地下室のメロディ
He who loves not wine, women and song remains a fool his whole life long
酒と女と歌を愛さぬ者は、一生阿呆で過ごすのだ
Martin Luther(10 November 1483 – 18 February 1546)
真っ赤な色彩の目隠しと重々しい手錠が秘密警察の警官である玻璃の手によって外された瞬間、黒曜は軽い眩暈〈めまい〉を起こして玻璃からの「指示」を頼りに腰掛けたばかりの木製の椅子から、ぐにゃりと転げ落ちそうになった。
が、そうはさせまいとばかりに玻璃が黒曜の身体を乱暴気味に抱き起こすと、黒革の手袋を身に付けた右手を使い、容赦無く黒曜の両頬を二、三発ピシャリと叩いて、余計なことをなさいますと、後が祟りますよ、と黒曜の耳元で「警告」し、縛り付ける様にして黒曜を再び椅子に座らせた。
其れから数分もしないうちに、遠音の太鼓の様にコツコツと言う明らかに苛立ちの感情を帯びた靴音が、夜の底の様な廊下から響いて来たかと思うと、ガチャン、と言う鈍い音と共に捜査官であるモクレンが現れた。
何か喋ったか?。
椅子に腰掛け乍ら、モクレンが玻璃に質問をすると、すかさず玻璃は、まだ何も、と答えた。
そうか。
まぁ、喋らないなら喋らないで大いに結構。
此処に放り込まれた人間〈ヤツ〉は総じて虫ケラ扱いしても構わんと言う事に「一応」はなっているんだからな。
何か御飲み物でも?。
クッキーと珈琲を。
ノンシュガーで、ですね。
やれば出来るじゃないか、とっちゃん坊や。
其の口調には明らかに嘲りがあったが、玻璃は其れを無視するかの如く、お褒めに預かり光栄です、と言葉を添えたのち、取調べ室を出て行き、今しがた降〈くだ〉ったばかりの階段を独り寂しく登り始めた。
邪魔者は退散したかね。
用済みとなったマネキン人形の様に項垂〈うなだ〉れていた黒曜が言った。
見ての通りだ。
モクレンは陰気且つ殺風景な雰囲気の壁に囲まれた取調べ室にお似合いな机の上へ向かって、どかりと其の長い両脚を載せると、お気に召していただけたかな、当ホテル自慢のルームサービスの方は、と黒曜を質問をした。
黒曜は掛けていた眼鏡がずり落ちない様、ゆっくりと天井を見つめ乍ら、そうさな、悪くはなかったが、人にお薦めはちとしかねると言った所か、と言う内容の感想を述べ、軽く深呼吸をした。
吐いたと言うよりも、吐き捨てたと言った方がいい様な気もする黒曜の息は、真新しいワイシャツの様に白かった。
其の感想だと、星三つの所、星二つ半と言った所か。
一服させていただけなかったんでね。
減量に成功をしたんだ、此の際禁煙にも挑戦してみるが良いさ。
人の楽しみを奪うのは良くねぇ事だと教えられなかったのかね、人様の家の教育に口を挟むこたぁ、決して品の良いことじゃねぇが。
生憎と我が家じゃ喫煙者は誰一人として居なかったんだ、我が家の稼業は代々医者だったお陰でね。
そりゃ物言いが慇懃無礼になる訳で。
黒曜は苦笑いを浮かべた。
おあいこだろう、其の辺り。
そう言う事にしとくかね。
さてと。
他愛無いご挨拶は此処迄にして。
例の物は何処に隠してある?。
そう言ってモクレンは黒曜の顔をジッと見据えた。
玻璃が同僚の警官と一緒に取調べ室へと戻って来たのは、其れと粗一緒のタイミングだった。
彼等は淡々と机の上に珈琲の注がれた黒色のマグカップ、黄褐色の珈琲ポット、そしてクッキーがどっさりと載った白色の大皿をテーブルの上に置くと、ケーキの方もお持ちいたしましょうか、と空になったばかりの銀色に光るトレイを両手で抱えた玻璃がモクレンに質問をした。
