幸福な雨

幸福な雨

誰がなんと言おうと、私はこの人抜きの幸せなんていらない。

四日ぶりに帰ってきた夫はずたぼろだった。それは予測していたことだし驚かないけど、私の胸は軋む。コートを着たままベッドでうつ伏せになった彼の傍に座って、その髪に触れる。泣き腫らした瞼――きっとばかみたいに泣いたんだろう――にもそっと触れる。
「振られたのね 、」
夫は少しだけ目を開けて私を見る。
重症だな、と思う。よかった、と思うと同時に、夫をこんな無様な姿に変えてしまったやつのことを恨む。ほとんど怨嗟的に。
私はベランダに出て煙草を吸う。
外は雨だし、今は二月だし、寒くてやってられないけど吸わずにはいられない。夫が煙草を嫌うせいで、吸うときはいつもベランダに出るしかない。
私だって煙草なんてやめたいのよ。
でも、吸わずにはいられない。
私に最初の煙草を勧めてくれたのは祖母だった。まあ吸いなさいよ、と言って自分の煙草を私に咥えさせ、マッチの火をつけてくれた。
吸わなきゃやってらんないときもあるわ。
あのとき確か祖母はそう言った。私は十七才で、夏だった。数日前にいまの夫を殺し損ねた私は、祖母のいる京都まで逃避行していたのだ。
私たちはバイオレンスな夫婦だ。
私の知る限り、夫は三人の男を半殺しにしたことがあるし、私は夫を殺し損ねたことがある。それに、夫は知らないだろうけど、私は頭の中でもう何人もの人間を手にかけてきた。あらゆる武器や手段を使って。女グラディエーターみたいに。
しかし夫は私には決して手をあげない。私がどんなに夫を逆撫でしようが悪し様に罵ろうが、黙ってそれに耐える。左の頬を打たれたら右の頬も差し出しなさいみたいに。おあつらえ向きにも夫はクリスチャンだ。いまはどうか知らないが生まれたときはそうだった。夫の両親が彼に洗礼を受けさせた。
ときどき思うのだけれど、夫がたまに支離滅裂な行動を起こすのは名前が多すぎるせいなんじゃないかと思うことがある。
夫の名前は李泊陽(リハクヨウ)という。結婚するまではその名前だった。ハクヨウと日本語読みするのは数人だけで、みんな中国語の発音に倣ってボーヤンと呼んでいた。ハクヨウ、ボーヤンの他にクリスチャンネームのパウロがあって、何のためにあるのか知らないがイングリッシュネームはレナードという。
ハクヨウ、ボーヤン、パウロ、レナード。それに城戸崎泊陽。呆れるくらいに多すぎる。
あだ名に関してはもっとあったかもしれない。チャイニーズマフィア、殺し屋、悪魔、歩く鉄砲玉、ヤンヤン、シャオヤン。
「泣き虫小陽(シャオヤン)」
窓越しに見える夫の頭を見ながら、そう呟いてみる。
泣き虫シャオヤン、哀れなシャオヤン。
そう思いながら、今日の夜に「フェリス・オラ」を予約したきのうの自分を絶賛した。
四日前、夫は四国へ行った。それは仕事で、コンサートの帯同(夫は調律師だ)だったのだけど、終わったあとに夫がどこへ行くのかは知っていた。四国には、夫の元恋人がいる。半井蒼という名前の、教師をしている男だ。



「私、これから出掛けないといけないの」
うつ伏せのままの泊陽に声を掛けるが、ぴくりとも動かない。死んでしまったようだが、本当に死んだりしないことは知っている。
「ごはん、冷蔵庫の中のもの適当に食べて」
「食欲なんかない」
「ヨーグルトあるよ。あんたの好きなブルガリアの、苺がいっぱい入ったやつ」
「食いたくない」
「好きにしなよ」
私は寝室を出て行く。
ああは言っていたけど、たぶんあとで食べるだろう。いつもそうなのだ。泊陽は落ち込んだり激昂したり大暴れしたり、感情が振りきれたあとはネジの切れた玩具みたいに動かなくなるが、しばらくすると動き出して、ばかなのか? ってくらい何かを食べる。私は泊陽がそうやって回復するために食事を摂っている姿が好きだ。いい食べっぷりだし、獣みたいだと思う。見ていてうっとりする。それは私が食事に関してはずっと節制した生活を送ってきたからなのかもしれない。私は去年までバレエダンサーだった。いまは退団して講師をやっている。
私は家を出る。泊陽はまだ一人でいたいだろうし、私は逆に一人でいるべきじゃない。
車に乗り込むと泊陽が好きなスピッツの曲が流れ出す。雨の降る夕方に、草野正宗の声と言葉が沁みる。
みんなして私を泣かせないでよ。



ホテルの駐車場に着いてすぐに男はやって来た。見た瞬間にハズレだとわかったが何をする気力も湧かなくてそのまま部屋に行った。
「フェリス・オラ」を利用するようになってどのくらいになるのだろう。名前はムカつくけれど、私には必要な店だ。あってくれてよかった、と思う。家の近所にドラッグストアがあるみたいな感覚で。
その店は表向きはエステサロンだけど、実態は女性専用風俗だ。男娼が来てくれて、女が金を払って、してもらう。すべてを。私は妊娠しないためにピルを飲み、男は避妊具を着けて、致す。
料金は高い。高いだけあって大抵の男の子はこの道のプロだ。かわいいしきれいだし、余計なことは言わないし訊ねない。面白い話を聞かせてくれたりもする。そういう子は床上手。私は厭なことのすべてを忘れられる。ばかな妄想や過去のあれこれに心の中を奪われたりしない。
でも今日のはハズレだった。きのう急に予約したから仕方ない。人気の子たちはきのう今日で呼び出したりできないから。今日来た男は神経もがさつだったし、床の中でも然り。それだけならまだよかったのに、終わったあとで「契約」の話を持ち出してきた。店を介さずに個人的に会う関係になろうという話だ。
死んで、と言う代わりに「消えて」と私は言った。笑顔で言ったせいかそいつには意味が通じなくて、今度はわざわざ真顔で「消えて」と言わなければならなかった。男はようやく鈍い頭で理解すると、口先だけの謝罪をして帰って行った。どうせ心の中では舌打ちして「クソアマが」くらいに思っているんだろう。
ドアが閉まると私は店に電話を掛けクレームを入れる。「契約」のこともちゃんと言ってやった。男は店をクビになるかもしれない。たぶんなるだろう。そうしたら私を逆恨みして復讐してくるかもしれない。ここは東京だけれど、私を探しだして殺すことなんて本気になれば難しいことじゃない。車のナンバーだって見られているわけだし。
「やれよ」
私はベッドで一人呟く。やれよ、殺しに来い。
誰かに殺されることはいまの私にはそれほど哀しいことじゃない。男が私を殺せば、泊陽は必ずそいつを見つけ出して殺す。泊陽ならやる、絶対に。警察の手がそいつに届く前に男を見つけ出し監禁し、コックがたっぷりと時間を掛けてビーフシチューを煮込むみたいにそいつのことを殺すだろう。私への弔いのために。殺したあとで、泊陽は私のために涙を流す。泣き虫シャオヤンに戻って。
でもそのあとで泊陽は私のことなんか忘れてあいつのところに行ってしまう。そのことを思うと泣けてくるし、やっぱり殺されたくなんてないと思う。
ホテルのベッドでばかばかしくも涙なんて流していたら、携帯電話が震えてメールが届いた。遥からだった。
『帰ってきたよ。明日会おー』
遥のメールはいつも簡潔だ。絵文字とか変な動く文字とか使わない。
私は現実に戻ってきてメールに返信を打つ。
遥が帰ってきてくれてよかったと思う。少なくともそれは夢じゃなく現実なのだ。



家に帰ると泊陽はソファに座ってテレビを見ていた。流しにはヨーグルトの空箱とスプーン。洗ってないところを見るとまだ回復途上らしい。
泊陽はソファの上で膝を抱えて座っている。子どもみたいに。テレビは録画しておいたフィギュアスケートの試合だ。泊陽はフィギュアが好きだ。贔屓の選手(マオ・アサダとパトリック・チャン)が出てくると喰い入るように見る。素晴らしい演技のときには家の中にいるのに一人でスタンディングオベーションまでする。無表情で、無言で。
スポーツを観戦するとき、泊陽は声を出さない。誰がミスしようが得点が相手チームに入ろうが黙って目視しつづける。勝っても別に喜ばないし、素晴らしいプレーに雄叫びをあげたりもしない。
去年の夏、二人で野球を見に行った。泊陽はヤクルトファンで、私たちは神宮球場にユニフォームまで着てそこへ行った。ユニフォームは泊陽がどこからか買ってきた。おまけに神宮では小さな傘まで買った。ヤクルトに得点が入ると、『東京音頭』が流れてファンは立ち上がってその傘を上げ下げして踊る。その日はばかすか得点が入って、私と泊陽は九回も『東京音頭』に合わせて傘を振った。無表情で。私たちはきっと滑稽な姿だっただろう。野球のルールも知らない女と、全然楽しそうじゃないのに真剣に傘を振る男。まるで誰かに頼まれて仕方なくそうしているみたいに見えたにちがいない。自ら望んで来ているなんて、誰も思わなかっただろう。
私はビールの売り子が何度も来るのにいらいらした。来れば飲みたくなるけどビールなんて飲むわけにいかなかったから。
帰りに泊陽はつば九郎のぬいぐるみを買ってくれた。最初は一番大きいのを買おうとしたけど、「そんな大きいのどうすんのよ?」と言うと、一番小さいのに取り替えた。買って、なんて頼んでないのに。泊陽はときどきそういうことをする。
つば九郎は出窓に飾っている。
「俺、フィギュアスケーターになりゃよかった」
泊陽がそう言うのはこれで何度目か知れない。
「あんたならオリンピックで金メダル獲れたわよ」
私も何度目か知れないけどそう言う。
けれど本気でそう思うのだ。泊陽は何でもできる子だったから、フィギュアスケートだってきっと日本代表選手になっただろう。そうなったら私は大会の度に泊陽の応援に行ったにちがいない。モスクワだろうがヘルシンキだろうが飛んで行って、泊陽が優勝できるように魂を削るような思いで見守っただろう。それからキスアンドクライで照れくさそうにカメラに手を振る泊陽を見て笑ったりするのだ。
本当にそうだったらよかったのに。
そうしたらきっと泊陽は私と一緒にバレエをつづけて、ピアノなんか放り出したのに。そうだったなら――泊陽は半井蒼に出会うこともなかったのに。



李家がうちの家の向かいに越して来た日のことを覚えている。私は二歳で、泊陽も二歳だった。幼い頃、泊陽はヘルメットみたいなキノコみたいな髪型をしていた。真っすぐに切り揃えたその黒髪は、まるで脱着可能な帽子みたいだった。
李家がうちに挨拶に来たとき、泊陽は私のことをじっと見た。丸くて大きな黒い瞳。私も同じようにじっと泊陽を見返した。やがてその黒い瞳がじんわり濡れてきて、一気に表情が崩れたかと思うと泊陽は火が付いたように泣き出した。泊陽のママが泊陽を抱き上げて、私にはわからない言葉で泊陽を慰めた。シャオヤン、という言葉だけが聞き取れた。
いま思い返せば、私は出会った初日から泊陽を泣かせたのだ。いまも泣かせつづけている。
李家が住む家はもともとは祖父の所有物だった。戦前からある洋館でばかみたいに広い庭がある。暗いし、手入れも大変だから、母はその向かいの土地に新しく家を建てた。
近所中で李家と親しくしていたのはうちだけだった。それは李家の人たちが日本語をほとんど話せなかったのもあると思うけど、ご近所さんも得体の知れない外国人一家みたいに敬遠していたところもあった。父が英語とドイツ語と少しの中国語も話せることを知ると、泊陽の両親はすごく安堵したみたいだった。海を漂流していたら船が通りかかったみたいな顔。
泊陽は私と同じバレエ教室に通うことになった。最初の日、エリコ先生が泊陽を寝かせてその骨格や股関節の柔らかさを確かめた光景を覚えている。泊陽の股関節はどこまでも広がった。エリコ先生は金脈でも見つけ出したかのような顔で何度もその柔らかさを確かめた。されるがままになっていた泊陽。
それから中学に上がる年まで、泊陽は私と一緒にバレエをつづけた。その教室の中で、私と泊陽はトップダンサーだった。十二才のとき、小学生だけの演目で『くるみ割人形』をやった。私がクララで、泊陽が王子だった。――私の人生の幸せの絶頂期。
泊陽はある日バレエをやめる。ピアノ一本に絞りたいというのが理由だった。確かにいつまでもその二つを同時につづけることは難しい。極めようと思うならいずれか一本に絞るしかない。私は文句なんて言わなかった。さみしかったけど、泊陽の弾くピアノも好きだったから。まさかピアノを取った理由が半井蒼だったなんて考えもしなかった。
泊陽はもともとバレエなんてそんなに好きじゃなかったのかもしれない。サボることも多かったし、バレエの衣装なんてアホみたいだと言っていた。でも才能はあった。私なんかより頭二つ分くらいは抜けていた。エリコ先生も相当に未練がましかった。泊陽を教室に戻せと何度も私に迫ってきたくらいだ。まるで私なんてそのために教室に通わせてやっているみたいな鬼気迫りよう。
本人がやりたくないんじゃ無理ですよ。
ばかな私は泊陽を庇ったりしたのだ。裏切られていることに気づきもしないで。



気がつくと私は笑い出してしまっている。
「なに?」
泊陽が訊ねる。
「だたの思い出し笑いよ」
私はこたえたあともしばらく笑いつづける。泊陽は何の思い出し笑いなのか訊ねたりしない。ろくでもない思い出なのは伝わるものだ。


私は、泊陽がゲイだと気づくのが遅すぎた。気づいたときにはもう愛してしまっていた。今さら他の人なんて愛せなかった。乗り換え電車なんてやって来ないし、過去に遡って線路を切り替えてくれるタイムトラベラーも現れない。
突き進むしかなかない。
泊陽が満たしてくれないものは、代用品で賄っていくしかない。
私はしっかりと「フェリス・オラ」の利用履歴を抹消する。泊陽に知られたら店を焼き討ちにするかもしれないし、私と関係を持った男を全員撲殺しかねないから。
私たちは奇妙な夫婦だ。体は愛し合えないのに、確かに愛し合っている。泊陽は初めて愛した男に心を奪われたままだし、私はもう何人の男と関係を持ったかしれないけど、それでも、私たちはお互いが必要なのだ。
誰にも理解できなくても。
「この茶番劇、いつまでつづくかな?」
結婚するとき、私側の証人になった遥はそう言った。確かに他人からしたら私たちの結婚なんて茶番劇なんだろう。
半井蒼は最後まで結婚に反対していた。泊陽を奪われるからじゃなく、私が幸せになれないからという理由で。でも私には、泊陽抜きの幸せなんてほしくなかった。
半井蒼は泊陽側の結婚証人になった。私が懇願してそうさせたのだ。半井蒼はあの日、「おめでとう」を言わなかった。
あのクソ垂れ偽善者は。



