今日から始めるナイトメア
今日から始めるナイトメア
「どこまで走っても、終わりなんてないわよ」
氷を吐くような冷やかな声に足を止めて振り返ると、声色同様、美しくも冷たい光を帯びたような金色の髪を靡かせた可愛らしい少女が立っていた。青いワンピースに白いエプロン、仕上げに大きなリボンの着いたカチューシャ。その少女は、まるで幼い頃から私が憧れていた不思議の国のアリスのような姿をしている。
「こんにちは~。私の名前は春風そよ。十三歳だよぅ。……えっと、キミは誰?」
「あたしはアリス。あんたはよく知っているはずでしょ」
彼女が無感情に淡々と口にした通り、私は『アリス』を知っているので微笑みながら頷く。もっとも私は普段から微笑みを絶やさない女の子と友人から言われるので、最初から笑顔でいたのかもしれないが。そんな私とは正反対に無表情だ。
「ここはどこなのかな~?」
初めて見るような深い森。動物園でも図鑑でも目にしたことがないような、変わった動物達。そして目の前には『アリス』。自ら口にした愚問に失笑してしまう。答えは簡単。
「ここは不思議の国。それも知っているはずよね?」
変わった動物や人達が暮らす、夢と不思議が溢れる憧れの世界。そう、ここは不思議の国に違いない。アリスの服と同じ色をした綺麗な青空が気持良い。
「何よ、その幸せそうな笑顔。滅べばいいのに」
「私はね、アリス。小さい頃から、ずっと不思議の国とキミに憧れてきたの。だから話せて楽しくて楽しくてっ! わんわんっ!」
「それは良かったわね。どういたしまして。……わんわん?」
「わんわんは口癖なの~。気にしないでね」
アリスは首を傾げてヘンテコな生き物を見るような目で見ている。ちょこっとだけ恥ずかしかったので、私の頬は熱くなってきてしまった。
「……変な子。それよりも、あんた。何か忘れてない?」
「何か? えっと、なんだろ。たまーにプールの授業で使った水着を学校に忘れちゃうことはあるけれど。忘れ物の心当たりはないかな~」
「それ、ばっちいわよ。水着くらい、ちゃんと持ち帰って清潔にしなさい」
「忘れ物はね、ちゃんとその日のうちに学校へ取りに戻ってるよぅ~」
「偉いわね。って、そうじゃなくて。あんたが、この世界にいる理由よ」
「この世界にいる理由?」
どうしてだっけ。思い出せない。
「忘れていたとしても無理もないわ。『ここ』はそういう場所だものね」
「不思議の国だもんね。ヘンテコなことが起きるのが普通だよね~」
「ここは『不思議の国』かもしれないけれど、もっと恐ろしい場所よ」
物語の中のアリスも変わった物言いをする女の子だったけれど、こうして会ってみると何を言っているのか、ちょっと分からない。でもそんな言葉遊びに惹かれて私はアリスを好きになった。だから彼女とできる、こんな些細な会話でも嬉しくなってしまうのだ。
何を笑っているのよ、と呆れたような口調でアリスは言った。
「アリスと話せるのが楽しくて~。わんわんっ」
「……それは良かったわね。この太眉ワンコ」
口調と同じように呆れるような表情でそう言ったアリスは、柔らかな風に髪を揺らした後、ほんの一瞬だけ嬉しそうな表情を見せる。しかし、私から目を逸らすと、すぐに無表情に戻ってしまった。そして眉毛が太いのは生まれつきなのでしょうがない。
アリスは話を戻そうとしたのか、咳払いすると私の目を再び強く見つめてくる。
青い瞳。
澄んだ青空のような。彼女の心の空も同じ色をしているのだろうか。
「それで? あんたが、この場所にいる理由は思い出せたのかしら」
「さっぱり思い出せないし、どうでもいいかなって」
「適当ね」
「うん。悩んでもどうしようもないことは、とりあえず忘れる主義なの~」
「だから、そんなに笑顔でいられるのかしら?」
「笑顔が一番だよぅ~。えへへ~」
そう答えるとアリスは苦笑し、面白い子ね、と呟いた。
「あんたみたいな脳天気を相手にしていると、あたしの『仕事』がいつまでも終わらないから特別に教えてあげる」
「何を~?」
「……あんたが、この世界にいる理由よ……っ!」
「あ、ああ~。うん、そうだったね~。なんだろ。教えて~」
「あんたは逃げていたのよ。ずっと必死に」
逃げていた? 誰から? 何から?
首を傾げる私にアリスは、どことなく悲しげな表情を浮かべる。そして無理をして作ったかのような低い声で、この私から、と言った。
「アリスから? なんで?」
「なんでと聞かれても困ってしまうわ。あんたにとって、あたしは『そういう存在』だからとしか答えようがないわね」
そう言って困惑しているように眉をしかめるアリスを見ていると、段々と申し訳ない気持ちになってきてしまう。
「もしかして、私ってアリスを困らせちゃってるの? 私はキミに何か悪いことをしちゃって、それで逃げてたのに理由を忘れてるとか、そういう状況なのかな? とにかく困らせて、ごめんなさい」
謝罪と同時に頭を下げると、アリスは慌てた口調で、顔を上げなさいと言った。
「あんたの名前は、そよ。だっけ? そよに困っているのは確かだけれど、別に悪いことをされた覚えもなければ、謝罪されるいわれもないのよ。『逃げた理由』を思い出してくれれば、それでいい」
「うん。逃げてた理由を思い出せなくて、ごめんね」
「そよは、あたしを見て恐怖を感じて逃げたのよ。でもそれが正常な反応。なのに今は全く平然と接してきている。あんた、精神が鉄か何かでできているんじゃないの?」
綺麗な金色の髪を掻き上げながら、アリスは溜め息混じりにそうぼやく。
「あんたが、あたしにどんな恐怖を感じたか。それを思い出してもらわないと、あたしの『仕事』が終わらないのよねぇ」
「どんなお仕事なのか分からないけれど、私が足を引っ張っちゃってるのかな~」
「この『仕事』をして長いけど、謝られたのも気遣われたのも初めて。あんた、本当に変な子ね……。昔からそんな性格しているの? 疲れない?」
「別に疲れないよ。昔から変な子なのは自覚があるけれど。………………え?」
あれ? 昔から? 私の昔? 過去の私って。
「やっと、恐怖と不安を感じたって顔をしてくれたわね」
「そうだ。思い出したよ。私が怖かったのは―――」
――私、何をずっと怖がってたのか。やっと分かった。大切な夢を諦めるよりも怖いこと。やっと向き合えた。私が怖かったものは――――
「…………っ」
息を詰まらせて、ベッドから勢い良く半身を起こした私は、ここがどこなのか確認するように辺りを見回す。赤地に細い白のチェック柄で統一された家具や内装に満たされた六畳程の個室。エアコンの風にカーテンが小さく揺れている。
「あれ……? アリス? 不思議の国は? ここは……」
ここは紛れもなく私の部屋だった。
「夢かぁ……。ふわぁ……」
私はあくび混じりにそう呟き、今見たばかりの鮮明に覚えている夢を親友とのチャットで使うネタにでもしようかと枕元のスマートフォンと赤いフレームの眼鏡を手に取り、そこに表示された時間を目にし青褪める。眼鏡をかけて見直しても同じ時刻が見える。
「ウソでしょぉー……!? しちじ、ごじゅっぷんんんんっ!?」
私、春風そよは今年の四月一日で十三歳になった中学一年生。明日からみんな大好き夏休みっ。そう、『明日から』はお休みだけれど、今日は学校に行かなければなりません。 ちゃんと終業式に出れば明日からは順風満帆に幸せな夏休みを迎えられる。はずだったのに。困ったことに朝のホームルームは八時から。学校まで歩いて二十分。遅刻したら私の平和な一日が、先生のお叱りから始まっちゃうよぅ~
私は心の中でそう叫ぶと、苦笑しつつ急いで制服に着替え始める。
「私は脳内で一体、誰に自己紹介してたのかなぁ。あはは……。こんなだから夢の中の登場人物にまで変な子呼ばわりされちゃうんだよね~。まあ、いっか。早く着替えよっと」
うちの学校は制服が可愛いと有名だ。私も割と気に入っている。しっかりと胸元のリボンとマフラーを締め、鞄と愛用の眼鏡とストローハットを手に、いざ部屋を飛び出そうとドアを開く。先を急ごうとする足を止めて私はベッドの方へと、ゆっくり振り返る。
「ありがとう、アリス」
私はそう言い残すと、学校へ向かうべく慌てて部屋と玄関を飛び出した。
「遅刻しちゃうぅぅぅぅ」
そう呻きながら必死に真夏の太陽の下を走る私を、背後から情けなく呼ぶ声が聞こえる。
「待って、そよー……! もう間に合わないよ、一緒に遅刻しましょうよー……!」
振り返ると、そこには肩で息をするクラスメートの秋鳥翼が必死の形相で、こちらに向かって手を振りながら走っていた。遅刻仲間に引きずり込まれても困るので、気がつかなかったフリをして疾風の如く走り去りたいところだが、心底残念なことに振り返った時に彼女と目が合ってしまったのだ。
翼とは仲が良いので置いていくのは可哀想だけれど、私も遅刻なんてしたくないし、そもそも遅刻という過失は自己責任。ここで同情して私が足を止めれば叱らなければいけない生徒が一人増えて先生の手間も増加して、とにかく誰も幸せにならない。
ならば結論は一つ。見捨てようっ!
「人違いです~。そよなんて人じゃないよぅ~。急ぐので、これにて失礼~」
白々しくそう言いながら、敬礼のように右手を額にかざすと私は更に足を早める。
「ま、真っ白な髪に、でっかい麦わら帽子、真夏に真っ赤でド派手なマフラーしてる女の子なんて、他にはいないでしょ……!! そよー……!」
「うぐっ……バレちゃったか~。って、派手かな、このマフラー」
「はあはあ……。ちょっと派手だし、真夏にマフラーは目立つかも……? やっと止まってくれた……」
安心したような表情を浮かべると、彼女は走り疲れたのか座り込んでしまった。潤んだ瞳で私を見上げる翼。これでは見捨てて行くのも忍びないので困ったものだ。
翼にも言われたが、私は矢鱈と衆目を集める外見をしている。かと言って特筆して美人というわけでもなく、どちらかというと庶民的で地味な顔つきをしている私なのだが、体毛と肌が生まれつき雪のように白い。そのせいか、どうにも他人からの興味の目を集めてしまう。瞳は無色らしいのだが、血管の色が浮き出ているらしく、うっすらと桜色をしている。そんな私は光を非常に眩しく感じたり、太陽を長時間、浴びていると火傷をしてしまう困った体質を持っていた。それを防ぐために赤いリボンがついたつばの広いストローハット、夏でも長袖の夏服、UVカット100%の眼鏡が必需品なのだ。ちなみにマフラーを着けている理由は他にある。
「見た目は繊細そうなのに……そよって、凄く体力あるよね……。はあはあ……足も早いし、喧嘩も強いし……」
「そうだねー。何かあった時に、自分の身は自分で守りたいっていうか。わんわんっ」
そよは逞しくて羨ましいなあ、と翼はため息混じりに呟いた。
「それより、どうして、よく遅刻してるの? 朝起きられない? 徹夜でネットゲームでもやってるの? ダメだよぅ~。アイテムの課金で、お小遣いを全部使っちゃ」
「ち、違っ……! 夢のために必死に夜遅くまで勉強してるから……」
「夢のために頑張ってたのぅ~? 翼ちゃんの夢って確か」
「うん、アメリカで飛行機パイロットになることなの。小さい頃に見た洋画に出てたパイロットに、ずっと憧れてたんだ。私もあんな風に空を自由に飛びたいなって」
パイロット。現実的なのか難しいのか、そよには判断しかねる夢である。
「アメリカでパイロット免許を取るのは、頑張ればそんなに難しいことじゃないけど、でも私が目指してるのは、特殊なパイロットで……。恥ずかしいから、そよにもどんな夢か秘密だけど……」
「秘密なら無理には聞かないよぅ~」
「ありがとう。パイロットになってアメリカで暮らしたいから、昨日はずっと英語の勉強してたんだ」
そう言えば翼は英語だけは好成績だった。
「夢に向かって本気で頑張ってたなら、しょうがないね~。よーし、翼ちゃん。私の背中おぶさって~」
「せ、背中ー!?」
「まだ遅刻まで五分あるからね~。早く背中に~」
「学園まで一キロはあるよ!? 流石に、私をおんぶして五分で坂道一キロなんて……」
学園は山の上に建っているので、一キロといっても山道を走らなければいけないのだ。
「いいから早く」
私の言葉に、翼は慌てて背中におぶさってきた。七月の尋常じゃなく暑い日に、誰かをおんぶするなんて、これ以上ないくらい暑苦しい。ただでさえ、長袖にマフラーという暑苦しさ全開な格好をしているというのに、これではまるで動くサウナ状態だ。
でも――
「私にも絶対叶えたい夢があるから、夢に向かって頑張ってる子は応援したいし助けたいからね。全力で突っ走るから、しっかり掴まってて~」
「う、うんっ。そよ、ありがとう……!」
「お礼は間に合ってからで……暑――っ!」
翼を背負うと額から汗が垂れてきた。
「ま、マフラー外せば? 持ってようか?」
翼の心惹かれる誘いに、私は首を振って応える。実は私、暑いのは大の苦手なのだ。
「ありがとう。でもね、このマフラーは夢が叶うまで、お風呂以外は外さないって願掛けがしてあるの。願掛けしたのは冬だったから、春には真顔になって夏には萎れるけれど」
親友と交わした、たった一つの約束。一緒に叶えようと誓った二人の夢。その親友に貰った大切な手編みのマフラー。私は、その宝物に願いをこめた。
「本当に暑そうだね……。そのマフラーにこめた、そよの夢って……どんな夢なの?」
「そだねー。夢の階段を私よりずっと先に進んでる親友に追いついて一緒に作品を創ることかな。私がシナリオを創って親友が映像化された作品の主題歌を歌う、そんな夢」
親友の涼はもう人気歌手と言っても過言じゃないくらいになって夢に近づいている。私といえば、小説を何冊か出せているだけの無名作家に過ぎない。
「次は私が追いつく番なの」
涼には夢を諦めかけてしまった時に助けてもらった。だから私も誰かの夢を目指して困ってる人を少しでも助けたい。涼ちゃんみたいに! という志ゆえの行動なので翼を助けるのも善意というよりは、信念、主義によるものなのだ。そう言えば聞こえは良いが、いわゆる自己満足に近い何かのためなのかもしれない。
「翼ちゃんの夢、叶うといいね。でも今度からは遅刻しない程度に頑張ろう~」
私の言葉に翼は途切れそうな細い声で、もう疲れちゃった、と呟いた。
「翼ちゃん?」
「う、うんっ! 遅刻しない程度に頑張る! そよっていつも笑顔だし頼もしいし逞しいから、背中に乗ってるとパイロット気分になれるよ。F-411そよ号、発艦!」
「お~っ。あ、学校見えてきた! きっと間に合うよぅ~」
お受験を越えて入学した、夢と希望に溢れる私立『百合花女子学園』。
そこは私達の通う学び舎。通学に便利な地元の中学校で、いわゆるお嬢様学校だった。お嬢様気分を味わえるかと思っていたら、通っているのは予想外にも普通の女の子ばっかりだのだが。
翼を背負ったまま教室のドアを開いたりと今日の私は普通に登校できなかったけれど。叶えたい夢に向かって頑張って、友達と話して勉強して毎日楽しい。本当に楽しい。
そんな平穏な日々の中で心を抉る正体の分からない不安。ずっと何かが怖かった。その正体が今朝、やっと分かった。
だから、ありがとう。アリス。
「そう。不安をちゃんと形にできたのね。それは良かった」
「えっ? あれ!? ここはっ」
白いレース付きのテーブルクロス。その上にはティーセットに、美味しそうな茶請けのマカロン。綺麗な赤いヒヤシンスが活けられた花瓶。私はそんな長テーブルの上に紅茶の香り漂うポットと並んで寝転がっていた。慌てて上体を起こすと、お皿の上のカップがカチャカチャ揺れる。
「な、なんで!? どうして!? こ、これって、どういうことっ!?」
「こら、錯乱して暴れない。紅茶が溢れるでしょ、滅べばいいのに」
慌てて声の方へと顔を向けると、視線の先にはアリスがいた。彼女は私の横たわっていたテーブルの中央で豪華な椅子に座り、すました顔をしている。深い森の中にある小さな野原。青い空に見たこともない鳥が華麗に歌いながら舞い飛んでいる。
とっても綺麗な場所。
うっとりと周囲を眺めていると私を呼ぶようにアリスが指を鳴らした。
「悪いと思ったけれど今日一日、あんたを観察させてもらったわ」
「こ、こ、ここって! 不思議の国――――!?」
「あんたがそう思っているなら、ここは不思議の国なのでしょうね」
相変わらず、変わった言い回しをするアリス。
やっぱりここは不思議の国に違いないっ。
「いいからテーブルから降りて、椅子でも地面でも良いから座りなさいよ。こっちまで落ち着かなくなるじゃない」
「う、うんっ。ごめん」
私はアリスにペコリと頭を下げると、地面に降りて彼女が座る椅子の横に正座をする。草が生足にちくちくと刺さって、むず痒い。草原らしく緑の良い香りが鼻をかすめる。素敵な場所だなあ。そう感じて微笑んでいると彼女は困ったような顔で私を睨んでくる。
「……椅子に座りなさい。どうして椅子か地面かって二択で地面を選ぶの。なんだか虐待している気分になってくるから止めなさいよ。て言うか、どうして嬉しそうに正座しているの、この子」
「反省の意志を見せようかなってっ。テーブルを乱しちゃってごめんね」
アリスの慌てた反応に私は楽しくなってしまったので、きっと今は微笑みどころか満面の笑みを浮かべているに違いない。お尻を軽く叩き、汚れを落としてから元気良く椅子に腰掛ける私にアリスは、最初からそうしていればいいのよ、と澄ました表情を取り戻しながら言った。
「地面でもいいからっていうのは冗談と言うか言葉遊びと言うか……。それにしても、さっきまで錯乱していたくせに、あっという間に平静さを取り戻したわね。もう余裕の笑みを浮かべているし」
「なんだか、いつも楽しくて~。わんわんっ」
「幸せものね」
「うん、私は幸せに気がつけるようになったから幸せものって自覚はあるよぅ~。夢に向かって頑張れてる毎日が楽しくてしょうがないもん~」
「夢。そう。夢は大切だものね」
私の言葉に微笑みながら、アリスはカップを唇に寄せた。爽やかな風が彼女と私の髪を優しく撫でる。紅茶が注がれたカップへ私もゆっくりと手を伸ばすと、アリスは頷いてくれた。それは飲んでもいいという意思表示だと受け取り、ありがたく紅茶を口に含む。これはダージリンのセカンドフラッシュ。甘さ控えめのストレート。私好みの良い香りがする。
「本当に変な子。あたしを見ても逃げようともしないし。あたしはあんたの恐怖の対象のはずなのにね。まあ今は話をするために会いに来たから、逃げられても困るけど」
「紅茶も美味しいし風も気持ち良いし、素敵な雰囲気だよね~。マカロンも貰っていい? お腹空いちゃった。あー楽しいよぅ~。わんわんっ」
「あんたって本当に脳天気ね。それにマカロンは食べていいわ。それと人の話を聞きなさいよ、このワンコ。どこからツッコミと返事をすればいいのか分からなかったから一気にさせてもらったわよ」
そう言いつつも、アリスはどこか楽しそうに見える。
「そよが、あたしにどんな恐怖を抱いているのか。あたしには分からないけれど、その恐怖をまた忘れていそうね」
「覚えてるよぅ」
その言葉にアリスは片眉を上げながら首を傾げて、疑問一杯といった表情を浮かべた。
「それならどうして逃げないのよ」
「何が怖いのか分からなかったから不安で怖かったけれど、何が怖いのか分かったから。アリスのお陰で、ずっと悩んでた答えがでたの。だから今は怖くない」
「あんたの恐怖って何? 興味が湧いてきたわ」
「戻りたくない過去の自分、かな」
その答えに釈然としなかったのか、アリスは首を傾げ唸り出す。
「ありがとう、アリス」
「何故に、そこでありがとうなのよ、変な子。それで三回目のありがとうよね。どういたしまして」
「紅茶もありがとう、美味しいよぅ」
――この紅茶、やっぱり私が入れたのと同じ味と同じ香りがする。
テーブルにカップを戻すと、そのふちに青い蝶が舞いうように近づき止まった。
「長い間、この『仕事』をしてきたけれど、『怖がらせる対象』に礼を言われるのも初めてなのよね。感謝されたことなんて一回もなかった」
そう言ったアリスは心底嬉しそうに、はにかむように笑う。見とれてしまうような、本当に眩しい笑顔で。まるで不思議の国に広がる青い空の下に咲く、美しい花のような。そんな素敵な微笑み。見ているこちらまで幸せになってくるような、そんな表情を浮かべている。
「な、なにを幸せそうに人の顔見つめているのよ。滅べばいいのに……っ!」
アリスは赤らめた頬を膨らませながら、そうプリプリと怒り出す。可愛らしかったので、つい吹き出してしまうと、彼女はそっぽを向いてしまった。
「ところで、アリス。聞きたいことがあるのだけれど」
「何よ。紅茶のおかわりだったら好きにポットから注ぐといいわ」
「わーい。マカロンも、もっと食べてもいいっ? お腹空いちゃって。わんわんっ」
「しょうがない眉毛犬ね。好きに食べてもらって構わないけど。美味しいのかしら、それ」
「美味しいよぅ~。アリスは食べないの? 食べてみればいいのに」
私はアリスに礼を言うと、マカロンを頬張り紅茶をもう一杯飲み干す。
なんて優雅で素敵な一時なのだろう。紅茶は大好きなので自宅でも毎日のように紅茶葉から入れて飲んでいるが、こんな本格的なティーパーティーに参加した経験はない。不思議の国ならではのマッドティーパーティー。憧れていた世界で飲む紅茶に胸が高鳴ってくる。
「本当に楽しそうねぇ。あんたの笑顔を見ていると、不覚にも和んでくるわ」
「そうかな? ちょっと嬉しいかも。えへへ~」
「あんたは素直で元気で。何よりも変な子ね。話せて楽しかったわ」
「うんっ! 私も楽しかったよぅっ。マカロンと紅茶をごちそうさまでした。って! そうじゃなくてっ」
「えっ? そうじゃないって何が?」
片眉を上げて首を傾げるアリス。それは彼女が疑問一杯になった時のポーズなのかもしれない。
「アリスに聞きたいことっ。紅茶とマカロンの話じゃないよぅ」
「……しっかり飲み食いしてから、それを言うの? 滅べばいいのに……っ」
アリスはその厳しい言葉とは裏腹に、楽しそうに笑ってくれた。このまま友達になれる雰囲気かも。私はなんだか、とても嬉しくなってきてしまった。
「それで、聞きたいことって何かしら」
「うん。アリスの言ってた『仕事』ってなんなのかなーって」
そのことね。アリスはそう呟くと、顎に指を当てて考えこむような素振りを見せる。
「どう話したらいいのかしら。あんた、人の話、ちゃんと聞かなさそうだし。説明しても、ちゃんと理解してくれるか心配」
「一所懸命、頑張って聞くよぅ」
大丈夫かしら、と心配そうに呟くアリスに苦笑しながら、私は宣言通り話を聞くために口を閉じる――が、マカロンをもう一つ食べたくなったので、再び口を開いて美味しいお菓子をその中へと放りこむ。
「一言で言うと、あたしは『悪夢』なのよ」
「あくむ? あくむっていうと、えっと悪夢?」
「そうよ。『悪夢』そのものが、あたしという存在。人間の夢の中に現れては、恐怖を形にする者」
そうなんだ。としか言いようがなかったので私はマカロンを呑み込んでから、そう言った。
「本当に幸せそうに食べるわね。……あんた、ちゃんと聞いているの?」
「うん。アリスが『悪夢』で、人に怖い夢を見せるお仕事をしてるのは理解したよぅ」
「あんた、なんなのその反応。本当に理解しているの? よく分からないからって、適当に流してない?」
そんなことないよぅ~、と言いつつ、新たなマカロンを口に運ぶ。実に美味しいマカロンである。
「この子、何個食べるつもりなの……」
「アリスのことは、実際に怖かったからね。本人が自分を『悪夢』って存在だって言うなら、それは信じる」
紅茶を飲み干し、本当に美味しいーっと感嘆の声を上げる私に微笑むと、アリスはカップに紅茶のおかわりを注いでくれた。
「あんたって、本当の本当に変な子ね。夢の中でもある程度は意識がはっきりしているみたいだし。全力で、あたしと一緒にいる時間を楽しんでいる」
面白いわ。そう言うと彼女はマカロンを指で突き、淋しげに微笑む。
「人間が、本人自身でも理解できない、毎日の言い知れない恐怖や不安。あたし達『悪夢』は、それを文字通り悪夢という形にして見せるの」
言葉を切ると、アリスはカップに口をつける。
どことなく彼女の表情は悲しげに曇ったように見えた。
「そして悪夢を見た人間は、潜在的な恐怖と不安を夢の中で擬似的に体験し、分かりやすい記憶として心の中で処理できる。そういう『仕事』なのよ」
「それで私も抱えてた不安の理由がなんだったのか理解できて、すっきりしたんだね」
「あたしには対象の人間が抱える不安が何なのか分からないまま恐怖を形にして見せるから、そよが何に不安を抱えていたのか、さっぱり分からなくてモヤモヤしているけど」
「私のことはどうでもいいけれど、アリスのしてることって誰かの心を救うためになることだよねっ? 正義のヒロインだよぅ」
私は席を立ち、興奮しつつアリスの両手を掴む。
「私もアリスに助けてもらったもんっ。悪夢ってイヤなものかって思ってたよ。人助けのために頑張ってるんだね~」
アリスは顔全体、そして耳まで赤く染めると、離しなさい! と大声を上げた。
「あたし達『悪夢』は人間のために恐怖を形にしているわけじゃないのよっ……! 自然現象が理由もなく起きているように、『悪夢』も、そういう存在だから『仕事』をしているだけなのっ!」
「うん。それでもほら、良い追い風が吹いて走るのが楽になったら、自然現象にも感謝するよね。少なくても、私は風さん、ありがとー! って心の中で感謝するよぅ~」
「そんな風と同じね。あたし達も人間のために動いているわけじゃないから、心に傷を追わせるような恐怖を見せてしまう場合もある。そして『悪夢』は大概、嫌われてしまうから……」
毎晩見る悪夢に怯えて体調を崩す人達も確かに世界には少なからずいるだろう。
「アリスのお仕事も何となく理解できたよ。キミが『アリス』の姿をしているのは、私の『悪夢』だからなのかな?」
アリスは悲しげな表情で微笑む。
「あんたにとって思い入れの強い偶像だったのでしょうね。本当のアリスじゃなくて、ごめんなさい」
――そして、怖がらせてごめんなさいね。
そう囁くとアリスはテーブルを立ち、私に背を向けた。金色の髪が揺れると同時に優しい香りが漂ってくる。
「でもね、私は助かったよぅ。だから、やっぱり――――」
アリスは徐々にテーブルに座る私から離れていく。
「――やっぱり、ありがとう。だよっ」
「こちらこそ、ありがとう。最後の仕事で、あんたに会えて良かった」
アリスは足を止め、ゆっくりと振り返ると優しい声で、そう言ってくれた。
「最後の仕事……?」
「『悪夢』には人の不安を形にする仕事の他に、もっと大切な仕事があるの」
首を傾げる私にアリスは、やっぱりあんたは面白いわね、と苦笑混じりに囁いた。
「『あいつら』を倒し続けなければいけない。でも、あたしにはその力が残されていないの。だから今日で『悪夢』引退」
「『あいつら』? あいつらって、誰?」
「『夢』よ」
そう言ったアリスには嫌悪の表情が浮かんでいる。
「夢……?」
「人間の持つ『夢』。それの成れの果てかしら」
「それを倒せないと、アリスはどうなっちゃうの?」
「『仕事』を放棄して力尽きた『悪夢』は朝日を浴びると消えてしまうのよ」
アリスが消えてしまう? 戸惑う私に再び背を向けると、アリスはゆっくりと遠ざかっていく。
「そろそろ時間。さようなら、そよ。本当に楽しかったわ」
その言葉を彼女が言い終えた瞬間だった。アリスやテーブル、私の両手、いや、世界の全てを鈍い光が覆い始めたのは。
「アリス! 私に何かできることないかな……っ! 何かお礼がしたいよぅ!」
「あんたみたいな『夢』への強い想いを持っている人間に手伝ってもらえたら、きっと助かることは沢山あるかもしれないけれどね」
辺りの光は強さを増し、私はもうアリスがどこにいるのかさえ分からなくなってしまっている。彼女とこのままお別れになる、そう思うと、何故か悲しいことに思えた。
「自分の夢を大切にして他人の夢も尊重している、そんなあんたには辛い『仕事』だから。手伝って――――のは申し訳――――」
アリスの声は光に呑まれるように途切れ、やがて聞き取れなくなった。
「アリス! 色々ありがとうっ! 紅茶もマカロンも、すんごく美味しかった!」
私の声は彼女に届いたのだろうか。
光に包まれた私は、薄れゆく意識の中でアリスの笑顔を思い描いていた。
「アリス、ありがとうーっ!」
椅子から立ち上がり、そう叫んだ私へと周囲から一斉に視線が集まる。
――ん? あれ? ここってまさか。
ここは不思議の国などではなく、始業式の真っ最中、学校中の生徒や先生が集っている体育館の一角だった。
どうやら始業式の最中に寝てしまい、夢の世界でアリスとお話をしていたらしい。寝ぼけた頭が徐々にすっきりとしてくる程に、現状で晒した恥の大きさを実感し始め、私の頬は熱くなってくる。
「なんて言うか。えっと。寝ぼけてました! ご……ごめんなさい!」
私はその後、巻き起こった生徒達の大爆笑とヤジ、そして先生方の叱責などに笑顔で応えてから、慌てて椅子に腰を下ろした。
夏の茹だるような暑さは、沈みかけた夕陽に染められた真っ赤な世界にも健在で、むしろ茜色の空間は私の赤いマフラーと共に、暑さを更に引き立てるような色彩を広げている。始業式を終え、午前中に自由を得た私はクラスの友人たち数人と共に、一学期終了記念パーティーと称されたカラオケ大会に参加していた。明日から長期休暇とあって、みんな勢い良く羽目を外して歌い続けていたが、流石に七時間も続けて声を張り上げていて疲れたのか、暗くなる前には解散になってしまい友人たちと別れ今に至る。自宅が近く、通学路も殆ど同じの翼と二人、私は夕暮れの住宅街を帰路についていた。
「夏は苦手だよぅ~。わんわんっ」
マフラーを緩め、少しでも涼を取ろうと手をうちわのようにスナップを利かせて、自らの首元に必死に風を送っているのだが、必死に手を動かしているという状態がよろしくないのか、暑さは和らぐどころか更に増してきているような気がする。何事も動けば熱を発生するものだ。あおいで起こる風から得る涼しさと、手を動かして出る発熱量。果たして、この行為は最終的に暑さと涼しさ、どちらが上回るのだろうか。その答えは個人の価値観によるだろうが、少なくても私の感想は――――
「いくらあおいでも暑さが増えていく~」
「本当に暑そうだね、そのマフラー。それなのに今朝は私のために無茶してくれて、ありがとう。本当に暑かったでしょ?」
マフラーは別にしても四十キロはありそうな翼を背負い、五分以内に一キロを走破するという無茶を敢行できた体力は我ながら凄いと思う。
「どういたしまして。明日からは夏休み~。エアコンの利いた涼しい部屋で、ひたすら夢を叶えるために頑張るよぅ~」
「そよはいつでも目を輝かせてキラキラしてるなぁ。眩しいくらいだよ」
「私には世界が綺麗に見えてるから、目が輝いて見えるのかもね~」
――そっか。
翼は消え入りそうな声で、そう呟くと足を止め、俯きながら悲しげに微笑んだ。
「翼?」
「そよ。私の夢は叶わないかもしれないの……」
クラスメートが初めて見せる暗い表情に、私も足を止める。
「他には何もいらないのにっ!」
翼は声を張り上げると何を思ったのか、もと元来た道を突然走りだした。
呆気にとられた私は彼女を呆然と目で追っていると夕陽に視界を遮られ、その姿を見失ってしまった。私は、まるで彼女が茜色に包まれる光の中へ溶けるように消えてしまったかのように錯覚する。急にどうしたのだろう。思い悩んでいる誰かに助けを求められたら、それは全力で相談にも乗るし、できる限りは助けてあげたいとは思う。しかし別に相談されたわけでもない、この状況。走って逃げられては何がなんだか分からない。一人になりたいのかもしれないから、追っかけるのもお節介かと悩むわけで。それに私もやりたいこともやらなきゃいけないことも沢山ある。夢見る乙女は暇じゃないし放って置きたいところだけれども――――
「んー。今朝、夢の話聞いちゃったしなぁ~。夢に関わることは放っておけないかな」
私は軽く息を吐き、夕暮れに消えた友人の後を追い駈け出そうとした刹那、背後に何かの気配を感じ足を止める……つもりだったが足がもつれて、その場に転倒してしまった。身体を庇い、アスファルトの地面に突っ張った両手の平に鈍い痛みが走る。
「うぐっ~……。痛ぁ~……」
膝と両手の平の痛みに耐えながら立ち上がる。手の平は擦り切れ、肌からは血が滲み、徐々に溢れてきた。
――――真っ赤。
じわじわと浸透してくるように増していく痛み。そんな手の平の小さな傷を見つめる私の肩を突然誰かが軽く叩く。
「大丈夫かしら、そよ」
「わぁっ!?」
慌てて振り返ると、そこには。
夕陽を受けて輝く金色の髪。そして青いドレスに白いエプロン。極めつけは、ヘンテコな生き物を見るかのように細めた、その青い瞳。間違いない。この子とは今日、夢の中で出会ったばかりだ。
あの『悪夢』を名乗っていた少女――――
「――アリス?」
「そんなに手の平を凝視してどうしたのよ? 手の平の傷、そんなに痛むのかしら?」
「アリス!? なんで!? なんでここにいるのぉー!?」
「ふふ。相変わらず人の話を聞かない子ね、あんたは。滅べばいいのに。手の傷は大丈夫なのかと質問しているの」
苦笑しつつも、どこか楽しげなアリスに私も笑顔で応える。
「うん、大丈夫っ。私ね、深くて赤い色が大好きだから、ついつい血に見とれちゃった
だけで、傷はそんなに大したことないよぅ~。ありがとっ。わんわんっ」
「そう言えば、あんたのマフラーも深紅。好きな色なのね」
「うんっ。だからね、好きな色を不意に見ると、ついつい見つめちゃうの。部屋もそのカラーリングで統一されてるよぅ~」
「冬は良いけど、この時期は暑さが倍増しそうなカラーリングね」
アリスの言う通り、暖かそうな色彩の私のマフラーや部屋は涼しさの欠片も視覚効果から得られず、悪く言うと実に暑苦しい。返す言葉もなかったので苦笑していると、アリスは私越しに後方へ視線を向け、不快な物を見たかのように眉をひそめた。私の背後に何かあるのだろうか。そう思い振り返えるとアリスは、逃げるわよ、と強い口調で言ってきた。
「え? 逃げる? 何から?」
振り返っても辺りは普段の町並み。逃亡する必要に迫られるような危険は見当たらない。
「いいから。急ぎなさい。困ったことになるわよ」
なんだろう?
そう呟き、私が首を傾げ、瞬きをして目蓋を開いた瞬間だった。
茜色だったはずの風景は姿を消し、空を見上げる私の視界いっぱいには青い空が広がっていた。
「……あれ? 今まで夕方だったよね? なんで?」
まるで青いキャンバスのような空には薄っすらと白い雲が流れ、そこにはいくつもの小さな何かが無秩序に舞い飛んでいる。
「紙飛行機……?」
目を凝らして見ると、それはノートの切れ端で折られたような、いくつもの紙飛行機だった。その不思議な光景はどこか和やかで落ち着くような、そんな印象を受ける。
それにしても、どうして夕方から急に青空に変わったのか。夜を飛ばして朝が来てしまったのだろうか。不自然だが、それ以外はいつもの住宅街、いつもの通学路。紙飛行機が沢山飛んでいること以外は変わったところは何もない。まあ、紙飛行機がわけもなく無数に飛んでいるだけでも充分異常ではあるが。
「広がる速度が予想よりも早かったわね。あいつに呑まれてしまったわ。あんたと、そして、あたしも」
「あいつに呑まれた? どういうこと? 何が起きてるのかな?」
「これが『夢』よ。困ったわね」
「夢? 夢の中なの? もしかして、いつの間にか、また寝ちゃった? そっかぁ~。アリスもいるもんね。ここは夢だ~。不思議の国だ~。マカロンある?」
「ないわよ……っ。あんた、どれだけ腹ペコちゃんなの……」
「お腹空いちゃって。夢で食べたマカロン、美味しかったな~。残念だよぅ~」
アリスは大仰に溜め息をつくと鋭い目つきで空を見上げ、私の手を強く掴んだ。
「隠れて。ここはあんたの夢じゃない。『夢』の中よ」
「ん~。私の夢の中じゃなくて、夢の中? ごめん、よく分かんないかも。どゆこと?」
「ここは、あんたの友達が願い焦がれた『夢』が広げた結界のような空間の中」
「翼ちゃんの?」
翼の夢。それは飛行機パイロットだった。
飛行機?
私は息を飲み、空に浮かぶ無数の紙飛行機をもう一度見上げた。
「でも、ここは現実よ。眠っている時に見る夢の世界ではないの。それにしてもあんた、『夢』の中でも意識がしっかりしているのね」
「うんっ。頭はすっきり冴え渡ってるよぅ。わんわんっ」
「普通、『夢』の空間に呑まれた人間は意識を失うか、文字通り夢を見ているような状態で当たり前のように生活しているか、そのどちらかなのに。まあいいわ、ついて来て」
アリスは私の手を引き、電信柱の影へと身を潜める。
何から隠れようとしているのだろうか。空を見上げながら警戒した様子を見せているので、恐らく紙飛行機から身を隠そうとしているのだろうが、私とアリス二人を隠すには電信柱では少しばかり心許ない。
「確かにアリスの手の暖かさも素敵な香りも現実にしか思えないね。夢であった時よりも、はっきりと良い香りがするよぅ~。わんわんっ」
「ありがとう。って、こらっ! 人の髪をクンクンするんじゃないわよ、この眉毛犬」
叱られた私は叱られた犬のようにキューンと鳴くと、アリスは吹き出してしまった。
「こほん。……面白い子ね、本当に。ところで話を続けても構わないかしら」
「話の腰を折ってごめんね~。説明の続きを、お願いします。わんわんっ」
「ありがとう。壊れかけた『夢』にしがみつき、絶望や死の淵へ向かう人々が歪んだ形で実現させ、実体化したもの。それが『夢』」
「実体化した夢……?」
「そう。度を越した夢への渇望は自分や他人を不幸にするように『夢』は呑み込んだ人間を自分の夢へと巻き込むの」
夢を叶えたいという強い願いは尊いものだとは思うが確かに人は時折、自らの願いのために誰かを犠牲にしたり、絶望し自らの命を絶つ者もいる。
「もしかして、アリスが言ってた倒さなきゃいけない相手って」
「そうよ。『悪夢』は、こうやって現実の世界に産まれた歪んだ『夢』を破壊し、悪夢で終わらせる。それが私達の持つ、もう一つの重要な仕事」
アリスが言葉を切るのと同時に心地良い一陣の風が私の頬を擽った。青空に爽やかな風。朗らかな太陽。不思議と暑さも感じない。いつの間にか汗も引いている。快適そのものだ。しかし、言われてみれば確かに、この空間には、どことなく違和感がある。
――――静かすぎる。
「そよ。質問があるなら余裕があるうちに答えてあげるけど」
「助かるよぅ。そう言えば、逃げようって言ってたよね。ここって危ない場所なの?」
「危ないわね。『夢』には色んな種類があるけれど空間自体の様相すら変えて展開するタイプは呑み込んだ人間を絶対に外へは逃がさない。この『夢』が、そう。どこまで走っても出口はない。『夢』の影響下にある場所へ戻ってきてしまう。死んでも出られないわ」
「それは、ちょこっと困っちゃうね~」
「ちょこっとって、あんた。余裕そうにしているけれど状況を理解していないようね。死ぬまで薄気味悪い紙飛行機が飛んでいる、こんな世界に閉じ込められるかもしれないのよ? もう少し慌てなさいよ」
「アリスの話を全面的に信じるのを前提になるけれど理解してるよぅ~。ヘンテコな空間に閉じ込められて出られないかもしれないんだよね~? でもまだ出血多量で動けないわけでもないし慌てるにはまだ早いよぅ~。緊急事態ほど冷静にならないとっ」
「出血多量って物騒ね。正論だけど、変な子。まぁいいわ。こんな時にピーピー泣き喚いて動揺する面倒くさいガキンチョじゃないのは助かるもの。もっとも、あんたが変な子で普通じゃないから、こうしてわざわざお節介焼きにきたわけだけど」
アリスはそう言うと、掴んでいた私の手を離し優しげに微笑んだ。そんな彼女の素敵な笑顔に、思わず私も満面の笑みで応えてしまった気がする。
「もしかして、私のことを助けにきてくれたの?」
「まあね。そんなところよ」
「変な子で普通じゃないと助けに来てくれるんだね~」
「……そうよ。あんたのこと気に入ったから」
頬を赤くしながら愛らしく、そう言ってくれたアリスに私は丁寧にお辞儀する。
「ありがと、アリス! わんわんっ!」
「どういたしまして、そよ」
照れくさそうにしているアリスを微笑ましく見守りつつも、私は更に質問を続けることにした。
「ねえ、アリス。翼ちゃんは、どうなっちゃったの? このヘンテコな空間を創りだしたのは、あの子なんだよね?」
パイロットになりたいと言っていた翼の壊れかけた『夢』。この空間がそんな悲しいもので満たされているとしたら、あの空を舞う飛行機もどこか悲しげに映る。
「あの翼って子は壊れかけた願いを諦められずに、この『夢』を創りだした。多分、意識を失って自分の『夢』の支配域のどこかで、文字通り『夢』を見ている状態にあるはず」
「危険はないの?」
「危険しかないわよ。放っておけば普通に餓死するわ」
「それなら、なんとかしないとね。えっと。なんとかできるのかな?」
分かってないわね、とアリスは溜め息ながらにそう言った。
「翼って子より、あんたの方がよっぽど危険な状態にあるのに、何をのんきなことを言っているの。『夢』の創造主である彼女は餓死するまで命を失う心配はないけれど、あんたは『夢』に襲われる可能性もあるのよ」
「え? 襲ってくるの? 『夢』って」
「創造主を『夢』は滅多なことじゃ襲わないけれど、外部から来た人間はどういう扱いをされるのか『夢』次第。知り合いの『悪夢』から聞いた話によると、『夢』の中でギロチンにかけられた人間も過去にいるのよ。当然、首が落ちて本当に死ぬわ」
知り合いの『悪夢』? アリス以外にも『悪夢』が存在しているのだろうか。
いや、それよりもギロチンで首を落とされて死ぬのは本当に困るのだが。
「なんだか、すんごく危険な状態にある気がしてきました~。わんわんっ」
「だから、そう言っているじゃない……!」
危機的状況にありながらも元気な私の声に呆れたのか、アリスは何度目かの溜め息を吐きつつも楽しそうに笑ってくれる。
「この空間から抜け出すには『夢』そのものである本体を倒さなければいけない。でも、あんたの夢の中で言った通り、あたしにはもう戦う力が残されていないの。だから『夢』に呑まれる前に助けたかったけれど……」
ごめんなさい、そう言いながら頭を下げるアリスに、私は慌ててしまい両手をバタバタとさせてしまう。
「わわ!? 謝ることなんてないよぅ~!? キミは私を助ける義務も義理もないのに気に入ったって理由だけで、夢の中から現実の世界にまで助けにきてくれたんだよねっ? アリスはやっぱり、正義のヒロインだよぅ~。わんわんっ」
「……正義のヒロイン。止めなさい。あたしはただの『悪夢』よ」
口ではそう言っているものの、アリスはとても嬉しそうな笑顔を見せてくれている。
「『夢』が実体化したら。あたしも実体を持ち、あいつらを倒す。そういう役目なの。でも今は長年生きてきて力を失った。あたしには実体化できても何もできない。そんな、あたしは正義のヒロインなんかじゃない。……ここに一緒に閉じこめられるくらいしかしてあげられない」
「充分だよぅ~っ。もし一人で、こんな空間に迷いこんだら、もっと大慌てだったし何が起きてるかも分からなかったもんね。アリスのお陰で状況はなんとなく掴めたよ。ありがとう」
「……あんたって本当に前向きで、ありがとうを素直に言える良い子ね」
「ありがとうって思ったら、ありがとうって言うのが普通だよね~。私は普通の変な子だよぅ~。わんわんっ」
違いないわね、私の言葉にそう答えて笑うアリスの手を今度は私が優しく掴む。
「この空間からは抜け出せないってアリスは言うけれど、他に何も手がないのなら、歩いてどこまで行けるか試してみようよっ」
「そうね。やれることは何でも試してみましょうか」
「うんっ。一緒に頑張ろうね、アリスっ! わんわん!」
私の元気な声と笑顔に釣られたのか、アリスも微笑みを返してくれる。そんな二人が手を繋ぎ青空の下を楽しげに歩いている姿は、危機的状況下にいると言うより友人同士仲良く買い物にでも出かけるように見えたかもしれない。
「あれ? また、さっきの場所に戻って来ちゃったよぅ~。わんわん」
その角を曲がれば自宅が見えるという所まで歩き進めたのだが、何度試してもその角を曲がる度にアリスと隠れたあの電信柱のある通りに戻ってしまう。
「やっぱりダメね。『夢』の支配域から抜け出すにはどこかに潜んでいる本体を倒すしか手がない。そして支配域は歩きまわった限り四キロメートル四方はありそう。広いわね」
「この青空の下、『夢』の支配域に入っている住宅街の人達全員が私達と同じく、ううん、もっと悪い状況かな? 原因も分からずに一生、この中に閉じ込められちゃうんだよね?」
私の言葉にアリスは無言で頷く。彼女の言う『夢』の本体がどういうものか、正直さっぱり分からない。分からないが、こうなったらもう最後の手段しかないだろう。
「よーし。ここまできたら、やっつけるしかないねっ」
私は覚悟しろーと言い、鞄からペンケースを取り出し、更にその中から半透明の赤い三十センチ定規を引っ張りだす。
「あんた、定規も赤いのね。で、その可愛らしい定規で何をするつもりかしら」
「とりあえず、あの紙飛行機をやっつける!」
私は元気良くそう宣言し、空に浮かぶ紙飛行機に定規を向ける。
「『夢』の本体っていうのをやっつければ、この空間からも抜け出せて、ご町内の皆様も人知れず救えた上に翼ちゃんもお家に帰れるんだよね~?」
「まぁ、ええ。あんたの発した言葉は実現可能かどうかという部分に目を閉じれば、訂正すべき部分は一切ないけれども」
「だよねっ! よーし、頑張ろ~! えいえいお~! 問題は、どうやってあの空に浮かぶ紙飛行機のところに行ってやっつけるか、だよぅ~」
意気込む私とは裏腹に、アリスは盛大に溜め息をつくと私の両肩を鷲掴みにしてきた。何事かと目を白黒する私の肩を彼女は前後に揺らし始める。
「う、うぐっ……!? な、なんで!? 何をす……あわわわわ」
「この眉毛犬……! 前向きで勇敢で何事にも挑戦する姿勢は嫌いじゃないけど、問題は空飛ぶ紙飛行機のところへ行けるかどうかだけじゃないわよね!? そんな定規一つで普通の人間が破壊できるほど『夢』は生易しい物じゃないわよ……!」
アリスが肩から手を離してくれたのだが、目の回った私はその場にペタリと座り込んだ。
「世界が揺れるぅ~。目が回るぅ~」
「……それにあんた、お友達の『夢』にとどめをさせるの?」
「え? どういうこと?」
「実体化した『夢』を壊すっていうことはね、その持ち主の『夢』への希望も願いも全て悪夢で終わらせるということなのよ。自分と他人の夢を尊重するような性格でしょ、そよは。できるの? 人の『夢』を壊すなんて」
「そうだね~」
私は何より自分の夢や願いを大切に生きてきて、そして誰かの夢や想いも尊重してきた。夢に向かって頑張ってる人のキラキラしてる姿が好きだから。そんな人は守りたい。私が夢を諦めけた時、親友の涼ちゃんに助けてもらったように。夢を諦めるのも、ずっと焦がれるのも個人の自由だけれど、頑張るって選択肢を選んだ人の願いを私は尊敬するし尊重する。
「でもね、自分や誰かの命を犠牲にしてまで夢を叶えるのなんて私はおかしいって思う。何より、このままじゃ私の大切な夢まで『夢』に呑まれて終わっちゃう」
人の『夢』を壊す。そんなことしたくないけれど。
「私には絶対に譲れない夢がある。だからやっつけるよ!」
私は手にした心許ない武器を握りしめ、そう力強く叫んだ。髪とマフラーが、そよ風にあおられ音もなく揺れている。
「……そう。それなら一つだけ、『夢』と戦う方法が――」
「とぉーっ!」
私は地面に落ちていた小石を掴み、空へ浮かぶ紙飛行機へ向かって思い切り投げつける。紙飛行機は予想を越えて上空を飛んでいるらしく、石は届かず地面へと落ちると乾いた音を上げて側溝へと転がり落ちていった。
「ちょ、ちょっと!? 何してるのよ、この眉毛犬!? 人の話を聞きなさいよ、滅べばいいのに……!!」
「空にいて戦えないなら向こうから来てもらうしかないよね。挑発してみたよぅ。でも届かなかっ――」
言葉途中で、アリスは徐ろに再び私の両肩を掴み前後に激しく揺さぶってきた。視界が揺れて目が回る上に眼鏡がズレて困る。
「生身の人間が『夢』と戦うなんて不可能よ! 下手したら殺されるわ!」
「他に方法がないならしょうがないよ。ここに閉じ込められてたら、私の未来と夢が終わっちゃう。アリスも言ってたじゃない。やれることは何でも試してみようって。だよね」
その言葉にアリスは小さく頷き、そうね、と答えると同時に私の肩からゆっくりと手を遠ざける。
「どうして、ずっとそんなに笑っていられるの? でもただの脳天気とは違う。現状を把握した上で死を伴う危険に平然と立ち向かっているもの」
「平然なんかじゃないよ。怖くても焦っても逃げたくても、どうしようもない時はどうしょうもないもん。壁にぶつかった時は覚悟を決めなきゃ」
その時、上空を飛ぶ紙飛行機の一つが不規則だった動きを変えて旋回すると、こちらに真っ直ぐ向かって来るのが目に入った。私の投石で気を悪くしたのかもしれない。
「私は私の夢と未来を諦めない。 だから、どんな時だって諦めずに自分にできることをする。それだけっ! 来たよ、アリス。 紙飛行機!」
私の指差す先には大きく旋回する紙飛行機の姿があった。目と鼻の先まで迫られて漸く、その大きさを把握できたのだが、それはセスナ機を三機ほど合わせたような巨体。正直、三十センチ定規で叩いてどうにかなる相手ではないだろう。でも――
「やるだけやってみようか」
ナイフを握るかのように定規を右手に構え、戦意を燃やす私の空いた手をアリスがそっと掴んだ。その手は淡く白い光を放っている。
「……アリス?」
「友達の『夢』を壊す覚悟があるなら、あんたに渡せる武器がある」
「武器? この光がそう?」
その光はアリスの手から私の左手へと移り、白い輝きを増していく。
綺麗。素直にそう思った。
「それは『悪夢』が人間へと託す『夢の衣』。人の夢や願いを形に変えて身に纏い、『悪夢』となって歪んだ『夢』と戦うための力」
夢を纏える? どういうことだろう。首を傾げる私にアリスは優しい目で苦笑する。
「実体化した歪んだ『夢』。それに人間が対抗するなら目には目を歯には歯を。『夢』には夢を。ということよ」
「私も夢を実体化させるってこと?」
「まぁ、簡単に言うとそう。限定的に夢を実体化させて、文字通り『夢』を纏うの。あいつらが暴走している『夢』なら、『夢の衣』により纏うのはね、いわば制御された『夢』。そして、その力はあいつらにとっての『悪夢』になる」
「よく分からないけれど……」
左手の光は輝きを増し続け、少々目が痛くなってきた。不思議と熱さはないのだが、何か心安らぐような感覚を覚える。溢れている光は私の夢そのものなのかもしれない。
「それにしても、凄い輝きね。あんたの夢への想いの強さが窺えるわ」
アリスは感心したように深く息を吐き、予想以上の才能だわ、と呟くと笑みを浮かべる。
「その光を、あんたの想い入れが強い物に……そうね、そのマフラーがいいわ。マフラーに触れて、光を注ぎ込みなさい」
アリスの言葉に頷き、私は大切な夢の象徴を輝く左手でそっと触れる。
その瞬間、光は私の手からマフラーへと移ると輝きを失い、何事も無かったのかのように静まり返った。
「えっと、え? どうしよう?」
「もう、あんたには『悪夢』としての力がある。そして、その力がどんなものかは、あんた自身にしか分からない。あたしにも教えてあげられないのよ。………紙飛行機、来るわよ!」
アリスの言葉通り、再び紙飛行機はこちらに向かい迫っている。音もなく飛ぶその姿は、段々と異様な物に見えてきた。
私の力……か。分かる。親友と交わした約束。不思議の国のアリスのような、ずっと後の世界まで残る物語を紡ぎたい。そんな願い。夢を形に――――
「ナイトメア・ドレスアップ!」
私の想いに呼応したかのようにマフラーは再び光を放つと、両先端が勢い良く伸び始め、私の両手へと巻き付いてきた。慌てる私をよそにマフラーは全身を覆い尽さんと言わんばかりに絡みついてくる。
「な、な、なにこれー!?」
それは一瞬の出来事だった。
瞬きをして目を開いた瞬間、私は黒いタキシードのような上着に丈の短いスカート、黒と白のストライプのニーソックス、両手にはレースで彩られた漆黒の手袋、胸には大きな黒いリボンという、なんだかマジシャンのような衣装を纏っていた。そしてストローハットは大きなシルクハットへと変化し、おまけにマフラーは濡れ羽のカラスの如き漆黒に変色している。
「もしかして私、いわゆる変身をしちゃったのーっ!?」
「そうよ、あんたは今日から『悪夢』の力を持つ人間。『夢』と戦う『ナイトメア』よ」
「ナイトメア? それってつまり、よく分かんないけど、職業名みたいなもの? 魔法少女とか魔法使いとか? 『悪夢』になっちゃったってことかな? わんわんっ」
「『悪夢』は『悪夢』よ。ナイトメアは『悪夢』から与えられた『夢の衣』で『夢』を実体化させて身にまとった人間の総称。あんたの言う通り職業名みたいなものね。魔法少女が職業かは知らないけれど……きゃっ!?」
言葉を遮るようで申し訳ないが、私は無言でアリスを抱きかかえて跳躍し、その場から素早く離れる。その直後、私達が立っていた地点を紙飛行機が空を切り通過した。
「た、助かったわ、ありがとう。あんたへ解説するのに夢中で紙飛行機のこと忘れていたの……」
「だと思った、あはは~」
そうのんきに笑っている私ではあるが、自分が今着地した場所がコンクリートで造られた三階建てのマンションの屋上と気がつき、感嘆の息を漏らしてしまった。
「おぉ~。私ってば、すんごいジャンプ力だよぅ~。どこから跳んできたのか分かんなくなっちゃった。実は方向音痴で。えへへ~」
「何が、えへへよ。のんきな子ね。また来るわ、あの紙飛行機。あいつを倒すには、あんたのナイトメアとしての力が必要よ。あんたには、どんな力があるの?」
「どんな力があるのかって急に言われても。よく分かんないよぅ」
「呼吸の方法を知らない動物がいないのと同じ。自分の力は自分で理解できるはず。それはあんただけの『夢』の形なのだから」
私だけの夢の形。私の夢は小さい頃に大好きだった不思議の国への憧れが消せなくて、そんな世界を作り出したくて、ずっと目指していた作家業。ううん、違うよね。私の夢の原点はまさに不思議の国のアリス。だからこの姿はそうなんだ。この大きな帽子。自分の力。知らないのに知っている。ナイトメアになった瞬間、自分に何ができるのか全て理解した。
そして私は帽子のツバを右手の人差指と親指で軽く掴み持ち上げる。
「フォーム『ハッター』! 私には面白いことができるよ、アリスっ」
そう誇らしげに言い、私は左手を帽子の中へと入れ、何かを掴み一気に引き出す。それはチェッカー柄の大きなシーツを丸めたような布の塊だった。私は帽子を頭に戻し、両手を使い布を空中に広げると、それは大きなベッド並のサイズになる。
「何をする気なのよ。まさかそのバカでっかい布を使って、紙飛行機相手に闘牛の真似事でもするつもり?」
「それも楽しそうだけれど、違うよぅ~。まあ、見ててっ」
私はなんだか段々と楽しくなってしまって、きっと今は満面の笑みを浮かべていることだろう。手にした布をマンションの屋上に向けてゆっくり下ろすと、そこには何もないはずなのに大きな四角い何かに被せたかのように象っている。それはまるで透明なテーブルに布を引いたかのように見えた。
「な、何よ、これ。一体どんな力なのよ」
アリスが驚くのも無理はない。見えないテーブルを覆ったかのような布の上には、いつの間にかティーポットやカップ、そしてお洒落なケーキスタンドには沢山のマカロンがまるで私に食べられるのを待っているかのように微笑んでいた。実際に微笑んでいるわけではないが。
「『ハッター』のマッド・ティーパーティーでございますっ!」
「あんたマジシャンか何かなの? 一瞬でお茶会を開催したわね。このイカれたティーパーティーには、どんな力が?」
「美味しく紅茶を召し上がれるよぅ~。それにマカロン美味しい~! わんわんっ」
「それだけ!? ……この暴食ワンコ! どこまで腹ペコちゃんなのよ……! それに召し上がれるって何その変な日本語は……! どこからツッコめば満足なわけ!?」
「私、燃費悪くて常に何か食べてないと、お腹空いたなーって言い続け始めるからね。それはそれで困ると思うよぅ~、アリス」
そんな私に大きな溜息をつくとアリスは頭を抱えて、座り込んでしまった。
「私の初めてのナイトメアが、こんな天然食いしん坊だなんて……泣けてくるわ」