モクレンはチョコレート味のクッキーを一掴みし乍ら、ケーキの序でだ、紫煙と燐寸、後灰皿も持ってこい、お客さまが「お喋り」し易い様にな、と言って、むしゃむしゃとクッキーを頬張った。
玻璃は「甘やかしすぎでは」と言う言葉を無理矢理押し殺すと、畏まりました、と言って同僚の警官と共に今一度厨房の方へと向かった。
心遣いどうも。
靴音が遠退き、ぐるんぐるんと言う音を立てて回り始めた換気扇の音がひと段落した瞬間に黒曜が言った。
勘違いするなよ。
飽く迄も取調べを進め易くする為だからな。
あいあい。
一昨日の丁度今頃の時間、山小屋が吹っ飛ぶと言うアクシデントがあったと思うがご存知かね、って、其のアクシデントの調査の陣頭指揮を執った人間に此の質問は愚問且つ釈迦に説法だったな。
まさかだが其の際にオシャカにしたんじゃなかろうな。
御名答。
序でと言ってはナンだが、お宅らの上役が派遣なさった野暮ったいソルジャーたち二名も其の時に「始末」させていただいたよ、あんまりにも鬱陶しかったんでね。
身元不明の遺体の正体がこんな時にこんなタイミングで判明するとはな。
呆れ顔でモクレンはそう述べると、珈琲を啜り、そしてカタリと机の上にマグカップを置いた。
おつむが賢い連中程、これ見よがしなブービートラップに引っ掛かり易いと言うのは、洋の東西を問わないと言う事が理解出来て大変面白かったよ、実験台になっていただいた連中には中々に気の毒な話だとは思うが。
まるで萎んでいた向日葵が開花する時よろしく、腰掛けていた椅子からむくりと立ち上がり大きく背伸びをした黒曜は、部屋の片隅に置いてあったレコード・プレイヤーとレコード盤に眼を付けるや否や其れに近づき、捜査官殿は精神統一を為さる際にクラシックを用いる様で、とさりげなく話題をすり替えようと試みたが、冷たい口調でひと言、席に戻らないと此の場で容赦無く蹴り殺す、と命令されてしまったので、あいあい、と先程と同様に酷く軽い口調で返事をし、しぶしぶ椅子へと戻って行き、何処迄お話したかしらん、と言ってから、ゆっくりと眼を閉じた。
そうこうしていると、ケーキの載った大皿にフォークと取り皿、そして紫煙、燐寸、灰皿と言った品々を持って玻璃達がずかずかと取調べ室にやって来て、厨房から其のまゝ持って来たらしい、人一人はおろか、其の気になれば獣一匹容赦無く殺してしまえそうなギラギラと光るケーキカット用のナイフでケーキを切り始めた。
其のケーキは厨房で働くパテシエが腕によりをかけて何時も作っているらしい、ドライフルーツをふんだんに使用をしたフルーツパウンドケーキで、逃げ回っている間、殆ど呑まず喰わずで居た黒曜の鼻腔を否応無しに刺激した事は言う迄も無く、自然と鼻がスンスンと動いた。
モクレンは其の様子を横目でしっかりと確認しつゝ、下がって良いぞ、此れから先の事は此方の好きな様にするから、と玻璃達に伝え乍ら、ゆっくりと大きな口を開けてクッキーを頬張った。
何かありましたら、ボタンを躊躇なく押してください。
直ぐに駆けつけますから。
ではごゆっくり。
「社会勉強」と称して此の施設に派遣されて以来、何度となく発して来た言葉を玻璃は何の感情も添えず、文字通りお食事中のモクレンに伝えると、警官と共に部屋を出て、ガチャン、と扉を閉めた。
そしてミント味のガムを口に放り込むと、トレイを小脇に抱え、早歩きで階段を登り始めた。
ミント味のガムを噛むのも、早歩きで階段を登るのも、皆、苛立ちを憶えている時の玻璃の癖であった。
ちゃんと眠れていらっしゃるのかねぇ、あのお小姓。
