白山無寐

 今日着ていく服を思い浮かべながら、部屋を行ったり来たりしていると、小さな足を絡めることなく上手に歩いて後ろをついてきた犬を撫でた。伸びきったくせ毛に指が埋もれていき、固い頭蓋骨に触れてもなお愛おしい犬はずるいと思った。優雅に尻尾を揺らし、撫でられている今をちゃんと喜んでいる犬がどうしてもおかしくて、私はしゃがみこんだ。
 弱音を吐き出すわけにはいかないが、言葉の通じない動物には素直になれてしまう。私を真っ黒な目で見つめてくる犬は、人間のこんな姿でさえも何とも思えないんだろうか。
 人生で三度目の入学式はきっと慣れている。一度目と二度目の入学式はもうすでに記憶から無くなっているから、どんな感情を用意しておけばいのかもわからない。強制的な入学式ではない時点で、どうでもいい。義務教育ではなくなってしまった喪失感をいま改めて感じた。
 早起きしすぎた朝は、時間が余ってしまう。静かで薄暗い余裕のある朝は少しだけ好きだ。でも、余裕があるからと言ってのんびりしすぎると焦る羽目になるから、予定のある日はなるべく体を動かすようにしている。
 フローリングと演奏している犬の歩き姿を見ていると、今日はこのまま眠りにつきたくなった。でも服を着替えて、顔を洗い、身だしなみを完成させなきゃいけない。月曜日の慌ただしい雰囲気に飲まれる前に、少し速足で寝室に戻った。
 押し入れはできるだけ静かに開けたい。歪んでしまったのか、ふすまは上手く滑らなくて、全体重をかけないと開けられない。今は早朝だ。月曜日の朝だったとしても、この時間は他の家族は眠っている。聞き心地の悪い木の擦れる音はなるべく出さない方がいいが、気にしすぎるとそのせいで上手く開けられなくなってしまう。
 結局私は家族の寝息に気づかないふりをして、大きな音を立ててふすまを横にずらした。母か姉の舌打ちが聞こえた気もするが、服を選び終えてふすまを閉めきるまでは独りぼっちだと信じ込むことにした。
 今日から私は新しくスタートするわけだから新しい服でも着ていこうと思ったが、浮かれている自分が嫌になってしまい普段通りの服で行くことを決めた。毛玉やほこりくらいは念入りに取ってもいい。
 寝癖を整えるために洗面所に向かった。鏡に映る私と目が合って、押し入れの閉め忘れに気づいた。いくら見て見ぬフリを頑張ったって、隠しきれない罪悪感のせいで閉める気力はすべて失われてしまった。いっそ今は閉めずに、帰ってきてから閉めたらいいんじゃないかという結論が出て、蛇口をひねった。
 二度目の卒業式が終わり、走って帰り、すぐ金髪にした少しムラのある髪が愛おしい。痛んで癖がなかなか治らないところや、ヘアオイルをつけても飛び出てしまうアホ毛は友人だと思いたいくらい、私の身体に馴染んでいた。
 オシャレな金髪ではなく、ヤンキーみたいな、黒が抜けきっていないのが一目でわかる間抜けな金髪が余計に可愛く、抱きしめたくなった。
 周りからは鼻で笑われてしまった。そりゃあ、ブリーチ材を流した時に、もう一つ買っとくべきだったなとすぐに後悔した。言われなくたってわかってしまうダサさをどうにかする気力がずっと湧かずに今日を迎えてしまった。初対面の大人数の人の視線を一つ一つ気にしないといけないなら、一周回って私がこの姿を愛せばいいんだと、毛先で引っかかった櫛を引き抜いた。
 去年の夏に、今日から通う学校の説明会に行った。制服の違う中学三年生を引き連れて、確か音楽の先生が学校案内をしてくれた。
 そのあとに、体育館に集まり、保護者も合わせてスクリーンに映し出される学校の方針や、将来性の話を聞いていた。一通り説明が終わると、校長の話になった。特にオーラもなく、生徒に関心がなさそうな校長の話を、私はじっと聞いていた。
「九割の生徒が制服を着ていますが、買わなくても大丈夫です。ここは校則がないので」
 その言葉に衝撃はなかった。ホームページにもそう書いてあったし。制服という余計な出費がないことは両親にとってうれしいと思ったから、私はこの学校を選んだ。指定されたものを準備するにもお金がかかる。
