二月の桜

二月の桜

気に入っていただければ幸いです。

「奇跡を、起こしてくれないでしょうか。私だけのために」

「……それが、貴女の望みならば」


『二月の桜』


 願わくば 花のしたにて春死なん



「お断りいたします」


 凛とした涼やかな声で桜子(さくらこ)は答えた。穏やかな風が吹く温かい春の日だった。

 病院横の小さな公園、桜の木の下いつものやりとり。

「……そう、ですか」

 毎度のことなのだからいい加減慣れればいいのに、今回もまた優(ゆたか)はがっくりと肩を落とす。

 そのあまりに情けない姿に、それまでの真剣な表情を崩し、桜子はふっと笑みを浮かべる。この実直な青年のことが、彼女は好きだった。

「もうそろそろ、諦めますか?」

 試すように、からかうように、桜子は訊いた。まさか、と勢い良く顔を上げる優。その真っ直ぐな瞳はただ桜子だけを必死に求めている。

「そう……。優君は、こんな年増のどこが良いのでしょうね」

 何度目だろうか。

 澄んだ瞳を見つめ返しながら桜子は考える。

 自分が優に求婚されるのは、これで何度目だろうか、と。

 少なくとも、二十回は越えているはずだ。

「すべて、です。七歳程度の歳の差など関係ありません。それに、桜子さんは今でも充分に美しいです」

 優は熱のこもった返答をした。

 好いた男に自分を、特に自分の容姿を褒められて嬉しくない女はいない。しかし、桜子はそれを表に出すわけにはいかなかった。彼女は何度もそうしてきたように無理矢理感情を押し殺す。

「僕は医者としての桜子さんに憧れ、女性としての貴女を慕います」

 迷いのない声で優は告げた。


 奇跡の外科医。そう桜子は呼ばれていた。そのずば抜けた腕に救われた命は数知れない。過去に一度、彼女は高名な教授すら諦めた患者をまさに奇跡的に助けたことがある。桜子の名に奇跡の冠がつくようになったのはその出来事からだ。

 優は、そんな桜子の後輩にあたる医師だった。新米で、まだ若い。一見大人しそうな彼は、少し異常なほどの情熱と積極性で幾度も桜子への求婚を繰り返した。

 さして親しい仲でもない相手に突然結婚を申し込むなど非常識であるし、女性を馬鹿にしていると言っていい。当然桜子も初めの頃は優に腹を立てていた。だが、二度三度ならまだしも十回二十回と心の底から愛を告げられては、次第に情も移る。桜子への求婚という奇行にさえ目を瞑れば、優という男は真面目で誠実で勉強熱心な好青年だった。顔立ちはさっぱりと整っているしすらりとした長身は白衣も似合う。今となっては、優と自分のどちらの想いの方が強いのか桜子にはわからなかった。

 けれど、桜子は決して頷かない。

 正確には、頷けない。

 彼女には、優の想いに応えることは出来なかった。

「そういう風に言ってくださるのは嬉しいですけれど、私は医者を辞めるつもりはありませんので」

 桜子達の時代では、女性の権利はまだまだ弱かった。桜子は幸運にも実家が名家だったためなんとか思うように就職することが出来たのだ。それが限界だった。いくら技術や名声を高めたところで女性に出世は望めない。だが、桜子はそれでも構わなかった。地位や金が欲しくて医者になったわけではないのだから。ただ人を救い続けることさえ出来ればそれで良い。

 結婚して家庭に入ってしまえばそれが出来ない。だから、結婚も出来ない。

 桜子なりの断り文句だった。

 初めの頃は単に厭だ嫌いだで押し通していたのだが、近頃はそういうわけにもいかなくなっていた。嘘をつきたくはないのだ。嫌いではなくなってしまったのだから、どうしようもない。

 言い訳の種類も残り少なくなってきている。

 いずれは、本当の理由を話す時が来てしまうかも知れない。

「構いません。僕自身、桜子さんにはずっと医者を続けて欲しい。貴女ほどの力を持った人ならば、それが当然です」

 この時代の男性の言葉とは思えない科白を優は吐いた。喉元に何かがせり上がってくるような辛さに耐え、桜子はただただ苦笑する。一体何と言えば、優は諦めてくれるのだろうか。