「呆れさせちゃって、ごめんね。でも私、こんな性格だけれど、今やるべきことは理解してるよ」
――まずは、あの紙飛行機を倒せばいいんだよね。
私はこちらへと三度迫る巨大な紙飛行機へ視線を向けた。そしてマカロンを口に放りこみ、ゆっくりと帽子を持ち上げる。布を取り出したようにその中へ手を入れ、今度は黒いステッキを引っ張り出す。アリスが怪訝な表情で私を見つめていたのだが、その不思議な生き物を見るような彼女が可愛らしくて面白く、つい失笑してしまった。彼女の美しい金色の髪を揺らすイタズラな風が、心地良く私の頬も撫でていく。
「何よ、そのステッキは。ステッキダンスでも披露してくれるのかしら……」
「私のナイトメアとしての名前は七色の風のナイトメア、『クリムゾン』! なんで七色なのにクリムゾンなのって野暮なツッコミは受け付けませんっ!」
私はそう力強く名乗ると、左手に持ったステッキのハンドルを右手でそっと掴む。
「七色の風? ……どういう力なのよ。それより来るわよ、そよ! 紙飛行機!」
「『黒い風』。フォーム『ハッター』」
そう言い終えるのと同時に、私は紙飛行機に向かい勢い良く駆け出す。
「高い所は怖いけれど~」
「そよ!? ちょっと、あんた、考えもなしに突撃しないでよ!?」
「大丈夫だよ」
私は前のめりに身を低くし更に加速すると屋上から飛び出す。そして紙飛行機の下、接触寸でのところを弾丸のように通り抜ける。
「きゃっ。なによ、この突風!? って、あのデカブツ、こっちに突っ込んでくるわよ!?」
アリスの言葉通り、私と紙飛行機がすれ違う瞬間、強い風が巻き起こり辺りの木々や建物の窓を激しく揺らした。私は大通りの車道に着地すると、手にしたステッキに目を向け、大きく息を吐く。黒い刃の仕込み刀。右手のハンドルから伸びる輝く刃を鞘であるステッキの支柱へと納める。
「黒い木枯らし。千枚おろし」
小気味良い金属音と共に納刀した瞬間、紙飛行機は網目状に斬り裂かれ、紙吹雪のように音もなく辺りに舞い落ちた。
「ねえ、アリス~。大丈夫~っ!?」
屋上のアリスへと声をかけると、大丈夫よ、と震える声で返事が戻ってきた。
「悪夢でも怖かったんだね~。アリス可愛い、えへへ~」
そうのんきに構えていると、突然、何かが落下したような音が届いた。
「な、なにごと!?」
どうやら車道近くの植え込みに何かが落ちてきたらしい。なんだろうかと駆け寄り窺うと、そこには大粒の涙を浮かべるアリスの姿があった。
「急いで合流しようと思って飛び降りたのよ……。激しく痛かったわ! 見て、たんこぶ!」
ここよ、ここ! と、彼女は必死に頭を指差すが、髪が邪魔でたんこぶは確認できなかった。
「ちょっと無茶をしてしまったわ……。ああ、痛い」
「怪我で済んで良かったよぅ~。普通の人間なら大怪我してたと思うよ。わんわんっ」
わんわんと吠えている私の頬をアリスは突然掴み、据わった目で睨みつけてきた。
「な、なんで!? ちゃんと紙飛行機やっつけたのに!?」
「……あんたは『夢』のことを、よく知りもしないで考えなしに突っ込むんじゃないわよ。たまたま、うまく倒せたから良いものの、もっと手強い相手だったらどうするのよ。滅べばいいのに」
「ごめんね、アリス。くぅーん……」
悄気げた犬のような声をあげると、アリスはガクっと肩を落とし盛大に溜息を吐いた。
「ふふ、本当にもう、のんきで気が抜けるワンコね、あんたって。一緒にいると暗い気持ちや深刻な空気が一瞬で消し飛ぶわ」
半分呆れているのだろうが、アリスは笑顔でそう言ってくれた。
「えへへ~。ありがとう」
「どういたしまして。それよりどうやって紙飛行機を細切れのクラッカーに変えたのよ。何が起きたのか分からなかったわ。戦う際のアドバイスをするのに必要だから、あんたの能力は把握しておきたいの。教えなさい」
「不思議なテーブルクロスを取り出して、紅茶会できるよぅ~」
「そ、それはどうでもいいのよ。紙飛行機を倒した力を知りたいの」
「えっとね~。このステッキがいわゆる仕込み杖になってて。マンガとかでよくある、すんごい速い居合い抜きみたいに、いっぱーい斬れちゃうの。わんわんっ」
そう説明しながら、私は落ちてきた木の葉を空中で細切れに斬り裂いて見せた。抜刀し納刀するまでに一秒かかっていない。我ながら器用なものだ。地面に散らばった葉っぱを見るとアリスは目を丸くして感嘆の声を上げる。
「凄いじゃない。意外と強そうだわ。これなら『夢』の本体も――」
「アリスっ」
「――倒せるわね。この閉じられた『夢』の空間からも、きっと出られ……」
「アリスっ!」
「何よ。人が希望を見出して浸っていたのに。あたしは人じゃないけど」
「空にいっぱい舞ってる紙飛行機が、全部こっちに向かってきてるよ」
「なんですって!?」
慌てて空を見上げるアリスの視線の先には無数の紙飛行機が徐々に大きくなって近づいてくる様子が見える。
「一機やっつけたら、みんな怒っちゃったみたい」
「そのようね。でも、あいつらは『夢の欠片』でしかない。雑魚よ。本体はどこ――」
『エアクラフトゥアアアアアアアアアアアア!』
虚を突く背後からの叫びと豪快な破壊音にアリスの言葉は遮られる。
「な、なに!? なにごと~!?」
慌てて振り返ると、先ほど二人で立っていた屋上のあるマンションが半壊し、その上には両手を翼のように伸ばした人のような飛行機のような不思議な何かが宙に浮かんでいる。実に珍妙な光景だ。
「『夢』はあのマンションの中に隠れていたのね。あいつの心臓が奏でる夢の音。間違いない、本体よ!」
私達の視線の先、おおよそ地上から五百メートルの位置に浮かぶ奇妙な人のようなもの。肌は金属のように見える。まるでひっくり返った飛行機のパイロット席の辺りが顔で、翼が両腕に見える。足はない。大きさは人間大だが下半身は飛行機そのものだ。
「翼ちゃんの『夢』に違いないね。だってあの子はパイロットになりたかったんだもん」
どうして翼ちゃんの願っていたパイロットの夢が壊れちゃったのか分からない。分からないけれど。
「ごめんね。私もこんなところで人の夢に呑まれて自分の夢を諦めるつもりはないから」
それよりも。
「そ、その形。翼ちゃんの目指してた飛行機パイロットって……まさか……」
『エアクラフトゥアアアアアアアアアアアアアア!』
奇声を上げると『夢』は凄まじい速さで空へ向かって飛んでいってしまった。そして上空で旋回する『彼女』がこちらに向かって何かを撃ち出してくるのが見えるた。
「やっぱり、あれって……」
「み、ミサイルよ!」
「ウソでしょぉーっ!? 翼ちゃんが目指してたのって、米軍戦闘機パイロットぉ……!?」
『夢』とミサイルに慌てて背を向け、私はアリスを抱きかかえると必死に駆け出す。
なんとか直撃は避けられたものの背後数百メートルに着弾したミサイルの爆風で私とアリスは近くの民家の壁を貫き、家屋内へと転がりこんでしまった。
「あたた……怪我ない? 大丈夫かな、アリス」
「あたしは平気よ……そよが庇ってくれたから……」
胸に抱きかかえていたアリスが赤面しながら、そう言った。私は覆い被さる瓦礫や崩れた天井を立ち上がりながら背中で軽々と押しのける。木材が折れる小気味良い音が聞こえた。
「そよ……血が」
血? ほんとだ。額からかな。綺麗な色。って、見とれてる場合じゃないっ。
「こんなの大したことないよ。私、すんごく頑丈になったみたいだからね~」
「ナイトメアによって個人差はあるけど、そよはどうやらかなり強い部類に入りそうね」
「夢への想いが強いからかな~?」
「そうかもね。でも予想していたより、あの『夢』は手強いわ。あんな速さで飛ばれたら、どうしようもないじゃない」
アリスは一層頬を赤く染め私から目を逸らすと、それよりも、と呟いた。
「だ、抱きしめられたままは照れくさいわね」
「え? そう? えへへ~。アリスのことは私が守るからね~」
私はアリスを胸に抱いたまま、左手に離さず握りしめていたステッキのハンドルに手をかける。周りを覆っていた瓦礫や家屋だった残骸は斬り刻まれ、辺りは埃に包まれる。
「げほげほっ!? 全く、またこんな無茶を……! それにしても、あんたって瓦礫の下敷きになっても、ほとんど笑顔も崩さないし本当にどれだけメンタルが強いのよ……」
「驚いただけで慌ててないからだよぅ~」
埃の切れ間から見える空には、すぐそこまで迫るの紙飛行機の群れ。そして『夢』が放つ新たなミサイル。それを目にし、私はステッキから手を離す。
「それとごめんね、アリス」
「何が?……きゃあ!?」
私はアリスを思い切り前方の空中へと投げ飛ばし、走りながら黒いマフラーを一気に首から取り外す。するとその刹那、『ハッター』の姿は消え去り、私は制服姿に戻る。
「フォームチェンジ『白兎』」
その言葉に呼応するかのように黒かったマフラーは輝くと瞬時に白色に変化した。手際良く白くなったマフラーを首に巻きつけると、『ハッター』に変身した時のように私は見慣れない衣装を纏う姿へと変じた。
「『白い風』。フォーム『ホワイト・ラビット』」
全身純白のロリータ風衣装。スカートは膨らみ、その下にはパニエ。首には真っ白なマフラー、そしてニーソックス。全身レースまみれだ。そして不思議なことに衣装だけではなく、今度は髪型も変化している。左右の髪の一部がツインテールのように伸び、垂れた大きな兎の耳のようになっている。帽子は消えてしまった。
「兎の脚力、見せてあげるよぅっ! わんわんっ」
兎の姿なのにわんわんと鳴くのもなんだかなぁと思い、つい苦笑してしまいつつも、迫る新たなミサイルを横目に、私はアスファルトを蹴るように力強く跳び上がると、先ほど放り投げた落下途中のアリスを空中で抱きとめる。奇しくもお姫様を抱える王子様のような形になってしまった。
アリスは私と違ってお姫様っぽいし、似合ってるかも。
後方で鳴り響く耳を裂くような爆発音の中、のんきなことを考えている私の腕の中でアリスは必死にもがき始める。
「にゃ、にゃんてことをするのよ、この、ま、ま、眉毛犬!! 眉毛兎かしら……?」
「フォームを変えるには両手が塞がってたらできないからね~」
「な、なにそれ。うぅ、お姫様抱っこなんてしないでよ。恥ずかしいでしょう……。って、それより行動に出る前に先に作戦概要を聞かせなさ――」
「とりあえず紙飛行機を振り切るよぅ。舌噛むといけないから口閉じてて」
アリスの答えを待たずに私は全力で駆け出すと風景が凄まじい勢いで流れていく。
「『ホワイト・ラビット』は脚力を活かした高速移動が持ち味なの~」
「まるで宙を駆けているかのように見えるけれど……」
「二回まで何もない宙を足場にジャンプできるの。ぴょんぴょんって。兎三段ジャンプって感じかな~」
地上に足を着ければ三段ジャンプは再び使えるようになる。ビルも飛び越えられる自信がある。
「それにこんなに速く走っているのに呼吸が苦しくないわ。顔に当たる風も穏やか」
「『風』は私の味方だからね~。向かい風だって優しくしてくれるのっ。多分そういう力だよぅ~」
私は空を見上げ、紙飛行機を振り切ったことを確認するとアリスを適当なアパートの一階におろし、隠れているように伝えた。
「これでしばらくはアリスが紙飛行機に襲われる心配はないかな。『夢』も私達のことを見失ってくれたみたい」
この姿は高速で移動できるけれど、あの『夢』はもっと速い。戦闘機の形をしてるなら、音速で動けるのかもしれない。いつまでも逃げきれないと思う。だったら――
「どうする気……? そよ」
「やっつけてくるよ」
「……無理よ! あの速さじゃない。何か作戦を立てましょう」
「作戦なら立てたし、あの子の速さはもう見たから大丈夫っ」
でも……。そう逡巡するアリスに私は笑顔で応える。
「私が大丈夫って言ったら大体は大丈夫だから、大丈夫だよ」
「助けにきたつもりだったのに……何もできなくてごめんなさい」
「そんなことないよ。アリスがいなかったら、私は何が起きてるのかさえ知らないまま、この『夢』に呑まれて死んじゃったかもしれないんだよね」
そう。見ず知らずに等しい私のために。気に入ってくれたからと言って助けに来てくれた。どんな理由でも良い。相手に恩を着せずに誰かを助けようとできる人を私は尊敬する。親友の涼ちゃんが私を救ってくれたように。そんな風に誰かに優しさを伝えられる人なら守りたいと思う。
「待ってて、すぐ終わらせてくるから」
精一杯の優しい声と笑顔で、そう言い残し私はその場を走り去った。
大通りから外れた閑静な住宅街。『夢』に呑み込まれたこの場所は閑静どころか音一つしない状態だった。しかし、今は空を行く『夢』から溢れ出すエンジン音のような爆音に包まれていた。兎のように聴力が上がっている今の私には激しく耳障りでもある。
ここは本来、平凡な日常が流れて、夕暮れ時には家族のために夕食の支度をしたり、明日の仕事や学校の些細な悩みに頭を抱えるような人々が暮らしていたはずの平穏な空間。
「やっぱり、自分の『夢』のために誰かの命まで犠牲にするなんて間違ってる。少なくとも私はそう思うよぅ、翼ちゃん」
地を走り回っている私に気がついたのか、『夢』はこちらへと機首を向けた。
「勝負は一瞬、かなっ」
私はスカートのポケットから白銀の懐中時計を取り出し、蓋に指をかける。
「キミの夢。悪夢で終わらせてあげる。覚悟してねっ」
上空からミサイルが放たれるのと同時に、私は時計の蓋を開く。
「白い疾風。懐中時計」
この時計は開いた瞬間から長針が一周回るまでの間、つまり六十秒間だけ私の時間を慌てさせ、急かしてくれる。つまり――。
「――加速っ!」
それでもあの戦闘機の速さには届かないかもしれない。でも進路を予測して跳べば近づくことはできる。最初の跳躍で街を見下ろせる高さまで上昇した私はもう一度空を蹴り、再度跳び上がる。すっかり忘れていたが、私は実のところ高所恐怖症だったので本来ならこんな高い場所にいると震え上がってしまう。正直、マンションの屋上から飛び降りたのも本来なら想像しただけで恐ろしい。しかし戦いの中における興奮がアドレナリンを分泌し恐怖を和らげ…………
「って、そんなことはどうでもいいよぅっ! それより『夢』をやっつけなきゃ。高いところは怖いけれどっ」
最後のジャンプ!
「とどけええええええええ」
高度は充分だったが、予想よりも相手の速度が速く私の蹴りは豪快な空振りとなって空を切るに留まった。
いやぁ、私は算数苦手だから計算とか無理なので適当に感覚でタイミング合わせてみようと思ったけれど、やっぱり失敗しちゃったね。えへへ~。
「でも、射程内だよ、翼ちゃん」
私はマフラーを外しながら、そう囁いた。
「フォームチェンジ『ハートの女王』!」
右手から、錨を繋ぐような太く赤く染まった長い鎖が『夢』の進む先へ向かって一直線に伸びていく。その先には刃のないギロチンのような巨大な装置がついており、彼女の首を捉え固定する。銛を穿たれた魚のように『夢』は空でその身をくねらせ、もがき続けながらも彼女は飛び続けようと試みるが鎖とギロチン台の重みに耐え切れず、高度は急激に下がっていく。引っ張られるように空を滑べる私の姿は、まるで水上スキーならぬ空中スキーを楽しんでいるようにも見えるだろう。割とどんな状況でも楽しめる私ではあるが、高いところは怖いので今回ばかりは恐怖を感じてしまう。
「捕まえたよ、翼ちゃん!」
白かったマフラーは真紅に染まっており、私はトランプの女王をモチーフにしたような真っ赤なドレス、王冠のようなフード、そして血のような赤いマフラー、更には髪が伸び、くるくるとカールヘアーの姿に変じていた。左腕には鎖が五本巻きつき、金属が擦れる音を奏でていた。その鎖は腕から長く長く伸び、先端にはギロチンのような斜めに造られた刃がそれぞれ括られている。そして鎖に繋がった五つの刃を私と『夢』の周囲を、迷うように飛び続けている巨大紙飛行機達に向けて投げるように飛ばす。それぞれの刃は紙飛行機達を貫き、鎖で巻き取る。その紙飛行機が私の落下速度を和らげる役割を果たしてくれる。はずだった。それでも墜落する『夢』の勢いには勝てず紙飛行機達ごと私は引っ張られていく。
ウソでしょぉー……。これは痛そうだなぁ。歯を食いしばって我慢するしかないか~。だから高いところは苦手なんだよぅ~。
迫り来るアスファルトの道を眺めながら私は覚悟を決めていた。結局、地面に激しく体を打ちつけ、しばらく引きずられる羽目にはなったが想像していたよりも苦痛は少なく、体も特に重症を負った気配はない。紙飛行機がパラシュートの役割を多少は果たしてくれていたようだ。
「いたたたた……。右足首捻挫くらいで済んだかなあ。ナイトメアじゃなかったら三億回は死んでたよぅ」
その時、安堵の息を漏らす私の視界の隅に青いドレスを着た少女の姿が入った。
「あ。アリス~。無事で良かった、わんわんっ」
「やっと見つけたわ、そよ! て言うか、無事で良かったは、こっちのセリフよ。……あんたボロボロじゃない! 滅べばいいのに!」
「滅んで欲しいのか心配してくれてるのか、よく分からないけれど『夢』は捕まえたよ」
首を固定された『夢』は必死に抜けだそうと身をよじるが脱出は叶わず、ただギロチン台を揺らすだけだった。私のギロチンは捕獲した相手の力を封じて、ほぼ無抵抗化できる。あの『夢』はもう、やぶれかぶれでミサイルも撃てやしない。
「あんた、また姿が変わっているわね。いくつの姿と力を持っているの……?」
「七つかな。『七色の風』のナイトメアだから」
「なるほどね。それでそのなんだか悪そうな姿はどんな力を持っているの?」
「わ、悪そうって」
血の色をした禍々しい刃やギロチン台が先端についたゴツい鎖が両手に絡み合い、服も髪も血を連想するような深い赤。言われてみると我ながら実に悪そうな姿をしている。
「これは『赤い風』のフォーム『クイーン・オブ・ハート』。今、使えるフォームで一番強い姿だよぅ~」
確かに強そうね、とアリスは頷きながら眉を細めた。
「刃物がついた鎖がジャラジャラしていてなんだか凶悪そうだわ。何よ、あのギロチン台。あんな巨大な物振り回せるの? ていうか最初から、その姿に変身していればよかったじゃない」
「このフォームは強いけれど、武器が見ての通り重くて歩くので精一杯なの。鎖が伸びる距離にも限界はあるし、飛行機に近づけなきゃ強くても意味がないよね。それにあんな速い相手に攻撃を当てるのだって進路を予測してギロチン台投げなきゃいけないし大変なんだよぅ」
「色々考えているのね、眉毛犬のくせに。やっぱり猟犬なのかしら、この子」
アリスはそう呟きながら、処刑台に晒されている『夢』へと近づいていく。
「これってギロチンよね。刃がついてないけど」
右腕から伸びる鎖の先にあるギロチン台にはアリスの言う通り刃がついてはいない。首を落とすための刃は左腕の鎖の先に五つある。五本の鎖の先には絡め取られた紙飛行機達が、それぞれ落下の衝撃と大きなギロチンの刃に貫かれ無残な姿に変わっていた。
「ギロチンの刃はこれからつけるよぅ~」
私は袖から三枚のトランプを取り出し、地面に向かって投げつける。アスファルトに刺さったトランプは徐々に大きくなり、やがて大人ほどの大きさまで成長し、頭と手足まで生えてきた。その姿はまるで不思議の国にいるトランプの兵士のようだ。
「ハートのエイト、及びにセブン、ナイン。ギロチンに刃を取りつけ~」
三体のトランプ兵士は私に一礼すると、刃のほうへと頼りない足取りで向かって行く。
「不思議の国のアリスにギロチンは出てこないんだけれどね。作中でハートの女王が具体的に何を使って首を落とせと命じたのか書かれてないの」
そうなのね、とアリスは髪をかき上げながら私の言葉に相槌を打つ。すると、さらさらと指の間を流れる彼女の髪から、小さな宝石にも見える輝く青い光の粒子のようなものが漂い出す。
なんだろう。綺麗――
「それなら、どうしてギロチンなんて物騒なもの使っているのよ」
アリスの問いで私は意識を現実に戻された。刹那の間に消えてしまった火花のような青い光に心を奪われていたようだ。
「うん。なんでだろね~。小さい頃、ギロチンにかけたかった人でもいたのかも?」
「……そんな爽やかな笑顔で物騒な発言をされても反応に困るわ。あんたって本当に変な子ね。記録的変人よ」
「変な子だって自覚はあるよぅ。……あ、ギロチンの準備できたみたい~。兵隊さんたち、ご苦労様でしたっ!」
トランプ兵は私に再び一礼すると元のカードに戻り、舞いながら地面へと落ちていった。私はそのカードを拾って袖にしまうとギロチンへと視線を向ける。
「あの『夢』を壊しちゃって本当に翼ちゃんは大丈夫なのかな。作り出した本人の首も落ちたりしない? やだよ、もう人の命を奪うのは」
「心配いらないわ。『夢』はあくまで『夢』であって翼本人じゃないから」
「そっか。それなら質問を変えるね。『夢』を壊して、それで翼ちゃんが受ける影響を全部教えて欲しいかも~」
「あんたって適当に脳天気全開で生きているように見えて、契約書や利用規約を隅々まで読むタイプなわけ?」
「几帳面さには縁がないよぅ。でも自分の夢と命を守るために翼ちゃんの『夢』を壊すって決めたから、その影響であの子に何が起きようとも私は躊躇わないけれど、何が起きるのかは知っておきたい」
「自分のためにって言い切る辺り、自らの行動を誰かのせいにしない潔さを感じたわ。好感を持てる」
「い、潔さ? そ、そうかなっ。意外と冷たいのね~とか、眉毛犬のくせに冷静よね~とか言われるのかと思ったよぅ」
「あんたがどんな状況でも冷静なのは、もう充分に見せてもらったからいいのよ。それより――」
アリスは言葉を切ると、悲しげな眼差し私を見つめてくる。
「『夢』を壊しても創造主への影響は、願っていた夢を文字通り壊されるだけ。諦めなければいけない状況で夢を諦めきれずに絶望して死を選んだりすることはなくなるわ。でも夢への渇望も願いも全て壊れて失うの」
「そうなんだね~。わんわんっ」
「……この子の夢を応援したいって言っていたわよね。今も笑顔で明るく振る舞っているけど、本当は『夢』を壊すのは嫌でしょう……?」
誰かの夢を壊す。
そんなの嫌に決まってる。
私も散々、小さい頃から自分の夢や憧れを両親からバカにされて何回も諦めかけてきた。それでも諦めずに頑張って頑張って頑張って、なのに結局、他人に夢を壊されかけたことだってある。そんな時に手を差し伸べてくれて私の夢を守ってくれた人がいて。だから私も誰かの夢を守る側になりたいって強く願った。それなのに。
でもね、だからこそ街の人を守るためだとか、翼ちゃんの命を救うためだとか言い訳はしない。翼ちゃんの『夢』を壊してその願いを『悪夢』で終わらせるのは私自身のため。誰のせいでもない。自分の選択は全て自分の責任だから。
潔さじゃない。それは私の信念と生き方。だからね、アリス――
「――私は大丈夫だよ」
「そよ……」
「でも『夢』を壊すのは本当に悲しい仕事だね」
「だから、この仕事をやめたのよ、あたしは……」
そう言うとアリスは宝石のような一筋の涙を、その瞳から零れ落とした。
『夢』について語っていたアリスは嫌悪感一杯といった表情をしている。でも、きっとそれは『夢』自体への嫌悪ではなく、それを壊さなければいけない自分の運命への呪いだったのだろう。
「あんたにもこんなことは……させたくなかった」
「アリスが優しい『悪夢』なのは分かってるよ」
私はゆっくりとギロチン台へと近づきながら、そう呟いた。
「あたしは『悪夢』よ。優しくなんてないわ……」
掠れる声でそう言ったアリスに私は笑顔で応え、大きなギロチン台へと顔を向けた。そこには首を固定されてもがく戦闘機のような『夢』がいる。
「翼ちゃんは、こんな物を作り出しちゃうくらい本気で夢を追いかけてたってことだよね。私と同じだ」
まだ諦めずに必死にもがくその姿は、夢を諦めないで必死に頑張る翼の想いを強く感じてしまい心が軋む。
「私は夢や願いに向かって真剣に頑張ってる人は好き。前向きに生きようとしてる人が大好き。だってわたしが前を向いて夢に頑張るのが大好きだから」
今となっては原因や理由はどうでもいいけれど、きっと翼ちゃんも頑張ってるだけじゃダメな壁にぶつかっちゃったんだね。それで諦めなくちゃいけない現実に夢と心が壊れかけちゃったのかな。
「私は私の夢と未来を諦めない」
そう強い口調で言い放ち、私はギロチン台についているレースや装飾で彩られたレバーに手を伸ばす。
「さようなら、翼ちゃんの『夢』。新しい夢が見つかるといいね」
「ここが、あんたの家? お洒落で綺麗な一軒家ね」
「そうだよぅ~。新築二階建てなの。ありがとっ」
戦闘機の『夢』が広げた不思議な空間に閉じ込められていた住宅街。その中にある五十坪ほどの土地に建つ、新築四年の我が家。アリスはどうやら気に入ってくれたらしい。
しかし、そのアリスは浮かない顔をしている。
「うん? 真っ青な顔してどうしたのかな~? アリスの服とそっくりな色」
「顔色がそんなに青くなるわけない……いえ、それよりも。何となくここまで、ついて来てしまったけど……あたし、そろそろ夢の世界へ戻ろうかしら」
「え? そんな~。この後、どうしても外せない用事がないなら今日は泊まっていって欲しいよぅ~っ。わんわんっ」
「それは構わないけれど……」
そう小声で言ったアリスは両手に持っている買い物袋を交互に見やりながら、それは構わないけれどと、もう一度呟いた。
「自宅も大きいし、スーパーでこんなに買い物したくらいだもの。大家族なのよね? あ、あたしその…………」
アリスは頬を赤くし、気まずそうに私から目を逸らす。
どうしたんだろう。あー。そっか。もしかして。
「私の家族に会うのが不安で緊張してるのかな? アリスってやっぱり人見知りなの?」
「や、やかましいわね! あたしは夢の世界の外で人間と話すのに慣れていないのよ!」
彼女はそう声を張り上げると頬を膨らまし、顔全体を赤く染めていった。
「なんだか、ちっちゃい子みたいで可愛いよぅ~。えへへ~」
「ば、バカにしているの!? ……眉毛犬のくせに!」
「バカにしてないけれども。それに安心してアリス。私は一人暮らしだから」
「一人暮らし? こんな大きな家に?」
「そうだよぅ~。いっぱい買いだめしたのも、こまめにスーパーに行くのが面倒くさいからなの。だから遠慮しないでいいからね。入った入った~」
私は玄関のドアを開くとアリスの手を引き、家の中へと招き入れた。
「春風家のリビング兼、私の仕事場へようこそアリス~」
「な……。なんなのよ、この目に悪そうな部屋は……!?」
アリスが驚くのは無理もないかもしれない。と言うか招いた友人は大体同じような反応をする。なにせ私の自宅内にある家具や調度品、カーペットやシーツ、スリッパや日用雑貨に至るまで、全て真紅に染まっているのだ。室内で育てているヒヤシンスの花弁すらも赤い。
「パソコンまで赤いわ! ティッシュの紙まで!? 鼻をかんだら赤くなってしまいそう! 部屋の内装も赤いと聞いていたけれど、予想以上に赤い……」
「大丈夫。それなりに良いお値段するティッシュだから色移りなんてしないよぅ~。後で試してみて。お鼻に優しいソフトな肌触りだから~」
「頭がクラクラしてきたわ。凄まじい家に住んでいるわね……。外から見ると普通の少し豪華な一軒家なのに。今朝、あんたの夢の世界から、こちらの世界の様子を見ていた時は気が付かなかったわ。『外』は白黒に見えるから」
「私の夢の中にずっといたってことだよね。私が目を覚ました後も不思議の国みたいな、あの場所にいたのかな~?」
「そうよ。外の様子はあんたの視覚や聴覚から得る情報をおすそ分けしてもらっていたと言えば分かりやすいかしら」
「よく分からないけど、分かったよぅ~」
「それにしても部屋中、真っ赤で同じ色の家具が保護色になっているわね。……痛いッ!? 足がー!」
悲痛な声を上げたアリスは、どうやら床に置きっぱなしになっていた掃除機に足をぶつけてしまったらしい。実のところ私は部屋の片付けが苦手な方で物を床に積み上げたり出しっぱなしにしてしまう傾向にある。治さなければいけないと思っている悪い癖だが、どうにも治りそうにない。
「この真っ赤な掃除機……! 床の赤に溶け込んで全く気が付かなかったわよ……!? 見なさいよ、ここ! ここぶつけちゃったのよ、小指……! バカー!」
「赤色の濃さで絶妙な差別化を図っているから、よく見ると壁紙やカーペット、それにフローリング、日用品やソファーも全部色が違うんだよぅ~」
「絶妙すぎて、春風家初心者のあたしには区別がつかないわよ、滅べばいいのに……!」
「アリスって感情豊かで一緒にいて楽しいなぁ。可愛いよぅ、わんわんっ」
私のその言葉に彼女は目を丸くし、赤面すると頬を膨らませる。
「な、なによ、それ。意味が分からない……」
「最初に夢の世界で出会った時、アリスは昔の私と似てるって思ってたよぅ。だから怖かったの~」
「昔の自分が恐怖の対象だったの?」
「うんっ。二度と戻りたくない過去かなっ。でもアリスは昔の私とは似ても似つかない、とっても可愛い女の子だよぅ~。わんわんっ」
「あ、ありがとう。最初はあんたの恐怖の対象を演じていたけど、今は口調だけ借りているだけで性格は……あたしの素っていうか。…………あれ?」
首を傾げるアリスに私はどうしたのかと尋ねる。
「『悪夢』はターゲットが持つ恐怖や不安が潜む深層心理から色々なデータを吸い出して、恐怖の対象になるわけよ。どんなデータかは扱う『悪夢』にもよく分からないけれど。そよにとって昔の自分自身が恐怖の対象なら今のあたしは模倣しているわけなのよ、過去のあんたの口調を。……以前は、こんな喋り方だったわけ?」
「うん、そうだよぅ。わんわんっ。意外?」
うーむと唸りながら指を顎に当て、思案するような所作をとるアリスに私は微笑みかける。
「な、なに?」
「バニラアイスって知ってる? お夕飯の前に一緒に食べない? ちょうど二つ冷蔵庫に買い置きしてあるんだ~。私ったら、またお腹空いちゃって、わんわんっ」
「おっ…………お」
スプーンを片手に、空いた手で自らの頬を抑えながら妙な声を出すアリスを私は微笑ましい生き物を見るような目で見つめているだろう。真っ赤なソファーに仲良く並んで座っている私達は赤いガラステーブルの上に置いたバニラアイスをスプーンで突いている。
「おっ、美味しいわ! なによ、これ! 食べ物って美味しいのね! 夢の世界の食べ物は味がしないのよ! だって夢を見ている人間は味を知っているから脳が夢の中で味を認識するけど、あたしは食べ物なんて食べたことないから味を知らないもの! 味って凄いわ! 偉大!」
バニラアイスが余程お気に召したのか、アリスは味という言葉を何度も繰り返し口にしている。その様子から察するに食べ物自体を口にしたのが初めてのようだ。そんな彼女は、あっという間にアイス一つを平らげてしまった。
「なんて美味しいのかしら。これが美味しいという感覚なのね」
空っぽのアイスの器を見つめながらアリスはうっとりとそう言った。そしてまだ一口しか食べていない私のアイスを見つめながら、もじもじとし始めた。
なんだろう、この子。本当に可愛いなぁ。
「もっと欲しいのかな~?」
その言葉に慌てて一所懸命首を振るアリスに、私は笑顔で応えアイスを手渡す。
「食べかけで良ければどうぞ~。美味しいよね、バニラアイス」
「え!? いいの? でも、そよの分が……」
「別にいいよぅ~。アリスはアイス食べるの初めてだもん。幸せそうに食べる姿を見てたら、お腹いっぱいに――」
そう言いかけた瞬間、空気の読めない私の胃袋は、ぐぅう~と情けない音を上げてバニラアイスを渇望した。
「――お腹いっぱいになった気がしたけれど、なってませんでした」
「腹ペコちゃんのくせに無理しなくてもいいのよ。ありがとう。優しいのね」
「えへへ~。それなら、はんぶんっこ。アリス、スプーン貸して」
アリスから受け取ったスプーンでアイスを半分に分けながら、私は横目で彼女の表情を見る。
楽しそうで嬉しそうな表情。綺麗な顔立ち。でも、この子は人間じゃないらしい。『悪夢』という不思議な存在。人間の心の底にある不安や恐怖を、怖い夢として体験させて形にしてくれる。人間とは不思議なもので何が不安なのか分からないと恐怖を感じるものだが、原因が分かれば対処法も模索できる。もちろん、『悪夢』の見せる夢を深層心理が処理できずに、ただ恐怖を感じるだけの人間もいるはずだ。本人は自らを自然現象のように例えていた。いつでも良い結果だけが残るわけではない。
ともかく不安や恐怖と戦うために何に立ち向かえばいいのかを心の奥底で教えてくれる存在、それが『悪夢』なのだろう。
と、この少女の存在を私はそう解釈している。
「はい、アリス。半分だよぅ~。今度はゆっくり味わって食べてね。わんわんっ」
「ええ。そうする。こんなに美味しい物なら、ゆっくり食べたほうが素敵気分よね」
目を輝かせながらアイスにスプーンを刺す無邪気な彼女を見ていると、なんだか幸せな気持ちになってくる。
そんなアリスのもう一つの仕事は、現実の世界に実体化した人間の壊れかけた『夢』を完全に壊すこと。『夢』は私自身が相対して理解した通り、周囲の人間に間接的にも直接的にも危害を加える存在のようだった。それを倒すのは正しいことのように思えるが、『夢』の持ち主はその実体化させた夢自体を失ってしまう。だから、きっとこの優しい『悪夢』は仕事を放棄してしまったのだろう。誰かを守るために誰かを犠牲にしなければいけない矛盾に苦しみながら。出会って間もない彼女の内面を全て理解しているつもりはないが、これだけは言える――
「美味しすぎるわ……。アイスのためだけに、あたしは生きていたくなってしまう」
――この『悪夢』は良い子なのだ。
「ねえ、アリス。キミは明日の朝日を浴びると消えちゃうんだよね」
そう彼女は夢の中で口にしていた。どんなに仲良くなっても明日の朝にはお別れなのだ。絵本の中で語られる不思議の国が、まるで一晩の夢だったかのように。
「アリスと、もっと仲良くなって色んな美味しいご飯や、お菓子を食べたかったよぅ」
「そ、そんな捨て犬みたいな悲しそうな目で、あたしを見ないでよ。悲しそうな笑顔って表現がぴったりね、今のあんたの顔」
「だって友達になれたと思ったのに……。さすがに悲しいよぅ」
「……友達? あたしとあんたが?」
アリスは衝撃を受けたかのように目を見開き、その手から零れ落ちた真紅のスプーンは床に当たると乾いた金属音を上げた。
「うん。私は勝手に友達って思ってるよぅ~。アリスと話してると楽しいもん」
「あたしもあんたといると、その笑顔に釣られて自然と笑えるわ」
その言葉通り、彼女はとても良い表情で眩しい笑顔を見せてくれた。そんなアリスを目の前にして私はたまらず彼女を抱きしめる。
「にゃ、にゃ……!? にゃにすんのよー!?」
「アリスは少し興味を持っただけの相手でしかない私を助けに来てくれたよね。そんな命の恩人にお礼もできずに明日でお別れなんて本音言うと、やだ」
顔全体を赤く染めたアリスは右手で私の顔を押しのけ抱擁から逃れ、軽く咳払いをした。
「お礼なんて、そのバニラアイスで充分。お釣りを払いたいくらい。それに――」
床に落ちたスプーンを拾うと、アリスは私の肩を指先で軽くノックした。
「それに?」
「私はしばらく消えたりしないわよ。明日の朝日を浴びたとしてもね、もしも消滅したくなったとしてもできないのよ」
「え? 話が違わないかな? あれ? え?」
ぽかーんとする私の顔を見た彼女は、その顔面白いわねなどと笑いながら言いのけた。
「『悪夢』はね、倒した『夢』の残滓を吸収し、その力を糧に生きているのよ」
「そうなんだ~。だから、アリスは『夢』を倒すのを止めちゃってたから、お腹が空いて消えかけてたんだね」
「そうよ。飢え死に寸前だったの。人間のような飢餓感はないけれど、力が尽きかけて戦うことさえままならない状態だったわね。今も戦える状態まで回復はしていないけれど」
「だったらなんでなの? 『夢』をやっつけなきゃアリスは消えちゃうんだよね。どうして急に平気になれたの?」
「『悪夢』が自らの力を宿す『夢の衣』。それを託した人間がナイトメア。『悪夢』は自らと契を結んだナイトメアが倒した『夢』も自らが倒したものとして吸収できるの」
「つまり私が翼ちゃんの『夢』を倒したから、アリスはもう少し生きられるようになった。そういうこと~?」
「そういうこと」
そう言えばアリスは夢の中で、私にも手伝えることがあると言っていた。それはきっとナイトメアになって『夢』を倒す手伝いの話だったのだろう。
「もし、私がこのまま『夢』を倒し続ければアリスは長生きできるのかな~?」
「そうね。でも無理強いはしないわ。あたしは消える覚悟をしていたもの。ナイトメアをやめるのは簡単。あたしが消滅するか、そよが強く念じて『夢の衣』の機能を停止させてしまえばいいだけ」
「続ける。私。ナイトメアを続けるよぅ」
「本気なの? 他人の『夢』にとどめを刺さなきゃいけない仕事よ。誰にも感謝されない。あんたにはメリットは何一つない。それにいつだって危険がつきまとう。あんたも戦って実感したでしょう? 『夢』は危険よ。恩返しって言うなら、そんなの――」
アリスの言葉を遮るように私は彼女の唇に指を当てる。
「自分のために続けたいから続ける、それだけ。アリスを守りたいって自分の欲求のためにナイトメアを続けたいだけ」
私の言葉にアリスは申し訳無さそうな表情を浮かべている。きっと私を巻き込んでしまったことを後悔しているのだろう。
「アリスが助けに来てくれなかったら私は翼ちゃんの『夢』の中で、今もさまよってたかもしれないんだよぅ。私は私の夢と未来を救ってくれた人を心の底から尊敬するし助けたいと思う」
「でも……」
「その副産物で『夢』に呑まれた町のみなさんを救える上に『夢』を生み出しちゃった人の命も救えるんでしょ? 私は自分の望みを満たしながら、アリスは消滅しないでバニラアイスをこれからも食べ続けられる。みんなにメリットあるよぅ~」
バニラアイスという単語にアリスが一瞬目を輝かせたのを私は見逃さなかった。
「ソフトクリームや、クレープに入ったアイスも美味しいよぅ」
興味深いわね、と呟きアリスは思案するように首を引き両腕を組む。
「……ナイトメアは。『夢』を倒す仕事は辛いわよ……」
「私は自分で決めた選択に、後悔したことはないよ」
「……分かったわ。よろしくね、私のナイトメア」
「うん。よろしくね、私の『悪夢』さん」
「その満面の笑み。見ていると何故か見とれてしまうわね。凶悪だわ。あんた説得とか得意でしょ?」
アリスの言葉に曖昧に笑顔で応えると、彼女はティッシュペーパーを一枚取り床を拭いてくれた。落としたスプーンからアイスの汁がフローリングに零れたのだろう。
「ところで私から一つお願いがあるのだけれども。いいかなっ、わんわんっ」
「お願い? あたしにできることなら常識の範囲内でなら、なんでも聞いてあげるけど。あんたこそ、あたしの命の恩人だもの」
「それなら遠慮なくお願いするねっ。アリスが良ければだけれど、この家で私と一緒に暮らしてみない~?」
「えっ? 同居?」
「アリスって特定の帰る場所や、お家とかあるのかなっ?」
「『悪夢』は、ほとんどの子が住所不定よ。人間の数だけある夢の世界や現世を行ったり来たり。ふらふら根無し草だもの」
「それなら一緒に暮らそうっ? きっと楽しいよぅ~! 私はずっと一人暮らしだし、アリスがいてくれたら嬉しいよっ! 部屋だっていっぱい余ってるしっ。ベッドは寝室に一つしかないけれど、アリスが欲しいって言うなら、今すぐネットで注文しちゃう!」
彼女の両肩を掴み一気にそう捲し立てる私の顔を、赤面したアリスは再び押しのける。
「わ、分かったから落ち着きなさい! わんわんと犬みたいに捲し立てないの!」
「わんわん!」
「吠えるなってのに……っ! ……ふふ、本当にもう。面白い子ね。『悪夢』と暮らそうだなんて人間、きっと人類の歴史上初めてよ」
「私はアリスを守る。アリスは私と一緒に暮らす。決まりだね。約束だよぅ~」
「ええ、約束ね」
そう言って微笑むアリスに私もきっと満面の笑みを返しているだろう。
「よーしっ! 今日から始めるナイトメアっ! がんばるぞ~!」
こうして夏休み前に起きた不思議な一日は終わり、私とアリスのおかしな共同生活が始まったのだった。
「かっこいい! 憧れちゃうなぁ、ナイトメア! 変身ヒロインって素敵だー!」
茶碗と箸を両手に、テレビアニメを齧りつくように見ていた京子は興奮のあまり食事を忘れていた。茶碗の中のご飯は既に冷めている。主人公がどうして赤に拘っているのか、謎だが中々見応えのあるアニメだった。
「私も、そよちゃんみたいにいつも笑顔で頑張ってられる強い女の子になりたいぞっ」
よっしゃ~! と意味もない叫びをあげ気合を入れると私はリモコンを取り、録画再生のボタンを押す。
「面白かったから、後二回は見直してから寝ようかっ! 次回の放送も楽しみだっ」
既に深夜に近いのだが明日は学校だ。早起きしなければいけないので、あまり夜更かしはできない。
「まあいっか。そよちゃん見てたいしー」
深く考えるのを止めて京子はリビングのソファーに転がった。
放課後の通学路。月に照らされた静かな街道を歩き、京子と友人の翼は帰路についている。人通りもなく、そんな街を二人の声だけが通り抜けていった。
そんな中、誰かの気配を感じ京子は何度も振り返る。学校を出てから、ずっと誰かに後をつけられている気がしていた。しかし、振り返っても人影すらない。
「どうしたの? さっきから後ろばっかり気にして。誰かいる?」
翼を京子に釣られて振り返るが、やはり誰の姿もない。
「気のせいみたい。ごめん」
「別にいいけど。それより京子ってアニメ好きだったんだね。そんなに楽しいなら私も見てみようか。私と同姓同名のキャラもいるみたいだし」
「まだ一話しか見てないけど、おすすめ。主人公がいつも笑顔で素敵なんだ。来週の放送から見てよ。そよちゃんについて語ろう語ろう」
「京子の話を聞いてるだけで、そよちゃんを好きになったよ。なんでだろうね。そんな人が、そばにいてくれたらいいなって思ってた気がする」
「そよちゃんは私の憧れなんだから、翼さんは翼のファンになればいいだろー。名前同じなんだから」
不貞腐れて顔を背けた京子に翼は笑い含みに、しょうがないなあ、と呟いた。
「またアニメキャラにヤキモチ焼いてる。変な京子」
「だ、だって。一目惚れしたんだもん……」
そう言いながら翼の方へと顔を向けると、そこには誰の姿も無かった。隠れていたずらでもしてるのかと思い、辺りを見回したが民家が並ぶ一本道。隠れる場所は殆ど無い。まさか壁を乗り越えて他人の家に不法侵入してまで隠れようとは思わないだろう。それに翼は運動神経に恵まれていないので、目を離した数秒の間に壁を越えて隠れるような真似が出来るとは思えない。
「翼さん、どこに行っ……」
京子は息と同時に、その言葉を呑む。
あれ? これって。まさか。
夜空は綺麗な水色に染まり、家屋を鈍い光で照らしていたはずの満月は、いつの間にか太陽へと取って代わられて空高く昇って輝いていた。
「え? なんでだ。さっきまで夜だったろ。どういうことだよ……」
――これじゃまるで
恐る恐る見上げた青空には、いくつもの紙飛行機が舞い飛んでいる。
「これじゃまるで、あのアニメの」
狼狽する京子が向ける視線の先には歩道の上に倒れている翼の姿があった。
「翼さん!」
彼女の名を叫び、駆け寄ろうとする京子の頭上を強い風と共に何かが通過した。突風に煽られて転倒してしまい思わず目を閉じた京子が、その瞳を開いた時には辺りは再び月光に照らされ、青空は消えていた。
「何が起きたんだよ。翼さんは……」
辺りを見回しても彼女の姿はどこにもなく、周囲を必死に探したが結局、翼は見つからない。
「どこに行っちゃったんだよ。どこに消えちゃったんだ……」
そして京子と翼は以降、二度と会うことはなかった。
「真っ赤だわ。そよ、あんたの部屋って本当に真っ赤ね」
「ん~……? なにぃ? まだ眠いよ、アリスぅ~」
「おはよう。それにしても、あんたって寝ている時までマフラーを巻いているのね」
隣で横になっているアリスの言葉に眠りを妨げられた私は枕元のスマートフォンを手に取り時間を確かめる。表示された時刻は午前六時。まだ眠いわけだ。授業がある平日でも起床時間は午前七時。支度をして家を出るのが七時四十分くらいなので、六時起きは用事がなければ滅多にしない。それに今は夏休み。寝坊が許される素晴らしい期間だ。誰がなんと言おうと、私は二度寝する。そう決意し抱き枕の代わりにアリスを抱きしめると、暑苦しいと怒られてしまった。
「あんたのセンス、凄すぎるわ。寝室まで赤い。布団もベッドも天井も壁も窓ガラスすら赤い。家具と壁の境界が認識できない……。赤いわ。全てが赤すぎる……」
「大丈夫だよぅ、すぐに慣れるって~。お部屋も廊下も全部真っ赤っかだから」
「全室……赤」
そう呟きながら真顔になっているアリスの胸元に左手をのせ、抱き寄せようとすると再び暑苦しいと怒られてしまった。そんな彼女の着る青いドレスは真っ赤な部屋の中ではとても際立っている。私はというとパジャマも赤く部屋に溶け込んでいた。
そんな思考を遮るかのように私の口からは大きなあくびが漏れる。
「うぅ~。それより私はまだ眠いよう。アリスは眠くないの~? もしかして悪夢って寝ないでいいのかな? わんわんっ」
「いいえ。実体化したまま、こんなに長時間を過ごすのは初めてだけど、どうやら疲れると睡眠を欲してしまうようね。人間みたいに」
「それならこんなに早起きしないで、一緒に二度寝しようよぅ~」
「いいえ。結構。昨晩は悪夢を見たわ。真っ赤な部屋に閉じ込められる夢。『悪夢』が悪夢を見るなんて前代未聞よ……!」
「貴重な経験だね~。ふわぁ~。眠いよぅ、アリスぅ~」
「だああ、人を抱き枕の代わりにしようとするんじゃないわよ!」
「きゃうーん」
この眉毛犬! と怒るアリスに微笑み、私は目を閉じる。誰かが一緒にいるって楽しいな。そう思う。この家に、ずっと一人だったから。
もう家族なんていらないと思っていた。だけれど、やっぱりそばに気の合う誰かがいるのは幸せを感じる。
「あたしは起きるわよ。どうにも寝付けないわ。早く慣れないと。この炎が満ちたような赤い内装に」
「それなら私も起きようかなぁ~。ふわぁ……」
夏休み初日の今日は特に用事もないので飽きるまで寝ていたいが、早起きしてアリスとのんびり一日を過ごすのも悪くない選択だろう。
「なんだか付き合わせて悪いわね。一人で寝ていてもいいのよ」
「アリスに朝ご飯作ってあげたいし、いいよぅ~。それより『悪夢』ってお風呂に入るの? 昨日はお風呂に私達入ってないし気持ち悪くないかな?」
「お風呂ですって……?」
アリスは目を輝かせながら、私に一歩近づき顔を迫らせる。
「あ、あわわ、う、うん。お風呂。お風呂だよぅ」
「『悪夢』がお風呂にねぇ。どうかしら。一応、あたしは普通の人間とは体の構成が違うから、体臭は一定で濃くもならないし、汚れたとしても心が落ち着いている状況なら、いつでも元の綺麗な状態に復元でき……」
「お風呂に入ってみたいんだね~、アリス」
「ええ、是非体験してみたいわね」
「それじゃ初体験、行ってみよっか~」
どうやらお風呂も未経験だったらしい『悪夢』は、嬉しそうな表情で、廊下に出た私の後ろについている。なんだか楽しそうにしているアリスを見ていると、こっちまで楽しくなってくる。やっぱり笑顔や明るい雰囲気は人を幸せにするんだなーと考えていると彼女は片眉を上げ首を傾げた。
「何を楽しそうにしているのかしら、この眉毛犬。あんたの楽しそうに笑う顔を見ていると、こっちまで楽しい気分になってくるから不思議ね」
「アリスもそう思ってたんだね。私も同じ気持ちだったよぅ~。わんわんっ」
「どういう意味よ。あたしが楽しそうにしていたとでも? 冗談は止めて。あたしは『悪夢』よ。威厳溢れるクールでニヒルな怖い存在なのだから」
頬を膨らませるアリスに適当に頷き、階段あるから気をつけてねーと注意を促す。階段も壁も、とにかく赤いのだが私には少しの濃淡や陰影で区別はつく。しかし、アリスには家具と壁の区別すらつかないらしいので階段に気が付かず落ちてしまっては危ない。
「凄いわね。階段側の鉢植えも赤ければ咲いている花も真っ赤。そして葉の緑が異様に目立つわ。赤の世界に緑は違和感が凄まじい」
「ヒヤシンスっていうお花なの。好きな花なんだ~。でも、そんなに違和感が凄いなら、スプレーか何かで葉っぱも赤く染めてあげたいけれど、お花が可哀想だから許してあげて欲しいかも~。本当は葉っぱも赤いほうが私好みだけどね~」
「え、ええ。染めなくていいわよ。あの緑を癒やしに私はこの赤い世界を生きていくわ」
葉の緑まで染めだしたら、それこそ不思議の国のアリスに出てくる、トランプの兵士に白いバラを赤く染めるように命じたハートの女王のようになってしまう。さすがにそれは狂気の沙汰だろう。
「え~。赤も癒やしの色なのに。今の季節だと暑苦しいかもしれないけれど」
階段で足を滑らせて落ちそうになっていたアリスの腕を掴みながら私がそう言うと、彼女は癒やしの色は赤より青よ、と反論してきた。
「ちなみに私は花なら青いサイネリアが好き。そのうち、あんたの花と並べたいわね」
「それもいいかもね~。青と赤って、お似合いって感じがするもん」
青と赤は反対の色。そんなイメージだが、だからこそ確かに合いそうな気もする。
「まあ、居候させて頂く以上、この赤い世界にも慣れるつもりだけれど。慣れなければ目がチカチカして、そのうち幻覚でも見えそうよ」
「私は四年も住んでるけれど、幻覚は見えたことないはずだよぅ。アリスや『夢』が幻覚じゃないならね」
「私は幻覚ではないから安心してもらっても構わないけど。階段を降りても見渡す限り、どこまでも続く赤の世界ね……」
「一階も赤く染まってるのは昨日見たから知ってるでしょ。あ、お風呂は、こっちだよ。バスルームも赤い世界だから、ゆっくりくつろいでね~」
引きつった笑顔を浮かべるアリスを連れて、私はバスルームの扉を開いた。
「はいっ。アリス、バスタオル。着替えはどうするの~? 私の服、貸そうか~?」
「赤い。タオルも赤いと予想していたけど本当に真っ赤だわ」
片眉を上げながら、そんなタオルを受け取ったアリスは何故かそれを頭にのせて嬉しそうに笑った。もしかして初めての入浴に浮かれているのかもしれない。
「服は平気よ。さっきも言ったけど汚れても元の状態に戻せるから」
「『悪夢』は洗濯機いらずだね~。便利だよぅ。わんわんっ」
その言葉に誇らしげな表情を見せたアリスだったが、何故か急に不安そうな顔つきをし、脱衣所を後にしようとした私のマフラーを勢い良く引っ張ってきた。
「う、うぐっ!? く、首が。割と本気で苦し……」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……。待って欲しくて。あ、あのね、そよ」
何やらモジモジとしているアリスに、私は笑顔を浮かべて首を傾げ、言葉の先を促す。
「あたしは夢の中で入浴している人間を何度も見たりしてきたけれど、実際に入るのは初めてなのよっ!」
「そうみたいだね~」
「気持ち良さそうに入る人達を見て、羨ましいと思ってきたわ。だって、あたしは経験したことがないから夢の中で湯船に浸かってもどういう感覚なのか分からないもの!」
アイスの味と同じなのだろう。アリスは経験したことがないアイスや入浴を人間の夢の中で見て知っていても、経験がないので実際どんな味や感覚なのかを知らない。だからこそ、アイスを食べて美味しそうにする人や入浴して気持ち良さそうにする人を夢の世界で見て羨ましいと思ってきたのだろう。
「だからね、入浴の作法が分からないのよ。どうしたらいいの、お風呂って……」
「ああ~。なんて可愛いんだろう~。きゅーん」
初めてのお風呂に緊張しているアリスが小さい妹のようで可愛らしく、つい思わず抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、どうせ暑苦しいのよ眉毛犬と怒られてしまうだけなので私は思い留まる。つもりだったが、せっかくなので抱きしめた。
「ありがとう。どうしたらいいのかしら。お風呂は楽しみだけど一人じゃ、不安よ……」
抱きしめた私の背中を、きゅっと掴み切なそうな声でそう呟くアリス。激しい抵抗があるかと思ったが素直な態度に逆に私が照れくさくなってきてしまった。
「シャンプーとリンスの使い方も、よく分からないわ。目に入ったら痛いのよね……?」
「そうだね~。目に入ると割と痛いかも~」
「シャンプーにリンスにトリートメント。何よ、それ……。どうして髪を洗うのに何種類も洗剤がいるの。使う順番とかあるのよね? 順番を間違えるならまだしも、ボディーソープで髪の毛を洗ってしまったらどうしたらいいのよ……っ」
「大丈夫だよ。この世界には失敗したら取り戻せないことはたくさんあるけれど、間違って失敗して悔やんで落ち込んで、そんな痛みから覚えていかなきゃいけないこともたくさんあるから」
「お、大げさに言うのね。そういうものかしら……」
現実の世界で長時間を過ごしたことがないと彼女は言っていた。誰かの夢の中で見聞きして知識としては蓄えていた情報かもしれないが、初めての経験ばかりなのだろう。
それは風呂に入るという誰にとっても当たり前のような日常の一幕ですら不安を覚えるかもしれない。
「そんなに不安なら一緒にお風呂に入る~?」
「……って。え? 一緒にお風呂?」
急に顔中、そして耳まで赤く染めたアリスは何故かファイティングポーズを取りながら目を白黒させ、一緒にお風呂? と繰り返した。
あたしに今、与えられている名はアリス。気の遠くなるような長い年月を『悪夢』として生きてきた。出来るだけ無感動に無感情に。恐怖を与える対象や、壊すべき『夢』を持つ人間に感情移入をしないように生きてきた。そうするべきだと思っていた。でも、あたしには人間が眩しく見えた。夢に向かって必死に努力する姿。希望を抱いてキラキラと星のように輝く姿。他人と支えあって育む愛情や友情。羨ましく思えた。
『悪夢』は人間じゃない。人間にはなれない。友達にはなれない。受け入れてもらえない。そう割り切れらなければいけない。人間なんかに感情移入をしたら辛くなる。彼女達に恐怖を与え、そして『夢』を壊すのが仕事であり存在理由なのだから。なのに、あたしにはその仕事が重くなってしまった。だからやめようと思った。そして消えてしまうはずだった、あの日。最後の仕事の対象に選んだ人間。それが、そよだった。屈託のない笑顔と脳天気な雰囲気。そして相反する冷静さや勇敢さを持つ不思議な子。
そんな彼女に、あたしはどんどん惹かれている。初めての気持ち。この人と一緒にいたい。そう思った。
そんなあたしの『悪夢』として生きた尊厳と威厳のある長い歴史に降って湧いた心をかき乱される驚きのイベント。どうしてこうなってしまったのか。
「い、一緒にお風呂ですって……? 正気なの? それってアレよ、はしたないわ!」
「友達同士、家庭で一緒にお風呂へ入るなんて滅多にないと思うけれどね。別に、はしたなくはないって~。銭湯に行くようなものだよぅ~」
「あたしはね、そよ……っ! 人前で裸になったこともなければ、誰かと一緒にお風呂に入ったこともないのよ! 夢の世界では裸体の人間を何度も見てきたけれど、あんたは、その……あたしの友達なのよね!? 特別な相手なのよ! そんな人の前で……あたし」
「もしかして、私に裸を見られるのが恥ずかしいのかな?」
「え、ええ。そうかもしれないわ。……悪い?」
あたしの反応を面白がっているのだろうか、ゆったりとした独特の口調で、そよはアリス可愛い~と言いながら抱きついてくる。なんて節操のない人間なのだろう。出会ってまだ二日だというのに、この脳天気に何回抱きしめられたことか。その度に何か緊張したり、心臓の鼓動が早くなったりと、こちらは大変だというのに。もし、そよ以外の人間に同じことをされていたら八つ裂きにしてしまうかもしれない不快な行為だ。だが、不思議と彼女と触れ合うのは不快じゃない。それどころか暖かい気持ちになってくる。
「だ、だからやめなさいというのに! 滅べばいいのに!」
顔を両手で押し退けると、そよは叱られた犬のような鳴き声をあげる。そして優しそうな笑顔を見せてくれた。
こいつめ……。あたしだって、あんたの顔を見ていると恥も外聞もかなぐり捨てて、抱きしめたくなる衝動に駆られているというのに。あんたは良いわよね、欲望に忠実で。
「えへへ~。楽しいね、アリス~」
なんなのかしら、その眩しい笑顔は。まるで小動物のような愛くるしいさね。『夢』に呑まれた状況ですら崩さなかった、その笑顔。マンションの屋上で優しく微笑みながら、大丈夫だよって言われた時、悔しかったけれどドキドキしたんだから!