フィギュアスケートが終わってしまうと、泊陽は次に『名探偵コナン』を見始める。私はそのアニメが苦手だけど、泊陽が一緒にいてほしそうなのを察してミネラルウォーターのグラスを持って隣に座る。案の定、しばらくすると泊陽は泣きはじめる。
蒼が俺にひどいことを言ったとか、変質者みたいに俺のことを扱ったとか言って泣く。
私は泊陽の頭を胸に抱えてあげる。頭を撫でてあげたり、背中をさすってあげたり。
「でも、あんたも同じくらいひどいこと言ったんでしょ、どうせ」
私がそう言うのは泊陽に冷静になってほしいからだ。半井蒼を庇うわけじゃない。
自分の言ったことを思い返してか、泊陽はまたしばらく泣く。だけどコナンが毛利小五郎の首筋に麻酔針を打ち込むころには落ち着きを取り戻してくる。
私は、自分の胸がもっと大きけりゃよかったのに、と思う。椰子の実みたいなたわわな大きなおっぱいで、泊陽がそこに顔を埋められたらよかったのに、と。泊陽はゲイだけどおっぱいは好きなのだ。人間の本能の為せるわざか。
実はダンサーをやめてから豊胸手術のことをときどき調べている。いいな、と思うけど踏み出せない。泊陽は「ニセ乳」とか言って嫌うかもしれないし、いままでのように踊れなくなるかもしれないのも怖い。もうダンサーはやめたのに。でも私からバレエを奪ったら、もうそこには空っぽな空間しか残らないんじゃないかと思うと、どうしても手術を受けられない。
「変な中坊がいたんだよ」
泊陽は話ははじめる。
「変なってなによ?」
「何か知らねえけど髪の毛伸ばしてる中坊がいたんだよ」
このへんまで、と言って泊陽は自分の肩に触れる。
「そいつ、蒼にピアノ習ってるとかでヘタクソなピアノ弾いてやがったんだよ」
「あんた、まさかと思うけどその坊やに何かしたんじゃないでしょうね?」
「しねえよ。殴ったりするわけねえだろ、中坊なんか」
じゃあ手を挙げる以外のことはしたんだ、と私は思うが口には出さない。
「あいつ絶対ゲイなんだよ」
「トランスじゃないの?」
「ちがうんだって、ゲイなのよ、あいつ」
「あんたさあ、」
私は呆れる。泊陽がこういうことを言い出すのは初めてじゃない。
「アオイくんのことゾンビとかヴァンパイアみたいに思ってるわけ?」
「なんだよそれ」
「アオイくんと目でも合った男はみんなゲイになるわけ? ゾンビかヴァンパイアに噛まれたら同族になるみたいに」
「ちがうんだって」
本当にゲイなんだってば。
はいはい、と私は思う。その坊やがゲイだろうがゲイじゃなかろうが私にはどうでもいい話だ。
「アオイくん、すごい田舎にいるんでしょ?」
「おまえあれ田舎ってレベルじゃねえぞ。地の果てみたいなとこだったぞ。弥生時代に来たのかと思ったわ。おまけにその中坊が俺に猪が出るとかって脅してくんだぜ」
「猪出るから気をつけてねって意味でしょ」
「ちがうんだってば」
本当に脅してきたんだよ。
私は一体何の話を聞かされているんだろう。泊陽も泊陽で私の膝に頭を乗せたまま何を言っているんだろう。
「アオイくん元気だったの?」
「うん、」
泊陽はやっと黙る。
よかったわね、と私は言う。半井蒼なんてこの世から消えちまえと思ってるけど、泊陽にとっては必要な人らしいからそう言う。
『名探偵コナン』はもうエンディングだ。相変わらず警察は無能だし毛利蘭はコナンの正体に気づかないし、犯人は些末な理由で人を殺した。私がこのアニメを苦手としている最大の理由はそこだ。殺人犯の動機がくだらない場合が多い。そんな理由で人を殺していいなら、私なんて一体何人殺しているかわかったもんじゃない。
「ねえ、ピアノ弾いて」
私は言う。
泊陽は時計を見る。ここは楽器OKのマンションだし、ピアノは防音室にあるけど、もう弾くのに褒められた時間じゃないのは確かだ。
泊陽は起き上がる。本当は弾きたくなんてないんだろうけど、私のために防音室に歩いて行く。
泊陽は石鹸で手を洗い、タオルできれいに拭ってからヴェーゼルドルファーの蓋を開ける。
リクエストはしない。しなくても、泊陽にはそのとき必要な音楽がなんなのかわかるから。
ドビュッシーの『月の光』を、泊陽は奏でる。泊陽の手は美しい。むかしはプリンシパルになるための手だと思っていた。いまはピアノを奏で、ピアノを調律するための手だ。
私は床に膝を抱えこんで、泊陽のピアノを聴く。



私は半井蒼のことを考えた。地の果てみたいな田舎で、長髪の少年にピアノを教えている半井蒼のことを。二人がそうやってピアノに向き合っていると、森からかわいい動物たちが集まって来たりするのかもしれない。リスとか野うさぎとか小鳥とか、絵本に出てくるような子熊とか。
一昔前のディズニー映画にありそうな場面だ。 だけどそういう場面は、半井蒼には似つかわしい。
私はこれまで何度かしたことがある妄想にまた囚われる。
例えば雪山かなんかで私と泊陽と半井蒼と遥の四人が遭難する。そこへ神が通りかかり、一人だけ助けようと気まぐれを起こす。神は四人それぞれの人生や善行を見比べてみる。真っ先に私が消される。世の中の役に立つほどの才能もなければ、愛する人を苛めたりするから。次に泊陽が消される。これまでの流血沙汰や数々の破壊行為が主な理由だ。遥に関してはバレエの才能に躊躇いを見せるが、横にいる半井蒼と比べるとその善行の少なさと他人に対する思慮のなさ、倫理観の欠如によって神は遥を消す。
神がお救いになるのは半井蒼だ。



曲が終わると私と泊陽は何も言わずに寝室に行った。泊陽は私を抱き締めてベッドにゆっくりと押し倒す。
キスをして、服を脱がしていく。
泊陽の長い指が私の体を触っていく。
私は濡れるけど、泊陽のレーゾンデートルは萎えたまま。泊陽はベッドの下から自身の代用品を取り出す。
ソノミ、
耳もとで泊陽が呼び掛ける。私の名前は、泊陽が呼ぶとカタカナのように響く。
ソノミ、アイシテル。
そこに嘘なんてない。ただ欠けているだけ。永遠に満月になれない月みたいに。



翌朝の食卓で泊陽はおにぎり二つと落とし卵のみそ汁を食べる。その食べっぷりを見るにつけ、まだ完全には回復していないことがわかる。私はサラダと蒸しササミとヨーグルトを食べながら、今日は泊まってくると告げる。
「遥、こっちに帰って来てるのよ」
遥がカナダのバレエ団に行ってしまったのは二年前だ。もちろん、彼女はいまアジアから来たプリマドンナだ。
「ふん。戻ってきてんだ、ばか女」
「ねえ、私の地上でただ一人の友人のことをばか女って呼ぶのやめてくれない?」
「ばか女じゃん、あいつ」
「やめて」
そう言ったけど、泊陽はこれからも遥のことをそう呼びつづけるだろう。初めて会ったときから泊陽は遥のことを嫌っていた。「ばか女」だけじゃなく「ばか笑い女」とか「林家パルカ(笑い方が林家パー子に似てるから)」とか呼ぶ。でも遥はそんなこと全然気にしてなくて泊陽がそう呼ぶと泊陽が嫌悪する音程で大笑いする。
「俺も今日夜いない」
「ピアノ?」
「そう」
泊陽の本業はいま調律師だけれどピアノの演奏をやめたわけじゃない。小規模なコンサートもやるし、ホテルのバーやクラブみたいなところで弾くこともある。学生時代にも同じようなことをしていたのだが、酔客に『六甲おろし』を弾けとしつこく絡まれて、そいつの持っていたハイボールを顔にぶちまけたことがあった。その上、空になったグラスでそいつの頭を殴ったりしたから泊陽はクビになった。いまじゃさすがにそんなことはしないだろうけど。
「善き音楽を」
「natürlich」
もちろん、と泊陽はこたえる。



泊陽の出自は複雑だ。私も正確には把握しきれていないし、泊陽もそうなのかもしれない。はっきりしているのは、泊陽は中国に一度も住んだことがない中国人だということ。生まれたのはアメリカで、泊陽のママはドイツ系の中国人で、泊陽の祖父はドイツ人。泊陽のパパは中国人だけどアメリカにいた。泊陽の両親は泊陽を日本のふつうの学校に通わせたけど、ドイツ語と北京語を覚えさせようとした。
ナショナルアイデンティティの揺らぎ。
でも泊陽自身は自分のことを日本人だと認識していた。周りにそう認識されていないことは百も承知で。
小学校時代、五年生まで泊陽は大人しい子どもだった。少なくとも学校内ではそう振る舞ったし、勉強もスポーツもできたけど目立たないように気をつけているふうでもあった。大人しい、ということと中国人の名前を持っていることで泊陽はからかわれたりちょっとしたいじめにあった。物を隠されたり、上履きに画鋲を入れられたり。でもそういう連中にいちいちかまったりしなかった。放っておいた。
その方向性が変わったのは五年生のときだ。どこで仕入れてきた知識なのか知らないが、一人の男子が泊陽のことを「ちゃんころ」と呼んだのだ。
私は、その言葉の意味を知らなかったけれど、何か途徹もなく悪い言葉なのはわかった。背筋が寒くなるような。
泊陽は一瞬固まったあとで、その愚劣な男子を思い切り殴りつけた。机と椅子が吹っ飛んで、そいつが床に倒れると馬乗りなって殴打しつづけた。ほとんどの生徒はその光景をただ唖然と見ていた。私もその一人だ。泊陽は既に学年で一番背も高く体格もよかったから、男の先生に羽交い締めにされるまで誰にも泊陽を止められなかった。
殴られた生徒は歯も折れて机の角で頭を切って入院した。私は、担任の教師に直接言うのが怖くて父に「ちゃんころ」のことを話した。父は激昂し、学校に訴えてくれたけど、もう悪者は泊陽で決まりだった。どんなに説き伏せても学校はその判決を覆さなかった。
確かに泊陽は血を流したわけじゃない。だけど、泊陽があの言葉に血を流すよりも傷つけられたことなんて学校は解ろうともしなかった。
私は泊陽のために泣いた。
かわいそうなシャオヤン。
泊陽の暴力行為はここからはじまった。まるであの言葉が泊陽のリミッターを破壊してしまったみたいに。



「園美ちゃーん! 会いたかったよー」
駅に現れた遥はものすごく高いヒールを履いていた。私たちは抱擁を交わし、外国人みたいに両頬にキスをし合う。
「またそんなヒール履いて。脚折れたらどうすんの?」
遥は泊陽の嫌いな笑い声を上げる。
「いいのいいの。折れたらバレエやめる。そんでハーゲンダッツ死ぬほど食べる」
ハーゲンダッツを死ぬほど食べるのは遥の夢だ。夢はもう一つあって、これは私も同じなのだけど、きれいな足を手に入れること。トゥシューズを履きつづけた私たちの足はぼろぼろだから。まるでトゥを履いてはじめて完成するみたいに。
「お腹は?」
「飢えた虎のよう」
ガオッー。遥は虎の真似をする。
桐生遥は高二の五月という中途半端な時期に東京から金沢にやって来た。遥がバレエ教室に来た最初の日、エリコ先生がその実力を見定めようと教室の真ん中で踊らせた。
踊り出した瞬間に、すべてがわかった。この子は別格だ。その場にいた全員がそう思ったし、私にもわかった。トップダンサー交代のときだと。
その年の演目は『白鳥の湖』で、私が主役をやることはすでに決まっていたけど、遥が踊り終えるとエリコ先生はすぐに私を呼んで訊ねた。どう思う? と。
彼女がやるべきだと思います。と私はこたえた。エリコ先生は肯いた。
遥は私を見て、手を合わせた。ごめんね、という意味なのかと思ったらちがっていて、遥はにこにこ笑ったまま、
「いただきます」
と言った。ごはんでも食べるときみたいに。私は思わず笑ってしまった。
「どうぞ。おいしく頂いてちょうだい」
そうして私たちは友だちになった。
遥が踊ったとき、何人かは同情的な目で私のことを見た。でも私はあのとき、心の底から安堵したのだ。もうトップじゃなくなることに。この子が来てくれてよかった、と。ダンサーとしては駄目なことだと知っていたけど、そう思わずにいられなかった。
私は遥のことを尊敬している。体力的にも精神的にも永久的なストイックさを求められるこの世界で、曲がりなりにもトップに立っているのだから。しかも笑顔で。
遥は十二才のときからクラシック・バレエの世界に入った。それまでは体操をしていたそうだ。その事実に私は少しだけ打ちのめされた。けれど、才能ってそういうものだ。
遥には人より一本ネジが足りない。多いのじゃなく足りないのだ。だけど撓むことができるのは、大いなる力だ。
わかりやすく言うと、遥は精神的にぶっ飛んだところがある。だいたいずっとにこにこしているし、ショックからも一瞬で立ち直る。物の見方も人より少しずれていて、例えば遥がすっごく面白い映画を見た、と言って来たことがある。何の映画か訊ねると、『八ツ墓村』と遥はこたえたのだ。すっごく面白いの、後半なんて笑いっぱなしだったんだから、と。その一方で鋭いところもあって、泊陽がゲイだとたった一日で見抜いたりした。



私と泊陽と半井蒼と遥の四人で、デートみたいなことをしたことがある。何でそんなことになったのか覚えてないけど、遥が言い出さない限りそんなことをしたりはしないだろう。私たちは片町のミスタードーナツで待ち合わせをした。私は泊陽とそこへ行き、半井蒼が来て、遥は十分以上遅刻してやって来た。そして半井蒼を見た瞬間に、「この子もーらいっ」と、半井蒼の腕を掴んだ。
こいつなに? 泊陽は私に耳打ちした。それが嫉妬だったなんて、私は思いもしなかった。
デートをすることになったとき、私はたぶん心のどこかで半井蒼が遥のことを好きになったらいいのに、と考えていた。泊陽とつるんでばかりいる半井蒼がそうなれば、泊陽が少しでも自分のところに来てくれるみたいに。その一方で泊陽が遥のことを好きになったらどうしようと心配したりした。いま思えば心底ばかばかしい悩みだ。
私たちはそれからバスに乗って福井の東尋坊に行ったのだ。東尋坊はデートするような場所じゃない。でも遥が行ってみたいと言い出して、他の三人には別に行きたい場所もやりたいこともなかったから従った。晴れてるしいいんじゃないの? と半井蒼が言った。
バスには遥と半井蒼、私と泊陽の組み合わせで座った。
「あの女ばかなんじゃねえの?」
と泊陽が言ってきた。私は、遥が泊陽に「中国人って本当にウソつかないの?」と訊いてきたことを怒っているのかと思った。みんながぽかんとしたあとで、「それインディアンだよね」と半井蒼が突っ込んだ。遥がけたたましい声で笑って、それも癪に触ったのだろうと。
「自由な子なのよ」
私は遥をフォローしたけど、泊陽は遥を敵と見なしたみたいだった。
バス停から東尋坊まで歩く道のりでは海鮮焼きを売ったりしていて、遥はホタテの串焼きか何かを買ったのだけど、一口食べると「あげるね」と、半井蒼に押し付けた。泊陽が私の隣で舌打ちした。
「マジで何なのあいつ」
「怒んないでよ」
私たちはそれから東尋坊の崖っぷちを見て、適当な店で海鮮丼を食べた。料理が運ばれてくるあとだったか前だったかに、遥が「心理テストやろうよ」と言い出した。
「二つの四字熟語を思い浮かべてください」
と遥は言った。私たちはそれぞれナプキンか何かに思い浮かんだ四字熟語を二つ書いた。くっだらねえ、と言いつつ泊陽もやった。
私と泊陽は一つ目に「四苦八苦」を書いた。二つ目は泊陽が「猪突猛進」、私は「七転八倒」と書いた。
遥は笑顔で、
「一つ目のはその人の人生観、二つ目は恋愛観なんだって」
と言った。
当たってるじゃん。
いま思い返すと、あの心理テストは本当に当たっていたのだ。



「ねえ心理テストのこと覚えてる?」
焼肉よりも罪悪感が少ないという理由で、私たちは焼鳥屋に来ていた。遥の好きな猥雑で安っぽい店のカウンターで、ビールを我慢して赤ワインをボトルで頼んだ。
「心理テストって何のことー?」
私は東尋坊での出来事を話した。遥は思い出し、そんなとこ行ったねー、と笑った。
「ねえ、あのときアオイくんが何て書いたか、遥覚えてない?」
「覚えてないよ、そんなこと。自分が書いたのだって覚えてないのに」
「あんたは人生観が『笑止千万』で、恋愛観が『臨機応変』だって自分で言ってたわよ」
それを聞いて遥は笑う。当たってんじゃん、と。他の客が振り向くほどの音量で。
「ねえ、アオイくんはなんて書いたと思う?」
「知らないよ、そんなこと。電話かけて訊いちゃえば? ねえもしもし? 二つの四字熟語思い浮かべてくれない? って」
「私はあのときのことを知りたいのよ。いま訊いたら、ちがうこたえ言うかもしれないでしょ」
「じゃあ旦那さまに訊きなよ。ボーヤンくんなら覚えてるでしょ。未だにアオイくんのおケツ追いかけて地の果てまで行ったんだし」
「おケツって言わないで」
「本当のことじゃん」
「あいつに訊きたくないのよ」
「園美ちゃん早く離婚しなよ。そんで私にジミーチュウの靴買ってよ」
結婚するとき、遥はこんな結婚長つづきしないでしょ、と言った。私が永遠につづくわよ、つづけるの、と 言うと、じゃあ離婚したらジミーチュウね、と遥は小指をひらひらさせた。約束、と。
「離婚なんてしない。I don't want to divorce」


東尋坊のあと、バレエ教室で私は遥に訊ねた。アオイくんどうだった? と。あの日、遥は一日中半井蒼の腕を掴んでいたし、気に入ったのかと思ったのだ。遥はけれど、ああ、と半井蒼の存在なんて忘れてた、みたいな声を出した。そして言ったのだ。
「けっこう顔は好みだったんだけどさ、私ゲイに興味ないんだ」
私は、遥が何を言っているのかわからなかった。ぽかんとしていると、遥はストレッチをつづけながら更に言った。
「デキてるでしょ、あの二人」
「二人?」
「園美ちゃんの彼氏くん? ボーヤンくんだっけ、あの人もさ」
絶対にゲイだよ。
遥は平然としていた。ストレッチをつづけながら、突然吹き出して、
「あー可笑しかった。ボーヤンくん、私のこと殺したそうな目でずっと見てたでしょ? 私、あの人の嫉妬にまみれた顔見て笑い出さないように必死だったんだから」
遥はそのまましばらく笑い、私が真顔なのに気づくと哀れむような目になった。
「まさか園美ちゃん、いままで少しも気づかなかったとか?」
遥は私に近づいて、両手で私の頬を挟んだ。つめたい手だった。
「おばかさんなんだね」



泊陽が私の身体を求めて来たのは十四才のときだった。日曜日で、私の部屋に泊陽がやって来た。両親は留守だった。私たちはお互いの部屋を第二の自室のように行き来していたから、そういうことは別に珍しいことじゃなかった。泊陽はポータブルのゲーム機を持ってきた。私は本を読んでいた。泊陽が立ち上がって、座っている私のうしろから腕を回してきて、頸筋にキスしはじめたとき、私はやっとこのときが来たと思った。私たちはこうなるべきだと、ずっと思っていたから。
私は、まさか泊陽が自分がゲイじゃないかどうか確かめているなんて思いもしなかった。泊陽も苦しんでいたのだとは思う。何せまだ中学生だったし、自分にまた一つマイノリティーの要素が加わってしまうことからも逃れたかったのだと思う。そしてそれを試せる相手がいるとしたら、私しかいなかった。仕方なかったのだと思う。けれど、この日のことを思い返すと、未だに胸が潰れてしまうほどかなしくなる。
半井蒼が泊陽と私の間に現れたとき(確か中学一年のときからだ。泊陽がバレエをやめた年)、私は警戒なんてしなかった。寧ろ泊陽に友だちらしい友だちができてよかった、と思ってさえいた。半井蒼はやさしい人間みたいだったし、ちゃんと頭で考えてから言葉を発していた。賢くてやさしい、人畜無害ないい子だと思っていた。私から泊陽を奪っていくなんて、誰に想像ができただろう。
私は遥の言ったことをすぐに信じたわけじゃなかった。ただ心の中で欠けていたピースが見つかったときのような音がした。それから心の中に、孫悟空の上に五百年間乗せられた巨大で真っ暗な岩が入りこんでしまったような気がした。
泊陽には何も訊ねなかった。何をどう訊ねればいいのかわからなかった。
そしてある日、私は泊陽を殺そうとする。



泊陽はときどき私の高校まで迎えに来ることがあった。頼んだわけでも約束したわけでもないけど、私も泊陽がいると泊陽の自転車の荷台に乗って、二人乗りでそのままどこかへ行ったり家に帰ったりしていた。
その日もそうだった。校門を出ると泊陽が自転車の傍に座って待っていて、私は黙って荷台に跨がった。
帰り道には歩道橋があった。登るとき、私は自転車を降りて泊陽のうしろを着いて行ったけど、下るときはまた泊陽の自転車の荷台に乗った。歩道橋の階段の真ん中にある自転車走行路は、自転車を降りて押して歩くのがルールだ。でもそんなルール一度も守ったことはなかったし、いつも二人乗りしたまま坂道を下っていた。その日もそうだったし、そのことを思いついたのは本当に突発的なもので計画していたわけじゃない。でも、私はやったのだ。何の躊躇いも感じなかった。まるで天使が私の腕を取ってそうさせたみたいだった。
私はうしろから泊陽の両目を塞いだ。
真っ暗になったからというよりは驚愕のために、泊陽はバランスを崩し、自転車のタイヤは走行路を外れ、私たちは歩道橋を転がり落ちた。
私は泊陽と心中がしたかったのだ。たぶん。だけどもちろん、そんな生易しいやり方では二人とも死ななかった。
私はほとんど無傷で、検査のために一日入院しただけだったが、泊陽は骨にひびが入って二週間の入院になった。
指は? と私は病院で父に訊ねた。無事だよ、と言われたとき、後悔のために涙が出た。自分で殺そうとしたくせに。
わかっていたことだけど、泊陽は私に目を塞がれたことを誰にも話さなかった。寧ろ私を危険な目に遭わせたからと言って、泊陽は泊陽のパパにぶん殴られた。
私はその夏、祖母のいる京都に逃避行した。もう何もかもが厭だったし、バレエなんて踊りたくもなかった。



祖母は黙って家に置いてくれた。何も訊ねたりはしなかったし、私も何も話さなかったが、私が傷ついていることはわかっているみたいだった。
窓辺でぼうっと雨を眺めていると、祖母は傍にやって来て、私に煙草を一本勧めてきた。
吸わなきゃやってらんないときもあるわ。
特に何をするでもなく、祖母の家で漫然と日々を送ったその逃避行だったが、一度だけ奇妙なことがあった。
それは南禅寺で起こった。
何となく散歩をしていたら、その山門で有名な禅寺に辿り着いたのだ。私は寺に入り、観光客でいっぱいの境内を散策した。南禅寺の後方には明治時代に造られた赤レンガ造りの水路閣がある。そこは木陰と琵琶湖疎水の水気に満ちて涼しく、そこでしばらく休むことにした。すると、突然雨が降りだした。さっきまで夏の太陽のひかりに満ちた空は真っ暗に曇り、叩きつけるような雨が地面を打った。その場にいた全員がそうしたように、私も水路閣の下に避難したけど、もう全身びしょ濡れで、足も跳ねた泥で汚れてしまっていた。無意味だと思いながらハンカチを出したとき、私の横に女の子が立っているのに気づいた。七才くらいの、おかっぱの女の子だった。
女の子も私の方を見た。にこりと笑うので、私も笑みを返した。女の子は少ししか濡れていなかった。それで私はその子にハンカチを差し出した。それは子どもの頃、泊陽が私に贈ってくれたハンカチだった。私の好きな水色で、ペンギンの刺繍がしてある。子どもっぽいとは思っていたけど、気に入っていたから使っていた。
「どうぞ」
確か、私はそう言った。女の子はハンカチを手に取って、しばらく珍しいものでも眺めるみたいにそれをいろいろな角度から見た。そして私を見てにこりと笑った、次の瞬間だった。
その子は突然雨の降る中に飛び出して行った。ふつうに駆けて行ったんじゃない。それはものすごい速さだったのだ。走り去る新幹線並みのスピード――突風が吹き抜けたように雨の飛沫が跳ね上がり、女の子は消えた。辺りにはたくさんの人がいたのに、それを見ていたのは私だけだった。
雨はそのあとすぐに上がった。
私は一体何が起こったのかわからなかった。白昼夢でも見たかのような気分だったが、泊陽のくれたハンカチは、もうどこにもなかった。
泊陽が京都まで私を迎えに来たのは、そんなことがあった翌日だった。
「帰ろうソノミ」
泊陽は言った。
金沢行きの高速バスに乗るとき、祖母は私を呼び止めた。何かと思ったら、忘れ物よ、と言って手に何か握らせてくる。それは、あの女の子が持っていってしまったハンカチだった。水色の、ペンギンの刺繍のついた。私はびっくりして問いかけるように祖母を見た。
「もう戻らないと思ってたでしょう? でもね、本当に大切なものは、いつだってちゃんと帰ってくるものよ」
あれが一体何だったのか、私はとうとう祖母に訊ねられなかった。祖母は三年前に亡くなった。



金沢に帰るバスの中で、私は泊陽に訊ねた。
あんた、アオイくんのこと好きなの?
みなまで言わずとも、泊陽には私の云わんとしていることが伝わった。
好きだよ。
と泊陽はこたえた。苦渋に満ちた顔で。でも、と泊陽はつづけた。
でも、ソノミを愛してないわけじゃない。
欲深いのね。
と、私は言った。
あんた本当、身勝手で欲深いのね。



焼鳥屋を出るとまた雨が降っていた。向かいにコンビニがあったから傘を買いに行こうと思ったら、
「バイトくん、傘買ってきて」
さっき会計をしてくれたレジの男の子に遥が言った。その子も断ればいいものを、まるでもともと遥の召し使いだったかのようにコンビニへ駆けて行った。
「ありがと」
傘を渡されると、遥はその子の頬にキスして歩き出してしまった。私は慌ててその子に傘代を払った。
文句を言っても糠に釘だから黙っていた。
私たちはラブホテルを探した。二人で会うときは大抵そこへ行って泊まってしまう。なるべくゴージャスな部屋を求めて彷徨い、一番料金の高い部屋に泊まる。今日はすぐに見つかって助かった。
二人でお風呂に入って眠る頃には、今日食べ過ぎてしまったことの後悔でいっぱいになっている。ワインも飲み過ぎていた。遥は眠る前に下剤を飲んだ。下から出すことにどれほどの意味があるのかわからないけれど、上から出すより危険じゃないのは確かだ。一度吐き癖をつけると、止まらなくなる可能性がある。そうやって潰れていったダンサーを何人も見てきた。金沢のバレエ教室にさえいた。
私と遥がトイレに行くと、明らかに誰か吐いている声が聴こえてきたことがあった。私はうげっ、と思っただけだったが遥はちがった。その閉まっている扉の前まで行くと思い切り足でドアを蹴飛ばし、
「うっせーんだよ!」
と普段のソプラノからは考えられいようなドスの効いた声で叫んだ。
遥はすっきりした、みたいな顔で私のところに戻ってくると、
「死んじゃえばいいのにね?」
ものすごくきれいな顔でそう言った。



遥は私のことをばかだと思っている。泊陽と結婚したこともそうだし、泊陽が神戸大学に行く半井蒼を追いかけて東京の音大を捨て、大阪の音大に進んだことも、その泊陽を追いかけて私が東京のじゃなく大阪のバレエ団を選んだことも。
「振り回され過ぎでしょ」
私は、泊陽がゲイだと早く気づくべきだったのだと思う。気づくべき点はたくさんあったのかもしれない。例えば泊陽が半井蒼の上履きだか教科書だかを隠した生徒を半殺しにしたときに。半井蒼がボーヤンじゃなく、ハクヨウと呼んでいるのを知ったときに。何を試してもキスから先へは進めなかったときに。私はそれを、私たちが幼い頃からお互いを知りすぎているせいだと思っていた。友だちから恋人になるのは難しいみたいに。でも、事実は全然、予想すらしなかったところにあったのだ。気づいたときにはもう何もかも遅過ぎた。
江戸川コナンが中学生だった私のところに来て、真実を教えてくれたらよかったのに。あれれー? もしかしてお姉さんまだ気づいてないのー?
あるいはドラえもんが私のところに来て、タイムマシンだか人生やり直し機だかをポケットから出してくれたらよかったのに。これでもう安心だよ、園美ちゃん。
だけど百回人生をやり直したところで、私はまた泊陽を選んでしまうんだろう。でも八十回目くらいには、泊陽の方が私を選ばないかもしれない。
俺とソノミは一緒にいるべきじゃない。
そして泊陽は行ってしまう。ばかたれ半井蒼の手を取って。