お目目がだいぶ血走っていらっしゃったが。
黒曜は擦ったばかりの燐寸で紫煙に火を点け乍ら、意地の悪い笑みをニカっと浮かべた。
趣味の悪いヤツだな、原因を作っている事を自覚しておき乍ら心配とは。
両手を使って空になったクッキーを載せていた大皿を脇の方へと移動させたのち、狩猟者が獣に槍を突き刺すが如く、右手に握ったフォークでグイと突き刺したフルーツパウンドケーキを取り皿へと運び乍ら、モクレンが言った。
対戦相手の事を慮るのは、プレイヤーとしての常識ってモンよ。
時代は常に変わると言うが、お前如きに常識が如何たら斯うたらと言った事を教わる日が来るとはな。
講義料はロハにしといてやらぁ。
其の代わりと言っちゃナンだが、水の都は伊太利亜の威尼斯〈ベニス〉でデートと洒落込みたいな。
お前がゴンドラを漕ぐんだったら考えてやらんでもない。
其れ位の事はお易い御用で。
何でも出来るオトコも考えモノだな。
で、話の時計の針をだいぶ戻すが、例のモノ以外にもパクった品々があるだろ、其れは今頃国外か?。
あんな代物をそう易々と国外に運べるくれぇなら、そもそも此処にゃ居ねえよ。
其れもそうだな。
こればっかりは持ち主の元に返す様、お宅らとは違って話の分かる然るべき筋の人間たちを通じて如何にか斯うにかしたさ。
嘘だと思ったら、今からでもお偉方にでも問い合わせてみな。
ま、今からじゃ夢見心地の所を叩き起こすなんて言う野暮な事をしなきゃならんがね。
黒曜はそう言って、咥えていた紫煙を灰皿の上で揉み消すと、直ぐ様もう一本の紫煙を咥え、燐寸で火を点けた。
換気扇の風を浴びて紫色の煙がゆらゆらと揺れる中、部屋に運ばれて来た時点では青白さがあった黒曜の頬にも生気が今一度宿り始めた。
モクレンは其の様な事なぞ御構い無しと言わんばかりに、珈琲を啜り乍ら眼の前のケーキをばくばくと頬張りつゝ、他の國の連中だったら、殊勝な心掛けと嘘でも誉めてやる所だろうが、此処じゃ其の手のオプションは用意していないんでな、惡しからず、と返した。
が、黒曜もそんな事は先刻承知と言わんばかりに、褒め言葉よりもフカフカの布団とベッドだな、捜査官殿が御自宅で御使いになられていらっしゃる様な、と呟いた。
其の御要望なら、直ぐに叶えてやっても良いぞ。
其のベッドは銃殺刑ののち、すっかり蜂の巣になった俺の骸〈むくろ〉を載せる為のベッドって言う寸法だろ、どうせ。
はっはっは、中々な危機管理能力が備わっているじゃないか。
食後の運動と言わんばかりに歩き乍ら珈琲をマグカップに注いだモクレンが笑った。
本来なら虫けら一匹、裁判も無しに殺してやっても構わん訳だが、幾ら秘密警察でも守るべき規範は守っていただくと言う御達しが此の頃は幅を利かせているのでね。
葬式に出席するときゃ、まるで未亡人の様な格好で出席してくれや。
衣装代が高くつきそうだな。
貴金属も特別なのを誂えといてやらぁ。
そう言って黒曜は灰皿に灰を落とし、紫煙を揉み消した。
そして其れがさも当然の権利だと言わんばかりに木製の戸棚の中から鉄葉〈ブリキ〉で出来たコップを見つけると、喉が渇いてしょうがねぇ、と言い乍ら、ウォーターサーバーのボタンを押し、水を二、三杯渇ききった喉に流し込んだ。
咎めねぇのか。
左手の手首で口元を勢いよく拭い乍ら、黒曜が言った。
咎めはしないが、品に欠けるとだけ「論評」しておこう。
真っ白な湯気がゆらゆらと揺れる珈琲カップ片手に、非常用のボタンとは違う別なボタンを押し乍ら、モクレンが言った。
暫くすると、背が高く燃えるような赤毛の女性の従者らしき人物が二名やって来た。
彼女達は双子らしく、モクレンとは又違った美しさと可憐さを放っている様に黒曜の眼には映った。
モクレンは双子達に向かって、アイスペールと一緒にウヰスキーの酒瓶とソーダ水の入った瓶を一本ずつそしてグラスは二個持って来る様に、と命令をした。
畏まりましたと返事をした双子達は、片付けを終えるや否や、其のまゝゆったりとした足取りで外へと出て行った。
良い香りだったな、あの二人。
コップに水を注ぎ乍ら、黒曜が言った。
生気を取り戻したかと思えば直ぐに其の手の話か、不潔だな。
なんだ、嫉妬か。
まさか。
大切な部下を下卑た物言いと視線で穢されたくないだけだ。
へへへ、やっぱりおめぇと話すのは面白れぇや。
黒曜は椅子に腰掛けた状態で、歯を剥き出しにして言った。
モクレンは良く知っていた。
此のオトコが人を揶揄う時、或いは人を喰った物言いをする際、必ずと言って良い程此の様な笑みを浮かべ、そして笑い聲を響かせる癖を持っている事を。
今よりもっと手が付けられなかった頃のモクレンであれば、此処で黒曜の身体を容赦無く蹴り飛ばし、腐った食べ物か果物をぐちゃぐちゃにする様な勢いで顔面を踏み潰す位の事はしただろうが、怒りを剥き出しにする事は相手の土俵に乗るも同然であると言う理性が働いたのか、かの有名な『ハンムラビ法典』よろしく、眼には眼を、歯には歯を、言葉には言葉をと言わんばかりに、笑うのは結構だが、良いムードを壊さない程度に笑ってくれると有難い、と言って、「資料」と称してレコード盤がずらりと並んでいる棚の方へと近づき、サラ・ヴォーンのアルバムを一枚取り出すと、レコード盤に静かに針を落とした。
其れと粗同時のタイミングで、双子達が指定された物をトレイに抱えて部屋の中へと入って来た。
双子達はモクレンの我が儘な性格を十二分に熟知しているのか、灰色の小さなスピーカーから音楽が流れている事に対して一切言及をせず、淡々とささやかな酒宴の用意をし、そして退散して行った。
そんじゃ、一先ず乾杯といこうか。
紫煙を灰皿の上で揉み消し、其の揉み消した手でグラスを握った黒曜が言った。
輝かしき未来のために。
モクレンはそう言ってウヰスキー・ソーダの注がれたグラスに口を付けた。
此の國で亡くなった様々な立場の野郎共に。
そう言った黒曜の口調には、嘘偽りの無い憐れみがあった。
黒曜は勢いよくウヰスキー・ソーダを呑み干すと、折角のムードだ、踊ろうぜ、と手を差し伸べた。
コトリ、と言う音を立て乍らグラスをテーブルに置いたモクレンは、黙って差し出された手をゆっくりと握り締めると、黒曜の身体に身を任せた。
あゝ、僕のラブソングが忍び泣く
あなたの瞳の優しさのために
僕の愛は決して終わることのない前奏曲
ただ口づけを待ちわびるプレリュード
曲が終わりを告げると、レコードの回転が止まり、同時に黒曜とモクレンが奏でたステップの音色もぴったりと止んだ。
久方振りの静寂が黒曜とモクレンの間に流れる中、まるで夢が醒めていく時の様に黒曜はあっさりとモクレンを身体から離した。
なんだ、もう終わりか?。
あからさまな不満顔を浮かべたモクレンに対して黒曜は、良く云うだろう、続きは明日の夜に、って、と言い乍ら、モクレンの手首に口付けを落とした。
若し此の時、黒曜が密かに企んでいる事をモクレンが見抜く事が出来たら、此の取調べから僅か一週間後、わざわざ地球の裏側に迄赴いて追いかけっこを演ずる必要も無かったのだろうが、数ヶ月振りに嗜んだウヰスキー・ソーダはモクレンの理性を狂わせるのに充分過ぎる効果を発揮したのだった。〈終〉
地下室のメロディ