夜雨の停留所

私は疲れている。

今日も家に戻る頃には二十八時をまわっていた。オマケに雨がドバドバと降り、煌びやかな羽織も、いつ貰ったのかわからないアクセサリイも、底にポッカリと穴が空いたボロ靴も濡れ放題だった。

何を持っても満たされない。

昔は父と姉さんの三人で暮らしていた。母は私を産んで直ぐに亡くなった。元々病弱だったらしい。父は私たちが嫌いだった。殴り、蹴り、罵声を浴びせた。姉さんはそんな父からいつも私を庇ってくれた。暫くして父は死んだ。煙草の吸いすぎで喉が焼けて死んだ。父が遺した少ない財を使い、二人で生きてきた。
「私は要らないから…ユイが食べて…」
そう言って姉さんは笑顔でパンやら水を差し出してくる。姉さんだってお腹が減ってるはずなのに。私は渋々それらを受け取って口にする。その度に涙が出た。泣いても何も変わらないのに。
しかしその生活も長くは続かなかった。
姉さんはある雨の日を境に消えてしまった。

私を捨てて……

私は玄関先で泥だらけになった靴を脱ぎ捨てると、そのまま布団に飛び込んだ。冷たい布地が火照った身体には心地良い。小さいながらもシッカリとした家に住めるようになったのも私が風俗街へと赴くようになったからだ。少しでも裕福そうな男を見つけては声を掛け、体を売った。

私は汚い女だ。

しかしそんな汚い真似をしたところで私の中の空虚感を埋めることは叶わなかった。
何のために生きているのか、何故生まれてきたのか。だが、そのお陰で私はそこそこの暮らしが出来ている。このご時世、女一人で生きていくにはそうするしかなかったのだ。
今日は八人とやった。態とらしくても色っぽく喘げば馬鹿な男共は必ず金を払う。今日だけで十六万。そこから店にバックとして二割引かれる。しかしそれでも十二分に稼げた方だろう。本当に狂った世の中だ。私は枕元にあるリモコンを手に取りテレビをつける。画面では私と同じくらいの歳であろう芸人達がコントを繰り広げていた。何が面白いのかサッパリ分からなかったが、テレビの向こうからは笑い声が絶え間なく聞こえてくる。きっとこういう人達は私のような人種の事など気にもとめずに楽しく暮らしているのだろう。そう思うと無性に腹が立った。
「あー……うざ」
私はテレビを切ると引き出しに仕舞っていた睡眠導入剤を取り出して水と共に流し込む。
「おやすみなさい」
誰に言うわけでもなくそう呟いて瞼を閉じる。真っ暗な視界の中、雨の音だけが聞こえる。その音を聞きながら意識を失うように眠りについた。

次に目覚めたのは十七時だった。外は昨日に引き続き雨だった。そのせいで部屋全体がジメッとしている気がした。
「んっ……」
体を起こすと同時に強烈な頭痛に襲われる。頭が勝ち割れるように痛い。
「……最悪」
私はボソリと悪態をつくと、ゆっくり立ち上がり その足で冷蔵庫に向かい缶ビールを取り出す。プルタブを開けるとプシュっと音が鳴り、それに続いてゴクゴクと喉が鳴る。一気に半分ほど飲み干すと私は大きく息を吐いた。そして私はさっさと準備を済ませ、夜の街へ出かけた。
ネオン街に着くとまずはいつものように客引きをしているホストに声をかける。
「ねぇ、今晩ヒマ?」
私は谷間を見せつけるようにしながら甘い声で誘う。大抵の男はこれで終わる。しかし今日の男は違った。
「悪いけど他当たれよブス」
男は冷たくそれだけ言い残すと私に興味を示さず、他の女性の元へ歩いていった。
私はその背中を見ながら拳を強く握りしめた。悔しかったのだ。今までこんな風にあしらわれた事がなかったから余計にムカついた。
チッ……
私は小さく舌打ちをすると近くにあったゴミ箱を思いっきり蹴飛ばした。大きな音を立てて中身が散乱したがそんな事はどうでも良かった。その次の男も、そのまた次の男も、皆同じ反応だった。結局誰も私を買う事は無かった。
「クソ野郎が」
しかし、いくら苛立っていても仕事を放棄する訳にはいかない。私は自分の感情を押し殺して客を探す。それから一時間程が経ち時刻は二十時になっていた。流石にこれ以上粘っても無駄だと思い私は諦めて帰ることにした。
家に帰る途中、ふとあの男が言っていた言葉を思い出す。
『ブス』
私は思わず笑ってしまった。そうだ。私は醜い。私は綺麗じゃない。私は汚い女だ。だけど仕方ないじゃないか。こうするしか生きていけないんだもの。
歩く元気もない。仕方なく私はバス停まで歩いた。この時間ならバスもまだあるだろう。ここから家まではバスを乗るような距離では無いが、もう疲れたのだ。
古いバス停のベンチに腰掛けてボーッとする。周りには人っ子一人いない。ただ雨が地面を打ち付ける音だけが響いている。
「……もう死にたいかも」
無意識のうちにそう口に出していた。だが、その言葉も降り頻る雨の音にかき消される。
雨は嫌いだ。思い出したくないものまで思い出しそうになるから……。