大阪時代、私は泊陽のことを忘れようとした。泊陽も同じ気持ちだったのか、同じ大阪にいたのに全く会わない時期があった。私は適当な男と付き合って、泊陽のために取っておいた処女を捨てた。もう処女でいたって意味なんてなかったから。
泊陽のいない生活は穏やかだったけれど殺伐としていた。ソリストになったばかりの頃は特に荒んでいた。煙草の量も増えて、好きに食べられないことに常にいらいらしていた。泊陽が再び私の人生に舞い戻ってきたのはそんな頃だった。しかもまた夏。
朝、つづけざまにインターフォンが鳴らされた。私は男とベッドの中にいて、最初は無視したけどインターフォンは止まらない。うっせーな、と男が舌打ちして、私は仕方なくベッドから這い出し、その辺の服を着て玄関の扉を開けた。
泊陽が立っていた。
なんだか知らないけれど、黒いTシャツに白い文字で“はっぴいたーん”と書かれた変な服を着ていた。
なんなのよ、と私は思った。はっぴいたーんって、一体なんなのよ?
「どうしたの?」
と私は訊ねたのだったか。玄関で二言三言言葉を交わしていたら、男が起き出してこっちに来た。なんだテメエとか何とか言いながら。男のことなどすっかり忘れていた私は、まずいと思ったけれどもう遅かった。
玄関に立つ泊陽を見て、男は後悔したみたいだった。何せ泊陽は身長が一八九センチもあるし、体格だっていい。目つきも鋭いし、特に今日はとりわけ機嫌が悪いみたいだった。
何なんだおまえ。それでも後に引けなくて、男は言った。
「ボーヤン・リーです」
と泊陽は言った。
男はそれに、は? と返した。本当にただ泊陽が何を言ったのかわからなかったのだろう。でも、泊陽は許さなかった。私を横に押しのけると、男の顔面をとりあえず一発殴った。男の体が廊下に倒れると、靴のまま家に上がって、男の腹の上に乗り殴打を浴びせた。
チャイニーズマフィアの再来。
私はそれをただ見ていた。男とは一応恋人同士だったけれど、お互いのことを交換可能な消耗品くらいに思っていたことは知っていたから。それに泊陽がこうなったら止めようなんてないのだ。
男がぐったりなると、泊陽は男の腕を掴んでドアの外に放り出した。それから部屋の中に行って男の服とか荷物とか、最後に靴も一緒にドアの外に放り投げた。
泊陽の暴走は、男が消えたあとも止まらなかった。泊陽はまずベッドを破壊した。シーツを引き裂き、きのう男が食べたり飲んだりした残りものをマットの上にぶちまけ、枕を叩きつけ、テレビを押し倒し、窓辺に並べていた本や植物をみんな床に叩き落とした。次に台所に来て、陶器はすべて流しに投げて叩き割った。私の気に入っているリトルミイのマグカップまで割った。私はしばらくの間だけ泊陽を眺めていたけど、すぐに換気扇の下に行って煙草を吸った。流しが割れた陶器でいっぱいになると、残ったお皿はお風呂場で叩き割った。
私の部屋は壊滅した。
それから泊陽は私の傍に来て泣きはじめる。どうしたの、と私は訊ねる。
聞けば、本当にくだらない話だった。
泊陽は浮気をして、それが半井蒼にバレて捨てられそうなのだと言う。なんで浮気なんかしたのよ、と訊くと、半井蒼は塾講師のバイトをやっていて、そこの生徒と怪しいと疑ってかかり喧嘩の果ての浮気だった。くっだらない。
「だからって、」
私は全身から力が抜けていくのを感じた。
「だからって、私の部屋を破壊しないでよ」


私の横で咽び泣く泊陽を手で宥めながら、私は泊陽と半井蒼はどっちがタチでどっちがネコなんだろうと考えた。泊陽に訊いてもこたえないだろうから、私は頭の中で二人をタチにしたりネコにしたりした。
絵が描けたらいいのに。と私は思った。私に絵の才能があったら、二人のBL漫画を描いてコミケで売り捌いてやるのに。そうすれば私の気も少しは晴れるかもしれないのに。でも残念ながら、私には絵の才能もなかった。



私と泊陽は布団を買いに行った。泊陽がベッドを破壊してくれたせいで私には寝る場所もなかったから。
その帰りに泊陽がハンバーグが食べたいと言い出して、私たちはびっくりドンキーに行った。泊陽はパイナップルがのったやつとチーズがのったやつの二皿を頼み、私はサラダを頼んだ。食事が運ばれくると、泊陽はいつぶりだろうか、胸の前で手を組んで祈りを捧げた。天にまします我らの父よ、今日もごはんをありがとう、みたいなあれだ。しっかり十字も切って、アーメン、と唱えてから泊陽は箸を取った。
ひょっとすると今日半殺しにした男への、ちょっとした懺悔だったのかもしれない。
泊陽は無言で食事を食べた。がつがつせず、ゆっくりと丁寧に、一口ずつよく噛んで食べた。ライオンがインパラの肉を骨の隅まできれいに食べるみたいに。
食べ終えるとパフェも追加で二つ頼んだ。泊陽は甘いものが好きだ。意外に思われるみたいだけど私は知っている。意外なことは他にもある。猫カフェにこっそり通っていることとか。
「ねえ、」
私は煙草を吸いながら、泊陽に声を掛けた。
「ねえ、あんた私と結婚しよう」
それは全然、ロマンチックな場面じゃなかった。場所はびっくりドンキーだし、泊陽は“はっぴいたーん”とかいうTシャツを着ているし、私は指に火のついた煙草を持っていた。指輪じゃなく。
「結婚しようよ。もう疲れた」



それからいくつもの話し合いを経て、私と泊陽は婚約をした。そして半井蒼が私に電話を掛けてきた。会って話したい、大阪へ行く、と言う半井蒼に私は、こちらから出向くと言った。それで、私は三宮まで行った。敵将の首を討ち取りに行く忍みたいな気持ちだった。任務遂行、疾風迅雷。
三宮駅構内の騒がしいカフェで、私たちは話し合いをした。セルフの店だったから先に注文を済ませた。半井蒼はコーヒーを、私はアイスティーとロールケーキとチョコレートムースとイチゴショートを注文した。景気付けのつもりだった。万が一食べてしまったときには口に中指を突っ込めばいい、くらいに考えていた。
「考え直してほしい」
と半井蒼は言った。静かな声だった。
「考え直したりしない。もう散々考えたの。あなたが思っているよりずっと」
半井蒼はじっと私を見た。
「泊陽だけが男じゃないって言いたいんでしょ? 私は女で、あなたたちとはちがってヘテロなんだからいくらでも相手がいるって言いたいんでしょ?」
「そんなこと思ってない」
「じゃあどう思ってるの? あなたがずっと反対するせいで泊陽は混乱してる。あなたは私たちにどうなってほしいのよ」
半井蒼は目を逸らした。
「俺にもよくわからない」
なにそれ、と私は吐き捨てた。
「園美さん、」
半井蒼はまた私を見た。きれいな顔だな、と私は思った。泊陽とは系統のちがう美しさだけれど。双眸なんてすごくきれいだ。まるでこれまでの人生で汚いものなんて見てきたことがないみたいな瞳。
「園美さんはそれで本当に幸せなの?」
あんたは悟りを開いた釈迦か? それとも曇りなき眼で物事を見定めたいアシタカさまか? 私はそう言いたかったけど、やめておいた。
「ねえ、私は別に幸せになりたいわけじゃないの。泊陽の傍にいたいだけなのよ」
「泊陽は、」
「あなたが泊陽って呼ぶのやめてくれない? せめて私の前だけでもいいからやめて」
「わかった。ごめん」
半井蒼はすぐ謝る。
「ボーヤンと結婚することで得られなくなるもののことについて考えた?」
「考えたわよ。くたびれるくらい考えたわ」
「本当に?」
「本当よ。ウソ発見器にかける?」
「どうしてそこまでしてボーヤンと一緒にいたいの?」
「あなたにはわからないでしょうけど、私たちにはお互いが必要なの」
トムとジェリー、ミッキーマウスとミニーマウス、シドとナンシー、ジョンとヨーコみたいにね、と私は言う。
「他人にわかってもらうつもりはない」
半井蒼は黙る。けど、私の言ったことに納得も了解もしていないのは確かだ。
「あなたは泊陽とセックスできるしょう? だから私には、その他のものはすべて譲ってほしいの 。それって、あなたにとってそんなに許しがたいことなの? だってあなたたちは」
結婚だけはできないんだから。
「ボーヤンが結婚したら、俺はもう二度とあいつと寝ない」
誓って寝ない。と半井蒼は言う。
「園美さん、自分とボーヤンが結婚しても、俺にはボーヤンとの関係を切らないでほしいって前に言ったけど、俺には」
「私が望んでるんじゃない。泊陽がそう言うのよ。あなたじゃなきゃ駄目なんだって。私はあなた以外の男なら誰と寝ようと許すって言ったの。何度もよ? それなのに――」
私は涙を何とか堪える。半井蒼の前でだけは泣き出したくなかった。
「泊陽はあなた以外の男じゃ駄目なの。だから、私にこれ以上何かを求めてくるのはもうやめて」
私たちの話し合いは平行線だった。
その日、私はそれだけは絶対にやるまいと決めていたことを半井蒼にして帰った。
最初に掴んだのはロールケーキだった。次にショートケーキ、最後にチョコレートムース。半井蒼のきれいな顔に一個ずつ投げつけてやった。最後にアイスティーとコーヒーも頭から掛けて、私は出て行った。途方もないほど惨めな気持ちになった。私にそうされている間、半井蒼は一言も言葉を発さず、じっと耐えた。罰を受けるのは当然だというような顔で。
あの日、半井蒼はどうやってあの店から帰ったんだろう。私はときどきそのことを考える。



