感情だけでどうにかなるようなものじゃない。巻き込まれるのはごめんだし、なによりあの調子じゃあ、西地区の大将さんにも同じような連絡してそうだから。こちらだけが動かなかったとなると貸しを作ることになっちゃうからね」

 というわけで、と。愛らしく小首を傾げるリクが言わんとしている内容を、既にルカは察していた。だからこそ深く重いため息を吐き出し、湯呑みをテーブルに置く。
 「……わかりました。俺はなにをすればいいですか?」
 「さっすが。話が早くて助かるよ」
  ぷらぷらと床から浮いた両足を揺らして笑うリクに、ルカも釣られて苦笑いを漏らす。どうやら本日の彼の残業は、またさらに延長となるようだ。

第2章 第3節「無謀な夢」
 簡単な作戦会議を終え、2人は分担してことの対処に当たることにした。リクは先んじて西地区の代表魔術師の元へ赴いて根回しをし、その間にルカは重峰イノリに一連の事情を報告することにしたのである。どのような戦争であっても、戦力の確保は最優先でおこなうべきだ。特に魔術師の天敵とも言える“同族殺し”とその魔術式に関しては、味方につけられるか否かで勝敗が決まると言っていい――まぁ今回は相手側が自ら彼らを敵として扱ってくれているので、こちらは立場を表明するだけで良いのだけれど。
 そうしてルカは教会に到着すると、とりあえず[エリック]に声を掛けた。すると声色だけで彼の意を汲み取ったエリックから、[現在時刻は10時28分です]電子音声の回答が返ってくる。リクとの待ち合わせ時間は17時ジャスト。移動時間を含めても、充分に余裕がある。そのことを確認してから、ルカは気負いなく正面扉に手を伸ばす。実のところルカがこの場所を訪れるのは別に初めてでもなく、重峰イノリに対しても特段悪感情を抱いてはいないので緊張する理由がなかったのだ。――むしろ彼個人としては、イノリの役割に対して少しだけ同情してすらいる。ルカの立場上、表立って口にすることはできないだけで。

 厳かな両面扉の片方だけを開けば、ルカの来訪を魔力の流れで察していたのだろう重峰イノリが祭壇の前に立っていた。緋色のストラに、銀のロザリオ。白手袋に包まれて両手を腹の前で組んだ、いかにも聖職者といった振る舞いで、彼はにこりと微笑んだ。
 「お疲れ様です、ルカさん。そろそろいらっしゃる頃だと思っていました。お茶をお持ちいたしますので、お掛けになってください」

 ルカがこの街に収監された頃。当時この教会を根城としていた“先代”の重峰イノリは、酷く独裁的な人物だった。人間からの処分命令が下るたびに適当な理由で通りがかった魔術師を共謀犯と認定し、痛めつけて晒して殺す。それでも相手が人間直属の“管理者”であるから誰も逆らえずにいるのを見て、悦に浸る――そういう、男だった。ルカ自身も何度か殺されかけたことがあるし、リクが嘲笑と共に踏みつけられている場面に遭遇したことだってある。
 リク曰く。件の男が重峰イノリとなって以来、元々複雑な立場にあった“同胞殺し“は余計に忌避されるようになったという。よって、次代である現在の“重峰イノリ”はそのとばっちりを受けている、というのがルカ個人の見解だった。無論命令に従い魔術士の処分を遂行している以上“同胞殺し”ではあるのだけれど、それはただ、そういう役回りというだけだ。
 結局のところ、人間に逆らえば殺されるという立場は変わらない。ルカも、重峰イノリも、どんな魔術師だって。
 とはいえ“管理者”としての特権は確かに存在する。[監視塔]はこの街全ての情報を収集するのだから、そのデータバンクに接続できる重峰イノリの有する情報量は他の魔術師の比ではない。故に最初からルカの要件を知っていたのだろう。先に話を切り出したのは、イノリの方だった。

 「結論から言うと、先程監視塔が財前ユズキを処分対象と認識しました。ただし、まだ実行命令は下されていません。関連した魔術師の選別が終わっていないのでしょう」
 なにせ展開が急すぎたもので。そう言って肩をすくめるイノリに、ルカは苦笑を返す。
 報告が確かなら、きっかけとなった山岡ミズチの処分は今朝早くの出来事だ。それからたった数時間のうちにここまで事態はしている。[監視塔]には最高性能のAIが組み込まれているはずだが、それでも全容の把握の取捨選択には時間がかかるということだろう。ルカ達にとっては好都合である。
 「普段なら全員の処分を決定していたでしょうが、今回はリクさんやらトーマさんやら大物が絡んでいますから。彼らを軽々に処分してしまえば肝心の外敵迎撃に差し障る――だからこそ、慎重になっているのでしょう」
 「やっぱり関係してるとは思われてるのか……それで、正式な命令が下されるまでにはあとどのくらい猶予がある?」
 「早くても夕方くらいまではかかると思いますよ。というか、」
 そこで言葉を切って、イノリは小首を傾げて見せる。その口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
 「ルカさんのその反応からして、やっぱりリクさんは共謀していないのでしょうね。正直おれとしては助かります。あの人やあなたを処分するなら、命がひとつでは足りませんから」
 「嫌な冗談だなぁ。まぁでも、リクさんが財前ユズキと関わってないのは本当。ほとんど話したこともないって言っていたし、まだ協力を要請された段階だ」
 「それで、リクさんからの返答は」
 「まだしてない。下手に刺激して暴走されても面倒だし」
 「……まぁ確かに。少々向こう見ずというか、突っ走り気味というか。そういうひとみたいですしね」
 「単純に浅慮なだけだと思うけどな」

 深く深くため息を漏らしたルカにイノリは苦笑いを返したが、その言葉を否定することはしなかった。直接的な物言いは避けたものの、結局は同意見ということだろう。
――そう、無謀なのだ。財前ユズキと彼の協力者たちは“戦力さえ揃えればクーデターを成功させられる”と考えているようだが、そんなものは希望的観測に過ぎない。相手が人間であるなら魔術師に勝ち目はない。どれだけ強力な魔術を有していようがその力関係がひっくり返ることはない。
だからもし、本当に、本気で反逆するつもりであるなら。“そういったもの”とは無関係な部分で勝負に出るべきなのだけれど――おそらく、その域まで彼らの思考は達していない。
故にこれはどこまでいっても無謀な夢だ。気持ちはわかっても、付き合わされる方は迷惑でしかない。