私は深いため息をつくと、空を見上げた。空を覆う厚い雲のせいで星一つ見えない。
暫くしてバスがやって来た。私はそれに乗り込むと、一番後ろの席に座って窓の外を見た。雨粒で歪む景色を見て、私は昔を思い出していた。私が八つとか九つとかその辺りの頃の話だ。
「姉さん…私…学校に行きたい…」
私は恐る恐るそう言った。しかし、私の願いを聞いた瞬間、姉さんは泣きそうな顔をしながら、私の肩を掴み言った。
「……ごめっ…ごめんね……む、無理なの……お金が…ないから……ほ、本当に……ごめんなさい……!」
その表情は今にも壊れてしまいそうだった。私はそんな姉さんの顔を見ることが出来なかった。
「……ううん。大丈夫…!!」
そう言って笑ってみせた。しかし、それが精一杯だった。本当は行きたかった。学校に。友達と遊びにだって行ってみたいと思っていた。
でも、私は知っていた。この世の中はそういう風に出来ていないということを。だから諦めた。全てを諦め、生きるために必死に働いた。そうやって生きていたらいつの間にか私は風俗街で働くようになっていた。
私は再び窓の外に目を向ける。相変わらずの土砂降りだ。
「……姉さん」
ポツリと呟く。

会いたいよ……

私は心の中でそう思った。
もう会えないとわかっているのに……それでも……
「会いたいよ」
そう呟いた時、バスは目的地に到着した。私は料金を払ってバスを降りると、傘を差さずに歩き出す。

……寒い

私は身を震わせながら足早にその場を去った。

「はぁ……」
私は敷かれた布団の上で寝転がりながらため息をつく。今日は最悪の一日だった。散々な思いをしたせいで心身共に疲労している。
「……シャワー浴びよ…」
私は重い体を引きずりながら浴室に向かう。服を脱ぎ捨てると鏡に映った自分と目が合う。肌ツヤが悪かったり、所々にシミが出来ていたりする。
「あーあ……」
私は落胆の声を上げると、シャワーを浴びる。
『ブス』
不意に昼間の男の言葉が蘇る。私は歯軋りをすると思いっきり自分の顔を殴る。鈍い音が響くと同時に痛みが走った。
「痛っ……」
殴られた頬を押さえてその場に座り込む。口内でも出血したためか、鉄臭い味が口の中に広がる。
「なんで……こんな目に遭わなくちゃいけないんだよ」
私は声を上げて泣いた。今まで我慢してきた感情が一気に溢れ出した。
「もう嫌だよぉ」
私は子供の様に泣きじゃくる。もうどうすればいいのかわからないのだ。
「助けて……誰か……」
嗚咽混じりにそう言う。

その日、私は夢を見た。時々見る夢だ。誰も居ない部屋にポツンと置かれた箱。その箱の蓋を開けようとする。
しかし、毎回目覚めた時にはその先の記憶が無い。
私は箱の中身が気になって仕方がない。どうしても知りたくて堪らない。
しかし、何故か知ってはいけない気がする。本能的に理解していた。知ればきっと後悔する。そんな気がしていた。
その日も同じように雨の降る夜の街へ向かった。そしていつものように客引きをしているホストに声をかける。だが、今日も結果は同じだった。結局誰一人として私を買う事は無かった。
「チッ……」
私は舌打ちをすると、近くに落ちていた空き缶を思いっきり蹴飛ばした。大きな音を立てて転がっていく様を眺めているうちに、少しだけ気分が晴れたような気がしたがそれも一瞬の事だった。
「……もう…いいや…」
私はふらふらと覚束無い足取りでバス停へ向かう。雨がゴウゴウと音を立てている。
バス停に着くとベンチに腰掛ける。空はどんよりとした雲に覆われている。雨は一向に止む気配はない。
「私も一緒に連れていってくれたら良かったのに……」
私は空に向かってそう言った。