 高校は行っても行かなくてもよかったし、受験もろくに勉強や練習などせずに挑んだ。志望校もこの学校しか書かなかったし、落ちる気満々だったと言えばそうなる。お金や私の性格を考えると行かない方がいいと思った。
 いつも通りほんのりタバコの匂いが付いてしまっている黒いパーカーにオーバーサイズのダメージジーンズ。全身のバランスを考え、高見えを狙った安いアクセサリーを付けていった。
 いかにも見た目がいかつく、入学式に着て行く格好ではないことはちゃんと分かっているが、これは別に世間に対する反抗とかそういうのではなく、スタートくらいは息を吸いたい。
 ゴールにたどり着くまでに息が出来なくなるくらい生きにくい世の中を実感するはずだから、せめて今だけでも息を吸ってなるべく楽に生きていたい。浮かれている自分を殺すために、そして居場所のない狭い体育館で安心したいがために選んだ服は今後二度と着ない気がするけど。
 最後に持ち物を確認して、無意味に温めた麦茶を飲み干した。するとさっきまでいた寝室からテレビの音が聞こえてきた。母は、目が悪いからテレビをつけて今の時間を確認する。その癖が私にも移ってしまい、嫌でも今の時間に焦りを感じなければいけない羽目になった。
「おはよう」
 まだ肌寒い春には暑すぎるが、ダウンを取りに寝室に戻り、ついでに押し入れも閉めた。テレビの音がかき消されることなく大人しく閉まってくれたふすまに驚きが隠せず、少しだけ口角が上がった。
「もう行くの?」
「うん」
「気を付けてね」
 母は体をこちらに向けることなく、冷たく言い放った。母の態度にいちいち腹を立てていたらキリがない。うんと声にならない合図地を打ち、寝室から飛び出した。
 通勤ラッシュのこの時間帯にバスや電車を使うのはすごく嫌だったが、仕方ない。もう一度持ち物を確認し、急いで玄関に向かった。走って追いかけてくる犬が可愛くて、犬のせいにしてサボるという考えが一瞬だけ脳裏に浮かんだが、すぐにかき消してサンダルに触れた。
「行ってくるね」
 玄関までついてきてくれた犬にそう伝え、ずっと避けていた朝と向き合う覚悟を決めた。相変わらず犬の頭蓋骨は暖かかった。
 眩しく、生き生きとした植物の香りで充満している春の朝が大嫌いだ。それでも感動してしまうくらい色鮮やかに咲き誇る春の花を素直に見つめてしまうのは割り切れていないだけだ。
 バス停まで歩いていると、桜の木が何本か並んでおり、そこで黄色い帽子をかぶった、背丈に合わない新品の大きなランドセルを背負った男の子が写真を撮られていた。
「かっこいいよ! 頑張ってね!」
 子供の意思を置いてけぼりにしてはしゃぎ、嬉しそうな母親と父親を俯いたまま睨みつけ、急いでバス停に向かった。
 春というだけで世間は浮かれてしまうかもしれないが、新しく踏み出すことが嫌で去年親友は死んだ。踏み出すことが嫌だったと手紙には書いてあったが、私なら繰り返さなければいけない春を迎える恐怖で死んでしまうなと勝手に口答えをした。
 世間に流されて、上手く浮かれてしまえば彼女は死ななかったのかもしれない。そして私も彼女のせいで上手く流されず、浮かれることが出来ない。
 私が桜を見て喜んだり、新しい未来を期待することは許されない気がして前を向けない。少し頑張ってみようと思っても、罪悪感でもなんでもないただの後悔が邪魔をする。彼女が望んでいないことくらいわかっているが、私自身が苦しむことで後悔の質量を減らしていく。
 春は浮かれるものだ。そういうものだ。何も知らない小さな子供達は楽しみで仕方ないはずだ。現に今、耳を強く刺激する高く、未完成な声があちらこちらで聞こえる。あぁ、ほら。
 全身に力が入っていく。歩きにくい足で、口から漏れ出す二酸化炭素を潰しながらバス停を目指す。
 さっき見た男の子とは違う男の子が私の目の前で転んだ。ランドセルは傷ついていないみたいで、安堵のため息が出た。私が手を差し伸べるより先に、厚化粧の女性が抱え上げ、小石を慣れた手つきで払っている。
 よく見ると男の子は膝を擦りむいていた。母親らしき女性はポケットに手を入れて、何かを探している。ハンカチかティッシュを探しているんだろうけど、戸惑ったまま何も持たずに出した手で男の子頭を撫でていた。
 私のポケットにはティッシュが入っているが、出さずに今にも泣きそうな顔をした男の子の横を通り過ぎた。それを責めるかのように、タイミングよく、目の前の交差点でクラクションが鳴り響いた。
 春の浮かれた風が遠くの方で唸っている。楽しみで仕方ない小さな子供たちには想像もできない景色ばかりが、私の視界には広がっている。新しくできるお友達はどんな子なんだろう。給食はお母さんのごはんよりおいしいのかな。先生は怖くないといいな。教室は広いのかな。
 未知の世界が広がる新しい生活を期待させる大人がいるから、あの子たちは桜の木の下で笑えるのだ。桜を見て凄いねとはしゃげる。楽しみで足がよく絡んでしまうし、服にすぐしわが付く。キラキラして、優しさで溢れている春に包まれることの幸せを私はきっともう味わえない。
 さっきクラクションが鳴り響いた交差点を渡ろうとすると、いつのまにか後ろにはたくさんの人が下を俯いたまま突っ立っていた。
 信号が青に変わり、かっこうの鳴き声と共に大きな足音が私の耳をつねった。下を向くのをこらえ、顔に春風をたくさん押し付けた。
 すると、新品の体に馴染んでいない制服を着て、少し大人になった気分でいる中学生が横を通り過ぎた。少しだけ羨ましくなった。
 バス停は案の定混んでいた。新品のスーツを着た新社会人やランドセルを持ちソワソワしている女の子、スカートを短くした高校生や絶望を知っている社会人。
 色んな人がいて、明らかに私は浮いていたが、イヤホンを付けて下を向いてしまえば気づかないと言い張り、やっと下を向いた。
 この時間に、ギリギリ受かった友達と待ち合わせしていたのになぜかいなかった。人に埋もれているだけだと思ったが、友達は背が高いから簡単に見つかる。
 どうしようかなと考えながら、少しずつ焦りを殺そうとした。列から抜け出して時刻表を何度も確認したり、ネットでバスの来る時間を調べたり。誤魔化しに時間の確認を選べばもっと焦ることくらいわかっていたはずなのに、もしかしたらギリギリに来るのかもしれないと小さな可能性に期待してしまった。
「今日行けない、ごめん」
 その期待を裏切るメールが届き、心拍数がどんどんと落ち着いていく。余計な心配や可能性がまっさらになればドタキャンなんか気にならない。
 バスが来るまであと二分しかない。それでも一応なんで来れないのか確認をしたかった。一人はやっぱり少しだけ心細い。
「もしもし。なんで今日無理なの?」
 ワンコールで電話が繋がり、ぐちゃぐちゃになったもしもしを声に出してしまった。
「普通に明日だと思ってた。明日から行くわ。」
 寝起きの声が聞こえてきて、安心してしまった。
「ばかじゃん」
「手紙とかもらっといて」
「ぜったいにやだ。あ、バス来たわ。じゃあね。おやすみ」
「あい」
 どこか抜けている友達のお世話を中学の担任に、任されてしまったことを思い出した。
配られた手紙を別のファイルに入れなくちゃいけないし、クラスが離れてしまったら、二人分の担任の名前を覚えなきゃいけない。
 時間通りに来たバスに乗るが、座れるわけがなかった。一度列から抜けなかったとしても、最初からほとんどの窓が曇ってしまうくらい人が乗っていたら当たり前だ。
 イヤホンが誰かに引っかからないように気を付け、進めるだけ進んだ。何とかして掴んだつり革はさりげなくつま先立ちをしないと握れなかった。
 終点まで乗るから、どこかのタイミングで一斉に人が降りることを期待して音楽に集中した。
「〜〜 終点です」
 バスのアナウンスで顔を上げ、人が全く減っていないことに気づいた。この先もこのバスに乗って通学しなくちゃいけないと思うと気が重くなった。
 バスを降りて、たくさんの人に流されてしまうことに決めた。駅に行く道も曖昧だったが、彼らについていけばどうせ着く。
 時間を確認すると、昨日なんとなく計算した適当な計算式の答えとほとんど同じだった。都会のいいところはこういうところしかない気がする。
途切れることを知らない改札の列に並び、軽く冷や汗をかく準備をした。ピッとちゃんと鳴ったのを確認して、なんとなくホームに急いだ。
 これもまた時間通りに来た電車はやけに空いていた。それでもなるべく人のいない車両を選び、隅に座った。乗り過ごしてもいい覚悟で、音漏れしない程度の音量に設定して、音楽を再生した。
 ランダムに再生される音楽。次の曲を予想していると、音が止まった。少しだけ恐怖を感じ、顔を上げると、誰も座っていない向かいの席の後ろで桜が一列に並んでいた。
 電車は動いてるはずなのにいつまで経っても桜の列が無くならない。むしろ進めば進むほど列は一本の細い線のようになってきた。
 彼女は桜が嫌いだった。
「春にしか咲かないくせにチヤホヤされやがって」
 やけくそになり、そう文句を言う彼女を見て笑っていた。あの時だから笑えるだけで、今はもうただ苦しくなるだけ。
 ずっと近所に住んでいたのに、中学に上がるタイミングで彼女は隣町に引っ越した。そこまで距離はないから、頻繁に会っていたが、彼女の変化には気づけなかった。
 蒸し暑い七月に長袖を着ていたことや、バラバラに切られた髪の毛。学校の話は一切しなかったこと。ぼろぼろになった靴やカバン。小学生の頃、何度も彼女の物持ちの良さに驚かされたというのに、何も気づけなかった。
 私には何一つ話さず結局死んでしまった。私にだけ遺書を残して、桜の綺麗な街で死んだ。皮肉にも桜が咲き誇る駅のホームで飛び降りて死んだ。今朝目に入ったニュースもあの町だった。桜で有名だから、春になるたびに私は向き合わないといけない。思い出さないといけない。
「ちあきへごめんね、本当は話したかったんだけどお前の人生をぐちゃぐちゃにしたくなくて。
ずっと辛かったんだけど、お前と居たら全然平気で話すタイミングもなくて…」
 遺書のはじめを思い出す。何が話せなくてごめんだ。辛かったはずなのに、いつまでもお人好しだからと勝手に悔しくなって涙が出なかったあの日を思い出しても、なんの意味にもならない。
 嫌でも目に入る桜を見ないよう下を向こうとしたが、目が離せない。あんなに綺麗に咲いているのに、それに嫉妬して文句を言う彼女に笑う私。
また一緒に見に行きたかったなぁと素直に思ってしまった。吸った空気はとげが付いていて痛かった。
 せっかく新しく進むための日なのに、思い出に縋ってしまう自分がいて嫌になる。全部全部嫌になる。満面の笑みで楽しそうに舞っていく桜に手を引かれたくなった。
「○○〜、○○〜左側のドアが開きます。」
 私の降りる駅になっても私は席を立たなかった。まだ桜は続いてる。
 彼女は、死んでもお前のそばにいるからなと遺書の最後に書いた。死後の世界が〜とかは別に信じてはなかったけど、今だけ都合よく信じさせて欲しい。
「私の好きな桜だよ、綺麗だよ」
 いつの間にか私の乗っている車両には私一人だけだった。呟いてから気づいて、感じる手前で羞恥心はどこかへ行った。
 入学式をサボり、馬鹿みたいに桜を見つめている私はいっそ桜の続く駅まで行って、死んでしまおうとも思った。でもそんなことしたら一生彼女に許されない気がして、死んでしまった悲しみや憎しみを堪えきれなくなってきた。
 彼女が死んだ年に、私も引っ越しをした。少し遠い町に引っ越し、心がほんの少しだけ楽になってしまった。思い出だらけのあの町や、隣町からくる花の鬱陶しい香りで春に気づかなくて済んだから。私が自ら逃げたわけではなく、タイミングのせいにできたから。
 私だってちゃんと大人になっていくんだ。彼女の想像する未来には私は生きていて、普通に歳をとっている。本当におせっかいな奴だ。