 とはいえ、文句を言っていても事態は好転しない。ルカはベンチから立ち上がり、小さく伸びをして言った。
 「とりあえず、この件は俺とリクさんとで終わらせるよ。夕方までには始末をつけて報告するから、」
 「その後の処理はこちらで預かります」

 お気をつけて。
扉に手をかけたルカへそう声を掛けたイノリの姿は、まるで本物の聖職者のように誠実に見えた。

第2章 第4節「前線都市」
 さて。
前線都市は内海を境界として東西に二分されている。両者をつなぐのは、鶴翼大橋と呼ばれる巨大な吊り橋のみ。故に存外物理的な距離があり、となれば文化や慣習にも多少の違いが生じるものである。特に、戦争に関する部分には。
 討伐部隊を編成し外敵を迎撃。その点に変わりはないが、一方で戦闘に対する両者のスタンスは大きく異なっている。すなわち、強者が弱者を庇い全員で生き残ることを優先するか。あるいは、弱者を犠牲に強者がより多くの敵を討つことを優先するか。目的は同じであっても方法は対極的であり、互いの思想を理解できないのも当然だ。
 つまり両者にとって、互いの存在は“あまり気の合わない味方”程度に過ぎないのだった。敵対こそしていないものの、積極的に協力するほど親しくもない。
――ただし、ルカにとってはほんの少しだけ、西地区にも思うところがあるのだけれど。
 その事情を知っているリクは、鶴翼大橋の上で合流すると黙ってルカの目を見上げていた。深紅の視線を受けて、ルカは肩をすくめる。
 「今日は仕事ですし、何もする気はないですよ」
 「……それでいいの?」
 「もちろん」
 「君のそういうところは、長所ではあるけれどね」
東から西へと歩み出しながら、リクはやや不満げに言った。
 「もうちょっと素直に生きてもいいんじゃないかな。少なくとも僕は、君のわがままなところを見てみたいけれど」
 「あはは。じゃあ、忙しくないときにでも」
 そんな軽口を叩いている間にも、遠くの方からいくつか監視の気配を感じている。東地区迎撃部隊長大鏡リクと、その副官であるルカ。いわば東地区のトップ2が唐突に境界を渡ってこようとしているのだから警戒されるのもまぁ想定内ではあった。流石に、反射で攻撃してくるほど短絡的ではないだろうという評価も含めて。だから二人は狙撃にだけはやや気を使いながらも、悠々と橋の真ん中を歩いていく。

 けれど、橋の中央付近まで来たところで。リクが勢いよく空を振り仰いだ。

 「――ルカ」
 応答する間すら惜しんで、咄嗟にルカは魔術を展開する。彼の固有魔術・[千里眼]の術式が脳内の魔力管制デバイスに入力され発動するまでおよそ0.13秒。強化された彼の両目があらゆる障害物を透過し対象との距離すら無視して“それ”を視認するまでさらに0.02秒。
 「西地区上空より砲撃、距離2000!」
 「“エリザ”」
 ただそれだけの命令で意を察した“エリザベート“が、待機状態から戦闘形態に移行しリクの両隣に現れる。リクはルカを守るように一歩前に出ると、油断なく掌を前方斜め上へと向けた。“エリザベート”の、女性らしさの残る機械音声が響く。

 [ディフェンスゲイン]

 ふたりを轟音と衝撃が襲ったのは、その一瞬後のことだった。

第3章 ふたりの裏切り者

第3章 第0節「救済」
——こどもが泣いていた。
 10歳にも満たないような幼い子が、床に座り込んで泣いている。嗚咽ひとつ漏らさず、静かに、静かに泣いていた。声を上げれば殴られると思い込んでいる、そういう泣きかただった。
 おれはそれを少し離れた場所からただ眺めている。寄り添ってやることも涙を拭ってやることもできず、途方に暮れて立ち尽くしている。名前を呼んでやりたかったけれど、躊躇った。責められるのならまだいい。お前のせいだと、お前さえいなければと憎んでくれたなら。ほんの少し胸が痛んでも、自業自得なのだからと受け入れて向き合うことができただろうに。この子からそんな純粋さはとうに失われていて。
 誰かがそばに居ると気付けばきっとこの子は泣き止んで、無理矢理に口角を歪め笑ってみせるのだろう。そういう風に、教育されているのだから。
 本当なら。
普通に親に愛されて、普通に兄弟に可愛がられて、ゆっくり大人になれるはずのこどもだった。あんなやつらが親でさえなければ。——おれみたいなやつが、兄でさえなければ。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 かみさま。おれはどれだけ不幸になったっていいから。惨めに打ち捨てられて構わないから。こんな命でよければ、どんな風にころしたって良いから。どうか。
 弟だけは、どうか救ってください。

——あぁ、またあの子が泣いている。
おれはただ、それを見ている。

第3章 第1節「西の魔術師」
 それが夢だと気が付いたとき、セナは舌打ちを漏らした。悪夢である。いや、あの夢自体を“悪” だなどと死んでも認めたくはないが、そのつもりで見せられた夢であることは理解している。だから魔力抑制剤の入った器具を首に押し当て、かしゅりと針を打ち込みながら小さく呟いた。
 「……余計な真似をするな、“橋姫”」
 応じるように、雑多な事務室の隅で黒い影がしゅるしゅると蠢く。その様に苛立ち混じりのため息を吐いて、彼は自身の武装端末を待機状態のまま起動する。
 「“クラウディア”」
 [再起動完了。現在時刻、11時28分を記録。不在通信は120件。そのうち115件は端末名“ジークフリート”からの通信です]
 「……はぁ?なんなんだ、一体」
 [メッセージを再生。――馬鹿がまた騒いでやがる。さっさと始末するから手伝え。以上です]
 「馬鹿って……あぁもう、面倒な」
 セナは乱暴に髪を掻き乱すと、寝そべっていたソファからようやく身を起こした。着崩したYシャツの上から軍服の上着を肩にかけ、待機状態であるカード型を維持した“クラウディア”は胸ポケットに。執務机の上に置きっぱなしにしていた軍帽を拾い上げて、彼は欠伸混じりに部屋を出た。
 ――その左腕で、『武装整備室・室長』の腕章を揺らしながら。


