『プリピクテジャパンアワード』




 内心の動きを外部に表すという行為でいうなら、レンズで捉えた対象を撮影し記録することは表現行為の一つであることに疑いはなく、情報として保存され又は現像して残される写真は表現物として鑑賞されても不思議でない。
 そこに写るものを堅苦しく評すれば、それはおよそ人の情報処理能力では叶わない、生きる人やそこに在る物、あるいは既に起きている出来事が瞬間的に切り取られることで確かめられる一面的な真実であり、見惚れる美や目を背けたくなる現実のインパクトで意識の扉を叩き、開いた先で発色する感情群を道連れにして人々の記憶に残るものである。そのための理想としてここで口にできるのは一切の説明なく捉えようとした事の全てを写真として表現せよという矜持であり、かかる矜持に従って自らを律する日々が写真表現を洗練させていくと確信できる歴史がある。
 しかしながらその一方で、イメージデータが当たり前の日常として堆く積もっていく時代の流れは軽視できない。埋没は無視に等しいからだ。ゆえにバラけてしまいそうになる各写真に有機的な繋がりを与え、緩やかなテキストぶりを付与することで展開できる可能性は写真表現の現実を具体的なものにし、率先して未来を描く力になる。現在、東京都写真美術館で開催中の『プリピクテジャパンアワード』はこの観点から鑑賞すると非常に面白い。



 持続可能性(サステナビリティ)の問題に迫る写真表現を募り、優れた芸術性と強度な物語性を基準にして応募作品を審査するプリピクテジャパンアワードはテーマを掲げる。第三回となる今回のテーマは「火と水」であり、ショートリスト入りした作家の作品が東京都写真美術館で開催中の『プリピクテジャパンアワード』で展示されている。
 ギリシア哲学に通じなくとも人々の生活において欠かせない火と水であるから展示されている作品に表れる問題意識は幅広く、その重大性をどう伝えるかという方法の面での違いが各作品の特徴にもなっていた。
 例えば、極小の世界で捉えるプラスチックの幾何学的な形状をして自然物を加工する人の行いとその罪の重さをウソみたいに並べる岡田将(敬称略)の「Microplastics」や冬の冷え込みの厳しい地方で雪となって積もり、壁の如く立ち塞がって人々や動植物の動きを少なくさせる水が春に晴れる頃を思う人々に応えるように、真っ白に染まった景色の内側で流れ出すその刻(とき)を景色の光り輝く変化や肌に刻まれた皺の深さで追う中井菜央(敬称略)の「雪の刻」は記録行為としての写真撮影の正道を行く。かかる道筋に社会性や歴史を巡るジャーナリズムを加えたと思うのが長沢慎一郎(敬称略)の「The Bonin Islanders」で、1830年に5人の欧米人とハワイ諸島に住んでいた20人のカナカ人が入植してから始まる、第二次世界大戦を間に挟んで、コロコロと変えられた領土区分により出自と住処の混乱に巻き込まれることとなった小笠原諸島父島の先住民とその子孫のアイデンティティへの接近を手に持つカメラで試みが果たしていた記録と記憶の混淆はこれぞ写真表現!と思わず唸る程であった。



 他方で被写体の捉え方又は現像といった撮影後の表出方法が作品表現の独自性に直結していると感じられたものとしては、例えば水谷吉法(敬称略)の「KAWAU」が挙げられる。大量発生した川鵜が電線に止まる様子を撮影したそれらの写真表現は都市部で起きている異常を楽譜と音符に見立て、現実世界のフィクションな側面を強調して鑑賞者を愉快な気持ちにさせる。しかしその本命とするところが目の前の異常を異常と思わず、情報として楽しめる鑑賞する側の感覚に警鐘を鳴らすことにあるのはその音圧を一身に浴びた筆者が証言する。起きた事象の全てが自然と判断し得る理性は川鵜の大量発生もまた一つの自然と宣える。けれど、肌実感に近しい感覚で、その異常な個体数が崩している均衡の回復を欲する直観を黙らせることだけはできない。実利も含めたその拮抗を解消するための議論は個々人の内的対話から始まるとでも言わんばかり、その衝突の響きは展示会場に木霊する。
 この感覚に類似するものを見出せる新井卓(敬称略)の作品表現は、科学的知見に基づく論理的な判断の裏面として脈打つ信仰心めいたものの背中を叩き、その驚いた表情の再現に工夫を凝らす。東日本大地震後、北関東から本州北端の沿岸にて小さな入江から二級河川の河口域に至るまで行われたコンクリート壁の設置工事によって様変わりした風景をなぞるように旅をした記録たち。それらの現象に表現者が用いたのは世界最古の写真技法であるダゲレオタイプであった。鏡のように反射するまで研磨した銅板の直接画像を表すかかる技法は、その際に用いる薬品が不安定なために思う通りの仕上がりにならない。ゆえに、そこで用いた500枚の断片は青く発色したかと思えば、何も写らないものになったりと完璧さからどんどんと遠ざかる。しかしながら、その不確実性が誰よりも表現者自身を救う。鋭い目と感覚で把握し続けてきた現実とイメージを綺麗に別ち、後者を意識の外へと還すことを可能にする。では、撮影者でない鑑賞者にとってはどうか。未完成に等しい完成を果たした「東日本沿岸銀板図絵 No.1―5」を初めて目にする者はそこに何を覚えればいいか。その答えを筆者は持たない、物語としての神話は人の数だけあればいいと信じてしまっているから。だから、興味がある人は展示会場で見て欲しい。人為が成す物事の足元で、生まれ死ぬもののの息吹は決して小さくない。
 特異という点で頭ひとつ抜けると感じた千賀健史(敬称略)の「Hijack Geni」は移り変わる経済社会を流れる水に例え、そこに振り込め詐欺のグループが水に溶ける特殊な用紙にしか実態解明に繋がる重要事項を印刷しないという事実を積んではまた事を荒げないよう、全てを水に流すという振舞いを心掛ける私たちが大雑把に形成し維持してきた善悪の彼岸で見失うものをそのままに取り上げる。展示会場の一つの壁を目一杯に使って表現される匿名性に怪しい模様、欲深い言葉に、根拠なき楽観を語る意思が主体性の仕組みを放棄して彷徨う。それを引き受ける者がいないという事実がいつしか致命的な事態を引き起こし又は外部から呼び込んだりしないだろうか、という危機感を抱きながら引き受けられる自信もない、いや、ひょっとすると、だから、もっと言えば。
 こうして黙り込む筆者はそそくさとその場を後にした。こうして筆者も、かかる表現者の視界に収まる一人になる。