 風が吹けば良いのにと、桜子は祈った。桜を散らせて、桃色の幕で優を隠して欲しかった。

「私は、子供を産む気もないのです」

 それは、ある意味で本当であり、ある意味では嘘だった。桜子は昔から子供好きだ。我が子ならばさぞ可愛いだろうと思う。きっと自分は慈しんで育てるだろう。ひょっとするとそのためだけならば、医者を辞めてもいいかも知れない。目の前の青年も、間違いなく優秀な父親になる。

 だがおそらく、桜子が子供を産むことはない。

「構いません。僕は貴女さえ居てくれるのならば、それで充分です。桜子さんの何かが問題で、僕の伴侶に相応しくないなどということはあり得ません。僕は貴女以外は何もいらないし、貴女のためならば何でもします」

 聞いている方が恥ずかしくなるようなことを優は大真面目に口にする。

 相応しくないなど、か。

 桜子は心中自嘲する。自分ほど優に相応しくない女性もそういないだろうと思った。

「本当に何でもしてくれる、のですか?」

 悪戯っぽい顔を作って桜子は尋ねる。神妙に頷く優。

「はい。それで桜子さんが僕を受け入れてくれるのならば、何でも」

「では、院長になってください」

 優はきょとんとする。

「院長というのは、病院の院長のことですか?」

「ええ。いくら優君が結婚しても私を縛らないと言ったところで、世の中はそれを許さないでしょう。結婚すると決まった途端私は職を取り上げられてしまうかも知れない。だから優君は、この病院の院長になってしっかり私を雇い続けてください。そうしてくれるのならば、私は妻として貴方の隣に立ちましょう」

「本当ですか? 桜子さん。もしも僕が院長になれたら、その時は、本当に……?」

 興奮気味の優に桜子は小さく微笑んだ。

「もしも本当に優君が院長になれて、かつ、その時まで私を想い続けていたなら。結婚も、考えましょう。ただ逆に言えば、その二つが達成出来ない限りは絶対にダメ、です、……よ?」

 後半の言葉はおそらく優の耳に届いていない。

 子供のように手放しな笑みを浮かべる優に、ひょっとして自分の意志はちゃんと伝わっていないのではなかろうかと桜子は不安になる。


 彼女たちの時代、病院の院長などは完全に世襲制だ。桜子たちが勤める病院の現院長には偶然にも息子がいなかったので、その気になればあるいは本当に優が次期の院長になることも出来るかも知れない。可能性はある。しかし、それはつまり、優が現院長の義理の息子になるということ、桜子以外の女性と結婚してしまうということだ。院長になることと桜子と結ばれることは決して両立しない。要するに、これもまた桜子なりの遠回しな拒絶なのだった。

 どうやら、今の優はそこまで意識が辿り着いていない。

 まぁ良いかと、桜子は心の中で一人呟く。

 優とて馬鹿ではないのだから、じきに桜子の言葉の意味に気が付くだろう。それまでは、夢をみさせてあげるのも悪くない。

「さて、そろそろ戻りましょう。優君が私を攫っていくのにはもうみんな慣れているでしょうけれど、仕事を疎かにするのは良くありません」

「はい!」

 はきはきと返事をして、優は颯爽と病院へ駆けだした。どんどん遠ざかっていくその背中をゆっくりと追いながら、桜子は僅かに目を細める。優の存在が、今の彼女には少し眩しかった。


 時々。

 本当に時々、桜子は色々なものを恨み、呪う。

 自分を救ってくれない世界だとか、

 残酷な運命だとか、

 無情な時の流れだとか、

 禁忌と知りながら、未だ優に甘えようとする自分だとか、


 それら色々を、桜子は呪う。



「申し訳ないんですけれど、貴女の好意には応えられません」

 優は言った。けれど、静香(しずか)はさして傷ついた様子もなく、納得した風にただ小さく頷いた。

 主不在の院長室で、二人は向き合っていた。

「桜子さん、ですか?」

 事務的な確認のように彼女は訊く。

「はい」

「そうですか……。なら、仕方ありませんね」

 何が仕方ないのか優にはよくわからなかったものの、素直に受け入れてくれたことは有り難かった。思い上がりだと自覚はしていたが、自分が拒絶することによって静香が傷つくことだけが、彼に今まで明確な返答を躊躇わせていたのだ。