 便宜上階級制度を採用しているだけでほとんど身分の差など存在しない東地区と違い、西地区の魔術師は厳格な上下関係に基づいて組織を形成している。それは対外敵戦における指揮系統を確立するためであったり、強固な軍事的統制を維持するためであったりと目的自体は多種多様にあるのだが。個性の強い魔術師達を一手に纏め上げる、そんな荒技を可能としたのは、ひとえに彼のカリスマ故であった。
 西地区総司令官、不知火トーマ。前線都市随一の射程範囲を誇る魔術式“八咫ノ大弓”を有した、射砲撃の名手。横暴で乱暴で傲慢で高慢なその男こそが、前線都市三強の一角にして西地区の要である。
 そんな人物に呼びだされたとあっては西の魔術師どころか東の魔術師だって冷や汗混じりに大慌てで駆けつけるところだが、セナは至ってマイペースにだらだらと、着崩した軍服を整えることもなく無造作に、トーマの前に現れた。固有魔術『瞬間移動』を使用し、ノックどころか足音ひとつなく部屋の中へ直接空間を跳躍する。とん、と軽い音と共に革靴の底が床を叩いた。
 途端にざわつき始めた側仕えの魔術師たちを片手で黙らせ、トーマは牙を剥くように口角を上げて笑う。ただ足を組んでふんぞり返っているだけなのに、尻の下の積み重なった廃材がまるで玉座のように感じる程の威圧感。その様に、セナは不満げなため息漏らす。
 「わかっててやってるんだろうが、俺はもうあんたの部下でもなんでもない。いちいち呼び出さないでほしいんだが」
 「ふは。生憎西地区はこの己れの領土、つまりその全てが己れの所有物だ。不満なら東にでも逃げ込んでみるか?貴様には無理だろうがな」
 「……わざわざ挑発するために呼び出したのか。総司令殿へ随分とお暇なようで」
 「あぁ。ついさっき、大鏡リクが乗り込んでくるまでは退屈で死にそうだった」
 「“撃墜王”が?」

 セナが反射的に聞き返すと、彼にしては珍しく動揺したその様が愉快だったのか、トーマは満足そうに頬杖をつく。西地区でセナと“撃墜王”こと大鏡リクの繋がりを知っているのはトーマだけだ。――否、正確に言えば繋がっているのはセナとリクではなく、その副官の方なのだけれど。
 自身の反応を愉しまれている、と気付いたセナは煩わしそうに眉を顰め、遮るように口を開いた。
 「……結局、招集の理由は」
 「ふん。なんでもウチから裏切り者が出たらしい。言うまでもないが己れを裏切ったのではない。人間への裏切りだ」
 「ならさっさと“教会”に通報すればいい話だろ。同族殺しが動けばそれで済む」
 「そうもいかん事情がある。なにより己れは“同族殺し”が嫌いだ。うっかり殺しかねん」
 「――あの時は殺せなかったのに?」
 「この己れが殺し損ねる筈などありえん。あれは、何度殺しても死ななかったというだけだ」

 そんなことより、と。舌打ち混じりに呟いて、トーマは足を組み直す。
 「首謀者は財前ユズキ。以下、馬鹿14名。人間共が沙汰を下す前にこちらで処分する。でなければ冤罪ふっかけられて己れの頭が吹き飛ぶ」
 「へぇ。じゃあどうぞがんばってください」
 「ふはは、残念だったな。監視塔が設定した共犯候補には貴様も入っている」
 「……はぁ?」

 今日1番の嫌そうな声色に、トーマはくつくつと喉を鳴らして笑っている。その様子で大体のことを察したのか、セナは苛立ち混じりに吐き捨てた。
 「場所は」
 「もう手は打ってある。が、今回はあのクソガキと合わせて動かねばならん」
 「……俺は、」
 「会いたくないか?かまわんぞ。その辺りは己れが任されてやる。まずはあのガキに、呑気に乗り込んできおった借りを1発返す。貴様は昔のように裏から動け」
 それは、人を従えることに慣れた口調だった。手近な鉄パイプに掛けていた上着を掴んで立ち上がり、軍靴の踵を打ち鳴らす。すぐさま側仕えの魔術師達が膝につき頭を垂れる様を振り返りもせず、トーマは悠々と歩き出した。その後を渋々追いながら、セナはぼんやりと考える。
 これを予感していたから、“橋姫”はあの夢を見せてきたのだろうか。魔術式の思考なんて普通はわかるはずもないのだから、推測するだけ無駄なのかもしれないけれど。
思い出す。思い出して、仕舞い込む。
それはセナなりの決意だった。決意であり、覚悟であり、自罰である。あの頃の自分がどれだけ愚かで、そのせいで誰が傷ついたのか。絶対に忘れないようにと反芻する。
そうすればおのずと、やるべきことと避けるべきこととが決まっていく。ゆえに。

今日もセナが、神崎ルカの前に姿を現すことはないだろう。少なくとも、何かの偶然が働かない限りは。

第3章 第2節「始まりの音」
 拠点を出たトーマが向かったのは、高台に位置する旧製鉄所地区の中でさらに1番高い建物の屋上だった。ここからならば西地区のほとんどが見渡せる。ついでに、鶴翼大橋の様子も。つまりはトーマにとって絶好の狙撃位置である。既に嫌な予感のしているセナはトーマから三歩ほど距離をとり、強風に煽られる髪を押さえた。
 借りを返さねばとトーマは言った。要するにそういうことだろう。セナにはあまりよくわからない感性ではあるが。

