奇想詩『トム・ウェイツ(あるいは二本の陰毛)』
「本当のDJは視聴者の求めるものではなく、視聴者が必要としているものをかけるのが仕事です」
(ピーター・バラカン)
このままブレーキを踏まずに
左側の防音壁にハンドルを切れば
今すぐにでもあの世に行けるんだな
と車が大破する映像を頭に浮かべながら
僕は真夜中の高速道路を走っていた
べつに本気で死んでやろうだなんて考えていたわけではない
車に乗っていると時々そんな馬鹿げたことを
考えてしまうことはきっと誰にでもある
それが特に恋人との別れ話の後に
真夜中の高速道路を走っていればなおさらだ
勘違いしてほしくないのだが
決して落ち込んでいるわけではない
失恋にはもう慣れている
けれども ラジオでピーター・バラカンが
トム・ウェイツの曲をかけているような夜だったから
ついそんなことを考えてしまっただけだ
これが例えば とびきり美人な女性との
素敵なデートの後だったとしても
真夜中の高速道路を走りながら
トム・ウェイツのしゃがれ声を聴いたら
きっと同じように車が大破するところを思い浮かべてしまうだろう
それは仕方のないことで
トム・ウェイツにも そしてもちろん僕にも責任はない
それはロードランナーがいつもコヨーテよりも
一枚うわてなのと同じくらい当たり前のことなんだ
このままだと本当に死んでしまうような気がしたので
サービスエリアに立ち寄って便所で用を足した
小便器の上には縮れた毛が二本並んでいた
奇想詩『トム・ウェイツ(あるいは二本の陰毛)』
〈あとがき〉
BGMはトム・ウェイツの“Time”でどうぞ。
月刊ココア共和国2021年9月号掲載作品(傑作集)