 今だけなら泣いていいよと彼女が後ろから抱きしめてくれている気がした。生きているときに抱きしめてほしかった。いや、私が抱きしめたかった。こうなってしまうなら、こうなることを私が恐れてしまえば、普段なら拒むハグだって喜んで受け入れたのに。強く抱き返す準備はもうできているのに。
 警笛が鳴り、体がゆっくりと傾いていく中で、私は静かに泣いた。
 桜があまりにも綺麗で感動したということにして去年の思い出を必死に思い出して、色んなことに後悔してただただ声を殺して泣いた。消えかかっている思い出も、どうにかひねり出して今は泣くことに集中した。感情的になることに必死になった。
 桜が徐々に少なくなり、私の呼吸もなんとなく落ち着いてきたと思ったら、ポケットの中で携帯が震えた。この車両には私しかいないし、電話を取ってしまってもよかったが、あとの罪悪感を考えると気が引けた。
 もうすぐ次の駅に着く。そこで降りて、かけなおせばいい。震える携帯を握りしめたまま、乾ききらない涙でくすぐったい頬を軽く叩いた。
「もしもし? 斎藤です。柚木さんですか? 大丈夫ですか?」
「はい。柚木です。すみません、連絡なしに欠席してしまい…」
「ああ、全然大丈夫ですよ。遅れてきますか?」
「午後から行きます。すみません」
「待ってますね」
 電車を降りるときにかすかに聞こえたしばらく停車しますのアナウンス。なかなか発車しない電車の前に立っているのは少し気まずかったが、泣いた余韻のせいで体がぼうっとしてしまい、動けなかった。
 電車が動き出し、視界のピントがどこにも合わなくなった。しばらく寂しくなった線路を見つめ、反対のホームに行くことをためらってしまった。桜の花びらが、線路を隠して、真っ白になるほど落ちていたからだ。
 人のいないホームで声を出して泣いた。たまたまなのか、それとも彼女が仕込んだのかは知らないが、彼女の死んだ駅にいた。私たちが笑いあった駅のホームに、私一人で立っていた。



 午前中に終わった入学式。学校が静まり返っているわけもなく、午後からは普通に部活動が行われている。意味があるのかはわからないランニングの時の掛け声や、とりあえず出しておけばいいサーブを打った時の、崩れすぎた言葉。ボールが床に強く当たる音や、シュートが綺麗に決まったストンと気持ちのいい音。
 職員室と体育館は近くにあり、ここで仕事をしないといけない教師はなかなか集中できないのではないだろうかなんて思ってしまった。
 廊下ですれ違う生徒は目が合えば軽く会釈をしてくる。さっきすれ違った子たちはバレー部だろう。
 中学の時は、職員室に入る前、必ずノックが必要だった。他の生徒は馴れ馴れしく先生の名前を大きな声で呼んでいるから、きっと暗黙の了解などは存在しない。それでも私はなんとなく開きっぱなしの扉を中指に第二関節で三回ほど叩いた。
「斎藤先生いらっしゃいますか」
「おー」
 いかにも体育の教師だという格好をしている男性が私を見て、私の声を聞いて手を挙げた。他の先生ももうすでに正装は脱ぎ捨てていた。
「どうした? 花粉症か?」
 泣いて目が腫れ、鼻が少し赤くなっているからなのか、それでも空気の読めない質問をすがすがしい表情で聞いてきて、肩の力が抜けた。パサついた笑い声を床に落とし、次はちゃんと先生の目を見た。
「そうです」
「大変だな! これ書類。明日から頑張ろうな」
「はい、ありがとうございました」
 掌を差し出されたが、会釈をして少しだけ足音を大きくして職員室を出た。
 そして走って下駄箱に向かった。
 先生に途中、走るなよー と声を掛けられたが無視してただ走った。
 前を向けないまま私は一人で走った。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-26

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