偉大なる砂漠のキツネロンメル。

偉大なる砂漠のキツネロンメル。

ノンフィクション小説。

 ドイツ軍にも「砂漠のキツネ」と称されるロンメル将軍がいた。此れからは、其のロンメルについて語ろうと思う。
 第三帝国最後の英雄と言われている。
 三国同盟国のイタリアが弱い国であった為、其れも考慮し砂漠でUKを相手に戦う事になった。

 エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen RommelDe-Erwin Rommel-pronunciation.ogg 1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥(最高の地位。)。

 第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。<span style="color:#FF0000;">広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。</span>アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から<span style="color:#FF0000;">「砂漠の狐」</span>の異名で世界的に知られた。

 貴族(ユンカー)出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄で悲劇的な最期をとげたがSS(親衛隊)ではなく国防軍の所属であった。

 1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。


 <span style="font-weight:bold;">父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。

 母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。
 父母ともにプロテスタントだった。
 
 父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。


 第一次世界大戦
初めての実戦、ブレド村での戦闘
1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された。

ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド(fr)だった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた。

銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した。続いて他の建物にも次々と火を放っていった。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した。

戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。

 次に第二次世界大戦当初及びヒトラーとの面会は省略する。ヒトラーからは随分信頼されたようだ。

西方電撃戦
1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色作戦(Fall Gelb)」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた。

戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした。

ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした。部下の将兵たちの間で<span style="color:#0000FF;">「不死身のロンメル」</span>伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた。

第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない。<span style="color:#0000FF;">しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団(英:Ghost Division、仏:Division Fantôme、独:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた。
</span>
アルデンヌの森通過
1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した。

第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物(バリケードと橋の爆破)と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。

 ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった。

(省略)

停止命令を無視して進軍
 ロンメルの師団はフラヴィオン(fr)で重戦車ルノーB1の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、フィリップヴィル(fr)へ進撃した。

 しかし5月16日にA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた。命令無視は本来は軍法会議にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった。

 ロンメルはクルト・ヘッセ大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツやツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている。

マジノ線延長部分突破

点線の部分がマジノ線延長部分
 ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した。

 その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強なトーチカと砲台と有刺鉄線と地雷原で固められていた。

 ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器や爆薬でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した。ソール・ル・シャトー(fr)、サール・ポトリ(fr)、スムージー(fr)を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した。

 マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった。

アラスの戦い

ダンケルク包囲

ヒトラーと対面
ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている。
この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した。

セーヌ川まで南進

 草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。
6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした。

ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった。

ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した。6月8日にはさらに72キロも進撃した。

この頃には連合軍は至るところで崩壊していた。ロンメルの師団も、大ブリテン島へ逃げ帰るために英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスのラケットやゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという。

英仏海峡沿岸での戦い

 6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った。

 英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した。その中にはイギリス軍ハイランド師団長ヴィクター・フォーチューン少将(en)とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。<span style="color:#0000FF;">彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという。
</span>
 ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている。

シェルブールへ進撃

 ロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、<span style="color:#0000FF;">ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった。
</span>
 フレール(fr)、クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ(fr)に到着。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した。6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した。

 6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西のケルクヴィル(fr)南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した。

 激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。

フランス降伏
 ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森の列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した。

 しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日にはレンヌを通過し、6月25日にはボルドーを占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった。

ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価

 1940年6月、ドイツ軍占領下フランス・パリで行われた戦勝パレードに出席したロンメル少将。
西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる。

 一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった。

 第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる。

北アフリカ戦線

 1942年春のロンメル上級大将
1941年2月にロンメルはドイツアフリカ軍団の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。

 まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である(真夏の日中には気温が60度近くになるが、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる)。しかも夏だけ長く、他の季節は短い。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る。脱水症状、熱中症、赤痢、皮膚病などになる者が多く、また砂塵で眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐にはジャミングに似た効果があり、通信機能がマヒする。

 砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程距離が極めて重要な要素である。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった。

 砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、オアシスの争奪戦によって命運が決することもある。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる。砂漠戦では補給がままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車に搭乗して指揮を執っていた。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している。

 しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた。ロンメルは迂回戦術[# 5]と一翼包囲戦術[# 6]を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ<span style="color:#FF0000;">、「砂漠の狐」(英:Desert Fox)</span>の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる。

 <span style="color:#0000FF;">しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった。アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している。
</span>
 ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった。

 西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた。またロンメルが「ヒトラー子飼いの将軍」と看做されていたことも煙たがられる原因だった。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した。ロンメルの上官である第15軍団長ヘルマン・ホト大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価する一方、ロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた。

イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗

ドイツ・アフリカ軍団長に就任
 ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。
 (第一次攻撃隊長)フンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ。
 

北アフリカ到着

進軍を禁じられる

 ロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも独ソ戦の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた。

命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還

 結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた。
しかしロンメルはそのような命令に従う気にはなれなかった。英軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機だった。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方のメルサ・エル・ブレガヘ撤退した。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、英軍の無線を傍受し、英軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した。

 3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、英軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝アジェダビア村を英軍から奪取した。

 4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートから英軍の追撃を開始させた。

 一方、4月3日にエジプト・カイロではキレナイカ英軍の不甲斐なさに激昂した英軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコーナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコーナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカの英軍司令官は次々と捕虜になっており、オコーナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった。キレナイカ英軍はいきなり総司令官を失い、指揮系統が滅茶苦茶になった。

 ロンメルは英軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれるメキリ(en)の占領を狙い、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリの英軍に降伏を勧告したが、英軍は降伏を拒否した。英軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、英軍第2機甲師団長ギャムビエ・ペリー准将以下英軍将兵2000人が捕虜となった。また英軍の物資や各種車両を大量に鹵獲した。ロンメルはその中に英軍の対ガス用ゴーグル(アイシールド)を見つけた。これをやたら気に入った彼は自分の将官帽に取り付けた。以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった。

 メキリを失った英軍は総崩れになり、トブルクを除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた。

トブルク包囲戦

エジプトのハルファヤ峠占領と防衛

 その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた。

 アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐(en)の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた。

 ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻にはシジ・オマール東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした。

 物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にも関わらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった。

ロンメルの評価高まる

ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けでクロード・オーキンレック大将を就任させた。

「クルセーダー作戦」で追い込まれる

 イギリスはクルセーダー作戦の前にロンメルの誘拐・暗殺を計画したフリッパー作戦を実行するも失敗に終わっている。

 11月18日午前に土砂降りの雨の中、英軍は「クルセーダー作戦(十字軍作戦)」を開始した。この日ロンメルはローマから司令部に戻ったばかりで午後になって初めて英軍の攻勢を知った。また攻勢を知らされても初めは本格的な攻勢ではあるまいと思っていたという。

 独伊軍は挟み撃ちにあってしまった。
 英軍が予想通りに動いてくれず、戦局はロンメルとオーキンレックの「我慢比べ」となり始めたが、補給状況や兵力配置から考えて独第21装甲師団の方が先に壊滅する可能性が高かった。ロンメルが前線視察で不在の間、ロンメルの作戦主任参謀ジークフリート・ヴェストフェル中佐(de)が独断で独第21装甲師団の撤収を命令した。はじめロンメルはこれに激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、ヴェストフェルの判断は正しいと判断して攻勢中止を決意した。

 だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった(イタリア逃亡兵が多いと思われる)。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。

キレナイカ地方東部を再奪還

 戦力をある程度回復したロンメルのアフリカ装甲集団は、1月20日夜から英軍に対する攻勢を開始した。当面はドイツ軍は反撃に出られないだろうと踏んでいた英軍は不意を突かれ、次々と敗走した。ドイツ軍は1月22日にはアジェダビア、1月25日にムススを奪還した。さらにロンメルはそこからメキリに攻撃すると見せかけて英軍を陽動しつつ、1月29日にベンガジを攻略した。英第8軍司令官リッチー中将は1941年3月から4月にかけてのロンメルのキレナイカへの攻勢の時と同様にメキリに攻撃をかけてくると思い、ここに英第1機甲師団の主力を置いていたので英軍はまんまと裏をかかれる形となった。1月30日にリッチーはキレナイカの英軍にガザラの防衛線まで撤退を命じた。ロンメルはただちに英軍を追撃し、2月6日までにキレナイカの大半の地域を取り戻した。しかしムッソリーニやカヴァッレーロ元帥らイタリア軍上層部は追撃に不同意でイタリア軍は追撃に協力しないと通達してきたので追撃は不十分に終わった。英軍はその合間にガザラに防衛線を固めてしまった。やむなくロンメルの装甲集団もトミミとメキリの線に防衛線を築き、機動防御の構えを取り、両軍はそこで睨み合って停止した。

 ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに騎士鉄十字章の柏葉・剣章を授与し(全軍で6番目)、ついで1月30日付けで上級大将に昇進させた。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍( Panzerarmee "Afrika")に昇格した。

ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還

 これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送はマルタ島の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている)。英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍のエニグマ暗号を解読していたからだった

 ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「ボックス陣地」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った。

 ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにも関わらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された。

 しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国の援助を受けていた英軍はグラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した。

 ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力をシディ・ムフタ周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜(ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した。

 その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からもゲオルク・フォン・ビスマルク(de)大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた。

 さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない。<span style="color:#0000FF;">なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、ユダヤ人が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった。
</span> ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された。

 英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた。

 ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった。トブルク陥落によりチャーチルは庶民院から問責決議案を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された。

世界的な英雄に

 <span style="color:#0000FF;">ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を元帥に昇進させた。それにより、ロンメルは、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。ロンメルは、戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。
 ロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという。
</span>
 ロンメルは、今やドイツに留まらず、世界的な英雄になっていた。連合国は、畏敬の念を込めてロンメルを<span style="color:#FF0000;">「砂漠の狐」</span>と呼んでいた。アメリカの世論調査によると、当時のアメリカでロンメルは、ヒトラーに次いで有名なドイツ人だったという。また、エジプト人の間には、イギリスの長きに渡る冷酷非情な植民地支配から、ロンメルが解放してくれるという期待感が広がっていた。ロンメルに散々戦力を壊滅させられた英国からも高い評価を寄せていた。<span style="color:#FF0000;">チャーチルは、「ロンメル!ロンメル!ロンメル!奴を倒すこと以上に重要なことなど存在しない!」と語り、また庶民院における演説では、ロンメルを「天才的な能力を持った男」と評した。英軍将兵の間にも、ロンメルへの尊敬の念が広まっていた。英軍中東方面軍司令官オーキンレック大将は「ドイツは勇猛で優れた将軍を数多く生み出してきた国だ。だが、ロンメルは別格だ。彼は、ずば抜けている」と評した。一方、オーキンレックは、部下の指揮官たちに対して「我が部隊の兵士たちがロンメルを過剰に話題にすることで、我らの友人であるロンメルが我らにとって魔術師か化け物のようになってしまっている。リビアにいる敵軍を呼ぶ時に『ロンメル』という言葉を使わないようにすることは精神的に極めて重要である。追伸、私はロンメルに嫉妬しているわけではない」という命令書を伝達している。
</span> 
 その後、USAのシャーマン戦車の導入もあり、ロンメルはカナダ軍のスピットファイアーに機銃掃射され、最後はベルリンで、妻も承知の上、毒薬で自殺をしたと言われている。
 
 2011年以降、ドイツのハイデンハイムにあるロンメルの記念碑の取り扱いを巡って論争が起きているという。

語録
<span style="color:#FF0000;">「汗を流せ、血は流すな」
「指揮官は部下のなかに入っていき、彼らとともに感じ、ともに考えなければならない」
</span> 

 私は、兵士としてまた、人間としてロンメルを尊敬している。自民や今回のUSA同盟軍や自民や野党の連中にも彼の詰めの垢を煎じて飲んで貰いたいものだ。
 <span style="color:#FF0000;">彼は、ナチス党に入る事を拒み、結局党員で無いまま、妻と一緒に毒薬で亡くなった。
</span> 此の国の兵士も、最前線でアングロサクソンUSA/UKにより皆殺しになったが、良く戦ったと思う。大東亜戦争と第二次世界大戦とで、名称は異なるが・・。
 尚、最も獰猛なサクソンは、世界中を植民地支配し、原住民を皆殺しにし、USAを築いている。未だに暴力やあらゆる差別が罷り通っている。本音は黒人種・黄色人種を嫌っている。
 アングロサクソンの発祥地はGermany北部で幾つかの民族が存在したが、Germany・ゲルマン民族はサクソンとは異なる。
 全ての、戦死者のご冥福を祈る。

偉大なる砂漠のキツネロンメル。

NazisGermanyはとんでもない国であったが。

偉大なる砂漠のキツネロンメル。

その国にあって、どういう訳か、優れた最高位の称号を持つ将軍がいた。 彼は、決してヒトラーに忠実なだけではなく、時にその命令に背き、また、敵国を代表するUKのチャーチルをして。 「ロンメルを倒せ」 と言わせしめた大人物。 一生ナチス党員を拒み・・最後は妻と共に服毒自殺で生涯を終えた。 敵の将兵の中にも、彼には敵わぬと言わせたと言われている。 アフリカ戦線では砂漠のキツネと称されその活躍は後々まで評価された。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted