Décalcomanie
2020年5月発行 「小説アンソロジー 平成ひとケタ展」への寄稿作品。
若気の至りで抱いたその夢が、まるでくだらなくて歪だったとしても、人生にとってなくてはならない転機であったということに気づいたのは、同棲してから一ヶ月と一週間が経った頃だった。
毎日の流れが鈍ってしまってからというもの、曜日感覚が麻痺した砂糖漬けのような時間を送っていた俺らは、とうに腐り果てた果実の蜜を本能的にたらふく吸い尽くしてしまい、腑抜けになるのを、多分お互いに恐れていた。
だだっ広いキッチンは青を基調として生活感が薄れている。
そこにぽつんとそびえ立つ銀色の冷蔵庫の表面には、マグネットで貼りついたルーレットがあって、芸能界で目にすることの多い男たちの名前が連ねて書いてあった。手先の器用な彼女が作ったであろう、切り取られた段ボールの矢印は見るからに鋭利で痛そうだ。
クレヨンで色を塗られているのかと思い、表面を撫でてみた。油分が多く、より滑らかに色を敷き詰めた赤い塊が血のように指の腹へ滲んでいく。二本の指で何度か感触を確かめて遊ばせていたが、意識に反して伸ばした指がぐりぐりと己の唇をなぞり始めたので、思わず手が止まらなくなる。
潤いを帯び、筋の隙間を埋めていく鮮やかなカーマインの色が熱をもたらして、いるはずのない人間の姿を象ってはゆるやかに理性を弄った。
うかつに人を信じてはいけない。
触れてはいけない。
美しい薔薇には棘がある。
そう何度誰かに教えられても、浸っている時は満足だと、身体と心に呼応して、大人になるにつれて心は随分と適当になった。
「燿平くんには、その色似合わないよ」
強くなっていく力の加減が分からなくなった頃、甘い柔軟剤の匂いがして、華奢な骨と小ぶりな胸のふくらみが背中にゆっくりと当たるのがわかった。
「おかえり」
伸ばされた腕は細く、目の前の胴回りを覆うには不十分で足りていなかった。
「寂しかった?」
「寂しいって言ったら」
背中に頭をもたげたままで深く息を整えたその声は、少しだけ笑いを含んだ後、まるで愛着の湧いたぬいぐるみでも抱きしめるみたいに首を傾げていた。
「仕事の感情は抜きにして、幸せにしようとするのかも」
耳なじみのいい、優しいピアノの音に似た麗らかな声は、さすが第一印象から、消極的なこちらの領域にたやすく踏み込んできただけはあるとさえ思う。
「そうなったら俺が辞めればいい」
だらしない口許から笑いがこぼれ、震えていた指の動きは気づけば静かに止まっていた。身体を反転させ冷蔵庫に背を向ける。目と鼻の先で確かにそこに存在している姿に心が満たされ、自然と気持ちは高揚した。
「そんなことさせないよ」
微笑んだ口角があがり、穏やかな眼差しを向けられる。何も言葉に出来ない代わりにと言ってはなんだが、伸ばした手を小さな頭にそっと添えて数回、撫でてやる。
「飯、何か食うよな」
やった、と嬉しそうに噛みしめた一言を振り切って忌々しい冷蔵庫の扉に手をかけ、食材を取り出した。
この家には自炊をするという習慣があまり備わっていない。大抵入っているのはミネラルウォーター、栄養ドリンク、冷凍食品ばかりで、日持ちしない野菜や肉を買ってもすぐに腐らせては、アルミ製の大きなプッシュ式のゴミ箱に葬られることがほとんどだ。
住み慣れたリビングの一角で一息ついている彼女に目をやると、大きく肩を回しては、腕を天井に突き上げて自らを奮い立たせている。足元にあった戦いの勲章にも似たレザートートの中から、分厚くメモの挟まれた手帳を取り出し大きく唸り始めた姿は、物事に真っ直ぐでいつも好奇心を忘れない少年のように勇ましい。
リクエストも特になかったので、思いつきでオムライスを作ることにした。同棲を始めてすぐの頃、この料理が一番大好きなのだと言われたのを思い出したからだ。卵と白飯とケチャップさえあれば誰にでも作れる魅惑の料理を覚えるのは、意外と悪い気はしなかった。
「口紅、お願いだから早く落としてね」
あなたはそのままで充分なんだから。
軽率で巧妙な一言を横目で放り投げたその言葉が、矢のように胸を刺しちくっと痛む。俺は返事もせずに、黙々と準備を進める手を止めようとはしなかった。
***
天海成子という女について、メイクやスタイリストの心象はお世辞にも好評だとは言えず、現場で鉢合わせる度にしつこく付きまとうその根性は、プロ意識というものを超えて図々しいにも程があると、同性からは非難される傾向にある。
週刊誌「ヴェリテ」は、数年前から国民の注目の的となり、急成長を遂げた大衆雑誌だ。政治経済と芸能文化の二部門のみに的を絞り、飽くことのない真実の眩さに味をしめることを理念に掲げ続けている。
取材力は業界内でひときわ評価が高く、ありきたりなゴシップ誌みたいに捏造や疑惑ばかりを先入観で民衆に売りつける汚い手段は決して取らない。
それゆえに、言質が核心ばかりを捉えていることも事実で、一旦標的にされたターゲットが言い逃れをすることが難しいのもこの雑誌の怖いところだ、といつかの記事ですっぱ抜かれた同業者は、テレビの実録ドキュメントで涙ながらに語っていたっけ。
編集部で力量をつけてはや約三年。
新人の時からある一部の人間には「魔女」と言われ、また一部の人間には「聖女」と言われる表裏一体なジャーナリスト。やがて弱冠二十五歳にも関わらず役職を与えられた彼女は、今ではなんとデスクにまで上り詰めているらしい。
さすが流行に敏感で、感性の冴え渡る人間を殺すことを最も恐れる敏腕会社のやることだと当時は感服していたが、あくまで自分には縁遠い話だと高を括って、日々の仕事をそつなく虚しくこなす日々は続いた。
彼女の存在を頭の隅にとどめて半年が経った頃、アイドルの多様性と使い捨てのサイクルは自分たちが現役だった時代よりもますます生々しく、ひどいものになっていた。
枕を並べなければ、プロデューサーに気に入られなければ。目に見える数を稼ぐためにどれぐらいの努力が無駄になるのだろうか。期待と理想を裏切るリアリティは、あまりに尻軽で身勝手だと、謎の正義感に満ち溢れたパトロンであるべき人間たちは、とてつもなく図々しくなってきた。
綺麗でいることの重圧は、背負わされるものではなく自分から身にまとうものだと信じられていた時代は終わり、一瞬のきらめきの中に秘められていた情熱や焦燥は冷え込み割り切ることで、稀有なものとして永遠に蓋をされることになり始めているらしい。
その日、たまたま時間の融通がきいた昔のメンバーが集まることとなった。
涙の会見から数年、方向性の違いから解散を提案したリーダーを筆頭に、全員は揃わなかったものの、酒を酌み交わす席で日頃の鬱憤を晴らす男たちの会話は懐かしい。
現役ではないにしろ一流で、端正な器量と肉体づくりを怠っている者は誰一人としていなかった。自分で起業したり悠々自適な会社員生活を送ったり、海外で画家として成功している者もいる。まるで商談にも似た異業種交流は面白く、得るものがたくさんあっただろう。
皆一様にいい顔をしていながらも、業界を退いた人間の方が分母として多い中で、俺の立ち位置は注目を浴びていた。
「燿平は、まだ頑張ってんだ。ほんとよくやるよ」
けど真っ先に辞めると思っていた、と何人かが口を揃えて笑いながらこちらを指差してきたので、弁明の意味も込めて慎重に言葉を選んだ。
「永遠なんか見えない未知数の代物だからこそ、永遠を期待されるグループでいたかったかもって、今は思うよ」
気を良くしてその場にいた全員が、〆の言葉にはちょうどいい! とお開きの合図に謀ったように手合わせをして、三三七拍子の拍手をした。ぽかんと口を開ける俺を後目に、娘の面倒を奥さんに任せっきりだと慌てていた最年長は、足早に周りの人間に札束を渡して帰っていく。
じゃあまたな、と交わされる挨拶の最中で、そろそろ自分もと立上がろうとすると、ぐっと誰かに襟首を掴まれ耳打ちをされる。
「天海成子になら、書けるかもな」
かつて弟ラインで一緒に単独活動もしていた令とはまだまだ通じるところがいくつかあり、情報の交換もこまめに行っている。二つも歳が上のくせに昔はスケジュールにだらしがなくて頼りない印象が強かったが、人はまるで変わるもので、今では大きな芸能事務所で個性派アイドルの育成に余念がなく立派に社長を勤めていた。
「俺には関係のない話だ」
「本当にそう思うか?」
「何が言いたい」
「なァ、いい加減言ってしまっても俺はいいと思う」
余裕を装ったぎこちない表情を見せる俺に促すようにしてタブレットを取り出した令は、どこか不安げになりながら席を次々と立つ影たちを中途半端に見送っていた。
指をさされるがままに視線を落とすと、画面には殴り書きの朱書きが残ったままな乱雑な記事の一面が映っている。
「こないだのオーディション番組。関係者の不正な投票操作が疑惑になってからもう二週間だ。俺らも知ってる通り、日本のやり方は年功序列とコネクションで成り立ってる。誰かしらが関係者と太いパイプで繋がれていればそれに見合っていなくても、雑な対価で実力の元に成り立たないもろいコミュニティが出来上がる」
「それは仕方のないことで、」
言い淀んで迷いのある返答に、本心ではないことを見抜かれたのかじっと瞳を見つめられる。
正直問い詰められると自信がまるでなくて、自分たちも歩んで涙を呑んできた道を通っていたからこそわかる思いで、だからこそ悔しいのだ彼は。手塩にかけて育てた我が子たちが、自分たちよりももっと無残な結末になるのを見ていられなかったのだろう。
その決意に頭が上がらなくなり同時に記事を深く読み込むと、誰も知り得ないような情報が細部にまでこだわられ、書き下ろされているのが分かった。端正な日本語で白日の下に晒されるであろう、これは貴重な一人の記者の躍動感溢れる原稿の最終稿なのである。
しかし何故これを令が?
「初めは期待なんてしてなかった」
けど彼女が言うのだそうだ。
もし踏み誤って落ちていく時は、必ず地獄まで私がお供します。だからあなたが知っている限りの情報を、どうか私に託してください。決して嘘は書きません。私はただ、真実の砦を、綺麗に整理されていく未来を、悲しみを生み出す圧倒的な必要悪を、片っ端から救済していきたいだけなのです。
タブレットがスリープモードになった。暗転した画面に強張った自分たちの顔が映し出され、途端に情けなくなる。
「明日の巻頭カラー。トップ一面にこの記事が踊る」
その行く末をお前にも見守ってほしいと凄みのある声で言った後で、呆然とする俺を置いて令は先に立ち上がった。こちらをもう一度振り返ることはせず、少しばかりの罪悪感を引き連れて身を隠すように翻したコートの深緑が印象的だった。
「燿平くん、動かないでそのままね」
発売当日もファッション誌の撮影は計画的に何事もなく行われることとなり、表情を少し動かしただけで専属メイクの三上さんは険しい顔をしていた。ちょうど鼻筋のハイライトを入れ終わり、難易度のあがるアイラインがまぶたのきわに、優雅に描かれ始める。
『えーこちら、投票の改ざんを容認したエレメントラボの本社前です。週刊誌「ヴェリテ」によれば、社長である○○…』
控室のテレビに耳を傾ければ、現実味を帯びた昨日の夢のような話が一人の記者のシナリオ通りに進んでいた。
劇作家か或いは預言者、とでも名付ければいっそ正しいのか。どちらにせよ令がどこまで真実を吐露したのかも分からないまま、流麗な文章で暴かれる真実を声のいいアナウンサーが読み上げていく。
それに付加価値をつけてああでもないこうでもないと、文句を言い続けるコメンテーターは所詮内容のオウム返しで、くだらないの一言に尽きた。
事前に記事をしっかり熟読していたせいで何を寝言みたいなことを、と馬鹿にしている気持ちで鼻が少し鳴ったのを三上さんが物珍しそうに眺めていたので、俺はテレビから視線を反らした。
「三上さんのメイクも、燿平さんの顔立ちが放つオーラも、今日も今日とて当たり前ですけど、やっぱ最高ですね…」
スタイリストは現場によってセンスの光る若者が、ローテーションで入ってくれる日々もあった。今日はまだ顔なじみもなく、服飾学校を卒業したての歳が一回りも離れている、由良さんという子だ。
「とっくの昔に廃れたおじさんへの褒め言葉にしては、よく出来たね」
謙遜はやめてくださいと言わんばかりに、彼女がとっさに首を横に振る。少し照れているのか頬が赤くなっていた。
「目鼻立ちがはっきりされているので、お似合いだと思います。お化粧終わったら着てみましょう」
用意されたのは、シックな色味と前衛的なシルエットが印象づいたフランスのブランド服のセットアップだった。
名前に馴染みがなかったが、肌触りが非常に心地よく、雑誌のコンセプトにも合っていてすぐに気に入った。
由良さんは親しみやすく、打ち解けやすい最近の子という雰囲気だった。会話が噛み合わないこともあまりなく、懐に入ってくるのがうまいなとも思った。
「燿平さんとお仕事できるって聞いてノワールのこと調べたんですけど、母が学生の頃大好きだったみたいで色々見せてくれてすごく好きになりました。カリスマ性があるのに媚が一切なくて、実力ありきな嘘偽りのないリアルなアイドル像って感じで」
きらきらとした輝きを持った瞳で、メイクが終わるのを待ちながら話し相手になってくれては、気を使うようにグループのことを持ち上げてくれたことが少しだけ嬉しくなる。
テレビからは悲しいアイドル事情の実態が流れているというのに、目の前の彼女はそんなことも忘れてしまえるほどに無邪気で素直な若者だった。
「そうでもないよ」
机に置いてあったリモコンに手を伸ばし、俺は電源ボタンを押してテレビを消す。こんなに真っ直ぐな気持ちで仕事をしてくれようとしている子の邪魔をしてはいけない。
心のどこかでそう思う自分と、悔しいほどに炙り出された素性がみっともなさすぎて見ていられない自分と、まるで身体が二分されてしまったようで、ひたすらに息苦しさは募る。
「失礼します。…燿平さん、メイク終わったら少しお時間いいですか」
不意に、独り言などかき消してしまえるぐらいに威勢のいいノックとドアの開く音が聞こえ、撮影スタッフ数人が入ってくる。ピンクをベースにした春を匂わせるアイメイクで顔色がうんと明るくなった被写体に、既にみんなすっかり夢中になり始めたみたいだ。
「あの、さっきの言葉」
三上さんに背中を押され、今行くね、と二つ返事で立ち上がりスタッフの誘導に身を任せた。傍でおどおどしていた由良さんが、急いでハンガーにかかっていた衣装を両腕で抱え込み、後ろをついてくる。
「楽しい現場になるといいね」
よそ行きで安売りの笑顔だと自分でも分かったが、由良さんの曇り出す表情はたったその一言で、柔らかい安堵に包まれる。
まるで昔の自分みたいだ。
何も知らなくて無垢で真面目に永遠を夢見て、一日一日を確かに大切にした時みたいな。あの頃、周りの大人はみんなグループの夢を演出してくれたり応援してくれたり出資してくれたり、右を向いても左を向いても自分の成功を願ってくれている人ばかりだと、それが当たり前だと必死に食らいついていた。
期待に答えなければ。
やがて彼女もそうなっていくのか。
「君は、羽根をもがれるなよ」
***
摘発から数ヶ月、アイドル発掘番組の低迷が始まったかと思えば、次は俳優の不倫や女優の違法麻薬所持疑惑があったりと、世間は小汚い話題でむせ返るほどに低俗さが粗目立ちするようになっていた。
号外が埋め尽くされるほど、謎の病原菌はどこの芸能ニュースよりも一躍人気者になり、もはや遥か遠くの幻想と化したオリンピックは、あまりに非現実的で無計画だった。
ヴェリテのことなど気にもとめていなかったが、芸能人の闇落ち記事はそんなに売れることがないと分かっていたのか、他の出版社にネタを譲ることが多くなっていった。そのため、要注意人物とされていた天海成子の行方は知れず、業界はここのところ少しだけ気が抜けていたように見えた。
比例するように政治経済部門の記者は忙しそうだった。おかげで両部門は時期は違えどマスコミにおける模範会社として称賛され、勧善懲悪のヒーローじみたコンテンツに、入教する人がいるのではないかというほど、宗教チックになっていた。
読む価値のある記事を、時には同業者の記事を、真摯に解き明かす思想に触れてはならないと、あれだけ警鐘を鳴らしていた自制心もあっという間に麻痺してしまっていた。
自分は芸能人でありながら、人の不幸を喜んでいる。夢を与える仕事をしていながら、人が制裁される姿を想像することに胸が高鳴っている。後悔は先走るが記事を読む手は止められず、自分がストックしている一覧の執筆者はすべて天海成子で埋め尽くされていた。
ここまで信仰していたら、むしろ何故会えていないのかが不思議でたまらなくなった。些細な偶然は割と簡単には起こらず、機会はいくらでもあったのに、遭遇する体験を未だ味わえてはいない。
そんな時俳優やモデル仲間から、承認欲求を満たす行為が病みつきになると言われ、ただの連絡手段や生命確認のためだけのSNSを久々に使ってみた。ログインパスすらうろ覚えだったのに昔の記憶はそれほど馬鹿にもできなくて、すんなり開いたバーチャルな扉の向こうでは、放置している間にフォロワーがかなり増えていた。
ノワールというアイドルの俺が好きな人間、芸能人でいろんなことに挑戦する俺が好きな人間、ただの通りすがり、フォロワー稼ぎ、芸能関係の友人、その他スパム諸々など。
多岐に渡るアカウントが並んでいたがそのどれも、リアクションは数日前から音沙汰もなく止まっていた。そりゃあ更新もしなければ興味の視線も削がれるか。
置いていかれる疎外感に、操作する指が少しだけ震えた。
その日何気なくアップした愛犬との写真は数日前、実家に顔を出した時に姉が撮ってくれたものだった。犬種はトイプードルで、人懐っこい性格から「こなつ」と何気なく名付けたが、これがもう五年ほどの付き合いになるんだから、結婚もまだまだ縁遠い割に、娘のように可愛くて仕方がない。
【@__yohei
久々に更新、実家帰ってました。
ノワールのみんなも元気だったよ。
彼女はたまに恋しくなる存在。】
収穫はせいぜいファンからの反応ぐらいだろう。実際友人たちも、いいねをたくさん貰えたり、誰かに同情してもらえたりする臨場感が楽しいらしく、心無い言葉もたまには目に毒だが、それも含めて自分という存在がどうでもいいこの世の人間にとってどういう存在なのかと可視化できるいい機会になると言っていた。
言わんとすることは分かる。自撮りをあげてかっこいいだの綺麗だの言われれば、当たり前だろ常に全力で仕上げてきてるんだから、とつい画面に向かって一人でいても口を滑らせそうになる。
何気なくスクロールしてコメントを見ていけば、こなつが羨ましいと不特定多数の人間からのコメントがある中に、一人だけ異質な投げかけをする人物を見つけた。
【@__yohei さんにリプライがありました
@naruco YOHEIくんは幸せ?】
意味深な思いを孕んだそのリプライのIDに、震えが走るほど待ち望んだ人間の心当たりがあった。能天気な会話の羅列に並んでいた強めの一言は、すぐさま自分を虜にしていると分かり、ならばいっそ流されてみようと思った。
暴けるもんなら暴いてみろ、と心の中で小さくそう吠えた。
かなり前にマネージャーに言われた一言が一瞬だけ頭をよぎったが、フリックする指先が次々と言葉を選んで入力していくので、段取り次第でどうしてしまうかを考えることにした。
ダイレクトメールは何回か往復を重ね、相手が心の中で急上昇中の本人なのだと認識するのに、そう時間はかからなかった。
彼女は文面だけでも嬉しそうに、「以前あなたの話を令さんから聞いて興味が湧いたの」と本当かどうか分からない回答をこちらにぶつけてくる。「俺の何を知ってる、令が喋ったのか」と問えば、「彼は何も言ってないわ。これは私があなたを見てきて思った勘が確信に変わるかもしれないと思って、問いかけただけなのだけど」と上品な文面でメッセージを突き返してくる。
話の腰を折るように、それでも最後に埒が明かないから会おうと言ったのは紛れもない俺で、何かに誘発されるようにしてとっさに出た言葉がすごく生き急いでいたように思えてきて、まずは先制を取られたと、唇を自然と噛みしめていた。
数日後、白群社の喫茶店に夕刻頃にいらしてください、との連絡が来た。
スケジュール帳を開いて確認すると、指定された日は収録も撮影もオフの日だった。つまり自由に動ける時間であり、拘束されることのない完全なるプライベートの時間を、彼女は狙っていたというのか。
マスコミ関係者というのは、相手を食い潰すことに慣れている。若さだけで突っ切っていたあの頃に、勝手な憶測が招いた結果を自分だってよく知っている。
どうせ足を運んだところで。そう思い始めては、ペンで日付に丸を付け、忘れないようにメモをしていると、内ポケットに入れていた携帯電話が一定のリズムを刻み始めた。送信先はマネージャーからで、来期クールから始まる新ドラマの現場集合時間のメールだった。
キャップを深くかぶり、目立たない色の地味なニットにロングコートと白のパンツを合わせ、新品の革靴をおろした。
冬の名残は厳しい寒さを伴って、容赦なく叩きつける。
せっかくセットした髪の毛が崩れてしまい、少し不格好だったので社内のトイレに立ち寄りさっと整えてから目的地に向かった。受付のオフィスレディーたちが、清潔なシルエットのお洒落な制服に身を包み、張り付いた笑顔で右に左に会釈をして人の流れを目で追っている。
ご苦労さん、はいご苦労さん。
いずれ人工知能ですべてまかなえてしまい失われるであろう受付嬢という仕事は、少しだけ寂しく見えた。
白群社≪びゃくぐんしゃ≫は、ヴェリテ率いる精鋭雑誌を幾つも抱える出版社で、都会のど真ん中にひっそりと佇んでいる。築十年に満たない白磁の壁が清潔でまだまだ新しい。
元は小さな個人経営の零細企業だったそうだが、五年足らずで紙媒体の書籍が不況を煽られている現代社会でもしっかりと根付いたと、報道番組でも取材を受けていたのを見かけたことがある。
レトロなエレベーターに乗り、地下三階へとたどり着く。埃が舞う文献書室を通り過ぎ、突き当りを真っ直ぐ行けば隠れ家のような様相で「純喫茶 サロメ」を見つけることに成功した。ちかちかと電球の点滅する正方形の看板が、こちらへどうぞと言っているかのようだ。
カランコロンと重い鈴の音が鳴り、扉を開ければいらっしゃいませ、と渋めの声が遠くで小さく聞こえた。たくさんのボトルに囲まれてまるで何十年も前からそこに店を構えている風貌の白髭を蓄えたマスターは、鼠色のチョッキとグレーの蝶ネクタイがよく似合う男だった。閑散としている店内には、一定の間隔で大きな観葉植物が置かれ、奥の禁煙席にはショーベタが入った熱帯魚の水槽が艶めいていた。
てっきり箱入り娘な女性がその辺に座っているのだと思い、奥の方までずんずんと進んであたりを見回した。だが目的の女はそこにはいないどころか、水槽の真下ではきっちりと分けられたなんとも古風な髪型をした青年が、慌ててナポリタンをかき込んでいた。
これから取材だろうか。それとも別の企業の人間か。
「初めまして」
背後から、柔らかく澄んだ一声が響き、紫煙をくゆらせた女がスーッ、ハーッと深い呼吸のリズムを一定に刻んでいる。
「週刊誌ヴェリテでデスクをやっている、天海成子です」
顔の周りで甘ったるくも気怠い匂いが大きく渦を巻き、煙が肺の中を埋め尽くしては充満していた。慣れない副流煙の味に咳き込んでしまい、深呼吸をして息の乱れを整える。
「あら、お好きなんだと思ってた」
「煙草は身体に悪いからやらない」
振り返りそう忠告すると、不敵な笑みを浮かべた成子はそう? 悪くないと思うけどな、と言った。
「佐倉ァ、あんたいつまで呑気に昼飯食ってんの。国会にいる政治家はみんな逃げ隠れうまいんだから、早いとこ行った行った」
お客の一人と化していた先ほどの青年と彼女は顔見知りだった。国会、ということは彼が政経部門の若手精鋭だろう。佐倉と呼び捨てられた青年はゲホゲホと麺を喉に詰まらせ、勢いよく水で流し込む。
「成子さん、最近ボクに冷たすぎじゃないっすか? …っと、ごちそうさまです! マスターとりあえずツケで」
「はいよ、いってらっしゃい」と物腰柔らかい視線の先を駆け抜けるようにして、威勢よく飛び出していった彼は、若さゆえのがむしゃらさが爽やかで好印象だった。
ヒールがコツコツと鳴り響く。軽やかに床を蹴り上げる音がしては、細い指で挟んでいた煙草の先で静かに灰が落ちた。
「本題に入ろう」
そう焦らないで、一服させてと言うのでもう少し付き合うことにして、注意深く個々のパーツを見ていく。退屈そうにテーブルの下で組み直した足はすらっと伸びており、いつでも走れるようなパンツスーツ姿だった。
髪色はチャコールグレーのあまり主張しすぎない大人しい色で、仕事の合間なのか胸ポケットには小さな手帳と使い慣れたペンが入っていた。眠たげな奥二重に、梅の花に似た小さな鼻。唇は薄くもなく厚くもなく、女優みたいに魅惑的には見えなかった。
想像していたキャリアウーマンとは似ても似つかないほどに、成子は平凡でありきたりな存在を醸し出し、寡黙に煙草を吸い続けては頭の中の考えをまとめているようだった。
世間の人間を黙らせる言葉のスペシャリストでありながら、まさに等身大の青春を謳歌したばかりの風体は、令から聞かされていたような恐怖を微塵も持ち合わせているようには思えない。
危惧しすぎた早とちりだったに違いない。そう思えば、張り詰めていた肩の荷が少しだけ降りて楽になる。
ところが煙草を吸い終わった頃、くすんでいた彼女の瞳は鋭い視線で研ぎ澄まされていた。小さくケラケラと笑い、相手をからかっているようにも見える。
「これは提案。あなたを救い出すための」
「歳上に交渉とは、いい度胸だね」
まるでさっきとは別人で、妖艶ながらも丁寧に何かを引き剥がそうとする様子に腰が引け、偉そうに身構えたのに喉がひゅっと鳴ってしまった。
「ノワールのYOHEIが、約十年前に口癖にしてたこと、あなたは覚えているかしら」
当の本人も忘れたがって蓋をしていたことを、今さら引き合いに出して何になる。もう聞きたくない、と耳を塞げればいっそ楽だった。
「十年も前なんて、若すぎて何のことだか」
しらを切った俺の目が泳いでいたことを、彼女は見逃さなかった。声色が少しくぐもり、ふざけないでと一言置いて真剣な眼差しで俺を見る。
「ノワールの永遠が続くなら何だってする」
その一言に全身が痺れて、呼吸がうまくできなくなる。ははは、と乾いた笑いで誤魔化したが、観察力の鋭い敏腕記者の前で、苦しい言い訳など罷り通るはずもなかった。
「あなたは以前、インタビューでそう答えていた。ノワールというグループはどこまで行けると思いますか? これからも続く予定は? 立て続けに聞かれても、最年少の夢は大人に汚されずきらきら輝いていた」
「…めろ、やめてくれ…」
避け続けていた嫌な記憶というものは、どれだけきつく縛って封じても、目を塞いで見ないふりをしても、運が悪ければ目についてしまうものだし、時には必ず誰かに暴かれるものだ。
―――綺麗になれば解散なんて嘘になる。
―――これできっとみんなと釣り合う。
―――なあ、頼むよ、置いていかないで。
「事務所は少しだけ、軌道修正をしてくれと言った。でも分厚い唇も気に入らない、鼻はもっと高く、骨張った指は美しくない。歯も全然綺麗に並んでいないし白く清潔にも保たれていない。つまらない、美しくない自分はつまらない」
真実は自分で言って伝わらない時と伝わる時がある。
前者は曖昧な火種で、燃やす材料がないのに、息つく間もなく広まって轟々とよく燃える嘘の炎を生み出す時。
渦中の人物しか許されない正しい発言は、亡霊によって雑なものに書き換えられ、人々の噂という油を注がれることで、自然発火を引き起こす。とめどない攻撃力は本人にも牙を向き、立っているのがやっとの人間はこういう時、無力で世界一弱い生き物に成り下がる。
反対に清々しいまでの発言の場が功を奏すこともあるのが後者だ。それまで定評のあったイメージを打破するかどうかは、事務所と個人のビジネスが成立しているかも関わる信用問題につながる。
二人三脚で夢を掴んだ途端、金に目がくらみ、愛を飛び越えて憎しみ合う姿に失望し、自ら終止符を打つために言及をやめない人間はその時ばかりは英雄だが、長い息をするには苦しい場所に背を向けることも少なくない。
「鏡の前で幾ら顔や身体を眺めても、あなたの欲求は止まることがなかった。できることはたくさんしようと、ブレイクした時に得た金で完璧を常に追い求めた」
頭を抱えて耳を塞いで、それ以上の言葉を取り入れないようにまぶたを強く閉じた。フラッシュバックするのは、現役時代、収録や公演が終わると毎日響く、大人たちの悲痛な叫び。生々しくて痛々しいほどの本音だった。
燿平をこのグループに入れたのは間違いだったか?
元も悪くなかったのに、あそこまでの作り物じゃあ、意味がないんだけどな。
まあいいじゃないか。売れなきゃ解散で。
「……俺は、ただ」
この子は売れると、笑って背中を押してほしかった。綺麗になったね、と褒められたかった。この事務所を選んでくれてありがとう、と言われたかった。
「ただ、居場所が欲しかった。欠けてはいけないという証が。必要とされる喜びが」
メンバーはそのことを多分知っていたのに、自分よりもずっと先に大人になっていて、他人のことを気にしている余裕もないぐらいに、個人の仕事を増やされていたのを覚えている。
解散が目と鼻の先に見えると自暴自棄になった。個々で活躍すればするほど売れていく歳上たちを見て育ったはずなのに、いざ自分に備わった武器が何なのかは丸一日考えるばかりだった。考えても考えても、答えには辿り着かなかった。
そのうち鏡の前にもカメラの前にも立つのが怖くなって、痩けていく変化に耐えられず、頬にも膨らみを持たせる栄養剤を打ち始めた。全員で活動する時間は極端に少なくなり、しばらく経って仕事が落ち着いたリーダーに招集をかけられて、食事会に出かけた。
もう無理だ、これ以上。
半数の人間が限界を感じ、個人の仕事が増えたことによる仲間の意識が薄れていることに気づいた。さらにはリーダーに至っては結婚したいとまで言い出した。どこまで身勝手で、どこまで裏切るのかと弟ラインは嘆いたが、修復が不可能になっていたことは誰しもが周知の事実だった。
人生をかけた夢が潰えて途方に暮れて家に帰ったその日、テレビに映し出された現場の映像で泣いている姿が見えた。
「前を向かなきゃと思ったのは、ファンが居てくれたからだ」
特集を組まれていたのは、悲しくもゴシップ番組でのことだった。普段なら人の不幸を取り上げる傲慢さが嫌いで、絶対に見ることもなかった番組に呆然と目を通した。
事務所に押しかけていたのは、俺たちノワールのグループ旗を掲げたファンの女の子や男の子たちだった。その誰もが、俺と同じでグループの永遠を願っていて、自分たちで簡単に放り投げてしまった再起を信じていてくれた人々だった。
「その中に、かつての私も居たと言ったら?」
「え…」
当時はたくさん泣いたなあ柄にもなく、と言って成子は一本目を吸い終わる。こなれた手つきで二本目を取り出すと、なかなかつかないライターの火に苛立っている様子が伺えた。
「命を投げ売ってでも、簡単に引き換えることができればそれが楽だったとさえ思ったわ。世の中色んな考え方の人がいると思ったし、それだけの影響力を持ったあなたたちはやっぱりすごかった」
「まさかそんな、ありえない」
「でも、私は日に日に苦しそうなあなたの顔を見るのがつらくなっていった。いっそ全部自分の幸せも健康も願いも必要ないから、あなたがただ心から笑える場所で花開けばいいのにってね」
真実はいつまでも表には出てこなくて、こんな悔しい思いをする世の中を変えてやると、私はその時決意したの。
ようやく付いた煙草の火が静かに燃えていて、薄暗いはずの店内に穏やかに差し込んだ日の光に照らされて輝いた。強い意思で今、目の前で向き合ってくれている成子の目に、迷いはなかった。
「燿平さん。今さら遅いかもしれないけど、本当のことを教えて下さい。これは正当な取材の申し込みであり、あなたを始めとするアイドルたちを救う最後の手段です。一ファンのおこがましいお願いかもしれないけれど、大人になった今だからこそ若い子たちを私は救いたい」
あなただって今はそうでしょ。きちんと立ち直って、自分で新しい道を見つけて、自分を傷つけることをやめて前を向いて、こうしてまた花を咲かせている。それって素晴らしいことじゃないですか。
そう付け加えて、潔く煙草の火を消した成子は改めてしゃきっとした顔で、右手を差し出してきた。自信なく顔を覆っていたが、その言葉の続きを聞きたくて顔をゆっくりと上げてみる。
成子はそれまでの印象をがらりと変えていた。興味の矛先に夢中になりすぎてのめり込む姿は子どもみたいで、いつかの俺と重なる気がした。
何もかもが新鮮で、純粋にアイドルという仕事を楽しむこと以外考えられなかった自分を俺はとっくの昔に、どこかに置き忘れてきてしまっていた。もう二度と出てこれないと思っていた。でも彼女なら、最高の状態で終わらせてくれるかもしれない。
「…すごい口説き文句だな」
握り返した手は小さく、親しみ慣れたファンが大好きな人を目の当たりにした時の反応によく似ていた。若い時にたくさんの愛と触れ合う機会があったからこそ、生で感じ取ることの出来た彼ら彼女らの純粋な思いが温かい手からじんわりと伝わる。
「絶対に幸せにしますから」
マスターが気を利かせて、いつの間にか表の扉をぐっと閉め、鍵をかけて店内を貸し切りにしていた。コーヒーのいい香りが鼻をくすぐり、芳ばしくも優しい匂いが近づいてくる。
「いつ出そうか迷っていたんだけどね」
あまりにもいい話だったから。
静かに頷き揺れているマスターの白髭が視界に入った。コーヒーを二つコトリと机の上に置くと、成子ちゃんよかったね、とはにかんだ店主の顔はとてもいい人そうに見えた。
「私、絶対いい記事書くからねマスター」
自信満々に返した成子が向けた、屈託のない笑顔が羨ましくて、衝動的に可愛いと思えてしまったのは、はたして気のせいだったのかそうではなかったのか。
***
長期に渡る密着取材の日々が続き、とあるアイドルの栄光から転落、そして復活までの人生劇場はほぼ大半が、天才である天海成子によって堅実ながらも華のある形で書き換えられる予定となった。
最初は紙面だけでと言っていたにも関わらず、俺がかつての事務所を退社している経緯を知ると、元関係者にも丸裸になってもらわなければと、芸能番組も巻き込んでのドキュメント企画が盛り込まれることとなり、成子の本領が発揮された瞬間でもあった。
連日連夜、同班のカメラマンと張り込みをしたり警察ばりの事情聴取のために、各方面に足を運んだり。もちろん俺の耳に報告が来ない日の方が少なくなり、過去を共に生きた仲間たちからは半笑いながらも楽しそうな返事がたくさん返ってきた。
「兄さんラインが悪者にされたらどうしようか」
「ないよ、俺がそれは交渉する」
「そういや天海さん、元お前のファンなんだって?」
お前のこと、あんなに大切に思ってくれる業界人、そういないよ。業界を退いた人間だからこそ言える称賛の言葉は、少しだけだがありがたく思えた。
そして運命の日、十数年間のノワールを顧みる歴史の映像は鮮明ながらもどこか懐かしく、輝きに満ちて美しかった。番組前半はヒット曲のライブ風景や各局にあったバラエティ番組のハイライトが流された。
その様子は都内のユニカビジョンでも放映されるほどで、スクランブル交差点で足を止める人々は口々に「懐かしい」「大好きだった」「今、何してるのかなあ」と嬉しい言葉をこぼすばかりだ。
「…やるじゃんか、天海成子」
俺は反応が気になって、今動くのは危ないとマネージャーに制止されていたのも聞かず黒いキャップとマスク、少し大きな丸メガネを装備し、街の中心に繰り出していた。
『YOHEIくんは、ノワールの将来をどう思いますか?』
『そうですね。とりあえず今が楽しくて楽しくて。この気持ちがいつまでも続く、息の長いグループであり続けたいです』
過去インタビューで、自然に笑みをこぼしていた幼い自分はとてもうまく笑えていた。当時、どれだけ嬉しかったのかが自分自身でも分かってしまう。馬鹿みたいに毎日ダンスや歌の練習をして、たまに兄貴たちに勉強を教えてもらって、令とはたった数ヶ月の期間限定だったけどユニット曲なんかも出させてもらって。
みんなで海外ロケも行ったんだ確か。
「楽しかったー…本当に、本当に楽しかったんだ…」
その時、それまで抑えていた瞳の奥に焼き付く思いがあれよあれよとこみ上げてきては、力ない一言を押し出して大粒の涙がこぼれ始めた。とどまるところを知らないので諦めて放っていると、液晶の映像がろくに見えなくなってしまう。
鼻がぐすぐすと鳴って情けない。
男が泣いて何になる。
もうあの日から絶対に泣かないと決めていたのに。
突っ張った頬の皮膚が、張り付いた特殊マスクにも思えて不自然に歪んだ。強張った自分が、素で高らかに笑ったり泣いたりできない顔が、癒えない傷の代償なんだとするなら。
『いかがでしたでしょうか? 栄光を獲得し日本でも他に類を見ない美男子アイドルの地位を手に入れたノワール。ですが彼らが、息の長いグループになることはありませんでした』
後半はその栄光の陰にあった、悲しみと真実を突き詰めていきます。引き続きお楽しみくださいと言われた先で、アナウンサーの声色がいつになく真剣に聞こえてきた。
あっという間に終わっちゃった、と目の前を去りゆく野次馬たち。瞬間さえ楽しめたら後はどうでもいい人にとってはどうでもいい。この後自分が芸能界にとってどうなるかわからない世紀の瞬間であっても、今日明日を必死で生きる一般市民には、優先順位としてはとても低いことに等しいのだ。
俺は人の流れを眺めながらも、漠然と映る真実のあり様と民衆の反応を交互に見ては声を殺して泣いていた。
成子が伝えたかったこと、自分が胸に秘めていたこと、何もかも全部が、未来を生きる若者たちの明日を守ってくれればそれがきっと一番いい。もうこんな思いをするのは、自分だけで十分だ。
この映像で、明日の週刊誌で糾弾された業界はどう変わる。拾ってくれた今の事務所の人たちは何を思う。大手事務所の光と闇に飼い慣らされた人間の真実を、知った世論はあの事務所のことを何と言う。
そしてそこで日々、汗と涙の結晶を生み出し、自分と仲間を信じて生きる子どもたちの未来は、どうなる。
番組が終盤に近づいた深夜、冷たい夜の帳が寒さを促して大粒の雪を降らせた。それは薄汚い都会を浄化してくれる、久々に色づいた白色だった。
「何思い出してたの」
淹れられたコーヒーの豆が、挽きたてだということに気づいて鼻を数度交互にかすめる。キッチンでガッツポーズをした彼女はいつもとはうって変わって愛らしい。
「成子に助けられた時のこと」
「事務所の社長が泣きながら詫び入れたアレ」
「社長もさ、自身がアイドルだったから分かってたことだと思うんだけど、本音を聞いてたら歯止めがきかなかったのかなあって」
「そりゃまあ、商品価値が高いから」
「けど、選択肢は平等にある。輝き方は人それぞれだ。手助けはしてやらないとだけど、無理強いはやっぱり違う」
この家に二人がこんなにも長時間揃うのはかなり珍しいことで、いざ暇を持て余せと言われれば何をしたらいいのかわからない俺たちは、ぎこちないながらも結局仕事人間で、芸能界が好きで、業界から足を洗えない意地汚い大人の男女になっていた。
時々の皮肉は互いに辛辣で、それは感覚が偏らないように刺激を求めてしまう、成子の癖から学んだ俺の特技となった。
真相を暴いたヴェリテは、誰を責めるでもなく活かすでも殺すでもなく、したたかな制裁の下で軌道を正し、一連の終息を丁寧にまとめ切った。
後に出版された週刊誌では約三万字にも渡る大々的なページ数を稼ぎ、業界の今を客観視してくれる斬新な雑誌は飛ぶ鳥を落とす勢いで売り出された。
世に放たれた記事は、彼女の描いたシナリオ通り真実の誠実さに心打たれる人々が多く、実際のエピソードを映画化にしないかという話も持ち上がったが、美談にするつもりはないと真っ向から断った。
当たり前だ、二人もの覚悟と人生とメンツがかかっている。そう簡単に安々と誰かに渡してたまるものか。今では連日押しかける取材の人間には、ある種の条件を付けて追い返すことも多くなっている。