 その表現者が毎年その地を訪問するきっかけになったハワイのボンダンスでは「フクシマオンド」が盆唄として生演奏される。その盆唄の起源となった地は東日本大地震時に発生した福島第一原子力発電所の事故を原因として避難地域に指定された。その事実を知った表現者は福島を訪れるようにもなった。
 岩渕愛(敬称略)の「KIPUKA」を制作するのに用いられた回転式パノラマカメラであるサーカットはマウイ島の日系写真館から借り受けたものであり、葬儀に参加した参列者が棺を取り囲む際の集合写真を撮影するのに用いられたという。このサーカットを手に撮影者が訪れた場所はハワイの各地にある、廃墟となった移民第一世の墓地であり又は避難区域となっているフクシマオンドの故郷の地であったのだがそこで撮られたものの重複に認められる鎮魂の意は、海を超えて踊られるものの手振りだけが連なり、巨大なネガの様に繋げられた作品の存在感と火と水を思わせる色たちとの対比により内声としての音量を最大限にまで引き上げられ、観る側に届く強さを得ていた。
 本展において、「KIPUKA」は最もコンセプチュアルに手掛けられたと作品だと筆者は感じたのだがその土台となるべき象徴の捉え方は実に見事であり、全てを飲み込むハワイ諸島の火山活動が齎すものの功罪を見据え、その背後にある人工物をも射程に収めてシャッターを切っている。その時の死と再生は身の丈に合うまでに引き戻され、祈られた。故にその表現は国境を踏まえた空間的なダイナミズムだけでなく、概念上の石畳みを大きく駆け抜けて汗をかく必死さをもって確かな訴えとなっており、静かな好感を覚えて仕方なかった。本展の受賞者となったのにも納得である。
 しかしながら、筆者が最も感銘を受けたのは瀧本幹也(敬称略)の写真表現であったことを別途、記しておきたい。
 前述したように本展を鑑賞するにあたって筆者は各作品の説明文を読み、後から読み返せるよう許可された写真撮影を忘れずに行っていたのだが余りにも夢中になったせいか、瀧本幹也の展示に関しては写真データとして残っておらず、加えて筆者自身の記憶としても残っていない。記憶力がいいとは決して思っていないが、それでも全く覚えていないというのは精神的動揺を覚える衝撃となって筆者を襲った。少しばかり凹んでいることをここに正直に記す。
 とはいえ、かなり言い訳がましくなるが、それだけ本展で鑑賞できた瀧本幹也の写真作品に夢中になった証左でもあると筆者は強弁する。
 地に足を付けた人の目では早々に拝めない雪山に林立する針葉樹を俯瞰する風景を、恰も鉛筆を手にした人が描く一枚の様に見せる「SNOW MOUNTAIN #5」があったかと思えば、激しい流れで生まれる水滴が、水面から離れゆくその瞬間を最も小さな粒に宿る躍動感で表現した「ISE STREAM」と続き、砂紋と反射が交互する現世のゆらめきと隣り合って祈られるべき物とイメージを組み合わせた「LAND SHINMOE」、「無題」そして「SUEFACE #01」が目の前に鎮座する。
 筆者が何度も往復したこの流れにおいて問われていた(と今も思う)見えるものをより識る見方と、見えないものへの寄り添い方は美しさを知る知性がその身に秘める想像力を引き起こして、それを実践させる動機を引き起こす。だからどの作品にも増してこれらの作品表現は発色する感情群を道連れにできる、故にかかる作品表現に関してはこれからもずっと記憶し続けられると大きな言葉で評価できる。
 埋没は無視に等しいとここでもう一度記せば、かの表現者のものこそそれを免れる。そう信じられる輝きばかりを目にしたのだ。



 大胆を恐れず、またやり過ぎずの狭間で模索される写真表現の未来とその選択肢。これらを無料で堪能できる絶好の機会に与れたことに感謝の意を表したい。

『プリピクテジャパンアワード』

『プリピクテジャパンアワード』

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-01-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted