顔をみせて
夕食が終わると、父さんが母さんとマドカを呼んだ。ソファーで身を正した父さんを見て、僕は黙って二階に上がった。
自分の部屋でベットにもたれて部屋中を見回していると、壁に掛けた中学の制服が目についた。冬服なんて1シーズンしか着ないままなんだな。そう思うと、少し悲しくなった。
なにすることもなく天井を見ていると、しばらくしてゆっくりと階段を上がる足音が聞こえた。そりゃあ、あいつもショック受けてるよな……などとぼんやり考えていると、何だかマドカが心配になってきて、僕は自分の部屋を出てマドカの部屋の前に立った。なんて励ましてやるかドアの前で腕組みして考えていたが、逆にあいつから励まし返されるような気がしたので自分の部屋に戻って期末試験の勉強をすることにした。僕は勉強が苦手だ。教科書を目の前にして長いあいだ机に着いていることができない。……それに、試験に備えて勉強したってもう無意味だ。どの教科も、赤点を取ろうがとるまいが、もう、どうでもいい。面倒に思った僕がそばにあったiPhoneを触っていると、幼馴染のカナから着信があった。
「ん? 何か用?」
電話の向こうでカナが言う。
「今、何やってたの?」
「地図、みてた」
「そうなの」興味なさそうにカナが言う。きっと今、ストレートの髪を何気に触っているんだろうな。『そうなの』の癖だ。
「新しい服がほしいな……。近いうちに机とか棚とか全部整頓するから、そのついでに古い服は捨てるかな」
「大掃除? 模様替え? 手伝おうか?」
嬉しそうな声。
「違う、いい」
「ふーん……。ところで宿題やった?」
「感想文? やった」
「数学は?」
「あー……」そういえばそんなのもあった。「カナの写す」
「そう? じゃあ感想文見せて。お願い」
「……写せないよ」
「言葉変えて写すし」
「カナなあ、言葉変えるって……、国語の先生は国語力があるから、ばれるよ」
「大丈夫、隣人は考えることが似るのよ。あなた達、双子ほどじゃないけどね……」
僕はドアの方をみた。ドアの横には、小さい頃からの身長の記録が刻んである。刻みの一本一本を目で追って、カナの話に適当に相づちを打っていると、彼女は突然黙った。どうかしたのか聞こうとした時、「泣いてるの?」と心配された。なんでそう思ったか聞き返すと、声、ふるえてるよと静かに言われた。
「うるさいなあ!」なぜか耳が熱かった。iPhoneを持ち替えて言ってやった。「無駄話は、時間がもったいないぞ!」
「うん……、ごめんね」
「ああ!」……何が『ああ』だ。馬鹿だと自分で思った。
「あの、悪いけど、……マドカって今部屋?」
返事を待たせて考えた。
「今……都合悪いみたい」
そう……、ごめんね。
いや。いいや。「ごめんな」
「ううん」
「じゃあ、な」
「うん、じゃあね……」
iPhoneをベッドに置く……。ドアがノックされた。母さんが、ドアの向こうから言った。
「転校すること、カナちゃんに言ったの?」
「いや、言ってないけど」
「早めに教えてあげなさいよ」
「わかってるよ」
朝早く教室に出て、僕はうっすらと汗をかいた上半身を窓からの風にあてた。……十日。こんな短い間に、何が出来る? 告げられたのは突然だった。僕は席に着き、うつぶす。
転校のこと……カナに、どう話す? 腕に顔を強く押しつける。カナだけじゃない、マコトたちにも……。先生にはウチから電話がいくはずだ。先生が、みんなに事情を説明してくれはしないか? ……いや、あの先生は気が利く。きっと何も言わない。……マドカはどうするんだ? 僕とは違うあのさっぱりした性格で、もし隣のクラスにでも転校のことを言いふれてくれれば、ここまで流れてくるはず。でも、今日は休みだ。……風邪なんか引いてさ。
自分から言わずに済む方法はないのか……? 僕はいらいらして、床を何度もかかとで突いた。上履きの裏が崩れるくらい強く強く駄々っぽく突いて、誰もいない教室にひとりで唸った。僕はただ、どうしようもなく不安だった。
……しばらくたった。机がガタガタ揺れた。うっすらでも眠ってしまっていた僕は自分が教室にいるのを思い出して、天板に胸をつけたまま顔だけを上げた。
「寝てんなよ」
いつの間にか教室もだいぶ埋まっていた。にやにや笑った安っぽい表情のマコトがポケットに手を突っ込んで僕の机の前に立っている。
とたんに僕は緊張した。僕は黙っていた。マコトが不思議そうに見ている。こめかみの所から筋肉が抵抗して、あごか動かせなかった。肩がびくついた。もどかしさで足ががくと動いた。マコトの顔が見れなかった。
マコトが先に言った。
「宿題やったろ。見せて」
「……、なら数学見せろ」
「数学の宿題だって」
「見たいのが?」僕は体裁の悪い顔を片手で隠した。声がうら返りかけたのにマコトは気づいたはずだ。空咳を一度して、僕は言った。
「待ってろ。ノート借りる……」
僕はカナの席を見た。いない。鞄もない。
「……」もうすぐ先生が出席を取りにくる。
「あの人、休みか? なら、佐野に見せてもらうか……。……おい、佐野……」
廊下側の席で女子と話している佐野の袖をマコトが指でひっぱって、教室中に響く大きな声で、「数学の宿題やったろ?」と言う。ため息をひとつ、佐野は仕方がないなといった感じに目を細めて机からノートを探す。頭の上を通るノートを、女子は上目に見ていた。
戻ってマコトが言う。
「おれが先な」
「ああ早くしろよ……」
カナ、休みか?
「ほら、席について」先生が来た。
おで、遅いがもじんない。ふざけた声を出して遊ぶマコトを、僕はあっちいけと手で払った。
先生が出席を取っている間、僕はぼけっと廊下の方を見て、昨日の通話のことを考えていた。あのとき、言っとけばよかったかな、顔も合わせないで済むし。でも……言ってカナを興奮させたら、あいつ、はだしのまま駆け出して来てたかもしれないしな。
先生から繰り返し名前を呼ばれたので、びくっと震えて僕は頬杖を引っ込めた。そんな僕の有様を無視した先生は彼女の席を見て、「朝倉さん、お休みかしら」と言った。僕は横に首を振る。先生は出席帳に目を戻すと、納得のいかないような表情でペンのしりをトンと自分のあごに押し当てた。
……僕は再び廊下を見た。きのうは普段通りだったけど。風邪? 腹痛? まさか、きのう荒く扱ったのにショック受けて寝込んで……、まさかね、それじゃ繊細すぎる。遅刻なんてのもカナはしないだろうし。都合で遅れるのはあるかも知れないけどさ。……もしかして、今日、マドカが休んでるのと関係があるのか? 昨日、通話したのかな。
……なんだ? 数学の宿題を写して提出した後、気が抜けてなおさらそのことばかりを考えた。まあ、来なくてもいいけどね。僕は欠席の机を見る。第一あの事、なんて言っていいのかわからない。
「なあ!」
昼休み。教室の窓辺でマコトたちが手招きした。無視しようかと思ったけれど、なあなあと繰り返し親しく呼ぶのを見て、僕は立った。
……呼んだくせに、マコトは僕をほおったまま恋愛なんぞの話をしていて、理想の異性のタイプなんかを自慢げに話していた。おとなしめで、目は大きくて、声と仕草はかわいくて……。ほら丁度、マドカさんみたいな子。
マドカ? 大きな声でマコトがそんなことを言うもんだから恥ずかしくなって、僕と、なぜか佐野も、周りを気にして見回した。耳をすませているのか、教室の隅で静かに女子数人がChromebookの画面をずっと見つめている。
「マコトなんかの意見が参考になるのか?」
佐野のかわりに僕が言った。マコトが「ひでえ」とぼやいて大げさにすねだしたのを、肩をたたいて佐野が慰める。隅の女子たちもあわてて席を立って廊下へ。
「おまえはいいよ、美人と双子でいられるなんて」
「おい……。そういうふうに言うなって前にも言わなかったか」
「俺と彼女、取り成せよ」
「お前、あんなのいいの?」
「美人」きっぱり言った。
「美人か」客観的にはそうなのか。