ピシャッピシャッ…

誰かが小走りでこちらへ向かって来る。女だった。辺りには街灯が一本立っているだけで全く明かりがなかったため、顔までは見えなかったが、ボサボサに伸びきった髪とガリガリにやせ細った身体のラインだけは薄らと見えた。その女は私の目の前までやって来ると立ち止まった。
「あ、あの……隣…座っても……?」
女は遠慮がちにそう言った。
「……どうぞ」
私は素っ気無くそう言った。正直今は一人にして欲しかった。
「ありがとうございます……」
そう言って女は私の隣に腰掛けた。私は少し距離を置きたかったのでズリズリと端による。
「……」「……」
お互いに沈黙が続く。雨の音だけが辺りを支配していた。
「……寒く……ないですか?」
先に口を開いたのは女のほうだった。
「……えぇ……まぁ……」
私は曖昧に返事をした。
「雨って……嫌ですよね……嫌いなんです……昔から……でも……もっと嫌いなのは……この季節なんですよね……『ツユ』っていうらしいですけど……この時期になるといつもこうなっちゃうから……」
そう言いながら、女は下を向いて震え始めた。
「……」
私は黙ったまま俯いている。
「私……妹が居たんですよ……すごく可愛くて……本当に天使みたいな子でした……だけど……あんな事が無ければ……今も……今頃は……一緒に幸せに暮らせてたはずなのに……」
女は雨空を見上げながら言った。
「もう……どうしたらいいのか……わかんなくて……ごめんなさい……変なこと言って……」
「……大丈夫」
私は無意識のうちにそんなことを言っていた。自分でもよくわからなかった。何故そんな言葉が出たのか……。
「ありがとうございます……」
「いえ」
私は短く答えた。
「……」
「……」
再び沈黙が流れる。雨は未だ降り続けている。
「ねぇ…貴女は……今、何かやってるの?仕事とか……」
今度は女が唐突に聞いてきた。私は首を横に振る。
「何もやってないよ。夜な夜な身体を売ってバカな男共から金を巻き上げて生きてるような奴だからさ」
自嘲気味に笑う。
「そっか……」
女も笑ったように見えた。
「私も似たようなもんかな……風俗で働いて"いた"し……」
女も私と同じように自虐的な笑いを浮かべる。
「私達似た者同士かもね」
「そうかな…」
「うん……きっとそうだよ…」
私たちは顔を見合わせて微笑んだ。久しぶりに心の底からの笑顔を見せた気がした。しかし、私にはさっき女が話した妹の話が何処かでずっと引っかかっていた。
「ねぇ…もっと…貴女の妹の話を聞かせてくれない?」
「いいけど……どうして?」
「ちょっと興味があって……」
「そう……わかった……」
それから私は女の妹の話を聞き続けた。女はポツリポツリと自分の身の上を話してくれた。驚く事にその話は殆ど全てと言っていいほどに、私と姉さんの生活の話と一致した。もしかしたら、今、目の前にいる女は姉さん本人ではないだろうか。そんな考えが脳裏を過ったが、すぐに打ち消した。
だって、そんなの都合が良すぎるもの。
「……また会えるといいな……」
女は寂しげに笑って呟いた。
「……」
私はただ、無言で俯いていた。
私も姉さんに会いたい。もう一度だけ。
「それで…貴女は妹さんに何をしたんですか?なんで会えないんですか?」
私は矢継ぎ早に質問する。
「あー……それは……」
女はバツが悪そうに視線を下に落とす。
「やっぱり……言わなくても……」
「いや……話すよ……ちゃんと……全部……」
そう言うと女は深呼吸をして覚悟を決めたように話し出した。
「あれは……こんな感じの雨の日だったかな……私ね…………妹に…殺されたの……」
女は自分の首元に手を当ててそう言った。

