ナメクジ

初めて訪れるバーには先客が来ていた。
カウンター席でチビチビグラスをなめている。
すでに彼女の頬は紅潮しているようだ。
私は座席をいくつか合間に置き、同じ長テーブルのカウンター席に座る。
その横顔の光沢を眺めていると思わず見惚れてしまう。
私は意を決して立ち上がり、彼女の隣りの席に腰かけ声をかける。
なるべく落ち着いた声で柔らかな言葉を意識する。
彼女は私の声に顔を向ける。
正面から見ても君は麗しい。
その魅力に言葉が失われないよう必死だった。
彼女は私の言葉に応えてくれた。
雑談という積み木を2人で組み上げる。
鈴を転がすような声で紡がれる君の言葉は耳心地がよく、
私はこの時間をとても愛おしく思った。
話は会社に勤める私の同期のことになった。
彼は良き友人でもあり、ライバルでもあった。
片方が不調のときには、もう片方がいい店に招待してご馳走し発破をかけたものだ。
その時、私が発した『敵に塩を送る』という言葉を聞いて彼女は震え出した。
ひったくるように自分のバッグに手を伸ばし、振り返りもせずに彼女は急いで店を出ていった。
呆然とする私をちらりと見たマスターは首を横に振る。
バーの名前は『ナメクジ』。
その店とそれを愛する彼女に禁句を言ってしまったのだが、今後も私は真相を知る由もなかった。

ナメクジ

ナメクジ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-25

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