「昔から『美人は目の毒、周囲は気の毒』といってだな……」
マコトが何か言い出したのを無視して僕は佐野に聞いた。
「マドカって美人か?」
「さあな」佐野の目が慌てた。腕時計を見て、それをごまかす。「印象は……悪い子じゃないだろ」
そうか、美人か! そういえば女の子の間でも人気があるみたいだしな。少し誇らしい気持ちになって、落ち込んでるのがまぎれた。僕は校庭でやってるサッカーを眺めた。
「おまえの好きな子……、近所の、朝倉とはどうなった?」
いつになく積極的に佐野が聞いてきた。
「カナか? いや。家が真向いじゃ、面白みもないな……意識もしないし……」
佐野が片眉を上げる。僕は顔を窓の外に向けて、およいだ目を隠した。……まったく、ヨリドリミドリの佐野、人で遊びやがって。
外れのマコトが聞く。
「やっぱ病気の時は見舞いに行くのか?」
「カナんとこに? そんな面倒臭いことするか」と言ったけど、隣人なんで、マドカと一緒に何回か行ったことがある。
「行けよ」「なんで」
「言っただけ……」マコトは興味をなくしたようによそを見て、つま先でリズムをとってラップをつぶやきはじめた。
僕は頭をかいて佐野に向いた。佐野はじっと僕を見ている。「なに?」佐野はため息混じりに首を振った。「だから、なに」
なあ、お前……、……、おもいっきり引き付けさせたくせに、「いや、いいや」と佐野は逃げた。
夕方。
放課後、どこにも寄らずに家に帰った。マドカが茫然と、居間のソファーに座っていた。この『美人』にカナのことを聞こうと思っていたけど、なんだか話しかけられず、僕はソファーを避けて通り、階段に座ってiPhoneを眺めた。まあ近所の仲だし、通話くらいしてもいいよな。呼出音を聞いているとき、やっぱり心臓がどきどきした。
「はあい?」
「む、向かいの者ですが。今日、休んでたけど、なんかあった?」
カナは「ううん、なんでもなーい」とやけに明るく答えた。「ねえ、心配してたの?」いたずらっぽく言う。
「いいや全然」脳天気な声に少し腹が立って、いじわるに言った。「来てなかったから数学の宿題のことでかなり困った」
そうだったね……。向こうから淋しそうな声が聞こえた。僕はもう一度カナの休んだ訳を聞いた。
「うん……、顔がね、むくんじゃって……はずかしくて、学校行けなかった」
「あっそう。……じゃあ、また」
カナが黙る。
「聞いてる?」
「……うん、じゃあね!」
「ああ……?」
日曜日。買物があるっていうから、僕はカナに付き合った。こいつは街中なのに、にこにこ笑みをこぼしている。一緒にいて恥ずかしかったけど、久しぶりのカナの笑顔を、僕はちらりちらりと横目で覗いた。
まあ、悪い気分じゃない。
熱くなった顔を、僕はよそ見して隠した。通りに続くウインドウ、最近人気のVtuberの等身大POPが雑貨屋の前に出ている。前を通り過ぎると、そのVtuberの歌じゃなく、冗談っぽく演歌のBGMが聞こえてきた。
その時、あっ、とカナが指さす。いま一軒の店から出てきた女の子のグループ。
「マドカよ」
カナは手を振ってマドカたちのグループに寄る。確かにマドカと、よそのクラスの子たち……。……グループの後ろ、女の子たちに囲まれた、もう一つ、知ってる顔……。
「っ、あー」マコトが僕の顔を見てうるさい声を出す。
「何してんだよオマエ」
「それはお前だよ」
僕はマコトの靴から服から頭までをジロジロと観察した。まずいところを見られたという風に、マコトは恥ずかしそうに愚痴る。Tシャツとジーンズ。ふたつの紙袋。両手が塞がっているのをいいことに、いたずら好きの子から裏返してかぶせられたキャップ帽……。
僕は繰り返す。「何してんのお前」
にこにこ笑ってマドカと話しているカナの方を顎で示して、マコトは話しを逸らした。
「お前たちこそ、ラブラブでデートか?」
