暗長短
一
朝を遠く、避けて来た
水を一杯飲み干して
泥だらけの顔をして
真っ白な笑みを、
歯から剥き出しに。
四つめの腕をごとり、と床に落として。
拾うこと無く、
何でもない事のように、
顧みない眼(まなこ)と、その口は
顎を外してカカカと喋る、その一生で、誰かを呪うことに使われる事が無かった幸せを噛み締めて。
異形なる、
まともからなる、
絡繰言葉の節々を辿り、行き、
夜に冷えた床を嫌う、携えられた真っ暗闇は。
贈り言葉として握りしめられたその、
菓子は。
ぽろぽろと零れ落ちる、
一刻の、理(り)。
二
刀を落とした理由から、それを手にして物怪(もののけ)を切り捨てた道理まで。古い話をことあるごとに手放すのが情ってもんだ、と捲るたびに口上を垂れようとする手持ちの本の、長々とした題名に、決着(けり)を付けようと思い立った。その若造の長い足。
その足裏にこそ二本の長い牙を立ててやろうと画策し、手抜かりがないようにと夜な夜な寝床を抜け出しては、気に入らない主人のあとをつけ回し、牙を研ぐのに適した道具とその所在を探り当てようと試みてからはや十年。余命という名の灯明にその影も形も失った、鬼。
人でないものは鬼になれない、だから私は鬼になれない。じゃあ君は何者なんだろう。鬼でもなく、人でもない君は。そう問われてから首を傾げる君はこう言った。それ以外のもの、それで私。自分をさす指が人差し指でなかった所まで徹底して、君は君になっていた。それだけで逆手に持った刃物なんて簡単に捨てられる、僕こそが単純で。
向上心と、血に塗れた鼓動が辺りに撒き散らして止まないこの点、点、点。その匂いを嗅いで、跡を追った飼い犬が飼い主を引き連れて辿り着いた誰かの死を想う墓。四角四面な顔をして、何かに悩む人間の様を見上げる、忠実さを取り戻した飼い犬の隣で余った骨が転がっていた。そう記して鼻の穴を広げる書き手の興奮と予感は、下草が生える地の底の怒りを知らない、から。
だから、食いしばる歯。
ひとという字。
三
唐突に、かつ滔々と喉の方から急に漏れ出す水、だからそれはもう、僕のモノじゃない。
腐らない木製の身体と、目の前にあるこの灯明がどれだけ相性がいいかは知れない。ただ、暗闇こそこの灯明に導かれてその周囲に止まり、ほんのりと円を描く。
例えば火が灯る蝋燭の上で手渡される紙切れの中身、手首からさらにその先にあるはずの誰かの、ひょっとしたら、もう最後を迎えて二度と会えないかも分からない不安の源。あるいはただの一面にしか過ぎないから手放せないんだろうと無遠慮に言われてしまう希望にだって、噛み砕けば頬の内側を出血させるだけの棘が備わる。
明確になる境界線。だから鬼は、人の姿からでないと成れない。この一文の響き。その泥みたいに、きっと、朝になったら床板の隙間で無事に固まり、踏み固められて、慣らされる。悲しみを請わない。
どんなに振っても何も出て来ない、胡乱な器の言葉に守られて、だから人は、こうして人はまた甘えて、泣いて、形を整えて、明々白々な道を行く。
それを惜しむ訳では決してない、それでもこの手で握りしめられる紙片を伸ばして、真っ黒な瞳が見つめる。
そこにあるもの。
悲しき朝の唄、唄、唄。
真っ赤な顔にも、真っ青な顔にも。
長くも短い紐と紐
コトン、と
落ちる。
淡く消え行く。
ひとかけらにならう。
暗長短