 「——あぁ、いい風だ。大砲日和だな」
 冗談混じりにそう言って、トーマは右腕を正面に向け突き出した。空気中から体内へ、足元を伝って肩を通り、編み上げられた魔力が指先に収束する。反動で揺れた手首を左手で固定し、収束と圧縮を繰り返す。そうして形成された矢は膨大な魔力を帯び、どくんどくんと脈を打つ。
 トーマが有する魔術式『八咫の大弓』その性能は極々単純だ。周囲から集めた魔力を矢に変えて放つ。たったそれだけの魔術が、如何にしてこうも恐れられるまでに至ったか?
 単純な魔術。一般的な砲撃術式。そこに生じる差は、術者の技術とそれに応えられる耐久性に尽きる。
つまり。
圧倒的な量の純粋魔力を丸ごと砲撃に変換し、最短距離を最速で撃ち抜く。不知火トーマという魔術師が行使するだけで、それはいかなる防御も、どれだけの距離も意味をなさない致命の一撃となる。
故に彼は西地区の要となった。あらゆる死地を逆転させる切り札として。
 
 「我が魔術式“八咫ノ大弓”、その真名――『ヤタガラス』。術式装填。目標、鶴翼大橋中央」

 大弓が、より一層強い光を放つ。傍らに佇んでいたセナは少しだけ眉を顰めて、矢の狙う方角に視線を向けた。
 ——まさかとは、思うけれど。
 「一応。一応確認しておくけど……殺す気で撃つわけじゃないだろうな」
 「はン。当たり前だろうが」
 限界まで引き絞られた弦がいよいよ弾ける。飴色の両目が、眼下の獲物を睨み据えて。

 「この己れが、手加減なんざする訳なかろう。撃ち滅ぼせ、ヤタガラス……!」

 閃光。遅れて、腹の底に響くような轟音。
その一撃は、流星の如く空を裂いて駆け抜けた。


 止める間もない速攻に、セナは頬を引き攣らせた。相手はあの撃滅王であるし、死んではいないだろうが――それにしたって挨拶代わりは凶悪すぎる一撃だった。この距離では対象の無事を確認することもできず、魔力を探るのも難しい。しかし、撃ち終えたトーマが小さく舌打ちを漏らしているあたり相手方に大した損害はないのだろうと、内心で僅かに安堵する。
 そんなセナとは対照的に、苛立ちを露わにしたトーマが軽く右手を振るう。応じて彼の背後の浮かんでいた大弓が魔力へと再変換され、周囲の空気に溶けていった。

 「相変わらずとはいえ気に食わんな。それなりに本気で撃った筈だが完璧に防がれた」
 「……あんたな。もし防いでくれなかったらどうするつもりだったんだ。撃墜王が殺されたとなれば、本当に東西で戦争が起きてたかもしれないのに」
 「ありえん。撃墜王には神崎ルカがついている――この距離だ。アレの『千里眼』があれば防御はともかく回避は容易だろう。橋を盾にすれば良いだけなのだから」

 あぁ、腹が立つ。そう言ってトーマは踵を返す。喉元まで出かかったため息と文句を押し殺し、セナはちらりと横目で橋を見た。

 鶴翼大橋。前線都市の東西を結ぶ唯一の通行路。ただの吊り橋でしかないそれは、しかしトーマの砲撃を受けても一切の損傷を受けていない。まるで何事なかったかのように、ただそこに存在している。
 撃墜王が防いだのは自分達へのダメージだけ。橋のことまで気遣ってはいないだろう。となれば、鶴翼大橋を守った力は別にあるということになる。
すなわち、恒常結界。24時間365日、ほぼ永続的にこの街の主要部を守り続ける強固な見えない壁。その術者こそが、“同族殺し”――重峰イノリという機構である。
 そして同様の結界が、前線都市と“外”とを隔てている。無論侵入者を防ぐためでなく、脱走者を出さないために。
 以前トーマはその結界を破壊しようとして、術者であり結界の存続させる核でもある重峰イノリを襲撃した。結局、失敗したわけだが。トーマ曰く“何度殺しても生き返ってきた”ために。

 「監視塔を壊す、だったか」

 誰もがそう思ったように、セナもまた同じく「無謀だな」と思う。ここまでの道中でトーマから聞いた、財前ユズキの計画。監視塔を壊し魔術師達を解放すると言う、淡い夢。監視塔を壊すということは、それを守っているあの結界をも破壊するということだ。正面から結界を破壊することはまず不可能。となれば取りうる手段は、重峰イノリの抹殺のみ。なんて、言葉で表すのは簡単だけれど。

 果たして彼らは如何にして、不死者を殺すというのだろう。セナはそこまで考えてすぐに思考を打ち切った。きっとそんな当たり前の理屈では止められない衝動で財前ユズキは動いている。ならば彼の、彼らの意図など他者に理解出来るはずもないのだ。諦めることに慣れた魔術師という生き物が、諦めないことを選択するのにはそれだけの決意が要ることをセナはよく知っている。
 だからこそ、哀れだった。おそらくあと数時間もしないうちに彼らの無知な夢は砕かれるだろう。かつて自分も通った道であるが故に、偽りなく彼らに同情している。けれども。

 それはそれとして、巻き込まれるのは面倒だし迷惑なのである。

 暗がりに潜むようにして蠢く“橋姫”を横目で牽制し、セナはトーマの後を追う。出来るだけ早々に、手っ取り早く、いつもの日常へ戻るために。


 「……で、手は打ってあるってのはどういうことだ」
 「ふん。まさかこの己れが、ただの鬱憤晴らしでああも派手に撃ったと思っているのか」
 「あんたはやりかねないだろ」