聞いたカナがハッと気づいて、赤くなった頬に手のひらをあてる。僕も思わずカナの顔を窺ってしまった。よく考えれば、僕らは隣人で友達っていうつもりなんだけど、この歳、恋愛的に付き合っていると見られるのは……当然かも。
「ちがうよ」
照れと含みを消して僕が素っ気なく答えたのが、カナは気に入らなかったらしい。マドカたちと別れてふたりきりになると、今度は頬を膨らませて、怒った様に僕より先に歩き出した。
転校が目前になった、金曜日……。
夕立にずぶぬれになってマドカが返ってきた。息を切らした肩を、濡れた夏服は透いて見せた。玄関に立ったままうつむいて動こうとしないマドカの頭を、母さんがタオルでくしゃくしゃに拭く。マドカは玄関に座り、しぼりもしない重い靴下を床に落とした。額から流れてくる水をそのままにして、さっきとは違って、マドカは小刻みに肩を震わせた。何があったのか聞ける雰囲気じゃない。母さんがマドカの額に手をあてる。僕は見守った。すでに熱があるようだった。
転校が決まったあの時から、マドカは病弱になってしまった。淡いピンクのパジャマ姿のマドカ。表情も暗くなった。
僕は教室にひとり残り、席に着いてじっとしていた。
僕が転校したあと、この学校はどう変わっていくのか。いま工事中の体育館。夏休み明けの集会には、どんな外装になっているんだろう……? 校舎だけじゃなく、人は——あいつはどうかな。あと佐野は、マコトの面倒をこれからも見ていくのかな……。
突然、目頭が熱くなった。何なんだと自分の体に文句を言いながら、僕は額を垂れて目元を押さえつけた。
ふと教室の前に、人の気配がした。僕は急いで目を拭って、反対側に向いた。ドアを開けて誰かが入ってくる。忘れ物でも取りに来たのか、それとも別の用か。早く帰れと僕は心の中で叫んだ。
「まだ残ってるんだ……」
僕はふり向いた。マドカだった。
「……」
熱があるのに登校したあいつ。黙ったまま、マドカは僕のとなりの席に座った。うつむいたままの僕にマドカが言った。
「かなしいことって、たくさんあるよね。私たち、中学生だからかな」
僕は顔を上げた。マドカは切なそうな瞳で、窓から射す光を見ていた。
「同じ、気持ちだよ」
今、はじめて気づいた。いつもはガサツだとばかり思っていたマドカの手、胸の前で組み合わせたその手は、他の子みたいに、それ以上に、しなやかだった。マドカは僕の目をみつめた。
どうしていいのかわからず、僕はまた視線を落とした。
マドカは何も言わずに僕の肩に手をおいた。その細い指先から、強い力が伝わってきた。
「俺」話し出す僕の顔を、マドカはやさしく覗いてくれる。「転校のこと、誰にも言えなかった」
いいじゃない、そんなこと。マドカはうなずいた。僕は涙があふれそうになった。
「だけど、その気持ち、カナに教えてあげられない? 直接に」
僕は前髪を掻き上げる仕草で、恥ずかしい顔を隠す。
「どうだろう」
マドカは何も言わず、待っていてくれた。
僕は、ありがとうと言って席を立った。
教室を出るときに振り向いた。マドカは、窓辺で外をみていた。
肩に置かれたマドカの手の感触がまだ残っていた。あいつ、結構いい奴じゃないか。なるほど、と僕は廊下でひとり照れた。『美人』なだけじゃ、同性の友達を多くすることはできないよなあ。
昇降口に下りたとき、僕の下駄箱の横にいた佐野と目があった。佐野は僕を待っていたのか、寄り掛かっていた下駄箱から離れる。僕は何も言わなかった。佐野がぎこちなく手をあげて、やあ、といった。
「ん? 用だろ……?」良い友達だったと思いながら僕は尋ねた。
「いっしょに帰らないか」
僕はうなずいた。校舎を出ると佐野が「少し学校を見て回るか」と言う。僕はうなずいた。
葉の茂ったさくら並びの校門を出ず、話をしながら中庭に回った。学校は楽しいか、勉強でわからない所とかないか、そんなことばかり佐野は聞いてきた。
この場で転校のことを言ったら、佐野は悲しんでくれるんだろうか……。僕は佐野の目を見た。なぜか佐野は目を逸らした。
