奇想詩『私も昔はそうでした』
誰も降りる気配のしないバス停の手前で
降車ボタンを押した
ボタンを押した僕ももちろん
降りるつもりなどない
バス停でバスが止まった
車内の乗客たちがキョロキョロし始めた
誰かが降りようとしているのかもしれないと思い
みんながもぞもぞと動き出して
車内の真ん中に細い道ができた
けれども誰も降りない
ボタンを押した僕が降りないのだから当然だ
バスはしばらく停車していた
それからバスは何事もなかったかのように発進した
けっきょく僕は終点で降りた
降車間際に運転手に呼び止められた
運転手は真白な手袋をはずして
左手を見せてきた
人差し指の第二関節から先が無かった
「私も昔はそうでした」
優しい声の運転手だった
誰も降りもしないバス停で
降車ボタンを押すのは
もうやめにしようと思った
奇想詩『私も昔はそうでした』
月刊ココア共和国2021年8月号掲載作品(傑作集)