「どうしたのアリス~? 不満そうな顔しちゃって。朝ご飯、まだだからお腹空いちゃったのかな? わんわんっ」
「違うわよ……っ! あんたと一緒にしないで、この暴食ワンコ……っ!」
「そうだよね~。でも私はお腹が空いちゃったから、一緒にお風呂に入らないなら朝ご飯の支度してくるよぅ~」
「ま、待って、そよ」
「うぐっ……っ!?」
あたしを置き去りに脱衣所を出ていこうとした薄情な彼女の長いマフラーを必死に掴むと、そよは唸り声を上げてつつも足を止めてくれた。
「く、苦しいよぅ、アリス」
「えっとね、そよ。言いにくいけど……あうぅ……滅べばいいのに……」
「うん。いいよ、お風呂なら一緒に入るよぅ」
そよは言いにくい本音を察してくれるので、とても話が早い。『悪夢』は通常、他の同族とはあまり会話を交わさない。情報交換をする程度だ。コミュニケーションを取るにしても恐怖を与える対象の人間と交わす会話程度に留まる。長い年月を生きてきたとは言えそんな人付き合いド素人のあたしに意志を上手に相手へ伝えるコミュニケーション能力があると思ったら大間違いなのである。なのでこちらの意図を汲んでくれる彼女は話し相手としては、ありがたい。
それにしても成り行きとはいえ不思議な展開になったものだ。人間と同居することになるなんて。なんだか、わくわくしてくる。
「ところでアリス。お風呂の前に一言いいかな?」
「何かしら。なんなりと言ってちょうだい」
「あのね、アリス。マフラーは引っ張ったら首が締まって危ないので、できればどうしても止むに止まれぬ事情がある時以外は控えて貰えると嬉しいなって」
「は、はい、ごめんなさい。もう止むに止まれぬ事情がなければできるだけマフラーに触れたりしないわ……」
そんなに反省しなくても良いよ、アリスは素直だね、そよは優しく微笑みながらそう言ってくれた。あたしはどうやらこの子を気に入った理由の大半が、この笑顔に因るものと自己分析している。見ているとこちらまで優しい気持ちになってしまう。
「呼び止めたい時は袖を掴んで。私はいつでも長袖着てるから~」
そよは腕をひらひらと揺らしながらそう言うと、マフラーを外し上着に手をかけて脱ぎ始めようとした。
「何をしているのよ!? どうして服を脱ごうとするの!」
「どうしてって。服を脱がないとお風呂に入れないよぅ~。わんわんっ」
「それもそうね。正論よ、そよ」
そよに裸を見られるのを恥ずかしいと思ったが、彼女の裸を見るのもなんだか恥ずかしい気がしてきてしまう。
これがきっと友情なのね! 何かしら、この胸の高鳴り。女同士の友情って楽しいのね。頬が熱くなる。初めての感情よ。凄いわ、友情。
「耳まで真っ赤だけれど、大丈夫かな。照れくさい?」
「照れくさくないと言えば嘘になるわね」
「私は恥ずかしいって言うより、裸を見られて質問されたり同情されたりするのが面倒くさいかな~」
「それどういう意味よ」
あたしの言葉に、そよはマフラーを外して顕になった首の左部分を指で示すように叩く。
「……それって」
「私は『これ』に悲しみも負い目もなければ、どんな感情も抱いてないからね。難しいかもしれないけれど、アリスも気にしないで欲しいかも~」
そよの指が示す先。そこには痛々しい傷痕があった。
純白のドレスのような白い肌。その首筋には薄っすらと桃色に広がる裂け目のような傷痕。
「これは刺された痕だけれど、斬られたり抉られたりした痕が体中にあるから、もしそういうのを見るのが気持ち悪かったら、マフラー巻き直して朝ご飯の支度に行くよぅ~」
なんでもない話のように、にこやかにそう言った彼女にあたしは困惑してしまう。
「正直に言うと、そよに何があったのか気になる。気になるけど、そよがあれこれ聞かれたくないって言うなら何も質問しない」
初めてのはずの『夢』との戦いをあっさりと勝利で収めた手腕。あれはナイトメアとしての力が強かったゆえの勝利というわけじゃない。そよ本人の性格や能力、そして何より冷静な判断力が大きい。ナイトメアになれたから強くなれるわけじゃない。力に振り回される者や『夢』との戦いに恐怖して自滅する者。最初の戦いで命を落とすナイトメアの話なら他の『悪夢』との情報交換の場で幾度と無く聞いている。それなのに、そよは。
ただの脳天気じゃないとは思っていた。この少女は想像を絶する経験と過去を乗り越えてなお、闇を微塵も感じさせない優しい笑顔を作れるのだ。だからこそ、明るいだけでも元気なだけでも優しいだけでもない。そんな力強い笑顔だからこそ、あたしは惹かれてしまったのかもしれない。
「いつもはマフラーを巻いてるから首はね、あんまり人に見せたことのない部分なの。だから、そんなに見つめられると恥ずかしくなっちゃうよぅ~」
「あんたの傷なら心と体に刻まれたもの、全てを見たいわ。気持ち悪いなんてない」
「な、何言ってるの、アリス」
「ふふ、なんでもないわ。それじゃ、お風呂に入りましょうか」
そよのことをもっと知りたくなった。もっともっと仲良くなったら、過去に何があったか教えてくれるのだろうか。
あたしはそんな思いを胸に、服を脱ごうとドレスに手をかけ………………。
あれ?
「あ、あうぅ……。この服……どうやって脱ぐのか分からないわ……」
「え!? ふ、服の脱ぎ方も分からないの~っ!? アリスはしょうがないな~」
「ば、バカにしないでちょうだい! 普通の服くらいなら余裕で脱衣できるわ! でもね、自慢じゃないけれど、こんなよく分からないドレスの脱ぎ方なんて分かるわけないでしょう!? 最初から着ている状態で、この姿になったのだから!」
「私の夢の世界に出てきた時、悪夢を見せるためにアリスの姿になったんだよね。それなら私の中のアリス像になってるってことかな」
「そうよ。そよが着せたようなものでしょ、このドレス。だったら、そよが脱がしなさい。当然の義務よね」
「私の前で裸になるのが恥ずかしいって真っ赤になったら、今度は服を脱がすように強要したり、アリスって本当に忙しい子だね~。わんわんっ」
微笑ましいものを見るかのように笑う、そよの顔を見ていると何故か悔しい気持ちでいっぱいになってきたので思いっきり彼女の頬を左右に引っ張ってやった。
「う、うぐっ……っ。なにしゅるにょ~? ありふ~」
「もういいから、服を脱がすの手伝いなさい……っ! この眉毛犬!」
「わっ、分かったから、ほっぺた離してよぅ~、いたひ~」
そよの頬が伸びた妙な顔が面白かったので、あたしは更に調子のって彼女のほっぺたを引っ張ろうとしたのだが、脇を擽られ両手を離してしまった。
「お風呂ってアレね!」
「アレってどれかな、アリス~。わんわんっ」
入浴後、そよは朝食の支度をしてくれた。あたし達は朝食をとるべく、リビングのテーブルについている。当然のように壁紙も床も天井すらも赤く染まっていて、どうにも落ち着かない。フォークとナイフまで真紅に輝いているのだ。そよが持つ赤への拘りは徹底している。例外はヒヤシンスの葉と鉢植えの土くらいだろう。
「それにしても、お風呂って最高よね。とても気持ちが良いわ。すっきり」
あたしの初入浴はとても楽しい時間となった。最初は熱くて嫌がらせでもされているのかと思っていた湯船。だが、その熱さになれてくるにしたがって、その温かさが体へ染み渡るかのように心地よさが全身へと広がった。あまりの心地良さに意識を失いかけたくらいだ。あれは人間をダメにする快感だ。法で規制されていないようだが、本当に大丈夫なのだろうかと心配になるくらい湯船に浸かるのは気持ちが良い。
「それは良かったよぅ~。でもアリスってば、私が髪を洗ってて目を開けられない時に、冷たいお水をかけてくるのは酷かったよぅ~」
あたしが湯船で蕩けている間、そよは風呂椅子にちょこんと座りながら髪を洗っていた。一生懸命に洗っている姿を見ていると、イタズラしたくなってしまい、ついつい湯船に付属していた蛇口から冷水を出し、それを幾度となく彼女へと飛ばし続けてしまった。そよに、やめてよぉ~と間の抜けた声で愛らしい反応をされてしまうと、ついつい面白くなってやめられなくなる。
そんな彼女は幸せそうな顔をしてハンバーグを頬張っていた。
「美味しいーっ! ご飯食べてると幸せだよぅ。ハンバーグは大好物なんだ~」
「本当に幸せそうね、そよ。ふふふ。ていうか、あたしも食べていい?」
「アリスの目の前にある私の手作りハンバーグ率いるサラダやポテトは、全部キミの朝ご飯だよぅ。わんわんっ」
「なんですって。これ……全部食べてもいいの?」
あたしの言葉に、そよは笑顔で頷いてくれた。
初めての食事だ。初めて口にした食物はバニラアイスだったが、本格的な食事をするのは初体験。なんだか緊張してきた。ハンバーグの良い香りが鼻腔を擽り、あたしは思わず唾液を呑み込む。
「……い、頂きます」
ナイフで切り分け、あたしはゆっくりと肉汁の滴る焼きたてのハンバーグを口へと運ぶ。柔らかくも弾力のある歯応え。口内に広がる調和のとれたソースの味わい。噛む度に深みの増していく、肉に染みこんだ味の物語。
そう、これは食事という名の感動を与えてくれる一種の叙事詩なのだ。
「アリスも幸せそうな顔してるよぅ~。美味しかったみたいだね、えへへ~」
「美味しいなんてものじゃないわ。感動よ! 感動!」
あたしは今度こそ恥も外聞もかなぐり捨てて、ハンバーグをひたすら口へと送り込む。幸せの味。まさにそう呼ぶに相応しい幸せの手料理だ。必死に料理を食べているあたしと違い、そよはゆったりした動きをしているにも関わらず、いつの間にやら丼に山盛りだったライスを含むハンバーグやらサラダやら自らの朝食を全て平らげていた。さすが暴食ワンコ、食べる時はわんわん騒がず一気に食べるのね。そう感嘆の息を漏らしていると、そよは元気良く、ごちそうさまでしたと言った。
「ところでアリス。明日一緒に行きたい所があるのだけれど」
「行きたい所? お出かけね。興味深いわ。良いわよ、ついていってあげる」
「本当? えへへ、良かった。てっきり断られるかと思った」
「どうしてそう思ったのかしら? あたしは現実の世界にはド素人。見るもの聞くもの、なんでも心が踊るわ」
「アリスって人見知りみたいだから、誰かと会うの嫌がるかと思ってたの。親友の涼ちゃんとご飯食べる約束があるんだ~。夏休みに入ったらお昼ご飯を一緒に食べようって前から約束してたの。せっかくだからアリスを涼ちゃんに紹介し…………アリス?」
あたしは思わず手にしていたフォークをテーブルに落としてしまった。
「誰かと会うなら先にそう言いなさい。嫌よ、怖いわ。冗談じゃない」
夢の世界で会うならまだしも現実の世界は、あたしにとってアウェーみたいなもの。そう、ここは本来、あたしの住む世界ではない。そんな不安に満ちた世界で、そよ以外の人間と話すなんて気後れしてしまう。そよと二人で出かけるなら、ドキドキワクワク、アリスちゃん大冒険! と心も踊るかもしれないが知らない人と顔を合わせるのは、正直御免被りたい。
「ダメかな~。きっとアリスも楽しいと思うのだけれど~。ご飯食べるの楽しいよね~」
「この眉毛犬、あたしが食べ物で釣られるとでも思っているのかしら? あんたじゃないのよ、滅べばいいのに」
あたしは席を立ち、そよに背を向けながらそう言い放つ。
「レストランには昨日食べたのよりも美味しいバニラアイスがあるかもしれないよぅ~」
バニラアイスですって…………?
その言葉に、あたしは思わず彼女の方へと向き直り、息を呑む。
「大好きだよね、バニラアイス」
「ふっ、このアリス様は威厳溢れるクールでニヒルな『悪夢』。人間の一人や二人と会うのに恐れることなど何もない。良いわ、ついて行ってあげる」
そうして、あたしはバニラアイスに釣られたわけではないが、そよの親友である涼と彼女の持つ業と出会うことになる。
「ここがファミリーレストラン、通称ファミレスなのね。夢の中では見たことがあったけれど、ご多分に漏れず実際に足を運ぶのは初めてよ。実に興味深いわ」
夏休み二日目の晴れた午後。昼時のファミリーレストランは若者や家族連れで賑わっている。あたしはソファー席に座り、そよは向かい側の椅子に腰を落ち着けた。店員がテーブルに置いていったメニューを手にした瞬間、あたしの心臓は激しく鼓動し興奮の鐘を鳴らす。
「好きなの頼んでいいよぅ。お金はもちろん私が出すから」
「ありがとう。あんたってもしかしなくても、お金持ちなの? あんな立派で狂気に満ちた家に一人で住んで……いいえ。……ごめんなさい。詮索されるのは嫌いだったわね」
風呂場で見た彼女の裸体には無数の傷痕が刻まれていた。結局、その傷がどうしてついたのか、そよは話してはくれなかった。だから、きっと詮索されるのが嫌いなのだろう。
「今は一人じゃないよぅ、アリスがいるもん」
「そうね、そよ。一人じゃないわね」
あたしの言葉に優しい笑顔で応えてくれた彼女の背中や下腹部、両腕に太もも、脛に至るまで目に入ったあらゆる部分に、その痕はあった。背中にあった以上、その傷は自らの手に因るものではないだろう。誰かにつけられた傷だ。とても気になった。好意を持っている相手が持つ酷い過去。誰がやったにしても、許せない気持ちになった。それは目の前で愛らしく微笑む彼女を見ていると一層、憤りの感情として湧き上がってくる。
「う、うぅ、どうしたのかな、怖い顔して。別に秘密主義でもなんでもないし、聞かれたら話すよ、面倒くさいけれど」
「そうじゃないの。そうじゃないのよ、そよ」
察しの良い彼女も、さすがにあたしの全ての思考を読み取れるようではないらしい。そよは苦笑しながらメニューを開き、お金持ちではあるかな、と呟いた。
「イギリスの有名なオークションで私の描いた絵が高値で売れてから、お金には不自由してないの~」
「え? そよって画家なの?」
「うん。涼ちゃんのお陰でね。私は売れっ子作家を目指してる売れっ子画家だよぅ~」
「凄いのね。あんたも涼って子も、ただ者じゃないわね」
「涼ちゃんは、ただ者じゃないね。私はただの中学生だよぅ~。……あ、メール。この着信音は涼ちゃんっ! わんわんっ」
「嬉しそうね。なんだか微笑ましいわ。そうね、そよはただの眉毛犬よ、ふふ」
「生まれつきの太眉だよぅ~。あ、涼ちゃん、少し待ち合わせの時間に遅れちゃうみたいだから何かデザートでも食べてよっか~」
そう言われメニューを隅から隅までしっかりと目を通し終えた瞬間、あたしに戦慄が走る。
「バニラアイスが……ないじゃないッ」
「え? デザートの所にないかな?」
「ないわ。チョコアイスと苺アイスはあるけれど、バニラアイスは存在していない」
「どれどれ~。あ、本当だ~」
「あたしはバニラアイスに釣られて、勇気を振り絞ってここまでついてきたというのに」
「……そ、そんな怖い顔しないでよぅ。私はバニラアイスがあるかもしれないっていっただけだもん。嘘ついてないよぅ~」
「便利な言葉ね、かもしれないって……! まあ、あたしは大人だから奢ってもらうのに我儘を言ったりしないわよ。さっさと注文してしまいましょう」
あたしの言葉に笑顔で頷くと、そよはテーブルの隅にあったスイッチを押した。あたしは知っている。それを押すと店員がやってくるのだ。呼び鈴みたいなものだ。
ふふ、このあたしが無知だと思ってなんでも興味を示すと思ったら、大間違いよ。それくらい夢の世界で見たことがあるんだから珍しくとも何ともな――――
「ごめんね、アリス。ベル、押したかったんだね~」
「ええ。押してみたかったわ……」
実を言うと、とっても押してみたかったのだ。ああいうスイッチは何故か押したくなる魅力を持っているというものだろう。何故ならばスイッチは押すためにある。押したら何かが起きるわけだ。それを指先一つで操作できるなんてドキドキしてく――――
「ご注文をお伺います」
店員がやってきた瞬間、あたしの体は凍りつく。
「チーズハンバーグ二つとライス大盛り三つ、ポテトサラダにドリアとエビグラタン、それと苺パフェにチョコアイスをお願いします~」
「以上ですか?」
「あ、一人分です~」
え? 一人分?
あたしの分まで勝手に頼まれたのかと思ったわ!? そして注文するのはデザートじゃなかったの!? とツッコミを入れたかったが、知らない人が近くにいて緊張してしまい声が出ない。そもそも店員が注文を聞いている時に、そんなツッコミを入れたら非常識だろう。だからそれはいいのだが、次はあたしが何を注文するのか言わなければいけないのだ。声が出ないのは困ってしまう。
「アリス。アリス~」
「……ええ。アリスは、ここにいるわ」
「大丈夫、怖くないよ。私が一緒だから大丈夫。一人じゃないよっ」
「……そうね。そよが一緒だものね……」
あたしは気合を入れるかのように息を呑む。
「勇気を持って注文するわ」
メニューを見ながら必死に考えた。こんなに必死に考えたのは久しぶりだろう。何を心の底から食べたいと思っているか。それを考えれば自ずと答えは見えてくる。さっさと注文しましょうと言っておきながら、まだ何を頼むのか決めていなかったのだが、あたしの心は決まった。
――これしかない!
「クリームソーダ! ソーダ抜きで!」
「……すっかり遅くなってしまいました。これから、そよちゃんとの幸せハートに満ち満ちたデートタイムだというのに、お仕事の電話が長引いてしまうなんて、ついていないのです……」
そよとの食事は午後十二時の約束だったが、腕時計に目を向けると既に十三時を過ぎようとしている。それなのに未だに私は、でかでかと『夏月涼』と書かれた中吊り広告が揺れる電車に乗って、そよの待つ百合花駅への到着を待っている。そう言えば、そろそろニューアルバムの発売日だったような気がする。広告に写った美しい黒髪を二つに束ね、いわゆるツインテールにしている少し吊り目だが大きくて愛らしい瞳を持つ少女。我ながら可愛らしいと思う。身重は百三十センチしかないため、よく小学生と間違えられてしまうが、私は間違いなく中学生だ。
「そんなことより百合花線は本当に電車が少ないのです」
私と親友が生まれた百合花町は全国的に桜で有名な観光地だが、同じくらい有名なお嬢様学校である『百合花女子学園』がある。
登下校時は都会のサラリーマンで溢れる満員電車さながらに学生で電車内は埋め尽くされてしまうのだが、学園が閉じられている休日は利用客も減り電車の本数も少なくなってしまう特殊なダイヤになっている
「なかなか電車が来ないものだから、私の焦りハートに火がつきそうでした。もっと速度を上げて光の速さで進んで欲しいのです」
百合花女子学園なのだが、中学から大学まで一貫した教育システムにより余程の落ちこぼれ以外は未来が約束され、更にはこの御時世に脅威の就職率十割を誇るため、毎年受験者が殺到する。
「そよちゃんと一緒に、私も百合女に通えば良かったのです……」
とは言っても歌の仕事で忙しい私は忙しさを言い訳に勉学を怠ってしまったので、学園中等部の入試を受けてみたものの落ちてしまったのだ。
「時間ができたら猛勉強して、今年は百合女の編入試験にリベンジしてみましょう」
そう呟いた私は自らの口を両手で塞ぐ。
あー。またやっちゃいました。私はどうしてこう独り言の癖があるのでしょうか。ついつい一人でいると一人で喋っちゃう寂しい癖があるのです。
それはもう忙しい歌手生活、学校にも殆ど行けずに心を許せる相手もいなく、喋る機会も少ないので独り言をついついしてしまうのも仕方のないことだと自分を正当化して慰めてはいますが、やはり一人で喋るのは傍から見ていると怪しさ全開で可哀想な人だと思われかねません。
「独り言には気をつけましょう、私。あっ」
独り言には気をつけようと言ったそばから、というより言いながら独り言をしてしまったイケナイ口を私は再び塞ぎ、目的地へと早く着くよう願いつつ電車の窓から澄んだ青い空を見上げた。
「ようやくつきました……」
そよの待つレストランの前に立ち、私は大きく息を吐く。百合花駅近くのロープウエイで学園のある百合花山へ登り、そこから学園の敷地内を通りぬけた森の中で営業している学生を主な客に据えた商店街に向かうと、そのレストランはある。その行程はおおよそ二キロ。この季節、こんなに歩くと暑くて疲れてしまう。
「それにしても広い学園ですね。どれだけの規模があるのか見当もつきません」
地元住民や寮生活の学生も利用するためか、学園が休みでも商店街は機能しているようだ。学園が誘致したのかどうかは知らないが、商店街にはファッションやフードに限らず、様々な有名店も並んでいる。
「まあ、そんなことはどうでもいいわけですよ。私はそよちゃんと一刻も早く言葉を交わして、和やかハートになりたいのです」
久しぶりに会う親友との甘い時間を想像すると胸が高鳴り、なんだか緊張してきてしまった。ドキドキと止まらない心臓に拳を叩き込むと、私はレストランの扉を開き中へと進む。まばらに席についている少女達が黄色い声を上げながら食事を楽しむ中、私は声をかけてきた店員の言葉も振り切って一直線に、店の隅のテーブルへと足を速める。
「そよちゃん! お久しぶりですっ! 一時間も遅れしまって申し訳ありません……」
テーブルには空いた皿が、いくつも並んでいる。恐らく、そよが平らげた食事をのせていた連中の成れの果てだろう。そんな腹ペコキャラな親友は、ミートソースのパスタを咀嚼しながら、私に手を振った。伝票入れには伝票がいくつも立っており、そよが追加で何度も注文したことを物語っている。
「やあ、涼ちゃんお久しぶり。会いたかったよぅ~。わんわんっ」
「相変わらず凄まじい食欲ですね。私を待っている間にどれだけ食べたのですか」
「分かんない。いっぱいだよぅ。お腹空いちゃって~。それじゃお昼食べよっか」
「え? まだ食べるのですか?」
そんなそよに苦笑し、私も親友に向かって席につく。
「ところで、私の隣に座っているコップに詰まったアイスを食べている子は、どなたでしょうか?」
席についてから気がついたのだが、私の横には可愛らしい青い服を着たブロンドヘアーの少女が座っており、一心不乱にアイスを食べていた。しかし、私が彼女のことを質問した瞬間、その少女の動きと表情は固まり私から顔を逸らす。
なんでしょう、この子は。そよちゃんの何なのでしょうか。
「あ、その子はね、新しく出来た友達のアリス。アリス、あの子は涼ちゃん。私の親友にして命の恩人なんだよぅ~」
「そ、そう。よろしくね、涼」
震える声で挨拶をしてきたアリスと呼ばれた少女。人見知りなのかもしれない。
「よろしくお願いします、アリスさん。私は夏月涼。もしかしたらテレビで見たことがあるかもしれませんが、歌手をさせて頂いております」
「そう。知らないわ」
ん? 私を知らない? この子はなんなのでしょうか。テレビの無い山の中にでも住んでい……まあ、ここ百合花町は山の中ですが、地元出身のアイドルを知らないなんて。テレビも普及しているというのに。……いえいえ、アリスさんが百合花を地元としているとは限りませんね。それでもテレビCMで散々私の顔は流れているはずなのに。
――でも、それなら特別扱いされないで済むから気は楽なのです。
「聞いてよ、涼ちゃん。アリスったらね、涼ちゃんを待ってる間、ずっ~~と、クリームソーダのソーダ抜きを食べ続けてるんだよぅ。こんなに食べたら体がおかしくなるよ。お腹壊してもしらないよぅ~」
「あんたにだけには言われたくないわよ……! 延々とメインディッシュばかり食べ続けていたじゃない、この暴食眉毛犬! 滅べばいいのに……っ!」
「クリームソーダのソーダ抜き? なんなのでしょうか、それは」
「アリスはバニラアイスが好きだから、メロンソーダの部分はいらなかったんだよね~」
「そうね。聞き分けの良い店員で助かったわ。しっかりとコップにソーダだけ抜いて、バニラアイスを入れてくれた。しかもソーダがない分、氷をたっぷり入れてくれたわ。なんてサービスの良いレストランなの。ふふ」
アリスはどうやら変わった人のようだ。そよの親戚なのだろうか。どういう関係なのか激しく気になってしまう。
「ところで、そよちゃん、執筆活動の調子はどうでしょうか」
「全然。全く売れないし、泣きたくなってくるくらい次の仕事が来ないね~」
恐らくそうだろうとは思っていた。好展開があれば、真っ先に私へ連絡があるはずだから。それなら何故、そんな話題を振ったかというと二人で誓った夢を再確認したかったからなのだ。
一緒に頑張ろう、一人じゃないよ。
この手の話題を出すと、そよはいつもそう言ってくれる。
「未来が真っ暗で見えなくても、今を頑張ればきっと先は明るくなるはずだから、私は二人の夢を諦めないで前向きに頑張るよぅ。このマフラーに、そう誓ったからっ」
「はいっ。二人で交わした誓い。その想いをこめた、この胸のリングに恥ずかしくないよう頑張ります!」
プラチナのチェーンに結ばれたシルバーのリング。幼い頃に誕生日プレゼントとして、そよから贈られた物だ。彼女ははマフラーに、そして私はこのリングに二人の夢を誓った。洗い物をしている時に指にしたリングを一度失くして以来、私はネックレスのようにして身に着けている。
「そよちゃんが夢の階段を登ってきてくれるのを、ずっと待っていますね」
「うんっ。二人の夢は絶対に諦めないっ。お互い色々辛いことも悲しいこともあるかもしれないけれど、一緒に頑張ろうね、一人じゃないよ」
そよが優しげで尚且つ力強い笑顔でそう言ってくれる度に、私は何でもできる気がした。小さい頃からずっと。私はこの人に支えられて生きてきた。
「それはそうと、そよちゃん。今日もいつものアレ、させて頂きますね」
「『それはそうと』とか、『ところで』とか、涼ちゃんの口癖だよね~」
「そ、そんなことはどうでもいいのです。……お手っ!」
「わ、わんっ!」
私の掛け声に反応し、そよはその愛らしくも小さな左手を、差し出した私の右手にのせてきた。
「おかわりです!」
「わ、わ、わん!」
今度は差し出した私の左手に、そよは可憐で素敵な右手をのせてくれる。
ああ、なんて愛らしい忠犬なのでしょう。
「う、うぐっ……。は、恥ずかしいよぅ~。人前でやめてよぉ~」
白く美しい肌を紅潮させながら目を潤ませ、そう訴える彼女を見ていると何故か高揚してくる。
「レストランで伏せとお回りは難しいから許してあげます」
「あ、ありがとう~。もぉー……涼ちゃんの意地悪~。ちょっと頭冷やしてくるもんっ」
そよは頬を膨らませると席を立ち、どこかに向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと、そよ。あたしを置いて、どこに行くのよ」
「……お手洗いっ」
拗ねてしまったのだろうか。そんな彼女も、とても愛らしい。
「行ってしまったわね……」
「行ってしまいましたね」
隣に座っているアリスと私を気まずい沈黙が包む。そう言えば私はまだ何も注文していない。だが、それよりも――
「ところで、アリスさん」
私の言葉にアイスを食べようとしていた彼女の手が止まる。
「あなたは一体、何者ですか」
アリスは沈黙し肩眉を上げると私の問いを無視し、口にアイスを運び始める。
「そよちゃんの友達のようですが、留学生ですか? それとも遠い親戚? なんにしても私はあの子とは六歳から七年の付き合いです。でも、あの子が私に友人を紹介したのは今回が初めて。あなたはそよちゃんにとってなんなのですか」
「遠い親戚みたいなものかしら」
「やはりそうでしたか。昔、そよちゃんの口癖だった『滅べばいいのに』をあなたが口にした時、私もなんとなくそう思いましたけれど」
しかし、それなら七年間、私達の間で今まで話題に一度も上らなかったのは何故だろう。そよちゃんとアリスはあんなに仲が良さそうなのに。
「そよちゃんに、西洋人の親戚がいるなんて初めて知りました」
更に問い詰めようかと口を開きかけた瞬間、それを遮るかのように私のスマートフォンが鳴り響く。メールの着信音だ。私は隣りに座るアリスに会釈をし、メールの内容を確認する。
「今夜のライブコンサートのリハーサルが早まってしまったのですか。これはもう今から現地に向かわないと間に合わないのです……」
百合花線のダイヤは少ない。スマートフォンで検索しネットで調べた所、今から急げば次の発車時間に間に合う。それを逃すとかなりの時間を失うことになる。今から向かうにしても、そよに一言残してから立ち去りたい。しかし、待っている時間はなさそうだ。
残念ハートですが仕方がないのです……
「……アリスさん。そよちゃんに伝言をお願いしたいのです」
「私の最高に幸せハートな、そよちゃんと過ごすラブラブタイムを邪魔された上に、こんな暑い日に走らされてはたまらないのです。でも……」
そよなら、夢のために頑張って来て涼ちゃん、そういうに違いない。だから、私は心の底から尊敬している、そよに恥ずかしい行動は取れない。夢に向かって頑張る、それが二人の約束なら私は頑張るしかない。本当はいつだって、あなたと一緒にいたいのに。
私は迷いを断ち切ろうと、胸に下がったリングを強く握りしめる。
「そよちゃんは、どんなに苦しくてもいつだって笑顔で頑張るようになりましたっ。尊敬しているのです。だから私も甘えたことはいっていられませんっ!」
百合花駅に急ぎ山道を走る、そんな私の背後にいつの間にか誰かの足音がついてくる。
「『悪夢』。私はあなたを呼んだ覚えはないのです」
「オレも呼ばれた覚えはないんだけどさ~」
肩越しに背後を一瞥すると、そこには黒髪で浅黒い肌の『悪夢』がとぼけた顔をして走っている姿が目に入った。
私は彼女を忌み嫌っていて、できるだけ視界に入れたくなかったので、まさに『一瞥』しかしていないが、一瞬目にしたその姿に嫌悪感が募る。
「涼のためにも教えとかなきゃいけないとおもってさ」
「涼の『ため』なんて恩着せがましい言い方、虫唾が走るのです。その姿では特に口にして欲しくありません」
私は足を止めて思わず振り返ってしまい、その姿を目に入れて更なる嫌悪感に包まれ後悔する。
この女は不快にも、そよと瓜二つの姿をしているのだ。
まさに悪夢だった。髪と肌の色は違うとはいえ、私の最も尊敬し、最も愛して、最も信頼している親友と同じ姿をしている上に、内面は反吐が出るほど醜い。利己的で押し付けがましく、自分が正しいと思い込んでいる。涼のためだから、と鬱陶しいくらいことあるごとに連呼してくる。そよとは正反対だ。同じ姿をしているという、その存在自体が私の宝を汚している。
「何が気に入らないのか分かんない……。オレは涼のためにいつも働いてるのにさ」
「頼んだ覚えはありません。それで。なんなのでしょうか。用件だけ言って、とっとと消えて欲しいのです」
私の言葉に『悪夢』は歯を見せながらニヤけ、あのアリスのことなんだけど、ともったいぶったような口調で語り始めた。
「あいつ、人間じゃないね。あいつの正体を涼が知りたがってたから教えてあげるのさ。喜んでくれよ」
「喜ぶかどうかなんて聞いてみなければ分からないのです。どうしてそうムカッ腹が立つトークしかできないのですか」
「何が気に入らないのか分かんないんだけど……。喜んで欲しいだけなのにさ」
イライラハートが爆発しそうな『悪夢』の物言いに私は思わず手が出そうになってしまったが必死に堪らえ、先を促す。
「アリスってやつはオレと同族さ」
「お前と同じ? ……それってつまり」
「そう。『悪夢』なのさ」
私は思わず、レストランの方角へと勢い良く顔を向ける。
「あいつ……。何が親戚ですか。デタラメ言っていたのですね」
「そりゃそうさ。『悪夢』が自分を『悪夢』です、とかレストランで初対面の相手に名乗ったって信じてもらえないだろ」
「お前は初めて出会った時、そう名乗ったのです」
『悪夢』として生きてきた長い年月、こんな素晴らしい歌声に出会ったことはない。惚れてしまった。涼のためならなんでもやる。だからそばにおいてくれ。突然目の前に現れた少女にそう告げられ、私は困惑した。何せ彼女は、そよの姿をとっていたのだから。『悪夢』は接触する相手の最も見たくない、恐怖や嫌悪感を募らせる姿や形、そして性質をとるという。つまり私にとって、この『悪夢』は嫌悪の対象そのものなのだ。私にとって何よりも尊い姿をし、吐き気を及ぼすくらい不快がこみ上げてくるような性格をしている。クラスにいたら絶対に友人にはなれていない。
「別の姿になってくれたら、それこそ私のためになるのです」
「涼の『悪夢』である以上、他の姿には変われないのさ、これが」
「そんな相手に付きまとわれて、心の底から悪夢なのです……」
「そりゃそうだ。オレはどう転んでも『悪夢』なのさ」
そよと一緒にいたアリスという『悪夢』。あいつも私の大切な人に悪影響を及ぼしているのだろうか。それにしても親しげな雰囲気に見えたのだが……
「それともう一つ言いたいことがあるのさ」
その結論を後回しにした悠長な喋り方に私のストレスは嵩んでいく。同じ悠長な喋り方でも、そよの場合は溢れるばかりの愛らしさがあるために聞いていて幸せハートが増していくばかりだが、この『悪夢』と話していると苛立ちしか増していかない。
「『夢』の匂いがしてさ。やっつけて欲しいんだよね。オレ、そろそろお腹ペコペコで」
「私は今急いでいるのですが。分かっています? 自分で倒してこいなのです」
「オレが『夢』に負けちゃったらさ、もうナイトメアに変身できなくなるんだぞ? それは困るんじゃないかぁ~?」
それはこいつの言う通りだった。私はそよを守るために、どうしてもナイトメアであり続けなければならない。またあんなことを起こさせないためにも。
「分かりました。それで『夢』はどこに――」
「心配いらない。誘導して、ここに連れてきているさ」
『悪夢』がその言葉を切った瞬間、山森の中から白衣を着たような巨人が木々をなぎ倒しながら現れた。
『ドクトルゥウウウウウウウウウウウウ』
薄気味悪い表情と顔つき。そして訳の分からない奇声を発しながら、『夢』と言う名の化物はこちらへと迫ってくる。
「自由に移動する、自らの空間を持たないタイプの『夢』ですか」
私は胸のリングを指で弾き、左手の平を外に向け両目を覆うように眼前で指を広げる。
「ナイトメア・ドレスアップっ!」
その言葉と同時に胸のリングは黒い光となり掻き消え、刹那、私の左薬指へと黒く輝く光の粒子が集まり再び指輪の形となった。指に合わせてリングのサイズも整っていく。
そしてリングから黒い光が溢れ、まるで黒い炎が私の全身を走る日のように覆うと、全ての輝きは漆黒のドレスへと変じた。
「闇よりも深き双影。ナイトメア『エンゲージ』!」
エンゲージ。その名を冠する黒きドレスを纏うナイトメア。それが今の私だ。
漆黒のドレス。レースや多彩な飾りに彩られた地面を擦るような長く、そしてパニエにより膨らんだ豪華なスカート。素肌を晒している両肩と鎖骨。胸元にはドレスと同じ色合いのフリージアの花飾り。そして腰には一対のフルーレを携えている。ドレスは風もないのに揺れ続け、黒い染料が辺りの空間に溶け出しているかのように見える。闇そのものを織り込んだように。揺れる黒い炎のようにドレスからは、闇が溢れだしているのだ。その闇は黒い霧の如く徐々に量を増していき、やがて周囲をまるで太陽が沈んだかのように染め上げた。
「私は自らの空間を持つタイプのナイトメアなのです」
自らの創りだした闇夜の空間。まとわりつくような黒い霧は相手の動きを制限し不利に働く。
「医者のなりそこないか何かの『夢』でしょうかね」
私は二本のフルーレを抜き、腕を交差させ身構える。
「あなたの夢、悪夢で終わらせましょう。観念するのですっ!」
言い終えると同時に、私は地を強く蹴り巨人のような醜い『夢』へと瞬時に接近する。その動きを追うように影のように黒く染まった姿をした少女が、私と同じ動きをしながらついてくる。素早く駆け抜けると同時に巨人の右肩元を数回斬りつけると、影法師の少女も二本のフルーレを持ち、同じように斬りつけていく。哀れな『夢』の右腕は肩から切断され、地面へと落ち鈍い音を上げた。私に付き従う影。それが私の力。その影は最愛の親友を象った姿をしている。『夢の衣』が形にした私の本当の願い。
私と影法師は『夢』の残された左腕も斬り落とし、膝をついたその巨体から距離を取ると剣を胸元に構える。
「可哀想な『夢』。そろそろ楽にしてあげましょう」
そう呟き、左腕を腰に当てると影法師は脱力し、その場で停止する。そして私は左腕を腰に当てたまま、闇を裂いているかのように右手のフルーレを激しく振る。
剣が空を裂く、ヒュンヒュンという風切音の耳障りが良い。すると切っ先から白いラインが描かれ、やがてそれは結ばれると形となり闇夜に描かれた巨大なフリージアとなった。書き終えた瞬間、フリージアは質量を持ったかのように実体化し、空中に浮かび咲く漆黒の花となる。
「散るのです! 闇夜に咲く花のように!」
私はそう叫ぶと、その場でくるりと回転し、左手のフルーレをフリージアの中心に後ろから突き立てる。
「挫き尽くせ! シャドウ・フリージア!」
漆黒のフリージアの花弁は、その瞬間、ばらばらに散ると砕け散ったガラスが降り注ぐかのように『夢』へと迫る。花弁に触れた『夢』はまるで巨大なハンマーで殴られたかの如く歪み、そして次々に当たる黒い花に触れるたび捻れていく。ねじ切られ、無残にも粉々になった『夢』に背を向けると、背後から眩い光が溢れだす。恐らく過去には輝いていたはずの、誰かの願いと未来が詰まった『夢』が放つ最後の光だ。
「さようなら。哀れな『夢』さん。どうか良い夜を」
その言葉を言い終え、二本のフルーレを腰の鞘に収めると同時に光は消滅した。『夢』を生み出した誰かの持つ夢の終焉を告げる瞬間でもある。
「さすが、エンゲージ。過去最大級の『夢』を倒したこともある最強のナイトメア。強い強い。オレのために頑張ってくれて、どうもありがとう」
『夢』を倒した感傷に浸る暇もなく、『悪夢』は馴れ馴れしくも話しかけてくる。
「確実に、お前なんかのための頑張りではないのです」
「オレの食欲を満たすための頑張りなんだから、オレのためなのさ。謙遜するなよ。感謝してるさ~」
フルーレを抜いて、この『悪夢』の首に突き立てたい衝動に駆られてしまったが、こいつを消滅させると私のナイトメアとしての力も消えてしまう。羊の数を数えて私は落ち着くことにした。本来、眠れない時にする作法のようなものらしいが、私は羊の数を数えていると心が静まるのだ。
羊が一匹。羊が二匹。
「羊が三匹。羊が四匹……って、あっ! 時間! 時間がないのです!」
すっかり忘れていたが、急がなければリハーサルに間に合わないのだった。仕事には送れないのが私のモットーなのに。私は慌ててリングを外す。すると、リングと同時に衣装が掻き消え、元の私服に戻り、指輪は首から下げられたチェーンの先に戻る。
「焦りハートがマックスなのですっ……! 急がなければ~!」
慌てて駈け出し、躓きかけながらも私は駅に向かって全力で走りだした。
「ただいま~! やっぱり我が家は癒やされるよぅ~。わんわんっ」
「ええ、お帰りなさい。って、あたしも一緒に帰ってきたのだから言うなら、ただいまよね。ただいま、我が家」
あたしは赤に染まったリビングのソファーに腰を落ち着かせ伸びをする。ほんのり疲れているようで、眠気が押し寄せアクビが出た。レストランでの食事を終え、あたしとそよは帰宅した。涼に急用が入り先に帰る旨を、そよに伝えた時、いつも笑顔の彼女が珍しく落胆していたように見えた。笑顔こそ崩してはいなかったものの、どうにも寂しそうな表情をしている。
「残念だったわね。涼とゆっくり話せなくて」
「残念だったけれど、お仕事ならしょうがないよぅ」
あの涼という少女は、そよにとっては余程大切な存在だったのだろう。この子には心の底から笑っていて欲しい。普段の素敵に眩しい彼女の笑顔がそう思わせる。
「そうだ。すっかり忘れていたけど、涼から伝言と一緒にチケットを預かっていたのよ」
あたしはエプロンドレスのポケットから、しわくちゃの……預かったチケットをしわくちゃにしてしまって申し訳ないが、とにかく預かり物を彼女に手渡した。ポケットに折りたたんで突っ込んだまま、すっかり忘れてゴロゴロしていた結果、この有り様になってしまったようだ。
「涼って子のライブが今夜あるのでしょう? そのチケットらしいわよ」
「うん。知ってる。私ね、今夜のライブチケットは自分で買って用意してあるんだ~」
「そう。涼は、あんたにライブがあるって事前に教えるのを忘れていたからって悲しそうにしていたわ。当日にチケットを渡しても来てくれるか分からないって落ち込んでいた」
そよを大切に思っているのね。それまで、あたしに冷たい目を向けていた涼だったが、私のその言葉には優しそうな目をすると笑って応えてくれた。きっと心の底から、このワンコをかけがえなく思っているのだろう。少し羨ましいと思った。二人には思い出と歴史があるのね、と。そよも涼と話している時、とても幸せそうな表情をしていたから。
「涼ちゃんは自分のライブがあると、いつもチケットを送ってくれてたから今回はどうしたのかなーって不思議に思ってたけれど。別にチケットくれなくても自分でチケットは手に入れるのにね~」
そうは言っているものの、涼がチケットを用意してくれていたので気を良くしたのか、そよの表情は花が咲いたかのように一気に明るくなった。まさに花のような笑顔である。
「ふふ、良い笑顔ね、そよ」
「え? そう? ありがとう、わんわんっ。でもチケットが二枚になっちゃったね。あ。そだそだ~」
そよは柏手を打つと、満面の笑みで赤い棚の引き出しを引き、中をゴソゴソと漁り始めた。そんな彼女に、犬が土の中に埋めている宝物を掘り当てようと必死に地面をかいている姿を連想して、あたしはついつい和み微笑んでしまう。
「あったあった。私ね~、意外と物の管理は適当で~」
「そう。あんた、しっかりしているけれど色々適当で杜撰そうだし、意外でもなんでもないけれど。それよりも何をみつけたのかしら」
「私が買っておいた涼ちゃんのライブチケットだよぅ~。アリスに、これあげるっ」
「ほう。このあたしにライブチケットをくれるというのね」
しわくちゃではない方のチケットを受け取り、あたしはしばらくその紙切れを見つめ続ける。
「え? あたしがライブに? 人が大勢いるのよね?」
「涼ちゃんは人気歌手だから、それはもう大勢いるよね。大勢いるけれど、せっかくだし、一緒にライブへ行って涼ちゃんを応援しようよぅ、わんわんっ」
「じょ……」
冗談じゃないわ!
と叫びそうになったが、あたしは噎せて咳き込んでしまった。器官に入った唾液との戦いが始まる。苦しみのあまりにたたらを踏んでいると部屋の片隅にあったパソコンデスクの脚に、あたしは足の小指をぶつけて、さらなる試練が降りかかってきた気分になる。
「痛い痛い……! ここっ! 見て、ここ! 小指ぶっけた……! 痛いじゃない!」
「見てって言われてもスリッパ越しに足の小指は見えないよ、アリス~」
どうでもいいが、あたしの真っ赤なスリッパはウサギさんの形をしている。赤いウサギってなんなのだろう。それより足の小指が痛い。いや、それよりも、だ。
「あたし、嫌よ。ライブなんて。自慢じゃないけれどね、人が大勢いる場所なんて怖くて近寄れないわ」
「どうして誇らしげに言ってるのか分からいけれど、私が一緒だから怖くないよぅ~。大丈夫」
「そよが一緒でも怖いものは怖いの。嫌よ。絶対に、お断り。滅べばいいのに」
「ライブの帰りにジェラート専門店に寄ってこようかな~」
「……ん? ジェラート? アイス屋さん……?」
「うん。美味しいお店知ってるの」
「バニラアイスはあるのかしら」
「もちろんあるよぅ~。他にも色んな種類のアイスが――」
「さあ、支度しなさい、そよ! あたしはライブに行くのも初めて! 緊張するわ。心臓の鼓動が早まりすぎて爆発しないか心配よ。まさにデッドオアライブねっ!」
あたしが興奮して、そんなわけの分からないことを口走っていると、そよは楽しそうに笑いパソコンデスクの前にある椅子に腰掛ける。
「ライブに行くには、ちょっと時間が早すぎるよぅ。少しお仕事させてもらうね~」
「お仕事? 絵を描くのかしら」
「ううん。お話を書くほうかな~。小説を二冊、出版させてもらえたけれど、まったく売れなくて」
「そう。あんたの絵は売れているのに、小説は鳴かず飛ばずの悲しい現実の壁にぶつかっているらしいわね」
「うんっ。夢を目指してぶつかる壁なら、私は幸せだって思うよ。だって自分で選択した道を進めてるから。幸せだよ。例え売れてなくてもね。それに夢を目指してぶつかる壁や困難に立ち向かって頑張るのが大好きだから。燃えるっ!」
「そうね。『夢』と戦っている時も、あんたはそう言っていたわね」
心の底から今を楽しんでいる、そんな眩しい笑顔と希望に満ちた輝く瞳。そよの魅力は、そういう前向きな姿勢なのだろう。あたしは、そんな彼女に惹かれている。
「そんなあんたが書く小説。読みたくなってきたわ。あるなら借りてもいいかしら」
「本当!? 嬉しいよぅ、わんわんっ! そこの本棚に入ってる本、全部私の作品だよぅ。赤い本棚に赤い革製のブックカバーで分かりにくいかもしれないけれど」
そよの指差す先には真紅の本棚が異様な雰囲気を醸し出しながら立っていた。ニ段目と三段目には赤いブックカバーに覆われている本と思われる物体が乱雑に並び、床と接している一段目にはゲームソフトやゲーム機が置いてある。一番上にあたる三段目の本の背表紙には全て一号と白いペンで書かれており、二段目の本には同じように二号と白い文字で書かれている。
「なんて言ったら良いのかしら。なによ、これ」
「一号が初めて出した本で、二号が二番目に出した本なの。ちなみに本のタイトルは一号や二号じゃないからね。あまりにも売れてないから自分で買ったんだ~」
「一号は一号、二号は二号で、それぞれ同じ本なのね」
「うん。えへへ~。読んでくれるなんて嬉しいなぁ」
真紅のレザー製ブックカバーに白いペンで一号と書かれている、春野そよ著作、何かの本は手に取っても異様な雰囲気を醸し出していた。恐る恐る開くと中は至って普通の挿絵と内容だった。あまりにも普通だったので三ページ目で飽きてしまった。
「ん~。その顔は面白くないって顔だね~」
「え? わ、分かる? ごめんなさい。……あたしの好みではないかもしれないわね」
「気を使って曖昧に表現しなくてもいいよぅ~。つまんないんでしょ? それが世間様から私へ下されてる正当な評価だからね~」
淀みのない笑顔でそう言う彼女に、あたしは思わず首を傾げてしまった。自虐でもない。世間を揶揄しているわけでもない。そよの作品を面白いと感じられなかった、あたしへの皮肉でもない。心底言葉の通り受け入れているのだろう。
「夢を叶えるのは簡単じゃないよね。夢を叶えた人は叶えた後も叶える前も必死に頑張ってる。だから、私も夢を目指して頑張ってお話を書き続けるんだ~」
「本当に前向きね。嫌いじゃないわ、そういうの」
ありがとう。そう言って笑う彼女を見ていると、あたしも何か夢を持って頑張りたい、そう思えてくる。
「まあ、私が本気出したら十万部くらい軽く突破できるんだけれどね。今は何部売れたのか言いたくないくらい売上が悪いけれど。くぅーん」
そよが悄気げた犬のような声を上げたので、ついつい彼女の頭を撫でてしまった。まさに犬だ。撫でたくなる衝動を抑えきれなくなる。とは言っても知識として知っているだけで実物の犬と対面したことはないのだが。
「それにしても凄い自信ね。本気を出したら十万部? それならどうして本気を出さないのよ。あんたは負け惜しみを言うタイプではないはずよね」
「うん。本気を出すっていうか、お金を出すって言い換えたほうが正しいかな~。十万部くらいなら余裕で買えるからね~」
「自分で買うの!? 一冊、いくらするのよ!?」
「八百円くらいかな~。わんわんっ」
約八千万円。百五十円くらいのバニラアイスがいくつ買えるのだろうか。
「自分で買ったのに十万部突破! とか話題になってもね。心が痛いっていうかなんていうか。実力じゃないっていうか。ある意味、実力行使だけれど、何かが違うよね」
「お金が有り余ってるなら広告費に使うとか、いくらでもやりようはありそうだけど。というより、そんなにお金が有り余るくらい成功しているなら、もう画家でいいじゃない」
「私が創りたいのは絵じゃなくて物語だよ。不思議国のアリスみたいに、ずっと愛される世界を創りたい。それが私の夢」
輝く強い瞳で、そう言われてしまうと何も言い返せなくなってしまう。開花した能力、そして才能に溢れる分野には彼女の夢はなく、まだ花が開いていない花壇にこそ、そよの夢はある。そういうことなのだろうか。
「頭に浮かんだ物語を文字で表現できなくて苦しくなった時、発作的に描いてた絵が運良くオークションで高く売れちゃって、それから私の絵に需要が生まれただけ。夢の副産物だよぅ」
そう言うと彼女は、こちらに背を向けてパソコンの電源を入れた。
「それじゃ出かけるまで、お仕事するね。アリス、ゲームするなりテレビ見るなり自由にしてて~。家の中の物、好きに使っていいから」
そよは無言になり、リビングには彼女が打つタイプ音だけが鳴り響き始めた。そよの表情からは笑みが消え真剣な表情で必死にキーボードを叩いている。笑っていない彼女を見るのは初めてかもしれない。
どうしてかしら。そよの凛々しい顔を見ているとドキドキしてくる。いつものほわほわと柔らかい雰囲気が消えて、どことなく怖さすら感じる表情なのに。夢に向かって頑張っている人間って、やっぱり素敵なのね。輝いて見える。
そんなそよを食い入るように見つめていると、あたしの視線に気がついた彼女はこちらへと顔を向けてきた。
「どうしたの、アリス。一人じゃ、つまらないかな~?」
いつもの優しげで温かい笑顔に戻った彼女に、あたしは慌てて首を振って応える。
「一緒に遊ぶ?」
「ち、違うのよ。夢に向かって頑張っている邪魔をしたくないわ。ちょっとだけ、あんたが素敵に見えたっていうか……滅べばいいのに」
「素敵だなんて。ありがとう、アリス。わんわんっ」
「どういたしまして」
あたしがどうしたいのか察するのは得意でも、自分に向けられている好意や想いには鈍いのね、この鈍感眉毛犬……。しょうがないわね、眉毛太いし。眉毛が太いのは関係ないけど。
自由にしていてと言われたので、そよの観察をこのまま続けていても良かったのかもしれないが、それは執筆の邪魔になるかもしれないので思い止まる。何をしていようかと悩んでいると、ふと、非常に幸せだったあの記憶が頭をよぎる。そよは家の中の物を好きに使っていいと言っていた。それなら、やることは一つしかない。
お風呂よ! お風呂に入るわ! もう一人でも入れるはず! いつか湯船に浸かりながらバニラアイスを食べたいわね!