まだ昼なのに、早く終わった土曜の学校のせいで、ずいぶん遅くまで残っている気分だった。その実感に、他の生徒の姿も見えなかった。
すずしい風が吹く校舎の裏で、佐野が立ち止まった。
「どうした」
佐野が僕をにらんだ。戸惑いはしなかったが、僕は何も言えなかった。
「昨日」唸るように佐野が言う。「迷惑なことがあった」
「……」
「お前と……双子の、マドカさん、昨日、傘をなげ捨てて帰ったんだ。傘持ってなかっただろ」
面倒そうに佐野が塀に手を伸ばして、ほうきの横に立て掛けてあった傘を掴んだ。鮮やかな緑のマドカの傘だった。
佐野が放り投げてよこした傘を僕は受け取った。傘と、佐野の顔との間を、僕は何度か往復して見た。
「おれは好かれやすい人間だってことは、お前もよく知っているよな……。それは友達としても、男としても」
僕は佐野を見つめた。傲慢な奴だと憎くもならない。……震えた声じゃないか。
「気前のいいのも、美人な子も、みんな周りに寄ってくる。……たいしたことない奴に、構ってられるほど、暇じゃない」
僕のことを言っているのか? 不器用にも僕を突き放そうとする佐野の口調に、僕は見透かされているような、僕からの言葉を待っているような、そんな気がした。でも、それは強要的じゃない。僕の心を深い所まで察してくれているような佐野を、僕は畏れた。
佐野が、泣きそうな顔に浮いた汗を袖で拭う。
「昨日、マドカさんに告白された……」
え? 僕は笑った。なんて言った?
「迷惑なんだよ、そういうの。その、お前とは全然似てないけど、なんか、友達とふたごっていうのは、その。あの人より数倍は美人に、おれは何度も告白されたことがあるし、は、はっきり言って、おれとは釣り合わないんだよ。あんな子じゃ!」
僕は立ち尽くした。佐野が、本当は何が言いたいのか理解しようと必死だった。
雨に濡れたマドカはあれから、夕食もとらず、部屋に入ったまま出てこなかった、そんな力もないみたいだった。
……以前のバレンタインデー。キッチンで作っていた特別なチョコレート。テーブルに置いて、じっと見つめていた凝った包装の赤いリボン。……思いの人に渡せず、照れながら、さびしそうにそれを持って帰ってきた、マドカ。
体が、無性に熱かった。うるさいほどに鳴いていた蝉が、すべて鳴きやんだ。気がつけば、僕は佐野を殴っていた。
生まれてからずっと住んでいた家が、あっけなく、見覚えのないガランとしたものに変わった。
作業服を着た体格のいい引越し会社の人たちが、マドカが自分の荷物を運んでいるのを見て、私たちがやりますと驚いて止めようとした。でも、マドカはそれに丁重に断って、引っ越しのトラックじゃなくウチの車の方に乗せた。マドカが持ってきたのは、プラスチックのバスケット。雑貨やアイドルのアクスタの他に、裏がえして置かれた写真立てが入っていた。
カナやマコトは朝から来てくれていて、家具を運びだした後の、ほこりっぽい部屋や廊下の掃除を手伝ってくれた。
「高いわよ」
僕の鼻先に人差し指を突きつけて、カナが笑った。休憩に、僕は広くなった自分の部屋にマドカやカナたちを呼んで、ジュースを出した。マコトがあぐらをかいて、不思議そうに部屋を見回す。
「ここがお前の部屋か……? なんにも、ないところで育ったんだな」
僕はジュースを吹き出した。どういう冗談なんだと笑いが止まらなかった。
「きたないよ!」とカナも笑う。
さりげなくマドカがポケットティッシュを差し出した。笑いながら、僕は気にも留めずに受け取った。
そういえば……、僕はもう一口飲みながら、丸く囲んで座ったみんなを見た。マドカ、カナ、マコト、……一周して僕。マコトはまだ、マドカの横には座れないらしいな。
僕は缶をおいて窓の方を見た。カーテンの代わりに掛けられた青いビニールシートの隙間から、迫力のある入道雲がのぞいている。僕は佐野のことを考えながら、それを眺めた。
「なあ、覚えてるか? 文化祭のニテナイ似顔絵描き!」
おかしそうにマコトが言った。