そう言われて一瞬戸惑った。
だが、すぐに理解した。
あぁ、そうだった。
姉さんは私が殺したんだった。

ある夜。私は姉さんが何かを隠してる事に気付いた。
最初は気のせいだと思った。
でも、日に日に違和感は増していった。
決定的だったのは、深夜、姉さんが知らない男と何処かへ行くところを目撃した時だった。姉妹二人で貧乏ながらも慎ましく暮らしていた筈なのに、裏切られたような気分になった。
そして、あの雨の日。姉さんが私に隠れて何かを箱に詰めているのを見た。
「……それ…何?」
「あ……えっと……」
姉さんはすぐに箱を隠した。
「……ねぇ……なんで隠すの?誰から貰ったの?」
私は責めるように言った。
「これは……別に……」
明らかに動揺している。
「ねぇ!答えてよ!」
私は思わず怒鳴ってしまった。
「……」
姉さんは黙り込んでしまった。
あぁ……そういう事なんだ……
私は姉さんを思い切り蹴り飛ばした。
「あぐっ……」
姉さんは苦痛に喘ぎながら、転がっていく。
「うぅ……ううう……」
蹴られたお腹を押さえながら苦しそうに悶絶していた。私はその姿を見ながら、どうしようもないくらいの怒りを感じていた。
何度も踏みつけた。
彼女は口から胃液を吐き出し苦しんでいる。それでも許せなかった。
裏切られた事が……どんな時でも姉さんだけを信じていたのに……
姉さんの髪の毛を掴む。
「痛いっ……」
姉さんの悲鳴を無視して無理矢理立たせると壁に叩きつける。
そのまま馬乗りになって殴り続ける。殴る度に骨と肉がぶつかり合う音が部屋に響く。
「ねぇ……答えてよ……これ……どういうことなの?」
私は怒りをぶつける様に拳を振り下ろす。
「……違っ…違うの……ユイ……」
姉さんは涙を流しながら必死に弁明しようとしている。
うるさいなぁ……
私は彼女の首に手をかけた。
「ひっ……ごめんな……ごべんな…ざい……あ"あ"………がっ……あ"」
ゆっくりとジワジワと手に力を込める。
「……ぐぇ」
姉さんがカエルのような声を出す。私はそのまま押し潰すように体重をかける。姉さんの手足が痙攣し始める。
「……ぁ」
何か言いかけたところで力尽きたのか、全身が弛緩(しかん)した。
あ、死んじゃった………
この死体…どうしよっかな……?
姉さんの股間からはチョロチョロと異臭を放つ黄色い液体が漏れ出していた。
そうだ……川に捨てよう……。きっと魚達が綺麗に食べてくれるだろうから……。うん……それがいいよね……。
私は彼女を肩に担いで外に出た。
外は相変わらずの大雨だった。
近くの川まで歩く。途中で何度か姉さんを落としそうになったけど何とか持ち堪えた。雨でぬかるんだ地面を踏みしめながら歩いた。しばらくすると大きな川が見えた。私は迷わず姉さんをそこに放り投げた。落下する彼女と一瞬目が合ったように感じた。ドボン!と大きな水音を立てながら沈み流されていく屍を見届けてからその場を去った。
家からは姉さんの尿の臭いが漂っていた。汚いなとか臭いなとかそんな事を思いながら、姉さんが隠した箱を開けた。その中を見て、私は目が覚めた。そこには新品の制服が入っていたのだ。
私はその場に崩れ落ちた。
涙が出てきた。
姉さんは学校に通いたいという私の身勝手な願い事を叶えるためにコツコツと隠れてお金を稼いでくれていたのだ。

あぁ……もう…どうしよう……取り返しがつかないよ……。姉さん……私のために頑張ってくれたのに……私は……なんてことをしてしまったのだろうか……男と会っていたのもこのためだったの?

後悔しても遅かった。
私はただ、泣き続けた。

それから数日後、身元不明の死体があがったという話を聞いた。死因は低体温症による凍死だったらしい。私が首を絞め 川に落とした後も、雨が降る寒い中、苦しんで、ゆっくりと、時間をかけて、死んでいったのだろう。
……なんで殺されたんだろう?……あんなに頑張ってユイのために働いたのに……我慢もしたのに……どうしてこんな目に遭わないといけないの……?
そんな事を思いながらジワジワと死んでいったのだろう。

私の目の前に居た女はもう居なかった。雨の音だけが辺りに響いている。

ああ、私はつかれているんだ……


やがて、夜行バスがやって来た。誰も居ない停留所の前に止まると、扉を開けた。
そしてそのまま、夜雨(やう)の中、出発した。

雨の音だけを車内へ幽閉したまま

夜雨の停留所

夜雨の停留所

初投稿

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2023-01-16

Copyrighted
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