あたしは鼻息を荒くしながらリビングを出て、バスルームへと向かった。
「それはそうと私はこれから忙しいので、お前の相手をしている暇は全くありませんし、邪魔だから消えていろと言いたいのです」
ライブ会場の控室、後は出番まで文字通り控えているだけなのだが、どうにも背後でウロウロとしている『悪夢』が癪に障って仕方がない。
「嫌だね。オレがいないと涼が一人になっちゃうだろ? 涼がプレッシャーに負けないように側で支えてあげたいのさ」
「吐気をもよおしてきました」
「それは大変だ、ほらこいつに吐いちまえよ」
そう言いながら、コンビニ袋を仕切りに押し付けてくる『悪夢』の目に親指を突きたてたい衝動を抑えながら、私はスマートフォンを開き、何度も受信メールの問い合わせを行う。そよからメールは着ていない。ちゃんとアリスとかいう『悪夢』は私の言葉とチケットを彼女に届けてくれたのだろうか。不安になってくる。『悪夢』だと知っていたら、チケットを預けたりはしなかった。
「忌々しい『悪夢』共め……なのです」
「何を怒ってるのさ。何が気に入らないのか分かんない……」
私のイライラハートを一切、汲むこともない『悪夢』。一緒にいるだけで荒んでくる。
「そよちゃん、来てくれるって信じてます」
そよが客席にいてくれる、そう思うと私はいつもの何倍も頑張れるのだ。その証拠にライブのツアーで全国を回る時、そよが客席にいてくれたステージはいつもの何倍も評価が高い。その不安定さはプロの歌手としてどうなのかと思うが、私の想いは全て親友のあの子へ捧げているので仕方がない。全ての歌は、そよへの想いと願いがこもっているのだから。
有名な歌手と俳優の娘として生まれた私は、幼い頃から良い意味でも悪い意味でも特別扱いをされてきた。この『悪夢』も同じだ。でも、そよは違う。
私にできた、たった一人の友達。一緒に夢を誓い合った親友。
何よりも大切な――
「涼の歌声を聞けるなんて客席の連中幸せだよな。感謝しろってのさー」
そよへの想いを馳せていた思考を『悪夢』の言葉で遮られ、私のこいつに対するイライラハートが更に強まっていく。
「忙しい中、時間を割いてまで私の歌を聞いてもらえて、ファンの皆様には感謝を募らせてこそ、感謝しろだなんてふざけたこと考えたこともないのです」
「謙虚だねぇ。さすがオレの涼なのさ~。いよ、天下一のアイドルっ。その言葉、ファンの連中に聞かせてやりたいぜ」
もうこの『悪夢』の相手をするのもバカバカしくなってくる。
「そよちゃんの姿をしているくせに、お前の中身は言葉を交わすのも時間の無駄だと思えるくらい腐ってるのです」
「オレはいつも涼のためを思って行動してるのに、その態度はなんなのさ。少しは感謝しろよ、自分勝手だな」
「『夢の衣』を与えてくれたことだけは感謝してますけど」
「だったら、もっと態度で示したらいいだろ。涼ってたまに、ムカつくやつになるよな」
もうダメなのです。
これ以上、こいつと言葉を交わしていたらシャドウ・フリージアを、その顔に叩き込みたくなってしまう衝動を抑えきれなくなる。そよの愛らしい顔と同じ顔を持ちながら醜く表情を歪めながら喋る、こいつ顔面を吹き飛ばせるなら段々と後のことなど、どうでも良くなってきてしまう。それなら、こいつの顔を見ないで済む上に口も封じられる。一石二鳥の誘惑に抗うのは大変なのだ。ナイトメアでいられなくなるというデメリットがなければ今すぐ実行している。
「……まあ、そよちゃんなら、こんな『悪夢』の言葉、寛大ハートで笑ってスルーするのです。私も大人になりましょう。いちいちろくでもない相手の言葉を気にしてたら疲れるだけですから」
私は彼女を無視すると決め、スマートフォンへと目を移そうとした瞬間、『悪夢』は両肩をいきなり掴んできた。
「そよ、そよ、そよ、そよ。あいつのことばっかり繰り返しやがって! お前はオウムか! お前のそばでいつも支えてるのはオレだろ! オレを大切にしろよ!」
「……お前にッ。お前なんかに支えてもらった覚えはないのです……!」
「辛くて泣いてる朝も昼も夜もオレがそばにいたろ。そよなんかよりオレが――」
「そよちゃんを、なんかって言うな!!」
思わず私は怒声を上げ、『悪夢』を思い切り突き飛ばす。その時だった。喉に何か違和感を覚えたのは。声が詰まるような。不快な感覚。しかし、壁にもたれかかり、にやにやと笑っている『悪夢』が上げる奇声を耳にした瞬間、その違和感も頭の中から消えてしまった。
「お前なんかが私の大切な宝物を『なんか』呼ばわりするのは許さないのです。もう、うんざり。今すぐお前の心を破片までも挫き尽くしてあげましょう」
「オレがいなくなったら涼は困るから、そんな真似できやしないのさ」
「そよちゃんを守るためにナイトメアの力を所有していたかった。でも、お前と一緒にいると私が先に潰れそうなのです」
「……バカじゃないのか? そよだって、お前なんかもう必要ないのさ! レストランで見たろ、あの『悪夢』!」
胸に下げたリングに宿した『夢の衣』に触れ、ナイトメアへ姿を転じようとしていた私の指が止まる。
「それはもう仲良しそうだったろ。そよと、あの『悪夢』が会話をしていたのを見たのは短い時間だったけどさ、涼は嫉妬してたろ」
こんなやつに心を見透かされたようで、怒りと屈辱で私の顔は熱を帯びてきた。
「真っ赤に照れて可愛らしいさ。でも、そよのことは諦めたほうがいいね。もうお前より、あの『悪夢』が大事なんだからな」
もういい。消えろなのです。
しかし、今度こそ『悪夢』を終わらせようと、リングを弾こうと伸ばした指はドアのノック音に遮られてしまう。そしてノック音と同時に『悪夢』は姿を消した。
「……どうぞ」
椅子に腰掛け、なんでもない風を取り繕った私の言葉に、ドアを開いて顔を覗かせたのはマネージャーの女性だった。
「涼ちゃんの怒鳴り声が聞こえたから、どうしたのか心配になって」
「なんでもありません。虫がいて、つい叫んでしまっただけですから。虫は見ているだけで、ぶるぶるハートが止まらなくなるのです」
虫を捕まえると言ってくれたマネージャーの申し出を丁重に断り、私は乱れきった心を落ち着かせるため羊の数を数え始める。
羊が一匹、羊が二匹。
そよちゃんは私を必要としてくれるのです。
羊が三匹、羊が四匹。
そよちゃんは私と二人で願った夢を忘れたりはしないのです。
羊が五匹。羊が六匹。
それでも私の心はステージに入るギリギリの時間、羊を千匹数えるまで不安に満ちていた。
「涼もナイトメアだったんだなー。『悪夢』は、やっぱり悪いやつらなのかな。涼が可哀想だ」
夜のリビングでソファーに座りながらテレビを見ていた京子はのんきに、アニメの感想を呟き、あくびをする。このアニメの第一話を見た翌日、友人が作中のキャラクターである『夢』に捕まってしまったかのように失踪した。あれから一週間経ち、二話を見たら何か行方不明になった翼の手がかりでも掴めるかと思ったが、特に何も役に立ちそうな情報は得られなかった。
「翼さんは、どこに連れてかれちゃったんだろうなぁ」
頭の後ろで両手を組み、背もたれによりかかった京子の視界の隅に一瞬何かの姿が入りこんだ。いや、誰かの姿だ。黒い髪が見えた気がする。
「誰? 誰かいるの?」
京子はソファーから腰を上げ恐る恐るリビングの中を見渡すが、やはり気のせいだったのか、誰の姿もない。安堵の息を漏らし、テレビを消そうとリモコンがあるテーブルへと振り返ると同時に、京子は声にならない悲鳴を上げた。
「……ッ!? あ、あっ……」
そこにはテーブルの上から焦点の定まらない目でこちらを見下ろす、長い黒髪を垂す少女の姿があった。怒りも恐怖も喜びも悲しみも、どんな表情すらも浮かべていない少女。深い闇のような瞳には何も映ってはいないように見える。白いワンピースと黒塗りの眼球が対照的で恐ろしさが増してくる。
「だ、だ……れ」
形になった恐怖が喉に詰まったかのように声がでない京子が、無理やり絞り出した言葉がそれだった。
なんなんだ。あのアニメを見てから日常がどこかおかしい。なんなんだ。
京子はありったけの悲鳴を上げると、リビングから必死の思いで逃げ出した。
「それにしても、あんたの地元って自然豊かね。夕陽に包まれた木々は美しく思えるわ」
「うん、そうだね~。百合花町は自然豊かで、のどかな所だよぅ~」
そよと二人、あたしは涼のライブステージが行われる会場へ向かうため、駅へと山道を歩き進む。自然に溢れるとても素敵な場所だとは思うが、迷子になったら下手したら命の危機に直面しそうな程には実に山道だ。実に山道だと妙な表現をしてしまったが、実際にそう表現するのが一番だと思われる程に山道だ。
「……そよと逸れたら一生彷徨ってしまいそうな場所ね。あんた、そう言えば方向音痴って言っていなかったかしら。大丈夫? ちゃんと駅に向かっているの?」
「私は生まれつき方向音痴で、京都駅や大阪駅に行くと迷子になって大変だけれど、地元ではたまにしか迷ったことないよぅ」
「たまには迷うのね……」
「うんっ。たまにはっ。わんわんっ」
「迷い犬に付き合って、迷い『悪夢』になったら笑えないわ」
「迷子札書いてあげようか~? うちの住所付きの。それなら好きなだけ迷走しても大丈夫だよぅ~」
「いらないわよ……っ! 滅べばいいのに! 迷子札は、あんたが首から下げてなさい、この迷い眉毛犬!」
あたしの言葉に、そよは微笑むと空を見上げ目を細める。その瞬間、緩やかな風が彼女の白い髪を靡かせると甘い香りを運んできた。赤い縁の眼鏡に、赤いリボンのついたツバの大きなストローハット。赤いマフラー。そして彼女は休日なのに学校指定の制服を着ている。夕陽が差す山間の道。幻想的な雰囲気の中、そよはまるで夢の中を生きる可憐な女神のように思えた。
――不思議な子。
十三歳にして危機に瀕した際にも落ち着き払った態度を取り、ナイトメアの力にも振り回されず、『悪夢』の存在も『夢』との戦いも、まるで当たり前のことのように受け入れる。
茜色の光を浴びて空を眩しそうに見つめる美しい彼女を見ていると、何故か胸の鼓動が早まってきた。
「なんて綺麗なの……」
心に浮かべたはずの、その言葉が思わず口から漏れてしまった。そよはこちらに視線を向け頷く。顔中が熱くなるのを感じた。
こんな眉毛犬を、つい綺麗と褒めてしまうなんて。屈辱……。
あたしは恥ずかしさのあまり、そよから顔を背ける。
「うんうん。春はね。もっと綺麗なんだ。名物の桜が咲いて、本当に素敵で」
「百合花町なのに桜が名物なのね」
「うん、百合桜って品種の桜なんだよぅ」
だああ! あたしは自然の美しさに感極まっていたわけじゃないのよ!? 鈍感だわ! この犬! 本当にもう、自分に向けられた好意やら褒め言葉には、とことん鈍いのね!
そんなあたしの内心を置き去りに、そよは嬉しそうに地元の話を続ける。
「今は夏だから、アリスが桜を見れるのは来年になっちゃうね~。きっと感動するよ。霧が出てる時の桜なんて最高だよぅ」
「……そう。そんなに綺麗なのね。見てみたかったわ」
そう呟いて足を止めると、そよはあたしの手を握り満面の笑みを浮かべる。
「な、なによ」
「うん。来年の春になったら一緒に見ようね。お弁当持って」
「一緒に? 二人で……?」
「うん。二人で」
そよの手から彼女の体温が伝わってくる。
「来年の春まで、あたしはあんたと一緒にいてもいいの……?」
「当たり前だよぅ。約束したでしょ?」
「約束……」
そう言って首を傾げると、そよはあたしの髪を指で撫で頷く。彼女の指先が頬に触れ、擽ったかった。
「私はアリスを守る。アリスは私と一緒に暮らす。約束したでしょ? 来年も再来年も、ずっと一緒」
ずっと一緒。どれだけ生きてきたのか記憶にないくらいの時間を一人で過ごしてきた、そんなあたしにとって、それは胸を打つ言葉だった。
「どうして、あたしに優しくしてくれるの……? 一緒に暮らしてくれるなんて。知り合って間もないのに」
「アリスは気に入ったっていう理由だけで命を賭けてまで私を助けてくれたよね。私の夢と未来を守ってくれた。そんな人を私は尊敬するし……って、これ言うの二回目だよね。それに――」
そよは語尾を濁して頬を掻くと、あたしに背を向け歩き出す。
「そ、それに? それになんなのよ」
「それに。私もアリスのこと気に入ったから。話してて楽しいし」
振り向いて、照れくさそうに笑う彼女を見た瞬間、あたしの心臓は鼓動をかき乱されたかのように激しく高鳴ってきた。
「こういうの慣れてないんだけれどね。人に好意向けるとか向けられるとか。なんて言うか、えっとぉ……」
「え、ええ」
「……アリスのこと、大好き」
この刹那、あたしの心臓は一時的に止まったかもしれない。それ程の衝撃が全身を駆け巡ったのだ。
大好き? 大好きっていうと、あの大好き? 好き嫌い的なあの好きの大好き? え? あたしは『悪夢』よ? 人から好意を向けられる対象であるはずがないのに。そんな、あたしに対して大好きって言った? 大好き?
「一緒にいたい理由は、それだけじゃ足りないかな」
そよは頬を高調させながら上目遣いで、そう言った。あたしの心臓を更に直接攻撃して来たかのような甘いコンボに、意識が失われるかと思われるくらいにはドキドキと胸が暴れだす。あたしを見つめる澄んだ桃色の瞳が、たまらず愛おしく感じられる。
「そよ……。なによ、大好きなんて。バカ……。滅べばいいのに……」
全身が熱い。今のあたしは赤面の遙か上を行く赤面をしているに違いない。超赤面とでも表現すればいいのだろうか。星々の瞬きで例えるなら超新星爆発的な赤面だろう。というように、訳の分からない思考が錯綜するくらいに今のあたしは動揺している。
「ごめんね、アリス。変なこと言っちゃって。でも今はね、純粋に好きだから一緒にいたい。それだけだよ」
「……うん。あたしも、そよのこと……」
そよのこと大好き。そう言葉にしようとした瞬間だった。不快な気配を感じたのは。
かなりの速度で近づいてくる。よく知った臭いを放つ相手。
「どうしたの、アリス?」
「……『夢』よ。このままじゃ接触は避けられない。気をつけて、そよ!」
そよが警戒したような面持ちで空を見上げた瞬間、一望は変化した。
空は様々な絵の具を水の中にぶちまけたような不気味な色彩に変わり、周囲には絵画がまるで画廊のように無数に並んでいる。壁もないのに。道路沿いや山の中、所構わず、壁があるかのように整然と絵画が並ぶ姿は、どこか背筋が寒くなるような薄気味悪い光景だった。よく見ると足元や道には無数に絵の具のチューブや筆などが散らばっている。
「見て見て、アリス。空が面白い色してる~。なんだか絵も沢山展示されてるよう~。落ち着いた美術館みたいな雰囲気だね。わんわんっ」
「……お、落ち着いた美術館みたいな雰囲気? 本気で言ってるの?」
あたしのその問いに、そよは嘘偽りなど微塵もないと言ったような純粋無垢な笑みを湛えながら頷く。
「空も不思議な配色で面白いし、沢山の絵が並んでて見て回るのも楽しそうだよぅ。でも今はライブに遅れちゃうといけないから、ゆっくりしてられないけれどね~」
パイロットの『夢』が作った空間の中に入った時もそうだった。そよはあの紙飛行機が舞う突然現れた不気味な静まり返った青空の下、むしろ爽やかなものを見るかのように和やかな表情を浮かべていた。恐怖や嫌悪感を微塵も持っていなかったように見えた。本来、『夢』に取り込まれてなお正気を保っているなら、まず感じるのは恐怖や不安、不快感などのマイナス感情のはずなのだ。夢に共感する場合もあるだろうが、どうでもいい他人に、どうでもいい夢を延々と語られたら不快だろう。『夢』はそれを更に上の段階で強要してくるようなものだ。人の心の風景が描かれた空間。それは普通の世界とはズレてしまった歪んだ場所、違和感は、やがて不気味さとなり恐怖を呼ぶ。それなのに。
「私も絵を描くから分かるんだ。一応、これでも売れっ子画家だもん。この並んでる絵、どれも綺麗だよ。素敵」
本物の画廊を歩くように、そよは道沿いの宙に並んでいる絵画を見ながら、真剣な声でそう言った。
「ま、待ちなさい! 警戒心も恐怖心もないわけ!? つい昨日、『夢』に襲われて大変な思いしたでしょう!? 滅べばいいのに!」
「この『夢』を創りだした人は、こんなに素敵な絵を書けるのに、どうして夢が壊れかけちゃったんだろう」
「あんた、人の話を……」
あたしの小言は絵画を見る彼女の真剣な表情に気圧され、それ以上言えなくなった。
「壊す必要なんかないよ、この『夢』。頑張れば絶対、素敵な画家になれるよ」
「この『夢』の本質は画商の夢かもしれないし、画廊経営の夢かもしれないじゃない」
あたしの言葉に、そよは首を振る。
「ううん。絶対、自分の描いた絵で何かを成し遂げたい人の夢だよぅ。これが私の描いた絵です。見てください。見てください。見てください。そういう想いが伝わってくる」
並んでいる絵を見上げて、あたしは溜息を吐く。正直、絵についてはよく分からない。上手に描かれているとは思うが。
「そういうものかしら」
「うん。これはきっと画家を目指してる人の『夢』」
「そう。それならそれでいいけれど、襲ってくるかもしれないから少しは警戒し――」
あたしの警告が聞こえていないのだろうか。眉毛犬は、この絵も綺麗、百合花山の桜かな! そんな呑気な感想を漏らしながら、どんどん宙に浮かぶ『夢』の画廊見物を笑顔で楽しんでいる。
本当に不思議な子……。
そよのことだ。現状を把握していないわけでもないはずなのに。興味を引くものや状況を楽しむ余裕。なんなのだろう、この子は。
「あんたって、本当に頼もしいナイトメアね」
「うん? そうかな。ありがとう、嬉しいよぅ、アリス。えへへ」
あたしに微笑みかけると、そよは絵画へと視線を戻す。
「この絵、風景画ばかり。でも題材は全部一緒だよね。桜が咲いてたり紅葉だったり四季折々で、だけれど、多分同じ山が題材」
「へえ、そうなのね。全く気が付かなかったわ。よく見てなかったし」
「うん。この山がモデルだと思う。だから、この想い入れの強い場所に『夢』は自分の空間を広げたのかな」
絵の題材が、この山だというのが正しいのであれば恐らく彼女の言葉通りだろう。
「よく分かったわね」
「私も、ずっと暮らしてきた町がある、この山が好きだからね。この絵を描いた人の愛を感じるよぅ。ほら見て、どの絵も笑顔の家族が描かれてるよ。多分家族だよね? お父さんとお母さん、そして真ん中の小さい女の子。どの絵も素敵な笑顔~」
嬉しそうに微笑み、そう口にした彼女が心配になってくる。その愛が溢れる絵を描いた作者の『夢』を、そよはこれから壊さなければならないのだ。そうしなければこの場所に死ぬまで閉じ込められてしまう。
「そんなに、この『夢』に思い入れを強めたら、壊すのが辛くなるわよ……」
「そうだね。辛いかも。でもね、私は誰かの壊れかけた『夢』を守るために、自分の夢と未来、そして命を犠牲にはしない」
微笑みながらも、その瞳はまっすぐこちらを見据えている。
「そうだったわね。そよは悲しみも辛さも罪も何もかも背負った上で剣を振り下ろせる、そんなナイトメアだったわね」
「そんな立派なものじゃないよぅ」
苦笑しながら頬を掻く彼女に笑顔で応え、あたしは宙に浮く無数の絵画へと目を向ける。
さて。本体はどこかしら。『夢』の本体は、ここに来るまで自らの空間を展開していなかったはず。最初に気配を感じた時は『夢』や『悪夢』、そしてナイトメアの心臓が奏でる特有の『夢の音』が聞こえた。
『夢』の本体は、現状では気配を絶っているのか全くどこにいるのか見当も付かないが、恐らく創造主の元を離れて想い入れの強いこの地へと移動してきたのだろう。気配を隠した『夢』を探し当てるのは困難を極める。その場合は夢の『夢の欠片』を倒し、本体を挑発する方法が効果的だ。パイロットの『夢』と戦った時に、そよが紙飛行機を倒して本体をおびき出したように。あれは狙ってやったわけではないのだろうが、そよの現状で出来ることを前向きに取り組む姿勢が引き寄せた幸運だ。
そして絵に強い想い入れがあるなら、この並ぶ絵画のどれかが本体なのかもしれない。あたしが『夢』と戦っていた頃は、面倒だったので『青い炎』を使い『夢の欠片』ごと『夢』をまとめて焼き払っていたものだが――
「アリス。この『夢』は襲ってこないね。紙飛行機も石を投げなかったら襲ってこなかったけれど。この絵もこちらから刺激しなければ襲ってこないのかな?」
「あんたは勘違いしているけれどね、『夢』が広げた空間に呑み込まれた時点で襲われているのよ、あたし達は」
「それもそっか。素敵な絵だけれど、それを無理やり見せるって姿勢に感じられるね。それは、さすがに良くないかもしれないよぅ」
「『夢』は壊れかけた夢を歪んだ形で実現させた存在なのよ。自分本位に決まっているじゃない。平和に穏便に、で済む相手なら『悪夢』が『夢』を倒す必要性なんて皆無よ」
「それも、うん。それもそっか」
そう呟くと彼女は寂しそうな笑みを浮かべ、胸元のマフラーを軽く二度叩く。
「ナイトメア・ドレスアップ」
そよの深紅だったマフラーは主が持つ肌の色と同じく純白へと変じ、そしてその姿をロリータ風の全身純白のコスチューム、そして大きく膨らんだ可愛らしいスカートにパニエをふわふわと揺らす白い兎をモチーフとしたナイトメアへと変化させた。
「七色の風! ナイトメア『クリムゾン』!」
「とうとう戦うのね! まずは三段ジャンプの素早い兎さんかしら!」
「うんっ! 『白い風』フォーム『ホワイト・ラビット』! わんわんっ!」
そよはそう叫ぶと、近くに浮かぶ絵に向かい跳び上がる。
「こんなに素敵な絵を蹴り飛ばすのは心苦しいけれど、とりあえず攻撃してみる! まずは一枚!」
そよの宙返りをしながら放つ弧月を描くような美しい蹴りを受けた絵画は粉々に砕け、辺りへと破片を撒き散らす。
「さあ、大切な絵を壊されて、どう出るかしら。姿を表しなさい、歪んだ『夢』っ」
あたしが、その言葉を言い終えた瞬間だった。
ぽんっ、と小気味の良い音と共に、そよの頭上で煙玉が破裂したかのように煙が広がると、その中から小型のトラック程はありそうな大きなバケツが現れた。
「な、なにこれぇ~っ……!?」
蹴りを放ち、空中でまだ体勢の整ってない彼女から約3メートル上方に、そのバケツは浮かんでいる。それは突然傾くと中から大量の絵の具のような白い液体が、そよにむかって溢れ出す。
「そよ……っ!」
そよは既の所で空を蹴り水平に飛び、その液体を避けた。弾丸のように水平に跳びながらも彼女は姿勢を整え、アスファルトの道路へ着地する。そよの着地点にあったチューブから何色もの絵の具が飛び出した。
「ただでさえ、私は真っ白なのに白い絵の具をかけられたら、たまんないよぅ」
「……そよ、見て。あの白い絵の具だか、なんだかの染料は普通じゃないわ」
宙に浮かぶバケツから溢れた白い絵の具は水蒸気のようなものを発しながら辺りに飛び散ったのだが、それだけじゃない。『夢』が広げた空間の中にいるので夏とはいえ暑くも寒くもなかったのだが、絵の具から発せられる冷気により、周囲の温度は氷点下近くには下がっていると思われる。何せ尋常じゃなく寒い。冷気で鼻がムズムズする。
「あの絵の具を浴びたら、ただじゃ済まなそうだね~」
バケツの浮いていた位置を困ったように微笑みながら見上げる彼女の視線を追うと、そこにはもうなんの形もなかった。
「次の攻撃がこないね。いつの間にかバケツも消えちゃった」
「それに、あんたが破壊したはずの絵も元通りになって同じ位置に展示されているわよ」
そよが蹴り壊した絵画は何事もなかったかのように再生し、他の絵と並び宙に浮いている。実に忌々しい。
「本体以外を攻撃しても無駄ってことかな。手当たり次第に絵を攻撃してみたら翼ちゃんの『夢』みたいに本体が怒って飛び出してきたりして~?」
「それは、あたしも考えたけど……。どうにも気持ち悪いのよね、この敵。こちらか仕掛けたのに、あのバケツ攻撃以外の反撃をしてこない」
それに破壊したところで、あの出来の良い落書き共が再生するのであれば、本体は意に介さずなんのアクションも起こさないかもしれない。
「そよの勘が正しく、これが画家の『夢』ならば絵の中に本体が紛れている可能性が高いわよね。『夢』は想い入れが強い物の形をとっているはずだから。もしかしたら、この歪んだ画廊に展示された絵のどれか一つが本体なのかもしれないわ」
「道路沿いだけじゃなくて、山の中まで絵はいくつも浮かんでるよぅ。もしこの中に本体がいるとしたら探すのも一苦労だね~」
そよの言う通り、車道を挟んだ山林の中には沢山の絵が並んでいる。木に隠れている数を入れたら何千、いや何万あるか分からない。それでも笑顔を消さず泣き言も愚痴も口にせず前向きで明るい、そんな彼女の背中が心強い。前に立つ、そよの背中。それは変身しているとはいえ、小柄の女の子が持つ普通の背中でしかない。それなのに偉大で立派な騎士に守られているような安心感を持てる。きっとあの笑顔が、その安心感を与えてくれるに違いない。
地を擦りそうな彼女の白く長いマフラーが風もないのにゆらゆらとなびいている。
「こんな数の絵を描くくらい頑張ってた人の『夢』か~。どうして壊れかけちゃったんだろうね」
「どうして夢が壊れかけたのか、それは『夢』を創りだした当人にしか今は分からない」
今は? そよはそう問いながら、こちらへと振り返る。
「……何でもないわ。そして、この絵が全て実際に描いた物とは限らない。この『夢』の創造主が叶えたい夢を歪ませて実体化させたものだから。世界を自分の絵でいっぱいにしたかったのでしょうね」
「きっと、そうだね。誰でも一所懸作った創作物は誰かに見て欲しいし、褒めて欲しいものだもん。分かるよ、私も――」
そよは言葉を切ると同時にマフラーを外し、ナイトメアの姿から制服姿に戻ると、あたしへニッコリと笑いかけてきた。
「ちょっと危ないことするから下がってね、アリス。私の攻撃はキミに危害を加えないけれど、『夢』からの反撃に巻き込みたくない」
そよは笑顔のまま、そう言うと赤く染まっていくマフラーを素早く自らの首に巻き、赤いドレス姿へと変じていく。右腕には先端に繋がったギロチン台へと伸びる太い鎖が巻きつき、左腕からは五本の鎖が腕に絡み合い、それぞれが辺りに突き立つギロチンの刃のようなものに繋がっている。そよ周囲は彼女から伸びる鎖がとぐろを巻く蛇のようにうごめいていた。
「『赤い風』。フォーム『クイーン・オブ・ハート』!」
袖からトランプを取り出すと、そよはカードを両手に分け器用にシャッフルし始める。
カードがくねくねと踊っているかのように、彼女の手の中でシャッフルされていく。
「か、カードマジックでもするつもりなの? 滅べばいいのに」
「ううん、戦うんだよぅ、『夢』とねっ!」
力強くそう言い放つと、そよはカードを二組に分け、それぞれ両手で扇のように広げた。
「ジョーカーとクイーンを除くキング以下、全てのカードに告ぐ。戦闘態勢のまま待機せよ~!」
そよは両手のトランプを勢い良く背後の道路に向かって投げつけると、全てのカードは等間隔でアスファルトに突き刺さる。
「戦闘準備~!」
そしてカード達は人型へと変化し、それぞれ槍や弓を構え始めた。トランプの体に生えた手足。以前、翼の『夢』が広げた空間の中で見た兵士達と同じだ。だが今回は以前と違い、大勢の兵士が並んでいる。それぞれ、ハートはハート、スペードはスペードのようにモチーフにされたトランプの種類ごとに固まり、馬にまたがった豪華な衣装の兵士に率いられているようだった。いや、兵士ではなく、あれがキングなのだろう。
「正面の絵は私が引き受けるので兵士諸君はそれ以外の絵に向かって攻撃するように~」
そよは道路の先に向かい広げた左手を向ける。
「手槍隊、及び弓隊! 攻撃開始! 放て~っ!!」
そよの号令に従い兵達は一斉に弓を放ち、手にした槍を投げ始める。
「私も一気に行くよぅ~。わんわんっ!」
そう吠えながら、そよは投げ縄をするカウボーイのように左腕を激しく振り回した。すると、その力が伝わった左腕の五本の鎖は激しい風切り音と共に彼女の頭上で円を描き回転する。真紅の鎖はまるで巨大な扇風機のように回転し、離れた位置にいるこちらにまで強い風を送ってくる。
「赤い殲風。千億斬首!」
そよが物騒な技の名前を叫ぶのと同時に彼女の頭上で円を描いて回転する鎖の中から、新たにいくつもの鎖が溢れ出す。百本近くはあるかもしれない。それぞれの鎖の先には、そよが振り回している本来の五本同様、先端にはギロチンのような刃がついていた。全ての流れだすように伸びていく鎖は真紅に染まっており、それは溢れる血のようにも見える。伸びる無数の赤い鎖と刃は、そよの前方に並んだ絵画を一気に切り刻み、辺り一面を無残な絵の残骸で埋め尽くした。
「とても凶悪な技ね、そよ。見渡す限り、正面の絵はバラバラになったわ。他の絵もトランプの兵隊が落としてくれたわね」
そしてトランプの兵達が仕掛けた弓や投槍の攻撃を受けた絵画も宙から地に落ち土や草にまみれている。そよと兵達は見渡す限りの、あの忌々しい絵へ攻撃を仕掛けたようだ。
「凄いわ、そよ。あんたって本当に強いナイトメアねっ!」
私の言葉に笑顔で応えながら、そよは左腕をゆっくりと止める。すると溢れだすように伸びていた無数の鎖は砕けたガラスのように飛散し、彼女の左腕から伸びる鎖は元の五本だけになった。その五本の鎖は回転した勢いのまま地面へと落ち、激しい金属音を奏でながら、そよを中心に絡むことなく綺麗な螺旋状に落ち着く。
しかし、器用に大きな鎖を操る彼女に感嘆の息を吐く暇もなく、連続した破裂音が響き、そよやトランプの兵士達の頭上に先ほど見たのと同じような巨大なバケツが現れる。それだけではない。彼女達を取り囲むかのように、それこそ数えきれないほどの絵の具のチューブが破裂音と煙を伴いながら現れた。
「これは危険な気がするわ。逃げなさい、そよ……っ!」
「ど、どこへ?」
離れた位置に立つ、あたしからは彼女がどの位置にいるのか分からないくらい、そよやトランプの兵達は絵の具のチューブやバケツに囲まれている。
「ギロチンチェーンで薙ぎ払って逃げるのよ!」
「それよりっ!」
バケツが傾き始めた。最早一刻の猶予もない。恐らくバケツの中には、先ほどの凍る液体か、それに匹敵する有害な物が入っているだろう。絵の具のチューブも同様と思われる。そんな中、何を思ったのか彼女はマフラーを外し、生身の肉体に戻る。トランプの兵隊も全て消えてしまった。
「そ、そよ……!? あんた何を。生身であんなものを被ったら、本気で死ぬわよ!」
慌てるあたしとは裏腹に、そよは冷静にマフラー首へ巻き直した。
そのマフラーの色が緑色に変わっている。
そよがマフラーを巻き直すのと同時にチューブの蓋がはじめ飛び、中の絵の具が一斉に彼女達へと勢い良く放たれた。
「『緑の風』! フォーム『キャタピ……』」
そよが緑色の丸っこいドレスを纏ったように一瞬見えたが、それを確かめる前に彼女は様々な色の絵の具に呑まれて見えなくなってしまった。
「そよ……!」
バケツや絵の具のチューブが姿を消したので、そよのもとへと慌てて駆け寄ろうとしたのだが足元まで広がってきた赤い絵の具から放たれる熱気に、あたしは二の足を踏んでしまった。その赤い液体は高熱を持っているのか、アスファルトを燃やし鼻につく黒い煙を溢れさせている。左前方の山林に広がっている茶色い絵の具に触れた木々や草は変色が進み腐敗しているかのように見える。
――色。
白なら凍結。赤なら高熱。茶色は腐敗。あの絵の具は色により、様々な効果を及ぼしてくるのだろう。そんな物騒な物を、それも何色もの絵の具を全身に浴びた彼女はどうなるのだろう。
「そよ! 生きている!? 返事をしなさい、この眉毛犬……っ!」
彼女が立っていたと思われる方向へ必死に声を張り上げるが返事はない。
汚らしく交じり合った絵の具の海。あのどこかに、そよはいるはずなのだが探したくても今の体では近寄ることもできない。絵の具に触れるだけで重症を負ってしまいそうだ。
「そよ、死んでしまったの……?」
あたしの言葉に返答はなく静まり返っている。狼狽える『悪夢』の気持ちをよそに、そよが倒したはずの絵画は全て元通りになって再び宙に浮かび画廊のように並んでいる。本気で忌々しい。
「何が一緒に暮そうよ……。あたしを守ってくれるんじゃなかったの、そよ……」
思わず、足元が不如意になりふらふらと前に進んでしまい、あたしは赤い絵の具を踏んでしまった。足が燃える。そう思い、慌てて足を引こうとしたが特に痛みも熱さも感じない。靴の裏を確認しても特に異常はないようだ。恐る恐る赤い絵の具をつま先で突いて見ると絵の具は既に固っており、しかもその能力を失っているのか、ただの赤い固まりになっている。乾くと力を失うのかもしれない。それにしても速乾性の絵の具だが、あの『夢の欠片』達の能力は長続きしないのだろう。所詮、『夢』の本体ではないということか。
それでもその力は、そよの命を奪ったのかもしれない。固まった絵の具の上を走り、そよの名を叫び続けるが誰の返事もない。
「冗談じゃないわよ。あたしの心をここまで掴んでおいて勝手に死ぬなんて。友達の死なんて味わいたくない……!」
膝から崩れ落ち、あたしは固まっている絵の具を拳で何度も殴りつける。
「それなら消えてしまえば良かった……! あんたなんて助けるんじゃなかった……!」
何度も何度も拳を叩きつけるが、鈍い音しか返ってこない。あたしの瞳から何かがこぼれ落ちるのを感じる。
これって涙かしら。初めての涙。悲しい気持ち。大切な人の――――
死。
「そよのバカ……。大好きなんて言っておいて、いなくなるなんて……。あたし、まだ返事もしてないのよ……。まだ、あたしの気持ち伝えていないのに……!」
両手を振り上げ、思い切り振り下ろす。拳に激痛が走った。
「――そよのこと、あたしも大好きなのに!!!」
あたしの瞳からこぼれ落ちた初めての涙。その一滴が固まった絵の具で覆われた地面に触れた瞬間だった。固まっていたはずの絵の具は脈打ち、突然せり上がってくる。
「きゃうっ!? な、なに!?」
隆起した絵の具の固まりはまるで蝶の蛹のような形になると、あたし乗せたまま力強く跳ねた。
「あうぅ……!? なんなの!? なんなのよ!?」
上昇しながら、その蛹の背中が裂け始める。あたしを乗せた蛹は、既に木々よりも高い位置に到達しているのだ。よく分からないが、この高さから落ちたら痛そうだ。
「お、おろしなさいよ、このバケモノ……!」
震える声で、そう叫んだ時、蛹の割れた背中から勢い良く薄い羽のようなものが飛び出し、その勢いに負けてあたしは宙に投げ出されてしまった。
「……ウソ……?」
空中で手足をバタつかせるもの、そんなことで浮力を得られたら苦労はしない。あたしは真っ逆さまに地表へと向かい落下し、恐怖のあまり思わず両目を閉じる。
これは流石に死んだかもしれないわね。人として肉体を実体化させた『悪夢』は、その体が壊れると、しっかりと死ぬのよ。……一人では逝かせないわ、そよ。あたしも一緒に………………。
あれ? 地面はまだかしら。どこも痛くないわね。……痛くないわよね?
地面に落下した衝撃も激痛も感じられず、あたしは目を閉じたまま首を傾げる。まだ落下しているのかしら。それにしては背中が温かいような。
不思議に思いゆっくりと瞼を開くと、そこには――――
「やあ、アリス」
「そ、そよ!? あんた無事だったの!?」
目の前には緑のマフラーを翻した、変わらぬ微笑みを湛えた彼女の姿があった。どういう状況なのか首を振って辺りを見回すと、あたしはどうやら、そよの両手に抱きかかえられて空中に浮かんでいるらしい。いわゆる、お姫様抱っこだ。
「そ、そ、そ、そそそそよ……!? 何が起きたのかしら……っ!?」
「私が入ってた蛹にアリスが乗っかってたなんて知らなかったから、派手に羽を広げちゃったんだけれどね~。羽にキミがぶつかった感触がしたから」
そよは苦笑いを浮かべると、ごめんね、と呟いた。
「落っこちてるアリスを空中で抱きとめたんだよぅ。わんわんっ」
「そうなのね。ありがとう。それにしても羽って……」
よく見ると、そよの肩越しに彼女の背中に揺れる半透明な緑色の羽が目に入った。それはガラス細工のような、透き通った蝶の羽だ。そよの着ている衣装も同じように半透明なガラスのような材質で造られており、シースルーのドレスやスカートを纏っている。かといって肌の露出がそれほど高いわけではなく、ドレスの下にはしっかりとスクール水着のようなものを着用していた。透けて見える部分、両足と両腕に刻まれている傷痕が痛々しい。
「ちょこっと、他のフォームより足や腕がシースルーで透けて見えちゃってるよね~。そんなにジロジロ見られると恥ずかしいよぅ……」
困ったように可愛らしく笑う彼女を見て、あたしの心は癒される。
ああ、そよが生きていて良かった……。
「……ごほん。ところでその姿は? あの絵の具に呑まれて、どうやって助かったの?」
「これはフォーム『キャタピラー』。二十四時間に一度だけ、致命的な攻撃を受けても再生できる力もあるの。辺りのあらゆる物質と融合しちゃう蛹なれて、その全てを栄養に変換しちゃって中で回復できるんだ~。そして最後には蝶の姿で復活するんだよぅ」
不死鳥ならぬ不死蝶といった所だろうか。
「他のフォームになってから、『キャタピラー』に戻っても二十四時間は蝶の姿になるの。その間は再生能力は使えないんだよぅ~」
そよはゆっくりと道路に降り立ち、あたしを立たせると両腕を振り回し、ストレッチを始める。
「お腹も空いてきたから、ちょっと休憩にしよっか~」
のんきな声を出しながらマフラーを巻き直し、彼女は『マッド・ハッター』の姿へと変わる。
休憩……? まさか。
あたしの予想通り、そよは手にしたシルクハットからテーブルクロスをマジシャンのように引き出し、それを空中に広げる。すると、白い布はまるでテーブルがあるかのように空中に固定され、その上にはティーポットやケーキスタンドが並ぶ豪華なティーパーティー会場が現れた。ご丁寧にお洒落な椅子もいつの間にか長テーブルに沿って並んでいる。
「おやつにしようよっ! わんわんっ」
「そうね」
元気良く椅子に座った彼女につられて、あたしも優雅にテーブルにつく。
「ふぅ。紅茶をカップへ注ぎなさい、眉毛犬。ミルクとお砂糖たっぷりと入れ……って、そうじゃなくてッ! 『夢』の支配域ド真ん中で、のんきにお茶会するバカがどこにいるのよ、滅べばいいのにっ……!」
「この『夢』は手を出さなきゃ攻撃してこないみたいだから平気だよぅ」
それは恐らくその通りなので、あたしは返す言葉につまり唸り声を上げる。
「それに世界に三人くらいは『夢』の中でお茶会する人がいるんじゃないかな。私は自分のこと特別変わり者とは思ってないからね。私がするようなことは他の誰かもするよぅ。えへへ~」
とても良い笑顔でそう言われてしまうと反論しにくくなってしまうが、そよは充分と言っていい程、いや、極度の変わり者である。
「それに涼のライブはどうするのよ。まだ時間はあるけれど、モタモタしていると遅刻するわよ」
「そうなんだよね~。でも焦ったって良い結果は、得られた試しがないからね。脳に糖分でも送って作戦会議しようよぅ~。甘い物を食べると何か良い閃きがあるかもよ。私はいつも考えに詰まった時は甘い物食べてるんだ~」
「急がば回れってヤツね。……分かったわ。それなら紅茶を――」
注ぎなさい、そう続けようとしていたのだが、目の前には湯気を放つミルクティーと小皿に乗せられた桃色のマカロンが二つ、既に並べられていた。
「どうぞ、アリス。私のマッド・ティーパーティーは、ちゃんと紅茶が飲めるよぅ~」
「どういう意味よ」
「不思議の国のアリスを読めば分かるよぅ~」
曖昧な笑顔でそう答えると、そよは三つのマカロンを一気に頬張った。
「美味しいよ、アリス。私の夢の世界では紅茶もマカロンも味がしなかったんだよね? だからあの時もマカロンは食べずに紅茶は一口しか飲まなかった。そうだよね」
「よく覚えていたわね。ええ、前にも説明した通り、誰かの夢の世界で何かを食べても味はしないわ。だって、あたしは食べ物の味を知らないから。味を想像できない」
「このマカロンは多分、大丈夫。私の『夢』の一部が具現化したものだから。アリスが食べても味がするはず。食べてみて。紅茶にとても合うんだ。美味しいよぅ、わんわんっ」
「実はあんたが美味しそうに食べているのを見て羨ましかったのよね」
そよは彼女の夢の世界で、それはもう幸せそうに微笑みながら美味しそうにマカロンを食べ……いや、呑みこんでいた。あたしは、そんな姿を眼前にしてマカロンとやらが、どんな味なのか気になってしょうがなかったのだ。あたしはマカロンを手に取り、口元へと運ぶ。
「こ。これはッ」
思わず声を上げてしまい照れくさくなったので、あたしはそよから顔を背ける。横目に見た彼女はまるで、美味しいでしょ? と言っているかのように満面の笑みを浮かべマカロンを頬張り咀嚼している。
「ガナッシュクリームを挟んだ出来たてマカロン。美味しいでしょ~」
「……ええ。その言葉を否定する要素は一切、念頭に浮かばないわね」
もう一噛みマカロンを口にすると、鼻腔と口内へと更に心地良い味わいが広がっていく。その優しく甘い二つの生地に挟まれたクリームとのエレガンスな調和。まるで空気をそのまま練り込んだかのような生地の柔らかさ。天使の羽でくるまれた幸せの蜜。そう。例えるならまさに天使の羽と蜜の味。この例えは意味が分からないかもしれないが、意味が分からないほどにマカロンは美味しいので仕方がない。
「美味しいわ! なんてエレガントな味なのっ!」
「でしょでしょ。もぐもぐ。マカロン美味しい~!」
「もぐもぐ、美味しい。……じゃないわよ!」
「え!? なんで怒られたの、私!?」
あたしは『悪夢』なので実体験というものがあまりない。しかし、何万、いや何億という人間の夢の中で培ってきた知識やイメージというものがある。こういったティーパーティーというものは優美で洗練されたものだという印象を持っている。そしてこのマカロンというお菓子だ。これほど上品で素敵な味がするなら、たいそう雅な菓子なのだろう。と、あたしは推測する。なのに――
「あんたね……。このお菓子は恐らくそういう食べ方をするものじゃないでしょう。映画館でアメリカンな人達がHAHAHHAと爆笑しながら貪り食うポップコーンのようにガツガツ食べるんじゃないわよ、この暴食ワンコ! もっと洗練されなさい、洗練!」
手本を見せてあげる! そう宣言し、あたしはカップの取っ手を右手に優雅につまみ、左手で優しくマカロンを手に取る。
……しかし、だ。あたしは正しいマカロンの食べ方も紅茶会のマナーもさっぱり分からない『悪夢』なのである。紅茶会をしている人間の夢は何度も目にしてきたが、実際の所経験がない。よく考えたら何が正しくて何が間違いなのか見当もつかないのだ。だが、大見得を切って締まった以上、眉毛犬にマカロンの洗練された食べ方の手本を示さなければならなくなってしまった。何せ、あのワンコは期待するような目をこちらに向け、先程からずっとあたしを凝視している。
出来るだけ上品に食べれば洗練された食べ方の手本になるはずよね。なんだか……緊張してきた……。
「その目に刻みなさい、これがエレガントなマカロンの食べ方よ」
不安になりながらも、ゆっくりとマカロンを口に近づける。唇に触れた生地は柔らかく、ガナッシュクリームの甘い香りが鼻腔に入り込んだ。せっかくなのでエレガントに香りも楽しもうかと、マカロンを噛み切ると同時に息を吸い込んだ――――のだが、誤って鼻ではなく口で強く呼吸をしてしまい、口内に入った雅な菓子の欠片や唾液が変な所へ入りこんだのか、あたしは心を蕩かすような甘い味と同時に激しい苦しみを味わいながら噎せ始める。
「あ、アリス!? それがエレガントなマカロンの食べ方!? エレガントすぎるよぅ~!?」
「ゲホッ! ゲホッ! そ、そうよ! 良い子は真似してはいけな……ゲホッ!」
マカロンの思わぬ襲撃に苦しむ、そんなあたしを心配してくれたのか、そよは慌てて席を立ち、テーブルに突っ伏して咳き込む情けない『悪夢』の背中を優しく擦ってくれる。
「大丈夫? 器官に唾とか入っちゃうと苦しいよね~。噎せるのも初めての経験?」
「ええ。初めて経験したわ。噎せるって、かなり苦しいのね……」
食べ方の手本を見せると偉そうに言っておきながら情けない姿を見せてしまったようで、なんだか恥ずかしくなってきた。
「ねえ、アリス。楽しいねっ。えへへ~」
あたしの背中に手を当てながら、そよは囁くようにそう言った。その小さな手から伝わる温もりで、苦しかった呼吸が楽になってきた気がする。
「苦しかったけど、確かに楽しいわね」
「うんっ。それじゃ紅茶でも飲んで落ち着こうか~」
あたしは頷き右手に目を向けたが、そこにあったはずのティーカップはどこかに消えてしまっている。どこに行ったのか、辺りを見回すと足元に割れたカップと飛び散った紅茶の無残な姿があった。噎せてしまった時に落としてしまったのだろう。
「うぅ、あたしの紅茶ぁ……」
「大丈夫だよぅ。新しい紅茶用意するからね~」
優しく微笑むと彼女はあたしから離れ、ティーポットを左手に取ると右手のカップへと琥珀色をした液体を注ぎこむ。黒いシルクハットのような帽子の下には白い髪と、いつもの柔らかい笑顔の彼女。ふんわりと愛らしく膨らんだスカートの下には白黒模様のしましまニーソックス。
どんな衣装も似合う子ね。そんな思いを胸に、あたしは初めて出来た友人を眺めている。
七つの姿と能力を持つナイトメアか。そんなナイトメア、長い『悪夢』としての生涯においても聞いたことがない。この世界には毎晩、夢を見る人間が無数にいる。そしてそれは同時に夢の中で恐怖を与える『悪夢』も、数多くいるという証なのだ。毎晩、恐怖に満たされた夢を見る人間の数だけ『悪夢』が存在する。
そんな『悪夢』達にも個性はあり、それぞれがそれぞれの思惑を持って行動をしているが、人間に愛着を持ちナイトメアとする連中も多い。その結果、悲劇に終わるのが大半でろくな顛末を聞いたことがない。特に恋の果てに身を滅ぼす連中の話など、それこそタコが出来る程、耳にしている。夢を見る生き物が現れてから始まった『悪夢』の長い歴史上、人間と『悪夢』の悲恋など星の数ほど存在しているだろう。
『悪夢』は執着した人間へ安易に力を与える場合がある。他に与えるものがないからだ。力を手にしてナイトメアになった人間の想いは暴走し大半は、やがて『悪夢』や他の人間への脅威にも変わるのだ。それでも稀なケースで、ナイトメアと『悪夢』が共存している話も聞く。あたしもきっと、この子とならうまくやっていける。
「どうしたの? アリス。私の顔に何かついてるかな~? はい、紅茶。できました~」
「ありがとう。美味しそうなミルクティーね」
脳を蕩けさせような紅茶の甘い香りに唾を飲む。美味しそうなのだが、まだ熱そうなので一所懸命息を吹きかけて冷ます努力を続ける。あたしは猫舌らしい。
「ところで、そよ。今は作戦会議中なのよね? あんた、『夢』に呑まれて命の危険に晒されている現状を忘れてない?」
「忘れてないよ~。マカロン食べてる時もアリスとお話してる時も、どうやって、この『夢』を倒そうか考えてるよぅ~。わんわんっ」
「そう。それならいいのだけれど。でも作戦会議というなら、そうね、せっかくだからこの機会に、あんたの能力を把握しておきたいわ」
高速移動が可能で、空を蹴り三段までジャンプができる『ホワイト・ラビット』。不思議な帽子から、仕込み杖等を取り出す『マッド・ハッター』。致命傷を受けても二十四時間に一度だけ再生ができる『キャタピラー』。そして、ギロチンの刃と繋がった五本の鎖と、ギロチン台と結ばれた太い鎖を振り回す『クイーン・オブ・ハート』。ナイトメア・クリムゾンの能力は『七色の風』。その名の通り七つの姿と力を持っていると彼女は言っていた。
「残り三つの力は何?」
「ん~。見てのお楽しみって言いたいところだけれど、そう言ったら怒られそうだから教えるね」
見てのお楽しみなどと言われたら、確かに両肩を掴んで前後に揺さぶってあげているところだった。
「私が使える残りのフォームはね、透明になれる『チェシャ・キャット』に、倒した『夢』の力をある程度、再現できる『ダーチェス』」
「つまり現状で『ダーチェス』は翼の『夢』の能力を使えるのね?」
「うん。でも、あんなに速くは飛べないかも。劣化コピーって感じ」
劣化コピー。それでも倒した『夢』の力を色々と扱えるようになれば、この先、強力な武器になるだろう。しかし、今は何の役にも立たない。透明化も同じだ。現状を打破できる武器にはならないだろう。
「残り一つの能力は?」
「分かんない」
「わ、分かんないですって?」
えへへ~と呑気に笑いながら、マカロンを頬張る我がナイトメアの頬を引っ張り、あたしはどういうことなのかと問い詰める。
「にゃにするの、ありふ~」
「こんな時にまで、ほのぼのしているあんたの顔見てたら、ついほっぺた引っ張りたくなったのよ、ごめんなさい。それより他の六つの能力を把握しているのに、どうして最後の一つは分からないのよ。おかしいじゃない」
自分がどんな力を行使できるのか。何が出来るのか。ナイトメアはナイトメアになった時点で自らの能力を全て把握できるはずなのだが。どうにも腑に落ちない。そよは変わらぬ笑顔でカップに紅茶を注いでいる。態度に不自然さはないが、それでもあたしの疑問は消えない。
「あんた嘘ついてるわね……?」
あたしの指摘にも動じず、そよは平然とカップに紅茶を注ぎ続けている。嘘をついているわけではないのだろうか。いや、しかし……
「うん、嘘ついたよぅ~」
「やっぱり! 食えないワンコだわ……。あんた、そんな虫も殺さないような可愛らしい笑顔のまま、よく平気で嘘つけるわよね……!」
「必要ならね~。できるだけ嘘はつきたくないから必要がないなら嘘はつかないよぅ。でもどうして嘘って分かったの?」
「……ナイトメアにもルールや決められたシステムがあってね。一足す一の答えが確実にニであるように、決まっているシステムに例外はないのよ。自分の能力を知らないナイトメアはいないの」
そうなんだ~、と苦笑いしながら最後のマカロンを頬張る彼女にあたしは詰め寄る。
「どうして隠すのよ。確かにナイトメアは自分の力を隠すのが正解。誰かに知られたら、もし他のナイトメアや『悪夢』と争いになった場合に不利になるものね」
ナイトメアは元人間。利害関係により彼女達は敵対もすれば協力をする場合もある。敵対するなら力は知られていないほうが有利だ。当然、『悪夢』とも敵対し争う可能性もある。
「でも、あたしは友達で味方よね。あんたのできることを把握して、ここから脱出する方法を一緒に考えたいというだけよ。怒られそうだから教えるね、とか言っていたくせに」
「今は七つ目のフォームは使うつもりがないだけだよぅ~」
「ど、どうして」
あ、空っぽだ、そうのんきな声で呟くと彼女はティーポットに手を伸ばす。
「七つ目のフォームなら、もしかしたら『夢』を倒せるかもしれない。でも使えないんだよ、アリス。その七つ目の力を使うには『悪夢』の協力が必要だから」
「もしかして、あたしに遠慮をしているのかしら。滅べばいいのに」
「アリスは体が弱ってて戦える状態にない。そう言ってたよね。だから今は使えないよぅ。七つ目のフォームはナイトメアだけじゃなくて、『悪夢』にも負担が激しいの」
確かに今のあたしには力がない。弱っているのも確かだ。どんな力か知らないが、行使すれば『悪夢』にも負担が激しいというのなら、あたしは消滅してしまうかもしれない。
「あんたが助かるなら、それでもかまわないわよ。使って」
「そう言うと思ったから嘘ついてまで隠してたのに~。わんわんっ」
「あんたには何よりも大切な物があるのよね」
涼と交わした夢。二人だけの大切な。大切でしょう。
悔しかった。出会って三日のあたしには、あんたとそんなキラキラした宝石のような思い出がなかったから。それでもね、あんたが夢を語る時に見せる輝く瞳と笑顔。見ているだけで幸せになれたから。
あんたの夢、守ってあげたいのよ。だって友達って言ってくれたじゃない。そうでしょう。友達を守るためなら、あたしはなんだってしてあげたい。
それに涼のライブにだって遅れてしまうわよ。そんなの嫌。きっとライブに遅れたら、あんたは悲しい笑顔を浮かべる。あんたの悲しそうな顔は想像するだけで胸が苦しくなるのよ。あんたの笑顔と夢と未来を守れるならなんだって、なんだってしてあげたい。長く寂しかった孤独の日々に笑顔と明るく楽しい時間を少しでもくれた、そんなあんたが、あたしは。あたしは。
だってあたしも、そよが――
大好きなのだから
「あんたにとって、自分の夢って何? どういう存在?」
唐突な質問に、そよは虚を突かれたように一瞬、目を見開いたが、すぐに元の笑顔へと戻った。
「夢か~。私にとっては生きる全てかな~」
そよはカップとティーポットをテーブルに置くと腕を組みながら、そう言った。
「私は絶対に諦めないから生きる他に選択肢はない。私自身の譲れない明日と未来と現実。それが夢~」
強い意志と確信を持った、星を瞳に閉じ込めたかのように輝く瞳。ナイトメアとしての彼女が強力なわけだ。自分の夢を強く願い、そして疑っていない。
「私にとっての夢はそうだね、現実。幻でも絵空事でもない。全てを賭けられる現実の未来だよ」
そうよね。あんたにとっては涼との夢が全て。あたしはきっと、その中には入れない。
それなら守らせてよ、その夢。こんな他人の『夢』に呑まれて、足止めくらっている場合じゃないわよ、そうでしょう。
「そうね。夢は現実。あんたがそう言うと説得力あるわ。だったら自分の未来を守るために、あたしを犠牲にしてでも、こんな『夢』倒しなさいよ!」
上手く言えないんだ、あたし。人付き合いってしたことなかったから。ちゃんと思っていること全部伝えられたら良かったわよね。
「あんたの夢を守る助けになれるなら本当に嬉しいのよ。だから遠慮しないで。使えるならなんでも使って」
自分の夢のためなら翼の『夢』だって壊したじゃない。あの自分の夢のためになら後悔も躊躇いもない姿勢、大好きだから。尊敬しているから。躊躇わなくていいの。
「うん。やだ」
満面の笑みではっきりと拒絶されてしまい、あたしは肩をまさにガクッと落としてしまった。
「……あんたね」
「絶対にお断り。私の立てた、これから先の予定にはアリスがいつだって含まれてるんだからね。いなくなられたら困るよ」
「そんなこと言っている場合じゃ……」
「そんなこと言ってる場合だよぅ。七つ目のフォームによるプランは開始前に終了、破棄。忘れましょう~」
「自分の夢と未来は諦めないのよね……? そのためならなんでもする、そんなあんたの姿勢を尊敬していたのに」
「なんでもするよ。大切な人を犠牲にしない方法ならね~」
マカロン、もうないね。そう言って微笑む彼女に、あたしもつい笑顔を返してしまう。
この子の笑顔は本当に……。釣られて笑顔になってしまうわ。もはや凶器ね。
そう呆れていると、そよはいつの間にか真剣な眼差しで、あたしを見つめている。
「な、何よ」
口元には笑みを湛えてはいるものの、彼女の目は真剣そのものだ。
「私は私の夢と未来を諦めない。だから、この『夢』も必ず倒すよ」
そよの真っ直ぐな眼差しに耐え切れず、あたしはつい顔を背けようとしたのだが顎を彼女の指で止められて強制的に視線を戻された。交わる視線。そよの強い意志の篭った瞳を見ていると何故か心臓が激しく高鳴ってしまう。強引に顎を引かれたのも、理由は分からないのだがドキドキして呼吸も荒くなってきてしまった一因となっている。何より、そよの指はまだ、あたしの顎に触れたままなので、さらに緊張が高まる。
ま、まずい。あたし今、絶対に赤面してる――――
「アリス」
「は、はぃ……」
思わず蕩けたような甘い声を出してしまい、あたしは慌てて両手で自らの口を塞ぐ。
「全てを犠牲にして夢に向かって進んでたら、それって壊れかけた世界で歪んでしまっている、この『夢』と同じじゃないかな」
そよはそう言って微笑むと、あたしに一歩近づき顎を更に引いてきた。あたしの顔は、そよの指にされるがままに上へ向き、近づいてきた彼女の唇が鼻先に迫るくらい接近した。
ドクン。
一際、心臓が激しく鳴った。かっこいいのかもしれない。眉毛犬のくせに。
「それにアリスを守るって約束したよね」
「は、はい」
「私が嘘をつくのは必要な時だけだよ」
そよはあたしの耳元でそう囁き、強く抱きしめてくれた。
「誰もいない部屋に帰るのは、もう飽き飽きしてたんだ。だからね、アリスがいなくなると困っちゃうの。わんわんっ!」
元気にそう吠えると、そよはあたしから離れてマカロンがないことを嘆き、お腹が空いたーと言い出した。
「……あんたって人は、もう……」
「さっ。お話しながら、どうやって、この『夢』を倒すのか考えよぅ~」
かっこいいのか、ただのアホ犬なのか。よく分からないが、あたしにも彼女が持っているような焦がれるような何かが欲しいと思った。
あたしにも夢が欲しい。何か執着するようなものを。
「ねえ、そよ。お願いがあるの」
「うん? アリスも映画館でアメリカンな人達がHAHAHHAと爆笑しながら貪り食うポップコーンのようにガツガツとマカロンを食べたくなった? でもごめんね、マッド・ティーパーティーを開けるのも二十四時間に一回なんだ~。マカロンの数には限りがあるの。アリスも意外と食いしんぼ――うぐっ!?」
突然、素っ頓狂なことを言い始めた我がナイトメアの両肩をおもむろに掴み、あたしは力一杯前後に揺さぶる。
「その限りあるマカロンを、ざっと見た限り三十個近くはあったのに、あたしに二つだけよこして他全部一人で食べたあんたに! そんなあんたに食いしん坊よばわりされたくないわよ……! あたしも、もう少し食べたかったのよ!? バカ! 滅べばいいのに!!」
「世界が揺れるぅ~。目が回るぅ~」
両肩から手を離すと彼女は目が回ったのか、その場に座り込んでしまった。つい眉毛犬相手に大人気のない行動をしてしまったので、あたしは恥じる心を追い払うかのように咳払いをする。
「お願いっていうのはね、そうじゃなくて……。あたしも大切にしたい何かが欲しいっていうか」
あたしの言葉に、そよは道路に座り込んだまま満面の笑みを浮かべて、私を大切にしてくれたらいいと思うよ、と臆面もなく答えた。
「もちろん大切にするけど、そうじゃなくて。何かこう概念的な……。夢とかそういう」
「アリスも夢が欲しいんだね。それならキミの夢を一緒に探そう、一人じゃないよっ!」
「心強いわ、ありがとう。……そうだわ。夢はとりあえず置いておいて、欲しいものが見つかったかも」
そう言ったあたしの顔を、何々? と興味深そうに見上げてくる彼女の真っ直ぐな視線に何やら照れくさくなったが咳払いをし、あたしはそよに力強く手を差し出す。
「あたしも名前が欲しいわ!」
「……な、名前? アリスじゃなくて他の名前?」
一瞬の間を置き、そよが困ったような顔でそう尋ねてきた。いきなり名前が欲しいなどと求められたら誰でも困ってしまうだろう。
「下の名前はアリスでいいのよ。あたしが欲しいのは苗字。春風そよ、夏月涼。苗字があるじゃない。あたしも欲しいわ。漢字の苗字」
「欲しいわって急に言われても……。わ、わんわんっ」
「小説を書いているならキャラクターにそうしているように、さくさく名前くらいつけられるでしょう?」
「わ、私はキャラクターの名前を決めるのに半日くらいかかるけれども~」
「なんでも良いから、あんたが適当につけなさい」
そよはあたしの無茶な頼みに困り果てたのか腕を組みながら、笑顔のまま唸り声を上げてしまっている。どんなに困っていても笑顔は崩さない、そんな彼女のスタイルに敬意を払いつつ、あたしは命名の儀に胸を踊らせている。
「そだ! バニラ・アリスはどう? バニラアイス好きなアリスでバニラ・アリス!」
「良い名前かもしれないけれど、理由が適当すぎるわ。あたしがチョコアイスを好きだったら、チョコ・アリスになっていたのよね? 適当すぎる」
「て、適当につけなさいって言ったの、アリスなのにぃ~……」
「それに漢字の苗字って指定したでしょう。困った眉毛犬ね。滅べばいいのに」
「漢字かぁ~。うーん。うーん。あ、そうだっ」
そよは何か思いついたのか、柏手を打つとこちらに向かってサムズアップをしてきた。なんだか笑顔のイメージと相まって、やたらと爽やかなサムズアップに見える。
「アリスの言う通り私が春風で涼ちゃんが夏月でしょ? それに、飛行機の『夢』を創りだした子の名前が秋鳥翼ちゃんなの」
「そういう名前だったのね。翼という子の苗字は知らなかったわ」
「うん。それでね、さっき気がついたけれど、私達の苗字には春夏秋冬のうち、冬以外は揃ってるの。だから冬って漢字を使うと綺麗に揃うかなって」
「花鳥風月の花以外も揃っているわね」
そよは、あたしのその言葉に嬉しそうに目を見開く。
「ほんとだっ! 気が付かなかったよぅ~! それならアリスの苗字は決定だねっ!」
「冬花アリス?」
「うんっ! 冬にも咲く可憐な花、冬花アリスっ!」
悪くないかもしれない。
冬花アリス。
それがあたしに与えられた初めての名前。
「ふふふ。悪くないわね」
「その少し偉そうな微笑みは気に入ったって顔だね~」
「気に入ったけど、春夏秋冬で言うと春とは一番遠い。そよと離れ離れなんて少し寂しいわ……」
「え? 春と冬は離れてるから寂しい? 可愛いこと言うね~。でも大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか分からなかったので、あたしは片眉を上げ、そして首を傾げて精一杯疑問を表現した表情をとる。
「春夏秋冬って書くと確かに、春と冬は離れ離れかもしれないけれど季節で考えると冬の次は春だからね。春が振り返ると、そこには冬がいて腕を伸ばせば手を繋げるんだよぅ」
「腕を伸ばせば手を繋げる」
「うんっ。こんな風に」
そよはあたしに背を向け、こちらにゆっくりと腕を伸ばしてきた。その瞬間、優しい風が彼女の方から吹いて、あたしの頬を擽る。
「心配いらないよぅ。冬だって一人じゃないよ」
「……そうね。そよ、あんたと友達になれて本当に良かった。苗字が欲しいなんて我儘聞いてくれてありがとう。優しいのね」
どういたしまして。そう言って照れくさそうに笑う彼女に、あたしも照れくさくなり目を逸らす。
調子狂うわね、本当。この子といると心地良く胸がドキドキしてくるもの。やっぱり良いわね、女の子同士の友情って。刺激的だわ。
「あたしにも愛着を持って大切に出来る宝物ができたわ、本当にありがとう」
「愛着を持って大切に出来る宝物――」
そよは、あたしの言葉をそう繰り返すと笑みを消し、真剣な表情を浮かべる。
「そ、そよ? どうしたのかしら? 食べ過ぎでお腹でも痛いの?」
「この『夢』が愛着を持っているのは――」
そよは言葉を切ると帽子を取り、鋭い動きでその中から何か長い棒状の物をマジシャンのように引っ張り出し、それを山頂へと向ける。
「絵の題材は、ずっと同じ場所。あの絵は全部が全部同じ場所を書いてたんだ。『夢』の本体が強い愛着を持っているのは――」
――突然の轟音が鳴り響き、あたしは慌てて両耳を塞ぐ。何事かと音の方へと目を向けると、そよが手にしていた棒状のもの、長い銃身を持つ鉄砲の先から硝煙が上がっていた。
「答えは『山だ』よ、アリス!」
「山!? な、何事よ!? その鉄砲なによ!? 鹿でもいたの!? ハンティング!?」
「『マッド・ハッター』の力で創りだした対物ライフルのようなものだよぅ。M95がモデルかな。威力も反動も本物よりも桁違いに強い。それより見て、アリス!」
表情には笑みが戻っているが声色は真剣そのものな彼女の言葉に従い、銃口が向いている方向へと、あたしも目を向ける。
「な、なによ、あれ」
あたしは自分の目がおかしいのかと両目を擦る。不思議なことに視線の先、山頂付近の空間が歪んで見えたからだ。だが、それは目がおかしいわけでも錯覚でもなかった。何もないはずの空中からは真っ赤な血が垂れ、そして風景が紙芝居のように、ずるりと動く。そして捲れた風景は、風に煽られて飛んでしまった洗濯物のシーツのように漂う。そのシーツが離れていった先には先程までと同じ何の変哲もない山と木々の姿が見える。
「あれって。まさか」
「うん。とても薄い布のようなものに、実際の風景と見紛う…………ううん、実際の風景となんら変わらないような精密な絵が描かれていて、まるでカモフラージュのように宙に浮かんでたんだよ、『夢』の本体は」
間違いない。『夢』の心臓が奏でる夢の音が聞こえてくる。
「そうね、あの布みたいなのに描かれた絵は間違いなく本体よ。でかしたわ、そよ。逃がさないで!」
潜伏されて気配を消されると、もはや探知不能になるが、姿を表して緊張した『夢』の心臓が放つ音は聞き取れる。もう逃さない。
「狙いは外れてたみたいだね。弾は掠っただけ。でも――」
そよは力強く大きな銃を片手で振り回し、ふわふわと漂いながら移動している『夢』へと銃口を向け、繰り返し何度も発砲する。一回撃つ度にレバーを引いて弾を装填しているようだが、笑顔で一連の動作を繰り返す彼女は近くで見ていて少し憧れる。実に頼もしいナイトメアだ。そして、そよは五発撃った時点で帽子を持ち上げ、それを床に向ける。
すると帽子の中からいくつもの大きな弾倉が転がり落ちてきた。恐らく、あの銃の弾がこめられているのだろう。そよは転がっているそれを蹴り上げ、手で掴み器用に空の弾倉と流れるように交換する。そして彼女は続けて発砲し、その弾丸は何度か『夢』に命中した。その都度、悲鳴のような声が上がるのと同時に、空を舞う布のようなものから血液が吹き出してくる。このまま倒せるかと思った瞬間だった。『夢』の本体である背景画が描かれた、その布の背後から青白い二本の細い腕と足が現れた。その右手には筆を、左手には絵の具の乗ったパレットを持っている。
「なにか仕掛けてくるわよ、気をつけて、そよ!」
「その前に撃ち滅ぼすっ! がるる!」
本体はシーツを被って、お化けのフリをする少女のような姿になり、奇声に近い笑い声を上げながら森の中を走りぬけ、そよの銃撃をかわしていく。
「おかしいな、私の偏差撃ちは完璧だから当たってるはずなのに」
「へ、偏差撃ち?」
「進路を予想して、予めそのポイントを狙って撃つことかな。……あっ」
そよは何かに気がついたのだろうか、目を見開き背後を振り返る。
そこには――
『きゃはははははははははははははははははははははははは』
奇声を上げながら、そよへと跳びかかり筆を振り下ろそうとしている『夢』の姿があった。
「やっぱり、あっちはフェイクだったね……っ!」
そよは振り下ろされた筆を銃身で受け止めた。筆に染み込んでいた絵の具により黒いラインを引かれた対物ライフルは、その線に沿って刳り取られたかのように消滅し、真ん中で真っ二つになってしまった。そよは堪らず、『夢』に鋭い回し蹴りを叩き込み距離をとり、同時に真っ二つになった銃を投げ捨てる。
「それまで銃弾を受けたら出血してたのに変だと思ったんだっ! あの子はあの一瞬で走ってる自分の絵を森の中に書いたんだよぅ……っ! 何にもない空間に動画を描くなんて、凄いね、『夢』って! どういう原理なんだろうっ」
更に追撃を加えようと近づいてくる『夢』の筆を素早くかわしていた彼女だったが、激しく振り回された筆から飛んできた一滴の黒い絵の具が左手の甲に当たると動きが一瞬鈍ってしまった。
そよが動きを鈍らせた一瞬。『夢』はその隙を逃さなかった。
不気味な姿をしたシーツを被った少女のような姿をした化物は、その手にした凶悪な筆を、そよの顔へと鋭く突き立てようとした。
「させるかあああああああああああ!」
あたしはそう叫ぶよりも早く、『夢』へと青い炎を走らせる。火花が文字通り青い花びらのようにひらひらと美しく舞う。そんなあたしの炎に巻かれた本体は、悲鳴を上げて離れていった。炎は既に消えてしまっているが、『夢』は警戒したのか距離を取り近づいてこない。とりあえずは助かったようだ。
あたしに力が戻っていたら今ので終わっていたのに……まあいいわ。
それより――
「そよ、一瞬動きが止まったわね。どうしたの? え? その手……そよ!」
あたしは慌てて彼女に駆け寄り、そよの左手を掴み上げる。恐らくあの黒い絵の具の効果だろう。彼女の左手の手袋には大きな穴が空いており、その下の白く華奢な甲は深く抉られたような傷から溢れる赤い血で染まっていた。
「……酷い傷」
「痛いのも傷も慣れてるから大丈夫。それにナイトメアなら、このくらいの傷、大丈夫だよね。そんな気がする」
「ええ、ナイトメアは変身が解けても再生能力は普通の人間より遥かに上。新しい傷はすぐに消えるわ。でも痛いのは同じ。慣れてるって言っても酷く痛むでしょう……?」
「痛いだけなら平気。痺れて左手が動かないのが今は少しだけ困るかな~。それより心配かけちゃったね、ごめん」
「どうして、あんたが謝るのよ……」
「手から溢れる綺麗な血に見とれちゃった。赤色が好きすぎるのも考えものだよね~」
それは本当にその通りで、そよはとても良い子なのだが異常な程の赤への拘りは常軌を逸している気がする。過去に赤へ執着するような出来事でもあったのだろうか。
「私よりアリスが心配だよぅ。顔色悪いよ? さっきの青い炎。アリスの力なんだよね? 戦えるほど、力は戻ってないないのに無理したせいでしょ?」
あたしは図星をつかれたので、そよからあからさまに目を逸らしてしまった。
「やっぱり。私を助けるために無理してくれたんだね」
ごめん、守るって約束したのに。そう悲しげな声で呟くと、そよはあたしを強く抱きしめてくれた。
「そ、そよ。良いのよ。あたしなんかでも、あんたを救えて嬉しかったから」
彼女は申し訳無さそうに笑うと、あたしから離れて黒いマフラーを外した。
「私が甘かったよ。すぐに決着つけてくるね」
そう言うと、そよはマフラーを巻き直し、徐々に全身を赤く染めていく。フォーム『クイーン・オブ・ハート』だ。
「キミの夢。悪夢で終わらせてあげる。覚悟してねっ」
そよの変身に反応したのか『夢』は十人に分かれ、森の中を四散し走り回る。笑い声と共に、どんどんとその数は増えていった。
「そよ! あいつ……しかけてこないと思ったら、また森の中にフェイクを描いていたみたいよ! どれが本物か見当もつかない……」
『きゃはははははははははははは』
森の中で笑い声は反響し、どこで本体が笑っているのか分からない。やつの心臓が奏でる夢の音も笑い声にかき消されて、今は全く聞き取れないのだ。
「見当をつける必要なんてないよぅ。左手が痛いから沢山の鎖を操るのは辛いけれど、一本あれば充分。危ないから離れていてね、アリス」
そう口にし、力強く一歩踏み出した彼女は左腕を激しく振り回す。すると左腕から伸びた五本の鎖のうち一本だけが、そよの頭上で凶悪な風切音を立てながら回転し始めた。
『きゃはははははははははははは』
「……! やつら、一斉に襲ってくるつもりよ! どれが本物か見分けがついたわけ!?」
「見当をつける必要はない。そう言ったよね、アリス」
そよは微笑みを崩さず、そう言うと振り回していた鎖を山頂へ向かって投げつけた。
「まさか、同じ所に擬態して――」
だが、そうではなかった。木々をなぎ倒しながら進む鎖と刃。その真紅に染まった凶器へ向かい、怒声のような叫びを上げながら少女達の一人が飛びかかった。その刹那だった。恐らく『夢』の本体であると思われる、その少女は大きな口を開いた怪物のようなギロチン台に捉えられ、悲鳴と共に森の中へと消え派手に土煙が舞い上がる。
「飛び出してくると思ったよぅ。そこはキミの何より大切な夢の原点。あんなに想いを込めて、いっぱい絵に描いてるような場所だから」
そよはそう言うと右腕を強く引き、『夢』を捕らえたギロチン台を山森から木々を巻き込みながら車道まで引っ張り出す。
「安心してね、山を壊すなんて酷い真似は出来ればしたくないから。……まあ、ギロチン台で結構被害出しちゃったかもしれないけれど、山に投げた鎖は止めたよ」
その言葉通り、そよは右手でギロチン台に繋がる鎖を操りながらも、山頂へと向かって伸ばした左腕の鎖を引き戻していた。
夢の原点。その大切な場所を脅しの材料に使い、本物の本体を誘き出したのか。
「やっぱり、ただの眉毛犬じゃないわ。『夢』の想い入れや執着を突いた攻撃、見事ね」
「ありがとう。あんまり素敵な戦い方じゃなかったよね。でも私は正義のヒロインじゃないし、自分の夢と大切な人達を守りたいだけの自分勝手な女の子だもん」
正義のヒロインはアリスだよ、そう言って寂しそうに笑った彼女は何を思ったのだろう。あたしには分からなかった。
そよはギロチン台に首を捉えられ、もがく『夢』の本体を見下ろしながら袖から数枚のカードを取り出し地面に向かって投げつける。トランプの兵士にギロチンの刃を台につけさせるつもりなのだろう。トランプの兵士達がギロチン台へ刃を設置し終えると彼女は『夢』の側で膝を折り、その頭を優しく撫でた。
「あんな素敵な絵を描くのに、どうしてキミの夢は壊れかけちゃったんだろうね」
狂ったように笑いながらもがき続ける『夢』にそう語りかけながら、そよはゆっくりとギロチン台のレバーに近づいて行く。あのレバーを引くとギロチンの刃が落ち、捕らえられている夢の首が飛ぶのだ。翼の『夢』も、あの刃で頭を落とされた。そうして破壊された『夢』は光を伴って消滅する。最初はキラキラと輝いていたはずの夢が放つ最後の光なのかもしれない。
「私は私の夢と未来を諦めない」
そよはそう強く言うと、優しく微笑みギロチンのレバーへ手をかける。
「さようなら、綺麗な絵を描く誰かの『夢』。素敵な画廊だったよ」
白いシーツに布団。白い天井に白いカーテン。ここはどこだったっけ。私は。
ベッドの横ではお母さんがいつも泣いている。いいからキャンバスを持ってきて。私はもっとお絵描きしていたいの。お絵描きしていたいのに。すぐそこのキャンバスを取りに立ち上がることさえできやしない。ああ。ああ。ああ。こんなの嫌だ。体が思うように動かない。ずっと吐き気が止まらない。お医者様もお母さんも私に気持ち悪いお薬を注ぎこむ。頭が痛い。私に明日はくるのかな。今日を越えられるのかな。胸が苦しい。死んじゃう。死にたくないのに。死にたくない。死にたくない。
もっとお絵描きしたい。もっと、もっと、もっと――――
アリス。アリス。アリス。
「アリス。アリス、起きて。アリス」
目を開くと、制服姿の白い髪の少女と、星が散りばめられた夜空が見えた。あたしはどうしていたのだろう。とても悲しい気持ちで目が覚めた。
「気がついたんだね。良かった。急に倒れちゃうから心配したよう」
「そよ? あたしは……」
そよの膝を枕に、あたしは道路を背に倒れていた。彼女がギロチンで『夢』の首を落とした後の記憶がない。そよの言葉によると意識を失っていたようだが。
膝の主と目が合い、あたしは照れくさくなったので立ち上がろうとしたが腕と足に力が入らず、へたり込んでしまう。
「体が言うことを聞いてくれないわ……」
まだ力を取り戻していない弱っている体で『青い炎』を使ったせいかもしれない。どうしようかと逡巡していると、そよはあたしに笑顔で手を差し伸べてくれた。
「おんぶしよっか。わんわんっ」
そよに背負われて進む夏の山道は、まるで絵本の中を行くような幻想的な雰囲気を匂わせていた。耳に届くのは虫の鳴き声や、木々を縫うように進む風が揺らす葉擦れの音。そして大切な友が奏でる心地良い靴音。彼女が歩くたびに、ふわふわと揺れる世界を道路沿いの薄暗く頼りない電灯だけが照らしてくれる。見上げるとそこには星の海。遮る光も何もない山で、空は深くそして美しく闇に染まり、星の輝きが一段と煌めいて見える。そんな星明かりの下を、あたしは王子様のように頼もしく力強い、そんな素敵な少女に背負われて進んでいく。なんだか悲しい気分だったはずなのに笑みが浮かんで止まらなくなってしまう。そよの肩に額を当て、あたしは目を閉じる。
ずっとこうしていたい。この初めてできた大切な友達と、星空の下の素敵なデート。きっと今、あたしは幸せを感じているのね。
こうしていると、『夢』が見せた悲しい『記憶』への罪の意識も薄れていく気がする。
そう。絵に願いをこめていた少女の夢を、あたし達は――――
「アリス」
あたしは思考に意識を集中させていたので、名を呼ばれただけで胸がドクンと一際高く鳴り、ついつい緊張してしまう。こんなに緊張するのは、きっと彼女のことを考えている最中に名前を呼ばれたからだろう。
「意識を失ってる間、アリスは泣いてたね~」
「泣いていた? あたしが?」
言われて触れてみれば涙が作ったできたての痕が頬にある。
「それに、お絵描きしたいって呟いてた。気絶しながら、うわ言で」
「……そう」
「あの『夢』が、どうして壊れかけちゃったのかなってキミに聞いた時、アリスはこう答えたよね~。それは『夢』を創りだした当人にしか『今は』分からない」
そよは足を止め首を背後のあたしに向かって少し傾けると、そう囁くように言った。
「あの『夢』が絵を諦めた理由を『今は』知ってるんでしょ?」
「勘が鋭いのね、眉毛犬のくせに」
「なんとなくね。悲しそうだったし。それに鼻は利くんだよぅ、わんわんだからね」
その言葉に頷くと、それを背中越しに察したのか、あたしを背負ったまま彼女は再び歩き始める。
「『悪夢』は倒した『夢』の力を吸収する時に、奴らが持っている創造主の記憶の一部も一緒に取り込んでしまうの」
夢を諦めなければいけなくなってしまった現実に直面し、それでもなお夢に身を焦がす悲しい人達の記憶。諦めたわけでもないのに理不尽に潰されてしまった夢に涙する人達の記憶。様々な理由で夢を歪めて実体化してしまった人達の想いの欠片。そんな記憶が、倒した『夢』の力と共に流れ込んでくる。
「さっき倒した『夢』は、絵が大好きな少女の持つ夢と願いだった」
あたしの言葉に返事はなく、そよは静かに歩き続ける。
「……彼女の夢が壊れかけた理由は寿命よ」
病室で少女を励ます母親。しかし、夢が壊れかけた少女は励ましの言葉に耳を貸さず、そんな体に産んだ母親を呪い続けた。
お絵描きがしたいのに。お絵描きがしたいのに。いつか美術館に、大好きな想い出の場所を描いた私の絵を展示してもらうの。それが夢なの。大好きな想い出の場所。お父さんとお母さんが笑ってた頃の想い出がいっぱい溢れてる、あの場所の絵。
そうすれば笑顔のお母さんもお父さんも帰ってきてくれるはずなのに。
「そう言って泣き続けていたわ。少女も。そして傍らの母親も」
『夢』から受け取った記憶の断片を、そよに話す必要はない。何故なら、『夢』を直接壊したのは彼女なのだ。倒した相手は、ただの敵ならばいい。こんな悲しい事情を彼女まで知る必要などないのだ。それでも、あたしは耐えられなかった。『夢』を壊し、そして得る創造主の記憶。それに耐えられなかったから、あたしは『悪夢』としての命に終止符を打とうとしていたのだから。
「『悪夢』はね、そうやって小さな女の子が持っていた大切な夢すら……命が尽きる前の支えだったような夢すら救えない」
あたしの言葉には、友人がゆっくりと刻む靴音と葉擦れの音だけが応える。虫の鳴き声はいつの間にか消えてしまった。
「夢を壊すしか脳がない、役立たずなのよ……」
「そう思っていたから初めて会った、あの日。アリスは消えちゃおうとしてたんだよね」
そよがやっと口を開いてくれたので、あたしは思わず安堵の息を漏らす。実は不安だった。実際に『夢』を破壊したのは彼女なのに、あたしがこんな愚痴を零す資格は本来ないだろう。何もしてないくせにと怒られても仕方がない。
「今回の戦いで、よく分かったよぅ。実体化しちゃった『夢』は壊さなきゃ。誰かを巻き込んで、自分の夢だけを強引に突きつけるなんて迷惑だよ」
「でも……誰かの大切な夢を壊すのは辛いわ……」
「うん、アリスは優しい『悪夢』だもん~」
そよは気の抜ける声でそう言うと首を傾け、こちらから口元が見える角度で微笑んだ。
「アリスがしてきたことは確かに誰かの夢を壊す戦いだったかもしれないけれど、同時にね、それ以上に誰かの夢や命を救い続けてきた、そんな尊い戦いでもあるんだよぅ~」
「そよ……」
「夢に執着して未来を壊しちゃう人だっているから、もしかしたら今までだって夢を諦めて救われた人もいるかもしれないよ」
優しい声に思わず、そよを後ろから強く抱きしめる。
「ようし。それなら確かめてみよう~!」
「え? な、何を?」
「『夢』を作った女の子。今どうしてるかっ!」
お母さん。私ね、お絵描きするのは、もう諦めたの。あ、ううん。そんな顔しないで。別に投げ槍になってないよ。えっとね、私はもう死んじゃうかもしれないんだよね? 言われなくても自分の体だから分かるよ。でも私ね、もう一度、大好きだったあの場所に行きたい。今は体がうまく動かなくて、お絵描きを諦めても、いつかあの場所に行ったら、もう一度描きたいんだ。大好きな風景と、笑ってるお母さんと私と。そして天国のお父さんを。
だから私、頑張るね。生きたい。夢を、もう一度頑張れる時まで私は元気になるのを頑張る。絶対諦めない。もう一度、あの場所に家族で行くんだ。
だからごめんね。お絵かきできなきゃ死んじゃってもいいなんて言って。もう言わないよ。私、死にたくない。生きたい。生きたいよ。お母さん、また泣いてるの? 私のせい? 違うの? 嬉しいから泣いてるの? 変なお母さん。でも、良かった、えへへ。でも、そろそろ疲れちゃったから私、寝るね。お薬効いてきたよ。でも、後一言だけ。
ありがとう、お母さん。
そんな母娘のやり取りを見守っていた、あたしとそよは病室の扉からゆっくりと離れ、その場を立ち去る。
ここは夜の病院。見舞いに来るには少し遅い時間だろう。あたし達は正規の見舞客ではなく、こっそりと忍び入った招かれざる客だ。少女がいた病室を振り返っていると、そよに手を引かれ、あたしは思わずたたらを踏む。彼女の姿は見えない。と言うより自分の姿も、あたし自身が見えていない。何せ、今は我がナイトメアの力で透明人間になっているのだ。とりあえず、用が済んだ院内でウロウロとしていてもしかたがないので、あたし達は出口へと向かう。
「そよ、誰もいないわよ」
「それじゃ透明を解除するね~」
病院を抜けた近くの茂みの中、何もない空間から気の抜けた声だけが響くと、紫色のマフラーと可愛らしい猫耳をつけた、そよが現れた。全身、紫色の衣装を纏っている。胸には大きなリボン、フリルのついたスカートや、しっぽ。ニーソックスに至るまで、全て紫色をしている。
「『紫の風』。フォーム『チェシャ・キャット』! わんわんっ」
「あんたね。猫のくせに、わんわんはないでしょう。滅べばいいいのに」
「それなら、にゃんにゃんっ! ……はずかちぃ」
猫まねきのポーズを取りながら頬をほんのりと紅く染め、そよは頭をぽりぽりと掻いた。普段から、犬の鳴き真似をしているくせに、猫の真似は恥ずかしいとでもいうのだろうか。今更である。
「ところで、そよ。あたしの姿が透明なままなのだけれど……」
「あ、ごめんね~。解除するの忘れてた。えへへ~」
そよは笑って誤魔化しながら指を弾くと、今まで風景に溶け込むように透明だった、あたしの体も薄暗い茂みの中にゆっくりと色を取り戻してきた。自分の姿が見えないと若干、不安を感じるらしい。そこにあるはずの腕が見えないので、脳が混乱するのかもしれない。それにしても彼女は色んな能力を持っていて実に便利だ。『チェシャ・キャット』は自分だけではなく、触れた相手まで一時的に透明にできるようだ。こんなに多種多様な力を持っているナイトメアも珍しい。そんな有能である我がナイトメアはのんきにアクビをするとマフラーを付け直し、元の制服姿へと戻っていた。
「あの女の子……前向きになれていたわね」
絵の『夢』を創り出した少女が通う病院の位置は『夢』の記憶を吸収した際に知った。その病院は春風家から然程遠くもなく、辿り着くのに苦労はしなかった。
「あんなに体も心も病んでいたのに……」
「夢だけしか見えなくなると、周りや自分が見えなくなることもあるからね~」
でも良かった。そう言って嬉しそうに笑うと、そよは茂みから出て歩道へと向かう。病院以外の建物は少なく辺りは薄暗い。
「……そよ、本当にありがとう」
歩き出そうとした彼女の袖を背後から掴む。あたしの声は少し震えていた。
「いつも、こううまく行くとは限らないかもしれないけれど、アリスがやってきたことは決して無駄なんかじゃない」
そよはそう言うと振り返り、あたしの頭を優しくなでてくれた。
「それにね、手の届く範囲で『夢』が暴れたなら、私がアリスに変わって全部倒すから」
首を少し傾けて満面の笑みでそう力強く言い切る彼女に思わず、あたしの瞳から涙が零れてしまう。
「私はアリスに消えて欲しくないから『夢』を倒し続ける。もし、それで辛い記憶を吸い込んじゃったら、私に全部吐き出していい。悲しくなって耐え切れないならいつでも抱きしめるよ」
「……あんたは、あたしに優しすぎて怖いくらい……」
そうでもないよ、彼女は寂しげに微笑み、あたしの首にそっと手を触れる。
「誰かの壊れた夢の記憶を見るのが悲しくて、『夢』を倒すのを止めるはずだったアリスに、生きる選択をさせたのは私。アリスを守るのは私の責任で。義務で。願いだから」
「そよ、首……くすぐったい……」
「『悪夢』のアリスは、私にとって正義のヒロイン。素敵な人だよ、キミは」
そう言うと、そよは力強くあたしを抱き寄せる。
「一人じゃないよっ」
「バカ……。滅べばいいのに……」
ずっと誰かに認めて欲しかったのかもしれない。『悪夢』は嫌われてしまう存在だから。ずっとずっと、あたしは誰かを守るために戦っていたのに。誰も褒めてくれない。誰も分かってくれない。ただ誰かの夢を壊し続ける。そして壊れかけた悲しい夢の悲しい記憶を引き継いで罪悪感に刻まれていく。そんな毎日に限界がきていた。
誰かに褒められたい。そんな子供みたいな願望。あたしは誰かに自分のやってきたことを肯定して欲しかったのだろう。
正義のヒロイン――
涙が止まらなくなった。人間を模した体って不便ね。言うこと聞かないんだから。
強く抱きしめてくれる、そよ。彼女のマフラーが涙でふやけてしまうまで、あたしは延々と泣き続けた。
「来てくれないのです」
ファンのブーイングも、どうでも良くなるくらい私の心は一つの妄執に囚われていた。
「こないのです。私の大切な人。夢の全て」
私はステージに立っているはずなのに、どこか夢の中を漂っているような不思議な感覚に襲われている。いつもなら大切なあの人はライブが始まる前に席についていてくれた。なのに。どうして。
凡そ、三ヘクタールはある大きな自然公園の野外ステージ。収容人数はそれほど多くはなく観客席は満員だ。すり鉢状に観客席は広がっており、私の立つステージはその中央にある。その最前列にある空いた一席に目を向け、私の心は重く苦しい想いで満たされた。
あの人に用意した席は空いたままなのです。どうして。
声が出ない。呼吸も苦しい。どうして。こんなに辛くても私は、あの人のためだけに歌い続けているのに――
そよのことは諦めたほうがいいね。もうお前より、あの『悪夢』が大事なんだからな
その毒のような苦い言葉が脳裏をよぎる。その言葉が頭から離れないせいか、うまく歌えない。音程もバラバラだ。それは観客も不満の声を上げても仕方ないというものだ。我ながら本当になんて情けない。たった一人の友人に心を痛めて。心を揉んで。心を――――捧げて。
「当たり前なのです。あの人は私の夢。その全てなのだから」
もうステージは続けられない。そう判断したのか、スタッフが慌ただしく動き始めた瞬間だった。灰色だった世界に色が戻ったかのように、視界が開けたのは。何千人の中にいても見逃さない。白い髪に赤いマフラー。
そよちゃんです! そよちゃんが来てくれたのです!
今日は何もかもがイマイチな私のせいでしらけている観客席の後方、恐らく最前列の指定席へと向かっているのだろう、そんな親友の姿を私は目にし私の気持ちは自然と高揚してくる。それだけで何かが詰まっているような、声がうまく出せなかった喉でも自由に歌える気がしてくる。
心を込めて歌いますね。聞いていてください、そよちゃん。そう強く想いをこめて、口を大きく開いた瞬間だった。私の全身を、凍りついた血液が巡ったかのような、恐怖と不安、失意と失望、それら全てを織り交ぜたかのような衝撃が走った。
そよちゃんどうして……
白い髪の少女を視線で追う。その後ろには金色の長い髪を靡かせている青い服をきた少女の姿があった。たまらなくなった私は、仲睦まじく歩く二人から思わず視線を背けると、マイクに向かってありったけの声を絞りだす。
「あああああああああああああああああああああ!!!」
時が止まったかのように、全てが静まり返った。その瞬間だった。私の喉からかつてないくらいの声量と、そして美しい歌声が溢れだしたのは。
嫉妬。羨望。なんなのだろうか。心を揺さぶり震わせ、そして求めてきた大切な夢。ずっと歌手として生きてきて目にしてきた、夢のステージの裏側に渦巻く大人達の金や欲望にまみれた闇に壊れそうだった私をいつも支えてくれた最愛の友。私だけの友達。あの人の隣は私だけのものだったはずなのに。そんな想いが歌にのって零れ、溢れて止まらなくなる。観客達が盛り上がりってきた。私の歌を喜んでくれているのだろうか。私の大切な人は? 私の歌を聞いてくれているのだろうか。それともあの女と――――
私を後回しにした。私のライブに遅れた。あの人にも事情があったのかもしれない。それならそれでいい。なのに、あの人は、あの金色の髪をした『悪夢』と一緒にここに来た。二人で遊んでいて遅れたのかもしれない。自分勝手なのは分かっている。最優先にして欲しいなんて、最低な我儘なのも分かっている。
それでも私には、あの人しかいないのです。
届いて欲しい。聞いて欲しい。そんな想いを歌にのせて私は全身全霊を込めて声を響かせる。
そして、私の史上最高と言われたライブコンサートは幕を閉じた。
「そよのバカ! 滅べばいいのに! 嘘つき! 嘘つきーっ!」
「お、落ち着いてよ、アリスぅ。私は何も嘘をついてないよぅ」
あたしは許さない。この眉毛犬を。こともあろうか、この威厳溢れるクールでニヒルな上に純粋無垢な『悪夢』を謀ろうとは。
「何が一緒にライブへ行って涼ちゃんを応援しようよぅ、わんわんっ、よ!! 私をあんな人の群れの中に置き去りにしてどういうつもりなのか、差し支えなければ説明してもらいたいわね! この眉毛犬!」
帰宅早々、あたしに怒られた彼女は怯えた犬のような鳴き声を上げるとソファーに寝転がり、クッションを盾のように構えながら苦笑いを浮かべている。
「ご、ごめんね。ライブは全部指定席だし、チケットは別々に手に入れたものだから、よく考えたら隣の席になるはずがなかったよね……」
「嘘つきっ! 全然一緒にいられなかったじゃない……っ! 滅べばいいのに!」
「う、嘘はついてないってば~。ライブへ一緒に行こうって言ったけれど、隣の席とは一言も……」
「そう言えばレストランの時も、同じようなことがあったわよね……」
そよはレストランにバニラアイスがあるかもしれない。そう言っていた。実際のところバニラアイスはなかったのだが、確かに嘘は言っていない。
「ずるい大人の言葉遊びみたいね」
「ご、ごめんっ。本当にごめんっ。レストランでもライブでも悪意があったわけじゃないからね……」
申し訳なさそうに笑う彼女に、あたしもつい笑いを返してしまう。それにしても、そよはナイトメアとして『夢』と対峙している間は凛々しく頼もしくもあるのだが、普段はやはり、どこか抜けていてそそっかしい気がする。
「悪意がないことくらい分かっているわよ。今日は帰り道にアイスを沢山買ってくれたし、もういいわ。一人で参加するライブも意外と楽しかったし」
「許してくれて嬉しいよ、えへへ。楽しかったなら本当に良かったよぅ~。わんわんっ」
「怒っていたのも冗談よ。あんたが怒られた犬みたいに慌てふためくから面白くて。ライブに連れて行ってくれて、ありがとう」
最初は盛り上がっていなかったように見えた涼のライブだったが、彼女が突然の叫びを上げた後、狂気一歩手前の悲しみに満ちたような、そんな凍りつく歌声に変わり観客達は引き込まれるように熱狂に呑まれていった。あたしも他の観客動揺、涼の歌声に呑まれ感涙してしまったくらいなのである。あの涼という少女は心底、凄い歌手なのだと痛感した。
「涼ちゃん、凄かったでしょ?」
「ええ、そうね。ファンが大勢いるのも納得したわ。魂まで凍りつくような歌声ね。戦慄したわ、あたし」
「ん~。そうだね~。心が割れるかと思うくらい、今日の涼ちゃんは鬼気迫る声で歌ってたねぇ。いつもはもっと暖かい歌声をしてるのに。なんだか様子がおかしかった」
変だなーと首を傾げる彼女の横に座り、あたしはソファーに深く腰を沈める。
「涼ちゃんは本当に凄いんだよ。小さい頃から、ずっと人気が衰えないし、それどころか今では日本中で知らない人がいないんじゃないか~ってくらいスーパーアイドルだもん。そして私の壊れかけた夢を救ってくれた恩人なんだ。尊敬してる」
自分の夢を語る時のように目を輝かせ涼の話をする彼女に、あたしは頷きながら目を擦る。今日は色々あって疲れたのか、なんだか眠い。
「眠たそうだね、アリス。そろそろ寝よっか」
「お風呂入ってから寝たいわ。一人じゃ寂しいから一緒にどうかしら……?」
躊躇いがちにそうお願いすると、そよは可愛らしく微笑み大きく頷いてくれた。
「ずっとこうやって楽しい日々が続くと良いわね」
「楽しい日々を続かせるように努力していこう、お互いにっ」
楽しい笑い声が響く暖かい部屋。そして家族。そういう人間の素敵な関係に憧れていた。あたしは今、そんな宝物を手にできたのかもしれない。
大切にしよう。あたしはそう決意し、友人に手を引かれリビングを後にした。
「そよちゃんみたいな友達が欲しい。ずっとそばにいて欲しい」
アニメを視聴し終えた京子はテレビを消し、リビングのテーブルにうなだれながら独りごちる。どうしてこのアニメを見ていたのだろう。何時間見ていた? いや、このアニメは三十分間の放送だったはず。何時間も経っているわけがない。なんだか、どっと疲れた気がする。アニメを見る前に何をしていたのか記憶があやふやだ。今は何時なのだろう。時計はどこだ。スマートフォンは。京子は辺りを見回し、そして窓に目を向けると真っ暗だった。そう言えば、いつの間に夜になったのだろう。
京子は得も知れぬ不安を感じ、テーブルから立ち上がる。その瞬間だった。
視界の端に黒髪の少女を捉え、京子は反射的にそちらへと顔を向ける。
――誰もいない。
……怖い。きっとあのアニメを見てからだ。アニメを見てから何か現実が現実味を帯びていないような違和感と不安を憶えるようになった。それなのに、あのマフラーをした主人公が愛しい。続きが見たい。そう強く渇望した時、耳慣れた歌が耳に届く。
「涼の歌だ……」
テレビには、あのアニメのオープニングが流れ、そして今までの三話とは違い、主題歌は涼の歌に変わっていた。京子は躊躇う。そよの活躍を見ていたいが、これ以上、このアニメに関わるのは何か不吉なものを感じる。いや、不吉どころではない。さっき見終えてテレビを消したはずなのに、また映像が流れている。これはもう京子の想像が及ばない異常な事態に巻き込まれているのではないだろうか。それともただの思い過ごしで、テレビは消し忘れ、アニメは一時間枠の特別放送かもしれない。きっと考えすぎだ。テレビ画面を見つめながら京子は深呼吸をする。
「ただのアニメだ。何も怖がることなんてない」
そして画面に映った、そよの愛らしい笑顔を見た瞬間、京子はもう何もかもがどうでも良くなった。
「帰ったよ~! アリス~! ただいま~!」
「お帰りなさい、そよ。今日も良い子ね、ふふ」
夏休みの登校日。アリスを家に残して出掛けるのは毎度毎度心配だったが、どうやら今日も無事な様子で私は安堵する。私の帰りを本気で喜んでくれているのだろう、彼女は破顔し、幸せそうに私の袖を掴む。お帰りなさいと言ってくれる人がいると、こんなに幸せな気分になれるのか。初めて知った喜びだ。
「ん~? 袖を引っ張っちゃって。何か甘えたい気分なのかな~?」
「う、うう。浴衣は、まだ届かないのかしらと思って……」