 旧製鉄所地区は西の魔術師の多くが居住している場所でもある。その頭上をあれだけの一撃が掠めたのだから、いくら修羅場慣れした魔術師たちとはいえ動揺しないはずもなく。いつになくざわめいている群衆を割るようにして、トーマは心なしか早足で通りを進んでいった。セナもまた、それに続く。
 「連中からの協力要請。それに、己れはこう返答してやった。――分を弁えろ、とな。まず己れと対等に口を利こうというのが烏滸がましい。すぐにこの手で引導を渡してやるから有り難く思え、とな」
 「はぁ」
 「気のない返事だな。……まぁ良い。さて今の砲撃、己れは鶴翼大橋を目掛けて撃った訳だが。ここから橋までの中間には何がある?」
 その答えは、改めて考えるまでもなくセナの脳裏に浮かんだ。同時に、砲撃の真意も。
 「――造船所跡か」
 「あァ。以前から連中がよく出入りしていた場所だ。潜んでいるならばおそらくそこであろう。して、ここに住む奴らのこの騒ぎを見ろ。先にわざわざ警告までしてやったのだから、頭の上を大砲が通ればいくら阿呆でも気付くさ。死がそこまで来ているとな」
 「そうして慌てて出てきたところを捕まえる、と?大雑把な策だな」
 「いちいち雑魚探しなんぞしてられるか。連中の大半を処分すれば己れ達の疑いは晴れる。その先は同族殺しの仕事だろう。――まぁ、どのみち財前ユズキの狙いは監視塔だ。ある程度追い詰めてやれば、遮二無二構わずそこに向かうしかないだろうが」
 つまらなそうに吐き捨てて、トーマはそれなりに高さのある段差を構わず飛び降りる。そこでようやく彼は振り返り、セナを見上げた。
 「こちらは己れと東の二人で事足りる。貴様は後詰めだ。逃げ足の早い奴らを片端から始末しろ。そういうのは、得意だった筈だな?」
 「……はいはい」
 ぐしゃりと髪をかき回し、セナは『瞬間移動』を起動する。座標を固定し、術式を入力。緩く伏せた瞼の裏に転移先の座標を描いて。
 トーマが再び歩き出す。その背後から、既にセナの姿は消えていた。

第3章 第3節「ただ歩むと決めた日に」
 思い返せば、始まりは些細なことだった。
その日は哨戒の当番が割り振られていた。普段ならば欠伸混じりに見回りをして、次の当番に適当に引き継いで。さっさと家に帰りシャワーを浴びる、筈だったのに。結局は運が悪かったということだろう。――いや、もしかしたら、良かったのかもしれないけれど。
 突如頭上に現れた巨大な影。そこからぬるりと這い出してくる外敵の姿に、僕は情けなくも腰を抜かしてしまった。敵の階級はおそらくB程度で、リクさんやルカさんならあっさりと倒せてしまえただろう。でも大して力のない僕にとっては、確かな死の気配だった。
 外敵討伐で死ぬ東の魔術師はそう多くない。けれど、ゼロでもない。リクさんが前に出て庇ってくれるから、ルカさんが後ろから援護してくれるから、減少傾向にあるのは間違いないけれど。それでも僕らのような普通の魔術師にとって、死はいつだってすぐ隣にあるものだ。だから僕も当然のように、「あぁ死ぬのだな」と思って。
「死にたくないなぁ」と思って。
鎌に似た前足が振り下ろされるのを、実感なく見つめていたその時に。
僕は、“彼”に出会ったのだ。

 監視塔は“彼”を処分対象に選んだ。破棄されるべきものだと認定した。でも、けれど僕にとって“彼”は間違いなくヒーローだったのだ。あのとき“彼“が身を挺して庇ってくれていなければ、僕はとっくに死んでいたんだから。幸せになってほしかった。こんな街で何を、と嗤われるかもしれないけれど。彼と彼の大切なひとが幸せになるところが見たかった。

 なのに。あの男はそれを壊した。人間たちの言いなりになって、あの男は。何も知らないくせに。何も知らないくせに。何も知らないくせに!
彼がどんな風に生きてきたのか。彼女が何を思ってそこにいたのか。二人がどうして戦場を離れたのか。知らないままで、わかろうともせずのあの男は彼らを殺したのだ!

 二人の遺体が運ばれていくのを見た。きっと能力の装置だけ取り出して燃やされるのだろうと思った。魔術師が死んだらそうなると決まっているから。
だから。
全部ぶっ壊してやろうと決めたのだ。こんな歪んだ街も、諦め切った魔術師たちも、腐った人間たちも、そしてあの、悪魔のような“同族殺し”も。僕はきっとそのために生き延びたのだと確信している。
最初は監視塔だ。あれさえ壊してしまえば人間たちの目を一時的にでも遮れる。そうすればこちらの動きが“同族殺し”に読まれにくくなる。その隙をついて、殺す。あとは街の外へ出るだけだ。
計画は速やかに実行されなければならない。迅速に。しかして慎重に。監視塔が共犯の選別に手間取るよう多くの魔術師を巻き込んで、かろうじて時間は稼いだけれど。それでも、そう長くは保たない。
元々練りに練った計画というわけではないのだから、想定外の事態が起こりうることも予想している。それで良い。何を失っても、どんな過程を経ても、目的さえ達成されれば。それだけの覚悟が。

なのに。どうして、こうなった?



 財前ユズキは走っていた。
夕焼けに照らされ赤く染まった大通りを、一心不乱に駆け抜ける。狙撃されるリスクを考えて鶴翼大橋を避け、汎用魔術『空中遊行』で非正規に西から東へ渡り、その時点でほとんどの魔力は尽きてしまった。だから『身体強化』を施す余裕もなく、脳内でアラート信号を出し続ける魔力管制デバイスから必死に気を逸らす。大きく肩を揺らしてなんとか酸素を取り込みながら、ただただ懸命に足を動かしている。
 不知火トーマによって潜伏先を炙り出された。そう気付いたおよそ1時間後には、全てが終わっていた。嘘と本音で騙し協力を約束させた西地区の荒くれ者共は、空から落とされる大砲の一撃で沈められた。なんとか反撃しようと武器を構えた者の側頭部を、神崎ルカの魔術が貫いた。その時点で既に戦意を喪失し座り込んだ者を、大鏡リクの大剣が薙ぎ払う。
 それでもなんとか逃れようと足掻く一団の中にユズキを見つけて、リクは憐れむようにこう言った。
――「残念だよ」と。