その年の優秀なジャーナリストに贈られるベストスクープ賞は、見事ヴェリテの天海成子が受賞し、景品として贈られた大金をばら撒いた彼女は社屋の改装を申し出て、さらに居心地のよい出版社になることを望んだ。編集長への昇進は辞退したというところも成子らしいと思った。
また、成子が暴いた事務所の容姿差別において、整形は強要されたものかという論点が世間で大きく話題になった。
確かに俺は整形さえすれば、伸びしろがもっと出るかもしれないと社長に言われた事実を口にした。けどそれは必ずしも全てが事務所の責任であり強要ではなく、半分は自惚れと甘えが招いた判断力の弱さであったことも、十数年のうちで大人になったからこそ毅然と打ち明けられたことだった。
結局俺は、現在も自然な笑顔を取り戻すために整形の後遺症でもある、頬と鼻の不自然な歪みの矯正で、クリニックへも再び通うこととなった。
反響は大きく、令が一連の詳細を知った後は、もうやめようと泣きながら言ってくれた。次に何かで躓いたらきっと今頃、全身サイボーグだっただろうか。美がもたらす魔法は、底なし沼で抜け出せない危険性を常に秘めていて、本当に恐ろしかった。
今の事務所で本格的に俳優や歌手と、幅広い仕事に手をつけることになってすぐ、自分にできることが何なのかを考えカミングアウトが出来た今では、ファンの男女にも「ほどよい整形」を推奨することに決めている。
他国でも主流となっている美容整形は、必ずしも悪いものではないということ、自分のコンプレックスを解消するために稼ぎを投資して自尊心を磨いていくのは向上心があっていいこと、そして何より変化によって開かれる明るい未来は必ず手に入るのだということについて声を大にして主張すると、若い子たちは時折涙を流し、勇気が出たとファンレターをくれることもある。
いい時代になったものだ、今の子たちは昔に比べてとても頭が柔らかい。
「燿平くんはやっぱりいつまでもかっこいいんだね」
密着取材で急速に近づいた二人は、なりゆきで同棲を始めたわけだがこれが意外と相性が悪くなかった。
干渉しすぎない距離感で、互いにプロとして張り詰めた仕事はそれなりに忙しいが、寂しさを共有できる戦友のような、それでいながらも頼れる姉のような存在になっていった。
圧倒的な五歳の差をもろともせず、自分の正義と真実を振りかざす成子は今日も潔く逞しい。
俺はもらったコーヒーを手に取り、少し離れたリビングの方へ移動した。机にカップを置くとソファに深く座り、身体を捻って遠ざかった彼女の方を見やる。
「お前、どの活動シーズンの俺の笑顔が好きだった?」
「話、そらさないでよ」
なんでまたそんなこと、と恥ずかしそうにうつむいたので
久しぶりの分け合える時間を楽しまないで何が悪いと、頬をわざと膨らませてみる。
「すねないで」
こういう時、ああ歳下だと思うのはすぐに機嫌を取ろうとするところだろうか。仕事であればまるで容赦がないのに、私生活になるとすぐに自信がなくなってしまうのは、素直に可愛いと思える彼女の好きな性格だ。
「で、答えは」
「んー…難しいな」
どの瞬間も私にとっては世界一だったから、と顔色一つ変えず真っ当に愛を告げるので、俺は笑いをこらえきれずも答えが出るまで、じっと耐え続ける。
「決められないけど、やっぱり現役アイドルでデビューしたての時、最近の素で笑えている時、泣き笑いが似合うような目尻のシワが増えてきた時」
「ありすぎだろ…」
言い聞かせるようにしゅんとした顔をした成子が、自分のコーヒーを手に取りこちらに近寄ってきた。
「贅沢だよね。贅沢すぎる」
「いや、素直に嬉しいけど」
そのままぽっかり空いた俺の隣に座って、身を寄せては深く大きく息を吸う。
「だから私は本気であなたのことをこれからも書き続けるよ。ゴシップとしてではなく、あなたの魅力が誰に読まれても、余すことなくいっぱい伝わりすぎるぐらいに。世界中の人があなたという美しい人に恋してしまえるほどに。びっくりするぐらいかっこいいんだっていうことを証明したい。私だけの贅沢で終わらせたらいけないんだよ。だってその為に記者になったんだから」
コーヒーの上澄みを見つめながら、ほくそ笑む姿が凛々しくて、初めて出会った時のような、面白くてワクワクを秘めている表情を頭の片隅で思い出す。あの時の笑顔はきっと、この先どんなことがあったとしても忘れられる気がしない。
「ファンは最大の理解者ってわけか」
「ん? なんか言った…」
覗き込んだ瞳に、吸い込まれそうになって成子の頭を引き寄せる。すぐに硬直した身体はコーヒーをこぼさないように力に手を込めていた。
そのまま角度を変えてゆっくり口づけをしてみれば、ほろ苦さの中に少しだけ入り混じる甘ったるい味がする。
確か砂糖は入っていないはずで、俺たちはブラックが大好きなはずで。
「相変わらずこの煙草の味、甘すぎ」
「ず…っる、い」
あんなに苦手だと思っていた煙草の味は、唇を重ねれば重ねるほどに、慣れない味から心地のいい風味に変わっていた。一緒に住み始めた頃は遠慮しがちに寒いベランダで吸っていたはずなのに、抱きしめて首元に顔を埋めたら割と悪くないことに気づいた。
その日も彼女は、渦中で苦しむ地獄の底にいるような人間を救うことしか考えていなかったのだと思う。
頬を染める仕草がうぶすぎてずっと眺めていたくなる。恋とか愛とかきっと考える暇がなかった人間の部類だ。
「単純に顔が、良すぎる…」
コーヒーを机に置き、深く息をして、的を得た一言を恥ずかしそうに成子が呟く。業界にとって最大の魔女であり聖女である女が、ただの可愛い人だと知るのは多分この世で俺だけで、その背徳感がたまらなく愛しい。
「そりゃどうも」
溺れていく、俺たちはどうしようもなく。
せめて仮面を脱いだ今この時だけは、目の前で与えられる愛に貪欲であってもいいのかもしれないと、紡がれる言葉の続きに思いを馳せて、俺はもう一度呼吸を深く奪った。
Décalcomanie