画家の『夢』を壊してから三週間経ち、楽しかった夏休みもいよいよ大詰めの八月末。夏休み最後の思い出作りにと、私は大量の花火と二着の浴衣をネット通販で購入した。せっかく花火をするなら気分を盛り上げるためにも、そこは浴衣だろうと勢いで購入を決めたのだが、思いの外アリスが浴衣の到着を楽しみにしてくれているので私の頬も綻ぶというものだ。しかし、花火は届いたのだが肝心の浴衣が、まだ届いていない。アリスは早く花火がしたいのか先程から、あっちに行ったり、こっちに来たり落ち着かない様子でリビングを徘徊している。まるで餌を与えられる前のハムスターのようだ。
「花火とあたしの準備はできているのに。浴衣が来ないと始まらないわ」
「配送業者さんから、もうすぐ届けますよって連絡もあったし、あと少しの辛抱だよぅ」
「早く浴衣とやらを着てみたいわ。あんたと暮らすようになってから、このエプロンドレスばかり着ていたから新しい服は楽しみね」
「あ、あれ? 初めて一緒にお風呂へ入った日に私の服を貸そうかって言ったら、服は大丈夫って言ってなかったっけ~? あの日から、アリスは服なんて興味なくて、その一着だけで満足してるのかと思ってたよう」
「……あれはね、遠慮していたのよ。人様の家に初めてお泊りするものだから、謙虚に振舞っていたの。本当は色んなお洋服を着てみたいわ」
「そうだったんだね~。一ヶ月近くも新しい服が欲しいのを我慢してたの? 言ってくれれば良かったのに~。わんわんっ」
それで浴衣の到着をあんなに楽しみにしてくれていたのか。なんだか微笑ましい。
「何を満面の笑みを浮かべているのよ、滅べばいいのに。それより、そよには金銭面で、お世話になりっぱなしだもの。我儘は言えないわ」
「アリスったら、お小遣いは全部バニラアイスとテレビゲームに使っちゃったもんねぇ。もう少し増やそっか? 足りないでしょ~?」
「月に一万円も貰えれば充分よ。来月から、しっかりと考えて計画的にやりくりするわ」
そうアリスが決意を新たにしているとチャイムの音が鳴り響いた。
「あ、きっと浴衣が届いたに違いないわ!」
アリスに頷き、壁にかかっているモニター付きのインターフォンへと目を向ける。そこには配達業者と思われる帽子を被った女性の姿が映っていた。そのモニターは玄関に備わっているカメラと繋がっており、来客がチャイムを鳴らすと、その相手を映し出してくれる装置だ。インターフォンのスイッチを押し応答すると案の定、来客は配達業者だった。
「アリス、正解。多分浴衣だよぅ」
「なんだか、ドキドキしてきたわっ」
嬉しそうなアリスに笑って応え、私はテーブルの上に用意してあった浴衣の代金に手を伸ばす。すると、その横に置いてあった私のスマートフォンが揺れ始める。
――涼ちゃんから電話だ。
「お願い、アリス。玄関出てもらっていいかな? そこのお金を支払って、荷物を受け取って貰えると助かるよぅ」
「え? あたしに来客応対させるつもり? 緊張してうまく話せる自信ないわよ……?」
「涼ちゃんが久しぶりに連絡してきてくれたの。お願いアリス」
「涼から? そう。分かったわ。私は威厳溢れるクールでニヒルな『悪夢』。そよの同居人として代引き通販の支払いと荷物の受け取りくらいできないとね」
アリスは深呼吸すると玄関へと向かってくれた。ドア越しの業者に向かって可愛らしく、はーいと声をかけている同居人に微笑み、私はスマートフォンへと視線を下ろす。
涼とは、あのライブ以来、連絡が取れていなかった。例え忙しい時期でも彼女はメールだけは欠かさず送ってくれていたのに、それも途絶えていた。心配になった私はライブから一週間後、新幹線に乗り涼の自宅がある東京のマンションまで訪れたのだがインターフォンに返事はなく、何時間待っても彼女は現れなかった。その日から数週間経ち、ようやく親友から連絡があったのだ。
心配したよ、本当に。
震え続けるスマートフォンには夏月涼と表示されている。私は通話に応じる緑のアイコンに指を滑らせ、軽く息を吸う。
「もしもし、涼ちゃん? 元気にしてたのかな。わんわんっ」
涼からの返答ない。ただ小さな息遣いは通話越しに聞こえてくる。
「涼ちゃん、元気ないのかな? それなら私、できることなら何でもするから――」
『そよちゃん。何があったとか、どうして連絡をくれなかったとか聞かないのですね』
やっと返事をくれた涼の言葉には少しだけ棘が含まれているように思えた。そして、どこか掠れたような声をしている。
『詮索されるのが鬱陶しくて。そして逆に他人にも興味がなくて。そよちゃんらしいですね。あなたは自分の夢しか見ていないのです』
「うん、私にとっては夢が全てだよ」
涼からの返答はない。
しばらく沈黙が続いたので私から何か喋ろうと口を開きかけた時、彼女は小さく笑った。どこか自嘲めいた、そんな笑い方。
「涼ちゃん」
『……夢を諦めた人間を、そよちゃんはどう思いますか?』
どうして、そんなことを今聞いてくるのだろう。
「どうとも思わないかな。自分の夢をどうしようが、その人の自由だよね」
「どうとも……思わない。ですか……」
「うん。人生色々あると思うから、都合で夢を諦めちゃう人だっているよね。だから、そういう人を悪くも思わなければ良くも思わないよぅ」
『そよちゃんらしい答えなのです。そよちゃんは夢を追う人が好きですからね』
「うんっ! 夢に向かって頑張ってる人は好きだよぅ。だって、わたしが夢に向かって頑張るのが大好きだから」
『その話は何回も聞いているのです』
「うんっ。何回も話してるよぅ~。まあ、そんな私だから~」
『そんな、あなただから?』
「そんな私だから涼ちゃんのこと大好きだよぅ。えへへ~」
「……そうですね」
幸せそうな私とは裏腹に電話から聞こえてくる、涼の声はどこか深刻味を帯びている。いつもなら大好きと想いを伝えると、とても喜んでくれるのだが。
「涼ちゃん、本当に大丈夫かな?」
『……どうせ、この電話を切った後も、あなたは変わらず笑っているのです。嬉しそうに。何が楽しいのか知りませんが、そんなに笑っていて疲れないのですか?』
「うん。笑ってる。それはね~。ずっと前に涼ちゃんが言ってくれた言葉が今でも大切だからだよぅ~」
『何の話なのですか』
「そよちゃんは笑ってるほうが眩しいって。そよちゃんが笑ってれば、みんなを元気にできるくらい素敵な笑顔だって。そんなそよちゃんの笑顔が大好きだって涼ちゃんが言ってくれたんだよ」
電話の向こうから息を呑むような涼の声が聞こえた。
「だから私はずっと笑ってるの。作り笑いじゃないよ。三年前のあの日から、夢に一生懸命になれた毎日が、ずっと楽しいから」
涼から再び返答がなくなった。しかし息遣いはまだ聞こえる。
「涼ちゃんが三年前に守ってくれた私の夢。その夢を目指して頑張れる毎日が楽しいから。ずっと笑顔でいられるの。涼ちゃんは私にとって他人じゃなくて親友だよ」
恩人であり親友。大切な、本当に大切な人。
『私も親友と……思っています。ごめんなさい、私……そろそろ失礼しますね』
「うんっ! 涼ちゃんと、また話せて良かったっ。どんな話でもいいから、またかけてきて欲しいなっ。待ってるよ、わんわんっ!」
数秒の沈黙の後、通話の切断音が鳴った。元気はなさそうだったが、少しだけでも話せて良かった。安堵の息を漏らした私は耳に当てていたスマートフォンをテーブルに起き、玄関へ向かったきり戻ってこないアリスの様子を見るため、リビングのドアを開く。すると玄関側の廊下で、はしゃぎながらダンボールの箱から浴衣を引っ張りだしているアリスの姿があった。
「あ……! そ、そよ! つい開けてしまったわ!」
「うんうん。待ちきれなかったのかな? 可愛いね、アリス」
「そよがお話中だったから良い子で待っているつもりだったのだけど、待ちきれなくて。ごめんなさい……」
「いいんだよぅ~。楽しみにしてたもんね。それじゃ浴衣着てみようか~」
「う、うう、そよ……。私、その……」
「うん。着方が分からないから手伝って欲しいのかな?」
「そよは話が早いから助かるわ、ふふふっ」
照れくさそうに笑うアリスに微笑み、私はダンボールから二着の浴衣を取り出した。
「わ~! 可愛いわね! 浴衣って素敵よ! どう? 似合う?」
青いサイネリアの柄が愛らしい、空色に染まった浴衣の袖を揺らしながらアリスはリビングで黒いサインペンを片手に楽しそうにはしゃいでいる。赤で統一された内装の中、青は際立ち、彼女だけが世界から独立して美しく咲き舞う青き花のようにも錯覚する。
「とても似合ってるよぅ、わんわんっ」
「ふふふ。ありがとう。そよも深紅の浴衣が、とっても似合っているわ。そして同じ色のマフラー。まるで全身血に染まっているみたい。このリビングにいると完全に保護色ね」
「血のよう? えへへ~、ありがとう~。褒めてくれて、とっても嬉しいよぅ」
「外に出たら、とっても目立ちそうね。あんたらしくて可愛いわ」
真っ赤な私の部屋。そして赤への異常な執着。アリスは、その執着に少し引いてはいるものの馬鹿にしたり否定はしないでいてくれる。受け入れられず、そして理解できない他人の価値観を否定せず、放ったらかしにしてくれる相手は意外と珍しい。一般的な価値観でないなら尚更だ。否定し、拒絶し、弾劾しようとさえする。
だからこの少女と一緒にいるのが楽しいのかもしれない。私の価値観や夢を一切否定しないでいてくれる。
「ねえねえ、難しい顔してどうしたのよ。悩み事かしら? さっきから、ずっと悲しそうよ? お姉さんに相談してみる?」
いつも笑顔を絶やさない春風そよ、十三歳。そんな私の表情から内面を察したアリスは凄いと思う。なにせ、今の私はいつもと変わらない笑顔を見せていたつもりだったのだ。実際にアリスと話していて楽しいので、自然と笑顔にもなっている。それでも一ヶ月近く、ずっと一緒にいれば通じるものがあるのかもしれない。自分でも想像以上に涼との会話で悲しみを感じたのかもしれない。
「ほらほら、お姉さんに頼ってもいいのよ、この暴食ワンコ」
「お、お姉さん!? え? 誰? アリス、まさか私の知らない友達でもできたの? それとも『悪夢』の知り合いでも呼ぶ気なのかな?」
「ええ。あたしの友人にアダルてぃっくなお姉さんタイプの『悪夢』がいて、とっても頼りがいが……って、違うわ! 私のことよ……!」
「あ、アリスがお姉さぁん? そ、そうだよね、アリス大人だもんね……」
……このように、多少納得いかない価値観についても、とりあえず否定はしないでおく。それが私の価値観である。
「あ。目を逸らしたわね! あんた、実は私のこと子供だと思っているでしょう!? 滅べばいいのに……!!」
「あ、あはは……。そ、それよりアリス。ずっと気になってたのだけれど、どうしてずっとペンを持ってるのかな~?」
あ、これね、とアリスは自慢気な表情でペンを剣のように構える。
「せっかく浴衣を貰ったから名前を書くのよ。ふふっ」
「ゆ、浴衣にも名前書くんだねぇ~」
「もちろん目立たない所に書くわ。裏地にでも書こうかしら」
「それにしてもアリスはなんにでも名前を書くのが大好きだね、わんわんっ」
「なんにでも? 違うわね、自分の所有物にだけよ」
アリスは凡そ三週間前、冬花アリスという名前を手に入れてからというもの、私が与えた小遣いを使い、ネット通販やショッピングモールで手に入れた全ての物に記名した。それはもう嬉しそうに名前を書いた。余程嬉しかったのだろうか。スプーンやバニラアイスのカップ、歯ブラシにスリッパまでとにかく自分の物には全て冬花アリスとサインペンで刻まれている。ちっちゃな子のようで、とても愛らしく微笑ましいが、食べ物に直接名前を書こうとした時は流石に慌てて止めた。
「これでよし、と」
「うんうん。ちゃんと書けたかな~。――って!? なんで!? 私の手に~……っ!?」
私が物思いに耽っている間にアリスは何を思ったのか、人の手の甲に少し汚いが可愛らしい丸い文字で冬花アリスと記名していた。
「そよも、これであたしのワンワンね」
「何を言ってるのか、よく分かんないけれど……。そのペンって油性じゃないよね?」
「水性か油性かは知らないけれど、名前を書いた衣類を洗濯しても安心の、お名前専用超強力ペンよ。簡単に落ちるかどうか心配しているなら、そうね。簡単には落ちないわ」
「ゆ、油性だね、多分。だめだよぅ、そういう物で人に名前書いちゃ~。せめて赤いペンだったら、まだ良かったのに」
「赤いペンなら良かったのね。……ごめんなさい、つい楽しくなっちゃって」
そう言ってアリスは上目遣いで舌を出すと、花火の束を手に微笑んだ。
「花火、やりましょうか」
「うん。楽しもうね、アリス。わんわんっ」
にこやかに笑い合い、私とアリスは手を繋ぎ庭へと向かった。
夢を追わない人間はどうとも思わない。
そよが口にした、その言葉が頭蓋の中を反射しているかのように何度も何度も脳裏を過ぎり繰り返される。
「涼。お前はもう、あいつとって必要ない人間なのさ」
背後から『悪夢』の囁きが耳を不快に擽る。
「……うるさいのですッ!」
怒りのあまり振り返りざまに手にしていた物を咄嗟にを思い切り投げつけたが、そこに『悪夢』の姿はなく、壁に当たったスマートフォンが激しい音を立てて道路に転がった。予想以上の大きな音に、そよの自宅へ私は慌てて視線を向ける。柵の向こうに見える窓には、いつの間にかカーテンがかかり中の様子は伺えなくなっていたものの、特に誰も外の様子を見に来ることもなく私は胸を撫で下ろす。
良かった。そよちゃんの耳には届いていないのです。実は春風家の横から柵越しにリビングを覗きつつ電話をかけていた上に、スマホを投げてヒステリーを起こしている所なんて見られた日には、そよちゃんだって流石に引いてしまいそうなのです。
よく考えれば、屋内にいる彼女に見つかりたくないのであれば、大きな音を立ててしまった時点で隠れるなり逃げるなりすれば良かったのだが、怒りと動揺で冷静な判断が取れなくなっていた。いや、そもそも、なんの連絡もせずに自宅側までやってきた私には、最初から冷静な判断など取れていなかったのかもしれない。
「どうしたんだい、涼。お前は夢を諦めるって、あの白いのに報告に来たんじゃなかったのかぁ? 歌えない鳥は何を囀るんだ? お前達の夢は歌なしじゃ叶わないんだろう? ほら、歌えよ。歌えって言ってるのさ」
「……うるさいと言っているのです」
「声が変だぞ? どうしたのさ? そんな声じゃ、大好きな白いお姫様に嫌われちゃうぞ?」
私は、あのライブの日に喉を痛めてしまった。その日、控室にいた時には喉の調子が悪いと思ってはいたのだが、そよとアリスが仲良くライブ会場に入ってくる姿を見た私は、嫉妬や恐怖が心を締め上げ、喉のコンディションも考えずに思わず叫んでしまった。その後は頭が真っ白になり、感情の赴くままに歌い切った。観客は総立ち、スタッフから賞賛された最高のステージになった。しかし、それがいけなかった。私の喉は澄み渡るような声を失い、くぐもったような割れた声になってしまったのだ。医者に診てもらった所、治るには治るが時間がかかるらしい。それを事務所に告げると、私は休養するように言い渡された。スケジュールは全て白紙。今の私はやることが何もない。
そんな私は、そよに嫌われても仕方がないのかもしれない。
「それでも……そよちゃんは私を大好きだと言ってくれたのです……!」
「ああ。そよって奴は、お前を好きらしい。夢を追っている涼をな」
私は言葉に詰まり目を見開く。
「夢を諦めようとしている涼と一緒にいてくれるのかい? 無理だろう」
そんなことない。そう言いかけて私は口を閉じた。幼い頃から二人で描いていた夢が一度壊れかけた三年前。もう一度、夢を目指そうと誓い合った三年前のあの日。あの日から、そよは私を慕ってくれていた。尊敬してくれていた。
でもそうじゃないのです。
私の夢は。本当の夢は――――
「私の本当の夢を話せば、そよちゃんだって分かってくれるのです……。私は本当の夢を諦めていない……」
「バカか、お前。そよって奴の夢は涼が歌を諦めたら終わるんだろ」
心臓が焼けた鉄の棒をねじ込まれたかのように、激しく脈打った。
「言ってたよな。アイツと二人で叶えたい夢の話。夢があるから絆は壊れないってさ。でもさ、お前が歌手を止めてアイツの夢を壊したらどうなるんだ? ん? どうなのさ? 絆なんて一緒に壊れちまうんじゃないのかい?」
私は思わず震える手で首に下げている二人の絆を握り締める。
そよちゃん助けてください。私はどうしたら。歌えなくなったら、あなたの夢は壊れちゃうのですか。もし、そうなったら、そよちゃんはどうしますか。私のこと……
――捨ててしまうのですか。
思わず唇を噛んでいた私の顎に、赤い雫が一筋零れ落ちた瞬間、そよの笑い声が耳に届いた。
もうどうでもいい。私を嫌ってくれてもいい。謝らせてください。そして出来るなら怒ってください。キミのせいで夢が壊れたと責めて欲しい。あなたの中で私が大きな存在だったと再確認できるから。沢山、負の感情をぶつけて欲しい。詰って欲しい。けなして欲しい。私の行動が、あなたに影響が出るのだと安心したいから。だから、近くに行かせてください。私はもう――
「ほら、庭を見てみろよ」
そよの笑い声に惹かれ、彼女が住む自宅の庭先へ顔を向けると、そこにはアリスと幸せそうに花火をする私の大切な親友の姿があった。
「あいつのそばに涼の居場所なんて、とっくにないのさ」
居場所。私のたった一つの。
私はもう必要ないのですか。
あなたの隣はもう埋まってしまったのですか。
そうですよね。夢を諦めた私は夢を追って輝き続けている、そんなあなたの横には相応しくない。
私は『悪夢』に何も答えず、その場を走り去り、ただ闇雲に夜の街を走り続けた。
「花火楽しかったね~。はしゃいでるアリス、とっても可愛かったよぅ、わんわんっ」
「あの大きいのが発射できなくて、少し残念だったけれど、とても楽しかったわ」
「住宅街のお庭で打ち上げ花火は、ちょこっと迷惑だからしょうがないよぅ」
「分かっているわ。どっちにしても、あたしは線香花火のような、静かなタイプのほうが好みだったもの。充分以上に楽しめた」
リビングのソファー、私の隣に座っているアリスは紅茶を嬉しそうに飲んでいる。花火を終えて彼女は浴衣からいつものエプロンドレスに着替えていた。そんなアリスの髪を指で弄びながら、パジャマ姿の私は小さくあくびを漏らす。
「今日は朝早くから夜まで、ずっと原稿を書いていたものね。お疲れかしら」
「うん、お疲れだよぅ~。今日は早めに寝ようかな」
「そうね。もう二十二時よ。良いワンコは寝る時間ね」
「悪いワンコだぞぉ~。がお~~」
そうふざけながらアリスにのしかかったのだが、止めなさい駄犬と叱られた上に眉毛を掴まれ引っ張られてしまった。
「う、うぐっ……!? 眉毛はダメ! ダメ! 良くないよぅ……!」
「何よ、眉毛犬だけあって、眉毛が本体なのかしら? 意外な弱点ね」
「眉毛引っ張られて喜ぶ人は滅多にいないと思うよぅ……!」
ごめんなさい、嫌なら離すわ、と申し訳なさそうに彼女は私の眉毛を解放してくれた。
「も、もう~。眉毛の辺りが、ひりひりするよう。でも楽しいね、えへへ~」
「楽しいわね、ふふふ。それより、そろそろどいてもらえると助かるのだけれど……」
アリスは私から目を逸らすと照れくさそうに、そう言った。私は彼女にのしかかったままだったので、ソファーの上で抱き合っている状態になっていたのだ。
「あんたって、いつも抱きついてくるわよね。そんなに、あたしのことが好きなのかしら? ふふん、そんなに好きなら、しょうがないわね」
「うん。大好きだよぅ、わんわんっ」
その言葉に反応したのか、私の下敷きになっているアリスの顔が部屋の内装と同じくらいに真っ赤に染まっていった。
「う、うぅ……なによ……滅べばいいのに……」
「キミってもしかして私に抱っこされると照れちゃうのかな~?」
「う、うるさいわね! そうよ、悪い……!? なんなのよ、ことあるごとに抱きついてくれて……! 抱き癖のあるワンコは躾がなってないらしいわよ……!」
「嫌ではないんだよね~?」
「……はい。どちらかと言うと嬉し……なにを言わせるのよ! 滅べばいいのにっ!」
私はアリスの反応に、自分でも理解できない不思議な満足感を得て微笑むと彼女から離れて立ち上がる。
「そろそろ寝ようかな~。ふわぁ~。眠さの嵐が吹き荒れてるよぅ~」
「そうね。……ところで、そよ」
なぁに、と言ってソファーのアリスに目を向けると彼女は眉毛をハの字に曲げて上目遣いの、なんとも言えない悲しそうな表情でこちらを見上げていた。
なんなのだろう、この可愛い生き物は。
「あのね、あたし、花火とっても楽しかったの。線香花火なんて、とっても綺麗で」
「うん。アリスは意外と乙女なところあるから、派手な花火より線香花火が気に入ると思ってたよぅ~」
「乙女かどうかは知らないけれど、線香花火って良いわね。人の夢みたいで」
他の花火をしていた時は、はしゃいでいた彼女だったが線香花火に火を着けた途端、
急に黙り込み食い入るように、その火花に見入っていた。
「夢って、キラキラ輝いている時もあれば、心を縛って苦しめる時もあるじゃない。線香花火って、その輝いている瞬間のようで素敵に思えたの」
「夢が壊れて消える時も、突然の一瞬だもんね。確かに線香花火って夢みたい」
「ええ。そんな綺麗なキラキラ輝いてる瞬間を、ずっと持ち続けているから、そよはとても輝いて見えるのかも」
今度は私が照れくさくなってしまったので、頭を軽く掻いて気分を紛らわす努力をしてみた。あまり効果はなかったが。
「だから、あたしはあんたのこと気に入ったのかもしれない……。夢に向かって頑張って充実しているから、いつも心に余裕があって笑顔でいられる。そして輝いている。線香花火のように」
上目遣いのまま、アリスは再び頬を紅く染めながら、そう言ってくれた。
なんだろう。そんなアリスを見ていると私の心臓が小さく疼く。
そして少しだけ、私の頬も熱くなってきた気がする。
「輝き続ける線香花火。それがあんたよ、そよ」
「とても褒められてる気がするよぅ~。えへへ~。わんわんっ」
「あんたの、その心の底からの幸せそうな笑顔を見ていると、こっちまで幸せになってきてしまうわね。その笑顔を見るためになら、なんでもしたくなってしまう人だって出てきてしまいそうなほどに中毒性のある危険な笑顔よ」
「ちゅ、中毒性があるとか危険だとか、人の笑顔をなんだと思ってるの……? 人聞きが悪いなぁ……」
「ふふふ、冗談よ。でもね、真面目な話。あたしだって、あんたの笑顔を守るためなら、なんだって………………」
アリスは言葉を途中で切ると突然、深刻そうな表情を浮かべ、弾けるように立ち上がり窓の方へと視線を向けた。
「どうしたの、アリス?」
「あの声は、まさか……」
アリスは、窓に駆け寄るとカーテンを開き、逃げるには遅いわね、と呟いた。
「……もうここまで呑まれている。『産声』は、かなり遠くから聞こえたのに……」
私も窓に近づき、外を覗いてみる。なんだかおかしい。霧のようなものが、辺りを窓の外を漂っているように見える。それも真っ黒な霧だ。
「黒い霧。百合花町は霧が多い所だけれど、こんなの初めて見たよぅ。もしかして私達、『夢』の広げた空間の中に呑まれちゃったのかな?」
「あたし達だけじゃないわ。下手をしたら、この町全体に。いいえ、もっと規模は大きいかも」
「それだけ強い『夢』ってこと?」
私の言葉に頷くアリスから窓のほうへと視線を戻すと、外の黒い霧の中を小さな女の子達の人影が手を繋ぎ塀の上を、楽しそうな声をあげて走り回っているのが目に入った。
「外に女の子がいる。助けなきゃ」
マフラーに手をかけながら、そう言った私の空いた腕の袖をアリスは掴んだ。
「ダメ。待つのよ。あれを見なさい、そよ」
アリスの指差す先、庭の片隅には別の少女達が手を繋ぎながら楽しそうに走り回っていた。更にその塀の上を、もうひと組の少女達が駆け回っている。
「『夢の欠片』達よ。翼の『夢』で言うところの紙飛行機と同じ。『夢』の本体から生まれた連中なの。人間じゃないわ」
アリスの言葉に息を呑み、注意して窓の外を見つめていると、黒い霧で視界は悪いものの、あちらこちらに、それこそ隣の家の屋根の上や道路など至る所に少女達が走り回っているのが見えた。彼女達は必ず二人組で、髪の長い女の子、そして首に後ろ髪が届く程度に髪を伸ばしたボブカットの少女が手を繋いで楽しそうに笑い声を上げていた。何組もの少女達が走り回っているが、全てがボブカットと長い髪の少女という同じ外見の組み合わせをしているように見える。そして、よく見ると少女達は人影と言うよりは影そのものに近く僅かに輪郭を輝かせ、黒い霧の中で存在感を放っていた。
なんだか不気味な雰囲気に私はだんだん楽しくなってきてしまった。
「これってなに? どんな『夢』なのかな。ホラーっぽくて楽しい~っ! うぐっ!?」
喜びの声をあげていた私の両肩をアリスは突然掴み、前後に激しく揺らしてきたので私は苦悶の声を上げてしまった。
「ぜ、全然楽しくないわよ……!? あんた、どれだけ良い根性してるわけ……!?」
「世界が揺れるぅ~。目が回るぅ~」
「今がどれだけ危機的状況にあるか分かっていないようね……!? 『産声』を轟かせるくらいの強力な『夢』に呑まれてしまったのよ!? あんたでも勝てるかどうか……」
「どんなに強い『夢』が相手でも最後まで諦めずに笑顔を忘れずに頑張るよぅ~」
「……そうだったわね。最後まで諦めない。あんたは、そういう子だったわね」
私が、その言葉に頷いた時だった。窓のすぐ近くを少女達が走り抜ける。明かりの側でも彼女達は、ただの影にしか見えなかった。
――あれ。この子達、どこかで。
遠目には気が付かなかったが長い髪の少女は、その髪を左右に束ねてひらひらと揺らしながら走っていた。そしてボブカットの少女は――
「この子達、もしかして……」
――――私と涼ちゃん?
「……ええ、その通り。この『夢』は恐らく、夏月涼の夢。その成れの果てよ」
そよは目を見開き、そして表情を固まらせ立ち尽くしていた。こんな彼女を見るのは、一緒に過ごしてからの数週間で初めてだった。心が苦しい。そよには笑っていて欲しい。それなのに。
しかし、間違いはないだろう。そよには聞こえなかったはずだが、先ほど耳にした『産声』は、ライブの会場で聞いた涼の叫び声に酷似していた。この『夢』は涼の壊れかけ、そして歪んで実現された願いの形だ。
そよの夢は一人では叶わない。それには必ず、共に夢を誓った涼の存在が必要不可欠だった。ショックも大きいだろう。彼女にとって夢は全てなのだ。涼の夢が壊れたなら、それはすなわち、そよの夢が終焉を告げたのと同義なのだ。
「そよ…………大丈夫?」
あたしの言葉に彼女は瞬きをし、笑顔を浮かべると大丈夫だよと呟いた。
「大丈夫そうには見えない」
「私が大丈夫って言ったら、強がりでもなんでもなくて本当に大丈夫だから大丈夫だよ」
そよは力強くそう言って、あたしの肩を叩くと微笑んだ。
「ええ。そうだったわね。あんたが……そう言うなら大丈夫よね」
「うんっ! それよりアリス。『産声』を轟かせるくらい強い『夢』って、さっき言ってたよね? 『産声』ってなんのこと?」
「全ての『夢』は創り出された瞬間に『産声』を上げるの。それは悲鳴のような悲痛な叫びだったり、泣き叫ぶ怨嗟の嘆きだったり多種多様だけれど、二つだけ共通している事柄があるのよ」
そよはこの説明を笑顔で頷きながら聞いているが、耳から耳に抜けている可能性がある。この眉毛犬は人の話しをあまり聞かない困った傾向があるのだ。あたしは、そよのデコを指で弾くと説明を再開した。
「二つの共通した事柄。それは『夢』の『産声』は『悪夢』しか聞くことが出来ない。そして、『産声』は必ず、創造主の声と酷似している」
「アリスが聞いた『産声』は涼ちゃんの声に似てたんだね」
「ええ。ライブ会場で聞いた涼の叫び。あの時に聞いた叫びと、そっくりだったわ」
「そっか。あの時の悲しい叫び声。今でも忘れないよ。あの時から涼ちゃんの夢には亀裂が入っていたのかな」
「そうかもしれないわね。そして普通の『夢』が上げる『産声』は、余程近くにいなければ本来は『悪夢』でも聞き取れない。なのに、あの『産声』は、かなり遠くから届いたように聞こえた。それも一キロや二キロじゃない。地平の先よ。五十キロ以上は離れていたかも」
「そんな遠くから?」
「ええ。そんな広範囲に届く『産声』を上げた『夢』は過去に一体しかいない。三年前に現れた強大な『夢』。そいつは山間の町に現れて、自らの空間をいくつもの町を呑み込み広げたわ。あたしは直接相対したわけではないけれど、『産声』は耳にし――」
――山間の町? そう言えば、あの時の『夢』が現れたのって、そよとあたしが住んでいる、この町の近くだったような……
「アリス? どうしたの?」
「……なんでもないわ。その強大な『夢』はエンゲージというナイトメアが倒したのだけれど、それはまた別の話ね」
「とにかく、大きな『産声』を上げれば上げるほど、『夢』は強いってことなんだね」
「ええ。そして、その『産声』は、あのライブ会場があった方向から聞こえたわ」
あたしが件のライブ会場があった大きな公園のある方向を指すと、そよは感心したように唸り声をあげる。
「ふうむ。凄いね、アリス。京都ってあっちなんだ~」
「流石の方向音痴ね。方向感覚ゼロ」
「そんなに離れてたら、どっちにあるかなんて分からないよぅ~」
「あんたの通ってる学園は、どっちにあると思う?」
「わ……わんわんっ」
「ほらね、この迷い犬! って、それどころじゃないわね。涼を助けないと」
「うんっ。『夢』を壊すのが本当に救いになるか分からないけれど、でも壊さなきゃ。これは私の我儘でもあるけれど、涼ちゃんの夢が誰かを傷つけるなんて絶対に嫌だから」
「あんたって本当に強いわね。自分の夢が危機だっていうのに人の心配なんて。お人好しにも程が……」
「違う。私は私の夢と未来を救ってくれた人を尊敬するし、心の底から助けたいと思ってる。だから大切な人の危機に何かしたいっていう欲求を満たすためだよ」
誰かのためじゃない。自分の意志で自分のために。それが彼女の根底なのだろう。
「それに涼ちゃんは夢と一緒に命を捨てたいって思ってるかもしれない。だから涼ちゃんのためじゃない。正真正銘、自分のしたいことをしてるだけ。だから――」
「――だから私は正義のヒロインにはなれない。かしら?」
「うんっ。そう。その通りだよぅ、アリス」
「それじゃ行きましょうか。涼を助けたいっていう、あんたの欲求を満たしてあげたいわ。そんなあたしの望みを満たすために出来る限り力になる」
ありがとう。そう言って、そよは頷くと本棚に視線を向けた。その視線の先には額の中で笑う、そよと涼の写真が入っていた。
「涼ちゃんは夢を諦めちゃったのかな」
「……それは分からないわ。諦めていなくても命の危機や様々な理由で夢を見るのが困難になって『夢』の創造主になってしまう場合もある。絵の少女がそうだったように。でも、どういう理由で涼の夢が壊れかけたのかは知らないけれど、良い状態にあるとは言い難いわね」
「涼ちゃんの『夢』の本体が、どこにいるか分かる?」
「確実にいるとは言い難いけれど、移動していないなら恐らくは」
「あのライブ会場」
「その通りよ。どうする、そよ」
「行こうっ! 夢を目指して頑張るのも、『夢』と戦うのも行動あるのみっ。だよねっ」
「高いよぉ~……! 怖いよぉ~……!」
「しょ、しょうがないでしょう。きりきりジャンプしなさい、眉毛兎!」
「うぅ~。高い所は苦手なのにぃ……」
あたしを背負いながら、そよは影絵の少女達が徘徊する夜の町を、ひたすら飛ぶように走り北上していた。正確には飛ぶように跳んでいる。我がナイトメアであるクリムゾンこと、そよ十三歳は『ホワイト・ラビット』のフォームになり、数軒飛ばしで屋根から屋根へと跳び移りながら漆黒の霧が漂う町を疾風のように走り抜けているのだが、どうにも高い所が苦手らしく、先程から泣き言を漏らし続けていた。
「『夢』と戦ってる時ならね、なんだか戦ってる~っ! って緊張感のお陰かな、高い所も我慢できるけれど、今はダメぇ~。怖いよぉ~……!」
「あんたでも弱音を吐く時があるのね」
「高い所だけは昔からダメなのぉ……! 観覧車とか、ジェットコースターより絶叫マシンだよぅ~……! あんな高い所で揺れながら、ゆっくり動く乗り物なんて恐怖でしかないもん……!」
「かと言って建物を避けながら地べたを走っていたら、いつまでたっても目的地には……んがっ!?」
危うく舌を噛みそうになり、あたしは白兎らしい長い耳のような髪を引っ張りながら抗議の声を上げる。そよが一軒家の屋根の上で何を思ったのか急停止したために、背負われていた可憐な『悪夢』は思い切り彼女の肩に顎を打ちつけてしまったのだ。
「ちょ、ちょっと! 止まるなら止まるって言って欲しかったわね……! 舌切雀になってしまうところだったじゃない!」
「ご、ごめんねっ。ごめんついでに、ちょっと降りてもらってもいいかな?」
「いいけれど。何をするつもりよ」
「ヤケを起こしました!」
そう宣言すると、そよはあたしを抱え上げ、さらには空へ向かって放り投げた。
「んなーっ!? そよぉ!?」
見る見る、そよや彼女が立つ一軒家が小さくなっていく。それはそうだ。あたしが凄い勢いで地表から遠ざかっているのだから――――
「――って、なにすんのよ、この眉毛犬ぅうぅぅぅ!!」
黒い霧のせいで見難いが、地上のいる謎の行動を起こした我がナイトメア殿は制服姿に戻り、伸ばした片手に輝く白いマフラーを翻している。
「フォームチェンジ『伯爵夫人』!」
彼女の言葉に呼応し、マフラーは金色に輝く。
「『金色の風』。フォーム『ダーチェス』!」
初めて見るフォームね、と呑気に思っていたのだが、空中で静止したと思った瞬間、あたしは落下し始めた。
「そよぉぉぉお……!」
「大丈夫! レッスン・ワン。『エアクラフト』!」
そよは全身を金色に輝かせ、大きな帽子を被りフリルとレースで彩られたドレスと長いスカート着ている。そして彼女はスカートを揺らしながら両手を翼のように広げた。すると、そよの足下から衝撃波のような空気の波紋が広がり、こちらに向かって一気に上昇し始める。
「そ、そよが飛んだわー!?」
「お待たせ、アリス~! わんわんっ!」
そう吠えながら、あたしを空中で抱きとめると、そよはそのまま上昇を続けていった。
「ま、またお姫様抱っこなんてして……。恥ずかしいじゃない」
「えへへ~。アリスって軽いから、運びやすくて助かるよぅ」
笑顔でそう言った彼女の帽子から溢れている金色の髪が風に揺れる。どうやって推進力を得ているのか分からないが、そよは地表から水平になり、かなりの速度を出して飛んでいた。その証拠に、上空に浮いている雲が凄まじい勢いで流れていく。空気の渦が、あたし達を覆っているような感覚。空を飛行機のように飛んでいるというのに顔にあたる風は、まさにそよ風のようだった。
「……そよに風が集まってくるみたい」
「うんっ。風はナイトメア・クリムゾンの味方だからね~。翼ちゃんの『夢』とは力の相性がいいかもっ! オリジナルの『夢』より速度は、ずっと落ちるけれど!」
「そう言えば『ダーチェス』は倒した『夢』の力を使えるようになると言っていたわね。それより、こんなに空高く飛び上がって大丈夫なの? 雲よりは下だけれど、相当な高度を飛んでいるわよ?」
「目を閉じてるから平気だよぅ、わんわんっ」
「え? 目を?」
見ると彼女は本当に目を閉じていた。
「な、何を考えているのか質問しても差し支えないかしら……!? この速度で目を閉じて飛ぶなんて危ないと思うの……! お姫様抱っこされて身を委ねている、あたしの身にもなりなさいよ……!? よそ見運転なんてレベルじゃないわ……!」
「ヤケを起こしたって言ったよね~。それに走ってくより飛んだほうが早いよぅ。方向はアリスが教えてくれるから大丈夫だし、高度は下がってたり上がってたりしたら教えてね。調整するから」
「だ、だぁぁ……! 作戦の概要は実行前に相談しなさいって言っているでしょう!? この暴走ワンコ……! あ、方角違うわよ。もっと、左。左! あ、あ、あ、あ、高度下がってるわ、地上に落っこちちゃう……!」
「あははは、楽しいね~!」
「あたしは楽しかないわよ……!?」
この駄犬――! あたしの叫びと、そよの笑い声が満月の下、響き渡った。
上空から見下ろす町は漆黒の霧に覆われていた。視界が届く限り、全ての地表が黒い霧に覆われている。涼の『夢』が広げた空間は相当な規模だ。もし、あのライブ会場を中心に『夢』の空間が円形に広がっているとしたら、どれだけの規模なのか想像もつかない。最低限でも半径五十キロは越えている。
「……もしかして涼の創りだした『夢』は、最強と言われていた三年前のあいつより強力かもしれない」
「少しだけ安心したよぅ、えへへ」
嬉しそうに微笑みながら、そよは地表から水平だった体勢を変え、足を前方に向けると速度が急激に落ち、やがて直立した姿勢になると空中で静止した。靴の底から、どうやら圧縮空気のようなものを出して飛んでいたようだ。そして落下するように地上へと降下していく。
「そよぉ……!? 安心ってなんなのよ!? 涼の『夢』は手強いって話をしているのよ!? 安心なんて出来ないし、何より今のあたし達って自由落下してない!? 全く安心できる状況ではないと思うのだけれど……!?」
「涼ちゃんの『夢』が強いってことは、それだけ本気で夢を追っていたって証拠だよね。流石、涼ちゃん。夢への想いは嘘じゃなかったんだなーって」
そよが静かにそう言うと一陣の風が舞い上がり、あたし達の落下速度は緩まった。
「そうでしょ、涼ちゃん」
そよは舞う羽のように緩やかに地上に降り立ち、閉じていた目を開くと微笑みながらそう囁いた。
「向かえに来たよ」
そよの言葉が向かう先には明かりのないステージと無人の観客席が暗闇に呑まれて静まり返っていた。なんの返事も返ってこない。あたしは、そよの手から解放されたので身構えながら、辺りの様子を伺う。『夢』の心臓が奏でる夢の音は聞こえなかった。移動したのか、どこかに隠れてしまったのか。ライブ会場に到着したものの、手がかりは何一つない。
「顔を見せてよ、涼ちゃん」
「そよ、『夢』の本体を探しましょう。この会場で生まれたのは確かだけれど、もうここにはいないかもしれないわ」
「うん。でも、あそこに涼ちゃんはいる」
「涼? 『夢』の創造主は意識を保てず、どこかで居眠りを――」
「いるのは分かってる。顔を見せてくれないなら、こっちから行くよぅ」
その言葉に反応したのか、ステージのスポットライトが突然光を放つ。
「まさか……本当に?」
ライトに照らされたのは、影絵のような少女達が狂ったように踊り続けるステージの中にうずくまり顔を伏せて座っている涼の姿だった。彼女はゆっくり立ち上がると、顔を上げた。
「こんばんは。涼ちゃん」
そよは優しく微笑みながら、ステージへと足を進める。その動きに表情を強張らせた涼は腰に差していた二本の剣のようなものを引き抜き、その刃を親友へと向ける。
「こっちに来ないで欲しいのです……」
弱々しくそう呟いた涼が着ているのは黒い霧が周囲ににじみ出るかのような不思議な漆黒のドレス。そして黒く鈍い光を纏う剣を手に携えている。
「もしかして、涼は……。いいえ、確実にそう。『夢』を創り出したのに意識を保っていられる理由は、たった一つしか――――はっ!?」
あたしは頭上に何か異物の存在を感じ、慌てて顔を空へと向ける。そこには二つの軽自動車程ある巨大な岩が空中に漂っていた。その厳つく黒々とした二つの岩石は浮力をなくしたかのように、あたしとそよへ向かって落下してきた。
「そよ、危ない!」
と、身を案じたのはこちらのはずだったのだが、あたしはまたもや我がナイトメアに抱きかかえられ、迫り来る岩石の脅威から救われてしまった。獲物を捉え損ねた二つの岩石は観客席へとめり込んでいる。
「あ、危なかったわ。ありがとう、そよ」
あたしの言葉に彼女は笑顔で応えたが、すぐに視線を空へと向けた。何を見ているのだろうと視線の先を追うと、そこには浮遊した岩にそよが座っていた。
「正解だ、サイネリア。涼はナイトメアなのさ」
「黒髪の……そよ?」
そよのような姿をしている女は、ふてぶてしい表情を浮かべながら浮かんだ岩に足を組んで座わっている。
――違う。あの悪意に満ちた表情。そして嫌な夢の臭い。
「……ネメシア」
「そうさ。みんな大好き、ネメシア様さ。久しぶりだな、サイネリア。もっとも、お前は気がついてなかったけど、こっちは涼の目を通してお前を見ていたぜ。今はアリスって呼ばれてるんだってな」
「ええ、あたしの名前は冬花アリス。お久しぶりね、ネメシア。ところで、あんたの力は岩を作り出し操る、だったわね。あたし達に攻撃してきた理由を教えてもらっても差し支えないかしら?」
「気取っていうなよ、ポンコツ『悪夢』が。ナイトメアに抱きかかえられて姫様気取りか? 涼が近寄るなって言ってるだろ。攻撃する理由はそれで充分なのさ!」
ネメシアは殺意の篭った表情で、そよを睨み両手を空へ向かって振り上げる。すると同時に二つの岩石が空中へと舞い上がり、ネメシアが両手を振り下ろすと今度は岩が腕の動きに合わせて落下してくる。
「まずいわ、そよ……! きゃっ!?」
そよはあたしを抱きかかえたまま、素早い動きで何度も落下と浮遊を繰り返す岩石を避けていく。観客席が岩石に破壊され、酷い惨状になりつつあった。
「どうした? お得意の青い炎は! 出せないよなぁ! お前は『夢』を壊すのが嫌だと駄々をこねて絶食してたもんなぁ! 力が出ないでちゅかー!? ナイトメアごと、オレの超パワーにぶっ潰されろってのさ!」
「ねえ、アリス。ちょっといいかな?」
岩石で攻撃されているのを忘れているのかと疑いたくなるような微笑みを浮かべながら彼女は優しい声で、そう言った。
「な、何よ、こんな時に呑気に人の名前を呼んだりして」
「サイネリアってなんなのかな? もしかしてアリスの本当の名前?」
そよの問いに、あたしは目を丸くする。本当の名前というわけではないのだが、黙っていたのでバツが悪い。
「……サイネリアは『悪夢』同士で呼び合うときの個を認識するための名前。ニックネームみたいなものよ。こんにちは、『悪夢』。やあ、『悪夢』じゃ、分かりにくいでしょう? でもね、あたしの名前は冬花アリスよ」
「うん、そうだね。アリスはアリスだよ、えへへ~」
まるで、そこら辺のカフェテリアで会話を楽しむような口調を保ったまま、最小限の動きで難なく岩石攻撃をかわしていく我がナイトメア。あたしの目を見ながら喋っているので岩石には目も向けていない。まさに意に介さず避けている。
「つまり、しつこく岩で攻撃してきてる主と思われる、あのネメシアさんも『悪夢』ってことなんだね」
「そうなるわね」
「お友達?」
ネメシアは友達でも何でもなく、どちらかと言えば嫌いなので、あたしは思い切り首を横に振った。
「ほらほら! オレの攻撃に手も足も出ないのかい? このヌケサク共が! あははは」
「そっか。友達じゃないんだね。それじゃ、ちょこっと黙らせてきていいかな?」
「どうぞどうぞ。好きなだけ黙らせてくればいいと……きゃあああああ」
あたしは再び空中へと放り投げられ、手足をばたつかせて悲鳴を上げる。
「そよ、あんたね……!? なんのつもりなの……!」
あたしのことをボールか何かと勘違いしてるのではないかと疑念を抱きたくなるナイトメアに目を向けると、彼女は岩を避けながら『ホワイト・ラビット』の姿へと転じた。
フォームチェンジの合間の制服姿でも難なく岩石攻撃をかわしているあたり、そよは只者ではない。
「なんだ? 姿を変えられるのかい? 虚仮威しも大概にし――」
「白い疾風。懐中時計」
「――ろっての……ぐうぁがぁ!」
ネメシアが言葉を言い終えるよりも早く、そよは彼女の背後に跳び上がり蹴りを放っていた。爽快な打撃音と共に哀れな『悪夢』は、ライブ会場の外まで蹴り飛ばされ見えなくなってしまった。ネメシアが座っていた岩石が力を失ったかのように観客席に落下する。
「どうして私にそっくりな姿をしていたのか気になるけれど今はどうでもいいや」
そよはそう微笑むと落下するあたしの真下に駆け寄り、見事に抱きとめてくれた。
「お、お姫様抱っこ……いつもありがとう」
「うんっ、どういたしまして。わんわんっ」
作戦概要は実行前に説明しなさいと叱りたかったが、どうやらこのワンコは有言実行どころか実行有言な傾向にある。思いついたら、とりあえず行動に出るタイプなのだろう。今更、何を言ってもその性格は変わらないのは検証済みだ。あたしは、そう観念し彼女の笑顔に笑顔で返す。若干、引きつった笑顔かも知れないが。しかし、それも無理ないだろう。放り投げられるのは威厳溢れるクールでニヒルな『悪夢』でも少し怖いのだ。
だが、そんな考えも吹き飛ぶ凍りつくような視線に気づき、あたしの眉毛は数回ヒクヒクと痙攣する。視線の主は涼だ。思わず目を逸らしてしまった。恋人の仇でも見ているかのような、憎しみや悲しみ、いやそれ以上の怨念が篭ったような眼差し。あたしは油の切れたロボットのような動きで、そよのほうへと頭を向ける。
「そ、そよ。あんたの親友が凄まじい形相で、こっちを凝視しているのだけれど……!」
「うん。これから何があったのか聞いてくる。アリスは巻き込まれないようにしてね」
あたしを観客席の椅子に降ろし、そよはステージに立つ涼へと全身を向ける。
「私のナイトメアとしての名前はクリムゾンなんだ。私らしいでしょ? 涼ちゃんは?」
破壊された観客席の残骸の上をステージに向かって、そよは落ち着いた動きで降りて行く。対照的に涼は親友が近づくにつれて肩を震わせ眉間に皺を刻み、落ち着きを失っているように見える。
「……私の名はエンゲージ。ナイトメア・エンゲージなのです……」
エンゲージ? それは最大規模と言われた最強の『夢』を倒したナイトメアの名だ。
「そよちゃんは私がナイトメアだと知っても眉毛一つ動かしませんでしたね……。私は、あなたがナイトメアだと知って、今激しく動揺してるのです……」
でも、あなたは。そう掠れるような声で呟き、涼は顔を伏せる。
「私がナイトメアだろうが、なんだろうが興味を示してくれないのです。……感情を揺さぶられないから笑顔を続けていられる……」
「私にとってキミがナイトメアでもナイトメアじゃなくても、涼ちゃんは涼ちゃんだからね。私の大切な人には変わりが――」
「黙れ……!!」
涼は右手の剣を威嚇するかのように強く振った。甲高い風切音が響く。
「そよちゃんは、どうしてここに現れたのですか。いつからナイトメアになったのですか。分からないことだらけなのです」
涼は自重するように笑い、一滴の涙を落とした。
「でもそんなことは、どうでもいい。この黒い霧が漂う空間は私の『夢』が広げた世界。『夢』を実体化させた人間がどんな状況にあるか、ナイトメアなら知っていますよね」
そよは頷きながら、ゆっくりと少しずつ涼の側へと近づいていく。
「私の夢は壊れかけてしまったのです。でもそれは、そよちゃんと三年前に誓った、あの夢とは無関係。全く無関係な夢なのです」
そよの足が止まる。
「私はですね、そよちゃん。あなたと一緒に追いかけていた夢なんか、どうでも良かったのですよ。心の底からどうでも良かった」
「涼、あんた、何を言っているのよ!」
あまりの暴言に、あたしは怒りに身を任せて殴りかかってしまいそうになったが、俯いている涼の顔が涙に濡れているのを目にし、思い止まることが出来た。レストランで話した彼女は心底、そよを慕っているように見えた。今でも変わらずに慕っているのではないのか? そよの表情は変わらず優しげな微笑みを浮かべている。涼はどうしたいのだろう。そよに何を求めているのだろう。
「あなたとの夢は諦めました。夢を諦めた私なんて何の価値もない。そうですよね」
「声がおかしいね、涼ちゃん。だから歌を諦めそうになって、こんな――」
「……歌は関係ないのです!!」
涼は叫ぶ。そよはどこ吹く風だと言わんばかりに、再び親友に向かって歩き始めた。
「どうして笑っていられるのですか……! どうして! そよちゃんの夢は、もう壊れちゃったのですよ! どうして怒ってくれないの! お前のせいだって。お前のせいで、私の夢まで壊れたって。どうして責めてくれないの……! どうして……どうして……」
涼は叫びながら大粒の涙を溢れさせる。
「それとも、私と誓った夢なんか、最初からどうでも良かったのですか……!!」
「私は」
涼の正面に立ち、そよは満面の笑みを浮かべる。
「私は私の夢と未来を絶対に諦めない」
「私は……」
「涼ちゃんが夢を諦めても私は夢を諦めない」
「私は…………」
「だからいいの。そんなに自分を追い詰めないで。涼ちゃんは一人じゃないよぅ」
「笑うなああああああああああああ!!」
そよ、危ない! そう叫ぶ間もなく涼の剣は振り下ろされた。
そよちゃんに嫌われたくない嫌われたくない嫌われたくない。嫌だ。どうして私は大切な人に刃物を振り下ろしているのでしょうか。嫌われたくない。それなのに。そよちゃんに刃物なんて絶対に使っちゃいけないのに。そよちゃんのお母さんみたいになりたくない。そよちゃんを傷つけて傷だらけにしていった、あんな人なんかに。
ああ、私もそよちゃんに傷を刻んでしまったのです。もう取り返しがつかない。きっと、そよちゃんはもう微笑みかけてくれない。そよちゃんは。そよちゃんは。
「どうして……まだ笑っていられるのですか……!!」
白いドレスの胸元を赤く染めてもなお、そよは笑顔を絶やさない。
「私は全身、傷だらけだから。こんな傷が一つくらい増えたって、今更どうってことないんだよぅ」
「……私にはもう、そよちゃんが分からないのです」
そばにいさせて欲しかった。たったそれだけの願い。誰もが願う、好きな人と一緒にいたい、ただそれだけのつまらない夢。立派な信念も理想もない。ただ純粋な、それゆえに人間らしい夢。好きな人が他人と仲良くしているのを嫉妬して不貞腐れているような、どこにでもいる面倒くさい女。
それが私の夢なのです。そよちゃんみたいな、毎日笑顔で輝くように夢を追っている特別な人間とは違う。普通の人間です。それなのに、あなたは私へ尊敬するような眼差しを向けてくる。夢を諦めても笑いかけてくれる。でも、その笑顔が私をここまで追い詰めた。
「お前のせいだ! お前のせいで私は夢に苦しんでいました! 輝いている、お前の横で夢を諦めた私はどんな顔していればいいのですか!」
どうしたら怒ってくれるの? どこまで傷つければ感情的になってくれるの?
だったらもう、ズタズタに切り裂いて、最後まで笑っていられるか試してやる。
腰を落とし、そよの腹部に素早くフルーレを突き立てようとした私の攻撃を彼女は後方に跳び避ける。
「逃がさないのです!」
距離を置こうと飛び退かれる度に間を置かず間合いを詰め、私は二本の剣を使い幾度と無く斬りつける。クリムゾンの白いドレスが徐々に彼女の鮮血で紅く染まっていく。
「友人に切り刻まれる気分はどうなのですか…………それでも笑っていられる……お前は化物なのです!」
更に追い打ちをかけようと間合いを詰めるが、そよはまるで空を蹴るかのように高く跳び、宙返りをしながらタキシードとドレスの間の子のような黒い衣装に姿を変えた。
私は手にした二本のフルーレを落下中の、そよに向かい投げつける。剣は鞘からいくらでも生えるように供給されるので手放しても問題がない。鞘から二対のフルーレを抜くと同時に更に投げつけながら、私は彼女が着地すると思われる地点へと駆ける。投合した四本の剣を、そよは体勢を崩しながらも居合い斬りのような高速の斬撃で難なく弾く。
――着地で硬直する隙を狙ってやるのです。
しかし、そよは身を翻し体勢を整え、落下地点にいる私へ空中から居合攻撃を仕掛けてきた。一瞬の間に数えきれないほどの斬撃。既に新たなフルーレを両手に構えていたので全ての斬撃を受け止められたが、彼女から初めての攻撃に私は受け戸惑う。
「とうとう攻撃を仕掛けてきましたね。そよちゃんにとって私は本格的に要らない子認定されたようなのです」
そよは着地後も攻撃を止めようとせず、刃と刃が弾き合う金属音が幾重にも重なり響き渡る。
「そうしないと涼ちゃん、私の命を奪うつもりだったでしょ~? 夢を叶えるために自分の命は何より大事だし、それにもうね――――」
そよは腰を深く落とし更に斬撃の速度を上げる。その場に留まり居合い斬りを続ける彼女に対して私は舞うように、その周囲を回り二本のフルーレで斬りつける。
「――話し合うの面倒臭くなっちゃったから、とりあえず気絶させて連れて帰ろうかな~って。腕の一本や二本斬り落としてもナイトメアなら死なないと思うし」
「友人を切り刻むのに躊躇いはないのですか……!?」
「私は自分の選択に後悔したことはないよ。連れて帰るって決めたなら、どんな手段だって取るし躊躇わない。それでどんな結果になったとしても罪悪感なんてないよぅ。それに涼ちゃんは私を斬ってる時、躊躇ってたの?」
「……お前は罪悪感や後悔なんて人生で一度足りとも覚えたことはないでしょうに」
「うんっ。ないねっ。罪悪感や後悔ってどんな気持ちなのかな、わんわんっ!」
そよは余裕の笑みを浮かべている。
絶対にその表情を悲しみや憎しみ、そして怒りで満たしてやる。フルーレを握る両手に力が入り、その切っ先は幾度となく親友の髪を掠めた。
それにしても要らない子? 我ながらバカなことを言い出したものなのです。他人に依存した甘ったれが、不貞腐れてSNSに書き込むような子供じみた戯言。でも私はそんなどこにでもいる普通のガキンチョなのです。そよちゃんとは……違うのです……!
「もう手加減はお終いです!」
私はそう叫び、攻撃の手を休めることなく足下の影を切り離したかのように影法師の少女を作り出す。
「あなたには知られたくなかった、私が願った本当の夢の形」
親友の形をした影法師は私の動きをなぞるように、そよへと斬撃を繰り返す。
「私の夢はですね、そよちゃん。あなたを独占し、ずっと二人でいたい。ただそれだけのつまらない夢なのですよ」
そよの表情が一瞬だけ、目を見開き硬直したものになった。
そうです。もっと笑顔以外の表情を見せて欲しいのです。もっと。もっとたくさん。
笑顔に戻った彼女を影法師と同時に凄まじい速度で斬り続ける。斬り合いを続けながら気がつけば、そよと私はステージの外へと飛び出しており、自然公園の森の中で刃を交えていた。
流石の彼女も、二刀流を使う二人の同時攻撃に一本の仕込み杖のような武器だけでは防戦一方のようだ。四本のフルーレに対し、たった一本の細身の刀で受け続けていたせいだろう、その刀身には亀裂が走り始めている。
優秀で手強いナイトメアなのは認めましょう、そよちゃん。いいえ、ナイトメア・クリムゾン。『夢』が広げた黒い霧の空間に紛れて、私が作り出した闇の空間。その中では闇に纏わりつかれ、本来の三分の二程度の実力しか出せていないはずなのに。良い動きです。でも私の攻撃をいつまでも防ぎきれると思ったら大間違い――――
勝利を確信し、ほくそ笑んでいた私に向かって、そよは杖状の刀と鞘を投げつけてきた。油断していたため危うく顔面で受け止めそうになったが、際どい所で影法師が飛んできた刀と鞘を斬り落としてくれた。
「良い攻撃でしたが、最後の悪足掻きと見たのです! さあ止めを……」
そよは私の言葉に、にっこりと笑顔で応えると大きな帽子を持ち上げる。バカにされているのかと思い、突きを放とうとフルーレを引いたが、そうではなかった。そよの持つ帽子の中から大量の鳩とクラッカーから飛び出すリボンや紙吹雪のようなものが溢れだしてきた。その鳩やリボンが宙へ溶けるように消えると同時に、そよも姿を消した。どこへ? そう左右を見回した瞬間、背後に地を蹴るような音がした、私は咄嗟に振り返り何もない空をフルーレで斬りつける。すると空中に血のようなものが滲み、そして紫のドレスを着た少女の姿が現れる。先程の姿とは違い、猫をモチーフにしたような紫のドレスを纏っているが、そよに間違いないだろう。その胸元のドレスは裂け血が滲んでいた。追撃しようと投げつけたフルーレを彼女は鋭く伸びた爪で弾き飛ばし、再び風景に溶けこむかのように姿を消す。
「涼ちゃん、すんごい手強いなぁ。今まで倒した『夢』なんて比じゃないくらい強い」
姿は見えず、彼女の声だけが深夜の森の中に響いている。まるで本物のチェシャ・キャットのように。
「当たり前よ、そよ! そいつは最強の『夢』を倒した最強のナイトメア。手強くて当然だわ。そんな相手に善戦している、あんたこそ凄いわよ!」
アリスが少し離れた木の後ろから、恐る恐るといった様子でそう言った。
「最強かぁ。良い響きだよぅ。涼ちゃんを倒したら、私が最強のナイトメアなのかな~」
「いくつの姿と能力があるのですか……底知れないナイトメアなのです。その言葉もハッタリに聞こえない」
私は胸に拳を当て、フルーレを立てに構える。
「なら、私も二枚の切り札のうち、一枚を切らせて頂くのです。『スクリーン』!」
周囲の黒い霧。私の創り出した『夢』が広げた空間とは違う、私自身が広げた黒い霧の世界。そこにいくつものスクリーンのようなものが浮かび上がる。私は自らが広げた空間に入り込んだ人間やナイトメアの視覚と聴覚で経験した記憶を作り出したスクリーンに映し盗み見る力を持っている。そこには、そよが辿った戦いの記憶が映しだされている。
「最初の姿は『ホワイト・ラビット』。居合いは『マッド・ハッター』。消えるのは『チェシャ・キャット』ですか。能力を全て丸裸にしてやるのです。他には『ダーチェス』に『キャタピラー』。そして――――」
言葉を言い切る前に私はその場を飛び退く。恐ろしい勢いで大型車のバンパーを二つ並べた程の巨大な刃が、私に向かって飛んできたからだ。
「――そして、『クイーン・オブ・ハート』」
豪快な風切り音を上げながら地面にめり込んだ刃は、繋がった鎖に引っ張られ宙を舞う。その鎖の先には赤いドレスに身を包んだ、そよの姿があった。右腕には船の錨を繋ぐ鎖のような大きく厳つい鎖が巻かれ、その先には禍々しいギロチン台のような物に繋がっている。そして左腕は肩から腕を伝い五本の鎖が流れるように地面に向かって伸びており、そのうちの一本を私に向かって投げつけたようだ。手元の操作で自由に操れるのかも知れない。
「記憶を映し出せる力なのかな? どこまで探れるの~?」
「……答えるとでも思いますか」
そうだよね~と微笑み、そよは後頭部をぽりぽりと掻いた。呑気なものだ。まるで、町中で世間話をしているような雰囲気をしている。
「あのスクリーン。心の中の動きまでは読めないのかな? 映画のように人の記憶を映し出す力みたいだけれど心理描写がないもん。見て聞いた記憶だけが探れる限界でしょ?」
図星だったが私は応えず、唇を噛み反省する。
「それって私が実際に使っていない力や、アリスに詳しく教えてない七つ目のフォームがどんなものかは涼ちゃんにも見当がつかないってことだよね」
少し目にしただけで能力の限界を看破する。ナイトメア同士の戦で勝利を収めるにはどんな力を持っているかの読み合いが鍵になる。抜目のない親友と対峙するならば細心の注意を払わなければならない。
「それと涼ちゃんは切り札が二枚あるって教えてくれたけれど嘘だよね。実際は三枚あるでしょ? もしも二枚目まで破られたとしても良いように。その時に相手が勝利を確信して油断したら、最後の一枚を切れるように」
それも図星だったが私は応えず、更に強く唇を噛み反省する。
「図星だね。涼ちゃんって失敗を悔やむ時、唇を噛む癖があるから」
「よ、余計なお世話なのです……!」
「七つ目のフォームは今の所は使うつもりがないから警戒しなくていいよ。そして、これが今まで使ってなかった力!」
そよは袖から三枚のカードを取り出し、地面に向かって投げつけた。
「クラブ、スペード、ダイアを司る、それぞれのクイーンに命ずる。ナイトメア・エンゲージ捕獲の支援をせよぅ~」
地に刺さったカードのクイーンは各々の意匠に沿ったドレスを纏う少女達の姿へと変わった。女王達は、それぞれが剣と棍棒、フリントロック式の銃を手にして私を取り囲むかのように音もなく移動する。
「全員、楽しそうに笑っていて誰かさんみたいなのです。切り刻みがいがあるってものですよ!」
私は左右に立っていたスペードとクラブの女王にフルーレを投げつけ、二人が怯んでいる隙を狙い、孤立したダイアの女王へと間合いを詰める。しかし、剣が後一歩で彼女の喉笛を切り裂くという所で巨大な五つの刃が降り注ぎ、私は剣を引き後方へ飛び退かざるを得なかった。五つの刃は鎖に引かれ地面を引っ張りあげながら宙を舞い、互いがこすれ合うと仰々しい金属音を放つ。こんな物を、まともに喰らえば腕一本や二本では済まないだろう。
「クリムゾン……ッ!」
そよは私の叫びに頷き、笑顔のまま左手を回転させる。すると五つの刃が繋がれている鎖が回り始め、凶悪な風斬り音と共に彼女の頭上で嵐のように回転し始めた。
「その子達は私ほど強くないから、あんまり無茶しないであげてよう。それじゃ、今度は私達の番かな~」
カードの女王達が頷くと同時に、そよは攻撃開始と呟いた。
「こんな力を友達に使うのは心苦しいけれど~」
彼女は申し訳なさそうに微笑み、左手を掲げる。
「目的のためなら躊躇わない。赤い殲風。千億斬首」
回転する五本の鎖。その中心から他の鎖同様、先端に大きな刃のついた大量の鎖が溢れだす。
まるで鎖の豪雨なのですっ……!
