魚と独り言
親子で魚釣りに。
まだ気温はやかんの湯を沸かしそうなくらいに暑いが、今野幸雄・肇の親子は休みでも行く所は無いし、幸雄は失業中で、金を使いたく無いからと、考えた挙句江ノ島迄魚釣りに行く事になった。
私鉄の料金は安いから往復でも千円で足りる。
親子共今迄魚釣りなどやった事が無かったから、竿は一番安いものでも良いかと思い、サビキ釣り用のセットになっているものを買った。
家から持って来たのは合成樹脂のバケツだけで、江ノ島の駅前の店で、オキアミとかいう餌を買ったが、他の餌は何か見ているだけで気持ちが悪くなるものが多い。
釣具店で初心者でも釣れますよと言われて買ったセットだが、本当に釣れるのかと半信半疑だった。
針が沢山付いているし、餌も如何にも魚をおびき寄せる様な風に見えたから、ひょっとしたらとは思った。
幸雄は隣に座って父親の事なら何でも言う事を聞く肇の事が、何か不憫に思えた。
大人しい子だから、反抗も出来ずにこんなところ迄連れて来られて、さぞかし暑いだろうにと思うと、是非とも魚を釣らなくてはならない、釣れて貰いたいとの気持ちが、胸の中に同じおもりを下げさしている様な気がした。
雲一つない青空、太陽の暑さがどうしてこんな事になったのかという事を思い出させた。
iPhoneのカレンダーを見た。令和二十二年七月三十一日となっている。
長く続いていた好景気が終わった後、暫くして大不況が訪れた。
仕方なく入社した個人会社も、この度の不景気で傾き、おまけに社長と喧嘩をしてしまい自ら辞めてしまった。
父親の事を、一体肇はどんな風に思っているのかと考える度に自己嫌悪の塊がどっさり落ちて来る。
父親として、子供が何も話さないという事程恐ろしい事は無い。
無言の拷問は、こんな魚釣りにまでノルマを与える様に重しとなってのし掛かってくるのだ。
早く連れてくれないかと思う気持ちさえも、いい訳の様に思えて来る。
何時か肇が友達を連れて来た時の事だった。
幸雄は、珍しく騒いで遊んでいると思った時、一人の子が肇に話し掛けた。
「お前、今日の作文さあ、何て書いたの。俺は作文なんて苦手だから、授業中ずっと書き方が分からなくて結局用紙の半分も書けないで終わってしまったから、点数悪いだろうな・・」
友達が帰ってから、何となく幸雄は作文の内容が気になって肇にそれとなく聞いてみた。
肇は話を逸らすように周りにあった本を適当に手に取ると、ページを開きながら小さな声で・・。
「うん?どうって事無いから」
幸雄は其の話方が・・幸雄に。
「其れから先の事を聞いてみたら・・」
と暗示している様な気がした。
肇の読書を邪魔しない様にと思いながらも、気が付いたら、「何て言う題だったの?」と聞いていた。
肇はページをパラパラと捲り、読む事に集中して無いかの様に一言。
「うん、親の職業について・・」
幸雄には聞きたく無かった言葉が頭の中で大きくなっていく。
「あっ、引いてる!」
幸雄は、夢から醒めるように遅れてその言葉に反応をする。
せかされる様に竿を引き揚げた。
運が良かったのか水面から糸が上がって来るに連れ、一匹、そしてもう一匹、小さな銀色に光った魚。
何と初めて魚が釣れた。
釣ってから此れだけ沢山針が付いているのだからと思いながら、魚の口に引っ掛かっている針を抜き取るのに、魚が痛くないようになどと思いながら無事、海水が三分の二位入ったバケツに入れる事が出来た。
肇が笑顔を見せた時は、幸雄をして自らの笑顔を二の次にさせ、肇の笑顔に目を遣ったまま・・と言う程嬉しかった。
魚は大した痛手も感じさせないで元気そうにバケツの中を、まるで何処かに逃げ場が無いかと探している様に泳いでいる。
暫く二人で泳ぐ魚を見ていた。
幸雄は魚は何かを言いたいのではないかなどと感じたのだが、言いたい事を恰も魚のせいにしているのが誰なのかと気付き目をバケツから反らせたくなった。
今度は肇に竿を任せ、幸雄はもう一度バケツの魚を見ている。
幸雄は、今まで大海原で自由に泳いでいたのに、こんな小さなバケツの中でしか泳げなく・・と何か悪さをした様に思う一方、肇が喜んだのだから勘弁してくれ、という気持ちの狭間(はざま)の中で聊か弱気に。
魚が何も話さないのは当たり前なのだが、無口なのは肇も同じ様な気がする。
其の時、肇が竿を持ち、
「釣れたよ!」
と再び笑顔で幸雄の方に歩いて来る姿に目を遣った時、既にそんな感傷は頭から消えていた。
何時間海岸にいたのだろうか。
辺りは夏の直射日光が和らいで来ている。二人の頭の中に帰巣本能の様なものが。
幸雄は帰り支度をしようと、バケツの魚を海に返し自由に泳がせてあげようと思った。
ほぼ二人同時にバケツの中を覗いた。魚は横たわり水面に浮かんでいる。
肇が其れを見、
「あれ?魚死んじゃったのかな?」
と魚をつついている。
幸雄は自分も同じ事をしていただろうと思ったのだが、其れだけでは親子の繋がりがどうとかとは無関係。
海に返せば生き返るかと思いバケツの水事魚を海に帰した。
岸壁に打ち寄せてはしぶきを立てすぐに引いて行く波。暫くは魚が波に救われたかのように期待したのも束の間、銀色の腹を見せた亡骸が海底に沈んでいった。
「どうして、もっと早めに放してあげなかったのか」
と言う気持ちが幸雄の心中で存在感を持ち始めた時、肇が、「もう少し早く放してあげれば良かったね」と。
幸雄は自らが至らぬばかりにという重りが軽くなると同時に、親子が少しばかり近付いたようにも感じた。
帰りの電車の中。
来た線路を戻りながら同じ景色が違って見える。
少なくとも何某かの時間を過ごせたという事が多少でも幸雄を癒してくれる。
しかし、子供が喜んでくれた事と、魚を殺さなければ時間が潰せなかったのかという悔悟の念は相容れない。
駅に着いた頃。
夕暮れ時のオレンジ色の日差しはすっかり力尽きているようにも見えたが、其れでも一日が終わったんだと二人に告げてくれていた。
夜の静寂(しじま)は古(いにしえ)も今も変わらぬ安らぎを運んできてくれている。
過ぎてしまった事を何も考えなくて良いという事程気が休まるものは無い。
寝る前に子供の寝顔を見てから蒲団に横になる。
少なくとも朝が来るまでには大分あるなど思っているうちに、次第に眠りの底に落ちて行き自分が誰であるかも分からなくなっていた。
朝、目覚ましの音に驚き目を覚ます。
仕事に行かなくてはと慌てて支度を始めながら、何の夢を見ていたのかと思い出そうとしたのだが、全て忘却の彼方に置き忘れている事に気が付いた。
何時もの電車に乗り会社に着く。
慣れた仕事をこなしていくうち、ふと、嫌な夢だったなと思ったのだが、先頃久し振りに読んでみた「志賀直哉の城之崎にて」。
その余韻に浸りあのような夢を見たのかなどと思う一方、其れにしては魚の死に関する描写など緻密に程遠い。天才とは素晴らしいものと感心をするも、自分は分不相応であるのだから当然だと寧ろ安堵の念を感じた。
夏の終わりを告げる様にビルの谷間を吹き抜けていく風の寂しげな後ろ姿が遠ざかって行き、紫陽花色の暮色が窓ガラスを舐める様に下がっていく。
待ち受けていたように現れた黒装束に身を包んだ闇は華やかな街の灯りを実に鮮やかに浮き出していた。
「人類の目的は、生まれた本人が本人自身に作ったものでなければならない。夏目漱石」
「どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。芥川龍之介」
「正しく書く事によって初めて考えをより明瞭にかつ確実にすることができる。志賀直哉」
「by europe123 original」
https://youtu.be/WOd05LXYI2g
魚と独り言
親は失業中。
子供は無口で親の心配は。