結局、半井蒼は私に根負けした。納得も承服もしないまま、彼は私たちの婚姻届の証人の欄にサインをした。
私と泊陽は夫婦になった。二十一のときだ。両家の親たちは喜んだ。ただ父は、私のことを少しわかっていたみたいだった。私が泊陽とどこへ行こうとしているのか。でも父は何も言わなかった。ただ結婚式の日に、私を子どものときみたいに抱きしめた。
私たちの式は短く小規模だった。披露宴なんてやらなかった。でも式場の人たちは私と泊陽のウェディングフォトを気に入って、パンフレットに使いたいと言ってきた。写真なんてどうでもよかったから、どうぞどうぞと私も泊陽も言った。
第三者から見れば、私たちは素晴らしく似合いの夫婦だった。バレリーナと未来のピアニスト。幼なじみで、子どもの頃から愛しあってきた――みんなそう考え、羨ましがる。まさか旦那がゲイで妻がそれを承知で結婚したなんてクレイジーな背景には誰も気づかない。
半井蒼は式には出なかった。電報すら打たなかった。最後まで、この結婚に反対だったのだ。
結婚後、私と泊陽はばらばらに暮らした。泊陽はドイツに留学することが決まっていたし、私は関西を離れたくて遥が所属している東京のバレエ団に入った。ドイツから戻った泊陽はなぜかピアニストじゃなく調律師になっていて、遥はその間にエトワールになった。私は東京でも群舞からソリストに上がったけど、そこから上へ行けないことはわかっていた。そして半井蒼は、教師になった。
私はそのことを聞いたとき、ぴったりじゃない、と思った。半井蒼なら、「ちゃんころ」と呼ばれて暴れた泊陽を悪者になんかしなかっただろう。歴史の授業で満州事変や日中戦争の話をするときにちらちら泊陽の方を窺ったりする教師になんかならないだろう。半井蒼が私と泊陽の担任の先生だったなら、私たちはもう少しだけ、まともな人間になっていたのかもしれないのに。
私たちは出会う次元をまちがえたのかもしれない。



翌朝もまだ雨は降りつづいていた。細かい霧みたいな雨。
遥は目覚めるなりトイレに閉じ籠る。
私はベッドの中で煙草を吸い、ホテルのテレビをいじってみる。『ヒトラー 〜最期の12日間〜』というこれまでにもう三回ほどみた映画を見つけ、もう一度つけてみる。
自分でもいやになるし悪趣味でもあると思うのだけれど、私は子どもの頃から戦争ものの映画に惹かれるところがあった。それは実際にあったことだし、すべての死者と犠牲者に対して失礼極まりない行為だと思うのだけれど、見ていると心酔し、妄想が止まらなくなる。
例えば泊陽と半井蒼がナチスの軍部養成学校で出会い、半井蒼が良心と国民的責務の狭間で潰れていく姿とか、ソ連の戦車に手榴弾を投げ込む泊陽とか、はたまた蒸したジャングルの奥でなかよくCレーションをわけ合う二人とか、地雷で片足を吹き飛ばされた泊陽を背負って後方に退く半井蒼の姿とか。――やめなきゃ。そう思うのに、止めることができない。
遥がトイレから出てきた音で私はテレビを消す。遥の顔色は最悪だし、化粧もしていないけれど、やっぱりきれいだ。遥はベッドに倒れこむ。
「大丈夫?」
私は一応訊ねる。
「大丈夫じゃない」
私は遥の背中を撫でてやる。痩せているけれど、しっかり筋肉の固さを感じる背中だ。
「ねえ園美ちゃん、」
「なに」
「またダンサーに戻って、」
「悪いけど、いや」
実際私はまだまだダンサーとしてやっていけるだろう。退団するときも引き留められたし、いまでも体型は維持している。だけど、
「もう何にも演じたくないの」
「私ね、さみしいの」
踊ってても、さみしくて仕方ないの。
私は遥の頭を撫でてやる。遥がそう思っていることは、東京でまた一緒にバレエをしたときから知っていた。遥はもう、バレエなんて好きじゃないのだ。
「私たち、地の果てに行くべきなのかも」
「アオイくんのいる?」
「そう。そこで十人もいない子どもたちにバレエを教えるべきなのかも」
かわいいカントリガールとカントリーボーイに。
「ボーヤンくんは?」
「あいつは米づくりよ。きっとうまくやる」
「私、ツリーハウス建てたいな」
「できるわよ。ハンモック吊るして、ブランコ手作りして」
遥は笑う。いつものばか笑いじゃなく、ひっそりとした笑い方で。それから遥は、少しだけ泣く。
私たちは、本当にそうするべきなのかもしれない。地の果てのような田舎に行って、牧歌的な生活に身を投じるべきなのかもしれない。半井蒼は最初私たちを不審がるだろう。でも私たちの地道な生活態度を見れば、彼は決して私たちを拒んだりしない。
そうなれば、私と泊陽と遥は、いまよりほんの少しは真っ当な人間になれるのかもしれない。



帰宅した私はマンションのポストに手紙を見つける。手書きの便箋が一枚で、てっきりクレームかと思ったらちがっていた。
それは片言の英語でお礼が述べてあったのだ。
“昨晩の『月の光』は素晴らしかった。心を洗われる思いがした。賛辞と礼を申し上げる”
エレベーターの中で、私は不覚にも泣いてしまう。見知らぬ誰かの、やさしい言葉に。
私は寝室に行き、眠っている泊陽の身体を抱きしめる。泊陽も私の身体に腕を回してきて、強く抱きしめる。
ソノミ、遠くへ行ってごめん。
おかえりなさい、と私は言う。
雨音が、泊陽と私を包みこむ。

幸福な雨

幸福な雨

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-24

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