放物線を描き、木々をなぎ倒し上方から私に向かって降り注いでくる刃と鎖を避けながら私はどう対処するか思考を巡らせる。地面に突き立った刃と鎖は再利用はされないようでガラスのように砕け、そして新たな鎖が回転する五本の鎖の中心から溢れてくる。洋画で見たアサルトライフルよりも質が悪い。重量や勢いに並々ならぬ力を感じる。フルーレで弾き軌道を変えるだけなら何度かは可能かもしれないが、私は素早さが主体のナイトメア。この鎖攻撃を弾きながら、そよまで突き進むような力押しの戦闘は不可能だ。しかし冷静に観察していると攻撃の精度は高くないようで、あたり一面無差別に刃を降らしているように見える。前面に攻撃を集中すれば鎖の密度が上がり私を捉えやすいはずなのだが、そうはせず彼女は周囲全てに無差別攻撃を仕掛けている。それは私の素早い動きを考慮し、回り込まれるのを警戒してのことだろう。それでも数打てば当たるとでも言わんばかりの刃の雨。いつまでも、かわしきれるものではない。幸いなことに一度、地面に突き立った刃と鎖は数秒後には砕けて消えていく。逃げ場が鎖で埋まるようなことはない。そして私の素早さなら、その間隙を縫えば赤い女王へと近づけるだろう。
――ならば多少のダメージは覚悟して一気に間合いを詰めて攻勢に移るのです。
そう覚悟を決めた瞬間だった。左前方の鎖の影からダイアの女王が顔を出し、銃口をこちらへと向けた。
「……このッ!」
私は咄嗟に体を捻らせラケルの放った銃弾をかわしたが、弾丸は背後に突き立っていた鎖に当たり跳ね返ってきた。
――――跳弾。
一瞬、肝を冷やしたが背後から迫る銃弾は影法師に弾かせ、私は弾丸を放った主に向かい剣を投げる。眼前に迫るフルーレにダイアの女王は恐怖の表情を浮かべたが、刃は届かずスペードの女王が振るう剣に叩き落とされた。そして反撃のために私が動きを止めた、その瞬間。頭上からは真紅の刃が迫り来る。目一杯の力でフルーレを眼前に迫る刃と鎖に叩きつけ軌道を変えて避けたものの、案の定、私の右腕は痺れ何度も同じ対処法は使えないと嫌でも悟らされる。鎖を受け体勢が崩れた私に向かい女王達、そして新たな鎖が迫る。崩れた体勢でもなお鎖をかわし、女王達の剣と棍棒を難なくフルーレで受ける。体勢を瞬時に整え反撃を試みようとしたものの、その機会は与えてはくれず、一撃を私に防がれると彼女達は鎖の影へと姿を隠してしまった。大雑把な鎖攻撃と、ちまちまとその隙を埋める三人の女王。こいつは厄介な攻撃だ。今まで戦った、どのナイトメアよりも手強い。
「そよちゃん。流石なのです」
どう戦おうか逡巡する私へ、ダイアの女王は容赦なく発砲する。それも上方から迫る鎖に合わせての中々厄介な攻撃だ。鎖も弾丸も難なくかわしてはいるものの、このままでは力尽きてしまう。しかし、そよも強力な技を使いながら更にはそれなりに手強い三人の分身のようなものを操っているので、相当な負担がかかっているはずだ。ナイトメアの力は無尽蔵ではない。夢の力を消耗してしまうのだ。夢の力を使い果たしていたとしても、回復するまではナイトメアとしての力が使えなくなり、しばらくの間、向上心が失われ、ようはやる気がなくなる程度のデメリットしかない。だが、戦闘中に能力が使えなくなるのは致命的だ。夢の力は本人の夢への思いや心の強さが大きく作用している。ただ、そよの夢への熱意や想いの強さは私が一番よく知っている。そう簡単に力尽きるとは思えない。常時、黒い霧の維持、そして影法師の少女を操る私もかなり消耗していく。持久戦は不利だ。何せ、こちらの夢は壊れかけ、『夢』を創り出したくらいなのだ。夢への想いでは圧倒的に劣っている。
「チェスで言うところのチェックだよぅ、涼ちゃん。手詰まりで投了するなら怪我をする前にしたほうが良くないかな~? わんわんっ」
そよの言う通り、現状では打つ手がない。彼女の攻撃は強力無比で一撃でも受ければ致命傷になりかねないのだ。もう一枚の切り札、シャドウフリージアを使いたい所だが、あの力を使うには宙に刃でフリージアの花を描かなければならない。刃と鎖の雨、そして三人の女王の攻撃の中では、花を描く二秒ほどの隙すら作るのが難しい。ならば最後の、とっておきの切り札を使うしかないか。そう覚悟を決めた時だった。
岩でできた槍のような長く尖ったものが三人の女王を襲ったのは。恐らくはネメシアが作りだしたに違いない、中空に突然現れ降ってきた三つの槍を既の所で彼女達は避けた。残念なことに全員無事だったが三人はバランスを崩し、それぞれ木にもたれかかったり尻もちをついたりと隙を見せている。
そして、その隙を逃すほど私は甘くはない。
雨のように降り注ぐ刃と鎖。影法師を使い頭上に迫る刃を強引に弾かせ、私は刃を女王達の主へと向ける。フルーレが刻む小気味の良い風切り音。次の刃が届くよりも早く、私は虚空にフリージアの花を描く。黒い霧と闇の中に現れた漆黒に輝くフリージア。宙に浮かぶ美しい麗花へと私は刃を強く突き立てる。
「挫け。シャドウ・フリージア!」
フリージアは砕けたガラス細工の如くに散り、水平に吹き荒れる竜巻に乗ったかのように全ての花弁は渦状に舞う。花弁に触れた鎖は捩じ切られ、切断された鎖は、それこそ脆いガラス細工のように全体が粉々に飛散し、夜の闇へと溶けるように消えていく。雨のように降ってくる鎖を物ともせず、黒きフリージアが散らす漆黒の花弁は、そよへと舞い迫る。彼女は左腕を前に傾け、回転させている五本の鎖で防ごうと試みているようだ。溢れるように作り出している鎖よりも腕に絡みつき伸びている五本の方が丈夫なようで花弁に触れても捩じ切れはしなかった。花弁一つを鎖に受ける度に弾丸を受けたかのように仰け反りつつも彼女は今の所、全ての攻撃を回転する鎖で弾き散らし、なんとか凌ぎ切りそうに見える。しかし通用しようが防がれようが、どっちでもいい。そもそも、この技だけで倒せる相手だとも思っていない。だが、それでいい。本命は、そよ本人ではないのだから。
私は前方左右に腕を伸ばしフルーレを広げ、背後に影法師を立たせる。
――本命は三人の女王なのです。
そよが私の攻撃を防ぐのに集中している間に。攻撃の手が止んでいる隙に。
二本のフルーレを使い私は宙空に二輪、そして背後の影法師も一輪のフリージアを同時に描く。
「咲き渡るシャドウ・フリージア。それは女王達への弔いの花なのです!」
そよの攻撃に合わせて行動する三人。主の攻撃が止まったのなら彼女達の性質上、引くなり身を隠すなりするだろう。実際、彼女達からの反撃はない。読み通りだ。しかし、そよへ私がこのまま追撃を試みれば、あの三人は妨害してくるに違いない。四体二の状況。それは結局、私にしてはリスクの高い選択。そよにとどめを刺せるのであれば良いが、失敗すれば再び不利な膠着状態に陥る可能性がある。ならば、攻撃の対象は主人の行動を待つ将の駆る馬。
「散るのです。闇夜に咲く花のように!」
三人の女王への同時攻撃。
「挫き尽くせ! シャドウ・フリージア!」
三輪のフリージアは砕け、それぞれの舞う花弁は女王達へと向かっていく。逃れようと背を向けたダイアの女王は花弁に包まれ、得物で防ごうとした残りの二人も黒い花びらに呑まれていく。花弁に触れた彼女達の体は捻れ、苦悶の表情を浮かべるのと同時に、その姿は掻き消えた。三人の立っていた場所には代わりに捩じ切れたトランプのカードが現れ、音もなく地に落ちていく。
その様子を横目で見ながら私は既に女王達の主へ向かって駆け出している。
そよは地に膝をつけていたものの、回転させた五本の鎖を代償に全ての花弁を防ぎきったようだ。警戒すべき残る武器はギロチン台へと繋がる右腕の太い鎖だけ。その鎖を彼女は鞭のように叩きつけてきた。一つ一つの輪が私の頭を上回る大きさをしている。その無骨な凶器が空を裂く轟音。叩きつけた鎖が地をも裂き土煙が上がる。しかし破壊力が如何にあろうと、そんな単純な攻撃は通用しない。私は鎖を避けると同時に跳躍し、土煙を突っ切りながら影法師と共に鎖の上を走る。鎖を引き戻す間も与えず一気に距離を詰め、そよへと剣を振り下ろす。他にも力を隠しているかもしれないが、このチャンスを逃す術はない。また姿と能力を変えられて撹乱される前にとどめを刺す。
刃が深紅に染まったドレスの胸元に食い込み、勝利を確信した瞬間だった。
……手応えがないのです!
先に倒した三人の女王のように彼女は姿を消し、後には真っ二つになったジョーカーのカードがひらひらと宙を舞う。
「……こ、これは!?」
斬った相手は、そよじゃない。偽物? 裏をかかれた?
しかし唖然としている場合ではない。背後からは擦れ合う鈍く、そして激しい金属音が届く。
「鎖の音……っ!」
振り返ると炎のように赤い巨大な魔物が私の頭部を食い千切らんと言わんばかりに顎を開き眼前に迫っていた。いや魔物ではない、そよの使うギロチン台だ。
――かわせない。
掴まる。そう思った瞬間、私は最後の切り札を使った。
「……エンゲージが消えた!?」
驚愕するアリスの言葉通り、私は姿を消し既に離れた場所へと移動していた。
とっておきの力。それは自らが広げた黒い霧と闇に満たされた空間内ならば、闇にとけるように体を霧散させ別の場所で再構築できる。つまり瞬間移動に近い能力だ。黒い霧の空間は自らを中心とした半径二百五十メートル弱の球体。その内側ならどこへでも瞬間的に移動が可能。闇に溶け込み、そして姿を現すこの力に私は『シャドウ・ブライト』と名づけている。だが、この力にも限界はあり、固体や液体がある場所、例えば地中や水中などへは移動できない。そして今の私は地上から十五メートルの位置へと瞬時に移動した。満月の光だけが薄っすらと白銀色に照らす林。その木々の上、四、五回建てのマンション程の高さから地上を見下ろす私は視界内に深紅のドレスを纏った少女を捉えた。獲物を捉え損ねたギロチン台は重量により地に喰らいこみ、土煙を上げている。
「見つけたのです。影から光へ。シャドウ・ブライト」
私は彼女の背後、二十メートルの位置へと瞬時に移動する。視界の先には、そよの背中。木々と茂みの中に潜んでいたのだろうか。彼女へ影法師を向かわせ、私は剣を振るい虚空に漆黒の花を描く。
「そよ! 後ろに回られているわ!」
余計なことを言った『悪夢』の言葉に反応し、そよは影法師の刃が届く前に振り返り、振り下ろされた二本の刃を素手で掴み受け止めた。
「瞬間移動かな。それが涼ちゃんの最後の切り札? 驚いたよう」
そよは影法師の剣を掴んだまま微動だにせず、笑顔を浮かべている。
「驚いたという割には余裕なのです。斬撃だけなら私と変わらない力を持っている影法師の攻撃も簡単に防いでいますし、恐ろしいナイトメアなのですよ」
「でも私の負けだね~。ジョーカーを先に切っちゃったからかな。わんわんっ」
「自らに模した分身へと変化する。それがジョーカーの力ですか。代わり身を残し、自らは茂みにでも潜み、勝利を確信した相手に不意打ちを行う。肝を冷やしたのです」
「うん。通用しなかったけれどね~」
「経験の差なのです。私は三年前からナイトメアをしているので」
「凄いね、涼ちゃんは。頑張ってたんだね。えへへ」
「……私はこれから、このシャドウ・フリージアを放つつもりなのですよ。花びら一つで乗用車一台、捩じ切れる威力があります。友人だと思ってた人間に、そんな仕打ちをされて平気なのですか……」
「私は乗用車よりも丈夫だと思うけれど、平気じゃないよぅ。その必殺技、痛そうだもん。止めてもらえると嬉しいなぁ~」
にこやかにそう言われてしまうと、思わず釣られて私も笑ってしまいそうになる。この最高の笑顔を私は独り占めしたかった。
「身体的な話ではなく、心の問題なのですが……」
「そんなことをされて私が平気だとキミが思ってるなら平気なんじゃないかな」
「……平気なのか平気じゃないのか、あなたの気持ちを聞いているのです」
「涼ちゃんに今まで私がしてもらったことは、そんな攻撃じゃ霞まないから平気。かな」
「どういう意味なのです……!」
「いつも私を大事にしてくれた涼ちゃんが初めて、こんな盛大に駄々こねてくれてるから、私は嬉しいんだよぅ~。わんわんっ」
「……もういい。その笑顔、恐怖で引きつらせてやるのです……!」
私は剣を引き、彼女の言う必殺技を放つ体勢に入る。
「う~ん。この距離で、そのお花攻撃をされたら鎖で防ごうとしても間に合わないかな。『ハートの女王』は丈夫で強いけれど動きは遅くて」
「お喋りしている間に、影法師を蹴り飛ばすなりして鎖を使えばよかったのです」
「私が妙な動きをしたら、すぐに必殺技を使ったでしょ~」
「違いありませんのです」
「チェックメイトかなぁ。私はキングじゃない上にトランプのクイーンだけれど。それにチェスがモチーフなのは鏡の国のアリスなのにね。えへへ~」
本当に強いんだね、涼ちゃん。そう言って満面の笑みを浮かべた親友に私は最大の一撃で応えた。
既に深夜と言っていい自然公園の一角。夜間は入園禁止のため人の気配はないが、そよと私を模した影のような少女達が至る所で楽しそうな笑い声を上げながら走り回っている。
「『夢』を破壊する側のナイトメアが『夢』の創造主になるなんて笑えない話なのです」
私が創り出した『夢』。そよと二人で一緒にいたい。ただそれだけの、ちっぽけな願い。それでも多少は世界に影響を及ぼす程度には強い夢だったようだ。
世界よりも一人の人間。本当に小さい。
そう自嘲し、私は倒れている親友へと剣を向ける。シャドウ・フリージアをまともに浴びた彼女の体は捩じ切れはしなかったものの、深刻なダメージは受けてくれたようでナイトメアへの変身は解けてしまい元の制服姿に戻っていた。
「全身が痺れて動けないよぅ、きゅーん……」
そよは木の根に頭を乗せる形で倒れている。犬の鳴き真似をする程度の余裕はあるようだ。腕や足も折れてさえいない。命に別状がなくて本当に良かった。死なれては困る。
両手両足を捩じ切ってでも私のものにする。そうすればもう笑顔なんて作れないだろう。私だけを憎み、私だけを呪い、そして死ぬまで私を想い続ける彼女と二人っきりで過ごすんだ。私だけを想ってくれるならそれでいい。負の感情だって構わない。それでも一緒にいたい。まだ私の『夢』は壊れていないのだから。
「何躊躇ってるのさ、エンゲージ。こんな裏切り者、さっさと始末しちまえよ」
そよを見下ろす私の向かいに、不快な笑みを浮かべた『悪夢』がいつの間にか立っていた。見ているだけで暖かい気持ちになれるような笑顔で微笑んでいる親友と見比べて私は溜息をつく。同じ姿をしているのに別人にしか見えない。実際に別人だが。
「お前の名前はネメシアというそうなのですね。どうでもいいですが」
「それは『悪夢』同士が呼び合う場合に使う通称だ。名前じゃないのさ。なぁ、涼。オレにも名前をくれよ。さっき助けてやっただろぉ」
「あの槍攻撃はよくやったと褒めてやるのです。でも、お前に助けを求めるくらいなら私は、そよちゃんに負けたほうがマシだったので邪ハートで勝手に助けてきた相手に感謝するつもりはないのですよ」
「この恩知らずが! 最低だな、お前は!」
「お前に恩を感じた覚えがないので恩を知らないという言葉は適切なのですよ。それと、お前にお前呼ばわりされるのは不快なのです。今すぐ黙らないと――」
「黙らないとなんだ? オレを始末するのかい? やれるもんならやってみろよ。ナイトメアの力を失ったら困るだろうが」
そう言って薄ら笑いを浮かべるネメシアの頬を浅く斬りつけてやると、彼女は小さい悲鳴を上げて尻餅をついてしまった。
「――それなら死なない程度に斬り刻んでやるのです」
剣を構えて近寄る私から逃げようと、情けない『悪夢』は這いつくばって許しを乞う。
「涼ちゃんのとこは『悪夢』と仲が悪いんだね~」
「ええ。険悪な仲なのです。そよちゃんは『悪夢』と仲睦まじいようですが」
木の影に隠れ、心配そうにこちらを伺っているアリスを横目で見やり、私は皮肉をこめてそう言った。
「アリスは可愛いから…………つぅ~……。スタンガン三十発分喰らわされたくらいに全身痺れて痛いよぅ~」
「シャドウ・フリージアを浴びて痺れて痛いだけで済むなんて、あなたは化物なのです」
斬られた傷も殆ど塞がっているようだ。総じてナイトメアになった人間の治癒力は高いのだが、それにしても怪我の治りが早過ぎる。
「化物かぁ。お母さんにも小さい頃、よく言われたっけ」
「……そうでしたね」
化物。幽霊みたいなガキ。少しは笑ったらどうなんだ。あんたを産んだから、運が尽きたんだよ! さっさと死んでしまえ!
そよの母親は娘を愛していなかった。そよを化物だの幽霊だのと毛嫌いし、友人の私の前でも散々娘を虐待しては口汚く罵っていた。
それでも幼い彼女は自分の境遇を母親のせいにはしなかった。愛想笑いもできず、何より母親を愛していないから当然の待遇だと冷静に言いのけた。
「化物! ここまでされても、まだ笑っていられる! いつも笑って、いつもいつも何考えてるのか分からない! 真っ赤な部屋に住んでいて気持ち悪いのです……!」
私は再び『スクリーン』を使い、そよの記憶を映し出す。宙に現れた全てのスクリーンには無表情な白髪の少女と溢れんばかりの笑顔を浮かべる黒髪の少女が映っていた。食事をしている様子。町を歩いている様子。それぞれ違う場面だが、全て同じ二人の少女が映っている。
「ま、まさか、あの白くて長い髪の無表情な子が、そよなのかしら。マフラーをしていないわね……。服も赤色じゃないわ」
「お前に答えてやる筋合いはないのですが、そうなのです。小学生の頃の、そよちゃんですね。可愛いでしょう」
スクリーンの一部は親友が母親から虐待を受けているシーンに変わっていた。私でも知らないような、そよの記憶。私は彼女の過去に土足で踏み込んでしまった。理性では酷い仕打ちをしていると分かっているのに、感情が昂ぶりを自分では抑えられない。
「あなたには思い出したくない過去はいくらでもあるでしょう? 人とは違うと言われ、価値観を拒絶され、存在を否定され、命さえ奪われかけたあの頃。世界を呪っていた自分を見て嘆くといいのです」
ほら、傷つきなさい。笑顔を崩して怒って罵ってください。私に感情をぶつけてください。
「うわ~。三年前かな? 懐かしいなぁ。あの頃の私は無愛想だったのに、一緒にいる涼ちゃんはいつも楽しそうだったんだねぇ。なんだか嬉しいよぅ。わんわん」
「……どうして。辛い過去を見せられて、どうしてそんな反応ができるのですか。前向きにも程があるのです……!」
「過去は過去だよ。どんなに暗い過去があるからって今を明るく生きたらいけないなんて規則はないよ。それにね、涼ちゃん」
「それに……?」
「私は涼ちゃんがいてくれたから、あの頃も楽しかったよぅ」
私の価値を認めてくれるのは、あなたしかいない。だから私は執着して拘って大切な人を傷つけている。
「三年前の私は自分の境遇や辛さを全部、世界のせいにして前向きじゃなかった。私は、そんな過去の自分に戻るのが怖かったらしい。ううん、怖いよ。今の夢を目指して前向きに頑張ってる自分が好きだから」
素敵ですね。でも、そんな素敵なあなたの横はもう埋まってしまった。
私はアリスへ憎悪の篭った視線を向ける。そよと一緒に暮らして幸せそうに過ごしていた少女。人間じゃないくせに。今すぐこの手で消し去りたい。でも、そうしない理由は一つ。もしも彼女を斬り刻んで、そよが泣きでもしたら? 私には感情の昂ぶりの欠片も見せてくれないのに。もしアリスの死を嘆かれでもしたら私の心は本当に壊れてしまう。
「アリス。お前は知っているのですか」
「な、何の話よ」
「そよちゃんの体に刻まれた傷と、その理由を知っているのですか」
私の問いにアリスは恐る恐る首を振る。
――大切なお友達にお前の秘密を暴露してあげるのです。それでも笑っていられるなら笑っていればいい。
「そよちゃんの全身にある傷は全て実の母親に存在を否定されて切り刻まれた、哀れな印なのですよ」
心が裂けそうだ。私は一体何をしているのだろう。そよはダメージのせいで徐々に意識が薄れていっているのだろうか、表情に力がない。それでも笑顔だけは崩さずにいる。
「こんなにされても心に傷一つ負わないのですか……? 親友に裏切られて動けないほど痛めつけられても悲しくもないのですか? 母親に切り刻まれても、そんな過去も影にならず笑っていられる。心が麻痺してるのですか? 傷ついたことがないのですか? お前は本当に化物なのです……!!」
意識が朦朧としている親友へ、そんな言葉の刃を振りかざす私の頬に突然、鋭い痛みが走った。状況を把握できず私は蹌踉めき、膝をつく。
横からの攻撃……? そよの力?
いや、そうではなかった。 膝をついた私を見下ろすようにアリスが肩を小さく震わせながら立っていた。
「……そよが傷ついてないですって? 傷ついてないわけないでしょうが。ふざけんじゃないわよ!」
青いドレスの『悪夢』は目を潤ませ拳を握っている。小さい頃に読んだ不思議の国のお話から、そのまま抜け出してきたような少女。彼女に頬を殴られたのだろうか。
「……誓った夢がどうでも良かったか? どうでもいいなら、あんたと交わした夢の象徴のマフラーを、そよは一年中巻いていたりしないわ」
アリスは、そよのマフラーを指差しながら私をきつく睨みそう叫んだ。
「そよがどうしてここに現れたのか分からないですって? 本気で言っているの?」
怒りの表情を浮かべた彼女は、私の胸ぐらを掴み強引に立たせてきた。
「友達を助けたい、それだけの単純な理由でしょう。なんで分からないのよ」
「黙るのです……」
「あんたのことを心底心配して心底想って心底慕っているから、そよは傷つけられても、子供みたいに駄々をこねている涼を笑顔で受け止めようとしていたじゃない」
「お前に子供なんて言われる筋合いは……」
「どれだけ想われているか知ろうともせず、感謝しようともせずに自分の想いだけぶつける。あんたは母親に構って欲しいだけの子供よ。滅べばいいのに!!」
アリスに突き飛ばされて倒れこんだ私は、彼女を見上げ唇を噛む。
「お前に……お前に、そよちゃんの何が分かるのです……!! そよちゃんは私とずっと一緒だったのに……!! お前なんかがいなければ……!」
そよちゃんのことなんて、なんにも知らないくせに。なんにも知らないくせに。なんにも。お前に何が分かるのですか! 『悪夢』なんかに――
「ほら、涼。わんわん鳴きなさいよ、この犬」
「そよちゃんの意地悪……。わ、わんわんなのですっ、わんわん……!」
そよと二人で会ういつもの場所。いつものレストランの、いつもの席。私は犬の鳴き真似を強要されるのがお約束だった。
「まだ恥じらいがあるわね。一昨日、何でもするって言ったくせに。私の犬になりなさいって命じたはずよ。なのに自分の発言に責任も取れないの? 滅べばいいのに」
本気で言っているのか冗談なのか。無表情でそういう彼女の真意を図りかね、私は苦笑いを浮かべる。
「お、一昨日は本当にお世話になりました。感謝しているのです」
「だったら言葉ではなく態度で示して欲しいものね」
「う、うぅ……恥ずかしハートが……限界なのですよ、わんわんっ!」
一昨日、私はいわゆる家出を強行した。深い事情の説明は省くが、私の収入に関するトラブルに嫌気が差し街へと出奔したのだ。周囲にいる大人の誰もが金の心配だけをしていると察して居場所が分からなくなった。そんな私を彼女は探しにきてくれた。連れ戻そうとしたわけではない。ただ一緒に手を握ってついてきてくれた。行きたい所に行けばいい、そう言って握ってくれた、その手は何よりも暖かく、そして優しい温もりを感じた。そよは炎天下の中、ずっと文句も言わずに家出に付き合ってくれたのだ。太陽を浴びると健康に支障が出る体なのに。私は自分のことばかりに目が行って、そんな彼女への気配りが足りなかった。
「……それより、そよちゃん。火傷の具合はどうなのですか」
「太陽浴びて皮膚が傷むのには慣れているから大丈夫。キミが気に病むことはないわ」
そうは言われても頬にできた火傷のような生々しい痕を見ていると心が痛む。彼女の白い肌は太陽に弱く、長時間浴びていると火傷のような症状を引き起こしてしまうらしい。
「そよちゃんは……いつだって、私の支えになってくれているのです。入学ほやほやの小学一年生だった頃に二人で夢を語り合って以来、三年間ずっと一緒にいてくれます」
「私は夢を語り合える相手が欲しいだけよ。語り合える相手が楽しそうなら尚良い。暗い顔されていたら面倒だから、いつもどうにかしようとしているだけ。自分のために」
それは彼女の本音かもしれない。でも、だからこそ安心できる。自分のために私には元気でいて欲しい、そして必要だと言ってくれているのだ。そこには下心なんてない。歌手だから、金を持っているから、そんな私の属性は関係ない。ただ一人の人間として夏月涼を必要としてくれている。少なくてもそんな気持ちにさせてくれる。
「キミこそ無愛想な私と一緒にいて何が楽しいわけ? 私なんか母親にすら厭われているのに。奇特な人よね」
「そよちゃんは、いつだって本音でいてくれるから。それと……自分を『なんか』なんて呼ばないで欲しいのです」
私の言葉に、そよは首を傾げテーブルに頬杖をつく。
「なんで?」
「なんでって……。そよちゃんは私にとって最高の親友なのです。そんな大切な人を例え本人の口からだとしても『なんか』呼ばわりで悪く言われるのは許せません……」
ふぅんと興味が無さそうに息を吐き、そよは長く白い髪を掻き上げる。
「母親は毎日のように私を『なんか』呼ばわりしてくるけれど」
「だから許せないのです……! そよちゃんの心を傷つけて暴力まで振るって、あの人は母親失格です!」
「しょうがないわよ。あの人だって私みたいな無愛想で可愛げのない反抗的な子供なんて欲しかったわけじゃないでしょうし」
それに傷ついていないわ、そう言って彼女は私の首を優しく撫でてくる。
「く、擽ったいのですよぉ~」
私の首を弄る親友の手を思わず掴むと、私の左薬指に輝く指輪が目に入った。そよから貰った初めての誕生日プレゼント。それほど高い指輪でもない。それどころか千円かそこらで買える安物だ。そんな指輪でも私にとっては何よりも大切な宝物だった。
首を更に撫でられ私は擽ったさの余り、身を捩らせる。そよはそんな私に真剣な眼差しを向けた。
「私には夢があるから。家庭環境が劣悪だろうとどうでもいいのよ。この誰も信じられないような汚い世界にも人間にもね、私は一切、何も期待していない」
「誰も信じられない……」
「だから平気。最初から期待していないから。何されてもね、それが当たり前だと思っているから。私は自分の夢を叶えるために死ぬまでは頑張るだけ」
そよちゃんの夢。不思議の国のアリスのような、ずっと残る作品を創りあげること。
「大切な夢が叶うといいですね」
「ええ。叶えるわ。私には他に欲しい物が何もないから。強いて言うなら他に欲しい物は食べ物かしら」
そよはステーキを平らげると、全く足りないとぼやいた。小学校の給食でも彼女は何回もおかわりをする、かなりの食いしん坊なのだ。普段は母親から小遣いを貰っていないらしく、正月に親戚から貰ったお年玉で一年間、やりくりしているらしい。レストランで腹を満たすには小遣いが足りないのだろう。
「アリスは不思議の国で冒険をしたの。読んでいて胸が高鳴った。数々の変わった生き物との摩訶不思議なやり取り。幼稚園で何回も繰り返し読んだわ。今でも読んでいる」
「その話は何回も聞いているのです、ふふ」
「アリスはいつだって私を現実から不思議の国へ連れて行ってくれるのよ」
夢について語っている時の彼女は表情こそ変わっていないものの、どこか楽しそうで私はとても好きだ。
「私は正義のヒロインが書きたい。困っている人達を救える正義のヒロインに憧れるから。でも自分の夢にしか興味がない私は、そんな存在になれない。だから書くのよ」
そよちゃんは私にとって充分、いつでも助けてくれる正義のヒロインなのですよ。そう伝えたかったが、楽しそうに語る彼女の邪魔はしたくなかったので私は、その言葉を呑み込んだ。
「絶対叶えるわよ。夢を叶えるために今は一人では生きていけない。まだ働けもしない小学生だもの。だから一人で生きていけるようになるまでは、あの母親の下でも私には不満はない」
「……でも心配なのです。もはや、そよちゃんが受けているのは虐待に近くなっているのです。このままじゃ、何か取り返しの付かないことが……」
「好きにさせておくわ。それであの人の気が済むなら。産んでくれたことと育ててくれたことだけには感謝しているし」
そう言うと、そよは私の前で未だに湯気を上げているハンバーグを見つめながら目を細めた。
「た、食べますか? よろしければ、どうぞ」
「……頂くわね」
私のハンバーグにフォークを刺すと、そよは動きを止める。どうしたのかと彼女の顔に目を向けると、そよは私の目をジッと見つめながら、ありがとうと呟いた。
「私は誰も信じていないし期待していないけれど、キミには友達でいて欲しいと願っている」
嬉しい! 思わず叫んでしまい、周囲の視線が私に集まる。
「友達? 当たり前なのです。ずっと近くにいさせてください。私は、そよちゃんのことが大好きなのです!」
だって私の夢は! 立ち上がり、そう力強く声を上げた私へ更に視線が集まる。
「そよちゃんの、お嫁さんになることですから!」
人目も憚らず、私は彼女の隣へと移動し、その細い体を思い切り抱き締めた。
「今日は楽しさハートがマックスだったのですよ~」
自宅のマンションに戻った私は鼻歌交じりにベッドに横になる。
「お仕事も楽しかったですし、そよちゃんとの食事も最高でした。良い一日だったのです。ふふふ~」
私は得意の独り言を繰り返しつつ、枕元に飾ってある写真立てを手に取り、中に映った親友の顔を見て表情を緩める。
「私の夢は、そよちゃんのお嫁さんになる……。つい本音が出てしまったのです。冗談だと流してくれていれば良いのですが……」
写真立てを胸に抱き、私は目を閉じる。
ああ、そよちゃん、大好きなのです。いつだって私が暗い顔をしていたら笑顔になるまで、そばにいてくれました。家出癖のある私に、いつだって付き合って一緒にいてくれました。手を繋いで二人で歩く夜の街は私にとってはキラキラした宝石箱のように輝いて見えて。無愛想がなんだっていうのですか。あなたが今までくれた優しさは何も勝る宝物なのです。
「そよちゃん、大好きなのです……。これがきっと私の初恋……」
「何言ってるのさ、涼」
「わぁ!?」
ベッドで寝転がりながら妄言を口走っていた私を見下ろすように『悪夢』が呆れた顔で立っていた。黒髪の、そよ。最愛の人を模した姿をしている彼女を私は嫌悪している。
「な、なんでもないのです。それより何の用なのですか」
「そろそろオレのナイトメアになってくれよ。オレはお前の歌と夢が大好きなのさ。ずっと一緒にいたいんだよ」
「その話なら断ったはずです。私は『夢』とやらと命を賭けて戦うつもりはありません」
半年前、最悪の夢を見た。大好きな親友に嫌われて突き放される夢だ。最悪な寝起きと止まらない冷や汗。そんな私の前に、この『悪夢』は現れた。彼女は私の歌声と夢が気に入ったから夢の世界から出てきたと言う。迷惑な話である。
「大切な人と一緒にいたいんだろ。オレも同じ姿をしてるから満足するべきなのさ」
「そよちゃんとは似ても似つかないのです」
ため息混じりにそう言うと、スマートフォンに噂の親友から着信が入った。
「あ、電話なので、お静かになのです」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ『悪夢』は姿を消す。私は喉の奥の棘が取れたような気分で電話に出た。
「もしもし、そよちゃん。あなたから電話をくれるなんて珍し――」
電話越しに女の奇声が耳に届き、私は言葉を切る。まるで怒りで我を忘れたかのような怒声混じりの奇声。もはや言葉になっていない。所々、化物め、という単語だけは辛うじて聞き取れた。
「そよちゃん……どうしたのですか?」
『涼。ごめんなさい。迷惑かもしれないけれど、今夜泊めてもらえないかしら』
「それは構いませんが、一体何が……」
私の言葉を遮るように、殺してやるという怒声が私の耳を貫いた。このヒステリックな甲高い声の主は、そよの母親だろう。
『お前なんか産まなければ良かったと言われて、私も親を選べなくて残念だと、つい答えてしまって』
そよの言葉の後ろから聞こえる、殺してやると壊れたように連呼する母親の叫びが私の不安を掻き立てる。
『というわけだから。ほとぼりが冷めるまで、お願い。殺されるのだけは困るわ。夢を目指せなくなるから』
「は、はいっ! 今すぐ、うちに来て欲しいのです。そこにいてはダメです……!」
私の言葉は届いたのだろうか。電話はそこで途切れてしまった。どうしたら良いのだろう。不安ばかりが募っていく。手にしていた写真立てが目に入る。無表情な親友の横で満面の笑みを浮かべる私の姿があった。
「……じっとしていられません。向かえに行くのです……」
私は駆けるように自宅を飛び出した。
タクシーを使い、そよ達が暮らす安アパートへと私が到着した頃には母親の叫びを不審に思ったのだろう、何人かの住人が建物の外で無責任な推測を語り合っていた。虐待でもあったのではないか。いやいや、育児疲れによる心中だ。誰も当人達を心配している様子はない。しかし、それは当然だろう。そよや、その母親と彼女達は他人なのだから。私はそんな住人達を一瞥し、そよ達の住む二階へと向かう。
「静かなのです……」
二階の最奥にある部屋。そこには春風と表札がある。ドアに耳を当てても中から何の物音もしない。どうしたらいいのか。逡巡したが、私はドアノブに手をかける。鍵は掛かっていないようだ。ドアを恐る恐ると開くと、中からは冷たい風が溢れてくる。真夏日和だ。エアコンでもつけていたのかもしれない。
「そよちゃん……もう自宅から出た後なら良いのですが……」
意を決した私はドアの隙間から中を覗き、小さく悲鳴を上げる。
川のように玄関まで続く赤い液体。1LDKのアパートの一室。リビングまで見通せる廊下は血溜まりで満ちていた。
「そよ……ちゃん?」
私は恐怖のあまり呼吸ができなくなり慌てて喉を両手で抑え、その場に膝をつく。廊下には白い髪と肌を深紅に染めた変わり果てた親友の姿があった。
――そよちゃん!!!
声にならない悲鳴を上げながらも、私は意志を総動員し震える足を前に進めた。
やっとの思いで、うつ伏せに倒れている彼女の側に座り込む。そよの目に光はない。あちこちを何かの刃物で刺されたのだろうか。顔には傷がないが手や首、背中や足、至る所に傷があり、鮮血が溢れている。まさか死んでしまっているのだろうか。
そよちゃん、そよちゃん。
声をかけたくても息ができずに、それも叶わない。
呼吸ができず意識が朦朧としてきた、その時。廊下の先のリビングに呆然と立つ、そよの母親の姿が見えた。その手には血塗れの包丁を握っている。
――お前が。
「お前が、そよちゃんを……!!!」
怒声と共に呼吸が戻り、立ち上がろうとした私の袖を、そよが掴む。
「涼…………」
「そよちゃん、良かった……生きていたのですね」
そよから返事はない。彼女は頬を自ら流す血溜まりに沈め、何かを呟いていた。
「そよちゃん……そよちゃん……」
私は腰を丸め、彼女の口元へと耳を寄せる。
「……綺麗……」
そよは途切れそうな声で、確かにそう言った。
「……世界って本当は綺麗なんだね……えへへ」
初めて聞くような優しい口調と、そして笑顔。
「……真っ赤。本当に……綺麗だよぅ……」
力なく息を吐き、目を閉じた親友に覆い被さるように私は倒れこむ。
どうして、そよちゃんが……こんな目に。ただ夢を目指して、ただ毎日必死に努力して、ただ明日の希望を願って生きていただけの優しい人だったのに。
殺されなければならないような酷い真似を、お前にしたのか。
生まれて初めての湧き上がってきた殺意を親友の母親に向け、立ち上がる私の腕を今度は背後から誰かが強く引く。
弾けるように、その腕を振り払い、振り向くとそこにはいつの間にか『悪夢』が青ざめた表情で立っていた。
「まずい。まずいよ。ここにいたらオレ達も殺される……」
「あんな女……怖くないのです!」
「そうじゃないんだ、涼は『悪夢』じゃないから分からないのさ……。あの声が聞こえなかったから!!」
「……何を言って」
「オレは、こんな恐ろしい『産声』は初めて聞いた。ダメだ、産まれる……。ひっ!」
彼女が悲鳴を上げるのと同時に世界は一転した。血溜まりが広がっていた安アパートの廊下いたはずなのだが、いつの間にか私と『悪夢』は深い森の中に立っていた。鳥の鳴き声だろうか。ホッホッと奇妙な声が木霊している。足下にいたはずの、そよの姿はどこかへと消えてしまっている。
「ここは……。何が起きたのです」
「……ここは涼の親友とかいうやつの『夢』の中さ。今までにないってくらい強大な『夢』が広げた空間。オレ達はそれに呑まれたんだ」
もう逃げられない、そう肩を落とす『悪夢』の言葉を遮るように女の絶叫が響く。驚きのあまり反射的に声の方へと顔向けると、そこにはトランプの形をした兵士達が不気味に笑いながら、仰向けの女を担ぎ上げている姿があった。恐怖に歪んだ女の顔。そよの母親だった。兵士達の向かう先には森の木々より遥かに高く、天を突くようなギロチン台がそびえて立っている。まるで京都タワーのように大きい。
「助けてえええええええ!!!」
「兵士達よ、それ行け~。首を刎ねよ~。えいえいお~」
兵士達に担がれながら叫ぶ女の傍らに、妙に楽しそうな明るい声で指揮をしている赤いドレスを着た少女の姿があった。あれは
――そよちゃん?
思わず彼女の元へ駆け寄りそうになった私の腕を『悪夢』が強く掴む。
「あいつはお前の親友なんかじゃない」
「でも……」
「オレと同じだ。姿を模しているだけなのさ。あれは『夢』の本体だ。話しただろう、『夢』のことは……」
夢が壊れかけた人間達が実体化させた化物。それが『夢』。確かに詳しく聞かされてはいる。
「この『夢』はオレには手も足も出せない……。強さの桁がショウリョウバッタとホッキョクシロクマ程離れている。もちろんオレがショウリョウバッタさ……」
いつも偉そうな『悪夢』が間抜けな例えを口にし震えている。これは本格的にまずい事態に陥っているようだ。そよの安否も気になる。
「ここから出る方法は? そよちゃんの行方を探す方法はないのですか?」
「そよってやつは『夢』の創造主だ。この夢の中で探し出すのは不可能さ。大切にどこかに隠されてる。本人に意識があれば夢の中を彷徨ってる可能性はあるけどさ、『夢』が広げた空間の中で人間が正常な意識を保つには『悪夢』が力を貸しているか、ナイトメアであるか、一度『夢』を実体化させている人間かの三通りしかない。あいつはどれでもないだろ」
「ええ。多分、どのパターンでもでもないのです」
そして私は恐らく、この『悪夢』のお陰で意識を保てているのだろう。
「親友を助けたいなら、涼がナイトメアになるしかない。それでも、この『夢』に勝てるかどうかは望み薄だけどな。でも他にオレ達が助かる可能性はないんだよ!」
だから頼むよ、助けてくれよ。そう叫びながら彼女は私の両腕を掴む『悪夢』を振り払い、私は赤いドレスの少女に目を向ける。
「そよちゃんの姿をした、あの人を倒せば私の大切な人を取り戻せるのですか」
「そうなのさ。早くしないと、親友ちゃんの血が失くなって助かるもんも助からないぞ。良いから早くしろよ! せっかく本体が目の前にいるんだぞ! 見失ったら二度と現れないかもしれないんだ!」
私は目を伏せ頷く。迷っている場合じゃないようだ。
この日、私はナイトメアになった。
涼の力により『スクリーン』に映しだされた彼女自身の記憶。そよの全身に残された傷痕。それは母親に刻まれた悲しい過去の記憶だった。そうじゃない。あたしは首を振る。そよは気になんてしてなかった。暗い過去背負っていますよ、なんて思わせぶりな態度も取らなかった。ただひたすら明るく笑顔で純粋で。
そよ本人も言っていた。
過去は過去。暗い過去があるからと今を明るく生きたらいけない規則はないと。
あたしは木の根元で倒れている少女へと顔を向ける。そよは既に意識を失っているようだった。
――彼女は誰よりも人間の闇を知っていた。だからこそ、あんなに明るく輝いていたのだろうか。闇の中で煌めく光は色濃く、そして強く輝くものだから。いや、それ以上かもしれない。そよは心の闇すら呑み込んでひたすら前を見て輝く太陽のような少女なのだ。
「そよ。あんたと出会った日、お節介焼いて正解だったわ。助けになれて本当に光栄よ」
「傷の理由だって知らない。赤を好きな理由も聞いてない。そよちゃんのことなんにも知らないのですね。それなのに、お前があの人を語るんじゃないのです!」
赤を好きな理由。それはあの言葉から想像がつく。自らの血を見て世界が美しいと言っていた。きっと、あの時から彼女の中で何かが変わったのだろう。
「そうね。私は、あの子のことをなんにも知らなかった。でもね、だったらどうして、あんたはこんな仕打ちをするのよ」
「はぁ?」
「……誰よりも、そよのことを知っているあんたが、あの子に大切に想われていると知っているはずのあんたが、どうしてこんな仕打ち。あんたを心配して助けに来た親友に、どうして刃を向けられるのよ」
「うるさい! そよちゃんの横にはお前がいるんだ! 私にはもう……どうして良いか分からないのです……」
大人だと思っていた。そよの話から断片的に聞いていた涼の像。夢を目指し、そよを励まし、そして過去の窮地を救ってくれた。そう聞いていた。最高の親友だと。
だが、そうじゃない。涼は年齢相応に子供なのだ。苦労して必死に頑張ってきたのだろう。だからある部分では大人びているのかもしれない。しかし、そよへの態度は構ってもらえずに、駄々をこねる子供でしかないのだ。それを本人も分かっているから苛立っているのだろう。きっと自分でも抑えられない黒い感情に支配され、引っ込みがつかなくなってしまったのかもしれない。
「一つだけ聞かせて欲しいの。そよの夢は、あんたが壊したのよね。それならどうして、あの子は同じように小説家の夢を見続けていられるの?」
そよは涼に夢を救われたと言った。本来、壊された『夢』は二度と返らない。文字通り夢が壊れてなくなるのだから。
「……私が手助けした。もちろん、それだけじゃありません。そよちゃんの夢への想いが誰よりも強かっただけ」
夢が全てか。その言葉は口だけじゃない。そういうことなのだろう。
『スクリーン』に病室でほほ笑みを浮かべる少女の姿が浮かぶ。私の質問が、涼の記憶を刺激し、それが映し出されているのかもしれない。
「涼ちゃん。お仕事を探してきてくれてありがとう。本当に嬉しい」
黒い霧の中に浮かぶ『スクリーン』。その中には、ベッドで横になる包帯だらけの、そよの姿がった。重症患者にしか見えないのに笑顔を浮かべている。これは彼女が母親に刺されたあの日から、しばらく月日が経った後の映像かもしれない。
「お仕事で小説が書けるなんて夢みたい」
「余計なお世話だと怒られるか心配だったのですよ」
冷や汗を垂らしながら、心底怯えたようにそう言った涼が微笑ましく思えた。今の壊れかけた愛情を親友にぶつけている彼女とは違う。純粋に、そよを愛していたのだろう。
「今までの私なら全部自分の力でやるわーとか言って突っぱねてたかもね~。でも今の私は困ったときに差し出された手が素直に嬉しいよぅ、えへへ~」
「……これからの生活費や、小説家になる夢の足しになればと思いましたのです」
「うんっ、もしかして、涼ちゃん。芸能界のコネを使ってくれたのかな?」
涼は苦笑し頷く。
「きっと、私が想像してるより、ずっと大変だったと思う。ありがとう。ありがとうだよ、涼ちゃん」
「別に。あなたから今まで頂いた大切なものに比べたら、どうってことないのですよ」
『スクリーン』に映しだされた無邪気に笑う涼を目にし、あたしの胸が何か鋭利な刃でも突き立てられたかのように痛んだ。あたしの存在が、そよと涼の関係に亀裂を産んだというならば。謙虚に笑う、この少女を歪めてしまったのは――
――あたしだ。
「涼ちゃんに何かあげてたかなぁ。分かんないよう~」
そよの反応に涼は名前の通り清涼感溢れる笑顔を浮かべ、沢山頂いているのです、と答えた。
「それよりも、そよちゃんの喋り方や表情が別人のように明るいのですが。笑顔なんて初めて見たのです。これは……一体」
「別にいつもと変わりないわよ」
そよは突然、笑顔から表情を一転させ無表情になり、そう言った。
「え、え? い、いつもの、そよちゃんでした!」
「冗談。冗談だよぅ~。あはは」
「むむ……。どういうことなのでしょう……」
「ん~。私ね、元々、あのお姉さん口調は無理してたんだ~。本当はハキハキ喋ると疲れちゃうの。実はのんびり屋さんなんだ、私~」
「今までのは……演技だったのですか!?」
演技っていうか。そう言って困ったように笑うと、そよは長い後ろ髪を掴む。
「この長い髪もそうなんだけれどね。短くすると私って幼く見えるんだ。でも子供っぽく見られたくなくて。喋り方も髪型も大人っぽくしてたかったの」
「な、何故にそんなことを」
「私はずっと、この世界の全てが汚いものだって思い込んでたから。他人も先生もクラスメートも。お母さんも」
お母さん。その言葉を耳にした涼の表情が曇る。そう言えば、そよの母親はどうなったのだろう。助かったのだろうか。あたしの疑問は涼の表情が答えになった。彼女が浮かべているのは憎しみや怒りではなく、恐れと怯え。恐らく、あの母親は『夢』の中で命を落としたのだろう。
「背伸びした冷たい態度で色々な相手や世界自体を突き放そうとしてたのかな。誰も干渉してこないように。相手するのも面倒くさかったから」
「それなのに私の相手をさせてしまって。ご迷惑でしたか……?」
「ううん。そんな無愛想に生きてた私とね、涼ちゃんは一緒にいてくれたから嬉しかったよぅ。今までは素直に言えなかったけれど」
「……そよちゃん」
「お母さんに刺された時、私はこの世界の汚さを再認識した。夢を目指して頑張りたい、ただそれだけの望みすら許されない。そんな世界なんかに存在している理由すら、どうでも良くなった。でも世界は汚くなんてなかった」
声に暗さはない。むしろ何か憑物が落ちたかのように、晴々とした表情を浮かべている。そよは微笑みながら左手で首を抑えた。痛むのだろうか。そこには血が滲んだ包帯が巻かれている。それは初めて二人で入浴した日に、そよが指で示していた位置にあった傷だ。私は『これ』に悲しみも負い目もなければ、どんな感情も抱いてないからね。あの日、彼女は首の傷を指差しながら、そう言っていた。
一ヶ月、彼女と暮らしてどこか歳相応ではない大人びた落ち着きようを感じてきた、その理由が分かった気がする。過酷な環境において子供は泣きじゃくり庇護を得るか、割り切って大人になるしかないのだろう。きっと、そよは後者だ。そうして生きてきた。
あたしは『スクリーン』に映る彼女から、意識を失い倒れている本人へと視線を移す。いつも真っ直ぐな笑顔で優しくしてくれた。そんな過去があるのに一切屈折していない。
あたしは視線を『スクリーン』に戻し、そよが話を続けるのを待つ。
「死ぬのなんて怖くなかった。でも消えていきそうな意識の中で、ただただ、夢を目指せなくなるのが怖かった。こんなに怖かったのは生まれて初めてだよ」
「あんな大怪我。こうして話せるのが奇跡のようなのです……」
「治癒力が高すぎるって、お医者様も驚いてたよぅ~。えへへ」
ナイトメアになった者が変身を解いた後でも通常に人間よりもあらゆる面で頑丈な体を持つように『夢』を実体化させた者は免疫力や治癒力、全てにおいて強化される。ある意味、優れた人間になれるのだ。『夢』から無事に救われたらの話だが。
だから、そよも助かったのだろう。死の寸前に『夢』を創り出し、そして救助されるまでの時間が早かった。不幸中の幸いとも言える。
そして彼女が『夢』に初めて相対した、あの日。そよがあまり驚いていなかった理由も分かった。『経験者』だからだ。
「涼ちゃん、ありがとう」
「え?」
「私ね、あの血溜まりを見て思ったんだ」
首を傾げる涼に、そよは優しげな笑みを浮かべる。
「この世界はね、本当は綺麗なんだなって」
「そよちゃん……」
「汚いのは世界を、そう見てた私の方だったんだ。私が死の間際で見た世界は真っ赤で綺麗だった。輝いて見えたよ、灰色に見えていた世界の中で」
そよはうっとりとした目でそう呟く。
「拒絶しないで世界を受け入れていけば良かった。そうすればお母さんにも優しくできたかもしれないのに」
「ごめんなさい。難しくて……よく分からないのですよ」
「うん。私の内面はどうでもいいや。それより――」
そよは涼の両手を掴み、頭を下げる。
「そ、そよちゃん!?」
「よく覚えてないけど、あの日、私の命を助けてくれたのは涼ちゃんだよね? 救急車の手配も付き添ってくれたのも涼ちゃんってお医者様が言ってた。どこまでが夢でどこまでが現実か覚えてないけれど……」
「覚えていないのなら忘れてしまったほうが良いのです。何もかも『夢』のせいです。ただの夢。だから忘れてください」
「うん、別にもうあの日に起きたことなんて気にしてないよ。過ぎたことだし。それより涼ちゃん」
そよは涼を抱き寄せ、満面の笑みを浮かべる。
「きゃっ!? そ、そ、そ、そ、そよちゃ……あうあうあう……!? 驚きハートで……!?」
抱きしめられて赤面した涼は、両手をバタバタと所在無げに振っている。
「涼ちゃん、本当にありがとう。仕事まで紹介してくれて。この世界には私なんかを助けてくれる人なんて誰もいないって思ってたよぅ。本当に本当に感謝してる」
そよが涙を流している。幸せそうに笑いながら。あたしが彼女の涙を見たのは、これが初めてだった。
「私の夢と未来を守ってくれたんだね。人間って良い所も一杯あるんだなって思えたよ。私、人間が好きになれた。だからこんなに、こんなにね――」
大粒の涙を流しながら、そよの言葉に嗚咽が交じる。
「笑顔になることができたんだよぅ……」
だからね、ありがとう。そう言って涙を零しながら微笑む彼女に涼は耳まで赤くして頷く。あの強制的に相手を和ませるような強力な笑顔は三年前のこの日に生まれたのか。あたしは感慨深い何かを覚える。
「うう……そよちゃんは笑ってるほうが眩しいです。そよちゃんが笑っていれば、みんなを元気にできるくらい素敵な笑顔なのです」
涼は、そよの肩を優しく抱き返し、涙を浮かべながらそう言った。
「そんな……そよちゃんの笑顔が大好きです……!」
そう言って涼も大粒の涙を溢れさせる。いつの間にか夕陽が差し込む病室の中で、泣きじゃくる二人の姿はどこか神聖なものに思えた。
「みんなを元気に出来る笑顔か~。それじゃ私は、ずっと笑っているね」
「つ、作り笑いは嫌ですよ」
「私は涼ちゃんが守ってくれた、私の夢と未来を絶対に諦めない」
「……え?」
「大丈夫だよぅ。今日の幸せを忘れなければ。きっと私は、ずっと笑顔でいられるから」
そよが、その言葉を言い終えるのと同時に『スクリーン』は暗転し、消滅した。
あたしは呆然としている涼へと顔を向ける。『スクリーン』に映っていた彼女同様、その瞳には大粒の涙を湛えている。
「忘れていました。そよちゃんを笑顔にさせたのは本当に私でした……。注意していなければ自らの記憶も勝手に映し出すので『スクリーン』は諸刃の刃なのです……」
手にした剣を落とし、涼は膝をつく。
「私は大切な親友になんてことを……」
地に伏せ、涼は泣きじゃくる。
「こんなことを、あたしに言われても苛つくだけかもしれないけどね。見直したわ、涼」
あたしの言葉に応えず、彼女はただ泣き続けた。
「涼。あたしも心底、あんたを助けたくなったわよ。あの眉毛犬が、どうしてあんたに拘るのか理解できた」
本当の本当に恩人なのね。命を救ってくれた恩人。夢を守ってくれた恩人。あたしは口下手だから上手く言えないけれど、本当に素敵な人だと思ったわ。二人の関係を守りたい。それが叶うならね、あたしが邪魔ならいつでも消える。元から、そうするつもりだったもの。でもその前にやることがあるわ。そよと涼の亀裂を少しでも埋める。あんなに素敵だった涼、あんたが変わった理由が理解できた。それは――
「ネメシア!!!」
あたしは右手を、そよに向かって素早く掲げる。倒れた彼女に向かい落ちてきた軽自動車大の岩石を青い炎が包む。
「アリス、お前! 力が使えないんじゃなかったのか!? 卑怯だろ!」
深く青い炎に包まれた岩は灰になる代わりに、サイネリアの花弁となり黒い霧の中に舞い散っていく。
「オレの岩が……!」
「あたしの力は煉獄の焔とは違う。触れる者、その全てを花弁と化し、虚空に呑まれ散り逝く花のように最後を迎えるのよ」
そう強がったものの、あたしにはまだ戦う力は戻っていない。そよが数体の『夢』を倒してくれたお陰で多少の力は行使できるが、あまり無茶はできないだろう。だがネメシアの岩石が、そよへ迫るのを察知した以上、そうも言っていられなかった。
「なんだよ、オレとやろうっていうのか? こそこそ隠れてやがったくせに」
「そよや涼を巻き込みたくないから、少し離れましょうか」
あたしは髪をかき上げ、宙に浮く岩に座るネメシアへと手を翳す。
「ち、ちくしょう……!」
必死の表情でネメシアは岩から飛び降りた。その瞬間、彼女が座っていた岩は青い炎に呑まれるように燃え上がり花弁となって散っていく。そして揺れる金色の髪から青い火花が舞い上がり、黒い霧に覆われた周囲を照らす。そよ達から遠ざかるように走るとネメシアは怒りをむき出しにした表情で追ってくる。
「……『悪夢』同士、決着をつけてやるよ、サイネリア」
池の見える石畳の通路に入り、あたしは足を止めた。離れてはいるが、そよと涼の姿もここからなら確認できる。あたしの力に巻き込む心配もない。
「そうね。美しい悪夢を迎えなさい、ネメシア。青き花園に舞う炎の中で」
――――いつも守ってもらっていたものね。今度は、あたしが守る番。
「何が悪夢を迎えなさいだ……! オレも『悪夢』なんだよ! 気取ってんじゃねえええええええええ!!」
そう叫ぶとネメシアは、小型だがナイフのように鋭い岩を周囲にいくつも作り始める。
「あら。ちっちゃなお友達を、そんなに引き連れて。遠足にでも行ったらどうかしら? ピクニックバスケットなら用意させてもらうわよ」
「気取って、ほざいてろよ、サイネリア!」
「違うわ。あたしの名前は冬花アリス。間違えないで」
あたしは両手を使い、後ろ髪をかきあげる。すると小麦粉の袋をひっくり返したように青く輝く火花が溢れだし、周囲を覆う。ホタルのように輝く火花はナイフを作り続ける彼女の回りにも到達した。
「これだけの数、燃やせるもんなら燃やしてみろよ! 穴だらけにしてやるさ!」
数えきれない岩のナイフ。それをネメシアは弾丸のように飛ばしてくる。
「無駄よ」
指を小さく鳴らすと周囲に漂っていた火花が、まるで引火した石炭の粉末のように一気に青く燃え上がり、ナイフとネメシアを巻き込み爆発を起こす。半径十メートル程を炎が覆い、激しい爆音が辺りの木々や池の柵を揺らした。
煙が収まると周囲を青い塵のような極小の火花が漂い、照明すらない公園の夜景を薄っすらと照らし美しく彩る。池に浮かぶ蓮が青い薄明かりの中、爆風が起こした小さな波に揺れていた。
前方の通路に倒れているネメシアは必死の形相で立ち上がり、あたしに憎しみの目を向けてくる。爆発の炎は一瞬で消えてしまうため、無数のナイフを一気に吹き飛ばせても彼女を消滅させるには火力が足りなかったようだ。火傷の代わりに全身の至る所が青い花弁に変化しかかっているものの、あれでは死に至らない。
「……強えぇ……」
「どうして、そよを狙うのかしら」
「今なら簡単に始末できるからさ! 涼も放心してるしな! あいつがいなきゃ、涼はオレだけのもんだ!」
「救いようのない、おバカね。滅べばいいのに。それより『夢』を壊すのが『悪夢』の仕事でしょう? 涼の『夢』を放置して、どうするのよ」
「涼の『夢』はオレのもんだ! オレだけの! その愛をオレに向けてもらうのさ! そよを始末してな! オレを愛してもらうんだよ!」
ネメシアは新たに五つの岩石を宙空に作り出し、その全てをあたしに向かって降らせてくる。
「無駄よ。何度も言わせないで」
あたしは片掌を空に向け、軽く息を吐く。
「……くそ……邪魔すんなよ、サイネリアぁぁ!!」
全ての岩は、あたしに触れることなく炎に包まれ、無数の花弁に変わると辺り一面を美しい青で染めるかのように舞い降りる。そして地に触れた花弁は儚く消えていった。
「お前だってヘタレて仕事を放棄したんだろうがぁ! ふざけんな!」
「違いないわ。あたしも本当に救いようのないバカよ。滅べばいいのにね」
『夢』を壊し続けていればよかった。そうすれば翼の『夢』は、あたしが倒せた。そよはナイトメアにならずに済んだ。あたしと出会い一緒に暮らすこともなかった。
涼が病んでしまう後押しにならずに済んだ。
「涼! いいのかよ! お前の大切なお姫様を、あの性悪『悪夢』が守ってるんだぞ!?」
ネメシアの言葉に、泣き崩れていた涼は肩を強く震わせる。
「このままじゃ、お前はただの悪役だ。いいのかい? 大好きな、そよちゃんを取られちゃうぞ?」
ゆっくりと顔を上げた涼の目に光はない。
「いい加減にしなさいよ、ネメシア!」
「おっとっ!」
ニヤける『悪夢』を青い炎で包むべく掌を向けたが、彼女は姿を隠せる程の岩石を作り出し、あたしの攻撃を防いだ。青い炎は掌を向けた先にある対象を自由に燃やし、灰にする代わりに花弁へと変える力だ。しかし、その間を何かで遮られると、代わりにその遮った物を燃やしてしまう。
全力を出せるなら岩ごと散らしてやれるのに。
ネメシアは炎を防ぐと同時に涼の側へと駆け寄り、彼女の隣で膝をつく。
「オレが言ったろう? そよはもう始末しちゃえよ。あいつの隣は埋まってるんだ。命ごとさ、もぎ取らなきゃ返ってこないんじゃないかなぁ」
彼女は涼の耳元で囁き、そよを指差した。
――こいつ……涼に、そよを……!