 しかし、例え僅かな可能性だとしてもようやく桜子との関係に希望が見えた今、他の女性に逃げ道を残すようなまねをするわけにはいかなかった。


「優さん、貴方、酷いお方です」

 言うべきことも言ったしと席を立とうとした瞬間、静香が恨めしそうな声をあげた。優は慌てて座り直す。

「優さん、今、私がさして傷ついていないと思われたでしょう」

 図星を突かれて優が驚くと、静香はやっぱり、と薄く微笑んだ。優は、そんな彼女を美しく思う。女性にしては長身な桜子と違い、小柄で淑やかな静香。肌は怖いくらいに白く、長く伸びた黒髪は先まで艶やかだった。いつもは小洒落た洋服などを着ているが、彼女は着物がさぞ似合うだろう、と優は常々思っていた。

 容姿端麗で、院長の娘という家柄もある。歳も十九とまだ若い。そんな彼女がどうして自分を選んだのか、優は不思議でならない。

「思い人にすげなく断られて、悲しくない女はいません」

 きっぱり告げる静香。なんと応えたらよいかわからず、優はただただ小さくなるばかりだった。

「桜子さんだから諦めるのです。あの人は偉大な医師ですし、女の私から見ても美しい。人として、女性として、桜子さんはこの上なく魅力的です。悔しいですけれど、敵う気がしません」

 静香は切なげに目を伏せる。

「貴女には、きっと僕などより相応しい方が現れるでしょう。どうか、その方と幸せになってください」

 精一杯の誠意を込めて優は言った。静香のことは、嫌っているわけでも、好いていないわけでもなかった。もしもこの世に桜子がいなければ、きっと二人は結ばれていただろう。

「……本当、残酷な方」

 静香は苦笑し、やがてゆっくりと首を横に振った。心を離れ、体を伝い、そして揺れる黒髪の先から自分への想いが振るい落とされているのだと思うと、優はなんだか不思議な心地がした。

「けれど……、辛くはないのですか?」

 幾分さっぱりした顔で静香が尋ねる。自分の恋情がいつまでも片想いに過ぎないことについて指摘しているのだろう、と優は思った。しかし、何故だかわからないが今までそれを辛いと感じたことはなかった。

 それに、今の優には微かな希望がある。

「ここだけの話ですが。実は、僕は将来この病院の院長になろうと考えているんです」

 例え条件付きだとしても、桜子の心が少しでも自分を許容してくれたことが嬉しかった。


 優の発言に最初きょとんとしていた静香は、やがてさっと頬を染めると、訝しげな表情をした。

「……あの。まさかとは思うのですが。それは、その、遠回しな求婚でしょうか?」

「はい?」

 しばしの黙考。

 厳かな造りの院長室に、呆けたような時間が流れる。

 そうして、ようやく桜子と静香の言葉の意味を理解した優は、慌てた。

「あ、いえ、違うんです」

「……ええ、ええ、そうでしょうね。大方、桜子さんの体の良い断り文句を真に受けたのでしょう。……まったく、馬鹿みたいですね、お互い」

 疲れたような溜息をつく静香。優は、どうしようもなく自分が情けなくなった。

 もう出ましょうという静香の言葉で、二人は部屋を後にした。後ろ手に閉めた扉の向こうには、行き先を見失った二人分の恋情が取り残されていた。

 純白の壁に緑の廊下。窓から差し込む陽光が冷たいリノリウムと戦う中を優達はぼんやりと歩く。

「今晩、夕食をご一緒しましょう」

 足を止めず、顔も向けず、少し俯いて静香は提案した。柔らかでありながら、断ることの出来ない強さを秘めた声だった。

「優さんには、知っておくべきことがあります」


 桜子はふと、どうして自分がここにいるのかわからなくなった。

 目の前には、満開の桜と緑の芝生、古びたベンチと、座って絵を描く優の後ろ姿。

 霞んだ空気、温かな風。

 ひょっとすると、これは夢かも知れない。

 桜子は思った。

「どうして、夢とはあんなにも儚く、短いのでしょう」

 我知らず桜子は呟いていた。

 もしもこれが夢ならば、一晩中覚めなければ良い。そうすれば、自分は二倍の時間、二倍の幸せを生きることが出来るのに。

「きっと、儚くて短いものを夢と名付けたんですよ」

 筆を止め、優は答えた。振り向きこちらを見つめる目は、眩しげに細められていた。月並みですね、と彼は苦笑する。

「もしそうならば、私の人生は、夢のようなものですね」

 桜子はかまをかけた。

 優はただただ微笑むばかり。

 ああ、知ってしまったのだな。と、桜子は感じた。

「優君。私を描いて貰っても良いですか?」

 桜子の問いに優はハッと目を見開いた後、静かに頷いた。桜の下を示す指に従い、彼女は彼の正面に移動する。

 長い時間、優は無言で絵筆を走らせていた。時々向けられる真摯な目は、しかし桜子を人としては見てはいなかった。風景として、線として、色として自分を捉える、絵描きの瞳。

 それで良い。と、桜子は思った。そうして、自分を過去にしてしまえば良い、と。

 未来など無く、今だけを切り取り、カンバスに貼り付ける。描き終えた絵は過去だ。優の目が、手が、心が、桜子を美しい過去にする。

 辛いとは思わない。

 遅いか早いかの差でしかないということは、ちゃんと理解していた。

 ただ、少し寂しいだけ。


「桜子さんは、やっぱり、春にお生まれになったんですか」

 唐突に筆を水入れに置き、優が尋ねた。今まで知り合った人々から、もう何度も訊かれた内容。

「いいえ。私は冬生まれです」

 桜子が生まれたのは、二月の寒い日だった。

 そうですか、と優は頷く。

「……出来ました。もう、動いて結構ですよ」

 言われて、桜子は彼に歩み寄った。

 隣に立ち、カンバスを覗き込む。

 酷く寂しげな女が、そこには佇んでいた。

 ふと見ると、優も同じように寂しげな顔で桜子を見上げていた。

「別離の悲しみもまた、夢のようなものなのでしょうか」

 優が問う。

「……ええ、きっと」

 桜子は頷いた。

「なら僕は、夢など大嫌いだ。消えるなんて、失うなんて、堪えられない。何一つ」

 優は歯を食いしばり喘いだ。

 諭すように、ゆっくりと首を振る桜子。

「夢をみなければ、人の一生は短すぎます」

 ずっと前からわかっていたことだ。心の準備だけは、必要以上に出来ている。

 十年経ち、二十年が過ぎ、優に孫が生まれる頃には、桜子の病気はもう不治の病ではなくなっているだろう。この世の医学界にはそれだけの見込みがある。人が人を救おうとする思いはどこまでも医療を発展させるはずだ。

 ただ、桜子の命には間に合わない。

 それだけのことだった。

 例え桜子自身が腕のある医師だとしても、そんなことは無関係だ。


 何もかもが、間に合わない。

 もしも桜子が冬に死ぬとしたら、次の桜の開花すら彼女に間に合わないのだ。

 二人の距離も間に合わない。

 何もかもが、もう。


「奇跡を、起こしてくれないでしょうか。私だけのために」

 桜子は呟いていた。

「二月に、桜を咲かせて欲しいのです」

 自分の名が、その元となった花が彼女は好きだった。

 冬咲きの桜というのはもともと存在する。上手く品種改良すれば、きっと二月に開花する桜も作ることが出来るだろう。

 ただ、きっと桜子には間に合わない。

 時の流れを、彼女は呪う。絶対的な未来を、彼女は呪う。

 二月に桜が咲かないように、今はまだ逆らえない流れに乗って、桜子は死んでゆくだろう。

 二月に桜が咲かないように、二人は結ばれない。

 けれど――。


「……それが、貴女の望みならば」

 頷く優に、救われた気がした。

 強い風が吹き、桃色が舞う。春の滴が二人を隠した。


 今この瞬間に死んだとしても、自分は充分幸せ者だ。

 そう、桜子は感じた。



 その冬、桜子はこの世を去った。

 連日続いた大雪はしかしすべてを覆うには不十分で、銀に近い白たちはただただ無遠慮に優の悲愁を映しだした。白銀は死の象徴だ。雪は、その寒さは、生命を殺す。

 嘘吐きだ、と彼は思う。

 別離の悲しみは夢などからはほど遠く、むしろ降り積もる雪に近かった。時が経つに連れて深く積もり、重みを増してゆく。次第に底から冷たく固まり、僅かながらの柔らかさや暖かみもいずれは失われてゆくのだろう。

 そうやって、いつか優の心の中の桜子を覆い隠してしまうに違いない。綺麗に手放すことすら許さずに、幸せだった日々をあざ笑うかのように。掻き抱くほどに溶けて消えゆくと、残酷な罠を盾にして。

 公園のベンチに腰掛け、ぱちりと爆ぜる足下の焚き火を眺めながら、もうどうしようもないのだと優は感じた。それが悲しみの効能であり、それは桜子の死そのものから連なる逃れがたい流れの一部なのだろう。

 傍らに置いてあった絵画を優は手に取る。

「焼いてしまわれるのですか?」

 そう声をかけられ、初めて優は静香が自分の目の前に立っていることに気が付いた。手を止め、彼は今まさに燃やそうとしていた絵を見つめ直す。

 桃の霞越しに佇む桜子がいた。

「寒いですね」

 呟きながら、静香はベンチに積もった雪を優の隣だけ払う。まだ雪が残っていたのか、あるいは溶けた水で濡れていたのか、なんにせよ予想以上に冷たかったのだろう、腰掛ける瞬間、彼女は一瞬身を強ばらせた。生きている人間の動作だった。

 雪に覆われた公園はどこまでも白く、拒絶的で、二人の吐く温かい息もまた冷たく白い。

「焼いてしまえば、それまでなのですよ。絵も、人も」

 優は静香を見た。白い世界の中で彼女の頬だけが鮮やかに色づいている。

 命の色だと、優は思った。

 険しい表情で、静香は優を睨む。

「桜の研究も、やめてしまうおつもりですか」

 彼女の問いに、優は素直に頷いた。眉を寄せ、泣きそうな顔をする静香。

「院長を目指すことも、諦めてしまうのですね」

 優は頷く。

「何故ですか」

「理由が、ないからです」

 優が力無く答えると、静香はどこか腹立たしげに溜息を吐き立ち上がった。彼女はそのまま真っ直ぐ前進し、ちょうど優の正面にある枯れた桜の傍で立ち止まった。そこはかつて、桜子が立っていた場所である。

 今日の静香は、ひどく残酷だ。

「忘れては駄目です」

 いつもの落ち着いた口調とは違う、年相応に幼く、一生懸命な声で彼女は叫んだ。

「どうして優さんは、この冷たい季節に桜を咲かせようとしたんですか?」

 優は目を細め、首を傾げる。彼女は一層声を強くした。

「優さんはただの若い医者でした。私は父の力で仕事を貰えただけの無能な看護婦でした。私たちに出来ることなど、何もなかったんです。でも、優秀な医師だった父や桜子さんでさえそれは同じだった。わかっていたのでしょう? 今の医学には限界があると。だから、貴方は間に合わない自分たちの代わりに春を急かした」

 風が吹き、雪が騒ぎ、静香の白い洋服が靡く。優は公園を覆うようにして並ぶ桜の枯れ木たちを見やった。

 泣き出したくなる自分がいた。

「……夫婦になりませんか」

 唐突に静香が言う。雪に視界を遮られ、優には彼女の表情が見えない。

「そうすれば、優さんは桜子さんとの約束通り院長になれます。桜の研究も続けてください」

 雪は冷たいが乾いている。今この場で一番湿り気を帯びているのは間違いなく静香の声だった。

「それは、未来へ繋がる過去です」

 彼女は今、とてつもない覚悟で言葉を紡いでくれている。それくらいは優にだってわかる。言っていることも、一応は理解している。

 しかし同時に、彼女は自分のような男を選ぶべきではないということも、ちゃんとわかっていた。桜子を忘れてしまうような自分も、桜子を忘れられないような自分も、静香は選んではいけない。

 その選択はきっと、互いにとって最も幸せから遠い。

 そう、優は思う。

 なのに彼女は――。

「……夫婦になりましょう」

 いつの間にか目の前にいた静香が、今度ははっきりと告げる。

 迷いのない瞳だった。



 春(はる)は祖父の優が好きだった。穏やかな、優しい人だ。病院の院長という地位が他人に誇れるものだということも幼いながらに知っている。
 春は生まれつき体が弱かったから、一年の半分以上を優のもとで入院していた。病院での暮らしは少し寂しいが、毎日優に会えるのは嬉しかった。婦長である祖母のことももちろん好きだったが、彼女はどちらかというと春の姉のことを可愛がっていた。

 病院の中庭には大きな桜の木がある。この木は不思議な木だ。桜は四月の花のはずなのに、何故かこの木は二月のまだ寒い時期に咲く。春と同じように入院している子供達の間では、魔法の桜と呼ばれていた。

 みなが二月の桜を見て魔法だと騒ぐたび、春はなんだかくすぐったくなる。なぜって、春だけは、桜に魔法をかけたのが誰なのか知っていたからだ。

「この桜はね、私のおじいちゃんが咲かせてるんだよ」

 時々春は、そう言ってみんなに自慢したくなる。でも、それは秘密だった。秘密にすると約束したから、母朔羅(さくら)がこっそり教えてくれたことなのだ。

 春は毎日、お昼になると桜の近くのベンチに座る。それはある種の待ち合わせだった。約束をしているわけではないのだけれど、その時間になると、いつも優が中庭にやって来るのである。

 そうして春が待っていると、今日もまた優はオレンジ色のスケッチブックを片手に現れた。周囲の患者に会釈などしながら、白衣を揺らしてゆったりと歩み寄ってくる。

「隣、いいかな?」

「うん」

 わざわざ確認をとってから横に腰掛ける。それが礼儀なのだそうだ。おじいちゃんは紳士だから、なんて姉はよく言う。

「体はどう?」

「うん。大丈夫」

 安心したように微笑む優。

「よかった。今日は、少し風が強いね」

 飛び交う花吹雪に目を細めながら彼は言った。北風冷たい二月の末。魔法の桜はまさに今満開だ。

 風邪をひかないようにと最後に注意し、優はスケッチブックを開いた。初めに少しだけ話をし、後は優が絵を描くのを春が黙って見ている。それが二人の習慣だった。本当はもっとおしゃべりしたいと思う春だったが、賢い子だと祖父に思って欲しい気持ちもあり、いつもちゃんと静かにしていた。

 優は変わった絵の描き方をする。彼は決まって桜の絵ばかり描くのだが、別に中庭の木を見て描いているわけではなかった。
 基本的にずっと俯いたまま。だから、きっと、優は自分の思い出の中の景色を描いているのだろう。何枚描いてもその殆どがどこか似た構図ばかりだったことなども含め、春は推測する。

 優の絵には常に一人の女性が登場した。桜の木を背景に、真ん中にぽつりと一人だけその女性が佇んでいるのだ。綺麗なひとだった。優にとって大事な相手であろうその人は、なのに母朔羅でも祖母静香でもない、会ったことのない人だった。

「ねえ、おじいちゃん」

 意を決して、春は口を開く。優は怒った風もなく、顔を上げて首を傾げた。

「なんだい?」

 向けられた眼差しはどうしようもなく優しく、穏やかで、思わず言葉に詰まる。

「――ううん。なんでもない」

 あまりにも、大切そうだったから。

 だから訊こうと思った。けれど、だからこそ、なんだかそれはとても悪いことのような気がして、その人は誰? とは言えなかった。

 そっと様子を窺う。最初不思議そうにしていた優は、しばしぼんやりと空を見上げてから、ふわりと笑い春の髪に触れた。

 自分の言葉で祖父が傷つくのは嫌だ。そしてそれと同じくらい、祖父の言葉に自分が傷つくのが恐い。

 母や祖母の若い頃だ、と。そう答えて貰えるならば何を迷うこともない。でも、もしも優が描いているのが本当に自分の知らない人だったら?

 それは寂しい。きっと自分は泣いてしまうだろう。だから駄目だ。だから訊けない。

 本当は、ずっと知りたいと思っているのに。家族以外の誰が祖父にあんな顔をさせるのか、気になって仕方がないのに。

 愛おしげな瞳と切なそうな眉が、いつだって春を躊躇わせる。



「お断りします」

 苦々しい顔をして、静香はきっぱり答えた。予想通りだった。逆に、ここで素直に頷くような女だったならば桜子は彼女にこんなことを頼みはしない。

 真夜中、雨の公園に呼び出してこんな話をする年上の女医に、きっと彼女は腹を立てているだろう。けれどやめられない。彼女にだけは、納得して貰わなければ困るのだ。

 お願いですと、桜子はもう一度頭を下げた。首を横に振る静香。二人は傘もささず、自分たちの体温を奪われるがままにしていた。

「確かに、私は優さんに桜子さんの病気について無断でお話ししましたし、そのことについては少なからず責任を感じています。ですが」

 そこで一度静香は溜息を吐く。疲れた声で彼女は続けた。

「――私にだって、女としての誇りはあります」

「静香さん」

 音もなく降る雨の中、噛んで含めるように桜子は言う。

「静香さん。私は死にます」

 辛そうに眉を寄せる静香。それを言うのは卑怯だ。そんなことは桜子自身よく理解していた。

「我が侭なのは、わかっているつもりです。でも、私は、彼に幸せになって欲しいんです」

 だから、私が死んだ後は彼をお願いします。

 勝手と知って、それでも頼んだ。静香にしか頼めない。静香なら、頼める。

 初めて会った時から、気品ある少女だと思っていた。花のような繊細さを持っていながら、それでいて芯の強さも秘めている。院長の娘なら家柄も申し分ない。

 彼女が優に想いを寄せていると気付いた時、桜子は正直ほっとした。彼女は、自分なんかよりも何倍も優に相応しい。若くて、魅力的で、何よりずっと彼の傍にいてあげられる。彼女なら、愛しいあの青年を生涯守ってくれるだろう。

 静香がいるから。

 そう自分に言い訳すれば、桜子は優から離れられる。

 静香がいてくれるなら、桜子は安心してこの世を去れる。

「桜子さん、貴女は死にません。東京の大学病院では今貴女の病気に関する研究が大きく進んでいるそうです。ちゃんと闘病し、あと数年もたせることが出来れば……」

「いいえ、私は死にます」

 静香を遮って再び告げる。自分の寿命くらい、桜子にはわかっていた。静香の父である院長からもお墨付きを貰った自己診断だ。おそらく間違いはないだろう。

 医療の可能性を疑うわけではない。ただ、桜子にはあまりにも時間が足りなすぎるというだけ。

 彼を愛している。彼と過ごした日々を愛している。彼と過ごす未来が、もしも自分に許されるとしたら、それがどれほど素敵かということも痛いほどわかっている。でも。それでも――。

「私は、もう、いいんです」

 色々な想いを振り切り、言った。紡いだ言葉が思いの外穏やかに響いてくれて、桜子は満足した。

「どうして諦めるんですか」

 涙を浮かべて静香が責める。瞳を真っ赤にし、唇を噛み締め、濡れた肩を震わせて、精一杯に桜子を睨んでいる。
 優しい子だと思った。恋敵として憎んだことなんて一度もない。彼女を前にするといつも、口には出せない沢山の“ありがとう”と“ごめんなさい”が胸につかえた。

「何かを諦めるわけではないんですけれど。ただ――私の願いを叶えてくれると、奇跡を起こしてくれると、彼は約束してくれました。それだけでもう、いいんです」

 心残りは、きっとない。

 一生分の幸せを優から貰った。後のことは静香に託せば大丈夫だ。

 たった一つだけついてしまった嘘も、優なら許してくれるだろう。

「私、最近素敵な夢をみるんです。優さんが出てくる夢です。もう立派なおじいさんになった彼が、約束通り咲かせてくれた二月の桜を眺めているんです。――今の私が未来の彼の姿を夢みるように、いつか彼が、私と過ごした時間を夢にみてくれる日も来るでしょう。それだけで、私はもう充分なのです」



 穏やかな春の日、花の下に佇む桜子を絵に描いた。急がなければ、今にも彼女が過去に消えてしまいそうで怖かったことを覚えている。必死に見つめ、描けば、瞳や指先が色褪せぬ今として彼女を記憶していてくれる気がした。

 遠い昔のことだ。今はもう、声も香りも思い出せない。残っているのは、抑えがたい寂しさと切ないほどの幸福感、そして一枚の絵だけ。

 ずっと、優はあの日と同じ絵を描き続けていた。例え時の流れが忘却という形で桜子を奪うとしても、あの一時だけは忘れないようにと。
 娘が生まれ、孫が生まれてもその習慣は変わらなかった。

「ねえ、おじいちゃん」

 呼ばれ、スケッチブックに筆を走らせていた優は孫娘の春を見た。

「なんだい?」

 首を傾げ、尋ねる。何故だか少しだけたじろいで春は答えた。

「――ううん。なんでもない」

 少し俯きがちに、諦めたような顔で。

 首を横に振る彼女が、前々からずっと自分の描く絵について質問したがっていることは優も察していた。おそらく子供ながらに気を遣っているのだろう。いつも何かを問いたそうにしていながら、すんでのところで口を噤んでいる。

 訊かれたら話してやろう。そう優は心に決めていた。

 桜子の死をすぐに割り切れたわけでは決してない。愛した人を過去にすることを恐れ、ただひたすらに、彼女のことを悲しみとして胸に刻む日々が続いた。

 けれど、初めて二月に桜が咲いた日を境に、それが変わった。

 寒空に舞う桃色の雪を見て優は泣いた。そして、涙と共に何か重たい物が自分から出ていくのを感じた。
 約束を果たせた達成感。言葉にしてしまえば、ただそれだけのことだったのだろう。それでも優は変わった。今までとは違う澄んだ心で、桜子を温かい思い出にすることが出来た。

 毎年彼女の命日が来るたび、二月の桜が優の代わりに泣いてくれる。

 だから、優は笑える。切なさや寂しさは消えないけれど、彼女との日々を、幸せだったと微笑んで語ることが出来る。

 とても悲しい別離があった。そして、それと同じだけの愛しい時間があった。それはきっと、わざわざ秘すほど悲壮な物語ではないはずだ。

 ぼんやりと空を見上げる優。

 こんな自分を、桜子は許してくれるだろうか。

 窺うように見つめてくる春へ向き直り、その髪に付いた花びらを一枚一枚丁寧に指でとってやった。潰さないようにそっと摘み、地面にひらりと落としていく。懸命に舞い続けようとするその姿が優は好きだった。

「訊きたいことがあるなら、言ってごらん」

 こぼれるように自然に、優はそう呟いていた。

 春がびっくりした顔をする。自分も驚いて、優は思わず苦笑した。

「えっと、じゃあ、ね」

 恐る恐る、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ春。

「その絵の女の人は、だあれ?」

 山積する桜子の絵は、痛みや後悔を引きずるために描き続けた物ではない。愛したことを、恋い焦がれた人を、生涯忘れたくないから。そのために、僅かに残る輪郭を必死になぞっているのだ。そこには思い出したくない過去も、隠したい過去もありはしない。

 知りたいというのなら、全部話してやればいい。

「――この人はね、おじいちゃんがまだ若かった頃、とても好きだった人なんだ」

「私の会ったことのない人?」

「そうだね。まだ、おじいちゃんがおばあちゃんと結婚する前のことだよ」

 そこで、春はショックを受けた顔をする。違うんだよと、心の中で優は言った。

 もしも春が、この話を聞いて優の家族に対する愛情を疑うことがあったとしたら、それはとても不幸なことだ。

 だから話そう。誰への想いも嘘ではなく、春や静香を愛するように、かつて桜子という女性を心から愛していたのだと。

「あのね、春。この桜の木は、おじいちゃんにとって約束の木なんだ」

 何から説明すればいいのか迷い、結局最初に一番大事なことを告げた。

 はらはらと、今年の二月も桜は泣く。


 今夜は、きっと桜子の夢をみる。そう優は思った。



「奇跡を、起こしてくれないでしょうか。私だけのために」


「……それが、貴女の望みならば」

 頷く優に、救われた気がした。

 強い風が吹き、桃色が舞う。春の滴が二人を隠した。

 今この瞬間に死んだとしても、自分は充分幸せ者だ。

 そう、桜子は感じた。

「桜子さん」

 そんな桜子を引き留めるように、優が呼ぶ。

 愛しい声。優しい響き。

 後何回、彼にこうして名前を呼んで貰えるだろう?

「代わりに、桜子さんにもお願いがあります」

 真っ直ぐに優は言う。

 続く言葉がわかり、桜子は泣きたくなった。どんな病気にかかった時だって、これほど胸が苦しくなったことはない。

 どうして、こんなにも必死に手を伸ばしてくれるのか。

 振り払ってばかりなのに。今まで散々そうしてきたのに。

 自分にはもうこれ以上彼を拒めないと、桜子はわかっていた。

 たった一度、今だけだ。降り注ぐ花びらが、きっとすべてを覆ってくれるから。

 例えいつかこの返答が嘘になる日が来るとしても、今この時だけは、自分の気持ちに嘘をつきたくない。


「どうか約束してください。待っていてくれる、と」

 裏切ることしか出来ないからこそ、せめて、万感の想いを込めて。



「……それが、貴方の望みなら」





『二月の桜』(終)

二月の桜

ここまで読んでくださり、本当に有難うございました。もし、今作を少しでも気に入ってくださったならば、目を閉じ、しばしの余韻に浸ってやってください。

二月の桜

二月に桜が咲く話です。

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更新日
登録日
2012-12-28

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