タライ

大海原に浮かぶこのタライの中にいる人々は、おおむねパニック状態だった。
私はパニック状態の人間とその表情がすこぶる苦手だ。おそらくすがられるかもしれない、という思いがあるからだろう。たとえばこんな狭いタライの中などで。「でもあなたは大丈夫なのよね?」とタライ同乗者の女性のひとりが私に言う。さっき不安そうな同乗者たちの顔を見ながら「かわいそうだね」と切実に言ってきた女性だ。私は言うなれば大丈夫じゃない、のプロだ。私はいつだって大丈夫ではない。慣れている。昨日今日大丈夫ではなくなった人間なんかどれほどの順境を生きてきたのだか。同乗者は大丈夫じゃないというドサクサでタライを揺らす。目の前の男のひとりが「なんでおれは慌てふためいてるんだ、まるで馬鹿みたいじゃないか」などと訴えている。なぜ誰かが、もしくは私が、この目の前の男の理性まで受け持たなくてはならんのだ。そうだよお前は馬鹿なんだよ最後に判って良かったな、と言ってやりたいと思いながらタライは沈む。

タライ

タライ

スラップスティックの真似事です。

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-24

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