あの・・本当の僧侶
早稲田を卒業し、出世コースにのっていた彼。
緒方和と神尾公は同期入社をした仲だ。
緒方はK大を出、神尾は夜間のY大を出ていたから、配属先は他の同期は支店や関連ショップなどだったが、二人は本社に配属された。
神尾は昼間働いて夜間大学に通っていたのだから、根性がある、何処か自分とは違うなと緒方は思ったが特に変わっているとは思わなかった。
同期入社して、二人で会社のある銀座のビルの屋上で、ゴルフの練習をしたり、緒方のアパートのあるA駅の近くのスナックで、飲みながら弾き歌いをしたりしたものだ。
或る時には緒方のS市の実家に遊びに来て泊って行った事もあった。
神尾は一戸建ての公営住宅に住んでいた。
緒方がアパートを引っ越す前に、神尾の家に遊びに行った事があった。
神尾の母と妹の手料理を馳走になった後、寛ぎながらふと家の脇の路地を見ると軽自動車のバンが置いてある。
緒方の視線を追った神尾が言った。「そう言えば、緒方引越しするんだよね。良かったらあれ使って荷物を運んだら?」
「ええ、いいの?そうすればレンタカーを借りなくてもいいし、俺の荷物など大した量じゃ無いから、助かるけれど」
まだ独身だった緒方は、其の車で何回か往復して一日で引越しをする事が出来た。
二人共、入社当時は結構女性にモテた方だったかも知れない。
やがて緒方は彼女が出来、何年か付き合った後結婚をした。
神尾はどういう訳か、好かれた女性も何人もいたのだが、浮いた話は無かった。
其れから数十年経ち、緒方は開発部、神尾は商事部で其々課長をやっている。
緒方に転職の話が舞い込んだ。
当時はバブルの時代だったから、より良い条件の会社で自分の経験を活かしたいと思った。
緒方は神尾と飲んだ席で、其の話をしたが、神尾は転職に賛同してくれた。
緒方にとっては、二人の仲が良かっただけに、その点別れは辛かったが、また会う事もあるだろうと考え気を紛らした。
緒方は新しい会社で今迄の経験を存分に発揮する事が出来たから、充実した毎日を過ごしていた。
子供も誕生し俄かに家族で出掛ける事が多くなった。
何時の間にか神尾の事は緒方の記憶から抜け出していた。
緒方が外回りで出掛けた時だった。
S駅の前の大きなロータリーを包んだ歩道に、一人の僧侶が立って経を唱えながら目を瞑っている。
緒方は時々托鉢の僧侶を見かけた事があったから、さして気にも留めなかった。
その前を通り過ぎようとして僧侶の顔を見て驚いた。
間違いか?いや、間違いではない。
あの神尾が僧侶になっている。
前を通る時に一瞬声を掛けたくなったが、一心に念仏を唱えている其の姿には声を掛ける隙は見いだせない。
結局、緒方はどういう訳か、なるべく僧侶の顔を見ない様にゆっくりと立ち去って行く。
昔、緒方が神尾と飲んだ時に話をした事を思い出した。
「緒方、宗教に興味ある?」
「宗教?いや、特に関心は無いが、其れが・・・」
其れでその話は終わったが、どうして神尾がいきなりそんな話をしたのかと、気になった事を覚えている。
緒方は歩きながら考えた。「あの時から宗教に染まっていたのかも知れないな。特に怪しそうな宗教では無いし、自分に誘いかける事もしなかったから真面な宗派だろう。しかし、今時の僧侶はああいう事をする事は無い、特に浄土宗や 真宗などは。という事は禅宗かもしれないな・・・」
其れから、二度と神尾の姿を見る事は無かった。
時が経ち、年齢的に緒方にも病魔が襲ってくるようになった。
両親・家族は全て亡くなって、子供達は独立して遠方に住んでいる。
三年前に母が亡くなったのが最後だと思っていたが、自分にもあの世からお誘いが来たようだ。
病気は何か所かあって手術も無駄であったようだ。
やがて、緒方はこの世を離れる事になった。
家族の顔が次々に浮かんで来る。
もうじき身体から何かが抜け出そうとしているのか、瞼が自然に目を塞いでいく。
間際だった、経を唱える声が。
身体が浮いて行く時、神尾が微笑んでいる姿が見えた様な気がした。
「のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は流れて雲に入って漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。夏目漱石」
「幸福とは幸福を問題にしない時をいう。芥川竜之介」
「幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない。求めて得られるものは幸福にあらずして快楽なり。志賀直哉」
あの・・本当の僧侶
飲みに行ったり楽器を弾いたり。