「あった!」と明るい声でカナが共鳴する。
なになに? とマドカの嗅覚が働く……。
みんな、楽しそうだった。僕もその場で笑っていた。なんだ、一応おもしろい思い出があるじゃないか。僕は安心した。これからも、頑張れるなと思った。
しばらくして笑いが落ち着いて、みんな何も言わずに静かになった。それぞれに自分の近くに目を落として、ぼんやり考え込んでいるようだった。僕は背筋を後ろに傾けて、天井を仰いだ。とても静かで、目をつぶると、ひとりぼっちでいるみたいだった。いまさら、どうにもならないんだろうな。目を開けて、視線をおろした。
カナが見つめていた。彼女は手のひらを床の上に滑らせる。
「この部屋、すっごく埃が出てきたんだから。普段からちゃんと掃除してなかったでしょ」
ごめんと謝る僕から、カナはフンと顔をそむける。「こういうのでも、迷惑よ」でも、なぜか眉だけはさびしそうに曲げて。
「いつも、ありがとう」
カナは、怒った顔を崩した。真っ赤な顔を両手で覆う。
「やだ……、あの時みたいに……また……顔が、むくんじゃう……」
涙声を聞いて僕がうつむいたその時、階段の下から「積込み、終了しました」という元気な大声が聞こえた。
「早いんだな」マコトが一言、そうつぶやいた。
みごとに晴れ上がった空は、夏そのものだった。この青い空の下で、水鉄砲の打ち合いや、プールで遊んでいた気がする。この夏休みの空の下、どこか家族旅行にでも行くみたいに、父さんは玄関の鍵を掛けた。
陽炎の道路を、トラックは走っていく。
マドカとカナは塀の前にいた。カナはマドカの背中を撫で、何か言ってなぐさめていた。
熱いウチの乗用車の後ろに寄り掛かって、僕はみんなの顔を見た。
……おはようと家の前で声をかける時、いつも違う顔を見せてくれたカナ。僕にも、マドカにも、とっても親切にしてくれた。
「いっちゃうんだね」
カナが唇を噛んだ。僕はウンと答えた。
マコトは鼻の下を指でこすりながら、平静を見せるのに精一杯だった。
「がんばれよな」
「ありがとう」
父さんが声をかけた。そろそろ行くらしい。
僕は最後に、馴染みの風景を見た。
永く住んだ家。二階のあの窓。表札の外された玄関。飛び出してはダメと教えられた道路。カナの家の屋根。凧糸の絡まった電線。道の曲がり角——何かが素早く身を隠した——僕は注意して見た。誰かがゆっくり顔を出し、低い場所で小さく手を振る。
佐野だ! 僕はマドカの肩を叩いて報せた。そして、大きく手を振った。カナたちにも向いて、僕は手を振った。
……僕は車の後部席の窓ガラスを下げた。
「じゃあ。また、会おう」
今日は真面目な顔で、マコトがうなずいてくれた。出てきてくれた佐野は反対の窓について、うつむいたマドカに何か言う。
僕らが転校することを、いつ、佐野は知ったんだろう? マドカの事を真剣に思ってくれていたのに、僕は佐野を恨んでしまった。
「……去年の文化祭から……。……一緒のクラスになれて……」
僕は照れて、マドカに告白する佐野の言葉を最後まで聞けず、顔を外に向けた。
カナは背中を見せて、肩を小さくして、泣いていた。
父さんは、きつく口元を締めてまっすぐ前だけを見て、ゆっくり、車を出した。
ゆっくり動く。離れていく、離れていく。だんだん早く、離れていく。僕は体が熱くてどうしようもなかった。
離れていく。
その時。僕はドアを開けて飛び出した。急ブレーキにタイヤが鳴った。
「カナ!」
熱いアスファルトの上に転がりかけた僕は立て直して、高く片手を挙げた。
驚いて振り向いて、カナが顔を上げる。
「カナ、ありがとう、またな!」
カナの顔から、ゆっくりと力が抜けていく。涙を拭き、カナは小さく首を傾けて笑って見せてくれた。
長く息を吐いた後に、僕は目を閉じた。
きっと泣いてたはずなのに。
僕もマドカも笑顔でいられた。
みんな、元気でな。いつかまた気を置けないままで会えるように。
僕も、元気でいるから。
顔をみせて