 ユズキは奥歯が欠けるほどに噛み締めて、血の滲む腕を強く握り締める。ユズキとともにあの場から逃げ出せたのはたった5人。この人数で、果たして監視塔の破壊など。
 否。壊せるかどうかなどどうでもいい。壊すと決めたのだから、そうするだけだ。
 腹を括り、覚悟を決め直す。監視塔の真下にはあと数分のうちに到着するだろう。そうしたらすぐに渾身の一撃を叩き込むつもりで、それを他の魔術師に伝えるためにユズキは振り返る。

 そこには、誰の姿もなかった。

 「……は?」
 思わず、間の抜けた声が唇から漏れる。つい先ほど、そう東地区に到着した時には確かに5人の魔術師がいた筈なのだ。皆疲れた様子ではあったけれど、未だ心の折れていない同志たちが。
それが、どこにもいない。裏切られた、という言葉が脳裏を過ぎったが、しかしそれにしても一切の気配なく消えることなどあり得ない。ルカの狙撃を受けたにしても、死体すらないなんてことは。
 考えが纏まらず、ユズキは一度足を止めた。そんな暇はないと分かっていてもあまりの不気味さに体が動かなかった。一体何が、と周りを探ろうとして。
 過敏になった聴覚が、きしり、と何かの軋む音を拾った。それは、確かに頭上から。
振り仰ぐ。そして、“それ”と目が合った。

 「ひっ……!?な、なん」
言葉が喉奥で絡まる。本能的な恐怖を自覚したユズキが咄嗟に飛び退っても、“それ”は身動ぎひとつせずそこにいる。
 まず目に入ったのは、黒く黒く黒い髪。光すら呑み込むような黒が幾つもの束になって、長く垂れ下がっている。その隙間に見える白い肌に血の通っている様子はない。触れれば恐ろしく冷え切っているだろうそれは、まるで輪郭だけ似せたように人間の――正確には少女人形の形をとっていた。黒いワンピースから覗く罅の入った細い両腕が、電線にぶら下がるようにして体を支えている。両足の膝から下がぶつりと切断されているせいで、直立することが出来ないのだろう。先ほど聞いた音は“それ”の球体関節が軋む音だったのかと、ユズキはどこか他人事ような感想を抱く。
 すると、そちらを見上げることしか出来ずにいるユズキの後ろで唐突に小さな足音が鳴った。そこでようやく我に返ったユズキは、慌ててポケットから自身の武装端末を取り出そうとする。
 その瞬間に、目の前の化け物ががくりと首を傾げた。両目に位置する空洞が、ユズキへ向けられて。
 
 気づいた時には、右肩から脇腹までがざっくりと斬り裂かれていた。

 「ぎ、ぃ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!?」
一拍の間を置いて悲鳴が上がる。激痛に耐えきれず膝をついたユズキの横を、見知ったデザインの軍靴が通り過ぎていった。
 「あ、あ、あ」
気力を振り絞って彼は顔を上げる。何が起こったのか把握しようとしたユズキは、しかし化け物を背後に従えてこちらを見下ろすセナの姿を見留めた途端に全てを理解した。
――『橋姫』。西地区の隠密作戦部隊長が所有する、魔術式。

 「……一応言っておくが、」
 先に口を開いたのは、セナの方だった。
 「俺はもう“その”役目は下りた。お前が俺の名前を出したりしなければ、こんな面倒な真似をしなくて済んだのに」
 低く冷たい声色に嫌な汗が背を伝う。姿を見たのは初めてである筈なのにどこか見覚えのあるその容貌は、一体誰に似ているのか。痛みに耐えながら身をよじり、這いずりながらユズキは思う。

 ――例えば今ここで戦って、勝てる可能性はどれくらいあるだろう。

 彼は自分の平凡さを知っている。相手が本当に例の魔術師ならば、きっと瞬きの間に殺されるだろう。いま、彼はどうやってこの傷を受けたのかすら理解できていないのだから。では逆に、逃げることだけに専念したとして。逃げ切ることなどできるものなのか。背を向けた途端に殺されるのではないのか。――刺し違える覚悟で挑めば、奇跡的に倒せるかもしれない。しかしその後は?セナを殺せたとして、それはユズキにとっての勝利ではない。
目的を見失ってはいけない、と彼は脂汗を拭うこともできないままセナを見上げる。硬質な灰色の瞳にみっともない自身の姿が写っているのをみつけて、それから居住まいを正した。少し動くだけで激痛の走る体で、懸命に土下座の姿勢をとる。あとはもう、祈るだけだ。
 「お、ねがい、します。そこを通して、ください。おねが、します。どうか、」
 アスファルトに額を擦り付けているユズキは、セナの表情を窺えない。けれど少し間を空けてから静かに投げかけられた声は、意外にも穏やかなものだった。
 「無意味だ」
 「、……」
 「俺がここでお前を見逃したとして、そう長くは生きられないだろう。もう、お前の至る場所は決まっている」
 「はは……そう、かな。そうかも、なぁ」
 「――それでも、行くのか」
 「行きます」
 行かなきゃいけない。そう決めたんです。

 セナはしばらく押し黙り、やがて小さくため息を吐いた。思わず体を強張らせたユズキから視線を逸らすと、頭上にぶら下がる魔術式の少女を見上げた。
 「橋姫」
名を呼ばれた彼女が、電線から手を離す。そのまま重力に従って落下し地面に衝突する直前で、彼女はとぷんとセナの影の中へ消えていった。
 ぼんやりとその様を眺めていたユズキに道を譲るように、セナは半歩下がってこう言った。
 「好きにしろ。後は、俺の知ったことじゃない」

 死の気配は、未だ肩の上にのしかかっている。それでも進むべき場所は見えた。だからユズキはなんとか『身体強化』を起動し、重い体を引きずって立ち上がる。もはや礼のひとつも口にする余裕はなく、執念だけで歩みを進めるその背を、セナは黙して見送った。

 財前ユズキの終着点は、すぐそこまで迫っている。

第3章 第4節「至るべき場所へ」
 視界一面に広がる藍色の花畑。不釣り合いな“立ち入り禁止”の黄色いテープ。現実離れしたその光景の中心には、標的であった監視塔と、それから。
 
 「同族、殺し」

 ユズキが血液とともに吐き出した言葉はほとんど声になっていなかったが、それでも静寂に包まれたこの場所ではきちんと向こうに届いたらしい。同族殺し――重峰イノリはユズキの悲惨な有様に一瞬目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。
 「はじめまして。財前ユズキさん、ですね」
 「……知ってるのか、僕のこと」
 「えぇ。先ほど監視塔からあなた方の処分命令が下されました。その内今も生き残っているのは、貴方だけです」
 さくり、さくりと。花を避けるようにしてゆっくりこちらへ歩み寄ってよってくるその様に、敵意はないように思えた。しかしユズキは彼の正体を知っている。穏やかなのも優しげなのも見せかけだけで、浮かべた微笑は偽物だ。あまりにも自然に振る舞っているせいで意識から外してしまいそうになるけれど、左手には今も、嫌になるほど白く美しい薙刀が携えられている。
 その刃がこれまでに沢山の魔術師の命を絶った。山岡ミズチも、水車町カノコも。きっと何の感慨も思い入れもなく、あっさり首を落としたのだろう。ふたりの遺体を見たときからずっと、ユズキはそのことが許せずにいた。だから、無駄とわかっていても問わずにはいられない。
 「なんでころした」
 イノリはゆるやかに首を傾げてみせる。幼い子どもを諭すような仕草だった。
 「そう命じられたからですよ。何故処分対象にされたのか、理由が知りたいのなら説明しますけれど」
 「……人間の命令ならだれでもころすのか」
 「はい」
 「っなら!死ねと言われたら自殺するのか!」

 流石に予想外の質問であったのか、イノリはぱちりと瞬いた。湿気を含んだ緩い風がふたりの間を抜け、花弁と彼のストラを揺らす。
ややあって口を開いたイノリは、まるで当たり前のことのように言った。
 「するでしょうね。そういうものです」
 「――はは、成程。おまえはもう、とっくにおかしくなってるんだな」
 そこまでが、ユズキの体の限界だった。
もはや立っていることすらままならず、崩れるように膝をつく。名前も知らない花が自分の血で汚れていくのが不思議と滑稽で、気づけばユズキは声を上げて笑っていた。
 意地と執念だけでここまで来た。けれどここからどうやって仇をとればいいのだろう。「無意味だ」と言った魔術師のことを思い出す。彼に命乞いまでしたというのに、結局は全て無駄だったのだ。何もやり遂げられず、どこにも至れずに終わる。リクさんやルカさんのことだって利用して。そんな自分がみっともなくて情けなくて、ぼんやりと空を仰いだ。どうしたって視界に入る監視塔が鬱陶しく、憎らしい。
 既にこちらが戦意を喪失していることを見てとったのだろう。重峰イノリは、静かにユズキの前へと傅いた。――まるで敬虔な神父のように。
 「諦めるのですか?」
 「……どうしろっていうんだよ。ここから。もう僕にはほとんど魔力も残ってない。体だって動かない」
 「そうですね。この傷は、……“橋姫”ですか。ならば確実にあなたは死ぬでしょう。セナさんはあれで優しいから、わかっていてそれでも見逃したんですね」
 「は、ははは。でも全部無駄だ。無駄だったんだ。最初っから無謀な夢だった!あの塔を壊すなんて、おまえを殺すなんて、僕にはできっこなかったんだ……」
 「――さぁ、それはどうでしょうね」

 は、と呆けたユズキにイノリは苦笑を浮かべて、手にした薙刀を無防備に地面へ置いた。代わりにユズキのポケットに手を伸ばし、そこに潜ませていた武装端末を起動する。戦闘形態のナイフに変形したそれを、血塗れのユズキの両手に握らせて。
そのまま、切っ先を自分の喉元に突き付けた。
 意味がわからず戸惑うユズキに、声色ひとつ変えずイノリは囁く。
 「後は力を込めて突き出すだけ。骨に当たれば刃は止まってしまうけれど、『身体強化』を起動したままなら砕いて貫ける。……手が震えているね。大丈夫。手伝うよ」
 「なに、言って」
 「あなたのしてきたことの全てが無駄なんてことはない。無謀で、無意味だったとしても。できることはあるし、遺せるものもある」
 「……そのために死んでくれるって?」
 「あなたが望むのなら」

 力の抜けたユズキの両手を、イノリが包み込むようにして支えている。残酷で残忍な同族殺し。その手がちゃんと温かいことが意外で、だからこそユズキは彼の異常さに気がついた。
 死んでくれと望まれて、請われるがままに死ぬ生き物がこの世にどれだけいるだろう。生存は本能だ。絶望や不安から衝動的に死を選ぶことはあっても、重峰イノリの言動はそれすら逸脱している。
――やっぱり、この男はもうおかしくなっているのだ。
改めてそう結論付けて、ユズキは己の体を叱咤する。この機会を逃すわけにはいかない。たったひとつでも、成し遂げられるものがあるのなら。

 「じゃあ、頼むよ」
 「はい。任されましょう」

あなたが。
果てなき旅路の果て。
約束の地へと至らんことを。

 イノリの呟いたそれが教典の一節だと理解するより先に。ユズキは、手の中のナイフを突き出した。

 その感触が、彼の最期の記憶である。

第3章 第5節「汝、戦争に備えよと人は言う」
 前線都市はいつも通り夜を迎えようとしている。

 監視塔の真下。イノリは目の前で息絶える財前ユズキを一瞥する。変種の竜胆の花弁が、彼が身を起こした拍子にぱらぱらと散った。
 この花を植えたのは初代の『重峰イノリ』だった。彼女は前線都市を愛して、そこに住む魔術師を愛して、外の人間すらも愛した。武骨な監視塔を飾る花畑が、彼女の愛情の証だった。
そしてその愛こそが、彼の身に宿った呪いの正体でもある。

 『無限再生』

 死ぬたびに生き返り、また死ぬために生きて。死んで、生き返って、そんな命の冒涜を無限に繰り返す魔術。それは現在の『重峰イノリ』という機構を存続させるためのシステムであり、魔術師を前線都市に封じ込めるための鍵そのものでもあった。彼が死なない限り、街と外とを隔てる結界が破られることはないのだから。
 故に。彼はこれまでに何千、あるいは何万回と死んでいる。魔術師にも、外敵にも、人間にも。ありとあらゆる方法で殺された記憶を有して生きてきた。“死”の概念に恐怖を抱かなくなったのも、もう随分と昔の話である。

 こほ、と喉奥に残っていた血を吐き出して、イノリは自分の体を見下ろした。再生する際に無意識下でナイフを引き抜いていたようだが、そのせいで服にはべったりと血がついてしまっている。カソックもストラも血の汚れが目立つ色ではないけれど、かといってあまり良い気分はしない。
 ひどい有様だと自嘲して、彼は少しだけ魔力を放出した。それをエネルギー源として衣服が損傷の回復を始めたとき、傍らの薙刀が音もなく形を解く。
そうして人の形をとったミコトは、眉間に皺を寄せて何も言わずに押し黙っていた。

 「みこと、」
 「……」

再生したばかりで上手く回らない舌でその名を呼んだみたものの、返事はない。
 彼が怒っていることをイノリはわかっていた。確かにミコトは所有される立場の魔術式ではあるけれど、それだけではない理由で、イノリが自死したことを怒っている。だから素直に、謝意を口にした。
 「ごめん」
 「改善する気もないくせに謝るな」
 「……そうだね。でも、ごめん」
 彼の頬に手を伸ばそうとして、イノリは自分の掌が血塗れであると気がついた。中途半端に差し出された手を、ミコトがため息混じりに片手で掬い上げる。それを自らの頬に添えさせて彼は言う。
 「おまえの、そういうところは嫌いだ」
 「うん」
 「だから、極力控えてほしい」
 「――ありがとう」
 
 いつまでもこうしてはいられない。処分完了の報告と、素体回収の依頼。やるべきことは沢山残っている。完全に夜が訪れる前に終わらせてしまいたいと、イノリはミコトの手を借りて立ち上がった。そしてそう定められた通りに、ロザリオを握る。

「――……主よ。どうか彼の者に、神々の天秤にて正しく罰を与え給え。願わくばその魂が、永き贖罪の果て、約束の地へと至らんことを――」

命令は完遂された。被害も最小限に留まっている。不知火トーマをはじめとする重要戦力を失うことも避けられた。
けれど、気を抜くわけにはいかない。

計画は速やかに実行されなければならないからだ。
迅速に。しかして慎重に。
……そして誰にも知られぬように。

 神々の目さえ欺く大芝居を仕掛けるには未だ不十分。だからイノリは、今日も『重峰イノリ』であり続けなければならないのだ。

やがて訪れる戦争に備えて。

 規定通りの報告を終え、イノリは大きく体を伸ばす。もう彼が足元の財前ユズキに目を向けることはないだろう。彼の歩むべき道は『無限再生』の呪いを受けた瞬間に定まっている。今更、魔術師ひとりの死程度で揺らぎはしない。
 「帰ろうか、ミコト」

 傍らに魔術式を伴って。
重峰イノリは、花を踏みつけるように歩き出した。

断章 「忘れ去られた物語」


 窓のない実験室に、円柱形の水槽が等間隔で並んでいる。その隙間を踊るように軽快な足取りで進む少女は、満足そうに小さなガラスケースを抱えていた。ぺたり、ぺたりと素足の足裏がリネリウムの床を叩く。生成りのワンピースの裾が風をはらんで揺れて、少女の長い金髪を際立たせている。
 少女は実家室の最奥まで進むと、真新しい水槽の前で足を止めた。ほのかな光源に照らされた水中にはまだ何も沈んでいない。少女はガラスケースを開き、爪先立ちになりながらその中身を水槽の中へと落とす。
 こぽ、と小さな泡とともに何かが水槽に沈む。それは紛れもなく、人間の脳そのものだった。

 少女が愛おしそうに、まるで恋人と手を合わせるようないじらしさで触れたその水槽には、“財前ユズキ”というネームプレートが掲げられている。

 「お疲れ様。おかえりなさい。辛かったね。苦しかったね。悲しかったね。でも、もう、大丈夫なの」
 少女は笑う。返答する筈もない脳を相手に、それでも芝居がかった口調で語りかけ続けている。

 「終わらない夢をみましょう。誰も知らない夢を。みんなが忘れた夢を。私たちの前線都市を。私たちの物語を。そのために私がいるのだもの。終わらせたりしないわ。大丈夫――外敵が存在する限り、前線都市は終わらない」

 すると、彼女の言葉に応じるように魔力が水槽内を満たし始めた。それは特殊な溶液と混じり合い、水槽の下部に接続されたケーブルを伝って流れていく。
 いくつもの水槽から伸びたケーブルはやがてひとつに束ねられ、その先で不恰好な怪物を形作っていく。
それは魔術師達が、あるいは人間達が、ただ一言『外敵』と呼称する―――

 「終わらない夢を見ましょう。みんなでいっしょに。ずっと、ずっとよ。ねぇ、そうでしょう?あなたがそう望んだのだもの。私は必ず叶えてみせる」
 少女はワンピースの胸元を両手で握り、小さな声で囁いた。まるで、自分自身に言い聞かせるように。

 その少女は、かつて重峰イノリと呼ばれていた。

前線都市

前線都市

SFでダークファンタジーな日常系のバトルものを目指した結果です。テーマは『規則と反抗』。 舞台は近未来、もしくは“ありえたかもしれない現代“。正体不明の『外敵』に対抗するため、人々は『魔術』と『魔術師』を作り出した。これは人として生まれ魔術師として生きる少年少女の物語。 副題は『いつか、至るべき場所へ』

  • 小説
  • 短編
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-27

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC
  1. 第1章 重峰イノリという機構について
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 第2章 神崎ルカの長い1日
  6. 6
  7. 7
  8. 8
  9. 第3章 ふたりの裏切り者
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  15. 断章 「忘れ去られた物語」