ネメシアは、こうやって徐々に徐々に涼の心を侵食していったのだろう。『スクリーン』で見た限りでは三年前から二人は一緒だったようだ。三年も涼は、この『悪夢』に心を揺さぶり続けられたのか。
「……私……あんなに酷いことを……そよちゃんは許してくれないのです……」
「涼は、そよを守るためにナイトメアになったのにさ。可哀想だよなぁ。あいつを守るのは、お前の役目だろ? ほら早く行って夢を取り返してこいよ。自分だけのものにしたいんだろ? 違うか?」
「……でも……」
「そよを殺せ」
ネメシアを黙らせようと炎を生み出そうとしたが全身に激痛が走り、あたしは片膝をつく。
「殺さなきゃ、そよはアリスのものだ」
「ああああああああああああああああ……!」
涼は絞りだすような悲痛な叫びを上げ剣を抜く。ステージで聞いた、あの叫びのように。そよに向かい、撃ちだされた弾のように駆ける涼。その眼は殺意と狂気に染まっている。剣を強く握りしめて。
二人の間に割って入りたくても弱り切った体で力を使った代償は想像以上に大きかったようで、手足がうまく動かない。足は震え、きっと亀よりも遅い。このままじゃ間に合わない。これ以上の無茶を拒絶するかのような全身の激痛を、意志の力を総動員し無理やりねじ伏せ、そよと涼の間に掌を向ける。彼女達の間に大きな大きな炎が上がり、涼は驚愕の表情を浮かべ足を止めると後退った。燃やされた地面は僅かに抉れ、火の手が収まると青いサイネリアの花弁が辺りを彷徨い落ちてくる。漂い舞う薄っすらと青く光る花びらの中で涼が、あたしを凝視していた。
どんな感情を浮かべているのか分からない。嫉妬なのだろうか。憎悪なのだろうか。羨望心なのかもしれない。右手に目を向けると所々が削れるように少しずつ青い粒子になり宙へと溶け消え始めている。『夢』から奪った夢の力はネメシアとの戦いで使い果たした。もはや人間としての体を維持するために使っている力を無理矢理にでも絞り出すしか青い炎は生み出せなかった。
目眩が酷い。情けないわ、まっすぐ歩けやしない。
「なんだ? もう限界みたいだな? さっきの炎も派手だったけどさ、地面は表面が花になって消えた程度だ」
ふらついている私を目にして強気になったのか、ネメシアは余裕の薄ら笑いを取り戻したようだ。実際に限界なので強気になられても調子にのるなとは言い難い。
「限界かもね」
「だったら、とどめを刺してやるよ、サイネリアぁぁ!!」
そう叫んだネメシアが再び、岩のナイフを生成し始めるのと同時に、あたしは彼女に掌を向ける。
「お前……限界って」
青褪めたネメシアよりも青い炎が彼女を包む。
「この嘘つきがああああああああぁぁぁぁ!!」
「限界はね、越えるためにあるのよ」
炎に巻かれ絶叫を上げ、のたうち回りながら彼女は池の中へと落ちていった。生憎、あたしの炎は水中でも真空の中ですら力の続く限り消えやしない。炎に見えるが炎ではない。燃やす対象を花びらへと変える、ただそれだけの力なのだから。
「ネメシア。あんたを焼き尽くす力は残っていないから助かるかもね。でも岩石生成及び操作の能力は、しばらく使えない。私の炎に耐えるため、そして体の修復に夢の力を全て回さないと、あんたは消えるから」
あたしは腹に刺さっていたネメシアのナイフを抜き、池に投げ捨てる。
「ネメシア滅びたくなかったら、おとなしく池の底でヘドロとお友達になってなさい」
白いエプロンドレスが赤く染まっていく。
真っ赤な血。そよが見たら喜ぶかもしれないわね。いいえ。それはないか。悲しむわね。優しい子だもの。
あたしはネメシアの落ちた池を一瞥すると涼の方へと体を向ける。
「夢を叶えようと必死な人間は、いつだって己や他人の敷いた限界を越えているのよ。そんな人達を守りたい、それがやっと出来た夢。あたしだけの夢」
そよの夢。その願いを守りたい。
「だったら限界くらい越えないとね。あたしは尊厳溢れるクールでニヒルな『悪夢』。人間に出来るなら、あたしにもできる」
軋む体を引きずるように精一杯の速さで足を進める。幸いなことに炎を警戒しているのか涼は動かない。お陰で、あたしは彼女達の間に立つことが出来た。意識が朦朧とする。
「もういいでしょう、涼」
彼女は地を蹴り、剣を振りかざしながら駆け寄ってくる。涙を溢れさせながら。
そんな涼に微笑み、あたしは両腕を広げ彼女を抱き止める。
「涼、あんたのこと助けたいって言ったわよね」
胸に鋭く激痛が走った。だが、そんなもの今はどうでもいい。
「だから、あんたが大切に守ろうとしていた宝石を壊させはしない」
涼は抵抗もせずに抱かれるまま、肩を震わせている。
「そよを傷つけて自分も傷ついて。悲しいだけじゃない。あんたはあんなに優しい子だったのに」
分かるわ。あんたの気持ち。大切になれば大切になるほど全部が欲しくなる。あたしも、そよと涼の関係が羨ましいと思った。知り合ったばかりのあたしには入り込めない絆があるって。そよのことを好きになる程、苦しくなった。
「涼。大切な人とは傷つけ合うよりも笑い合う方が何億倍も素敵よね。心の底から慕っていても一緒にいられる時間は限られているもの」
そよはこの一ヶ月、あたしに沢山のものを与え、そして教えてくれた。何かに努力する素晴らしさ。諦めない勇気。前向きに夢に向かって頑張っている人の輝き。何より、笑い合う素敵で幸せな時間。笑顔の大切さ。あの子は、あたしを笑顔にしてくれた。あんなに楽しい時間は生まれて初めてだった。
だからね、そよには笑顔でいて欲しい。彼女を笑顔にできるなら側にいるのは、あたしじゃなくてもいい。ずっと側に居たかった。でもね、あたしに沢山の笑顔をくれた、あの子を幸せにしてくれるなら誰でもいいのよ。あたしはそばにいなくてもいい。もう充分、大切なものはもらったから。
「そよの所へ戻って。そして笑顔を見せてあげて欲しい。あたしはもう邪魔しないから」
……お願い。ぼやける視界の中で最後にそう呟くと、あたしの意識は闇に呑まれていった。
暗い水で満たされた大きな金魚鉢の中を私は砕けた硝子と一緒に漂っていた。あちこちにチクチクと刺さる硝子の痛みに耐えながら、金魚鉢の外には何があるのか思いを巡らせる。時折、差し込む光を反射した硝子の破片に映るのは誰かの顔なのだろうか。悲しい顔。怒った顔。色んな表情をしている。不思議な喪失感を憶え、私は身を捩る。大きく動いたせいか鋭い硝子が刺さる鋭い痛みが走ったが、水中を染めるように溢れ出す赤い宝石が美しく、その深紅に私は目を奪われる。気が付くと私は金魚鉢の底まで沈んでいた。
その時、誰かの声が聞こえた気がした。懐かしい声。辺りには私から流れる赤い液体と暗い水、そして半透明の硝子。それが目に入る全てだ。誰もいない。それでも声は聞こえてくる。それはどうやら金魚鉢の底から聞こえてくるようだった。私は硝子が積もっている底に耳をつけ目を閉じる。
涼ちゃん、ありがとう。退院祝いのマフラー、血の色みたいに真っ赤で気に入っちゃったよぅ。大切にするね。手編みなんて嬉しいよぅ。え? 血の色みたいなんて物騒なこと言うって? マフラー何色が良いかって聞かれた時に血の色って私が言ったから、この色にしてくれたんでしょ? だったら血の色だよね。とっても綺麗だよ、ありがとうっ。
ねえ、涼ちゃん。私の夢は不思議の国のアリスみたいな、ずっと残る作品を創りたい。それだけを目指してたけれど、その先の夢も見つかったんだよぅ。もし、私の作品がいつかテレビアニメやドラマで映像化できたらね、その主題歌を涼ちゃんに歌って欲しいの。どうかな? え? それを二人の夢にしようって? うんっ。うんっ! それいいね。そうしよう~。よーし、このマフラーに誓っちゃうよぅ! 夢が叶うまで、このマフラーは外さないっ! 涼ちゃんは何に夢を誓う~? あ、私があげた指輪? いつも大切に浸かってくれてありがとう。よーし、涼ちゃんっ! これからも二人の夢を目指して一緒に頑張ろうねっ! 一人じゃないよっ!
涼ちゃん、私、初めてのお給料貰ったんだ。お仕事で小説書くの難しいね。でも楽しかった! お仕事くれて、ありがとう。生活厳しいけれど、でもなんとかやっていけそうだよ。
涼ちゃんのファンだっていう、イギリス人の歌手いるよね! あの人に涼ちゃんが私の書いた絵をプレンゼントしたの覚えてる? あの歌手さんが私の絵を有名なオークションに出品したらしくて! なんかね、すんごい高値ついたの! お陰で絵を描いてって注文が沢山来たよう! 生活費、どうにかなりそう! 本当にありがとう! もう涼ちゃんには頭が上がらないよね。なんでも言うこと聞いちゃうよぅ。え? うん、なんでも。私に出来ることならなんでも。え……? 犬の鳴き真似して欲しいって~……っ!? うぅ……わんわんの真似は涼ちゃんの役割だったのになぁ……。いいからやれって? ……分かったよぅ。わんわんっ……! わんわん!
ずっと一緒に。ずっと一緒に。一緒に夢を目指して頑張ろうね、涼ちゃん。
――私はですね、そよちゃん。あなたと一緒に追いかけていた夢なんか、どうでも良かったのですよ。心の底からどうでも良かった――――
「ああぅ……っ! う、うぐっ……」
私は布団を跳ね飛ばして飛び起き、思わず両腕でファイティングポーズを取る。
赤と白のチェック柄の布団に赤いシーツ。私の部屋?
どうやら夢を見ていたようだ。ベッドに腰を掛け、乱れる呼吸を落ち着かせるように深呼吸し、私はついでに伸びをする。
「夢かぁ~。ふわぁぁ……。なんだか悲しい夢を見てた気がするよぅ。わんわんっ」
「まだ夢からは覚めていないわよ、そよ」
「あわわ……!?」
背後から急に声をかけられ、私は激しく狼狽した結果、欠伸していた口を慌てて閉じてしまい舌を噛んでしまった。実に痛い。腰を捻り振り返ると、ベッドの向こう側にはアリスが立っていた。
「専属『悪夢』に断りもなく悪夢を見るなんて。浮気かしら。滅べばいいのに」
「え、えへへ。私の『悪夢』はアリスだけだよぅ。もしかして怖い夢から助けてくれたのはキミかな?」
アリスは髪をかきあげながら、その通りよ、と得意気に言ってのけた。子供っぽくて実に愛らしい。
「差し支えなければ、こっちに来て座りなさいよ。紅茶の支度ができているわ。好きでしょう? ティーパーティー」
アリスの言葉通り、彼女の背後には大きなテーブルがあり、その上にはティーポットやケーキスタンドや過敏に燭台が並んでいる。よくよく見てみると、ベッドは森の中の開けた場所にあり、回りを草花で囲まれていた。花は歌い、蝶は喋っている。まるで不思議の国にある森の中にいるようだ。
「ほんとだ~。夢の中だね、ここ。この場所でキミと会うのも久しぶりかなぁ」
「久しぶりかもね。ほら、マカロンも紅茶もたっぷりあるわよ。いつまでもベッドの上で呆けているなら、あたしが全部食べてしまうけれど」
そう言うとアリスは長テーブルの中央に座り、マカロンを頬張る。
「ま、待ってぇ~。お腹ぺこぺこだよぅ~。わんわんっ!」
私は慌ててベッドから離れアリスの隣へと腰掛けた。
「ど、どうして、あたしの隣に座るのよ。向かい側に座ればいいじゃない」
「できるだけ近くにいたい。なんでだろうね、今はそうしなきゃいけないって思うんだ」
「……そう。そういうことなら構わないわ。好きにして。あたしもあんたの近くにいると心が安らぐもの」
頬を染めながら目を逸らし、照れくさそうにそう言ってくれるアリスを私は心から可愛らしいと思う。
「えへへ~。本当? ありがとう。嬉しいよ、アリス。わんわんっ!」
「ありがとうは、こちらが贈るべき言葉よ。あんたには本当に感謝しているわ」
アリスはそう言うと目を細め、優しい表情で笑ってくれる。彼女は良い笑顔をするようになった。一緒にいて心が暖かくなる。
「そよ。あなたと話していると心地よくて。本当に優しくて。まるで女神のように思っているわ」
「め、女神!? どうしちゃったのぉ~っ!? 褒めてくれるのは嬉しいけれど、アリスらしくないよぅ!? ほらほら、眉毛の太い眉毛犬だよぉ~? いつもみたいに罵ってよ~!?」
眉毛を両指で突きながらそう言うと、アリスは紅茶を吹き出しかけ苦笑する。
「罵ってよって。あんた、そういう趣味でもあるのかしら……」
「な、なんで!? 違うよ、そうじゃないよっ! でも、どちらかといえばアリスのほうが、からかわれて喜んでそうなイメージだよね、わんわんっ」
私の言葉に彼女は今度こそ紅茶を少し吹き出し咽せ始めた。
「げほげほっ……! どうしてそうなるのよ!? 私が、えむっぽいとでも言うのかしら!? 変なこと言うから紅茶が器官に入ったじゃない……。滅べばいいのに!」
「えへへ~。楽しいね。マカロンも美味しいし。紅茶も美味しい。幸せだよぅ~」
「……もう。その笑顔を見せられたら何も言えなくなる。ずるいわ」
アリスは頬を膨らませると、マカロンを一口齧る。
「このマカロンもそう。紅茶も。この一ヶ月、色々な食べ物を私に食べさせてくれたのは、もし夢の中で食べ物が出てきても味がわからないと私が寂しい思いをするから」
彼女の言う通りだったので私は素直に頷く。
「マカロンの味を知ったから、夢の中で食べても味が分かる。本当に美味しいわ。紅茶の香りも分かる。チョコレートだって美味しい。全部あんたが教えてくれたから」
テーブルに乗せた私の腕にアリスはそっと手を重ねる。
「そういう優しさや気遣いを、あんたは主張しない。でもあたしには全部伝わっているの」
「アリス、本当にどうしたの? なんだか、とっても照れくさいよぅ……」
熱くなった頬を指で掻いていると、アリスは微笑みながら隣に座る私の肩にゆっくりと頭を預けてきた。
「想いは伝えられる時に伝えないと後悔するもの。明日が来るとは限らないから」
「明日は来るよ。ずっと一緒だって約束したもん」
「そうね。約束。したものね」
「うん。これからもずっと一緒。アリスはね、一人じゃないよっ」
私の言葉にアリスは幸せそうに笑って頷くと、私の肩から離れて席を立つ。
「アリス? どこへ行くの?」
「そよ、分かっているでしょう? そろそろ起きないと大切な人を取り戻せなくなるわ」
アリスの言葉で理解できた。私がどうして夢の中にいたのか。
「涼のこと、悲しかったのよね。でも、あんたは今まで何事も笑顔を絶やさず、必死に前を向いて頑張ってきたもの」
彼女は私の手を握ると優しい声でそう言った。
「少しくらい座り込んでも誰も責めやしないわよ。でもそろそろ立ち上がらないと」
私はきっと親友の言葉に傷ついて夢の中に逃げ込んでいたんだ。アリスはそんな私を責めもせずに優しく迎えに来てくれた。
「頬を引っ叩いてでも涼を連れ戻して。そして彼女の『夢』を終わらせてあげて」
「うん。アリス。私、頑張るよ」
立ち上がった私の背中をアリスは軽快に叩き、頬にキスをしてくれた。
「あ、あ、あ、あり、ありしゅ!?」
「耳まで真っ赤にして本当に可愛い子ね」
「あ、あうぅ…………な、何言ってるのぉ……もぉもぉ」
「あんたは最高のナイトメアよ、親友」
「アリスも最高の『悪夢』だよ……」
アリスは私を押し倒す勢いで抱きついてくると、耳元で小さく囁いた。
「頑張って。大好きよ、そよ」
あんたも一人じゃないわ。
アリスが、その言葉を言い終えるのと同時に世界が光に包まれた。
小さな女の子達の笑い声。緑と土の香り。目を開くと、空は黒く周囲は黒い霧に包まれていた。
どれだけ気絶していたのだろう。涼やアリス達はどうなったのか。私は木の根に頭を預け意識を失っていたらしい。体はどこも痛まない。それどこから全身に力が漲り溢れてくるようだ。暖かくて、そして優しい力。どうやら体は自由に動くようだ。私は立ち上がり、周囲を見渡しながら体についた土や埃を払う。
「夢から覚めても、まだ『夢』の中。変な感じだよぅ~」
視界に人影を捉え、私はそちらに向かい足を進める。黒い霧のせいで視界は悪いが、それは立ち尽くしている涼と、その耳元で背後から何かを喋っているネメシアのようだった。そして涼が呆然と見つめる視線の先には倒れている少女の姿があった。
「アリス」
私は血溜まりに倒れるアリスの側へ駆け寄り片膝をつく。彼女の胸を涼が使っていた剣が貫いていた。綺麗な血の赤。いつもなら見惚れてしまう、その色すらもどうでもよくなるくらい頭の中はアリスのことで一杯だった。
「どうして」
彼女の体は少しずつ青い光の粒子へと変わり、今にも消えてしまいそうだ。儚げな砂の楼閣が風に飛ばされて崩れ去るように。
「アリス。アリス。私は起きたよ。アリスも起きてよぅ」
揺さぶりたかったが、そうすれば彼女が崩れてしまいそうで出来なかった。
「どうして、アリスが……こんな」
精一杯優しく触ったつもりだったのに私の手が触れた瞬間、彼女の全ては花火が散るように青い光の粒となって消えてしまった。指先には青い火花が力なく輝き、やがて光をなくして消滅した。まるで最後を迎える線香花火のように。
まだ周囲を漂っている青い火花の優しい光だけがアリスの残してくれた最後の温もりのようで私の心を締め付ける。
「もっとバニラアイス、食べさせてあげれば良かったなぁ」
間近に立つ涼を見上げ、私は微笑む。彼女は私と視線が合うと弾けるように後退った。
「アリスは本当に良い子だったんだよ。気を遣ってくれる優しい子で。なんにでもすぐに名前を書いちゃう子で。お豆腐にまで書こうとしてたよ。寂しがり屋のくせに私がお仕事してると我慢して一人でゲームしてるの。でも一人で遊んでるように見せかけて、じっと私のこと見つめていて。視線に気がついた私と目が合うとアリスは真っ赤になっちゃって。そうやって私が構ってくれるのを待っててくれたりね。凄く可愛かった」
私は立ち上がりマフラーに触れる。
「それに面白い子で~。バニラアイスが大好きで。計画性ないからお小遣いあげたら、本能の赴くままにアイス食べたりゲーム買ったりで。あっと間に使っちゃって。でもね、アリスは来月から、しっかりと計画的にお小遣い使うって言ってたの」
私はそう語りながら、ゆっくりと涼達へと近づく。近づく度に彼女達は後退り距離が離れていく。
「もうお小遣いもあげられない」
マフラーが輝き、私の全身を青い光が包む。
「『青い風』。フォーム『アリス』」
いつも目にしていた当たり前の青いエプロンドレス。アリスが、ずっと着ていたものと同じドレスを私は纏っていた。アリスのように髪が伸び、アリスのように大きなリボンを付けている。
「青はアリスの色なの。だから――」
髪は元の白に戻り、青かったドレスは血が滲みだすかのように徐々に深紅に染まっていく。
私の色は赤だよね、アリス。一緒に戦おう。
「『七色の風』。ナイトメア・クリムゾン」
「赤い……アリス……」
七番目のフォーム『アリス』は『悪夢』が夢の中にいる状態でしか使えない。全ての力、そしてアリスの力を同時に使える最強のフォーム。彼女が消滅してしまった今、本来は使えるはずのないフォーム。いや、それどころか『悪夢』が消滅したならナイトメアにもなれるはずはない。
でも今はアリスが残してくれた力があるから。
「こ……殺せ、涼……あいつはぁ……アリスを殺したお前を許してはくれないぞ……」
ネメシアはアリスがそうだったように今にも青い粒子に変化して崩れ落ちそうだ。息も絶え絶えにといった姿をしている。
「殺せ……!!」
その叫びに背中を押されるように涼は涙を溢れさせながらも、こちらに向かって影法師を繰り出した。
「そっか。ネメシア、キミが涼ちゃんを、そうやって」
「涼を……追い込んだのは、お前だろうが!」
「うん、そうだね~。だからキミだけが悪いとは言わない」
私は微笑み、剣を構え突進してくる影法師を見つめる。私のシルエットを象る、涼が創りだした影絵のような少女。彼女の放つ突きを私は指先で受け止める。剣は指に触れた瞬間、鮮血のような赤い炎に包まれ、同色の花弁となり消滅した。そして剣から伝わるようにして影の少女を炎が包み込む。
「でもね、ネメシア。私はキミが気に喰わない。涼ちゃんのためとか、正義のためとかじゃなくて、私がすっきりするためだけに――」
私は炎に包まれ藻掻く影絵の少女の首を掴み、地面へ激しく叩きつけると彼女は赤いヒヤシンスの花びらとなり砕けるように散っていく。
「――お仕置きさせてもらうね」
「……や、やれ、涼ゥ!!!」
涼はネメシアの言いなりに、剣を使い空にフリージアを描き始める。
「挫き尽くせ! シャドウ・フリージア!」
「その技、とっても痛かったなぁ」
そう囁き、私は右掌に息を吹きかける。掌に、まるで大量の花弁があったかのように、赤いヒヤシンスの花が飛ぶように舞う。そして次の瞬間、花を伝わるように炎が燃え上がり、全てのフリージアの花弁を焼き尽くす。竜の吐息のように。
炎をかわした涼は、続けて四本の剣を投げつけてきた。私はエプロンドレスのポケットから長い杖を取り出し、右手で強く柄を握る。
「黒い木枯らし。千枚おろし」
黒い閃光が走ると同時に、涼の剣は私に触れることなく塵と呼べるサイズに斬り刻まれ砂のように散っていく。私は手にした刀を回転させ、仕込み杖の鞘へと収めた。
「な、何をしたんだ!? それより、どこから取り出したのさ……! ポケットに入るサイズじゃないだろ!」
ネメシアの言葉には応えず、私は杖を投げ捨て、そのまま左腕を回転させる。すると左腕を蛇が這うように五本の赤い鎖が現れ、そして腕の動きに合わせて轟音をあげながら渦を巻く。
「赤い殲風。千億斬首」
「その技は飽き飽きしてるのですよ……! シャドウ・ブライト!」
溢れだす赤い鎖と刃を、涼は全身を霧に溶かしたかのように姿を消し避ける。あの瞬間移動のような力だろう。五本の鎖を腕から切り離し、素早く振り返ると背後には剣を振り上げた涼の姿があった。しかし、その剣は虚しく空を裂く。
「白い疾風。懐中時計。同じ罠にはかからないよ、涼ちゃん」
『白兎』の力を使い涼の斬撃を避けるのと同時に、私は彼女の背後に回りこむ。そして空を割るかのような蹴りを彼女に放ったが、あの瞬間移動のような能力で避けられてしまう。だが何度繰り返されようと、涼の転移先へと私は回り込む。
「……シャドウ・ブライトについてくる速度ですか!」
「不思議の国で『白兎』は追いかけても追いかけても追いつけない子なのに。これじゃ、あべこべだよぅ~。わんわんっ」
「……大切な友人を私は手にかけたのですよ。……こんな理不尽。怒らないのですか? 悲しくは……ないのですか?」
「ううん。悲しいし少し怒ってるよ。怒るのは生まれて初めてかも」
「だったら、どうしてそんなに笑顔でいられるのですか……! どうして私を責めないの……! 私は……憎まれても仕方がないのに。悲しいなら泣けばいいのに……」
「今泣いちゃうと止まらなくなりそうだから。泣くのは戦いが終わってからでいい。それに――」
私は涼を追うのを止め、彼女に微笑みかける。
「アリスが命を落としたのは、お節介に付きあわせた私のせい。ここに来たのも涼ちゃんを助けたいっていう自分の欲求を満たすため。だから全部自己責任。アリスも危険を覚悟でここに来た。涼ちゃんを責めるのはお門違いだよね」
「そんなこと……」
「憎しみをこめて親友と戦うなんて嫌だよぅ。大切な人とは傷つけ合うよりも笑い合ってる方が何億倍も素敵だもん」
涼は目を見開き、動きを止めると涙を溢れさせる。
「その言葉、あの人も同じこと……。私……アリスさんを……なんて取り返しのつかないことを……」
「涼! 何を丸め込まれてるのさ! 早くそいつを殺――」
「ネメシアさん。私は『他人』の価値観に口出しするのは苦手だけれど~」
私は苦笑しながら、エプロンドレスのポケットからフラミンゴを取り出す。足を掴まれた桃色の鳥は奇声を上げ嘶く。
「キミ、ちょっと煩いよぅ」
更にポケットから小さなチーズ片を取り出し、フラミンゴの口へ放り込む。
「なんだよ、それ……」
チーズを食べたフラミンゴの脚は電信柱のように太くなり、その体を巨大な象のような大きさへと変化させる。象サイズの怪鳥は耳を裂くような嘶きを上げた。その衝撃で木々が震え、水面が波打つ。
「な、なんなんだよ、それ……!!!」
こちらに背を向け逃げ出そうとするネメシアに私は笑みを送り、丸太のようなフラミンゴの脚を片手で掴みゴルフのスイングをするかのように振り上げる。
「飛んでっちゃえ」
「やめろぉぉ!! オレはネメシア様なんだぞ……ぐぅぅうぎゃうああ」
ネメシアは叫びを上げながら、鳥の頭に叩き飛ばされゴルフボールのように夜空に飛んで消えていった。
「ナイスショットっ。お仕置き完了ぅ~。あの子を飛ばすの二回目だねぇ」
脚から手を離すと巨大フラミンゴは羽ばたき、ネメシアを追うように夜空に向かって飛んでいった。
「不思議の国でアリスがフラミンゴでしてたのはクリケットだけれど、私ルールを全く知らないんだよね。そのうち勉強してみようかなぁ~。わんわんっ」
涼の方へと向き直ると彼女は涙で目を腫らしながらも、震える手で二本の剣を私に向け構えていた。親友の友人を手にかけてしまったのだ。涼は、もう引っ込みがつかないのかもしれない。
頬を引っ叩いてでも涼を連れ戻して。だったね、アリス。この涼ちゃんの壮大な、駄々こねを終わらせてあげなきゃ。
「私達、今日は初めての喧嘩をしちゃったね」
「これが喧嘩……ですか」
「私達は敵でもなければ仇でもない。ただの友達同士がしてる喧嘩だよぅ」
アリスが命がけで止めようとしてくれた喧嘩。ちゃんと終わらせなきゃ。
「涼ちゃんが私のことで、あんなに悩んで苦しんでたなんて知らなかった。私は自分に向けられる好意に鈍感だから」
ごめんね。私はそう呟きながら腰を落とし身構える。
「喧嘩の決着をつけよう。どっちが勝っても終わったら仲直りで恨みっこなし。それで良いよね、涼ちゃん」
「……許してくれるのですか」
「許すも何もないかな。私は最初から涼ちゃんを迎えに、ここへ来たんだよ」
「そよちゃん……」
「さあさあ。構えて、ナイトメア・エンゲージ! 手加減しないぞぅ~」
「は、はい! 行きますよ、クリムゾン!」
私と涼は互いに向かって同時に駆け出す。迷いのない鋭い斬撃。影法師をあしらったように、指や素手で剣を止められる気がしない。これが本来の涼の動きなのだろう。
なんだ。やっぱり私を傷つけるのは躊躇ってたんだね、涼ちゃん。
黒い霧と共に消え、霧共に現れる。涼は何度も姿をくらましては出現を繰り返し斬撃を繰り返してきた。全ての斬撃を今の私は苦もなく避けられるが、こちらの攻撃も当たる前に姿を消されてしまいお互い決め手に欠けている。
当たらない剣を必死に振るう涼が、お母さんに駄々をこねる小さい子のようで可愛らしく思えてきた。
「アリス。そろそろ、この喧嘩もお終いにするよ」
私は両指を後ろ髪に差し込み、流れるように髪を梳く。髪から青いキラキラと輝く大量の火花が溢れだし、見渡す限りの空間を一気に満たす。
「歯を食いしばって、涼ちゃん。これはビンタのかわりだから」
アリスから受け取った希望と夢。この光の粒子はアリスの力だ。
キミの力、借りるね。一緒に涼ちゃんを連れて帰ろう。
涼は瞳を閉じて涙ながらに微笑んだ。
「青い轟風。蒼玉崩し」
私はそう呟き、指を鳴らす。
地平の先。街一つを呑み込むかのように辺りは青い爆炎と轟音に包まれた。
「あ、いたいた。涼ちゃん、こんな所まで飛ばされちゃってたんだね~。わんわんっ」
自然公園の敷地内にある人工の川。その上を渡る木組みの橋の上に、白いワンピース姿の涼が仰向けで倒れていた。微かに水流の音が聞こえる。
彼女は爆発でダメージを負ったのだろう、普段の姿に戻っていた。所々に軽い怪我を負っているようだが、特に酷い傷はない様子で私は安堵の息を漏らす。彼女は私の起こした爆発により数百メートル先まで飛ばされて、この場所に落下したのだ。私は吹き飛ばされた涼を追ってここに来た。
「……体中が痺れているのですよ」
「私も涼ちゃんのお花攻撃を受けた時は同じだったよぅ。変身が無理やり解除されるくらいのダメージを受けると動けなくなるよね。痛い? ちょっと、やり過ぎちゃったかな」
「私が、あなたにしたことに比べたら……この程度なんて。本当にごめんなさい……」
「ほらほら、もう暗い顔しないの。喧嘩が終わったら仲直りだよぅ。笑顔笑顔」
きっとアリスも、そう望んでいる。ぎこちない笑顔で涼は私の言葉に応えた。
「ナイトメアって丈夫だよね~。多分、耐えてくれるかなーって思ってたけれど、予想以上に怪我が少なくて良かったよぅ」
私は倒れている涼の隣に座り、彼女へ笑いかける。
「アリスの必殺技って狙った相手以外を燃やさないの。あの子らしい優しい技」
爆炎は優に街一つ分を覆い尽くす程、広がったはずなのだが公園の木々や公共施設に傷一つついていない。炎は疎か爆風の影響すらないようだ。
「本当に優しい子でした。『悪夢』とは思えないのです」
「涼ちゃんの『悪夢』は濃かったからね~。もう二度と会いたくないな~」
私もです。そう言って涼は久しぶりに彼女らしい柔らかい笑顔を見せてくれた。憑物が落ちたように。
「涼ちゃん。私は私の夢と未来を諦めない」
「え?」
ぽかんとする涼を私は抱き上げる。
「え? え? そよちゃん!? お姫様抱っこ!?」
「涼ちゃんの『夢』に決着をつけに行こう」
黒い霧に覆われた公園。辺りを笑いながら駆け回る影絵の少女達。
まだ涼の『夢』が残っている。
「これから私はキミの『夢』の本体を探す。一緒に来る? 体が辛いなら、どこか安全な場所へ」
「一緒に行きます」
涼の答えに私は頷くと同時に、私は空を走るように駆け出す。
「本体の居場所になら、心当たりがあります」
「さすが、『夢』の創造主。助かるよぅ~。どこにいるのか全く見当つかなくて、わんわんみたいに匂いで探さなきゃいけないかと思った。今、闇雲に走ってるからねっ」
『夢』の広げた空間に呑まれた静まり返った住宅街。民家の屋根伝いに、私は飛ぶように走っていた。適当に。
「あ、相変わらず、そよちゃんは慎重なのか大雑把なのか分からないのです」
「慎重で大雑把なんだよぅ~。わんわんっ」
そして今は『夢』の本体と、いよいよ対峙するという強い想いが私の高所恐怖症を潜在意識の奥に追いやって高い場所の恐怖は薄らいで――――
――薄らいでいたが、今自分が高い場所にいると意識したら怖くなってきてしまった。私は恐怖を振り払うかのように首を振り必死に走る。
「そよちゃん……怖いのですね。高い所が苦手なのに無茶をするから……」
「う、うぐぐ……。でも大丈夫っ! それよりも本体は、どこにいるのかな?」
「そ、それは……」
私の問いに何故か涼は頬を赤らめ、言い淀んでいる。微笑みながら首を傾げると彼女は咳払いをして話の続きを口にし始めた。
「あなたと通いたい……そう願っていた憧れの学校」
「百合花学園」
「その通りです。もしくは……」
今度は表情を曇らせ、彼女は言葉を一旦切り息を吐く。
「……そよちゃんの家です。きっと本体は、そのどちらかにいます」
アニメのエンディングに流れる曲は悲鳴で掻き消された。
本編を見終えた京子はソファーに寝転がり、目を閉じながらエンディング曲を聞きつつ、今回の展開について思考を巡らせていた。
そよと涼の友情。お互い歪ではあるが大切に想い合っていた。それを邪魔して壊したのは、やはりあの『悪夢』アリスかもしれない。
「アリスが邪魔だって思ってたんだよな、このアニメ。消えてくれて良かった」
そう呟き、瞼を開くと京子は絶叫した。虚ろな目をした黒髪の少女の顔が眼前に浮かんでいたからだ。いや、浮かんでいるわけではない。彼女はソファーの後ろから覗きこむようにして、こちらを穴のような漆黒の瞳をこちらに向けていた。恐怖のあまりソファーから転げ落ちるようにして、その場を離れる。
「な、何が起きてるんだよ! 私、どうかしちゃったの……!?」
必死に家の外へと飛び出し振り返ると、玄関には黒髪の少女が京子を追うかのように立っていた。
「なんでついてくるの。私が何したっていうの……!」
怖い。この家は呪われてたのだろうか。あのアニメを見てから世界がおかしい。どこか歪んで狂い始めている。こいつのせいなのだろうか。こいつがいなければ、また平穏な日常が戻ってくるのだろうか。そうか、こいつは――
「お前は私の『悪夢』なんだろ……! 翼さんみたいに、私もどこかへ連れて行くつもりなんだろ!」
そう怒鳴り京子は近くにあった棒きれを手に取り、少女を威嚇するように振り回す。
「そんなことさせない。私は大好きな人と、この世界で一緒に幸せになるんだ……!」
今日は叫びながら少女に向かって棒を振り下ろす。
大好きな人? 誰だっけ。
凶器は少女に当たる瞬間に折れて、どこかへと飛んでいった。何が起きたのかと目を白黒とさせていると目の前には憧れていた、あの人の姿があった。
「あなたは……そよちゃん……? どうしてここに」
「私の言葉、届いてるかな? わんわんっ」
そよの問いに京子は頷く。
「え? 聞こえますけど……」
憧れのアニメキャラ。どうして現実の世界にいるのだろう。わけが分からないが憧れの人が相手なので、つい敬語になってしまう。
「驚いてるよね。キミにとって私はアニメの世界の登場人物。突然、アニメの中の人が目の前に現れたら、私だって驚くよ。混乱しちゃって、何が起きてるの!? なんで!? どうして!? 分からないよぉー……! って叫ぶかも」
おどけたように喋る優しい笑顔のヒロイン。その微笑みは恐怖に染まっていた私の心を癒していく。
「とっても驚きました。そよちゃん、どうしてここに…………あっ」
質問の途中で京子は気づく。そうか。彼女はアニメの世界から自分を助けに来てくれたんだ。
「……そよちゃんは私を怖い『悪夢』から助けにきてくれたんですね」
そう言えば、あの『悪夢』の少女はどこに。京子は辺りを見回したが姿が見えない。
「『悪夢』がいない。もしかして、もうやっつけてくれたんですか?」
京子の問いに、そよは首を振る。
「ナイトメアがやっつけるのは『夢』だよ。『悪夢』じゃない」
あ、私はネメシアをやっつけたっけ、彼女はそう言って苦笑する。
「それにあの子は『悪夢』じゃないよぅ」
「……え? 何を言って……」
「私と涼ちゃんは『夢』と決着をつけに来たの。『アニメ』で見てたでしょ? 経緯は知ってるよね」
「あの黒髪の女の子って『夢』だったんですか? それなら早く――」
「違う。そうじゃないよぅ」
何を言ってるのか分からない。この人は何を言いたいんだろう。
「『夢』はキミだよ、京子ちゃん」
「涼ちゃん、見て。あの子」
「他の影絵の少女達とは明らかに様子が違いますね。……『夢』の本体かも」
私と涼は春野家の向かい側にある民家の屋根の上に立ち、顔を見合わせる。我が家から出てきた、墨の注がれた硯の中で泳いできたばかりのような髪も服も肌すらも全身を黒く染めた長い髪の少女。彼女は、その辺りで走り回っている影絵達とは明らかに様子が異なっていた。
「涼ちゃんがナイトメアになってる時みたい。ドレスから墨が垂れ流されてるみたいに、あの子もオーラのように黒い霧を漏らしてる」
「墨とか垂れ流してるとか……。かっこ悪いじゃないですか。ナイトメア・エンゲージのドレスは闇を溢れさせ、月夜の風に揺れる冥影の使者が纏う漆黒の……」
「ご、ごめん、ちょっと分かんないかな」
「……そよちゃんには少し早すぎましたのです。それよりも本体が動き出しましたよ!」
『夢』の本体と思われる少女は、学校学校と元気に声を上げると勢いよく走りだした。
「あの夢、ちゃんと意識があるんだね。普通の女の子みたい」
「強い『夢』は自我があるのです。……そよちゃんの『夢』がそうだったように」
私が実体化させた『夢』。それは涼が壊してくれた。でも言葉が分かるなら、もしかしたら何か平和的な解決が望めるかもしれない。
「それなら説得が出来るかも」
「無理でしょう。言語を理解しても話が通じるかどうかは……」
「やるだけやってみよう! 何事も挑戦してから無理って言わないとねっ!」
違いありません、そう言って涼は頷き微笑んだ。
「あ、説得するにしても『夢』のことを追いかけないと。私達も行こう、涼ちゃん」
私はそう言うと、涼をおもむろに抱き上げる。
「ま、またお姫様抱っこですかぁ!?」
「誰かを運ぶのは、これが一番だよぅ~。しっかり掴まっててね~」
獣のように素早く走る『夢』を追い、私達もその場を後にした。
「す、凄く不気味ですね。夜の学校って」
「お化けでもでそうだね~。えへへ」
止めてください、と言って涼は小さく身震いをした。笑いを漏らしつつも私は、廊下の先を行く『夢』に注意を向ける。いや、先を歩いているのは彼女だけではない。私達の立つ廊下。いや学園には多数の生徒が歩いていた。生徒達に混ざり『夢』は教室に向かって歩いている。彼女が向かっているのは恐らく、百合花学園一階の最奥、一年一組の教室だろう。それは普段、私が通っている教室でもある。
「『夢』の中にいるのに、生徒達が普通に登校してるのってなんだか面白いね~」
「全員、白目を向いたり虚ろな瞳で登校している姿を普通だと評した上に面白いと言ってのけた、そよちゃんの感性をさすがだと賞賛しますが、『夢』の広げた空間の中に呑まれた人間は正常な意識を奪われ、ああなってしまいます」
「『夢』の思うがままに」
「はい。私の『夢』が何を望んでいるかにもよりますが、危険な状態ですね」
涼は私と一緒に、この学園に通いたいと言っていた。きっとその望みを『夢』が叶えているのだろう。それも歪んだ形で。
「じきに本体は教室に入りますね。どうしますか?」
「夢は壊れてないから安心して涼ちゃんの所へ戻ってもいいんだよって『夢』を説得するにしても、いっそ叩き壊すにしても生徒達が大勢いる学校じゃまずいね。巻き込みたくないし、もう少し様子を見よう」
「……私の夢は壊れていませんか」
「私と一緒にいたいって夢なら壊れてないよね。離れていたとしても私の心は、ずっと一緒だったよ」
「そよちゃん……」
目を潤ませながら、涼は微笑み何度も頷く。
「それじゃ教室の様子をベランダから覗こう」
「気が付かれませんか?」
「大丈夫。『チェシャ猫』の力で私と涼ちゃんの姿を見えないようにするから」
「そうやって私達はね、京子ちゃんの様子を、ずっと見てたの」
「何を言われてるのか理解できない……。私は『夢』なんかじゃない!」
怒鳴る京子を落ち着かせようと私はできるだけ優しい表情で微笑む。
「信じたくない気持ちも分かるけれどね」
「おかしいでしょ。そよちゃんの言葉を信じたら、あんた達は私のこと何週間も覗いてたことになるよね。そんなのできるわけない!」
「キミは何週間も時間が過ぎてると思ってるけれど、本当はそうじゃないの」
「え……? どういうこと……」
「この世界にキミが創られてから本当はね、五時間も経ってないんだよ」
京子は唖然とし、そして放心したように膝をつく。
「翼さんは? 翼さんはどうなったの? あの人を襲った『夢』は?」
「翼ちゃんを襲ったのはキミが創り出した分身、『夢の欠片』なの。でも心配はいらないよぅ。翼ちゃんは私が助けたから」
「そんなはず。どうして私が友達を襲わないといけないの……!」
苛立つ京子は立ち上がり、威嚇するように歯軋りをし始める。すると周囲にいる無数の影絵の少女達が一斉に動きを止め、睨むようにこちらを向く。
「覚えてないかもしれないけれど、京子ちゃんは翼ちゃんを襲う時、そよちゃんは私のものだ私のものだってブツブツ言ってたから、そういう理由じゃないかな」
「私は……そんな。だったら、あの黒髪の女の子は……!? あれが『夢』じゃないの!?」
「あの子は涼ちゃんだよぅ。キミを創り出した子。創造主」
「……涼? 夏月涼……? 涼はあんな化物じゃない……」
「キミにはそう見えてたんだね。『アニメ』を見てたキミを涼ちゃんは説得しようとしてたんだよぅ。夢は壊れてない。取り戻せたんだって。歪んで叶える必要はないよって」
そんな涼を見て京子は怯えたように逃げ出した。『夢』は自らを創り出した相手を傷つけないとアリスは言っていたが、彼女は違った。
創造主を襲ったのだ。私は折れた電信柱に目を向ける。彼女は電信柱をもぎ取り、それで涼を殴ろうとした。涼は自分で自分の『夢』を説得すると主張していたので傍観していたが、さすがに見ていられなくなり、姿を消していた私も助けに入った。
そして『夢』と、否、京子と対面することになる。
「残念ですが、そよちゃん。もう『夢』の説得は難しいと思うのです」
塀の影から頭を覗かせ、涼はそう言った。そんな創造主の姿を見て京子は怯えたように悲鳴を上げる。
一人の人間だけを求める、そんな自分自身の夢を涼は好ましく思っていないように見えた。夢に心を裂かれ、友人である私を傷つけてしまった。きっと涼もそんな夢が怖かったのだろう。
だから『夢』も涼を怖がったのかもしれない。そして創造主を壊そうとした。
「……私はアニメを見てただけなのに。アニメの登場人物が現実に出てくるわけがない。分かった……これは夢なんだ……」
掠れるような声で京子は何度も、これは夢だと呟く。
「全部、現実の出来事だよ」
京子は学園から帰宅するとリビングで寛ぎながら、ずっとテレビでアニメを見ていた。しかし、それは実際に放送されていたものではない。彼女自身が創造主と同じ能力『スクリーン』に写しだしただけの記憶を映像化したものでしかなかったのだ。私や涼の過去の記憶に魅入って説得に全く耳を貸そうとしない京子に涼は業を煮やし、テーブルの上に乗って声を張り上げた。その時、京子は涼の存在に気が付き、悲鳴を上げて逃げていった。
その後、ソファーで寝転んでいた彼女に涼は最後の説得を試みたが失敗に終わったのだ。そして今に至る。
「……『夢』に自分が『夢』だと教えても無駄なのです」
「うん。そうみたい。自分が『夢』だって理解したら、一緒にいる私達を見て納得してくれるかと思ったの」
京子は私の言葉を遮るように奇声を上げると周囲の影絵達を吸収し、巨大な狼の姿に変じた。
「涼ちゃんの夢、壊したくなかったなぁ」
「そんな寂しそうに笑わないでください。その気持だけで充分です」
涼は私を背中から抱き、そう囁いた。
「壊れかけた夢にすがり、他人を傷つけた私は醜かった。そんな私が産みだした『夢』は恐ろしく醜いです」
こんな夢、必要ありません。涼はそう言って胸に下げたリングを指で弾く。
「うん。分かった。涼ちゃんの『夢』、一緒に壊そうか」
「はい。新しい夢へ向かうために」
ナイトメアと姿を変え、涼は笑顔でそう言った。
私の大好きだった親友の微笑みが、そこにはある。
「キミの夢。悪夢で終わらせてあげる。覚悟してねっ!」
アリス。キミのお陰で親友を取り戻せたよ。本当に、本当に――
ありがとう、アリス。
そして幼い頃から抱き続けていた涼の『夢』は終わりを告げた。
「夢ええええの花咲くぅぅぅぅ!! れっつびぎん!! どりぃぃぃぃぃみんぐぅうぅ!! 桜舞う春の風ぇぇぇぇ!! わんわんっ!」
激動の夏休みが終わってから半年、新たな春を迎えた私達は今日から中学二年生になっていた。そして始業式を終えた放課後、カラオケでハイテンションに熱唱する私とは裏腹に、聞いている涼と翼は引きつった笑みを浮かべている。マイクを握り締め、立ち上がり叫ぶように歌う私。歌うのはとっても楽しいです。歌い終えた私は額で輝く汗をハンカチで拭い、席に座っている青褪めた表情でこちらを見つめる二人に手を振る。
「そ、そよちゃん……さすがの美声……。歌詞にわんわんなんて無いじゃないですかとツッコミたいですが自重しておきますね……」
「プロ歌手の涼ちゃんに褒められると、すんごい嬉しいよぅ! ありがと~! 正直に音痴って言ってくれてもいいんだからね~!」
涼は去年の夏休みが終わるのと同時に芸能活動を休業すると発表した。喉の療養のためらしい。それは私と交わした夢をもう一度真剣に追うための下準備と言ってくれて私は嬉しかった。
「そよちゃんと放課後に、そのままカラオケに行ける日が来るなんて夢のようなのです」
涼は歌手を休業してから必死に勉強を続け、見事に百合花学園の編入試験に合格、晴れて今日から私や翼と同じ教室に通うクラスメートになれた。うちの近所に引っ越し、毎日一緒に百合花学園へと通っている。
「そよ、次は私歌っていいかな?」
「うん。遠慮しないで、どんどん歌っちゃってよぅ、翼ちゃん。私、食べ物注文するから。お腹空いちゃって。とりあえず、カルボナーラ、五皿頼んでくる~」
「た、食べ過ぎだよ」
「いつものことなのです……」
「えへへ~。ご飯食べるのは私の娯楽だよぅ~。わんわんっ」
そんな楽しそうな私に釣られたのか、二人も一緒に微笑んでくれる。
「それじゃ何歌おうかな。うーん。アメリカ空軍の軍歌が入ってるといいけど」
翼は歌本をめくりながら、そう言った。米軍戦闘機パイロットの夢を諦めてからというものの、無気力な日々を送っていた彼女だったが飛行機の整備士という新しい夢を見つけたようだ。そんな翼は以前よりも明るい性格になってくれて私は嬉しい。
「ごめんなさい。次は私が曲の予約をしてしまったのです」
「そ、そんな。謝らないでっ。プロの歌を聞けるなんて緊張するし感動だよっ! ね? そよ!」
「うん。ライブステージ以外で歌を聞かせてもらうのは久しぶりだから感動するけれど、喉は大丈夫なの~?」
「実はもう完治しているのです。もう少し様子を見たいので現役復帰は先延ばしですが、まあ今日はリハリビみたいなものなのですよ」
そう言って私から頼もしくマイクを受け取る涼に思わず頬が綻んでしまう。
「う、うぅ……そんな素敵な笑顔で見つめられていたら私……ドキドキハートで、うまく歌えないのです」
そう頬を赤くしながらも、イントロに入ると涼の表情は一変し、真剣な眼差しでマイクを見つめた。何か凄みを感じる。これがプロの表情なのだろうか。
これなら私達の夢もまだ終わってないね。一緒に頑張ろう、涼ちゃん。私も執筆活動、もっと頑張るから。
そして夢を頑張る世界中のみんな。一緒に夢を目指そう。みんなは一人じゃないよっ。
「ただいま~。わんわんっ」
カラオケを終えて帰宅した私は誰もいない廊下に向かって挨拶をする。
お帰りなさい、そよ。
そう言って出迎えてくれたアリス。彼女がいなくなってからも、ただいまと言ってしまう癖が抜けていない。
「アリスがいないと、やっぱり寂しいよ」
玄関の靴箱の上に飾ってある二つの鉢植えに目を向けると暖かい気持ちになった。
赤いヒヤシンスと青いサイネリア。仲良く並んだ鉢植えには、その二輪の花が植えられている。
「ただいま、アリス」
サイネリアの花に私は微笑み、私は靴を脱ぐ。
リビングのソファーに寝転がり、私は新しい棚を見つめる。そこにはアリスが使っていた小物や浴衣が収められていた。その全てには冬花アリス、そう可愛い文字で記されている。
キミは昔の私に似てると思ってた。でも話してみると全然そんなことなくて。豊かな感情を持っていた。
今、キミをモデルにしたヒロインを主役にして小説を書いてるんだ。
「アリスは私にとって正義のヒロインだったから」
そんなキミは私と涼ちゃんを救ってくれた。
ううん。アリスは翼ちゃんだって、病院のあの子だって救った。夢に呑まれてしまった人達を助けたのは全部アリスだよ。キミがいてくれたから、私は――――
「半年経ってやっと。やっとだよ。やっと、アリスがいなくなった実感が湧いてきた」
幸せだった一ヶ月。絶対に忘れない。そして待ってるよ。アリスは帰ってくるよね。
「だってキミは、さよならって言わなかったもん」
そうだよね、アリス。
目を閉じると頬を一滴の熱い何かが零れていった。
不思議な声で鳴く鳥達。そして咲き渡る歌う花々。木々が開けた場所に森の中にある長いテーブルの前に私は立っていた。青い空に柔らかいマシュマロのような白い雲。流れる優しい風。そして緑の香り。テーブルの上にある、座席の数だけ並んだカップや、注ぎ口から湯気の上がるティーポット、今にも溢れそうな程にマカロンが置かれたケーキスタンドが私の心を躍らせる。
「不思議の国のマッド・ティーパーティー。えへへ~」
私は椅子を引いて席につき、カップに紅茶を注ぐ。
「空が綺麗。真っ青で素敵な色だよね。アリスの色みたい」
本当に綺麗な空。私は新たなカップに紅茶を注ぎ、対面の席にそっと置く。
「一緒にお茶でも、いかが?」
夢は信じて諦めなければ絶対に叶う。叶うまで諦めなければ、きっと。
「また逢えて嬉しいよ、わんわんっ」
私は私の夢と未来を絶対に諦めない。そして私の未来にはキミの笑顔が必要だから。
「お帰りなさい。アリス」
何事も動けば熱を発生するものだ。あおいで起こる風から得る涼しさと、手を動かして出る発熱量。果たして、この行為は最終的に暑さと涼しさ、どちらが上回るのだろうか。その答えは個人の価値観によるだろうが、少なくても私の感想は――――
今日から始めるナイトメア