jazzビッグバンドの想い出
康介の学生時代の想い出。
和田康介は第一次ベビーブーム時の生まれで、学区の小学校に一学年で15クラスもあった時代。
幸い、国立大学の付属小から中学・高校と進んだから一学年には3クラスしかない。
皆、他の市から越境入学をしてくるくらいエリートコースだが、競争社会とはいっても運動系の様に他人との勝負では無く自分が頑張るしかない。
当時は偏差値など無く容赦なく教員室の表の壁に試験の順位がずらっと並べられる。
此れが、小学校当時はのんびりしていたから、5年から勉強をし始めたらクラスで一番。
其れ迄上位独占だった奴らも驚いた様に。
「・・には敵わないよ」
其れでも医者の息子の奴は一浪して東京大に入った。大学時代にそいつは応援団に入ったようで、学生を貸してくれと持って行きおそらく自分の大学のボタンに代えたのだろうが、結局二度と戻って来なかった。
卒業した高校は県下一の進学校だったから、慶應義塾には40~50人程度進学した。
其れで大学に入った当初、遊び相手は高校時代の友人ばかりだった。
高校三年時に、文科系クラスと理科系クラスに別れるから何方かを選択しなければならなかった。
康介は迷った。最初は理科系を選択したが、暫くし文科系に変えて貰った。
それ程迷った理由は、古文は全く勉強する気がしなく当然ながら何も覚えていない。
古文を嫌いな学生は多い。どう言う訳か古文の教員は大人し過ぎ眠くなる。
此の国の言葉なのに、英語のように何段活用とか変化するのが馬鹿らしいような気がした。
化学は理科系クラスでは無いから必要無いと思い手を抜いた。
答案用紙には出鱈目を書いていた。メチルオレンジという物質は実際にあるが、メチルイチゴ・メロン・バナナ・・と、留まるところを知らず。
クラスメイトで、席が列の一番後ろの前後に決まった頃仲が良かった奴がいた。
化学の授業中につまらないからと、ボードゲームをやった事があった。
康太は後ろ向き、奴は前向き・・奴の机に置いてあるボードの駒を、サイコロを振って進める。
どういう訳か相性が良く、ふざけ過ぎた二人だった。化学の教員は、黙々と教科書を読んでいるのだが、真面目だったのかも知れない。
其れでも、ゲームに熱中のあまり奴が駒を進め最悪のスポットに入ってしまった。
「ガ~ン」
でかい声を出せば、クラスメートは勿論の事、真面目な教員にも聞こえたのだから此方を見。
「・・な、何だ・・その赤や黄色や・・青のやつは・・」
教員は確か沢田という名だったが怒ったようだ。其れでも普通なら取り上げるところ何もお咎めは無かった。
化学が面白いのに勉強しなくて損をしたと思ったのは、40年以上後の事。
退職後暇だったから家族で話をしながらチラチラ見ていた、「危険物乙種第四類」という国家資格など一日三十分の6日で取得した時。
慶應義塾の試験は学部によって3科目と4科目に分かれるが、英語さえ90点以上取れば、後は75点でONの字。
化学と古文を避けた事は大きな災いに繋がった。文科系の大学学部を受験する際に、古文が無い大学を選ぶ。
そんな大学はあまり無く、慶應義塾・一橋・東京外語くらいしかない。
結果、国立一期校の一橋の一次試験と、慶応の二次試験の日程が重なってしまった。
慶応は既に一次試験に受かっていたから、無難な方を選んだ。
外語は二期校でずっと後の三月中旬に試験だ。
外語は英米学科が最も難しい。此れは上智の外国学部も同じだ。
其処で、Holland語学科を選択し受かる。が、あれこれ考え、結局、慶応に決めた。
慶応は経済学部も受けたが、此方は四科目で数学も入る。英語は得意だったから、正に慶応向きだった。だが、法学部に。
固い話はそれくらいにし、好きな音楽。
大学二年の夏休みに高校のブラスバンドクラブのリーダーだった前述の奴こと河田から誘いを受けた。
何の誘いかと言えば、ブラバンのOBでjazzのビッグバンドを作り、目指すはS市公会堂での演奏だという。
この友人が化学の授業中にバンカースをやっていた相手。
河田が随分熱心に進めるから、入る事にした。だが、今まで結婚式でエレクトーン・あとはguitar・Hammond・pianoなど・・electricベースをやってくれとの事。
此のBaseは、康介が学生時代の友人と一緒に浅草の質屋を探し周り、BeatlesのマッカトニーのViolin型とそっくりなものを見つけて購入した。
此れが格好だけ良かったがネックが反っているから、弦が浮いてしまっている。
という事は弾きにくく指が痛くなる。
其れでも何とかしなければと思う。結局、康介と、川辺という上智大の学生の後輩で家が有名な楽器屋のせがれの二人はブラスバンドのOBでは無かったが、まあ、一生懸命にやった。
練習はS市と東京でやった。(今は東京大の国際経済の名誉教授で二十年程前は彼方此方のTVに出ていた。)伊藤の口利きで、駒場キャンパスでもやった。
川辺の家が経営していた楽器屋の店は東京にも何か所かあった。
バンドでは、わざわざ、中古のボロボロの軽自動車のバンを購入していた。
其れに康介も乗り川辺の店のスピーカーやらを借りに行った。
途中で、エンジンが止まったりしたが何とか行って来れた。
康介は、本当はエレキギターがやりたかったが、楽器屋の後輩がいるのでは仕方がない。
当時は、pro等では、他人のelectric guitarなどを触ったり弾いたりしたら、殴られるという事もあったくらいで、其れを真似する素人バンドもいた。
川辺は後輩だから少しだけ弾かせて貰えた。練習も楽しかったが、楽譜に忠実に弾くのはあまり好きでは無かったが仕方がない。
曲は、jazzのstandardnumberから、茶色の小瓶やアイリメンバークリフォードなどに、当時流行っていたbrassロック、chaseの黒い炎にChicagointroduction。
memberの前には、ご丁寧に楽譜立てが作ってあり、此れはプロのものに似せて作った。
バンド名は、「Silent hill jazz orchestra」。
memberは、pianoは東京大の先輩で、父が静大の教授である生田さん・dramは河田・electric guitarguitarは川辺・Baseが康介・あとは、trumpetが東京大の伊藤と千葉大の先輩・他にもtromboneがいたような気もするが思い出せない。
全部で約十数名だった様な気がする。河田は康介と親しい悪ガキだったのでメンバーにすぐに打ち解けた。
特筆すべきは、生田先輩のjazzpianoのsoloを聞いた時で驚いた。
ほぼプロ並みに出来上がっている、本物のjazz弾きで格好が良い。
康介が気に掛かったのは、AmplifierがBase用ではないから音が割れてしまう。
まあ、折角練習をしたのだから。音割れが凄かったが。
いよいよ本番。S市の公会堂で、客は主に高校の卒業生が中心だが付随していろいろな人達がチケットを購入してくれ、客席には数百人位入っていたのでは?
緞帳(どんちょう)がまだ開かない時。
緊張しながらも川辺がふざけ「別れの朝」を弾きだす。其れに合わせ康介がBaseを。
幕の向こうの客席から笑い声と歓声が。慌てて河田が笑いながら「やめ・・やめ・・」。
幕が開く時には演奏が始まっていた。案外緊張した。
結婚式などでは、そういう事は無かったのだが何か緊張する。
手のひらが汗で濡れる。何から始めたのか思い出せない。
Chicagoのintroductionはその名の通り、最初だったかな?もう其の時にはAmplifierのvolumeは目一杯に上げているから、ぼこぼこという音が聞こえ、何の音なのか分からないくらい。
アイリメンバ―クリフォードでは、trumpetが立ち上がってsoloを奏でるsceneがある。
お馴染みのスタンダードナンバーだが良い曲で、抒情的。
千葉大の先輩はあまりの緊張の余り、酒を飲んで紛らわせているが音が裏返る事も有った。
客席からは割れんばかりの拍手や歓声が聞けたのだが、アンコールが何だったのかは覚えていない。
あっという間のように思えた。あれだけ練習したのだが。メンバーがなかなか揃わなかったという事もあった。
終了後、客席で、真っ白いsuitを着て来た・・料亭の息子で一浪して慶応に入った先輩に言われる。
「うん、良かったけれどさあ、あのぼこぼこするのは何だったの?」
二度とやる事の無い想い出のstageだった。
数十年後。
東京大出の生田先輩はprofessionalとなり、五木ひろしのバンドでpianoを弾いているそうだ。
こういう事は人生で一度しかない。川辺の家の楽器屋も今は縮小されたようだ。
康介は、今は、作曲・電子鍵盤即興演奏live。楽しかったあの頃を決して忘れてはいない。
jazzビッグバンドの想い出
jazzビッグバンド。